6月19日、朝日新聞のウェブ版アサヒコムに、 碑文表記を「日本海」だけに_鳥取県琴浦町がまた変更、というニュースが載りました(新聞紙には未掲載)。
記事をざっと読む限り、日韓交流の碑文に、日本語で「日本海」、ハングルで「東海」と併記することによって日韓交流が促進されるという町側の判断が、地元日本人住人の抗議と外務省の回答を経てくつがえりました、ということのように感じられます。
しかし韓国通でこのニュースを追っている読者であれば、これはそんな簡単な話ではない、ということを既に良くご存知でしょう。
J-CASTニュースにある通り、この一連のニュースが韓国の中央日報、朝鮮日報などの大手紙で報じられていることからすれば、本件は韓国の人々や在日の方々にとっては大問題で、あるいはテストケースとみなされているのかもしれません。
では実際にどんないきさつがあったのでしょうか?
J-CASTニュースによると、「1819年に、同町沖に漂着した韓国船を救助、丁重にもてなしたという史実を記念」するために「03年8月には日韓友好交流公園「風の丘」が整備され」ました。
その公園内に「1994年に設置」された「江原道交流記念碑」というものがあり、当初ここに日本語とハングルで次のような表記があったとのことです。
「将来にわたり日本海(東海)が日韓両国の平和と交流の海であることを祈念する」(山陰中央新報)
この記念碑作成の発端は、漢字とハングルで書かれたある一枚の古文書にあります。朝鮮日報によると、「1991年鳥取県立図書館で発見された「漂流朝鮮人之図」という一枚の古文書」の由来について鳥取県庁内で何らかの検討が始まり、1992年4月に鳥取県総務部長に着任、1999年4月には鳥取県知事当選した片山氏が「1994年、本格的な調査に乗り出し」、「1年後の1995年、(難破船の船長)の子孫と推定される人が蔚珍郡平海邑直山(ジクサン)里にいるという情報を得(て)」、「秋には難破船が到着した所に記念館が建てられ、子孫たちは開幕式に出席」しました。
そのような動きの中、日本海新聞によれば、「記念碑と説明碑は94年11月、同所のポート赤碕西側に旧赤碕町が設置。(中略) その後、2003年8月に「風の丘」が整備された際に、現地に移設された」とのこと。
「江原道交流記念碑」はこうしたいきさつの中で現在の場所に設置されたようです。
その後、この碑文の東海という併記が、日本語とハングルの両方から削り取られました。
この削除を受け、日本海新聞紙上で在日本大韓民国民団鳥取県地方本部の薛幸夫(ソル・ヘンブ)団長が
「互いに使っている名称を併記することが日韓交流の理にかなったこと。相互理解を後退させる行為であり、残念の一言に尽きる。韓国からの旅行客が増える中、訪れた人たちが見たら気持ちのいいものではないだろう。交流に影響が出ないことを祈る」
と述べたことは理解できます。毎日新聞のコラムにある通り、「韓国からは年間数百人が訪れる」ため、「これを見た韓国人は、胸をえぐられるような思いをするはず」とある通りです。
その後について、アサヒコムの記事はこうあります。
町は碑文の文字削除で在日本大韓民国民団鳥取県地方本部から抗議を受けたことなどから5月20日、日本語で「日本海」、ハングルで「東海」と表記することを発表。同30日には、どちらの表記も使わない碑文にすると方針転換していた。
そして最終的に
町は18日、碑文の文面を日本語で「日本海」とだけ表記した新しい碑文に張り替えることを決めた。
さて、こうしたいきさつを振り返ると、この問題の発端が最初の碑文にあった「日本海(東海)」、すなわち日本語による両名称の併記にあることが分かります。日韓交流ゆえの「互いに使っている名称を併記すること」が、かえって相手に「胸をえぐられるような思い」を与えてしまうことになったのです。これこそが「大問題」です。
日本海新聞によると、「(鳥取)県では表記の統一ルールを定めてないが、韓国で配る観光パンフレットにはハングルで「トンへ」のみを、国内では「日本海」と表記している」そうです。こうした思慮と平衡を、最初の碑文の作成時になぜ示せなかったのかと惜しまれます。
もっとも、最終的な解決策(=日本語で日本海とだけ表記)は──特に日本海呼称問題が取り沙汰されている昨今は──妥当な判断でしょう。
なぜなら、その日本語の碑文の表記は単に、国連決議で公式文書の呼称として認められた表記であるという以前に、日本という国の地方自治体が立てた碑文だからです。
薛幸夫団長が町の修正案に対し、「原状回復を求めており納得できない。しかし、町が町民の意思を尊重して取り組むことについては、民団が口を出すべきではないと考えている」と述べている(日本海新聞)のは当を得ています。
アサヒコムの記事の見出しは
碑文表記を「日本海」だけに 鳥取県琴浦町がまた変更
でした。しかし、こうした観点からすれば、
碑文表記で日本文にのみ「日本海」 鳥取県琴浦町の最終案
で十分だったでしょう。
新しいハングルの碑文には、日本海はもちろんのこと、東海(韓国語でトンへ)も含まれていません。これもやはり妥当なことです。なぜなら、この日韓の友好劇を語るのに、その表記は必須ではないからです。
最初の碑文に含まれていた「将来にわたり日本海(東海)が日韓両国の平和と交流の海であることを祈念する」という一文は、むしろ友好を超えたフライングでした。
では「東海」をどうしたらいいのでしょう。
ひとつはっきり言えることは、「日本海(東海)」という形で、日本語による併記を誰も期待すべきでない、ということです。世界各国の Sea of Japan/Japan Sea という表記に、East Sea の併記を誰も期待しないのと同じです。逆に、おそらく日本人の大多数も、ハングルによるトンへという表記にイルボンヘ(日本海の意味)の併記など、微塵も期待していないでしょう。
今回の江原道交流記念碑の一件はまさにそういう意味でテストケースでした。韓国語の表記は最も無難なものとなり、日本語の表記については「口を出すべきではない」という薛幸夫団長の当を得た意見があります。
◇ ◇ ◇
さて、このような記事を書くと決まって、「あなたは大日本帝国が韓国に対して行なったことを少しも知らない云々」という泥沼の感情論に逆戻りさせようとする人々がいます。
事実、先に私が書いた記事で取り上げた李教授も、朝鮮日報によれば慰安婦問題に関する発言を謝罪した際、
「東豆川(トンドゥチョン)で体を売っている女性と私たちを比較するなんて、あり得ないこと」
「できることなら一発殴ってやりたい。私たちは国がなかったから強制的に連れて行かれたのだ」
「あなたには私たちの“恨”は分からない。私たちの心に刺さった釘を抜くどころか、新たな釘を打ち込んだあなたは教授の資格がない」
という感情論で一蹴されてしまったようです。
一緒に来た安教授が「李教授が伝えたかったのは、もっと高いレベルで、過去の清算のため、日本に対し強く抗議しなければならないが、韓国内部の反省も重要だという点を指摘したもの」と助け舟を出したが、火のついた元慰安婦たちの怒りを鎮めることはできなかった。(朝鮮日報)
日韓交流が日韓関係を悪化させるというこのジレンマには、どうやらこの、韓国の人々、また在日の方々の「感情」という要素が色濃く影を落としているのでしょう。それらの人々には、まずは気持ちを落ち着けていただけるよう願うばかりです。日本人また日本は、韓国の人々また在日の方々を全否定しようとしているのでも、全く無視しようとしているのでも、過去の残念な出来事を残念とは思っていないのでもない、ということをよくよく知っていただきたい。
碑文への「日本海(東海)」の併記にかかわった人々は、日本人であれ韓国の人々であれ在日の方々であれ、全くの善意で日韓交流を促進しようとしていたとしても、実際は日韓関係を悪化させてしまった可能性があります。
日韓交流でまず行なわれるべきなのは、こうした「お仕着せの交流劇」を演じることではなく、お互いの「認知」を深めることです。今回のケースについても、たとえ日韓友好の碑文内であっても、日本語文のなかへの両名併記はこのような結果を招いてしまった、との事実をまず謙虚に認知すべきです。
そして、まずは現在や過去の事実の認知から始めましょう。このスタンスを、太平洋戦争に対する反省が足りない云々といった感情論や、昨今の政治問題と絡めてごっちゃにしても何も始まりません。そのようにまぜこぜにするのは、あの美味しいビビンパだけでもうお腹いっぱいです。