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東京都心のネオン広告が消えた。 : あの日あの時 : 新おとな総研 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
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11月06にち

東京とうきょう都心としんのネオン広告こうこくえた。1973ねん昭和しょうわ48ねん


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 1973ねん10がつ勃発ぼっぱつ(ぼっぱつ)しただい中東ちゅうとう戦争せんそうともない、石油せきゆ輸出ゆしゅつこく機構きこうOPECおぺっく)は、原油げんゆ価格かかくを70%げることを決定けっていした。それとともに、イスラエルが占領せんりょうから撤退てったいするまで、アメリカを筆頭ひっとうとするイスラエル支持しじこくへの石油せきゆ禁輸きんゆめたことでだいオイルショックははじまった。オイルショックの影響えいきょうまたたぜん世界せかいひろがり、物価ぶっか上昇じょうしょう景気けいき後退こうたいこした。

 日本にっぽん国内こくないではトイレットペーパーの騒動そうどうや、テレビの深夜しんや放送ほうそう休止きゅうし企業きぎょうのネオン広告こうこく自粛じしゅくなどが相次あいついだ。

 原油げんゆ価格かかく発表はっぴょうからやく半月はんつきたった1973ねん11がつにちよる東京とうきょう中心ちゅうしんから企業きぎょうのネオン広告こうこく一斉いっせいえ、東京とうきょう都心としん暗夜あんやとなった。石油せきゆかぶ現代げんだい社会しゃかいのもろさを象徴しょうちょうする出来事できごととして、当時とうじひとたちがおりれて指摘してきする出来事できごとだ。

 当時とうじのありさまを読売新聞よみうりしんぶん以下いかのようにつたえた。

 「東京とうきょう有楽町ゆうらくちょうげきホール屋上おくじょうにあるたかさんじゅうメートル、全長ぜんちょうきゅうじゅうきゅうメートルのだいネオン広告こうこくろくにちよるからえた。産油さんゆこく供給きょうきゅう削減さくげん石油せきゆ値上ねあ攻勢こうせいによる電力でんりょく不足ふそく見越みこして、電機でんきメーカーなどに節電せつでんびかけている電力でんりょく業界ぎょうかい要請ようせい東芝とうしば協力きょうりょくしたもので、世界一せかいいちのネオンのうみにぽっかり“おおきなあな”があいた。東芝とうしばのほか、三菱電機みつびしでんき日立ひたち松下まつした、ソニーなど大手おおてメーカーも同夜どうやからネオンとう広告こうこくよう水銀すいぎんとう点灯てんとう自粛じしゅく銀座ぎんざどおりにも“虫食むしくいのくらさ”がところどころにあらわれた。……」

 1973ねん当時とうじ学生がくせいだった筆者ひっしゃ経験けいけんしただいオイルショックでわすれられないのは、銭湯せんとう値段ねだん大幅おおはばがり、営業えいぎょう時間じかん短縮たんしゅくされたことだった。大学だいがく運動うんどうをしていたこともあって、毎日まいにち銭湯せんとうがよいを2にちおきくらいにらした。個人こじんてき記憶きおくでは、入浴にゅうよく料金りょうきんやくばいがったとおもっていたが、東京とうきょう浴場よくじょう組合くみあい資料しりょう当時とうじ都内とない入浴にゅうよく料金りょうきん調しらべると、大人おとなは72ねんがつの48えんよく73ねんがつの55えん、74ねんがつには75えんに、そして75ねんがつには100えんになっている。いまからおもうと、一気いっき上昇じょうしょうしたというよりも、毎年まいとしげられ、2年間ねんかんでほぼばいになったということが当時とうじ資料しりょう調しらべてわかった。

 かんがえてみれば、だいオイルショックは、世界せかいてきに「資源しげん有限ゆうげんせい」をかんがえさせ、「しょうエネ」や「しょう資源しげん」に関心かんしん努力どりょくしなければならないことをまえきつけた“事件じけん”だった。それとともに、経済けいざい高度こうど成長せいちょうつうじて、当時とうじのほとんどの日本人にっぽんじん生活せいかつけっしてたりまえではなく、歴史れきしじょうれいないほどめぐまれたものだったという現実げんじつらしめるきっかけになったといえる。

 ものにはすべて「かぎりがある」ことををもってまなんだことは、先行さきゆ不透明ふとうめい環境かんきょうなかにあって、いま日本人にっぽんじんにも“有益ゆうえきおしえ”になるのではないか。(しろ

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