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名作が生まれる場所 奥山玲子・小田部羊一夫妻に聞く : 100人のジブリ : ジブリをいっぱい : エンタメ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
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ジブリをいっぱい

名作めいさくまれる場所ばしょ 奥山おくやま玲子れいこ小田部おたべひつじいち夫妻ふさい

奥山おくやま 玲子れいこ(おくやま れいこ)さん
小田部おたべ ひつじいち(こたべ よういち)さん


奥山おくやま 玲子れいこ(おくやま れいこ)=ひだり

宮城みやぎけんまれ。1957ねん東映動画とうえいどうが入社にゅうしゃ日本にっぽんはつ長編ちょうへんアニメーション映画えいが白蛇しろへびでん」に参加さんか日本にっぽんアニメーションをてフリー。代表だいひょうさくに「太陽たいよう王子おうじ ホルスのだい冒険ぼうけん」「注文ちゅうもんおお料理りょうりてん」など。東映動画とうえいどうが時代じだい小田部おたべひつじいち結婚けっこん昨年さくねんたん編集へんしゅうふゆ」にはじめて夫妻ふさい名義めいぎ参加さんか

小田部おたべ ひつじいち(こたべ よういち)=みぎ

1936ねん台湾たいわんまれ。59ねん東映動画とうえいどうが入社にゅうしゃ。Aプロダクション、ズイヨー映像えいぞう(げん日本にっぽんアニメーション)をてフリー。「アルプスの少女しょうじょハイジ」などで作画さくが監督かんとくつとめる。85ねんから任天堂にんてんどうへ。開発かいはつアドバイザーとしてゲーム監修かんしゅうおこなっているほか、テレビなどのアニメーション監修かんしゅう

 アニメーション作品さくひんは、「誰々だれだれ声優せいゆうをやる」というキャスティングが注目ちゅうもくされがちだが、キャラクターの「演技えんぎ」にあたるうごきを表現ひょうげんするのは原画げんが」「動画どうがといったアニメーターだ。

 かれらの仕事しごとを、アニメーションが「漫画まんが映画えいが」とばれていた時代じだいからたどる展示てんじかい日本にっぽん漫画まんが映画えいが全貌ぜんぼう」が、東京とうきょう清澄きよすみ白河しらかわ東京とうきょう現代げんだい美術館びじゅつかんひらかれている。中心ちゅうしんとなるのは、日本にっぽん最初さいしょ長編ちょうへんカラーアニメーション映画えいが白蛇しろへびでん」(1958ねん)を制作せいさくした東映動画とうえいどうがげん東映とうえいアニメーション)の紹介しょうかい。スタジオジブリをはじめ、現在げんざいのアニメーションかいへつながる人材じんざい数多かずおお輩出はいしゅつしたスタジオで、高畑たかはたいさお宮崎駿みやざきはやおりょう監督かんとく在籍ざいせきしていた。

 当時とうじ東映動画とうえいどうがはどんな場所ばしょだったのか。数々かずかず名作めいさく手掛てがけたアニメーターの奥山おくやま玲子れいこ小田部おたべひつじいち夫妻ふさいいた。(依田よだ謙一けんいち

――アニメーションに興味きょうみったきっかけは。

小田部おたべ ちいさいころ短編たんぺん作品さくひん桃太郎ももたろううみわし」(42ねん)などをて、まだ漫画まんが映画えいがばれていたアニメーションにひかれました。えがいた戦闘せんとううごくのが面白おもしろくて夢中むちゅうになったのをおぼえています。父親ちちおや趣味しゅみ油絵あぶらえだった影響えいきょうで、そのうち自分じぶんでもえがくようになりました。油絵あぶらえ得意とくいではなかったので、水彩すいさいばかりえがいていましたね。高校こうこう進路しんろまよっていたころ日本にっぽんなら水彩すいさいつづけられるとり、日本にっぽんのある東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがくはいりました。

――日本にっぽん画家がかになろうとはおもわなかったのですか。


日本にっぽん漫画まんが映画えいが全貌ぜんぼうてんでは、むかし東映動画とうえいどうが様子ようす再現さいげん
小田部おたべ 大学だいがくのこらないかとわれましたが、ちょうどそのころ、「白蛇しろへびでん」を衝撃しょうげきけたんです。それでいてもたってもいられなくなって東映動画とうえいどうが受験じゅけんしました。まわりからは「なんで漫画まんが映画えいがなんかやるんだ」とわれましたが、日本にっぽんっていく大変たいへんさは自分じぶんなりにかっていたつもりでしたから。

――奥山おくやまさんの場合ばあいは。

奥山おくやま わたし場合ばあいは、漫画まんがにも漫画まんが映画えいがにもまったく興味きょうみがありませんでした。えがくのはきでしたが、ちちつよ意向いこう地元じもと東北大学とうほくだいがく教育きょういく学部がくぶ進学しんがくし、教員きょういんになることをのぞまれていました。自分じぶんえらんだみちではありませんでしたから、3年生ねんせいになったときにとうとう嫌気いやけしてしまい、家出いえで同然どうぜん東京とうきょうました。おやはカンカンでしたね。「もう面倒めんどうない」とって、本当ほんとうはなっておかれました。

――きびしい現実げんじつれば我慢がまんできなくなってもどってくるだろうと。

奥山おくやま それをかっていましたから、デザイン会社かいしゃはたらこうつけて、よし頑張がんばるぞとっていました。ところが、不景気ふけいき給料きゅうりょう遅配ちはいつづき、早々そうそうにやっていける状況じょうきょうでなくなってしまった。もう駄目だめかなとおもった矢先やさき映画えいが会社かいしゃつとめていた叔父おじが、東映動画とうえいどうが募集ぼしゅうおしえてくれたんです。「ドウガの募集ぼしゅう」とわれて、てっきり「童画どうが」、つまり絵本えほんなどをえが仕事しごとだとおもっていました。それならやってみたいとけたら、じつは「動画どうが」だとかって(笑)。

――よく合格ごうかくしましたね。


 
奥山おくやま 試験しけん全然ぜんぜん駄目だめでしたよ。人間にんげん椅子いすからがっておじぎするまでを指定してい枚数まいすう動画どうがにしなさいとわれても、いちもやったことないことですから。課題かだいでやったポーズ描写びょうしゃがよかったのかもれません。

――当時とうじ東映動画とうえいどうがは。

小田部おたべ 大川おおかわひろし社長しゃちょうが「ディズニーにいつけせ」とさかんにっていたように、上昇じょうしょう志向しこう非常ひじょうつよかった。はん編成へんせいになっていたこともあり、大塚おおつか康生やすおさんをはじめとするかくはん班長はんちょう戦国せんごく時代じだい武将ぶしょうのようでした。新人しんじんについても、あいつがしいとかこいつはらないとか、はげしくやっていましたね。

奥山おくやま 一方いっぽう学校がっこうみたいな雰囲気ふんいきもありました。となりが映画えいが撮影さつえいしょだったので、昼休ひるやすみになるとよくセットでかんりやおにごっこをしたりして。

――最初さいしょ仕事しごとは。

奥山おくやま 定期ていき採用さいようだいいちだった喜多きたしん佐武さたけさんのはんはいってやった「白蛇しろへびでん」の動画どうがです。かくはんにはそれぞれ特色とくしょくがあって、戦闘せんとう場面ばめん得意とくいはんもあれば自然しぜん描写びょうしゃ上手じょうずはんもありましたが、喜多きたさんは「長靴ながぐつをはいたねこ」(69ねん)の作画さくが監督かんとくられるもり康二こうじさんの系統けいとうで、動物どうぶつえがくのが得意とくいひとせんいちほんくのもいい加減かげんだったわたしに、漫画まんが映画えいが基本きほんおしえてくれました。


 
小田部おたべ ぼく楠部くすべ大吉郎だいきちろうさんのはんでやった「少年しょうねん猿飛佐助さるとびさすけ」(59ねん)が最初さいしょ楠部くすべさんは力強ちからづよいアクションが得意とくいで、作品さくひんとなるような場面ばめんをよくってくるひとでした。楠部くすべさん自身じしんがマッチョでパワフルだったこともあり、とにかくよくおこられましたね。いまでもおぼえているのは「西遊せいゆう」(60ねん)のこと。ぼく原画げんが原画げんがあいだ動画どうがいちまいでつなぐ役目やくめまわってきたんですが、このたったいちまい全部ぜんぶえがなおされたんです。自分じぶんでは学校がっこうすこしはえがけるでいたのが、なかかえるだったんだとおもらされました。

奥山おくやま 楠部くすべさんをはじめ、うでもいいしべんひとはやっぱりいい場面ばめんってくる。ぎゃくうではいいけどひかえめなリーダーのはんは、どうしても地味じみ仕事しごとおおかったようにおもいます。いまわかひとってアニメーターにかぎらず自己じこ主張しゅちょうしないでしょう。当時とうじは「おれにやらせろ」ってわないとわきいやられて仕事しごとがなかった時代じだいです。わたしもりさんと大工だいくはらあきらさんの両方りょうほうに「原画げんがください」ってやらせてもらっていました。

――正統せいとうアニメーターとしてられるせいおか憲三けんぞうさんに師事しじしたもりさんと、デフォルメが特徴とくちょう大工だいくげんさんのあいだ仕事しごとをするのは大変たいへんだったのでは。

奥山おくやま ぎゃくですね。おおらかで感覚かんかくてき大工だいくげんさんと、基礎きそ重視じゅうしするもりさんのしたでタイプのことなるえがつづけたことで、かえって集中しゅうちゅうできました。きっぽい性格せいかくなので、片方かたがただけだったらいきまってしまったとおもいます。

小田部おたべ 彼女かのじょ作風さくふうちが調整ちょうせいするのがとても上手じょうずでした。おなじキャラクターをえがいてもえがしゅによってせんふとさやニュアンスが微妙びみょうことなりますから、それを調整ちょうせいする役目やくめって重要じゅうようなんです。みずから「やらせてください」とって熱心ねっしんんでいましたね。

奥山おくやま あなたは反対はんたい主張しゅちょうしないひとだったのに、不思議ふしぎ仕事しごとがあったわね。いつの時代じだいにもこういうとくひとっているんです(笑)。(つぎページへつづく)


2004ねん7がつ27にち  読売新聞よみうりしんぶん
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