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【刀剣ワールド】会津藩:福島県
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北海道ほっかいどう東北とうほく地方ちほうはん

会津あいづはん(あいづはん)[福島ふくしまけん] - 刀剣とうけんワールド

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260ねんつづいた江戸えど時代じだいにおいて、やく300ちかくのはん全国ぜんこく各地かくち存在そんざいしていました。
ここでは、おも江戸えど100はんのひとつである北海道ほっかいどう東北とうほく地方ちほうの「会津あいづはん」(あいづはん)[福島ふくしまけん]について、石高こくだか居城きょじょう藩主はんしゅといったはん概要がいよう歴史れきし治世ちせいなどのエピソードをまじえて解説かいせつします。

会津あいづはん概要がいよう歴史れきし

松平[保科]家

松平まつだいら[保科ほしな]
家紋かもん
いし だか きゅう くに きょ じょう はん ぬし
23まんせき 陸奥みちのくこく
福島ふくしまけん
若松わかまつしろ 松平まつだいら[保科ほしな]
はん歴史れきし
歴代れきだい藩主はんしゅ 歴代れきだい当主とうしゅめい いし だか 大名だいみょう分類ぶんるい
1. 蒲生がもう

蒲生がもう秀行ひでゆき
蒲生がもうただしきょう

60まんせき 外様とざま
2. 加藤かとう

加藤かとう嘉明よしあき
加藤かとう明成めいせい

40まんせき 外様とざま
3. 松平まつだいら[保科ほしな]

保科ほしな正之まさゆき
保科ほしなただしけい
松平まつだいらただしよう
松平まつだいらひろしさだ
松平まつだいら容頌かたのぶ
松平まつだいらひろしじゅう
松平まつだいらひろししゅ
松平まつだいらひろしけい
松平まつだいら容保かたもり
松平まつだいらとく

23まんせき 親藩しんぱん

将軍家しょうぐんけへの忠節ちゅうせつ悲劇ひげき悲劇ひげきはん

将軍家への忠節が悲劇を生む悲劇の藩

会津あいづはん」といて、おもかぶのは、わずとれた「戊辰戦争ぼしんせんそうの「白虎隊びゃっこたい」の悲劇ひげきでしょう。「徳川とくがわ家光いえみつ」のおとうと保科ほしな正之まさゆき」(ほしなまさゆき)にはじまる会津あいづ松平まつへいは、徳川とくがわ幕府ばくふ一途いっとくしたことがかたきとなり、薩摩さつま長州ちょうしゅう中心ちゅうしんとするしん政府せいふぐんからかたきとされ、領土りょうど完膚かんぷなきままに蹂躙じゅうりん(じゅうりん:権力けんりょく暴力ぼうりょくによって侵害しんがいすること)されました。

松平まつだいら会津あいづはい以前いぜんには、蒲生がもうつぎ加藤かとう藩主はんしゅでしたが、1639ねん寛永かんえい16ねん)に発生はっせいした「会津あいづ騒動そうどう」により加藤かとうつぶしとなり、有力ゆうりょく外様とざま大名だいみょうであった仙台せんだい伊達だてにら意味いみでも、幕府ばくふ重要じゅうようされた会津あいづはいったのが保科ほしなだったのです。

保科ほしな正之まさゆきは、「徳川とくがわ秀忠ひでただ」のよんおとことして、江戸城えどじょうではなく埼玉さいたまけん浦和うらわまれました。というのは、正之まさゆき母親ははおや正室せいしつではなかったこともあり、母親ははおや江戸城えどじょう出産しゅっさんすることができなかったのです。しかも、正之まさゆきまれたことは、幕府ばくふでもごく一部いちぶものしかりませんでした。

そののち、おさなくして高遠こうえん(たかとお)城主じょうしゅ保科ほしなただしこう」(ほしなまさみつ)の養子ようしとなり、武田たけだ遺臣いしんである保科ほしなのもとできびしい英才えいさい教育きょういくけます。父親ちちおやである秀忠ひでただは、終生しゅうせい正之まさゆき自分じぶんどもとしてみとめませんでしたが、成長せいちょうしてからかおわせたあにの3だい将軍家しょうぐんけこうには、可愛かわいがられ、のちに会津あいづあたえられました。

秀忠ひでただみとめませんでしたが、将軍しょうぐんどもとうこともあり、幕府ばくふからは松平まつだいらせい名乗なのることをすすめられていました。正之まさゆきは、自分じぶんそだててくれた保科ほしなへのおん終生しゅうせいわすれることなはなく、保科ほしなせい名乗なのつづけたのです。

若松城(鶴ヶ城)

若松わかまつじょうづるじょう

保科ほしな正之まさゆき会津あいづはいると、「山本やまもと勘助かんすけ」(やまもとかんすけ)を先祖せんぞつとわれ、幕末ばくまつ活躍かつやくした、大河たいがドラマの題材だいざいにもなった「山本やまもと八重やえ」(やまもとやえ)の一族いちぞく高遠こうえんから正之まさゆきしたがっています。

保科ほしな正之まさゆき晩年ばんねんじゅうじょうからなる家訓かくんのこしていますが、そのだいいちじょうにはこうしるされています。

大君おおきみ一心いっしん大切たいせつ忠勤ちゅうきんはげみ、他国たこくれいをもってみずかしょるべからず。二心ふたごころいだかば、すなわち、子孫しそんにあらず 面々めんめんけっしてしたがうべからず」

大君おおきみ」とは、将軍しょうぐん意味いみし、将軍家しょうぐんけさからうものは、藩主はんしゅであってもわたし子孫しそんではないから、家臣かしんたちしたがってはいけないと意味いみ将軍家しょうぐんけへの忠節ちゅうせつだいいちかんがえる家訓かくん存在そんざいが、幕末ばくまつにおける佐幕さばく幕府ばくふ補佐ほさするグループ)の代表だいひょうとして会津あいづはん悲劇ひげき伏線ふくせんとなったことは想像そうぞうむずかしくありません。
 
戊辰戦争ぼしんせんそう」でやぶれたあと、明治めいじはいっても会津あいづはん苦難くなんつづきました。松平まつだいら会津あいづ没収ぼっしゅうされたのち、青森あおもりけん下北半島しもきたはんとうにあったみなみはんさんまんせき再興さいこうゆるされます。みなみは、実質じっしつ石高こくだかは7,000せきほどで、酷寒こっかんうにこまった藩士はんしたちは、むすめるなどの辛苦しんくつづけました。

そうした状況じょうきょうにもかかわらず、不屈ふくつ意志いし荒地あれち開墾かいこんなどをすすめたことにより、農業のうぎょう軌道きどうにのりはじめた矢先やさき、1871ねん明治めいじ4ねん)に「廃藩置県はいはんちけん」がおこなわれ、みなみはん消滅しょうめつ移住いじゅうしたもと会津あいづ藩士はんしたちおおくはみなみったのでした。

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刀剣とうけんめられた幾多いくた魅力みりょく皆様みなさまにおとどけするサイト、刀剣とうけん専門せんもんサイト・バーチャル刀剣とうけん博物館はくぶつかん刀剣とうけんワールド」。こちらのページでは「おも江戸えど100はん家紋かもんイラスト)」のひとつである「会津あいづはん」(あいづはん)[福島ふくしまけん]についてご紹介しょうかいします。
260ねんつづいた江戸えど時代じだいには、全国ぜんこく各地かくちやく300ちかくのはん存在そんざいしていました。「おも江戸えど100はん家紋かもんイラスト)」では、「北海道ほっかいどう東北とうほく地方ちほう」「関東かんとう甲信越こうしんえつ地方ちほう」「東海とうかい北陸ほくりく地方ちほう」「関西かんさい地方ちほう」「中国ちゅうごく四国しこく地方ちほう」「九州きゅうしゅう地方ちほう」と6つの地域ちいきごとに、それぞれの主要しゅようはんのデータやエピソードを掲載けいさいかくはん石高こくだか居城きょじょう歴代れきだい藩主はんしゅなど見所みどころ満載まんさいです。
刀剣とうけん専門せんもんサイト・バーチャル刀剣とうけん博物館はくぶつかん刀剣とうけんワールド」の掲載けいさい内容ないようは、刀剣とうけん甲冑かっちゅう基礎きそ知識ちしきをはじめ、日本にっぽんがたな歴史れきし雑学ざつがく日本にっぽんがたなにまつわる歴史れきしじん合戦かっせん名刀めいとうした名工めいこうたち紹介しょうかいなどりだくさん。日本にっぽんがたなかんするSNS、各種かくしゅアプリゲーム、刀剣とうけん・おしろ川柳せんりゅうよん熟語じゅくごといったたのしむコンテンツも充実じゅうじつ刀剣とうけん鎧兜よろいかぶとかんする様々さまざま情報じょうほうを、あらゆる角度かくどからバーチャルの世界せかいでおたのしみいただけます。

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上山うえやまはん(かみのやまはん)

上山藩(かみのやまはん)

現在げんざい山形やまがたけんにある「上山かみのやまはん」(かみのやまはん:現在げんざい山形やまがたけん上山かみのやま)は、もともとは「山形やまがたはん」(現在げんざい山形やまがた)の最上さいじょう(もがみけ)57まんせき一部いちぶ上山かみのやまはん米沢よねざわはん(よねざわはん:現在げんざい米沢よねざわ)とせっし、「奥州おうしゅう街道かいどう」(おうしゅうかいどう:江戸えど時代じだい街道かいどうのひとつ)のわき往還おうかん(わきおうかん:街道かいどう以外いがい主要しゅよう街道かいどう)として整備せいびされた「はねしゅう街道かいどう」(うしゅうかいどう)がかよっていたため、交通こうつう要衝ようしょうであったとかんがえられます。

さらには、室町むろまち時代じだい温泉おんせんいたことから、湯治とうじじょうとしてられており、おおくのひとっていました。そのため、経済けいざいてき価値かちたかく、戦国せんごく時代じだいには、最上もがみ伊達だて(だてし)が、幾度いくどとなくあらそいをひろげた土地とちでもあったのです。そして、最上もがみ山形やまがたはん時代じだいには、代々だいだい重臣じゅうしんたち配置はいちされ、幕府ばくふからも重要じゅうようされていました。

ところが1622ねん元和がんわ8ねん)、「最上もがみ義光よしみつ」(もがみよしあき)きあと、最上もがみ家督かとくあらそいがこります。家中いえじゅうにおいて不審ふしんつづき、藩主はんしゅめぐって、家臣かしんたち反目はんもくう「最上さいじょう騒動そうどう」によって、最上もがみ改易かいえきとなったのです。

そののち、誕生たんじょうしたのが上山うえやまはんで、初代しょだい藩主はんしゅは、松平まつだいら[能見のうみ]の「松平まつだいら重忠しげただ」(まつだいらしげただ)がつとめました。松平まつだいら[能見のうみ]は、三河みかわ徳川とくがわの庶流にあたり、三河みかわ時代じだいから徳川とくがわ家康いえやすつかえてきた一族いちぞくです。

重忠しげただちち重勝しげかつ(しげかつ)は、「武田たけだ勝頼かつより」(たけだかつより)との一連いちれんせんなどで勲功くんこうげ、1612ねん慶長けいちょう17ねん)からは、家康いえやすの6なん松平まつだいらただしてる」(まつだいらただてる)の家老がろう(つけがろう)として、かれ後見こうけんやくたしました。

ちゅうてるは、その2ねんまえに、越後えちご高田たかだはん」(たかだはん:現在げんざい新潟にいがたけん上越じょうえつ)に60まんせきにゅうふう重勝しげかつは、ちゅうてる配下はいかにおいて、越後えちご三条さんじょうはん」(さんじょうはん:現在げんざい新潟にいがたけん三条さんじょう)2まんせきあたえられています。

上山城

上山うえやましろ

そんななか、1616ねん元和がんわ2ねん)、家康いえやすからうとまれたただしてるに、改易かいえき処分しょぶんされてしまいました。

ところが、重勝しげかつはそれまでの貢献こうけんによって連座れんざされず、2まん6,000せき遠江とおとうみ横須賀よこすかはん」(よこすかはん:現在げんざい静岡しずおかけん掛川かけがわ)をさいだてはんします。そして、重勝しげかつ没後ぼつごの1621ねん元和がんわ7ねん)、重忠しげただ時代じだいに、4まんせきにまで加増かぞうされて上山かみのやまはんうつりふうされることになり、重忠しげただ上山うえやまはん初代しょだい藩主はんしゅとなったのです。
 
そののち、上山かみのやまはん譜代ふだい外様とざまなんわっています。1697ねん元禄げんろく10ねん)に、譜代ふだいであった松平まつだいら[藤井ふじい]の「松平まつだいら信通のぶみち」(まつだいらのぶみち)が3まんせきにゅうふう。それ以降いこう明治維新めいじいしんまで、松平まつだいらによる統治とうちが10代つづきましたが、はん財政ざいせい状況じょうきょうきびしいものでした。凶作きょうさくつづいていたにもかかわらず、はん御用ごよう商人しょうにんたちは、私腹しふくやしつづけるばかり。

これにたいし、1747ねんのべとおる4ねん)には農民のうみんたちいかりが爆発ばくはつし、そう百姓ひゃくしょう一揆いっき発生はっせいしたのです。日本にっぽん最大さいだい規模きぼともわれる3,000にん農民のうみんたち庄屋しょうやおそい、べいぞうこわすなどのだい騒動そうどうとなりました。

このときの一揆いっきでは、首謀しゅぼうしゃの5にんくびとなっています。村人むらびとたちは、自分じぶんたちのためにいのちったこの5にんを、義民ぎみんとしてまつりました。それが、いま住民じゅうみんたちから敬意けいいはらわれている「ともえ神社じんじゃ」(いつつともえじんじゃ)です。

一揆いっききるほど農村のうそん荒廃こうはいした背景はいけいには、4だい藩主はんしゅしんじとおる(のぶつら)、5だい藩主はんしゅしんいにしえ(のぶふる)、6だい藩主はんしゅ信愛しんあい(のぶざね)と3だいにわたって、藩政はんせいかえりみない暗愚あんぐ藩主はんしゅつづいたことにも原因げんいんがありました。そのしきながれは、信行のぶゆき(のぶゆき)が7だい藩主はんしゅとなってからは途絶とだえ、改善かいぜんられるようになっています。

信行のぶゆき学問がくもん奨励しょうれいし、藩校はんこうてん輔館」(てんゆうかん)を設立せつりつするなど、改革かいかくすすめたのです。この改革かいかくは、幕府ばくふにするところとなり、幕末ばくまつ動乱どうらんには、大坂おおさか江戸えど警備けいびまかされ、江戸えど薩摩さつま藩邸はんていちにもかかわったほどでした。

さらには、時流じりゅう敏感びんかんかんり、洋式ようしき兵学へいがくれた上山うえやまはん。「戊辰戦争ぼしんせんそう」(ぼしんせんそう)では、「庄内しょうないはん」(しょうないはん:現在げんざい山形やまがたけん鶴岡つるおか)ととも秋田あきた侵攻しんこうしただけでなく、戊辰戦争ぼしんせんそうにおける「長岡ながおかはん」(ながおかはん:現在げんざい新潟にいがたけん長岡ながおか)や白河しらかわこう(しらかわぐち:現在げんざい福島ふくしまけん白河しらかわ)でのたたかいにも、部隊ぶたい派遣はけんしたのです。

幕末ばくまつ結成けっせいされた軍楽隊ぐんがくたいは「上山うえやまはん鼓笛こてき楽隊がくたい」(かみのやまはんこてきがくたい)として保存ほぞんされ、今日きょうまでつづいています。

上山うえやまはん(かみのやまはん)

久保田くぼたはん(くぼたはん)

久保田藩(くぼたはん)

戦国せんごく時代じだい秋田あきた秋田あきたおさめていましたが、「関ヶ原せきがはらたたか」で西にしぐん石田いしだ三成みつなり」に味方みかたしたことにより、1600ねん慶長けいちょう5ねん)に常陸ひたち宍戸ししどてんふうとなりました。

ちょうどそのころ秋田あきたはんはんとなる「佐竹さたけ義宣よしのぶ」(さたけよしのぶ)も「豊臣とよとみ秀吉ひでよし」や三成みなり恩義おんぎかんじていたこともあり、関ヶ原せきがはらたたかいにおいて、どちらに味方みかたするのか旗色はたいろしめさず、中立ちゅうりつ姿勢しせいります。しかし、そのうごきが原因げんいん家康いえやすにらまれることとなり、1602ねん慶長けいちょう7ねん)に常陸ひたち54まんせきから当地とうちへ20まんせきげんふうのうえ国替くにがえとなったのです。

はん佐竹さたけ義宣よしのぶちち義重よししげは、勇猛ゆうもう果敢かかん大名だいみょうとしてられていました。「伊達だてまさしむね」と相対あいたいした「ひとはしたたかい」では、せいむねをあといちのところまでめ、後年こうねんには、みなみから北条ほうじょうきたからは会津あいづあしめいほろぼした伊達だてまさしむねせまり、窮地きゅうちいやられてしまいます。そんな佐竹さたけくるしい状況じょうきょうすくったのが秀吉ひでよしの「小田原おだわらめ」。いちはや秀吉ひでよし臣下しんかれいったこともあり、常陸ひたち54まんせきのお墨付すみつきをたのです。

そうした秀吉ひでよしへの恩義おんぎもあり、関ヶ原せきがはらたたかいにおいては、家康いえやす有利ゆうりかっていながら、ひがしぐんくことをはっきりとしめせず、無傷むきず兵力へいりょくゆうしていたことも警戒けいかい対象たいしょうとなり、江戸えどからはなれた秋田あきた国替くにがえとなってしまいました。

久保田城御隅櫓

久保田くぼたしろすみ

秋田あきたで、佐竹さたけ半分はんぶん以下いか所領しょりょうけずられたことだけでなく、きゅう支配しはいしゃ遺臣いしんによる一揆いっき頻発ひんぱつし、統治とうち難儀なんぎしました。苦労くろうすえ一揆いっき鎮圧ちんあつすると、積極せっきょくてき新規しんき人材じんざい活用かつようするなどして活路かつろひらこうとします。そのおもだったものもと宇都宮うつのみや家臣かしんの「梅津うめづ政景まさかげ」(うめつまさかげ)やもと小山こやま家臣かしん渋江しぶえ政光まさみつ」(しぶえまさみつ)といった関東かんとう出身しゅっしん浪人ろうにんたち

当然とうぜんながら、そうした抜擢ばってき(ばってき)は旧来きゅうらい家臣かしんから反発はんぱつうことになり、家老がろうたちによって義宣よしのぶ暗殺あんさつくわだてられたとわれています。浪人ろうにん採用さいようについては、国替くにがえによって石高こくだか半分はんぶん以下いか減少げんしょうしたこともあり、旧来きゅうらい家臣かしん知行ちぎょうらし、かれらの影響えいきょうりょく意味合いみあいもありました。それでも石高こくだかの7わり家臣かしん知行ちぎょうであり、直轄ちょっかつりょうは6まんせきほど。逼迫ひっぱく(ひっぱく)したはん財政ざいせい好転こうてんさせるため、義宣よしのぶけたのは豊富ほうふ秋田あきたすぎ鉱山こうざん開発かいはつでした。

1606ねん慶長けいちょう11ねん)に発見はっけんされた院内銀山いんないぎんざんは、財政ざいせいおおきく貢献こうけん銀山ぎんざんには江戸えどわれたかくれキリシタンなどもながみ、周辺しゅうへんおおきなにぎわいをみせたのです。

ただ、3だい藩主はんしゅしょ以降いこうになると、鉱山こうざん採掘さいくつりょうっていき、度重たびかさなる飢饉ききんにも見舞みまわれ、はん財政ざいせい危機ききてき状況じょうきょうになります。そこで、藩札はんさつ発行はっこうなどで、危機ききろうとしましたが、それもこうそうさず、つね財政ざいせいくるまでした。

財政ざいせいてきにはきびしい久保田くぼたはんでしたが、はん特色とくしょくとしてげられるのは、教育きょういくちからそそいだことにあります。社会しゃかい思想家しそうかの「安藤あんどう昌益しょうえき」(あんどうしょうえき)、国学こくがくしゃの「平田ひらた篤胤あつたね」(ひらたあつたね)、農政のうせいの「佐藤さとう信淵のぶひろ」(さとうのぶひろ)ら江戸えど時代じだい代表だいひょうするだたる学者がくしゃ輩出はいしゅつ

江戸えどからはなれてはいたが、つね学問がくもんたいしては先取せんしゅ姿勢しせいたもっていたこともあり、幕末ばくまつにおいては、いちはやはんろん勤王きんのう転換てんかんし、しん政府せいふぐん合流ごうりゅうしました。そうかじらせたのは、武士ぶしばかりでなく庶民しょみんにも影響えいきょうあたえた平田ひらた篤胤あつたね存在そんざいおおきかったとえます。

久保田くぼたはん(くぼたはん)

庄内しょうないはん(しょうないはん)

庄内藩(しょうないはん)

徳川とくがわ四天王してんのうのひとり「酒井さかい忠次ただつぐ」(さかいただつぐ)の嫡流ちゃくりゅうである「酒井さかい忠勝ただかつ」(さかいただかつ)が初代しょだい藩主はんしゅつとめた「庄内しょうないはん」(しょうないはん:現在げんざい山形やまがたけん)は、「最上さいじょう」(もがみけ)がおいえ騒動そうどうつぶしとなったことにより、まれました。最上さいじょうの「山形やまがたはん」は、「上山かみのやまはん」などによん分割ぶんかつ。そのうちのひとつが庄内しょうないはんです。

酒井さかいかたるうえでかすことができないのは、やはり忠次ちゅうじ。なお、忠次ただつぐにとってはん忠勝ただかつまごにあたります。忠次ただつぐは、元服げんぷくしてあいだもなく「徳川とくがわ家康いえやす」のちちである「松平まつだいらひろただし」(まつだいらひろただ)につかえました。

そのため、家康いえやすおさないときに「今川いまがわ義元よしもと」の人質ひとじちとなったさいには、駿府すんぷ同行どうこう生涯しょうがい家康いえやすつかえ、数々かずかず勲功くんこうげています。「三方みかたばらたたかい」で、家康いえやすが「武田たけだ信玄しんげん」にらされ、這々のからだ浜松はままつじょうかえると、太鼓たいこらして武田たけだぐん攻撃こうげきすきあたえなかったことや、「長篠ながしのたたか」で、武田たけだぐん見下みおろす場所ばしょにあった鳶ノ巣とびのすとりで奇襲きしゅう奪取だっしゅするなど、たい武田たけだとのたたかいではなくてはならない存在そんざいでした。

家康いえやすばかりでなく、代々だいだい将軍しょうぐんから信頼しんらいあつかった酒井さかい庄内しょうないはん外様とざま大名だいみょうおお東北とうほくにあり、親藩しんぱんである「会津あいづはん」ととも譜代ふだい重鎮じゅうちんとなり、江戸えど時代じだいとおして幕府ばくふささえたのです。

養蚕ようさんぎょう振興しんこうするなど、善政ぜんせいおこなったこともあり、領民りょうみんたち酒井さかい藩政はんせいしたいました。1840ねん天保てんぽう11ねん)、8だい藩主はんしゅちゅう」(ただかた)のときに、「越後えちご長岡ながおかはん」にうつりふうされるとはなしがりましたが、領民りょうみんたち反対はんたい運動うんどうこり、えになったほどでした。

旧致道館

きゅう致道かん

庄内しょうないはんかたるうえで、はずすことができないのは、「戊辰戦争ぼしんせんそう」における数々かずかず奮戦ふんせんぶり。東北とうほくしょはんは、しん政府せいふぐんす、最新さいしんしきの「じゅう」や「アームストロングほう」といった洋式ようしき兵備へいびまえになすじゅつもなく、やぶれていったことはひろられています。その姿すがたとは対照たいしょうてきに、庄内しょうないはんらずでつづけ、領内りょうないにはしん政府せいふぐんいちあしれさせることはなかったのです。

庄内しょうないはんが、しん政府せいふぐんたいして、有利ゆうりたたかいをすすめることができたのは、いくつか理由りゆうがありました。そのさいたるものは、はん財政ざいせいささえた豪商ごうしょうほんあいだ存在そんざい。「井原いはら西鶴さいかく」(いはらさいかく)が「日本にっぽん永代えいたいぞう」(にっぽんえいたいぐら)で西にしさかいひがし酒田さかたしるしたほど、北前きたまえせんにぎわった酒田港さかたこう背景はいけいに、ほんあいだ莫大ばくだいとみをきずきあげました。

ほんあいだからの献納けんのうによって、庄内しょうないはんは「スペンサーじゅう」などの最新さいしん兵器へいき装備そうびし、訓練くんれんとどいた強力きょうりょく部隊ぶたいゆうしたのです。さらには、藩主はんしゅ善政ぜんせいおこない領民りょうみんからしたわれていたこともあり、領内りょうない武士ぶし以外いがいもこぞって民兵みんぺい組織そしきして、そのかずは2,200にんにもなり、そう兵力へいりょくやく半分はんぶんめました。

庄内しょうないはんたたかいは、「仙台せんだいはん」や「米沢よねざわはん」、さらには「会津あいづはん」の降伏ごうぶくによって、わりをむかえます。戦後せんご庄内しょうないはん過酷かこくばっがあると覚悟かくご。しかし、ほんあいだからしん政府せいふたいしての30まんりょうともわれる献金けんきんこうそうし、戦後せんご処理しょり担当たんとうした「西郷さいごう隆盛たかもり」の配慮はいりょもあって、5まんせきげんふうされたにすぎませんでした。

その処理しょり感動かんどうした庄内しょうない藩士はんし薩摩さつまあしはこび、西郷さいごう隆盛たかもりからいたはなしをまとめげたのが、「みなみしまおう遺訓いくん」(なんしゅうおういくん)です。「会津あいづはん」が23まんせきから3まんせきげんふうされ、ほぼつぶしとなったあつかいとは、対照たいしょうてきでした。

リーダーナビ 酒井氏

庄内しょうないはん(しょうないはん)

仙台せんだいはん(せんだいはん)

仙台藩(せんだいはん)

仙台せんだいはん輩出はいしゅつした、後世こうせいひろられた人物じんぶつえば、「独眼竜どくがんりゅう」との異名いみょうはん伊達だてまさしむね

伊達だて17だい当主とうしゅとして、「佐竹さたけ」(さたけし)や「あしめい」(あしなし)などとの勢力せいりょくあらそいにち、豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやすわたった姿すがたは、まさしく奥州おうしゅう(おうしゅう:現在げんざい福島ふくしまけん宮城みやぎけん秋田あきたけん北東ほくとう青森あおもりけん岩手いわてけん)の覇者はしゃでした。

その見識けんしきひろく、当時とうじ世界せかい最先端さいせんたんはしっていたスペインなどとも積極せっきょくてき交流こうりゅうし、領内りょうない金山かなやま開発かいはつなどにかしたことなどからも、優秀ゆうしゅう領主りょうしゅであったことはうまでもありません。

1600ねん慶長けいちょう5ねん)に、それまでの居城きょじょうだった岩出山いわでやま(いわでやま:現在げんざい宮城みやぎけん大崎おおさき)から仙台せんだいしろきずき、14だいにわたって仙台せんだいおさめました。仙台せんだい開発かいはつには、べ100まんにん動員どういんされたとつたえられています。表向おもてむきの石高こくだかは、仙台せんだい以外いがいにも近江おうみこく(おうみのくに:現在げんざい滋賀しがけん)の1まんせき常陸ひたちこく(ひたちのくに:現在げんざい茨城いばらきけん)の1まんせきくわえて62まんせきありましたが、実質じっしつ石高こくだかは100まんせきえていたのです。

仙台城大手門脇櫓

仙台せんだいじょう大手おおて門脇かどわき

仙台せんだいはんでは、それまで手付てつかずであった北上川きたかみがわ(きたかみがわ)流域りゅういきなどの低湿ていしつ地帯ちたいにおいて、葛西かさい(かさいし)や大崎おおさき(おおさきし)の遺臣いしんたち積極せっきょくてきかかえ、40まんせき以上いじょう新田にった開発かいはつおこないました。さらに領内りょうないには金山かなやまもあったことから、江戸えど人々ひとびとからは、財政ざいせいてきにはなに問題もんだいもないはんだと、細川ほそかわ上杉うえすぎならんでひょうされていましたが、その内実ないじつは、ちがったものだったのです。

伊達だて家臣かしんだんは、陪臣ばいしんまでふくめると2まん4,000にんほどになり、かれらへの扶持ふちまいなどで60まんせき必要ひつようで、はん収入しゅうにゅうとしてののこりは40まんせきほど。そのうちのやく半分はんぶん江戸えどなどへ輸出ゆしゅつして利潤りじゅんていましたが、江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこう発生はっせいした飢饉ききんや、幕府ばくふからめいぜられるお手伝てつだ普請ふしん、さらには異国いこくせんから北海道ほっかいどうまもるための警護けいごなどで、はん借金しゃっきんは、一時期いちじき100まんりょうまでふくらんだのです。

町人ちょうにんこうろく」(ちょうにんこうけんろく)によれば、江戸えど仙台せんだいはん蔵元くらもとつとめていた商人しょうにん阿形あがたはじめちん」(あがたそうちん)が、仙台せんだいはんかかえた借金しゃっきん肩代かたがわりしていたことから破産はさん。これをもうわけないとおもった仙台せんだいはんが、そうちんを500せき藩士はんしとしてかかえていたというようなこともきています。

仙台せんだいはんは、財政ざいせい状態じょうたいくるしいまま幕末ばくまつむかえることになり、おおくの藩士はんしかかえていたものの、軍制ぐんせい改革かいかくにはほとんどしゅけられていませんでした。幕末ばくまつになって甲冑かっちゅう鎧兜よろいかぶと)や日本にっぽんがたな時代遅じだいおくれとなり、じゅう大砲たいほう戦闘せんとう主流しゅりゅうとなっていたのにもかかわらず、その変化へんかくことができなかったのです。その背景はいけいには、仙台せんだいはんでは武士ぶしにおいてもきびしい身分みぶん制度せいどがあり、「じゅうあつかうのは下位かい足軽あしがるなどがすること。武士ぶしのすることではない」といった意識いしきが、根強ねづよくあったためとかんがえられています。

幕末ばくまつ仙台せんだいはんは、「奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい」(おううえつれっぱんどうめい)の盟主めいしゅでしたが、戦闘せんとうにおいて旧態きゅうたい依然いぜんとしていたはんへいは、まったくやくちませんでした。

戊辰戦争ぼしんせんそうにおいてただいちめいられていたのは、50せきかかえられていた軽輩けいはい細谷ほそやただしえい」(ほそやなおひで)がひきいた「からすぐみ」(からすぐみ)です。からすぐみは、博徒ばくと(ばくと:ばくちち)や猟師りょうしなど、武士ぶし身分みぶんではないものたち構成こうせいされていました。黒装束くろしょうぞくをまとったかれらによる奇襲きしゅう攻撃こうげきは、猟師りょうしによる正確せいかく無比むひ射撃しゃげき博徒ばくとたちいのちをものともしない突撃とつげきなど30かい以上いじょうおよび、しん政府せいふぐん恐怖きょうふおとしいれたとつたえられています。

からすぐみは、このように健闘けんとうしたものの、正規せいきへい立場たちばにはなかったために評価ひょうかされることはなく仙台せんだいはん降伏ごうぶくし、明治維新めいじいしんむかえることになりました。

仙台せんだいはん(せんだいはん)

棚倉たなぐらはん(たなくらはん)

棚倉藩(たなくらはん)

関東かんとう東北とうほくさかい位置いちする棚倉たなぐらはん(たなくらはん:現在げんざい福島ふくしまけん)。交通こうつう要衝ようしょうということもあり、むかしから領地りょうちめぐあらそいがえませんでした。

戦国せんごく時代じだいにおいてもたたかいはつづき、戦国せんごく時代じだい末期まっきにこのおさめていたのは、水戸みとから奥州おうしゅうをうかがっていた佐竹さたけでしたが、「関ヶ原せきがはらたたか」で、どっちつかずの態度たいどったことを「徳川とくがわ家康いえやす」からとがめられ、常陸ひたちから出羽でわ国替くにがえとなります。

そのあと、初代しょだい藩主はんしゅとしてこのおさめることになったのが、「高橋たかはし紹運」(たかはしじょううん)の実子じっしで、「立花たちばなみちゆき」(たちばなどうせつ)の養子ようしとなった「立花たちばな宗茂むねしげ」(たちばなむねしげ)です。

そうしげるちちである紹運は、「岩屋いわやじょうたたか」(いわやじょうのたたかい:現在げんざい福岡ふくおかけん)において、九州きゅうしゅう制覇せいは野望やぼうった島津しまつぐん相手あいて壮絶そうぜつにをしたことでられています。島津しまづぐん岩屋いわやじょう攻略こうりゃく時間じかんかれたことから、秀吉ひでよしぐん上方かみがたから到着とうちゃくし、薩摩さつまへの退却たいきゃく余儀よぎなくされました。

棚倉城址

棚倉たなぐら城址じょうし

息子むすこそうしげる武勇ぶゆう天下てんかわたっています。「豊臣とよとみ秀吉ひでよし」の「九州きゅうしゅう征伐せいばつ」においては、島津しまつぐん相手あいて武功ぶこうつづけて、「大友おおとも宗麟そうりん」(おおともそうりん)の家臣かしんでありながら、筑後ちくご柳川やながわ13まんせきあたえられ、大名だいみょうとして独立どくりつしたほどでした。

さらに秀吉ひでよし朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいにおいては、1593ねんぶんろく2ねん)の「ぶんろくやく」で、朝鮮ちょうせん救援きゅうえんのためにやってあきらぐん攻勢こうせいによって、秀吉ひでよしぐん戦線せんせん崩壊ほうかい危機ききおちいります。ソウルにせまったあきらぐんを「あお蹄館」(へきていかん:現在げんざいのソウル北方ほっぽう)でむかったたたかいにおいて、先鋒せんぽうをつとめたそうしげるは、獅子奮迅ししふんじん活躍かつやくをして、あかりぐんめたのです。

そうしげるは、関ヶ原せきがはらたたかいでは、西にしぐん味方みかたしたこともあり、所領しょりょう没収ぼっしゅうされ浪人ろうにんとなりますが、その武勇ぶゆうしんだ「本多ほんだ忠勝ただかつ」(ほんだただかつ)に推挙すいきょされ、家康いえやす家臣かしんとなり、1603ねん慶長けいちょう8ねん)に棚倉たなぐらはいったのでした。

ちなみに、関ヶ原せきがはらたたかいで、西にしぐん味方みかた浪人ろうにんとなったものが、大名だいみょうになったのはそうしげる以外いがいにはおらず、如何いかそうしげる武勇ぶゆう家康いえやすおそれと同時どうじ敬意けいいっていたかがかります。

1620ねん元和がんわ6ねん)に、「大坂おおさかじん」で武功ぶこうてたそうしげるが、旧領きゅうりょうの「柳川やながわはん」(やながわはん:現在げんざい福岡ふくおかけん)に国替くにがえとなると、そのあとの藩主はんしゅは「山形やまがたはん」(やまがたはん:現在げんざい山形やまがたけん)とおなじようにまぐるしくわることに。江戸えど時代じだいつうじて、親藩しんぱん譜代ふだいだい名家めいか9いえ棚倉たなぐらはん藩主はんしゅとなりましたが、棚倉たなぐらはん石高こくだか表向おもてむきには5まんせきとはうものの、実質じっしつはその半分はんぶんほどしかなく、棚倉たなぐらへの国替くにがえは、譜代ふだい大名だいみょうたちにとって左遷させん意味いみするものでした。

棚倉たなぐらへと左遷させんされた大名だいみょうなかでも、間抜まぬけな理由りゆう左遷させんされたのは「井上いのうえただしはじめ」(いのうえまさもと)です。「国史こくし叢書そうしょ」(こくしそうしょ)によれば、井上いのうえかりさい農家のうか見付みつけ、そのいえしのんで、留守番るすばんをしていた農家のうか女房にょうぼう手篭てごめにしようとしましたが、おっとかえって井上いのうえばしました。おこった農夫のうふは、その事実じじつ幕府ばくふもうます。当然とうぜん将軍しょうぐんみみはいり、井上いのうえ棚倉たなぐら左遷させんされましたが、棚倉たなぐらはいることはなく、江戸えど屋敷やしき隠居いんきょしたとうことです。

棚倉たなぐらはんたかめたのは、「戊辰戦争ぼしんせんそう」における「白河しらかわこうたたかい」(しらかわぐちのたたかい)でした。家老がろう阿部あべ主膳しゅぜん」(あべしゅぜん)がひきいた16人組にんぐみは、ゲリラせんおこない、「仙台せんだいはん」(せんだいはん:現在げんざい宮城みやぎけん)の部隊ぶたいともしん政府せいふぐんおおいになやませたのです。

棚倉たなぐらはん(たなくらはん)

天童てんどうはん(てんどうはん)

天童藩(てんどうはん)

織田おだ信長のぶなが」の次男じなん織田おだ信雄のぶお」(おだのぶかつ)の子孫しそん藩主はんしゅをつとめた「天童てんどうはん」(てんどうはん:現在げんざい山形やまがたけん)は2まんせきはんとして幕末ばくまつの1830ねん天保てんぽう元年がんねん)に成立せいりつしました。

天童てんどうはんのルーツは織田おだ信雄のぶおにあるわけですが、戦国せんごくにおける信雄のぶお評判ひょうばんけっしてかんばしくはありません。かれおこなった失態しったい数々かずかずげてみると、まずはじめは1579ねん天正てんしょう7ねん)に信長のぶなが無断むだん伊賀いが侵攻しんこうしますが、重臣じゅうしんうしなうなどのだい敗北はいぼくきっしてしまいます。信長のぶながいかりは尋常じんじょうではなく、親子おやこえんるとまで手紙てがみしるしました。

1582ねん天正てんしょう10ねん)に「本能寺ほんのうじ」で信長のぶながが「明智あけち光秀みつひで」にたれると、かたきちのため近江おうみまで進出しんしゅつするのですが、豊臣とよとみ秀吉ひでよしさきされたうえに、「安土あづちじょう」(あづちじょう:現在げんざい滋賀しがけん)に入城にゅうじょうしたものの、失火しっかにより安土あづちじょういてしまいます。

信長のぶながきあと、天下てんかじんみち着々ちゃくちゃくすすんでいた秀吉ひでよし反旗はんきひるがえし、徳川とくがわ家康いえやすんで「小牧こまき長久手ながくてたたか」のきっかけをつくりますが、秀吉ひでよしぜい所領しょりょうである伊勢いせの「しょしろ」がとされると、家康いえやすにも相談そうだんせずに秀吉ひでよし講和こうわしてしまいました。とにかく派手はで失敗しっぱいかえしてきたのが、信雄のぶおだったのです。

そして、関ヶ原せきがはらたたか西にしぐんについたことから所領しょりょう没収ぼっしゅう。これで命運めいうんきたかにおもえましたが、家康いえやすによる「大坂おおさかふゆじんなつじん」がきると、「だい坂城さかき」にせていた信雄のぶおは、家康いえやす内通ないつうすることによって、大坂おおさかかた情報じょうほうながつづけます。

だい坂城さかき落城らくじょうする寸前すんぜんしろ脱出だっしゅつすると、諜報ちょうほう活動かつどう功績こうせきから「うえしゅう小幡おばた」(じょうしゅうおばた:現在げんざい群馬ぐんまけん)に5まんせき拝領はいりょうしたのでした。秀吉ひでよし家康いえやすあいだしながら、結果けっかてき信長のぶなが現代げんだいつたえることとなります。

うえしゅう小幡おばたはん」の石高こくだかひくく、さらに国持くにもちの大名だいみょうでもありませんでしたが、信長のぶなが直系ちょっけい子孫しそんということもあり、江戸城えどじょうでは大広間おおひろまめをゆるされるなど、国主こくしゅかくあつかいをけていました。

ところが、信雄のぶおきあとのこと、倒幕とうばく思想しそうひろめていた思想家しそうか山県やまがた大弐だいに」(やまがただいに)が捕縛ほばくされた「明和めいわ事件じけん」(めいわじけん)がきると、山県やまがたした出入でいりしていたものなかうえしゅう小幡おばたはん家老がろうがおり、倒幕とうばく嫌疑けんぎをかけられ、織田おだは「出羽いずはこく」(でわのくに:現在げんざい山形やまがたけん秋田あきたけん)2まんせき国替くにがえとなってしまいます。

当初とうしょは、出羽いずはこく置賜おきたまぐん(おきたまぐん)、陸奥みちのくこく信夫しのぶぐん(しのぶぐん)などに領地りょうち点在てんざいしていましたが、1830ねん天保てんぽう元年がんねん)のによって天童てんどうあつめられたことから、天童てんどうはんとなりました。5まんせきから2まんせき領地りょうちけずられたこともあり、財政ざいせいきびしく、下級かきゅう武士ぶしたち内職ないしょくとして将棋しょうぎこまづくりを手掛てがけることに。それが今日きょうまで将棋しょうぎ産地さんちとして天童てんどうられるきっかけとなります。

さらに、幕末ばくまつには出羽でわ名産めいさん紅花べにばな専売せんばいせい計画けいかくしますが、領民りょうみんたち反対はんたいもあり頓挫とんざ専売せんばいせいきびしさを領民りょうみんたちは、「はだか裸足はだし紅花べにばなさしても織田おだられて因果いんが因果いんが」とうたにしたほどです。

専売せんばいせいもうまくいかず、はん借金しゃっきんかさ一方いっぽうだったのですが、おもわぬ副産物ふくさんぶつみました。江戸詰えどづめ藩士はんしたちはんの「田野でんやぶんなか」(のだふみなか)は「歌川うたがわ広重ひろしげ」(うたがわひろしげ)と親交しんこうがあり、藩士はんしたち広重ひろしげ借金しゃっきん返礼へんれいよう浮世絵うきよええがいてもらっています。数多すうた浮世絵うきよえ天童てんどうまれ、それが展示てんじされているのが天童てんどうにある「広重ひろしげ美術館びじゅつかん」です。

天童てんどうはん(てんどうはん)

弘前ひろさきはん(ひろさきはん)

弘前藩(ひろさきはん)

もともとは「南部なんぶ家臣かしんの「大浦おおうら為信ためのぶ」(おおうらためのぶ)が、戦国せんごく時代じだい後期こうき南部なんぶ内紛ないふんじょうじて、津軽つがる地方ちほう統一とういつ

豊臣とよとみ秀吉ひでよしの「小田原おだわらめ」にさんじんし、本領ほんりょう安堵あんどのお墨付すみつきをもら独立どくりつたしたことが、「弘前ひろさきはん」(ひろさきはん:現代げんだい青森あおもりけん)がまれるきっかけとなりました。大浦おおうら為信ためのぶは、「津軽つがる為信ためのぶ」(つがるためのぶ)と改名かいめいし、初代しょだい藩主はんしゅとなったのです。

はんである津軽つがる為信ためのぶなくして、弘前ひろさきはんまれることはなかった」とえるほどの傑物けつぶつ。もともとは、南部なんぶ家臣かしんであった為信ためのぶは、奥州おうしゅう有力ゆうりょく大名だいみょうであった南部なんぶおとろえることを予見よけんし、21さいのときに南部なんぶ反旗はんきひるがえします。

津軽つがる地方ちほうを17ねんかけて勢力せいりょくくと、ときの権力けんりょくしゃであった豊臣とよとみ秀吉ひでよしにいちはや接触せっしょく秀吉ひでよし小田原おだわらめのさいには、小田原おだわらではなく静岡しずおかけん三島みしままでき、出迎でむかえたほどでした。そうした姿勢しせい秀吉ひでよし評価ひょうかされ、津軽つがる地方ちほう領主りょうしゅとしてみとめられたのです。

為信ためのぶの「なさ」は、秀吉ひでよし一辺倒いっぺんとう平身低頭へいしんていとうしていただけではありません。関ヶ原せきがはらたたかでは、自身じしんひがしぐんきましたが、息子むすこ西にしぐんぞくさせ、どちらか一方いっぽうのこって、家名かめいやさないということまでやってのけます。このように、戦国せんごくのサバイバルをいて、きずかれたのが、弘前ひろさきはんなのです。

弘前城

弘前ひろさきじょう

一方いっぽうで、もともとの領主りょうしゅである南部なんぶは、津軽つがるのことをこころよくはおもっておらず、おもわぬ事件じけん発生はっせいします。

津軽つがる独立どくりつから、200ねん以上いじょうぎた1821ねん文政ぶんせい4ねん)。南部なんぶ盛岡もりおか藩士はんしの「下斗米しもとめ秀之ひでゆきすすむ」(しもどまいひでのしん)らすうにんが、未遂みすいわったものの、江戸えどから帰国きこく途中とちゅうの9だい藩主はんしゅやすしおや」(やすちか)を狙撃そげきする事件じけんこしたのです。

首謀しゅぼうしゃ下斗米しもとめ秀之ひでゆきしんが「相馬そうま大作だいさく」(そうまだいさく)を名乗なのったことから、「相馬そうま大作だいさく事件じけん」とばれています。ちなみに現在げんざいまで、おな青森あおもりけんでも南部なんぶ地方ちほう津軽つがる地方ちほう人間にんげんはソリがわないそうで、歴史れきし因縁いんねん今日きょうまでつづいているとえるのです。

津軽つがるはん表向おもてむきの石高こくだかは4まん6せんせきですが、名君めいくんほまたかい4だい藩主はんしゅ信政のぶまさ」(のぶまさ)が主導しゅどうした新田にった開発かいはつにより、実質じっしつ石高こくだかは30まんせきちかくあったとわれています。

ただ、東北とうほくしょはんえることですが、べい以外いがいにはぼしい産物さんぶつく、北辺ほくへんということもあり、ひとたび飢饉ききん見舞みまわれると、はん財政ざいせい奈落ならくそことされました。江戸えど時代じだい末期まっき発生はっせいした「天明てんめいだい飢饉ききん」では、領内りょうないで8まんにん死者ししゃすほど、甚大じんだい被害ひがいいます。

その原因げんいんは、飢饉ききんにもかかわらず、領民りょうみんこめまわすと財政ざいせい破綻はたんしてしまうため、こめ上方かみがたおく現金げんきんしていたからなのでした。そののち、弘前ひろさきはん質素しっそ倹約けんやくつとめ、家臣かしんたち帰農きのう奨励しょうれいし、財政ざいせい負担ふたんらそうとします。

しかし、江戸えど時代じだい末期まっきには異国いこくせん来航らいこうなどで、蝦夷えぞ警備けいびまかされるようになり、さらなる経済けいざい負担ふたんみ、はん財政ざいせい好転こうてんすることなく幕末ばくまつむかえたのです。

戊辰戦争ぼしんせんそうでは、「奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい」(おううえつれっぱんどうめい)にぞくしたもののすぐに脱退だったいし、しん政府せいふぐんがわきました。その結果けっか、「庄内しょうないはん」や「盛岡もりおかはん」を相手あいて連戦れんせん連敗れんぱいだったものの、戦後せんご1まんせき加増かぞうされることになったのです。戦国せんごく時代じだいいた「のなさ」が、幕末ばくまつ動乱どうらんにおいても発揮はっきされました。

弘前ひろさきはん(ひろさきはん)

松前まさきはん(まつまえはん)

松前藩(まつまえはん)

蝦夷えぞ」(えぞち)とばれた、現在げんざい北海道ほっかいどう一部いちぶ所領しょりょうして成立せいりつした「松前まさきはん」(まつまえはん)は、「蠣崎かきざきけいひろ」(かきざきよしひろ)がときの権力けんりょくしゃであった豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやすから、蝦夷えぞにおける交易こうえき独占どくせんけんみとめられたことにより、はじまりました。

蠣崎かきざき蝦夷えぞはいったのは、けいひろさかのぼること5だいまえ当主とうしゅ武田たけだ信広のぶひろ」(たけだのぶひろ)のとき。武田たけだ信広のぶひろ元々もともと現在げんざい福井ふくいけんにあたる若狭わかさ守護しゅご大名だいみょう武田たけだしんけん」(たけだのぶかた)のとしてまれたとされていますが、出自しゅつじさだかではありません。わかくして、陸奥みちのくこく(むつのくに:現在げんざい青森あおもりけん岩手いわてけん福島ふくしまけん宮城みやぎけん)にながき、南部なんぶのもとにせていましたが、1454ねんとおるとく3ねん)に蝦夷えぞわたったのです。

当時とうじ蝦夷えぞおさめていたのは、「蠣崎かきざきしげる」(かきざきすえしげ)。和人わじん圧政あっせいたいして、アイヌの反乱はんらん相次あいついでいた時期じきでした。そのなかでも最大さいだいのものは1457ねん康正こうせい3ねん長禄ちょうろく元年がんねん)に発生はっせいした「コシャマインのらん」。アイヌがわ猛攻もうこうまえに、和人わじんかん次々つぎつぎ陥落かんらくしていったが、蠣崎かきざきしげる配下はいかであった武田たけだ信広のぶひろなにとかおさみ、最終さいしゅうてきにはコシャマイン父子ふしったのです。

この功績こうせきにより、蠣崎かきざきしげる武田たけだ信広のぶひろ婿養子むこようしむかえ、「蠣崎かきざき信広のぶひろ」(かきざきのぶひろ)と名乗なのりました。蝦夷えぞに「勝山かちやまかん」をきずき、橋頭堡きょうとうほ(きょうとうほ)を確保かくほすると、そのあとも度重たびかさなるアイヌのらんだまちして、きました。

松前城

松前まさきしろ

蠣崎かきざきは、出羽でわ拠点きょてんとしていた「安東あんどう」に従属じゅうぞくしていましたが、5代目だいめけいひろ」のときにおおきな転機てんきむかえます。

天下てんか情勢じょうせい見極みきわめて、けいひろ貢物みつぎものなどを献上けんじょうするために、朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいのため名護なご滞在たいざいしていた豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやすふところんだのです。けいひろは、「サンタンチミブ」とばれる中国ちゅうごく絹織物きぬおりもの家康いえやす献上けんじょう家康いえやす見慣みなれぬ織物おりものに、たいへんよろこんだとわれています。

この行動こうどうにより、秀吉ひでよし家康いえやすこう印象いんしょうあたえ、 けいひろは「安東あんどう」のくびき(くびき)からのがれ、独立どくりつげることができたのです。

さらに蠣崎かきざきから、松平まつだいらまつ前田まえだまえからった、「松前まさき」と改姓かいせい。1606ねん慶長けいちょう11ねん)には、居城きょじょうである福山ふくやまじょう完成かんせいし、西にし熊石くまいしひがし函館はこだて付近ふきんまでを領地りょうちとしました。

当時とうじ蝦夷えぞでは、べい収穫しゅうかくできなかったため、松前まさきはん石高こくだかいし。その環境かんきょう松前まさきはん独自どくじせいんだのです。通常つうじょうはんでは、農民のうみんかさずころさずしぼげ、年貢ねんぐたてて、そのこめ大坂おおさか江戸えどなどの消費しょうひおくり、その利益りえきはん運営うんえいしていました。

しかし、松前まさきはんではそのような形態けいたいれないため、家臣かしんには、アイヌとの交易こうえきができる知行ちぎょうあたえたのです。利益りえきげるもらすも家臣かしん裁量さいりょうまかされていました。そのため家臣かしんたちはアイヌのもの容赦ようしゃなく収奪しゅうだつ不当ふとう取引とりひき横行おうこうしたことからアイヌがわ不満ふまん爆発ばくはつし、1669ねん寛文ひろふみ9ねん)には「シャクシャインのたたかい」がこるのです。

しかし、シャクシャインが謀殺ぼうさつされると、アイヌへの収奪しゅうだつはさらにはげしさをしました。アイヌは交易こうえき相手あいてから、ニシンりょうやコンブりょうささえる労働ろうどうしゃへととしたのです。

一方いっぽう松前まさきはんおとずれた幕府ばくふ巡検じゅんけん使同行どうこうした「古川ふるかわ古松こまつのき」(ふるかわこしょうけん)がしるした「東遊あずまあそび雑記ざっき」(とうゆうざっき)には、和人わじん風体ふうたい上方かみがたおとらぬとおどろきをもってしるされています。江戸えど末期まっき蝦夷えぞ直轄ちょっかつりょうとなったため、ほどうたてふうになりましたが、蝦夷えぞ復帰ふっき明治維新めいじいしんむかえ、1871ねん明治めいじ4ねん)にはいはんとなりました。

松前まさきはん(まつまえはん)

盛岡もりおかはん(もりおかはん)

盛岡藩(もりおかはん)

盛岡もりおかはん」(もりおかはん:現在げんざい岩手いわてけん藩主はんしゅつとめた南部なんぶいえ南部なんぶ光行みつゆき」(なんぶみつゆき)が、盛岡もりおかわたってきたのは鎌倉かまくら時代じだいである1191ねんたてひさ2ねん)のこと。

みなもと頼朝よりとも」(みなもとのよりとも)につかえ、奥州おうしゅう(おうしゅう:現在げんざい宮城みやぎけん福島ふくしまけん秋田あきたけん北東ほくとう青森あおもりけん岩手いわてけんめで勲功くんこうげ、現在げんざい青森あおもりけんひがし半分はんぶん岩手いわてけん北部ほくぶにあたる「陸奥みちのくこくぬかぐん」(むつのくにぬかのぶぐん)などをあたえられたことが、そのきっかけでした。もともとは、「甲斐かいこく」(かいのくに:現在げんざい山梨やまなしけん)に領地りょうちがあった光行みつゆきは、最後さいご甲斐かいくなったとつたわっています。

光行みつゆき子孫しそんは、ぬかぐん甲斐かいう2つの領地りょうちらしつづけましたが、室町むろまち時代じだいはいると、甲斐かいらしていたほか一族いちぞくも、甲斐かいはなれてぬかぐんはいりました。

南部なんぶかたじょうはずすことができない人物じんぶつえば、24だい当主とうしゅ南部なんぶはれまさし」(なんぶはるまさ)。戦国せんごく時代じだいきたはれまさしは、「三日月みかづきまるくなるまで南部なんぶりょう」とうたわれるほど、広大こうだい領地りょうち獲得かくとくしたのです。有能ゆうのう大名だいみょうであったはれまさしでしたが、世継よつぎにはなかなかめぐまれず、婿養子むこようしに「石川いしかわしんじき」(いしかわのぶなお)をむかえていました。

しかし、晩年ばんねん実子じっしであるはれままし(はるつぎ)がまれたことにより、はれまさしきあと、おいえ騒動そうどう発展はってんします。はれつぎ早世そうせいしたことにより、結果けっかてきにはしんじじき南部なんぶぎましたが、いえぜいおとろえていきました。その騒動そうどうにより、家臣かしんであった「津軽つがる為信ためのぶ」(つがるためのぶ)が南部なんぶ離反りはん独立どくりつした為信ためのぶは、「津軽つがるはん[弘前ひろさきはん]」(つがるはん[ひろさきはん]:現在げんざい青森あおもりけん弘前ひろさき)をたてはんすることとなったのです。

盛岡城 石垣

盛岡もりおかじょう 石垣いしがき

そののち、盛岡もりおか居城きょじょうきずいた南部なんぶ石高こくだかは8まんせきほどでしたが、3だい藩主はんしゅ重信しげのぶ(しげのぶ)の治世ちせい新田にった開発かいはつおこない、10まんせきまで石高こくだかやしています。

さらには、水運すいうん整備せいびするなどして、盛岡もりおか城下町じょうかまち発展はってんさせ、領内りょうない金山かなやま開発かいはつ。また、うま産地さんちであったことから特産とくさんひんのひとつとしたことで、はん財政ざいせいうるおしました。

ところが、盛岡もりおかはん南部なんぶたてはんしてからのやく230ねんあいだに、50かいにもわたって飢饉ききん見舞みまわれたのです。とくに、「天明てんめい飢饉ききん」(てんめいのききん)の被害ひがい危機ききてきなもので、人口じんこう30まんにんのうち、その4ぶんの1にあたる7まん5,000にん餓死がししています。

さらには、1792ねん寛政かんせい4ねん)、ロシアのラクスマンが根室ねむろ来航らいこうする事件じけんきると、幕命ばくめいにより根室ねむろ函館はこだて警備けいびまかされるようになり、はん財政ざいせい急速きゅうそく悪化あっかしていきました。そうした状況じょうきょう打開だかいする有効ゆうこう手段しゅだん見付みつけることができなかった盛岡もりおかはんは、海産物かいさんぶつへの課税かぜい人頭じんとうぜいなどを徴収ちょうしゅうすることで、この財政難ざいせいなんろうとしたのです。

ところが、領民りょうみんいかりが爆発ばくはつし、日本にっぽんにおいて最大さいだいきゅうともわれる「さん閉伊へい一揆いっき」(さんへいいっき)が発生はっせいしています。2かいにわたってきたこの一揆いっきには、べ3まんにんちか領民りょうみん参加さんかしました。2度目どめ一揆いっきでは、はんさかいえて仙台せんだい領内りょうないにまでながみ、課税かぜい撤廃てっぱいや、さん閉伊へい地方ちほう仙台せんだいはんむことなどを要求ようきゅうおさまる気配けはいはありませんでしたが、仙台せんだいはん尽力じんりょくもあり、一揆いっき収束しゅうそくかっていったのです。

このとき、仙台せんだいはん仲介ちゅうかいによって一揆いっきおさまったことから、仙台せんだいはん恩義おんぎかんじた盛岡もりおかはん戊辰戦争ぼしんせんそうでは、はんろんしん政府せいふぐんよりだったにもかかわらず、「奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい」(おううえつれっぱんどうめい)に加盟かめいしました。

盛岡もりおかはんは、奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいなか最後さいごまで抵抗ていこうしていましたが、最終さいしゅうてきには降伏ごうぶく。「白石しらいしはん」(しろいしはん:現在げんざい宮城みやぎけん白石しらいし)にてんふうとなるものの、70まんりょう献金けんきん条件じょうけんに、盛岡もりおか復帰ふっきすることになったのです。しかし、結局けっきょくはそのかね用意よういできなかったために領地りょうち返上へんじょうもうれ、それがみとめられてはいはんとなりました。

盛岡もりおかはん(もりおかはん)

山形やまがたはん(やまがたはん)

山形藩(やまがたはん)

伊達だてまさしむね」と奥州おうしゅう舞台ぶたいきそった「最上もがみ義光よしみつ」(もがみよしあき)をはんとする山形やまがたはんは、外様とざま大名だいみょうではありましたが、最上もがみ義光よしみつはやくから「徳川とくがわ家康いえやす」につうじ、「関ヶ原せきがはらたたか」においてもひがしぐんぞくしていたため、57まんせき石高こくだかほこる、東北とうほく代表だいひょうする雄藩ゆうはん(ゆうはん:勢力せいりょくのあるはん)でした。

はん最上もがみ義光よしみつは、1546ねん天文てんもん15ねんまれ。義光よしみつまれた当時とうじ最上もがみは、米沢よねざわ居城きょじょうとしていた伊達だてから独立どくりつたしたばかりで、弱小じゃくしょう勢力せいりょくぎませんでした。義光よしみつは1560ねんえいろく3ねん)に元服げんぷくしますが、伊達だてはたびたび最上さいじょう領内りょうない侵攻しんこう。その窮地きゅうちまえ智略ちりゃくがえし、地盤じばんかためていったのです。

義光よしみつは、現在げんざい山形やまがたけん一部いちぶ支配しはいいているにすぎませんでしたが、ひとつの転機てんきとなったのは、中央ちゅうおうの「織田おだ信長のぶなが」に接近せっきんしたこと。これによりた、「出羽守でわのかみ」(でわのかみ)のお墨付すみつきは、はくづけとなり、村山むらやま地方ちほう勢力せいりょくおさめることに成功せいこうしました。

山形城

山形やまがたじょう

信長のぶながきあとは、豊臣とよとみ秀吉ひでよし家康いえやす接近せっきんとく家康いえやす義光よしみつ性格せいかくてきにウマがったばかりでなく、家康いえやすからしてみれば、伊達だてまさしむねひからせる意味いみでも、義光よしみつ存在そんざい価値かちがありました。

家康いえやすむすびついた義光よしみつは、関ヶ原せきがはらたたかいとどう時期じききた上杉うえすぎとのたたかいで、おおいに善戦ぜんせん。24まんせき加増かぞうることに成功せいこうし、山形やまがたはんいしずえきずいたのです。

山形やまがた弱小じゃくしょう勢力せいりょくから、外様とざま雄藩ゆうはんとなった山形やまがたはんでしたが、おいえ騒動そうどうによって最上もがみ改易かいえきとなってしまいます。それ以降いこうは、山形やまがたはん藩主はんしゅはめまぐるしくわるようになり、石高こくだかもそのたびに削減さくげん幕末ばくまつころは、最上もがみ面影おもかげ見事みごとせていました。

最上もがみわっておさめた鳥居とりい、そのつぎ保科ほしなまではかろうじて20まんせきたもっていましたが、それ以降いこうは、徐々じょじょけずられていき、最後さいご藩主はんしゅ水野みずの時代じだいには5まんせきに。外様とざまだった初代しょだい最上もがみ以降いこうは、譜代ふだいはん親藩しんぱんとなりますが、あまりに大名だいみょうわりがはげしく、じゅういえわっておさめたため譜代ふだい大名だいみょう左遷させんわれるようになりました。

山形やまがたはん石高こくだかけずられていくと、最上もがみ時代じだいきずかれ東北とうほく最大さいだいともわれた平城ひらじろの「山形やまがたじょう」の維持いじむずかしくなっていきました。山形やまがたじょうは、現在げんざいの「JR山形やまがたえき」までもすっぽりとさんまるなかはいり、「だい坂城さかき」や「江戸城えどじょう」などとおなじく、まちかこかたちそうかまえの見事みごとしろでしたが、巨大きょだいしろぶん不相応ふそうおうものに。

しかも山形やまがたはん領地りょうちが1764ねん明和めいわ元年がんねん)から3ねんほど天領てんりょうとなった時代じだいには、まるさんまるない家臣かしん屋敷やしき武器ぶき食糧しょくりょうなど貯蔵ちょぞうしていたくらなどもこわされ畑地はたちとなり、こわされた武家ぶけ屋敷やしきから木材もくざいは、たきぎとしてはらわれたのです。

最上もがみきずいた名城めいじょうて、天領てんりょう時代じだいのあと、山形やまがたおさめることになったもと老中ろうじゅうの「秋元あきもと凉朝」(あきもとすけとも)は、左遷させん人事じんじへの抗議こうぎ荒廃こうはいした山形やまがたはいることをいやがり、江戸えどらしつづけました。

まぐるしく、藩主はんしゅわった山形やまがたはんでしたが、はんという意識いしきうすかったぶん最上川もがみがわ水運すいうん利用りようした商業しょうぎょうとしてさかえ、「山形やまがた」には酒田さかた山形やまがたひょう仙台せんだい裏側うらがわだとしるされているほどの土地とちでした。

山形やまがたはん(やまがたはん)

米沢よねざわはん(よねざわはん)

米沢藩(よねざわはん)

上杉うえすぎ謙信けんしん」を養父ようふつ「上杉うえすぎ景勝かげかつ」(うえすぎかげかつ)が、「関ヶ原せきがはらたたか」において西にしぐん味方みかたしたことから、それまでの会津あいづ(あいづ:現在げんざい福島ふくしまけん)120まんせきから30まんせきけずられにゅうふうしたことが、「米沢よねざわはん」(よねざわはん:現在げんざい山形やまがたけん)のはじまりです。

米沢よねざわはんとしては、景勝けいしょう初代しょだい藩主はんしゅですが、上杉うえすぎにおいては、戦国せんごく時代じだい代表だいひょうする武将ぶしょうである謙信けんしんはんとしています。

謙信けんしんは、一時いちじかたむいていたいえぜいかえし、関東かんとう管領かんりょう就任しゅうにん越後えちごだけでなく、関東かんとう越中えっちゅう信濃しなの加賀かが能登のと一部いちぶなども影響えいきょうくなど、米沢よねざわはん江戸えど時代じだいつうじて存続そんぞくするいしずえきずいたのでした。

上杉うえすぎにとって、その存在そんざいたんなるはんではなく、いえまもかみってもいでしょう。それは、その埋葬まいそうぶりからもうかがえます。謙信けんしん死後しご、その遺骸いがい甲冑かっちゅう鎧兜よろいかぶと)をまとわせたうえでうるし(うるし)をなががためた(かめ)におさめられました。死後しご甲冑かっちゅう鎧兜よろいかぶと)をていることからも、生前せいぜん武勇ぶゆういえまもってしいとねがいがめられているかのようです。

さらに、景勝けいしょう領地りょうち越後えちごから会津あいづ、さらには米沢よねざわうつさいにも、一緒いっしょはこばれ、「米沢よねざわしろ」では本丸ほんまる安置あんちされていました。謙信けんしんは、「毘沙門天びしゃもんてん」(びしゃもんてん)のはたかかげて戦場せんじょう縦横無尽じゅうおうむじんめぐり、「織田おだ信長のぶなが」をもおそれさせましたが、まさにその存在そんざい米沢よねざわはんにとって武神ぶしんである毘沙門天びしゃもんてんそのものであったのです。

米沢城址

米沢よねざわ城址じょうし

米沢よねざわはんは、会津あいづからてんふうとなったさい、8わりちかくのげんふうとなっているのですが、旧来きゅうらい家臣かしん5,000にんをそのまましかかえつづけたといます。

そのため、知行ちぎょう(ちぎょうち)をあたえるにも事欠ことかきました。城下町じょうかまち手狭てぜまであったことから、下級かきゅうには城下じょうかではなく、近郊きんこう農村のうそんはんのうはん屯田とんでんへい(とんでんへい)としてまわせたとのこと。のちにはんのうはん下級かきゅう武士ぶしは「はらへんくそつかみ」と軽蔑けいべつされ、城下じょうか武士ぶしは「城下じょうかのお粥腹かゆばら」とばれ、おたがいにののしりあったとうことです。

13だいにわたって米沢よねざわはん明治めいじ時代じだいまでつづきましたが、最初さいしょ危機ききは3だいつなかち」(つなかつ)が急死きゅうししたときでした。会津あいづはんおも保科ほしな正之まさゆき」(ほしなまさゆき)のりなしで、「忠臣蔵ちゅうしんぐら」でられる「吉良きら義央よしなか」(きらよしひさ)の長子ちょうしつなけん」(つなのり)があと断絶だんぜつまぬかれます。

ところが、15まんせきげんふうとなり、さらに財政ざいせいきびしくなりました。しかもつなけんは、実家じっかである吉良きらしみなく援助えんじょをし、のうこのむなど生活せいかつ派手はでであったことから、吉良きら義央よしなかが「赤穂あこう浪士ろうし」にたれたさいには、同情どうじょうするものはほとんどいなかったといます。はん財政ざいせい加速度かそくどてきかたむき、8だい藩主はんしゅ重定しげさだ」(しげさだ)は、万策ばんさくきて領地りょうち返納へんのう幕府ばくふもうようとしたほどでした。

危機ききてき状況じょうきょうなか登場とうじょうしたのが9だい上杉うえすぎ鷹山ようざん(うえすぎようざん)です。鷹山ようざんが「白子しらこ神社じんじゃ」に奉納ほうのうした現存げんそんする誓文せいもんによれば、君臣くんしんこころ力尽ちからつきくるまで倹約けんやく以外いがいにないとしるし、平時へいじ一汁一菜いちじゅういっさい贈答ぞうとう禁止きんし藩主はんしゅ許嫁いいなずけ(いいなずけ)であっても普段ふだん綿めんることなど、藩主はんしゅみずかりっし、改革かいかくいどみました。さらに荒廃こうはいした農村のうそん整備せいびにも着手ちゃくしゅし、開墾かいこん奨励しょうれいあいだきの禁止きんしなどもおこなっています。

鷹山ようざん改革かいかくによりはん状況じょうきょう危険きけん水域すいいきだっしましたが、13だい茂憲もちのり」(もちのり)のときに「戊辰戦争ぼしんせんそう」がこり、「奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい」(おううえつれっぱんどうめい)の盟主めいしゅとして参戦さんせんしますが、1868ねん慶応けいおう4ねん)8がつ降伏ごうぶくし、明治めいじ廃藩置県はいはんちけんむかえました。

米沢よねざわはん(よねざわはん)

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