もとは「熊本新田藩」(くまもとしんでんはん)と呼ばれ、細川家の治める「熊本藩」(くまもとはん:現在の熊本県)の支藩でした。
細川家の本姓は源氏であり、清和源氏の名門・足利氏の支流です。南北朝時代には「足利尊氏」に従って発展し、室町幕府の管領家に列する有力守護大名でもありました。祖先をたどれば、「応仁の乱」で東軍の総大将を務めた「細川勝元」(ほそかわかつもと)もいます。
熊本藩2代藩主「細川光利」(ほそかわみつとし)の次男「細川利重」(ほそかわとししげ)が、1666年(寛文6年)に、熊本藩主だった兄「綱年」(つなとし)から3万5,000石を分与されて立藩。
立藩とはいえ知行地は持たない、江戸に創設された熊本藩の支藩でした。そのため、貢祖(こうそ)は熊本藩が代行しており、参勤交代を行なわず、藩主と家臣が江戸に常駐する「定府大名」だったのです。
初代藩主である利重は、江戸郊外、現在の戸越公園周辺に領地と下屋敷を持っていました。この下屋敷内の泉水を水源として、1663年(寛文3年)、玉川上水から屋敷まで長大な水路を開削。これが「戸越水路」(とごしすいろ)と呼ばれ、現在の「戸越銀座商店街」の下を流れていたと言われています。
明治維新動乱さなかの1868年(明治元年)春、「鳥羽・伏見の戦い」のあとに、本藩である熊本藩の勧めもあって、支藩は江戸を引き払うこととなりました。
10代藩主「利永」(としなが)を筆頭に、熊本新田藩一行は江戸から肥後高瀬町へ移り住み、商家や寺院に分宿。7月に玉名郡高瀬町の奉行役宅を仮の藩庁とし、藩名が「高瀬藩」(たかせはん:現在の熊本県)へと改称されました。
正式な藩庁は、1870年(明治3年)に、玉名郡岩崎村に建設されましたが、同年9月、版籍奉還に際して藩は維持できたものの、知藩事の任命がなく、同じく熊本藩の支藩であった「宇土藩」(うとはん:現在の熊本県)とともに熊本藩に合併されることとなります。そののち、藩主・利永は東京居住、藩士は熊本藩への所属換えとなり、そのため、高瀬藩という名称はわずか3年使用されただけとなりました。
しかし、約300家族700人が、維新を前に江戸から移住してきたことの意味は大きく、遠く九州の地に、当時最先端であった江戸文化がもたらされたのですから、文化・教育の成長度は加速したと言えます。高瀬藩校を受け継ぎ、1870年(明治3年)には、旧藩士達が自主的に運営する「自明堂」(じめいどう)を設立。1872年(明治5年)には学制により、いち早く小学校として認められました。
女子美術大学の創立者で、美術教育を通して女子の社会的地位の向上に尽くした「横井玉子」や、その甥で英文学者の「戸川秋骨」(とがわしゅうこつ)をはじめ、旧藩士とその子孫からは、わが国の近代化に貢献した人物が多数輩出。玉名の町には今も旧藩士邸があり、当時の文化が遺されています。