(Translated by https://www.hiragana.jp/)
【刀剣ワールド】中津藩(なかつはん):大分県
The Wayback Machine - https://web.archive.org/web/20220807075633/https://www.touken-world.jp/edo-domain100/nakatsu/
九州きゅうしゅう地方ちほうはん

中津なかつはん(なかつはん)[大分おおいたけん] - 刀剣とうけんワールド

文字もじサイズ
  • しょう
  • なか
  • だい

260ねんつづいた江戸えど時代じだいにおいて、やく300ちかくのはん全国ぜんこく各地かくち存在そんざいしていました。
ここでは、おも江戸えど100はんのひとつである九州きゅうしゅう地方ちほうの「中津なかつはん」(なかつはん)[大分おおいたけん]について、石高こくだか居城きょじょう藩主はんしゅといったはん概要がいよう歴史れきし治世ちせいなどのエピソードをまじえて解説かいせつします。

中津なかつはん概要がいよう歴史れきし

奥平家

奥平おくだいら
家紋かもん
いし だか きゅう くに きょ じょう はん ぬし
10まんせき 豊前ぶぜんこく
大分おおいたけん
中津なかつじょう 奥平おくだいら
はん歴史れきし
歴代れきだい藩主はんしゅ 歴代れきだい当主とうしゅめい いし だか 大名だいみょう分類ぶんるい
1. 黒田くろだ

黒田くろだ孝高よしたか
黒田くろだ長政ながまさ

12.3まんせき 外様とざま
2. 細川ほそかわ

細川ほそかわ忠興ただおき

39.9まんせき 外様とざま
3. 小笠原おがさわら

小笠原おがさわら長次ちょうじ
小笠原おがさわらちょうかち
小笠原おがさわら長胤ながたね
小笠原おがさわら長円ちょうえん
小笠原おがさわらちょう

4まんせき 譜代ふだい
4. 奥平おくだいら

奥平おくだいらあきらなり
奥平おくだいらあきらあつし
奥平おくだいらあきら鹿しか
奥平おくだいら昌男まさお
奥平おくだいらあきらだか
奥平おくだいらあきらとおる
奥平おくだいらあきら
奥平おくだいらあきらふく
奥平おくだいらあきら

10まんせき 譜代ふだい

慶應義塾けいおうぎじゅく源流げんりゅうともわれる人材じんざい宝庫ほうこ

慶應義塾の源流とも言われる人材の宝庫

中津なかつはん」(なかつはん:現在げんざい大分おおいたけん中津なかつ)の歴史れきしは、1587ねん天正てんしょう15ねん)、「豊臣とよとみ秀吉ひでよし」による九州きゅうしゅう征伐せいばつのあと、「黒田くろだ孝高よしたか官兵衛かんべえ」(くろだよしたか/かんべえ)に豊前ぶぜんこく(ぶぜんのくに:現在げんざい福岡ふくおかけん東部とうぶおよ大分おおいたけん北部ほくぶ)6ぐん12まん3,000せきあたえられたことからはじまります。

のちに「関ヶ原せきがはらたたか」の戦功せんこうにより、嫡男ちゃくなん黒田くろだ長政ながまさ」(くろだながまさ)が52まん3,100せき加増かぞうけ、「福岡ふくおかはん」(ふくおかはん:現在げんざい福岡ふくおかけん福岡ふくおか)にうつりふうとなりました。

長政ながまさわって、「細川ほそかわ忠興ただおき」(ほそかわただおき)が宮津みやづはん」(たんご・みやづはん:現在げんざい京都きょうと宮津みやづ)よりにゅうふうし、中津なかつはん成立せいりつすることとなります。1602ねん慶長けいちょう7ねん)に、忠興ただこうはんちょうを「小倉こくらじょう」(こぐらじょう:現在げんざい福岡ふくおかけん北九州きたきゅうしゅう)にうつしたことにより、はんめい一時期いちじき小倉こくらはん」(こくらはん)となりました。

それまでのはんちょうであった「中津なかつじょう」はささえじょうとなり、城代じょうだいかれることに。そして、細川ほそかわは2だい藩主はんしゅ忠利ただとし」(ただとし)の時代じだいに、肥後ひご熊本くまもとはん」(ひご・くまもとはん:現在げんざい熊本くまもとけん熊本くまもと)にうつりふうとなっています。

同年どうねんに、譜代ふだい大名だいみょうとして、茶人ちゃじんとしても名高なだかい「小笠原おがさわら忠真ただざね」(おがさわらただざね)が小倉こくらじょうはいって小倉こくら藩主はんしゅとなり、ささえじょうであった中津なかつじょうには、そのおいである「小笠原おがさわら長次ちょうじ」(おがさわらながつぐ)が播磨はりま龍野たつのはん」(はりま・たつのはん:現在げんざい兵庫ひょうごけんたつの)より8まんせきにゅうふうふたた中津なかつじょうはんちょうとなり、中津なかつはんとして稼働かどうしていくこととなりました。

中津城

中津なかつじょう

その中津なかつはん藩主はんしゅは、小笠原おがさわらが5だいおなじく譜代ふだい大名だいみょうである「奥平おくだいら」(おくだいらし)が9だいにわたってつづいています。

中津なかつはん出身しゅっしん著名ちょめいじんには、「緒方おがた洪庵こうあん」(おがたこうあん)の「てきじゅく」(てきじゅく:のちの大阪大学おおさかだいがく)でまなんだあと22さいという最年少さいねんしょう塾頭じゅくとうにまでなり、「慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく」の創始そうししゃとしても有名ゆうめいな「福澤ふくさわ諭吉ゆきち」(ふくざわゆきち)がいます。

中津なかつはん下級かきゅう武士ぶし子息しそくであった諭吉ゆきちは、上級じょうきゅう武士ぶしらから極端きょくたん差別さべつけてそだちました。そしてそのことが、かれ平等びょうどう思想しそうつよ影響えいきょうしたとわれているのです。

1796ねん寛政かんせい8ねん)、奥平おくだいら5だい藩主はんしゅ奥平おくだいらあきらだか」(おくだいらまさたか)が藩校はんこうすすむおさむかん」(しんしゅうかん)を設立せつりつ上士じょうし(じょうし:上級じょうきゅう藩士はんしのこと)の子弟していかなら入学にゅうがくさせ、その志願しがんしゃにも入学にゅうがく許可きょかし、のちには町人ちょうにん子弟してい入学にゅうがくさせました。

このすすむおさむかんに、のちに慶應義塾けいおうぎじゅく3だい塾長じゅくちょうとなる「小幡おばた篤次郎とくじろう」(おばたとくじろう)も入学にゅうがく。のちに福沢ふくさわ諭吉ゆきち片腕かたうでとして見出みいだされ、「中津なかつはん江戸えど藩邸はんてい」で開設かいせつされた「慶應義塾けいおうぎじゅく」で教育きょういくにあたっています。これにより、藩校はんこうすすむおさむかん」は、慶應義塾けいおうぎじゅく源流げんりゅうであるとされることもあるのです(なお、慶應義塾けいおうぎじゅく自体じたいは、これを正式せいしきとはしていない)。

このほかにも中津なかつはんは、教育きょういく人材じんざい育成いくせい尽力じんりょくたとえば、中津なかつはんはんであり、「解体かいたい新書しんしょ」(かいたいしんしょ)で有名ゆうめいな「前野まえの良沢りょうたく」(まえのりょうたく)や、自由じゆう民権みんけん運動うんどうにも参加さんかした「増田ますだ宗太郎そうたろう」(ますだそうたろう)などがおり、明治維新めいじいしん思想しそうかいにも多大ただいなる影響えいきょうあたえています。

最後さいご藩主はんしゅとなる「奥平おくだいらあきら邁」(おくだいらまさゆき)は、明治維新めいじいしん、それまでの家格かかく至上しじょう主義しゅぎてき登用とうようほう打破だはして選挙せんきょせいるなど、すぐれた藩主はんしゅでしたが、1884ねん明治めいじ17ねん)に30さい死去しきょあきら邁は、江戸えど後期こうきの3大名だいみょうくんうたわれた、伊予いよ宇和島うわじまはん」(いよ・うわじまはん:現在げんざい愛媛えひめけん宇和島うわじま藩主はんしゅ伊達だて宗城むねなり」(だてむねなり)の4なんであり、養子ようしとして奥平おくだいらはいった人物じんぶつでした。

おも江戸えど100はん家紋かもんイラスト)「中津なかつはん府内ふないはん熊本くまもとはん
YouTube動画どうが

中津藩・府内藩・熊本藩YouTube動画

中津なかつはん(なかつはん)[大分おおいたけん]をSNSでシェアする

刀剣とうけんめられた幾多いくた魅力みりょく皆様みなさまにおとどけするサイト、刀剣とうけん専門せんもんサイト・バーチャル刀剣とうけん博物館はくぶつかん刀剣とうけんワールド」。こちらのページでは「おも江戸えど100はん家紋かもんイラスト)」のひとつである「中津なかつはん」(なかつはん)[大分おおいたけん]についてご紹介しょうかいします。
260ねんつづいた江戸えど時代じだいには、全国ぜんこく各地かくちやく300ちかくのはん存在そんざいしていました。「おも江戸えど100はん家紋かもんイラスト)」では、「北海道ほっかいどう東北とうほく地方ちほう」「関東かんとう甲信越こうしんえつ地方ちほう」「東海とうかい北陸ほくりく地方ちほう」「関西かんさい地方ちほう」「中国ちゅうごく四国しこく地方ちほう」「九州きゅうしゅう地方ちほう」と6つの地域ちいきごとに、それぞれの主要しゅようはんのデータやエピソードを掲載けいさいかくはん石高こくだか居城きょじょう歴代れきだい藩主はんしゅなど見所みどころ満載まんさいです。
刀剣とうけん専門せんもんサイト・バーチャル刀剣とうけん博物館はくぶつかん刀剣とうけんワールド」の掲載けいさい内容ないようは、刀剣とうけん甲冑かっちゅう基礎きそ知識ちしきをはじめ、日本にっぽんがたな歴史れきし雑学ざつがく日本にっぽんがたなにまつわる歴史れきしじん合戦かっせん名刀めいとうした名工めいこうたち紹介しょうかいなどりだくさん。日本にっぽんがたなかんするSNS、各種かくしゅアプリゲーム、刀剣とうけん・おしろ川柳せんりゅうよん文字もじ熟語じゅくごといったたのしむコンテンツも充実じゅうじつ刀剣とうけん鎧兜よろいかぶとかんする様々さまざま情報じょうほうを、あらゆる角度かくどからバーチャルの世界せかいでおたのしみいただけます。

もっとる▼

九州きゅうしゅう地方ちほう」のはん記事きじ


熊本くまもとはん(くまもとはん)

熊本藩(くまもとはん)

加藤かとう清正きよまさ」は、1582ねん天正てんしょう10ねん)「本能寺ほんのうじへん」のあと、「山崎やまざきたたか」をて、「明智あけち光秀みつひで」をくだした「羽柴はしば[豊臣とよとみ]秀吉ひでよし」と「柴田しばた勝家かついえ」が織田おだ信長のぶなが没後ぼつご織田おだ跡目あとめあらそった、1583ねん天正てんしょう11ねん)の「賤ヶだけたたか」で、「ななほんやり」とばれる武功ぶこうてました。

さらに、「熊本くまもとじょう」、「名古屋なごやじょう」、「江戸城えどじょう」などの築城ちくじょうにもたずさわります。「朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい」では、兵糧ひょうろうきた籠城ろうじょうせんそよいたうえに、とらまでり、関ヶ原せきがはらたたか勲功くんこうにより、肥後ひご熊本くまもとに52まんせきて、初代しょだい藩主はんしゅとなったのです。

清正きよまさ逸話いつわは、枚挙まいきょひまもありませんが、農閑期のうかんきみん給金きゅうきんはらって土木どぼく治水ちすい事業じぎょうにも尽力じんりょくし、いまも熊本くまもと県内けんないには実用じつよう使つかわれる遺構いこう多数たすうあります。せいたけ両方りょうほうけた人物じんぶつで、当地とうちではいまも「清正きよまさこう(せいしょこ)さん」と尊敬そんけいされる武将ぶしょうです。また、もとは「隈本くまもと」であった地名ちめいを「熊本くまもとのほうがいさましい」という理由りゆうで、「熊本くまもと」とあらためたという逸話いつわのこっています。

その不遇ふぐうは、秀吉ひでよしぼつ徳川とくがわ時代じだい秀吉ひでよし嫡男ちゃくなん秀頼ひでより(ひでより)をいかにびさせるかに心血しんけつそそいだため、徳川とくがわ家康いえやすからすれば、あつかいづらい人物じんぶつとの印象いんしょういきれなかったいちてんです。関ヶ原せきがはらたたか京都きょうと二条城にじょうじょう」で、秀頼ひでより家康いえやす謁見えっけんさせた帰路きろじゅうよわいにして急死きゅうし死因しいんは、性病せいびょうともハンセン病はんせんびょうとも毒殺どくさつともわれています。

熊本城天守閣

熊本くまもとじょう天守閣てんしゅかく

清正きよまさ嫡子ちゃくし短命たんめいだったため、わずか11さいだった3なん忠広ただひろが2だい藩主はんしゅとなります。江戸えど幕府ばくふ家督かとく相続そうぞくたいし、9ヵ条かじょうからなるおきてしょ(おきてがき)をしめし、ささえじょうであった「水俣みなまたじょう」、「宇土うとじょう」、「矢部やべじょう」などが廃止はいしとなり、のちの「一国一城いっこくいちじょうせい」によって、最終さいしゅうてきには、熊本くまもとじょうと「麦島むぎじまじょう」だけが存続そんぞくすることとなりました。

藤堂とうどう高虎たかとら」が後見人こうけんにんとなったさい重臣じゅうしんたち所領しょりょう自治じちまかせたこともあって、領内りょうない統制とうせいがきかなくなります。1632ねん寛永かんえい9ねん)、徳川とくがわ家康いえやすまごである「徳川とくがわ忠長ただなが」(通称つうしょう駿河するが大納言だいなごん)がこした「駿河するが大納言だいなごん事件じけん」の連座れんざにて改易かいえきされ、1まんせきあたえられて東北とうほく出羽いずはこく丸岡まるおか移転いてんさせられました。

同年どうねんに、「豊前ぶぜん小倉こくらはん」(ぶぜんこくらはん:現在げんざい福岡ふくおかけん)より「細川ほそかわ忠利ただとし」が54まんせきはいり、細川ほそかわ統治とうちとなります。忠利ただとしは、晩年ばんねんの「宮本みやもと武蔵むさし」を「熊本くまもとはん」(くまもとはん:現在げんざい熊本くまもとけん)にむかれたり、「島原しまばららん」にて武功ぶこうげたりと藩主はんしゅとして活躍かつやくしました。

つづく3だい藩主はんしゅつなは、「赤穂あこう浪士ろうし事件じけん」の「大石おおいし良雄よしお」らの切腹せっぷくまかされた人物じんぶつです。8だい重賢しげかた(しげかた)は、1755ねんたかられき5ねん)に、「横井よこい小楠しょうなん」や「井上いのうえあつし」(いのうえこわし)、「北里きたさとしば三郎さぶろう」を輩出はいしゅつした藩校はんこうとき習館」を創設そうせつし、翌年よくねんには、はん学校がっこう再春館さいしゅんかん」も創設そうせつしています。とき習館は、当時とうじから「体罰たいばつ否定ひてい思想しそう精神せいしん明文化めいぶんかしており、のちの学校がっこう教育きょういくにもおおきな影響えいきょうあたえました。

熊本くまもとはんはん財政ざいせいは、はんおなじく窮乏きゅうぼう状態じょうたいでしたが、江戸えど時代じだいつうじて百姓ひゃくしょう一揆いっきがなく、領民りょうみん安全あんぜんゆたかならしをおくったとわれています。最後さいご藩主はんしゅとなった12だいまもるひさ(もりひさ)は、1884ねん明治めいじ17ねん)に、侯爵こうしゃく叙任じょにんされました。

熊本くまもとはん(くまもとはん)

久留くるべいはん(くるめはん)

久留米藩(くるめはん)

久留くるべいはん」(くるめはん)は、現在げんざい福岡ふくおかけん久留米くるめはんちょういたはんであり、平安へいあん時代じだい末期まっきより、豊臣とよとみ秀吉ひでよしの「九州きゅうしゅう征伐せいばつ」までのやく400ねんを、藤原ふじわらきたながれをくむ草野くさの一族いちぞく統治とうちしていました。

そののち、豊臣とよとみ政権せいけんから有馬ありまたてはんまでに、「毛利もうりしげるつつみ」(もうりひでかね)、「田中たなか吉政よしまさ」(たなかよしまさ)が統治とうちし、「有馬ありまゆたか」(ありまとようじ)によりだてはんとなります。

久留くるべいはんには、個性こせいゆたかな藩主はんしゅたちがいました。2だい藩主はんしゅ有馬ありま忠頼ただより」(ありまただより)は非道ひどう有名ゆうめいで、あるとき側仕そばづかえの小姓こしょう忠頼ただより機嫌きげんそこねたところ、忠頼ただよりはその小姓こしょうはしらしばけ、日本にっぽんがたなでその股間こかんけたといます。小姓こしょういえにて養生ようじょうしているさいに、あににそのことをはなし、いきどおったあに2人ふたり兄弟きょうだい主君しゅくんつとめたのです。

機会きかい参勤さんきん途中とちゅう船内せんないめぐってきます。兄弟きょうだい忠頼ただより洗顔せんがん世話せわをすることになり、あにっているたらい(たらい)に忠頼ただよりくびれるやいなや、おとうと抜刀ばっとうし、無言むごんのままに忠頼ただよりくびとしました。そのまま兄弟きょうだい忠頼ただよりくびってうみ逃走とうそうし、2つからなかったとつたえられています。そのさいに、そばにいた忠頼ただより長男ちょうなんまつ千代ちよ」(まつちよ:4さい)もえをって死亡しぼう忠頼ただよりきあと、久留くるべいはんには後継あとつぎがおらず、はんない身代みがわりにできる4さい男子だんし見付みつし、後継あとつぎとすることになりました。

久留米城跡

久留くるべい城跡じょうせき

どもは3だいよりゆき」(よりとし)として成長せいちょうしたのですが、やがて毒殺どくさつにあいます。わずか17さいのことでした。よりゆき血筋ちすじ家臣かしん毒殺どくさつしたのだとわれています。

よりゆき先代せんだいちがい、大変たいへんおだやかな人柄ひとがら家臣かしんしたわれていました。大事だいじ香炉こうろ家臣かしんってしまったさいにもわらってゆるしたそうです。よりゆき急死きゅうししたさいには、ききつけた藩邸はんてい家臣かしんたち全員ぜんいん殿中でんちゅうめ、よりゆき容態ようだいあんじたという逸話いつわのこっています。

よりゆきには「糸姫いとひめ」(いとひめ)というつまがおり、まだ16さいでした。とついでわずか4ヵ月かげつおっとくした糸姫いとひめは、跡目あとめの4だい藩主はんしゅとつぐことをすすめる家臣かしんたちおさえ、「みじかよるつきまくらのこれどもえにしじんかげはとまらず」とのこすとかみとして仏門ぶつもんくだり、一生いっしょうえたといます。

幕末ばくまつとなり、「戊辰戦争ぼしんせんそう」がはじまるとしん政府せいふぐんがわとして参戦さんせん。しかし、1871ねん明治めいじ4ねん)、しん政府せいふぐんの「開国かいこく和親わしん」に不満ふまん久留くるべいはんない攘夷じょういが、攘夷じょうい公卿くぎょう、「愛宕あたごどおりあさひ」(おたぎみちてる)と「外山とやまひかり輔」(とやまみつすけ)が明治めいじ政府せいふ転覆てんぷくはかった「きょう事件じけん」(にきょうじけん)とばれるクーデター未遂みすい事件じけん関与かんよしたとして、明治めいじ政府せいふ命令めいれいけた熊本くまもとはんしろ占拠せんきょされます。

1884ねん明治めいじ17ねん)、華族かぞくれい公布こうふによって、最後さいご藩主はんしゅである11だいよりゆき咸」(よりしげ)の、「よりゆきまん」(よりつむ)は伯爵はくしゃくとなりました。

久留くるべいはん(くるめはん)

小倉こくらはん(こくらはん)

小倉藩(こくらはん)

1587ねん天正てんしょう15ねん)、豊臣とよとみ秀吉ひでよし家臣かしんもり勝信かつのぶ」(もりかつのぶ)が、九州きゅうしゅう征伐せいばつや「肥後ひご国人くにびと一揆いっき」などで武功ぶこうげ、秀吉ひでよしより「豊前ぶぜんこく小倉こくら」(ぶぜんのくにこくら:現在げんざい福岡ふくおかけん北九州きたきゅうしゅう小倉おぐら)の6まんせきあたえられ、「小倉こくらじょう」(こくらじょう)を築城ちくじょうしたのがはじめとわれています。

このとき勝信かつのぶは、秀吉ひでよしより「もり」のを「毛利もうり」にえるようめいじられ、以後いごは「毛利もうり壱岐いきもり」(もうりいきのかみ)をしょうし、毛利もうりせいとなりました。

子息しそくは、「大坂おおさかじん」で活躍かつやくした「毛利もうり勝永かつなが」(もうりかつなが)。勝永かつながつまは、大坂おおさかじん勝永かつながだい坂城さかきりをはげまし、1887ねん明治めいじ20ねん)に刊行かんこうされた「婦女ふじょかん」にて、戦前せんぜんの「銃後じゅうごまもり」(じゅうごのまもり:軍隊ぐんたいはいらず間接かんせつてき参加さんかした一般いっぱん市民しみん)の手本てほんとしてげられた賢女けんじょです。

そののち、1600ねん慶長けいちょう5ねん)の関ヶ原せきがはらたたかにおいて、ひがしぐんぞくした「細川ほそかわ忠興ただおき」(ほそかわただおき)と、ひがしぐんとして抗戦こうせんつづけたちち細川ほそかわ幽斎ゆうさい」(ほそかわゆうさい)が、そのこうにより、転入てんにゅう豊後ぶんごこく杵築きつき(ぶんごのくにきつき:現在げんざい大分おおいたけん杵築きづき)の18まんせきから、豊前ぶぜんいちこく豊後ぶんごこく国東くにさきぐん速見はやみぐんわせた、39まん9,000せき大幅おおはば加増かぞうされ、「小倉こくらはん」(こくらはん:現在げんざい福岡ふくおかけん)がたてはんされました。

小倉城

小倉こくらじょう

小倉こくらはんえば、1612ねん慶長けいちょう17ねん)に「佐々木ささき小次郎こじろう」(ささきこじろう)と「宮本みやもと武蔵むさし」(みやもとむさし)の決闘けっとうおこなわれた、「巌流島がんりゅうじま」(がんりゅうじま:現在げんざい山口やまぐちけん)をりょうしていたことでも有名ゆうめいです。この巌流島がんりゅうじま決闘けっとうおこなわれたのが、細川ほそかわ藩主はんしゅ時代じだいでした。

ところが、2だい藩主はんしゅ細川ほそかわ忠利ただとし」(ほそかわただとし)は、1632ねん寛永かんえい9ねん熊本くまもとはん2だい藩主はんしゅ加藤かとう清正きよまさ」の3なんである「加藤かとう忠広ただひろ」(かとうただひろ)の改易かいえきともない、54まんせき加増かぞうされ、熊本くまもとはんうつりふうとなります。

そこで同年どうねん、「徳川とくがわ家康いえやす」のそと曾孫そうそんにあたる「小笠原おがさわら忠真ただざね」(おがさわらただざね)が、「明石あかしはん」(あかしはん:現在げんざい兵庫ひょうごけん)からうつりふうされ、豊前ぶぜん北部ほくぶ15まんせきりょうし、小倉おぐら藩主はんしゅとなったのです。以後いご西国さいごく譜代ふだい大名だいみょう筆頭ひっとうとなり、「九州きゅうしゅう探題たんだい」のような役割やくわりとして西国さいごく外様とざま大名だいみょうおさえをになうこととなりました。

また、巌流島がんりゅうじま決闘けっとう以降いこう宮本みやもと武蔵むさし小倉こくらはんまり、子息しそく伊織いおり」(いおり)とともに「島原しまばららん」などで活躍かつやく小倉こくらはん筆頭ひっとう家老がろうしょく世襲せしゅうつづけたのです。

1758ねんたかられき8ねん)には、4だい藩主はんしゅ小笠原おがさわらただしそう」(おがさわらただふさ)が、城内きうち藩士はんし文武ぶんぶ教練きょうれんじょうおもええいひとし」(しえいさい)をもうけ、教育きょういく普及ふきゅうつとめます。これが、1870ねん明治めいじ3ねん)に開校かいこうされる藩校はんこういくとくかん」(いくとくかん)の前身ぜんしんとなりました。

1866ねん慶応けいおう2ねん)の「だい長州ちょうしゅう征伐せいばつ」では、小倉こくらはん小倉こくらこう先鋒せんぽうとして参戦さんせん長州ちょうしゅうぐんにより門司もじ制圧せいあつされると、小倉こくらじょうはな撤退てったいします。一時いちじ小倉こくらじょう奪還だっかんしますが、長州ちょうしゅうがわ兵力へいりょく増強ぞうきょうされると次第しだい圧迫あっぱくされるようになり、おおくの防衛ぼうえい拠点きょてんうしなわれ、一部いちぶ領地りょうちは1869ねん明治めいじ2ねん)まで、長州ちょうしゅうぐん占領せんりょうされることとなりました。

1884ねん明治めいじ17ねん)の「華族かぞくれい」により、小笠原おがさわら伯爵はくしゃくれっせられています。

小倉こくらはん(こくらはん)

佐賀さがはん(さがはん)

佐賀藩(さがはん)

佐賀さがはん」(さがはん:現在げんざい佐賀さがけん)は、「肥前ひぜんこく」(びぜんのくに)の佐賀さがぐんにあったはんであり、明治維新めいじいしん主導しゅどうした「薩長さっちょう土肥どい」のひとつです。

もとは、肥前ひぜん一帯いったい支配しはいしていた九州きゅうしゅう地域ちいき守護しゅご大名だいみょうしょう」(しょうにし)の支配しはいでした。そののち、仏門ぶつもんから還俗げんぞくし、九州きゅうしゅう有力ゆうりょく大名だいみょう数々かずかずやぶり、豊後ぶんご(ぶんご)の「大友おおとも」(だいゆうし)、薩摩さつま大隅おおすみ(さつまおおすみ)の「島津しまつ」となら一大いちだい勢力せいりょくをきずきあげ、「肥前ひぜんくま」の異名いみょうるまでになった戦国せんごく大名だいみょう龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶ」(りゅうぞうじたかのぶ)が下克上げこくじょうしたころが起源きげんとなります。

しかし、隆信たかのぶは、1584ねん天正てんしょう12ねん)の「沖田おきたなわてたたかい」(おきたなわてのたたかい)により、島津しまつ有馬ありま連合れんごうぐん敗北はいぼくし、はいしました。そののち、隆信たかのぶ遺児いじである「龍造寺りゅうぞうじせい」(りゅうぞうじまさいえ)の補佐ほさとして、重臣じゅうしんであった「鍋島なべしまただししげる」(なべしまなおしげ)が実権じっけんにぎり、「鍋島なべしまはん」(なべしまはん)ともばれた、佐賀さがはん形成けいせいしていくこととなります。

徳川とくがわ政権せいけんとなり、鍋島なべしま統治とうち確立かくりつしました。しかし、事実じじつじょう蓮池はすいけはん」(はすのいけはん)・「小城おぎはん」(おぎはん)・「鹿島かしまはん」(かしまはん)とさんささえはん、「白石はくせき」・「川久保かわくぼ」・「村田むらた」・「久保田くぼた」と鍋島なべしまの庶流、もとの君主くんしゅである龍造寺りゅうぞうじ分家ぶんけなどの自治領じちりょう数多かずおおくあり、佐賀さがはん実質じっしつてき知行ちぎょうだかは、6まんせき程度ていどであったとわれています。

佐賀城跡

佐賀さが城跡じょうせき

なお、佐賀さがはんえば、佐賀さが藩士はんし山本やまもとつねあさ」(やまもとつねとも)が武士ぶしとしての心得こころえ口述こうじゅつさせ、現代げんだいでもハリウッド映画えいが「ゴースト・ドッグ」のモチーフとしてえがかれた「葉隠はがくれ」が有名ゆうめいです。

そして、鍋島なべしま統治とうち時代じだい藩主はんしゅとして、このひとをおいてはかたれない藩主はんしゅがひとりいます。佐賀さがはん鍋島なべしま10代藩主はんしゅにして、「佐賀さがなな賢人けんじん」のひとりとわれる「鍋島なべしま直正なおまさ[閑叟]」(なべしまなおまさ[かんそう])です。

ゼンマイ仕掛しかけのからくり人形にんぎょうをはじめ、まんねん時計とけい時計とけい数日すうじつまるのがたりまえ時代じだいに、1ゼンマイをけば、1年間ねんかんうごいた)、蒸気じょうきせん蒸気じょうきしゃ雛形ひながたやアームストロングほう自転車じてんしゃ精米せいまい写真しゃしんなど数々かずかず発明はつめいひんした「田中たなか[芝浦しばうら]製作所せいさくしょ」(のちの東芝とうしばじゅうでん部門ぶもん)の創業そうぎょうしゃ田中たなか久重くしげ」(たなかひさしげ)をすキッカケをつくりました。

直正なおまさ大名だいみょう行列ぎょうれつとおったあとには、ぺんぺんぐさいちほんえていないとわれ、雑草ざっそうまでもかゆれて家臣かしんべさせる倹約けんやく蓄財ちくざい地場じば産業さんぎょうちかられて、はん財政ざいせい健全けんぜん成功せいこうしました。直正なおまさは、天然痘てんねんとう治療ちりょうに、オランダから「牛痘ぎゅうとうワクチン」を輸入ゆにゅうするなど、新種しんしゅ技術ぎじゅつ積極せっきょくてきれました。

また、「じゅう鎖国さこく政策せいさく」(くに鎖国さこくくわえて、はん情報じょうほうらさない)をり、隣国りんごく久留くるべいはん鼈甲べっこう(べっこう)細工ざいく子息しそくであり、「東洋とうようのエジソン」とばれた田中たなか久重くしげ当時とうじ54さい)を「精煉せいれんかた」(せいれんかた)として任命にんめい極秘ごくひうら日本にっぽん最強さいきょうクラスの洋式ようしき陸海りくかいぐんととのえていくこととなったのです。久重くしげ発明はつめいであったアームストロングほうければ、「江戸城えどじょう無血むけつ開城かいじょう」はらなかったとわれています。

1869ねん明治めいじ2ねん)、「蝦夷えぞ開拓かいたく総督そうとく」となった直正なおまさは、佐賀さがはんから人民じんみんすすんで移住いじゅうさせました。ちなみに、本人ほんにん赴任ふにんせず、「岩倉いわくら具視ともみ」(いわくらともみ)ととも大納言だいなごん任命にんめいされています。

また、久重くしげは「東芝とうしば」の前身ぜんしん田中たなか製作所せいさくしょ」(息子むすこの2代目だいめ久重くしげのときに芝浦製作所しばうらせいさくしょ)を開業かいぎょうしました。ほかにも、直正なおまさは、満州まんしゅう開拓かいたくやオーストラリアでの鉱山こうざん開拓かいたくなどを提言ていげんしており、藩主はんしゅよりも先見せんけんあかりけ、「島津しまつ斉彬なりあきら」(しまづなりあきら)とならんで「幕末ばくまつ名君めいくん」とばれたのです。

佐賀さがはん(さがはん)

薩摩さつまはん(さつまはん)

薩摩藩(さつまはん)

2018年度ねんど平成へいせい30年度ねんど)にNHK大河たいがドラマ「西郷さいごうどん」の主人公しゅじんこうともなった「西郷さいごう隆盛たかもり」(さいごうたかもり)。

じつ西郷さいごう隆盛たかもりしんかおだれりません。有名ゆうめいなおかか外人がいじん画家がか「キヨッソーネ」による肖像しょうぞうは、想像そうぞうぎないのです。

ふとまゆにギョロ団子鼻だんごばなというのがキヨッソーネ定着ていちゃくした西郷さいごう隆盛たかもりのビジュアル・イメージですが、これはたん薩摩さつまふう美男びなん特徴とくちょう象徴しょうちょうてき戯画ぎがしたものだとわれています。もっとも、西郷さいごう代々だいだい島津しまつ殿様とのさまつかえるお小姓こしょうしゅ家柄いえがらですので、実際じっさい西郷さいごうもそれなりの美童びどうであったことは想像そうぞうむずかしくありません。

小姓こしょうしゅ身分みぶんこそたかくないのですが、殿様とのさま直接ちょくせつはべることができました。そういった関係かんけいだからこそ、西郷さいごう主君しゅくん島津しまつ斉彬なりあきらから様々さまざま薫陶くんとうけることができましたし、斉彬なりあきらはやくから西郷さいごう才覚さいかくをかけるようになったともえます。

武士ぶし階級かいきゅうにおける男色なんしょく趣味しゅみ、いわゆる衆道しゅどう江戸えど中期ちゅうきには一旦いったんすたれますが、その「美風びふう」を維新いしんまでかたくなにまもとおしたのがならぬ「薩摩さつまはん」(さつまはん:現在げんざい鹿児島かごしまけん)なのです。

鹿児島城(鶴丸城)の大手門「御楼門」

鹿児島かごしまじょう鶴丸つるまるじょう)の大手門おおてもん楼門ろうもん

薩摩さつま武士ぶしには、「郷中ごうなか」(ごちゅう)と特殊とくしゅ教育きょういくてき少年しょうねん組織そしき制度せいどがありました。郷中ごうなかのうち、元服げんぷくまえの7~14さいまでを「稚児ちご」とび、15~25さいくらいまでの妻帯さいたいしゃ青年せいねんを「さい」(にせ)とびます。

さいは、教育きょういくがかりとしてきから武士ぶし心得こころえ、「示現じげんりゅう」(じげんりゅう)の稽古けいこまで、稚児ちご諸般しょはん面倒めんどうると同時どうじに、たびたび親密しんみつ関係かんけいむすびました。

郷中ごうなか可愛かわい稚児ちごがいると、わざわざ化粧けしょうほどこし、さいかさして、郷中ごうなか連中れんちゅうせびらかしにったと「ほん富安とみやす四郎しろう」(ほんぷやすしろう)の「薩摩さつま見聞けんぶん」にしるされています。また、掌中しょうちゅう稚児ちご郷中ごうなかものられないよう、さい交代こうたいずのばんをすることもめずらしくなかったそうです。

西郷さいごうどんもわかころ郷中ごうなか同士どうし喧嘩けんか稚児ちごいが原因げんいんだったかは不明ふめい)でかたなきずけています。ちなみに、西郷さいごう元服げんぷくわれてさいぐみにしばしまりましたが、盟友めいゆうであり、のちにせいかんろんたもとわかつことになる「大久保おおくぼ利通としみち」(おおくぼとしみち)も郷中ごうなか時代じだい西郷さいごうどんの稚児ちごだったのです。

余談よだんですが、薩摩さつまはん郷中ごうなかによくた、「什」(じゅう)と教育きょういくシステムをつのが「会津あいづはん」(あいづはん:現在げんざい福島ふくしまけん)。ここでは藩校はんこう日新にっしんかん」(にっしんかん)に入学にゅうがくするまえの6~9さい藩士はんし子弟していが10にん単位たんいでつどい、「什長」とばれる年長ねんちょうしゃ中心ちゅうしん武士ぶし心得こころえまなびました。「什」とはおきて意味いみでもあり、そのかたおきてのひとつが徹底的てっていてき女人にょにん忌避きひ。つまり「戊辰戦争ぼしんせんそう」とは、ハードコアなおとこ集団しゅうだん同士どうし戦争せんそうという局面きょくめんもあったわけです。
参考さんこう氏家うじいえ幹人みきひと」(うじいえみきと)「武士ぶしどうとエロス」

西郷隆盛

西郷さいごう隆盛たかもり

明治維新めいじいしんこうは、維新いしん原動力げんどうりょくともなった「長州ちょうしゅうはん」(ちょうしゅうはん:現在げんざい山口やまぐちけん)とともに、「長州ちょうしゅうばつ」、「薩摩さつまばつ」として、日本にっぽん政治せいじ多大ただいなる影響えいきょうあたえることとなります。

薩摩さつまはん(さつまはん)

島原しまばらはん(しまばらはん)

島原藩(しまばらはん)

島原しまばらはんは、肥前ひぜんこく島原しまばら周辺しゅうへん統治とうちしたはんであり、初期しょき豊臣とよとみ政権せいけん密接みっせつ関係かんけいった「にち野江のえじょう」にはんちょうかれていました。

戦国せんごく大名だいみょうでキリシタン大名だいみょうとしても有名ゆうめいだった「有馬ありま晴信はるのぶ」(ありまはるのぶ)がおさめていましたが、1612ねん慶長けいちょう17ねん)、キリスト禁教きんきょうれい一因いちいんともなる「岡本おかもと大八だいはち事件じけん」により、甲斐かいこく幽閉ゆうへいうえ切腹せっぷくしょされます。そののち、嫡男ちゃくなん直純なおずみ」が家督かとくぎましたが、1614ねん慶長けいちょう19ねん)に日向ひなたこくてんふうとなりました。

1616ねん元和がんわ2ねん)、有馬ありまわり、島原しまばらはいった「松倉まつくら重政しげまさ」が、手狭てぜまとなったにち野江のえじょうから島原しまばら居城きょじょううつすため築城ちくじょう開始かいしし、1624ねん寛永かんえい元年がんねん)に島原しまばらじょう完成かんせい

3まん7,000にん蜂起ほうきした日本にっぽん最大さいだい農民のうみん一揆いっきである「島原しまばららん」。その首謀しゅぼうしゃ天草あまくさ四郎しろう」のはあまりに有名ゆうめいですが、出自しゅつじさだかではありません。かれはあるしゅのカリスマせいち、幕府ばくふがわしろ侵入しんにゅうしようとったあなんだり、年貢ねんぐてをらしたりという懐柔かいじゅう手紙てがみたいし、饅頭まんじゅう果物くだものおくかえすことで食料しょくりょう余裕よゆうしめし、降伏ごうぶくしないつたえるなど、その戦略せんりゃく心理しんりてきたたかいは巧妙こうみょうでした。

島原城

島原しまばらじょう

一部いちぶでは、天草あまくさ四郎しろうは「豊臣とよとみ秀頼ひでより」の息子むすこであったというせつ根強ねづよくあり、天草あまくさ四郎しろう所持しょじしていたひょうたんの馬印うまじるしが、秀頼ひでよりもの一致いっちすることなどがその根拠こんきょとなっています。

しかし、現在げんざいでは、益田ますだせいであったことから、小西こにし行長ゆきなが家臣かしん益田ますだ甚兵衛じんべえ」のというせつ有力ゆうりょくです。

さらに、島原しまばららんでは一人ひとり内通ないつうしゃのぞいて城内じょうないもの皆殺みなごろしにされたとわれていますが、天草あまくさ四郎しろうしろ地下ちか通路つうろからうみげおおせ、フィリピンでびたとわれる伝説でんせつもあります。

幕府ばくふ記録きろくには「天草あまくさ四郎しろうくび原城はらのじょうさんまる大手おおて門前もんぜん長崎ながさき出島でじま正面しょうめん口前くちまえにさらした」とありますが、肝心かんじん幕府ばくふは、そのかお把握はあくしていませんでした。どう記録きろくにはまた、城内きうち天草あまくさ四郎しろうと「背格好せいかっこう少年しょうねんくび複数ふくすうあつまった」とあり、人質ひとじちとなっていた天草あまくさ四郎しろうはは・マルタにそれらをせ、彼女かのじょがある生首なまくびくずれたのをよんろうくび断定だんていしたとわれています。

天草四郎

天草あまくさ四郎しろう

しかし、マルタはのちに「四郎しろう南蛮なんばんかルソン(フィリピン)にげた」ともはなしていることから、生首なまくびくずれたのは息子むすこげたことをかくとお演技えんぎだったともかんがえられるのです。

この「くび複数ふくすうせつ」から、天草あまくさ四郎しろう実在じつざいした特定とくてい人物じんぶつではなく、らん首謀しゅぼうした大人おとなたちがでっちあげたというせつもあります。まさに島原しまばらは、近世きんせいでありながら、「聖徳太子しょうとくたいしみになぞふか人物じんぶつ輩出はいしゅつしたなのです。

そして、島原しまばららんは、徳川とくがわ譜代ふだい大名だいみょうおさめ、幕末ばくまつむかえることとなりました。

島原しまばらはん(しまばらはん)

高瀬たかせはん(たかせはん)

高瀬藩(たかせはん)

もとは「熊本くまもと新田にったはん」(くまもとしんでんはん)とばれ、細川ほそかわおさめる「熊本くまもとはん」(くまもとはん:現在げんざい熊本くまもとけん)のささえはんでした。

細川ほそかわ本姓ほんせいみなもとであり、清和せいわはじめ名門めいもん足利あしかが支流しりゅうです。南北なんぼくあさ時代じだいには「足利尊氏あしかがたかうじ」にしたがって発展はってんし、室町むろまち幕府ばくふ管領かんりょうれっする有力ゆうりょく守護しゅご大名だいみょうでもありました。祖先そせんをたどれば、「応仁おうにんらん」でひがしぐんそう大将たいしょうつとめた「細川ほそかわ勝元かつもと」(ほそかわかつもと)もいます。

熊本くまもとはん2だい藩主はんしゅ細川ほそかわ光利みつとし」(ほそかわみつとし)の次男じなん細川ほそかわ利重とししげ」(ほそかわとししげ)が、1666ねん寛文ひろふみ6ねん)に、熊本くまもと藩主はんしゅだったあにつなねん」(つなとし)から3まん5,000せき分与ぶんよされてたてはん

たてはんとはいえ知行ちぎょうたない、江戸えど創設そうせつされた熊本くまもとはんささえはんでした。そのため、みつぎ(こうそ)は熊本くまもとはん代行だいこうしており、参勤交代さんきんこうたいおこなわず、藩主はんしゅ家臣かしん江戸えど常駐じょうちゅうする「定府じょうふ大名だいみょう」だったのです。

初代しょだい藩主はんしゅである利重とししげは、江戸えど郊外こうがい現在げんざい戸越とごし公園こうえん周辺しゅうへん領地りょうち下屋敷しもやしきっていました。この下屋敷しもやしきない泉水せんすい水源すいげんとして、1663ねん寛文ひろふみ3ねん)、玉川上水たまがわじょうすいから屋敷やしきまで長大ちょうだい水路すいろ開削かいさく。これが「戸越とごし水路すいろ」(とごしすいろ)とばれ、現在げんざいの「戸越とごし銀座ぎんざ商店しょうてんがい」のしたながれていたとわれています。

明治維新めいじいしん動乱どうらんさなかの1868ねん明治めいじ元年がんねんはる、「鳥羽とば伏見ふしみたたか」のあとに、ほんはんである熊本くまもとはんすすめもあって、ささえはん江戸えどはらうこととなりました。

10代藩主はんしゅ利永としなが」(としなが)を筆頭ひっとうに、熊本くまもと新田にったはんいちぎょう江戸えどから肥後ひご高瀬たかぜまちうつみ、商家しょうか寺院じいん分宿ぶんしゅく。7月に玉名たまなぐん高瀬たかぜまち奉行ぶぎょう役宅やくたくかりはんちょうとし、はんめいが「高瀬たかせはん」(たかせはん:現在げんざい熊本くまもとけん)へと改称かいしょうされました。

正式せいしきはんちょうは、1870ねん明治めいじ3ねん)に、玉名たまなぐん岩崎いわさきむら建設けんせつされましたが、同年どうねん9がつ版籍はんせき奉還ほうかんさいしてはん維持いじできたものの、はんごと任命にんめいがなく、おなじく熊本くまもとはんささえはんであった「宇土うとはん」(うとはん:現在げんざい熊本くまもとけん)とともに熊本くまもとはん合併がっぺいされることとなります。そののち、藩主はんしゅ利永としなが東京とうきょう居住きょじゅう藩士はんし熊本くまもとはんへの所属しょぞくえとなり、そのため、高瀬たかせはんという名称めいしょうはわずか3ねん使用しようされただけとなりました。

しかし、やく300家族かぞく700にんが、維新いしんまえ江戸えどから移住いじゅうしてきたことの意味いみおおきく、とお九州きゅうしゅうに、当時とうじ最先端さいせんたんであった江戸えど文化ぶんかがもたらされたのですから、文化ぶんか教育きょういく成長せいちょう加速かそくしたとえます。高瀬たかせ藩校はんこうぎ、1870ねん明治めいじ3ねん)には、きゅう藩士はんしたち自主じしゅてき運営うんえいする「自明じめいどう」(じめいどう)を設立せつりつ。1872ねん明治めいじ5ねん)には学制がくせいにより、いちはや小学校しょうがっこうとしてみとめられました。

女子美術大学じょしびじゅつだいがく創立そうりつしゃで、美術びじゅつ教育きょういくとおして女子じょし社会しゃかいてき地位ちい向上こうじょうくした「横井よこい玉子たまご」や、そのおい英文えいぶん学者がくしゃの「戸川秋骨とがわしゅうこつ」(とがわしゅうこつ)をはじめ、きゅう藩士はんしとその子孫しそんからは、わがくに近代きんだい貢献こうけんした人物じんぶつ多数たすう輩出はいしゅつ玉名たまなまちにはいまきゅう藩士はんしていがあり、当時とうじ文化ぶんかのこされています。

高瀬たかせはん(たかせはん)

対馬つしま府中ふちゅうはん(つしまふちゅうはん)

対馬府中藩(つしまふちゅうはん)

1587ねん天正てんしょう15ねん)「豊臣とよとみ秀吉ひでよし」の九州きゅうしゅう征伐せいばつさい対馬つしまこく現在げんざい長崎ながさきけん)を統治とうちしていた「そう」(そううじ)は、豊臣とよとみ政権せいけんへの臣従しんじゅうをいちはやめたことで、本領ほんりょう安堵あんどされます。

1590ねん天正てんしょう18ねん)に、初代しょだい藩主はんしゅ宗義しゅうぎさとし」(そうよしとし)がしたがえよん侍従じじゅう(じゅしいげじじゅう)対馬つしまもり(つしまのかみ)ににんぜられました。

以降いこう幕末ばくまつまでそう支配しはいとなったのが「対馬つしま府中ふちゅうはん」(つしまふちゅうはん:現在げんざい長崎ながさきけんおよ佐賀さがけん)なのです。

長崎ながさき離島りとう対馬つしま」。歴史れきしてきに、朝鮮半島ちょうせんはんとうとのかかわりはふかく、現在げんざい観光かんこうきゃくおおくが韓国かんこくじんです。

対馬つしま朝鮮半島ちょうせんはんとうがもっとも交流こうりゅうふかかったのが江戸えど時代じだい秀吉ひでよしの「朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい」のあと、断絶だんぜつしていたにちちょう国交こっこう回復かいふくするために、江戸えど幕府ばくふ朝鮮ちょうせんがわに「通信使つうしんし」の派遣はけん打診だしんし、朝鮮ちょうせんもこれを了承りょうしょうしたことで、交流こうりゅうさいスタートします。その通信使つうしんしを、日本にっぽん出迎でむかえるとなったのが、たいうまであり、その最高さいこう責任せきにんしゃ藩主はんしゅ宗家そうけでした。

現在げんざい韓国かんこく教科書きょうかしょでは、「日本にっぽん朝鮮ちょうせんすすんだ文物ぶんぶつもとめて、通信使つうしんし派遣はけん要請ようせいしてきた」と自民じみんぞくたいにち優位ゆういせい強調きょうちょうしていますが、実態じったい江戸えど幕府ばくふへの朝貢ちょうこう(ちょうこう:外国がいこくじん来朝らいちょうして、朝廷ちょうてい貢物みつぎものげること)の意味合いみあいがつよかったようです。

将軍しょうぐん代替だいがわりごとに通信使つうしんし来日らいにちしているところをても、それはあきらかでしょう。そもそも、通信使つうしんしとは、後世こうせい歴史れきし学術がくじゅつ用語ようごとして定着ていちゃくさせた言葉ことばであり、江戸えど幕府ばくふかれらを「朝鮮ちょうせんらい聘使」(ちょうせんらいへんし)とんでいました。「らい聘使」とは、「みつものってくる使者ししゃ」という意味いみです。

金石城跡

金石かねいし城跡じょうせき

通信使つうしんし自体じたいは、その行動こうどうても「すすんだ文物ぶんぶつはこんでくる紳士しんし」とはとてもがた人物じんぶつでした。

ロウソクをもの間違まちがってべてしまったり(つまり、朝鮮ちょうせんにはロウソクがかったということ)、町人ちょうにんにわとりぬすんで喧嘩けんかになったり、あるいは宿やどかべ鼻汁はなしるける、階段かいだん排便はいべんする、女中じょちゅうはらませるなど、かれらの狼藉ろうぜき(ろうぜき)の記録きろく日本にっぽん各地かくちのこっています。

随行ずいこうまちやくたしていた府中ふちゅう対馬つしまはん役人やくにんも、かれらの「お行儀ぎょうぎ」にはおおいにいたようです。季節外きせつはずれの野菜やさい料理りょうり所望しょもうするので、それをことわると、通信使つうしんしからつばきかけられた対馬つしま藩士はんしもいたといます。

1764ねん明和めいわ元年がんねん)には、いわれなき打擲ちょうちゃく(ちょうちゃく:なぐること)に堪忍袋かんにんぶくろいとぐちれた通訳つうやくやく鈴木すずき伝蔵でんぞう」が通信使つうしんしちぇたかしたかし」(チェ・チョンジュン)をやり刺殺しさつする事件じけんこりました。

朝鮮ちょうせんがわとしては、だい11朝鮮ちょうせん通信使つうしんし一員いちいんとして来日らいにちした「きむひとしけん」(キム・インギョム)の旅行りょこう日東にっとうたけしゆう」がだい1きゅう記録きろくとなっています。このなかきむひとしけんは、たびたび倭人わじん(わじん:日本人にっぽんじん)を「いぬにもひとしいやから」とさげすみながらも、大坂おおさか京都きょうと江戸えど街並まちなみのきらびやかさに感嘆かんたんし、物欲ものほしそうなながめまわる姿すがたかくそうとしません。

現代げんだい韓国かんこくじん日本にっぽんたいする屈折くっせつした視点してんそうつうずるものえ、興味深きょうみぶか記録きろくとなっています。なお、だい12通信使つうしんしは、対馬つしまきとなったため、江戸えど来往らいおうした通信使つうしんしは、きむひとしけんだい11最後さいごです。

1871ねん明治めいじ4ねん)、「廃藩置県はいはんちけん」によって「厳原ごんばらけん」(いづはらけん)となり、対馬つしまこく消滅しょうめつ

また、1884ねん明治めいじ17ねん)に、宗家そうけ16だい当主とうしゅ宗義しゅうぎたち」(そうよしあきら)は、朝鮮ちょうせん外交がいこう担当たんとうしゃとしての功績こうせきかんがみられ、伯爵はくしゃく叙任じょにんされました。

対馬つしま府中ふちゅうはん(つしまふちゅうはん)

人吉ひとよしはん(ひとよしはん)

人吉藩(ひとよしはん)

みなもと頼朝よりとも」(みなもとのよりとも)に、肥後ひご球磨くまぐん人吉ひとよし(ひごくまぐんひとよし)の領有りょうゆうみとめられて以来いらい豪族ごうぞく相良さがらおさめた地域ちいき

戦国せんごく時代じだいは、島津しまつ傘下さんかはいって乱世らんせいをかいくぐります。初代しょだい藩主はんしゅとなる「相良さがらちょうごと」(さがらながつね)は、「関ヶ原せきがはらたたか」で西にしぐんいたものの、老臣ろうしんいぬわらわよりゆきけい」(いんどうよりもり)がひがしぐん内通ないつうやくしたおかげで、無事ぶじ2まん2,000せき所領しょりょう安堵あんどされてたてはんしました。この「人吉ひとよしはん」(ひとよしはん:現在げんざい熊本くまもとけん)は、「相良さがらはん」(さがらはん)ともいます。

たてはん貢献こうけんしたいぬわらわよりゆきけい相良さがらせいさずかるも、次第しだい横暴おうぼうなふるまいをかさねるようになりました。2だい藩主はんしゅよりゆきひろし」(よりひろ)によってよりゆきけい幕府ばくふうったえられ、「小田原おだわらはん」(おだわらはん:現在げんざい神奈川かながわけん)へおくられることになります。一方いっぽうよりゆきけい養子ようしよりゆきあきら」(よりまさ)は義父ぎふ処分しょぶんって、藩主はんしゅからの使つかいをころしたうえ、一族いちぞくとも屋敷やしきもって藩主はんしゅがわ抗戦こうせん一族いちぞく全員ぜんいん121めい戦死せんし、または自害じがいするという「おしもらん」(おしものらん)をこします。

人吉城跡(石垣)

人吉ひとよし城跡じょうせき石垣いしがき

また、藩主はんしゅがらみではありませんがこの4ねんに、300せきりの上士じょうし村上むらかみあらわ」(むらかみあきたけ)一族いちぞく先祖せんぞ供養くよう法要ほうように、あらわ養子ようしとそのあに乱入らんにゅう一族いちぞくやく70めい惨殺ざんさつする「村上むらかみ一族いちぞく鏖殺おうさつ事件じけん」(むらかみいちぞくおうさつじけん)もきました。

さらに、8だい藩主はんしゅよりゆきひさし」(よりひさ)が、先代せんだいよりゆきみね」(よりみね)時代じだい水害すいがいによる藩政はんせい逼迫ひっぱくのあおりをけて、鉄砲てっぽう暗殺あんさつされるという前代未聞ぜんだいみもん事件じけん発生はっせい。しかし、からとお九州きゅうしゅう山中さんちゅう出来事できごとであったため、銃殺じゅうさつってもどものたけ鉄砲てっぽうであったとされ、おいえつぶしをまぬかれ、秋月しゅうげつから養子ようしむかえて存続そんぞくしていきます。

そのも、椎茸しいたけやま入山にゅうざんけんをめぐり1841ねん天保てんぽう12ねん)にこった「たけやま騒動そうどう」や、幕末ばくまつには勤王きんのう佐幕さばく洋式ようしき対立たいりつした1865ねん慶応けいおう元年がんねん)の「うしとし騒動そうどう」(うしのとしそうどう)と、騒動そうどうえないはんでした。

最後さいご藩主はんしゅとなる15だい相良さがらよりゆきもと」(さがらよりもと)は、「薩摩さつまはん」(さつまはん:現在げんざい鹿児島かごしまけん)とともに「会津あいづはん」(あいづはん:現在げんざい福島ふくしまけんめにくわわり、1869ねん明治めいじ2ねん)、版籍はんせき奉還ほうかんによりはん知事ちじとなります。

人吉ひとよしはん(ひとよしはん)

福岡ふくおかはん(ふくおかはん)

福岡藩(ふくおかはん)

1600ねん慶長けいちょう5ねん)の「関ヶ原せきがはらたたか」の功績こうせきにより、52まん3,000せき筑前ちくぜん(ちくぜん:現在げんざい福岡ふくおかけん北西ほくせいいちこくあたえられ、「中津なかつはん」(なかつはん:現在げんざい大分おおいたけん中津なかつ)よりうつった「黒田くろだ長政ながまさ」(くろだながまさ)を初代しょだい藩主はんしゅとして、「福岡ふくおかはん」(ふくおかはん:現在げんざい福岡ふくおかけん福岡ふくおか)がたてはんとなりました。

福岡ふくおかはんは「黒田くろだはん」(くろだはん)ともばれ、「福島ふくしま正則まさのり」(ふくしままさのり)からされただいさかずき福岡ふくおか藩士はんし母里もり友信とものぶ」(もりとものぶ)がし、「天下てんかさんめいやり」のひとつ「日本にっぽんごう」(にほんごう)をったという逸話いつわうたった「黒田くろだたかし」(くろだぶし)でも有名ゆうめいはんです。

2だい藩主はんしゅ忠之ただゆき(ただゆき)のとき、「伊達だて騒動そうどう」、「加賀かが騒動そうどう」とならび、「江戸えど3だいいえ騒動そうどう」にかぞえられる「黒田くろだ騒動そうどう」が勃発ぼっぱつ長男ちょうなんである忠之ただゆき資質ししつ疑問ぎもんした長政ながまさが、3なんちょうきょう(ながおき)に家督かとくゆずることを決意けついし、そのむねいた書状しょじょう忠之ただゆきおくりました。

すると、忠之ただゆき後見人こうけんにんであった「栗山くりやま大膳だいぜん利章としあき」(くりやまだいぜん/としあきら)が、ちち栗山くりやま善助ぜんすけとぎやす」(くりやまぜんすけ/としやす)とともに、一時いちじ長政ながまさいさめます。しかし、長政ながまさきあとの1632ねん寛永かんえい9ねん)にだいぜんは、忠之ただゆき疎遠そえんになるさい幕府ばくふにそむく意志いしのない忠之ただゆきかんして、「謀反むほんきざしあり」という虚偽きょぎ書状しょじょうを「江戸城えどじょう」へおくけたのです。

福岡城の「下之橋御門」

福岡ふくおかじょうの「下之したのきょう御門みかど

この事件じけん江戸えど歌舞伎かぶきでも上演じょうえんされ、「もり鴎外おうがい」(もりおうがい)も短編たんぺん小説しょうせつにし、日活にっかつ映画えいがにもなっています。この栗山くりやま大膳だいぜんをモデルにした舞台ぶたい映画えいが内容ないようは、大膳だいぜんをかばう美談びだん仕立したてられたもの。

黒田くろだ忠之ただゆき」は臣下しんか意見いけんかず、新参しんざんしゃの「くらはちじゅう太夫たゆう」(くらはちじゅうだゆう)を重用じゅうようし、禁制きんせいになっていた造船ぞうせんおこなうなど専横せんおう(せんおう:横暴おうぼう勝手かって振舞ふるまうこと)をくしたため、福岡ふくおかはんそのものが幕府ばくふからつぶしにされるおそれがありました。そこで先代せんだいからの忠臣ちゅうしん栗山くりやまだいぜんは、自身じしんつみこうむることで忠之ただゆき失政しっせい隠蔽いんぺいし、黒田くろだすくったのだとえがかれているのです。

結果けっか大膳だいぜんは「盛岡もりおかはん」(もりおかはん:現在げんざい岩手いわてけん盛岡もりおか。「南部なんぶはん」[なんぶはん]とも)へ配流はいるとなりましたが、「罪人ざいにんあつかいされることなく、生涯しょうがい150にん扶持ふちあたえられた」と、伝記でんきにものこっています。

しかし、忠之ただゆき祖父そふ官兵衛かんべえ(かんべえ)や長政ながまさ苦労くろうらない温室おんしつそだちの御曹司おんぞうしとはえ、その子孫しそんである忠之ただゆき横暴おうぼう無能むのうであったとは、やはり創作そうさく産物さんぶつです。

文豪ぶんごうもり鴎外おうがい著作ちょさくけば、忠之ただゆきについて、「生得しょうとく(しょうとく:まれつき)聡明そうめいひとだけに、老臣ろうしんとう掣肘せいちゅう(せいちゅう:わきから他人たにん干渉かんしょうして、自由じゆう行動こうどう妨害ぼうがいすること)せられずに、獨力どくりょく(どくりょく:自分じぶんひとりだけのちから)で國政こくせいさばいてたかった」(「栗山くりやま大膳だいぜん」[「もり鴎外おうがい全集ぜんしゅうだいよんかん筑摩書房ちくましょぼう・1959年刊ねんかん)」より])と類推るいすい可能かのう事実じじつ大膳だいぜんったあとは、忠之ただゆき善政ぜんせいおこなったとされています。

1870ねん明治めいじ3ねん)には、「松方まつかた正義まさよし」(まつかたまさよし)が福岡ふくおか藩士はんしによる太政官だじょうかんさつ偽造ぎぞう事件じけん告発こくはつ。その明治めいじ政府せいふによる調査ちょうさ結果けっか、12だい藩主はんしゅであった「黒田くろだちょう」(くろだながとも)が、はんごと解任かいにんされました。

このさいせしめとして事件じけんにかかわっただい参事さんじの「立花たちばな増美ますみ」(たちばなますみ)と「矢野やの安雄やすお」(やのやすお)、けんだい参事さんじ小河おがわあい四郎しろう」(おごう/おがわあいしろう)、しょう参事さんじの「徳永とくながひと」(とくながおりと)と「三隅みすみつたえはち」(みすみでんぱち)の5めい実行じっこうはんとして処刑しょけい。そして、10にん以上いじょう閉門へいもん流罪るざいなどのけいされているのです。

また、この事件じけんにより、薩摩さつま藩士はんしであった松方まつかた正義まさよしは、明治めいじ政府せいふ出世しゅっせ街道かいどうすすみ、だい4だいだい6だい総理そうり大臣だいじん歴任れきにんしています。

1884ねん明治めいじ17ねん)、ちょうとも黒田くろだ長成ちょうせい」(くろだながしげ)は「華族かぞくれい」(かぞくれい)により侯爵こうしゃくとなり、華族かぞくれつしました。

福岡ふくおかはん(ふくおかはん)

府内ふないはん(ふないはん)

府内藩(ふないはん)

豊後ぶんご府内ふない(ぶんごふない:現在げんざい大分おおいたけん大分おおいた)は、鎌倉かまくら時代じだいより豊後ぶんごこくをおさめた守護しゅご大名だいみょう大友おおとも支配しはいするでした。

大友おおともは、三上山みかみやまだい百足むかで(おおむかで)退治たいじ、そして「平将門たいらのまさかど」(たいらのまさかど)をった、有名ゆうめいな「たわら藤太とうた」(たわらのとうた)こと、「藤原ふじわらしげるきょう」(ふじわらのひでさと)のながれをむとわれています。

キリシタン大名だいみょうとしても有名ゆうめいな、大友おおとも21だい当主とうしゅ大友おおとも義鎮よししげ宗麟そうりん)」(おおともよししげ[そうりん])の時代じだいには、九州きゅうしゅう6ヵ国かこく支配しはいするだい大名だいみょうとなりました。しかし、その勢力せいりょく拡大かくだいする島津しまつやぶれ、「豊臣とよとみ秀吉ひでよし」の庇護ひごたより、豊後ぶんごいちこくおさめるにとどまります。

義鎮よししげ嫡男ちゃくなん大友おおとも22だい当主とうしゅ義統よしむね」(よしむね)のだい、1593ねんぶんろく2ねん)の「ぶんろくやく」にて、救援きゅうえん要請ようせいした「小西こにし行長ゆきなが」(こにしゆきなが)ぐん見捨みすてたというつみで、秀吉ひでよし逆鱗げきりんれ、領地りょうち没収ぼっしゅう

その秀吉ひでよし配下はいかによる統治とうちて、1600ねん慶長けいちょう5ねん)の「関ヶ原せきがはらたたか」において、西にしぐんくみしながら最終さいしゅうてきひがしぐん寝返ねがえり、ひがしぐん勝利しょうり貢献こうけんしたとしょうされた「竹中たけなか重利しげとし」(たけなかしげとし)が、豊後高田ぶんごたかだ1まんせきから、府内ふない2まんせき加増かぞうされたてはんすることとなります。

竹中たけなか重利しげとしは、秀吉ひでよし配下はいか軍師ぐんしつとめた「竹中たけなか半兵衛はんべえ重治しげはる」(たけなかはんべえしげはる)の親族しんぞくです。また、竹中たけなか半兵衛はんべえは「黒田くろだ官兵衛かんべえ」(くろだかんべえ)と、羽柴はしば麾下きか(はしばきか)の「りょう兵衛ひょうえ」としてたたえられためい軍師ぐんしでもありました。

府内城

府内ふないじょう

府内ふない竹中たけなかはん」(ふないたけなかはん:現在げんざい大分おおいたけん)2だい藩主はんしゅ重義しげよし」(しげよし)は、ご法度はっとであったみつ貿易ぼうえきうたがわれ、1634ねん寛永かんえい11ねん)に切腹せっぷくとなり、改易かいえき断絶だんぜつとなっています。

その、「日根野ひねの吉明よしあき」(ひねのよしあき)がはいりますが、改易かいえき跡継あとつぎがいないためいえつぶしになること)となり、わって、「松平まつだいら忠昭ただあき」(まつだいらただあき/ただてる)が、「豊後ぶんご高松たかまつはん」(ぶんごたかまつはん:現在げんざい大分おおいたけん)よりはいり、統治とうちすることとなりました。

府内ふないはん」(ふないはん:現在げんざい大分おおいたけん)5だい藩主はんしゅきんかたち」(ちかのり)の時代じだいちちである4だい藩主はんしゅきんさだ」(ちかさだ)のだい破綻はたんした財政ざいせいなおすため、倹約けんやくれいはっし、産業さんぎょう奨励しょうれい藩札はんさつ発行はっこうなど、藩政はんせい改革かいかく断行だんこうしましたが、だい洪水こうずいだい地震じしんつづき、幕府ばくふとの道路どうろ問題もんだいでの逼塞ひっそく処分しょぶんもんざして昼間ひるま出入でいりをゆるさない、武士ぶしへの刑罰けいばつのひとつ)もあり失敗しっぱいしています。

ぜにびんとうげ」(ぜにがめとうげ)とばれている鳴川なるかわたにが、天領てんりょう幕府ばくふ直轄ちょっかつ)である赤松あかまつむらと、府内ふないはん田野浦たのうらむらとの境目さかいめにありました。

1761ねんたかられき11ねん)、府内ふないはん人夫にんぷ境界きょうかいみち掃除そうじにとりかかろうとしたとき、天領てんりょうがわ農民のうみんおそいかかり、道造みちぞう奉行ぶぎょう武士ぶし4めい丸腰まるごしにして、赤松あかまつの「松音まつねてら」(しょうおんじ)へ監禁かんきんするという事件じけんぜにびんせき騒動そうどう)がこります。府内ふない藩主はんしゅ参勤さんきんちゅうだったこともあり、西国さいごく郡代ぐんだい(さいこくぐんだい:幕府ばくふ代官だいかん)が、この騒動そうどう天領てんりょうわたしりょうあらそいとして勘定かんじょう奉行ぶぎょう報告ほうこく江戸えど奉行ぶぎょううつされだい事件じけんとなりました。

道普請みちぶしん(みちぶしん:みちづくり)に参加さんかした庄屋しょうや組頭くみがしら農民のうみんほか証人しょうにんとして近郷きんごう農民のうみんまでもが江戸えどされ調査ちょうさけます。府内ふないはん農民のうみんたちは、天領てんりょう赤松あかまつがわ鉄砲てっぽうったことなどをうったえましたが、禁制きんせいとなっている鉄砲てっぽうしについて天領てんりょう赤松あかまつがわくちるわけがなく、きびしい調査ちょうさつづきました。

最終さいしゅうてき評定ひょうじょうしょは、天領てんりょう赤松あかまつがわがあるとし、主犯しゅはんかく8めい島流しまながし、もの手鎖てじょう手錠てじょうをかけられたまま30~100にちごす)など、きびしいけいとなったのですが、被害ひがいしゃとなるはずの府内ふないはんがわも、5だい藩主はんしゅ松平まつだいらきんかたち逼塞ひっそく(ひっそく:夜間やかんせまもんからの目立めだたぬ出入でいりのみゆるされる軟禁なんきんけい)、家老がろうしかけるなどの「両成敗りょうせいばい」となったのです。

府内ふないはん(ふないはん)

柳河やなかわはん(やながわはん)

柳河藩(やながわはん)

柳河やなかわ(やながわ:「柳川やながわ」とも)地域ちいきは、現在げんざい福岡ふくおかけん柳川やないごであり、同地どうち鎌倉かまくら時代じだいより戦国せんごく時代じだい末期まっきまで、筑後ちくご屈指くっしぞくともわれた「蒲池かまち」(かまちし)のおさめる領地りょうちでした。

戦国せんごく時代じだいには、一時期いちじき没落ぼつらく寸前すんぜんであり、蒲池かまち庇護ひごしたこともある「龍造寺りゅうぞうじ」(りゅうぞうじし:「竜造寺りゅうぞうじ」とも)の「龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶ」(りゅうぞうじたかのぶ)が勢力せいりょく拡大かくだいし、蒲池かまち17だい当主とうしゅ蒲池かまち鎮漣」(かまちしげなみ)がだまちにされています。

しかし、1584ねん天正てんしょう12ねん)の「沖田おきたなわてたたかい」(おきたなわてのたたかい)で、「島津しまつ」(しまづし)にやぶれた龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶ死亡しぼう。そのは、龍造寺りゅうぞうじ家老がろうであった「鍋島なべしまただししげる」(なべしまなおしげ)が「豊臣とよとみ秀吉ひでよし」の傘下さんかはいり、龍造寺りゅうぞうじ同地どうちでの支配しはいけん継承けいしょうしていったのです。

柳河やなかわはん」は、もとは蒲池かまち龍造寺りゅうぞうじおさめた土地とちでしたが、豊臣とよとみ秀吉ひでよし九州きゅうしゅう征伐せいばつは、戦功せんこうのあった名将めいしょう立花たちばな宗茂むねしげ」(たちばなむねしげ)が、筑後ちくごこく(ちくごのくに:現在げんざい福岡ふくおかけん南西なんせい)4ぐん13まん2,000せきあたえられました。

関ヶ原せきがはらたたか」で西にしぐんぞくしたため立花りっかじょふうされ、わりに「石田いしだ三成みつなり」(いしだみつなり)をとらえた軍功ぐんこうげた「田中たなか吉政よしまさ」(たなかよしまさ)が32まん5,000せきあたえられて、筑後ちくご全域ぜんいき所領しょりょう

ところが、田中たなかは2だい跡継あとつぎが途切とぎ断絶だんぜつ。1620ねん元和がんわ6ねん)、じつに20ねんぶりに、かつて西にしぐんぞくしたせめかれた立花たちばな宗茂むねしげがこのかえき、田中たなか家時いえときだい半分はんぶん以下いかの10まん9,000せきではありましたが、筑後ちくご南部なんぶりょうしていだのです。

田中たなか時代じだいのこりの所領しょりょうは、「有馬ありまゆたか」(ありまとようじ)が「久留くるべいはん」(くるめはん:現在げんざい福岡ふくおかけん久留米くるめ)を、また、そうしげるおいの「種次たなつぎ」(たねつぐ)が1まんせきあたえられ、「三池みいけはん」(みいけはん:現在げんざい福岡ふくおかけん大牟田おおむた)をだてはんしてさんふんされました。

本家ほんけとなる柳河やなかわはん明治維新めいじいしんまで、立花たちばなが12だいにわたってこの支配しはい柳河やなかわはん最後さいご藩主はんしゅかんひろし」(あきとも)は、家老がろうに「立花たちばな壱岐いき」(いき)を登用とうようし、「安政あんせい改革かいかく」(あんせいのかいかく)で財政ざいせい再建さいけんくしたのです。

立花りっかは、1869ねん明治めいじ2ねん)の「戊辰戦争ぼしんせんそう」(ぼしんせんそう)でも軍功ぐんこうがあり、明治めいじ政府せいふから5,000せきあたえられ、廃藩置県はいはんちけん華族かぞくとしてつづきました。

藩主はんしゅ邸宅ていたくは、現在げんざい料亭りょうてい旅館りょかんはな」(おはな)として、景観けいかん庭園ていえん見渡みわたすレストランや宿泊しゅくはく施設しせつとなっています。「立花りっか史料しりょうかん」も敷地しきちないにあり、400ねんまえ藩主はんしゅらしを彷彿ほうふつとさせる文化財ぶんかざいにふれることが可能かのうです。

柳河やなかわはん(やながわはん)

注目ちゅうもくワード
注目ちゅうもくワード