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【刀剣ワールド】関西地方の藩「大和郡山藩」(やまとこおりやまはん)
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関西かんさい地方ちほうはん

大和郡山やまとこおりやまはん(やまとこおりやまはん)[奈良ならけん]

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260ねんつづいた江戸えど時代じだいにおいて、やく300ちかくのはん全国ぜんこく各地かくち存在そんざいしていました。
ここでは、おも江戸えど100はんのひとつである関西かんさい地方ちほうの「大和郡山やまとこおりやまはん」(やまとこおりやまはん)について、石高こくだか居城きょじょう藩主はんしゅといったはん概要がいよう歴史れきし治世ちせいなどのエピソードをまじえて解説かいせつします。

大和郡山やまとこおりやまはん概要がいよう歴史れきし

柳沢家

柳沢やなぎさわ
家紋かもん
いし だか きゅう くに きょ じょう はん ぬし
15.1まんせき 大和やまとこく
奈良ならけん
郡山こおりやましろ 柳沢やなぎさわ
はん歴史れきし
歴代れきだい藩主はんしゅ 歴代れきだい当主とうしゅめい いし だか 大名だいみょう分類ぶんるい
1. 水野みずの

水野みずの勝成かつなり

6まんせき 譜代ふだい
2. 松平まつだいら奥平おくだいら

松平まつだいら忠明ただあき

12まんせき 譜代ふだい
3. 本多ほんだ

本多ほんだ政勝まさかつ
本多ほんだ政長まさなが
本多ほんだ忠国ただくに
本多ほんだ政利まさとし
本多ほんだ政信まさのぶ
本多ほんだ忠英ただひで

12まんせき 譜代ふだい
4. 松平まつだいら藤井ふじい

松平まつだいら信之のぶゆき

12まんせき 譜代ふだい
5. 本多ほんだ

本多ほんだ忠平ちゅうへい
本多ほんだ忠常ただつね
本多ほんだ忠直ただなお
本多ほんだただしむら
本多ほんだただしれつ

5まんせき 譜代ふだい
6. 柳沢やぎさわ

柳沢やなぎさわ吉里よしさと
柳沢やなぎさわしんおおとり
柳沢やなぎさわ保光やすみつ
柳沢やなぎさわたもつやすし
柳沢やなぎさわたもつきょう
柳沢やなぎさわたもつさる

15.1まんせき 譜代ふだい

300ねんつづ金魚きんぎょ城下町じょうかまち領主りょうしゅ趣味しゅみから一大いちだい地場じば産業さんぎょう

300年続く金魚の城下町、領主の趣味から一大地場産業へ

戦国せんごく大和やまとこく(やまとのくに:現在げんざい奈良ならけん)は、寺社じしゃ勢力せいりょく豪族ごうぞく割拠かっきょする混沌こんとん状態じょうたい

そのなかから、室町むろまち時代じだいには、摂津せっつこく(せっつのくに:現在げんざい大阪おおさか)の守護しゅごだいであり、一時いちじは「三好みよし政権せいけん」(みよしせいけん)ともうべき勢力せいりょくほこった「三好みよし長慶ちょうけい」(みよしながよし)や、その配下はいかでもあり、のちに「織田おだ信長のぶなが」に寝返ねがえった「松永まつなが久秀ひさひで」(まつながひさひで)が勢力せいりょくたもっていました。

その、もとは興福寺こうふくじ一条院いちじょういんぞくする有力ゆうりょく衆徒しゅとであった「筒井つつい順慶じゅんけい」(つついじゅんけい)が「郡山こおりやましろ」(こおりやまじょう:現在げんざい奈良ならけん大和郡山やまとこおりやま城主じょうしゅとして、支配しはいしています。

1615ねん慶長けいちょう20ねん)、「大坂おおさかじん」の功績こうせきにより、三河そうごこく刈谷かりやはん」(かりやはん:現在げんざい愛知あいちけん)から「水野みずの勝成かつなり」(みずのかつなり)が6まんせきうつされ、大和郡山やまとこおりやまはん(やまとこおりやまはん:現在げんざい奈良ならけん)がたてはんとなりました。

現在げんざい奈良ならけん大和郡山やまとこおりやまは、金魚きんぎょまち。マンホールから道案内みちあんないばん絵柄えがらまで、金魚きんぎょのマスコットだらけです。金魚きんぎょ資料しりょうかん金魚きんぎょカフェ、金魚きんぎょ自動じどう販売はんばいきわめつけは、ふる電話でんわボックスを利用りようした金魚きんぎょ水槽すいそうです。かつては、ガラス張がらすばりの電話でんわボックスにみずり、そこにすう100ひき本物ほんもの金魚きんぎょおよがせている光景こうけいることができました。

郡山城

郡山こおりやましろ

大和郡山やまとこおりやまは、現在げんざい国内こくないだいほこ金魚きんぎょ生産せいさん夜店よみせ金魚きんぎょすくいようちいさい金魚きんぎょから1ひきすう10まんえん高級こうきゅうかん賞用しょうようまで、そのかずは、年間ねんかん生産せいさんりょう6,000まんひきほこります。

このにおける金魚きんぎょ養殖ようしょく由来ゆらいは、1724ねんとおる9ねん)、甲府こうふはん2だい藩主はんしゅ柳澤やなぎさわ吉里よしさと」(やなぎさわよしさと)が国替くにがえで大和郡山やまとこおりやまり、どうはん藩主はんしゅとなったことです。吉里よしさとは、5だい将軍しょうぐん綱吉つなよし寵愛ちょうあい一身いっしんけた幕府ばくふ側用人そばようにん柳澤やなぎさわ吉保よしやす」(やなぎさわよしやす)の長男ちょうなんでした。

甲府こうふはんにいたときも、用水ようすい整備せいびなどすすむ農政のうせいさく数々かずかず名君めいくんわれた吉里よしさとは、部類ぶるい金魚きんぎょき。大和やまとみずゆたかさにくわえ、水利すいりめぐまれた農業のうぎょうよう溜池ためいけおおさに着目ちゃくもくした吉里よしさとは、さっそく城下じょうか金魚きんぎょづくりを推奨すいしょうしたといます。溜池ためいけみずに、金魚きんぎょ養殖ようしょくかせない各種かくしゅミジンコが豊富ほうふ発生はっせいしていることもになりました。また、大和郡山やまとこおりやまのもうひとつの名物めいぶつであるすうまんほんの「御殿ごてんさくら」は、吉里よしさとによってうえされたものなのです。

このように、吉里よしさと土地とち土地とちにあった改革かいかくおこないました。無論むろん、そのためには、広範こうはん知識ちしきとリサーチ能力のうりょく必要ひつようとされるわけですが、そんなかれ学究がっきゅうはだいちめんは、5だい将軍しょうぐんのブレーンとしてつかえたちち柳澤やなぎさわ吉保よしやすからいだ能力のうりょくだとえます。また、吉里よしさと幼少ようしょうころから和歌わかしたしみ、生涯しょうがいんだ和歌わかは、1まんすうせんてんおよびました。さらには、たしなんだというなかなかの才人さいじんだったのです。

幕末ばくまつころになると、藩士はんし副業ふくぎょうとして、明治維新めいじいしんこうは、しょくろくうしなった藩士はんし農家のうか副業ふくぎょうとして、金魚きんぎょ養殖ようしょくはさらにさかんになります。もっとも、それも最後さいごの6だい藩主はんしゅ柳澤やなぎさわたもつさる」(やなぎさわやすのぶ)のしみない援助えんじょがあればこそでした。

さるは、「戊辰戦争ぼしんせんそう」で官軍かんぐんとして出陣しゅつじん。そのこうあって、維新いしん伯爵はくしゃくとなり、久野くのさん東照宮とうしょうぐう宮司ぐうじつとめています。また、1887ねん明治めいじ20ねん)には、「柳沢やなぎさわ養魚ようぎょ研究けんきゅうじょう」を設立せつりつし、金魚きんぎょ研究けんきゅうつとめ、同地どうち地場じば産業さんぎょう発展はってんくしました。

なお、大和郡山やまとこおりやま城址じょうしつ「柳澤やなぎさわ神社じんじゃ」には、初代しょだい藩主はんしゅ吉里よしさととそのちち吉保よしやすまつられています。

大和郡山藩

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刀剣とうけんめられた幾多いくた魅力みりょく皆様みなさまにおとどけするサイト、刀剣とうけん専門せんもんサイト・バーチャル刀剣とうけん博物館はくぶつかん刀剣とうけんワールド」。こちらのページでは「おも江戸えど100はん家紋かもんイラスト)」のひとつである「大和郡山やまとこおりやまはん」(やまとこおりやまはん)についてご紹介しょうかいします。
260ねんつづいた江戸えど時代じだいには、全国ぜんこく各地かくちやく300ちかくのはん存在そんざいしていました。「おも江戸えど100はん家紋かもんイラスト)」では、「北海道ほっかいどう東北とうほく地方ちほう」「関東かんとう甲信越こうしんえつ地方ちほう」「東海とうかい北陸ほくりく地方ちほう」「関西かんさい地方ちほう」「中国ちゅうごく四国しこく地方ちほう」「九州きゅうしゅう地方ちほう」と6つの地域ちいきごとに、それぞれの主要しゅようはんのデータやエピソードを掲載けいさいかくはん石高こくだか居城きょじょう歴代れきだい藩主はんしゅなど見所みどころ満載まんさいです。
刀剣とうけん専門せんもんサイト・バーチャル刀剣とうけん博物館はくぶつかん刀剣とうけんワールド」の掲載けいさい内容ないようは、刀剣とうけん甲冑かっちゅう基礎きそ知識ちしきをはじめ、日本にっぽんがたな歴史れきし雑学ざつがく日本にっぽんがたなにまつわる歴史れきしじん合戦かっせん名刀めいとうした名工めいこうたち紹介しょうかいなどりだくさん。日本にっぽんがたなかんする各種かくしゅアプリゲーム、刀剣とうけん・おしろ川柳せんりゅうよん文字もじ熟語じゅくごといったたのしむコンテンツも充実じゅうじつ刀剣とうけん鎧兜よろいかぶとかんする様々さまざま情報じょうほうを、あらゆる角度かくどからバーチャルの世界せかいでおたのしみいただけます。

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関西かんさい地方ちほう」のはん記事きじ


明石あかしはん(あかしはん)

明石藩(あかしはん)

江戸城えどじょう」に登城とじょうしたさい、「明石あかしはん」(あかしはん:現在げんざい兵庫ひょうごけん)がひかえた「伺候しこうせき」(しこうせき)は、御三家ごさんけひかえる「だい廊下ろうか」の次席じせきである「大広間おおひろま」であり、大名だいみょうかくとしても、国主こくしゅじゅん国主こくしゅ城主じょうしゅ城主じょうしゅかく陣屋じんやのうち、「城主じょうしゅ」であることからも、明石あかしはん徳川とくがわ幕府ばくふにおける重要じゅうようせいかります。

まくはん体制たいせい移行いこうする「関ヶ原せきがはらたたか直後ちょくご江戸えど時代じだい初期しょきには、「徳川とくがわ家康いえやす」の愛娘まなむすめとくひめ」(とくひめ)をつまむかえた「池田いけだ輝政てるまさ」(いけだてるまさ)にあたえられた「播磨はりまこく」(はりまのくに:現在げんざい兵庫ひょうごけん)1こく52まんせきなかにあり、池田いけだおさめる「姫路ひめじはん」(ひめじはん:現在げんざい兵庫ひょうごけん)の領地りょうちでした。

池田いけだをたどると「織田おだ信長のぶながきあと「清洲きよす会議かいぎ」に出席しゅっせきした4にん織田おだ家重いえしげしんのひとり「池田いけだひさしきょう」(いけだつねおき)にさかのぼります。つねきょうには数多すうた逸話いつわのこされ、なかでも家臣かしんものでありながら、そのあじみ、げたとされる名刀めいとうしのゆき」(ささのゆき)の逸話いつわ有名ゆうめいです。あまりにれるため、そのほこさき切先きっさきれるとまるでしのうえゆきれるようにれたことからそのけられたといます。ながらくつねきょう愛用あいようしましたが、「小牧こまき長久手ながくてたたか」において「永井ながいただしかち」(ながいなおかつ)にちとられうばわれてしまいました。以降いこうは、永井ながい所蔵しょぞうとなります。

明石あかしはんは1617ねん元和がんわ3ねん)、藩主はんしゅ池田いけだ利隆としたか」(いけだとしたか)がぼっすると、嫡男ちゃくなん光政みつまさ」(みつまさ)が幼少ようしょうであり藩政はんせいまかせられないと理由りゆうから、うたてふうされたのち細分さいぶんされました。この光政みつまさにも逸話いつわおおく、家康いえやすから脇差わきざしあたえられたおり、するりと脇差わきざしはなち、「これは本物ほんものじゃ」とったとのこと。家康いえやす脇差わきざしさやおさめ、下賜かししたのち側近そっきんには、光政みつまさ眼光がんこうを、ただものではないとひょうしたと逸話いつわのこされる名将めいしょうでありました。

明石城の櫓

明石あかしじょう

そののち、信濃しなの松本まつもとはん」(まつもとはん:現在げんざい長野ながのけん)より「小笠原おがさわら忠真ただざね」(おがさわらただざね)が10まんせき明石あかしはんにゅうふうされたてはんしたことにはじまります。

居城きょじょうである「明石あかししろ」は、忠真ただざね自身じしんがこれまでの地方ちほう拠点きょてんであった「船上せんじょうじょう」(ふなげじょう)をはいし、海上かいじょう交通こうつう監視かんし西国さいごく大名だいみょうにらみをきかせるために明石あかしじょう建設けんせつ明石あかしじょう城下町じょうかまちまちりにかんしては、忠真ただざね客分きゃくぶんとしてざいはんしていた「宮本みやもと武蔵むさし」(みやもとむさし)が指導しどうしたと史書ししょにものこされています。

1632ねん寛永かんえい9ねん)、忠真ただざね豊前ぶぜんこく小倉こくらはん」(こくらはん:現在げんざい福岡ふくおかけん)にてんふうとなり、そののち、戸田とだ松平まつへい、「大久保おおくぼ忠隣ただちか」(おおくぼただちか)をとする大久保おおくぼ藤井ふじい松平まつへい、「本多ほんだ忠勝ただかつ」(ほんだただかつ)をとする本多ほんだう、譜代ふだい家門かもん大名だいみょう藩主はんしゅつとめ、越前えちぜん松平まつへい藩主はんしゅころ明治維新めいじいしんむかえることとなりました。

幕末ばくまつ維新いしんには、藩主はんしゅ松平まつだいらただし致」(まつだいらただむね)が自宅じたく開放かいほうするかたちで、藩校はんこう敬義たかよしかん」(けいぎかん)を創立そうりつ。そこでは儒学じゅがくしゃ橋本はしもとかいせき」(はしもとかいかん)が1872ねん明治めいじ5ねん)に、国語こくご教師きょうし就任しゅうにんした記録きろくのこっています。

維新いしんのあと越前えちぜん松平まつへい華族かぞくれいにより、子爵ししゃく(ししゃく)ににんじられました。 

明石あかしはん(あかしはん)

赤穂あこうはん(あこうはん)

赤穂藩(あこうはん)

1615ねん元和がんわ元年がんねん)、播磨はりまいちこく太守たいしゅであった池田いけだ輝政てるまさの5なん政綱せいこう」(まさつな)が、赤穂あこうぐん周辺しゅうへんあたえられたことによりだてはん

赤穂あこうはん」(あこうはん:現在げんざい兵庫ひょうごけん)といてまずおもすのは、「元禄げんろく赤穂あこう事件じけん」として名高なだかい47り、そして名物めいぶつ天塩てしおです。

騒動そうどうのそもそもの発端ほったんは、うまでもなく「浅野内匠頭あさのたくみのかみ」(あさのたくみのかみ)の殿中でんちゅう刃傷にんじょう沙汰ざたにありますが、その原因げんいんとなる「吉良上野介きらこうずけのすけ」(きらこうずけのすけ)の内匠たくみあたまいじめの理由りゆうについては、赤穂あこうとらであるしお製法せいほう伝授でんじゅ吉良きらもとめ、内匠たくみあたまがこれをこばんだための逆恨さかうらみとせつ一部いちぶでまかりとおっています。

しかし、もともとしお製法せいほう赤穂あこうはん秘伝ひでんであったわけではなく、このしお怨恨えんこんせつはフィクションとみてほぼつかえありません。時代じだいげきスペシャルなどでよくえがかれる、上野うえのかいあん賄賂わいろ要求ようきゅうし、内匠たくみあたまがそれにおうじなかったのも根拠こんきょとしては薄弱はくじゃく諸説しょせつあるものの、真相しんそう不明ふめいというのがどうやら正解せいかいのようです。

赤穂城・本丸表門

赤穂あこうじょう本丸ほんまる表門おもてもん

忠臣蔵ちゅうしんぐら」の底本ていほんとなっているのが、人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり仮名かめい手本てほん忠臣蔵ちゅうしんぐら」(1748ねん[寛延かんえい元年がんねん]初演しょえん)ですが、じつはそれよりふるい1711ねん宝永ほうえい8ねん)に刊行かんこうされた浮世草子うきよぞうし忠義ちゅうぎ武道ぶどう播磨はりませき」では、上野うえのかい内匠たくみあたま美貌びぼう小姓こしょう恋慕れんぼしてのこい鞘当さやあて(恋敵こいがたき同士どうしあらそい)が、いじめの原因げんいんであるとしています。上野うえのかいがその小姓こしょう所望しょもうしたのを、内匠たくみあたまことわったことをってとうことらしいです。

この6ねんの1717ねんとおる2ねん)にかれた「忠義ちゅうぎ太平たいへい大全たいぜん」も同様どうよう小姓こしょう横恋慕よこれんぼせつっていました。小姓こしょう横恋慕よこれんぼが、内匠たくみあたまいじめの真相しんそうかどうかはべつとして、赤穂あこうはんが「薩摩さつまはん」(さつまはん:現在げんざい鹿児島かごしまけん)となら美童びどう産地さんちであったのは事実じじつのようです。

まず、とう内匠たくみあたま自身じしん色白いろじろ青年せいねんだったとわれ、芝居しばい映画えいが世界せかいでも、ときの美男びなん俳優はいゆうが、かれえんじるのがならいになっています。

もちろん、47にもいずれおとらぬ美童びどうがちらほら。ぱっとおもいつくのは、「愛宕山あたごやま教学きょうがくいん」(あたごやまきょうがくいん)の稚児ちごから浅野あさの小姓こしょうされることになった「磯貝いそがい十郎左衛門じゅうろうざえもん」(いそがいじゅうろうざえもん)でしょう。

切腹せっぷく内匠たくみあたま遺体いたいをまっさきり「泉岳寺せんがくじ」にほうむったのが、この十郎左衛門じゅうろうざえもんです。十郎左衛門じゅうろうざえもんは、その美貌びぼう利用りようして吉良きら女中じょちゅうや、出入でい大工だいくむすめをたらしんでの情報じょうほう収集しゅうしゅう役割やくわりになっていました。ただ、この女子じょしたらしみの諜報ちょうほう活動かつどうは、やはり美男びなんほまれたかい「岡野おかの金右衛門きんえもん」(おかのきんえもん)のエピソードとして紹介しょうかいされることもおおく、現在げんざいではこちらのほう定着ていちゃくしています。十郎左衛門じゅうろうざえもん親友しんゆうでもあった小姓こしょうあたまの「片岡かたおか源五げんご右門うもん」(かたおかげんごえもん)とはとも内匠たくみあたまちょうあらそったなかでした。

また、「忠臣蔵ちゅうしんぐら外伝がいでん」のひとつに「中山なかやま堀部ほりべ安兵衛やすべえ」(なかやま[ほりべ]やすべえ)の高田馬場たかだのばば決闘けっとうばなしがありますが、安兵衛やすべえと、かれ助太刀すけだちした「菅野かんの六郎ろくろう左衛門さえもん」(すがのろくろうざえもん)の義理ぎり叔父おじおい関係かんけいおとこ同士どうしちぎりを意味いみするのだとうことです。

幕末ばくまつもり統治とうちの1857ねん安政あんせい4ねん)、藩政はんせい改革かいかくをめぐりはんない対立たいりつこり、革新かくしん目指めざした一部いちぶ脱藩だっぱんし「長州ちょうしゅうはん」(ちょうしゅうはん:現在げんざい山口やまぐちけん)へ。1862ねん文久ぶんきゅう2ねん)には、攘夷じょうい家老がろう暗殺あんさつする事件じけんこり、はんろん統一とういつできないまま明治維新めいじいしんむかえることとなります。

維新いしんもりは1884ねん明治めいじ17ねん)に、子爵ししゃくとなりました。

赤穂あこうはん(あこうはん)

紀州きしゅうはん(きしゅうはん)

紀州藩(きしゅうはん)

紀州きしゅうはん」(きしゅうはん:現在げんざい和歌山わかやまけん和歌山わかやま正式せいしき名称めいしょうは[和歌山わかやまはん]で[紀伊きいはん]ともばれる)の江戸えど時代じだい初期しょきまでの藩主はんしゅ浅野あさの。「豊臣とよとみ秀吉ひでよし一門いちもんしゅとして名高なだか奉行ぶぎょう筆頭ひっとう浅野あさの長政ながまさ」(あさのながまさ)の長男ちょうなん幸長よしなが」(よしなが)に、1600ねん慶長けいちょう5ねん)、「紀伊きいこく」(きいのくに:現在げんざい和歌山わかやまけん全域ぜんいきおよ三重みえけん一部いちぶ)37まん6,000せきあたえられ、紀州きしゅうはんたてはんとなります。

幸長よしながは、秀吉ひでよし数々かずかずせん武功ぶこうあらわし、「天下一てんかいち」としょうされるほどの鉄砲てっぽう名手めいしゅでした。1619ねん元和がんわ5ねん)、「福島ふくしま正則まさのり」(ふくしままさのり)の改易かいえきともなう「広島ひろしまはん」(現在げんざい広島ひろしまけん広島ひろしま)へのうつりふうまで、浅野あさのによる統治とうちつづいています。

浅野あさのうつりふうともない、徳川とくがわ家康いえやすの10なん徳川とくがわ頼宣よりのぶ」(とくがわよりのぶ)が「駿府すんぷはん」(すんぷはん:現在げんざい静岡しずおかけん静岡しずおか)より、紀州きしゅうみなみ伊勢いせくわえた55まん5,000せきうたてふうじしてきたことで、「紀州きしゅう徳川とくがわ」の紀州きしゅうはん成立せいりつ

そして、この紀州きしゅう徳川とくがわから、歴史れきしじょうのみならず、現代げんだい時代じだいげきなどの創作そうさくぶつにおいて主役しゅやくきゅう将軍しょうぐん登場とうじょうすることとなったのです。

娯楽ごらく時代じだいげき主人公しゅじんこううと、そのほとんどはもと浪人ろうにん渡世人とせいにん、つまり、はん体制たいせいてき英雄えいゆうのこと。そのなかにあって、数少かずすくない体制たいせいがわ英雄えいゆうとしては、「水戸黄門みとこうもん」こと「水戸みと光圀みつくに」(みとみつくに)や、「あばれんぼう将軍しょうぐん」の「徳川とくがわ吉宗よしむね」(とくがわよしむね)がおもかびます。ともに実在じつざい人物じんぶつで、水戸みと光圀みつくには、御三家ごさんけの「水戸みと徳川とくがわ」の2だい当主とうしゅ。「天下てんかふく将軍しょうぐん」(てんかのふくしょうぐん)とばれ、江戸えど幕府ばくふ将軍しょうぐん一目いちもく実力じつりょくしゃです。

よしはじめもやはり御三家ごさんけのひとつ紀州きしゅう徳川とくがわの5だい当主とうしゅで、のちの江戸えど幕府ばくふ8だい将軍しょうぐん。どちらも甲乙こうおつけがたい個性こせいぬしです。

和歌山城天守閣

和歌山わかやまじょう天守閣てんしゅかく

徳川とくがわ御三家ごさんけ」とっても、かくうえでは62まんせき尾張おわり(おわり:現在げんざい愛知あいちけん西にしはん)が筆頭ひっとうで、56まんせき紀州きしゅうがこれにつづきます。勤皇きんのう(きんのうは:天皇てんのうくし、江戸えど幕府ばくふたおそうとした一派いっぱ)の水戸みとは、はん主流しゅりゅう印象いんしょうつよいですが、石高こくだかも35まんせきの2いえより一段いちだんひくいのです。

そもそも御三家ごさんけ本来ほんらい意義いぎは、江戸えど宗家そうけ世継よつぎがなかった場合ばあいそなえで、そのさいには、尾張おわり紀州きしゅうから後継こうけいまりになっていました。紀州きしゅうからは8だい将軍しょうぐん吉宗よしむね最初さいしょに、9だい将軍しょうぐん吉宗よしむね嫡男ちゃくなんである「家重いえしげ」(いえしげ)、14だい将軍しょうぐん家茂いえもち」(いえもち)の3にん将軍しょうぐんしているのにたいし、尾張おわり徳川とくがわからは、ひとりの将軍しょうぐんしていません。これには理由りゆうがあります。

よしはじめあばれんぼう将軍しょうぐんのような活躍かつやくをしたわけではありませんが、みずか陣頭じんとう指揮しきって「とおる改革かいかく」(きょうほうのかいかく)とばれる数々かずかず行政ぎょうせい改革かいかく実施じっし。その質実しつじつ剛健ごうけんでいく人柄ひとがらもあいまって、名君めいくんとしてつたわっているのはうまでもありません。

その名君めいくんであるちち血筋ちすじ末代まつだいつなげようと、長男ちょうなん家重いえしげは、紀州きしゅう徳川とくがわなか御三家ごさんけおなかんがかたで、「さんきょう」(ごさんきょう)制度せいどもうけてしまいました。これは、吉宗よしむね直系ちょっけい途絶とだえたとき、吉宗よしむね次男じなん、4なん家重いえしげ次男じなん創始そうしとするさんきょうが、紀州きしゅう徳川とくがわぐというシステム。そのため尾張おわり徳川とくがわは、紀州きしゅう徳川とくがわさんきょうすべての血筋ちすじえなければ、将軍しょうぐんしょくめぐってこないということになってしまったのです。

なお、11だい将軍しょうぐん家斉いえなり」(いえなり)、15だい将軍しょうぐん慶喜よしのぶ」(よしのぶ)は、ともさんきょうのひとつ「いちきょう徳川とくがわ」(ひとつばしとくがわけ)の出身しゅっしん。つまり紀州きしゅうけいということになります。

現代げんだいから吉宗よしむね名君めいくんであったかは、多少たしょう疑問ぎもんのこるもの。とおる改革かいかくにしても、基本きほんてきには「贅沢ぜいたくてき」の緊縮きんしゅく財政ざいせいであり、不景気ふけいきにこれをやると、さらに消費しょうひむのです。また、年貢ねんぐまいていめんせい結果けっかてきにはだい増税ぞうぜいであり、一時いちじてき幕府ばくふ収入しゅうにゅうえましたが、それも「とおるだい飢饉ききん」(きょうほうのだいききん)であらわえ、農民のうみん圧迫あっぱくしただけにわったとつたえられています。

えがいたような英雄えいゆうは、やはりテレビの時代じだいげきにしか存在そんざいしないのかもしれません。

紀州きしゅうはん(きしゅうはん)

岸和田きしわだはん(きしわだはん)

岸和田藩(きしわだはん)

岸和田きしわだ藩主はんしゅ江戸城えどじょう登城とじょうさいしたひかえのあいだは、3まんせき以上いじょう15まんせき未満みまん譜代ふだい大名だいみょうめるとわれた「かりあいだ」(かりのま)でした。

そして藩主はんしゅ居城きょじょうである「岸和田きしわだじょう」は、「和歌山わかやまじょう」と「だい坂城さかき」のなかあいだ地点ちてんにあり、御三家ごさんけでもある紀州きしゅうはん監視かんしやくとして存在そんざいしていたともわれています。

その理由りゆうのひとつとして、初代しょだい藩主はんしゅであったしょう出家しゅっけぎ、松平まつだいら松井まついにゅうふうしたあとに、幕末ばくまつ明治めいじまで藩主はんしゅつとめた、岡部おかべにおける初代しょだい岸和田きしわだ藩主はんしゅ岡部おかべせんしょう」(おかべのぶかつ)にたいする徳川とくがわ3だい将軍しょうぐん家光いえみつからの寵愛ちょうあいあつかったことがげられます。徳川とくがわ幕府ばくふとしては、紀州きしゅう徳川とくがわ初代しょだい藩主はんしゅ徳川とくがわ頼宣よりのぶおそれていたとされ、そのため、監視かんし密命みつめいびていたとの伝説でんせつのこっているのです。

岸和田城

岸和田きしわだじょう

しかし、これについては、岸和田きしわだじょう縄張なわばりが大坂おおさか方面ほうめんあつ防御ぼうぎょせんもうけていることなどから、しろ構造こうぞうじょうだい坂城さかき警護けいご役割やくわりつよいとされており、晩年ばんねん徳川とくがわ家康いえやす寵愛ちょうあいされた紀州きしゅう徳川とくがわ初代はつよ藩主はんしゅ徳川とくがわ頼宣よりのぶへの世間せけん評価ひょうか誇張こちょうされたものだとかんがえられます。実際じっさい、1837ねん天保てんぽう8ねん)の「大塩おおしお平八郎へいはちろうらん」のさい、「岸和田きしわだはん」はだい坂城さかき警護けいごにんたりました。

また、幕府ばくふ紀州きしゅうはんおそれていたといううわさのもととなるような事件じけんとして、1651ねん慶安けいあん4ねん)の、「由井ゆい正雪しょうせつ」(ゆいしょうせつ)による「慶安けいあんへん」のさい正雪しょうせつ頼宣よりのぶ印章いんしょう文書ぶんしょ偽造ぎぞうしていたことも、紀州きしゅうはん監視かんし陰謀いんぼうろんひれがつく原因げんいんとなっているようです。

そののち、ロシアの「プチャーチン」の軍艦ぐんかん「ディアナごう」の来航らいこうさいにも活躍かつやくした11だい藩主はんしゅちょうはつ(ながゆき)は、1852ねんよしみなが5ねん)に、藩校はんこう講習こうしゅうかん」をひらきましたが、22さいわかさで早世そうせいいだ12だい藩主はんしゅちょうひろし(ながひろ)は、1866ねん慶応けいおう2ねん)に講習こうしゅうかん増築ぞうちくして「おさむたけかん」と改称かいしょうし、はんない教育きょういく奨励しょうれいし、財政ざいせい改革かいかくにもつとめましたが、はん財政ざいせい窮乏きゅうぼうから脱却だっきゃくすることはできず、「戊辰戦争ぼしんせんそう」(ぼしんせんそう)をむかえることになったのです。

戊辰戦争ぼしんせんそうのときには、はんない意見いけん佐幕さばく(さばくは)と勤皇きんのう(きんのうは:倒幕とうばく)にわかれ、当初とうしょ佐幕さばくとしてうごいていましたが、のちにしん政府せいふぐんがわくことになりました。

現在げんざいでも、岡部おかべ伝来でんらいとされる「牡丹ぼたん獅子じしよう彫金ちょうきん目貫めぬき」(ぼたんししかたちぼりきんめぬき)の目貫めぬき有名ゆうめいな「短刀たんとう ぎん沃懸合口あいくちこしらえ[めい らいこくしゅん]」(たんとう つけたり ぎんいかけじあいくちこしらえ[めい らいくにとし])などを岸和田きしわだじょうることができます。

また「岸和田きしわだ」とえば、全国ぜんこくてきられている「だんじりまつり」で有名ゆうめいですが、この「岸和田きしわだのだんじりまつり」は、岸和田きしわだはん3だい藩主はんしゅ岡部おかべちょうやすし」(おかべながやす)が1703ねん元禄げんろく16ねん)に、京都きょうとの「伏見ふしみ稲荷いなり」を城内きうちさんまる勧請かんじょう(かんじょう:神仏しんぶつ分霊ぶんれい場所ばしょうつしてまつること)し、五穀豊穣ごこくほうじょう祈願きがんしておこなった稲荷いなりさいがもとになっているとわれています。

ただし当時とうじまつりは、現在げんざいのようなだんじりは存在そんざいせず、寄席よせのもとともなった「俄狂言にわかきょうげん」(にわかきょうげん)などがえんじられ、そのあと、さんまる神社じんじゃ岸城きしき神社じんじゃ(きしきじんじゃ)に参拝さんぱいするとものでした。

ちなみに、岸和田きしわだはん名前なまえ由来ゆらいとなったのは、たてたけし新政しんせい(1333ねん~)のころ和泉いずみこく守護しゅごであった「楠木くすのき正成まさしげ」(くすのきまさしげ)が一族いちぞくの「和田わだだか」(にぎたたかいえ)を当時とうじきし」とばれていた岸和田きしわだ派遣はけんし、しろきずいたこと。これにより、「きし」の「和田わだ」がおさめる土地とちうことで、岸和田きしわだ名前なまえになった伝説でんせつ存在そんざいしています。

岸和田きしわだはん(きしわだはん)

篠山しのやまはん(ささやまはん)

篠山藩(ささやまはん)

大坂おおさかじん以前いぜんの1609ねん慶長けいちょう14ねん)、徳川とくがわ家康いえやすにより、豊臣とよとみをはじめとする西国さいこくしょ大名だいみょうおさえるため、15ヵ国かこく20の大名だいみょう助役じょやくによる「天下てんか普請ふしん」(てんかぶしん:幕府ばくふ命令めいれいしておこなわせた土木どぼく工事こうじ)のもと、篠山盆地ささやまぼんち篠山しのやまじょうきずかれました。

松井まつい松平まつへいの「松平まつだいらやすしじゅう」(まつだいらやすしげ)が、丹波たんばこく(たんばのくに:現在げんざい兵庫ひょうごけん篠山しのやまはちじょうから、政庁せいちょううつしたことにより「篠山しのやまはん」(ささやまはん:現在げんざい兵庫ひょうごけん)をだてはんしたのです。

篠山しのやまじょう縄張なわばりは、宇和島うわじまじょう今治いまばりじょう二条城にじょうじょうじょう伊賀上野いがうえのじょう膳所ぜぜじょうなどを築城ちくじょうした、「黒田くろだ孝高よしたか[官兵衛かんべえ]」(くろだよしたか[かんべえ])、「加藤かとう清正きよまさ」(かとうきよまさ)とともに、築城ちくじょうさん名人めいじんとしてられる「藤堂とうどう高虎たかとら」(とうどうたかとら)がおこないました。

また、普請ふしんそう奉行ぶぎょうには、池田いけだひさしきょう次男じなんである輝政てるまさ就任しゅうにんわって、藤井ふじい松平まつへいが1619ねん元和がんわ5ねん)ににゅうふうし、城下町じょうかまち整備せいび検地けんち文化ぶんか振興しんこうなどに尽力じんりょく基礎きそかためました。

1649ねん慶安けいあん2ねん)には、形原かたはら松平まつだいらはいり、1677ねんのべたから5ねん)に家督かとくいだ4だい藩主はんしゅ松平まつだいらしんいさお」(まつだいらのぶつね)は、文化ぶんか振興しんこう意欲いよくせ、篠山しのやまはん領内りょうない古蹟こせき自社じしゃ名産めいさんなどをしるした「篠山しのやまふうつよしこころざし」をあらわした儒学じゅがくしゃ松崎まつざきらんたに」(まつざきらんこく)や、真鍮しんちゅうせい四方しほうろくめんさまぶん曲尺かねじゃく考案こうあんいままでの測量そくりょうほうみず利用りようして水平すいへい確保かくほし、縦横じゅうおう高低こうてい奥行おくゆきまで自由じゆうはかることに成功せいこうさせたさん学者がくしゃまん時春ときはる」(まおときはる)などを招聘しょうへい藩学はんがく基礎きそかため、京都きょうと所司代しょしだい老中ろうじゅう歴任れきにんし、歴代れきだい藩主はんしゅなかでもめい藩主はんしゅわれたのです。

篠山城 石垣

篠山しのやまじょう 石垣いしがき

しかし、しんいさおあといだ13だい藩主はんしゅしん岑」(のぶみね)は暗愚あんぐ(あんぐ:おろもの)で、「とおるだい飢饉ききん」でくるしむ領民りょうみん重税じゅうぜいし、農民のうみんから中傷ちゅうしょうされたことが発端ほったんとなり、丹波たんば亀山かめやまはんうつりふうじさせられることとなりました。

そこで、1748ねん寛延かんえい元年がんねん)、「青山あおやまただしあさ」(あおやまただとも)がにゅうふう以降いこう幕末ばくまつから明治維新めいじいしんまで青山あおやま藩主はんしゅつとめることになったのです。2だい藩主はんしゅちゅうだか」(ただたか)は、藩校はんこうとくどう」(しんとくどう)を開設かいせつ

藩校はんこうとはことなり、藩士はんし子弟していのみではなく、庶民しょみんにも入学にゅうがく許可きょかしました。とくに、「さんがく」を奨励しょうれいし、篠山しのやまはんでは当時とうじでも高度こうど数学すうがく教育きょういくがされていたとわれています。

この「とくどう」で使用しようされたとされる版木はんぎ作成さくせいされた教科書きょうかしょなどが、現在げんざいでも藩主はんしゅ青山あおやま別邸べっていであった「桂園けいえんしゃ」(けいえんしゃ)とばれた建物たてもの利用りようしててられた「青山あおやま歴史れきしむら」でることができるのです。

戊辰戦争ぼしんせんそうでは、藩主はんしゅ幕僚ばくりょうでありながら、佐幕さばく勤皇きんのうによりはんない対立たいりつ。しかし、「西園寺さいおんじ公望きんもち」(さいおんじきんもち)ひきいるしん政府せいふぐん侵攻しんこうけ、しん政府せいふぐんにつくこととなりました。

青山あおやま時代じだいは、文化ぶんか振興しんこうちかられる藩主はんしゅおおく、領民りょうみんかるんじる傾向けいこうもあり、幕末ばくまつまでに「一揆いっき」や「こわし」が16けん多発たはつしたとしるされています。そのため、1870ねん明治めいじ3ねん)12がつにおけるはん借財しゃくざいは、281,319りょう現在げんざい価値かちやく281おくえん)にまでふくらみました。

篠山しのやまはん(ささやまはん)

狭山さやまはん(さやまはん)

狭山藩(さやまはん)

最終さいしゅうてき石高こくだかが1まんせきという、このちいさな「狭山さやまはん」(さやまはん:現在げんざい大阪おおさか)は、12だいにわたる関東かんとうゆう、「北条ほうじょう」が領有りょうゆうしたはんです。

こう北条ほうじょうである「北条早雲ほうじょうそううん」(ほうじょうそううん)は、関東かんとう管領かんりょうである「山内やまうち上杉うえすぎ」、「扇谷おうぎや上杉うえすぎ」を駆逐くちくし、小田原おだわらじょう奪取だっしゅ関東かんとうにいちはや覇権はけんきずいた戦国せんごく武将ぶしょうとして有名ゆうめいです。

一介いっかい浪人ろうにんからてた「下克上げこくじょう」(げこくじょう)を代表だいひょうする武将ぶしょうわれてきましたが、現在げんざいでは、室町むろまち幕府ばくふ政所まんどころ執事しつじつとめた「伊勢いせ」の出自しゅつじだとうことが定説ていせつとなっています。また、はやくも自身じしん伊勢いせ名乗なのり、「北条ほうじょう」をせいとして名乗なのったのは、嫡男ちゃくなんである「氏綱うじつな」(うじつな)からです。

この北条早雲ほうじょうそううんからはじまる、こう北条ほうじょうは、3代目だいめ氏康うじやす」(うじやす)の時代じだいには、「武田たけだ信玄しんげん」や「今川いまがわ義元よしもと」などと「かぶとしょう駿しゅんさんこく同盟どうめい」をむすび、「上杉うえすぎ謙信けんしん」とも関東かんとう覇権はけんあらそった戦国せんごく最強さいきょう大名だいみょう一角いっかくでもあったのです。

1590ねん天正てんしょう18ねん)、豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる「小田原おだわら征伐せいばつ」のさい伊豆いず韮山にらやまじょう守備しゅびし、4ヵ月かげつにわたり抗戦こうせん高野たかのさん蟄居ちっきょ(ちっきょ:謹慎きんしんけい)をめいじられた氏康うじやすの4なん北条ほうじょう氏規うじのり」(ほうじょううじのり)は、のちにつみゆるされ、氏規うじのり本人ほんにん河内かわち狭山さやま6,900せき嫡男ちゃくなんもり」(うじもり)に下野げや4,000せきあたえられました。1600ねん慶長けいちょう5ねん)に、氏規うじのりぼっしたことにより所領しょりょうわせ1まん1,000せきとなり、これが狭山さやまはんのはじまりとなっているのです。

狭山さやまに、陣屋じんやもう政務せいむることとなったのは、1616ねん元和がんわ2ねん)、2だい藩主はんしゅしん」(うじのぶ)のころ。3だい藩主はんしゅむね」(うじむね)のだいとなると、むね無類むるい酒好さけずきだったらしく、江戸城えどじょうへの登城とじょうすらままならない状態じょうたいつづき、藩主はんしゅ退しりぞき、存続そんぞく危機ききにまでいたりました。

しかし、北条ほうじょう一門いちもんはたらきにより名門めいもん譜代ふだいまえ老中ろうじゅうであった「酒井さかい忠清ただきよ」(さかいただきよ)のとりなしをて、なんとか4だい藩主はんしゅ」(うじはる)があらたにはんてる名目めいもくで、存続そんぞく可能かのうになったのです。

7だい藩主はんしゅ彦」(うじよし)のだいには、下級かきゅう藩士はんしによる藩政はんせい改革かいかく要求ようきゅうである「狭山さやま騒動そうどう」が勃発ぼっぱつしますが、改革かいかく依然いぜんとしてすすむことはありませんでした。きびしいはん財政ざいせいつづいていましたが、11だい藩主はんしゅつばめ」(うじよし)は、文武ぶんぶ奨励しょうれいし、藩校はんこう「簡修かん」(かんしゅうかん)を再興さいこう。また特産とくさんひんである「高野たかの豆腐とうふ」を専売せんばいとして、はん財政ざいせいなおしにも尽力じんりょくしました。

しかし、財政ざいせい悪化あっかうえに、1837ねん天保てんぽう8ねん)「大塩おおしお平八郎へいはちろうらん」、1849ねんよしみなが2ねん)「プチャーチン大坂おおさかわん侵入しんにゅう」、1863ねん文久ぶんきゅう3ねん)「天誅てんちゅうぐみへん」への出兵しゅっぺいなどで軍費ぐんぴがかさみ、幕末ばくまつにはすでに破綻はたん状態じょうたいとなっていました。

12だい藩主はんしゅきょう」(うじゆき)は、1869ねん明治めいじ2ねん)にはん先駆さきがけ、「版籍はんせき奉還ほうかん」をおこないましたが、1871ねん明治めいじ4ねん)には、「廃藩置県はいはんちけん」をたずに崩壊ほうかい。なお、藩主はんしゅであるのち北条ほうじょうは、のちに子爵ししゃくけ、「華族かぞく」にれっせられています。

狭山さやまはん(さやまはん)

しばむらはん(しばむらはん)

芝村藩(しばむらはん)

しばむらはん」のはんともえる「織田有楽斎おだうらくさい織田おだちょうえき」(おだうらくさい[おだながます])は、「織田おだ信長のぶなが」の兄弟きょうだいです。「織田おだ信秀のぶひで」(おだのぶひで)の11なんであり、あに信長のぶながとは13さいはなれていたとわれています。

利休りきゅうじゅうあきら」(りきゅうじってつ)のひとりにもかぞえられ、みずからも茶道さどう有楽うらくりゅう」(うらくりゅう)を創始そうしした文化ぶんかじんでもありました。

武将ぶしょうとしても、織田おだぐんとして武田たけだめに参加さんかし、「深志ふかしじょう」(ふかしじょう:現在げんざい長野ながのけん松本まつもと松本まつもとじょう[まつもとじょう]の前身ぜんしん)のやくつとめ、「関ヶ原せきがはらたたか」では、総勢そうぜい450めいへいひきいて徳川とくがわ家康いえやすがわにて参戦さんせん。「石田いしだ三成みつなり」(いしだみつなり)ぐんの「蒲生がもうよりゆききょう」(がもうよりさと)を自身じしん武功ぶこうげた、文武ぶんぶひいでた武将ぶしょうだったのです。

1614ねん慶長けいちょう19ねん)、1615ねん慶長けいちょう20ねん)の「大坂おおさかふゆじんなつじん」のあと、間諜かんちょう(かんちょう:ひそかにてきがわ情報じょうほうさぐり、味方みかたらせるもの)として(諸説しょせつあり)、だい坂城さかきかたくみしていた織田有楽斎おだうらくさいちょうえき)は、徳川とくがわかたへの釈明しゃくめい意志いし表明ひょうめいする意味合いみあいで隠居いんきょ

そして、大和やまとこく(やまとのくに:現在げんざい奈良ならけん)にりょうしていた3まんせき所領しょりょうを、4なん長政ながまさ(ながまさ)、5なんなおちょう(なおなが)にそれぞれ1まんせきずつあたえ、長政ながまさ大和やまとこく戒重かいじゅうむら(かいじゅうむら)の拠点きょてんさだめてたてはんとなり、当初とうしょは、「戒重かいじゅうはん」とばれていました。また、なおちょうは、おなじく大和やまとに「柳本やなぎもとはん」(やなぎもとはん)をだてはんしています。

1683ねん天和てんわ3ねん)、家督かとく相続そうぞくした戒重かいじゅうはん4だい藩主はんしゅちょうきよし(ながきよ/ながずみ)もまた、すぐれた文化ぶんかじんとして有名ゆうめいです。藩士はんし文武ぶんぶ奨励しょうれいし、京都きょうとより儒者じゅしゃ北村きたむらあきら」(きたむらよしまさ)を招聘しょうへいし、藩校はんこう「遷喬かん」(せんきょうかん)を設立せつりつ同時どうじちょうきよし織田おだ信長のぶなが一代記いちだいきでもある「織田おだしん」15かん編纂へんさんしています。

この時代じだいはまだ、しばむら土地とち拠点きょてんうつしてはいません。幕府ばくふから、大和やまとこく岩田いわたむら(いわたむら:のちに「しばむら」と改称かいしょう)への移転いてん許可きょかてはいましたが、はん財政ざいせい悪化あっか表出ひょうしゅつし、移転いてんすることはできなかったのです。ただし、ちょうきよし時代じだいが、戒重かいじゅうからしばむらへとつづはんなかで、もっとさかえた時代じだいではありました。
 
当初とうしょの「戒重かいじゅうはん」よりしばむらはんになったのは、7だい藩主はんしゅ・輔宜(すけよし)が、1745ねんのべとおる2ねん)に、藩政はんせい利便りべんせい考慮こうりょしてしばむら拠点きょてんうつしたことによります。 

しばむらはんとしての財政ざいせいは、かならずしも余裕よゆうがあったわけではありませんでしたが、天領てんりょうあずかり統治とうち担当たんとうし、つづく8だい藩主はんしゅちょうきょう(ながのり)のだいには、あずかり統治とうちで10まんせきえていました。

しかし、1753ねんたかられき3ねん)に、あずかりへの増税ぞうぜいにより一揆いっき多発たはつし、「しばむら騒動そうどう」が発生はっせい一時いちじ幕府ばくふにより鎮圧ちんあつされるが、そのあとに不正ふせい発覚はっかくし、ちょうきょう以下いか処罰しょばつのあと、あずかりげられてしまい、財政ざいせい窮乏きゅうぼう深刻しんこく。1859ねん安政あんせい6ねん)の時点じてんでは、借財しゃくざいが、ぎん2,693かんにまでたっしたとつたわっています。

幕末ばくまつになると、最後さいご藩主はんしゅである11だい藩主はんしゅちょうえき(ながやす)は、「天誅てんちゅうぐみ」(てんちゅうぐみ)ついなどで功績こうせきげました。しかし、「戊辰戦争ぼしんせんそう」(ぼしんせんそう)のときにはしん政府せいふがわくみし、終戦しゅうせんは、「高取たかとりはん」(たかとりはん:現在げんざい奈良ならけん高市たかいちぐん高取たかとりまち)と大和やまと国内こくないにおける御料ごりょう(ごりょう:天皇てんのう幕府ばくふ直轄ちょっかつ)の取締とりしまりをめいじられたのです。1869ねん明治めいじ2ねん)の版籍はんせき奉還ほうかんで、ちょうえきはん知事ちじとなっています。

ちなみに、織田おだ直系ちょっけいとなるはんとしては、「織田おだ信雄のぶお」(おだのぶかつ)から派生はせいする「天童てんどうはん」(てんどうはん:現在げんざい山形やまがたけん天童てんどう)と「柏原かしわばらはん」(かいばらはん:現在げんざい兵庫ひょうごけん丹波たんば)があり、有楽うらくとき系統けいとうにはしばむらはん、「柳本やなぎもとはん」が明治維新めいじいしんまで存続そんぞくしました。

しばむらはん(しばむらはん)

膳所ぜぜはん(ぜぜはん)

膳所藩(ぜぜはん)

江戸城えどじょう登城とじょうひかえのあいだは、「みかどかんあいだ」(ていかんのま)。1866ねん慶応けいおう2ねん)に刊行かんこうされた「武鑑ぶかん」(ぶかん)によれば、家門かもん譜代ふだいの64いえが「みかどかんあいだつめ」としてげられています。

膳所ぜぜはん(ぜぜはん:現在げんざい滋賀しがけん)は、このうちの1はんみかどかんあいだとは、ふすま中国ちゅうごくとうだい帝王ていおうえがかれているため、このばれました。

1601ねん慶長けいちょう6ねん)、「徳川とくがわ家康いえやす」により天下てんか普請ふしん(てんかふしん:幕府ばくふ命令めいれいしておこなわせた土木どぼく工事こうじ)として、膳所ぜぜじょうきずかれ、譜代ふだいの「戸田とだいち西にし」(とだかずあき)をれたことでだてはんします。

このいち西にしは、「関ヶ原せきがはらたたか」のさいに「徳川とくがわ秀忠ひでただ」(とくがわひでただ)にしたがい、「真田さなだ昌幸まさゆき」(さなだまさゆき)がこめる「上田うえだしろめ」に参加さんか真田さなだめに固執こしつする秀忠ひでただにただひとり反対はんたいしたため、のちに家康いえやすより褒賞ほうしょうされた武将ぶしょうでもありました。

財政ざいせい能力のうりょくたかく、膳所ぜぜはんりつはんはん財政ざいせい安定あんていのため漁民ぎょみん保護ほごし、琵琶湖びわこれる「べにしじみ」りょう奨励しょうれいいち西にしり「左門さもんしじみ」とばれ、だい2世界せかい大戦たいせんまえまで、京都きょうと宿泊しゅくはくすると、朝食ちょうしょくにはかならされるほどの名物めいぶつとなったのです。

しかし、いち西にしは1604ねん慶長けいちょう9ねん)に、落馬らくばにて死去しきょ戸田とだうたてふうは、本多ほんだ菅沼すがぬま石川いしかわわり、のちに譜代ふだいである本多ほんださいふうされ藩主はんしゅとなり、明治めいじまで存続そんぞくします。

膳所城跡公園

膳所ぜぜ城跡じょうせき公園こうえん

本多ほんだ3だい藩主はんしゅ康慶こうけい」(やすよし)のころまでには、瀬田川せたがわ治水ちすいおおくの財政ざいせい改革かいかく実行じっこうされはん財政ざいせい安定あんてい

しかし、9だい藩主はんしゅかんただし」(やすただ)の時代じだいに、藩政はんせい改革かいかく失敗しっぱいします。財政ざいせい窮乏きゅうぼう一途いっと辿たどり、10代藩主はんしゅかんかん」(やすさだ)の時代じだいには、「本多ほんだ内匠たくみ」、「鈴木すずき時敬ときよし」と2人ふたり奸臣かんしん(かんしん:邪悪じゃあくしんった家臣かしん)による「御為筋おためすじいちけん」が発生はっせいします。

これは、「百姓ひゃくしょう一揆いっき」や「ちこわし」が発生はっせいするなか、9代目だいめ藩主はんしゅかんただし逝し、わかくしていだかんかんをないがしろにした事件じけん。その専横せんおうぶりは幕府ばくふみみにもとどき、幕府ばくふがわにより、2人ふたり対立たいりつする「本多ほんだ修理しゅうり」(ほんだしゅり)を家老がろうにするようめいじられ、奸臣かんしん一派いっぱ一掃いっそうしたのです。

また、本多ほんだ修理しゅうりにより、藩校はんこう「遵義どう」(じゅんぎどう)が、1808ねん文化ぶんか5ねん)に創設そうせつ。ここは、日本にっぽんはじめて「ロビンソン漂流ひょうりゅう」をやくした蘭学らんがくしゃ黒田くろだ麴盧」(くろだきくろ)が教鞭きょうべんっていた藩校はんこうです。

戊辰戦争ぼしんせんそう」(ぼしんせんそう)のときには、佐幕さばく尊皇そんのう討幕とうばく)の意見いけん対立たいりつし、主導しゅどうけんをかけてあらそうことに。最終さいしゅうてきには尊皇そんのう討幕とうばく)が勝利しょうりし、しん政府せいふぐんのもとで「桑名くわなはんめ」に参加さんかしています。

膳所ぜぜはんには、面白おもしろ逸話いつわのこっており、1865ねんもと2ねん慶応けいおう元年がんねん)、全国ぜんこく先駆さきがけて「はいじょうねがい」をし、天守てんしゅから石垣いしがきまでを1,200りょうけ、しました。

なお、現代げんだいでもがれる「はつじつけんかた一流いちりゅう」(しょじつけんりかたいちりゅう)が、居合いあい剣術けんじゅつ今枝いまえだりゅう」(いまえだりゅう)をつたえた、もと宮津みやづ藩士はんし今枝いまえだ良重よしえ」(いまえだよししげ)、「良正よしまさ父子ふしによって創設そうせつはつじつけんかた一流いちりゅうは、膳所ぜぜはんによってかかえられ、おおくの支流しりゅうって、現代げんだいにまでつたえられています。

膳所ぜぜはん(ぜぜはん)

高取たかとりはん(たかとりはん)

高取藩(たかとりはん)

江戸城えどじょう登城とじょうさい伺候しこうせき(しこうせき)は、「みかどかんあいだ」であり、そこにすわ大名だいみょうかくとしては「城主じょうしゅ」でした。

元々もともと大和やまとこく一帯いったいは、「筒井つつい順慶じゅんけい」(つついじゅんけい)の支配しはいにありました。筒井つつい代々だいだい、「興福寺こうふくじ」の衆徒しゅとであり、室町むろまち時代ときよ筆頭ひっとうかくまでのぼり、順慶じゅんけいだいには大和やまとこくおさめる戦国せんごく大名だいみょうにまで成長せいちょう。「松永まつなが久秀ひさひで」(まつながひさひで)と大和やまと覇権はけんあらそっていたのです。筒井つつい順慶じゅんけいには、『とおる名物めいぶつちょう』にも紹介しょうかいされる「順慶じゅんけいひだり文字もじ」(じゅんけいさもんじ)とばれる名刀めいとうがあり、「徳川とくがわ家康いえやす」にわたったあとに、蜂須賀はちすか所有しょゆうとなり、「重要じゅうよう美術びじゅつひん」にも指定していされています。

順慶じゅんけい死後しご豊臣とよとみ政権せいけんでは、秀吉ひでよしおとうとである「羽柴はしば秀長ひでなが」に大和やまとこくあたえ、秀長ひでなが家臣かしん本多ほんだ俊久としひさ」に高取たかとりまん5,000せきあたえました。俊久としひさ死後しご嫡男ちゃくなんしゅんせい家督かとくぎましたが、「関ヶ原せきがはらたたか」でひがしぐん味方みかたしたことで、その功績こうせきにて加増かぞうされ、高取たかとりはんたてはんとなったのです。

居城きょじょうの「高取たかとりしろ」は、近世きんせいではめずらしい山城やましろでした。当時とうじとしても日本にっぽん最大さいだいきゅう山城やましろであり、現在げんざいでも岡山おかやまけんの「備中びっちゅう松山まつやまじょう」、岐阜ぎふけんの「岩村いわむらしろ」とならび、日本にっぽんさん大山おおやまじょうのひとつとしてかぞえられ、くに史跡しせきにも認定にんていされています。

本多ほんだ藩主はんしゅ時代じだいでの逸話いつわとしては、2だい高取たかとり藩主はんしゅとなる「本多ほんだ政武まさたけ」(ほんだまさたけ)は、囲碁いご名人めいじんとして高名こうみょうであり、1610ねん慶長けいちょう15ねん)に、囲碁いご本因坊ほんいんぼうせん勝利しょうりしてせたのです。ただし、政武まさたけは40さい死去しきょし、跡継あとつぎがいなかったため、以降いこう改易かいえき(むしかいえき:跡継あとつぎがない武士ぶしいえろく屋敷やしき没収ぼっしゅうすること)に。その天領てんりょう(てんりょう:江戸えど幕府ばくふ直轄ちょっかつ)となり、大和新庄やまとしんじょうはんの「桑山くわやまいちげん」(くわやまかずはる)や丹波たんば園部そのべはんの「小出こいでよしちかし」(こいでよしちか)による城代じょうだい時代じだいつづきました。

高取城(天守台・石垣)

高取たかとりじょう天守てんしゅだい石垣いしがき

天領てんりょうて、1640ねん寛永かんえい17ねん)に、大身たいしん旗本はたもと植村うえむら家政いえまさ」(うえむらいえまさ)が2まん5,000せき加増かぞうされ、さいだてはんとなり、以降いこう幕末ばくまつ明治維新めいじいしんまで植村うえむら藩主はんしゅ時代じだいつづくこととなったのです。

植村うえむらは、徳川とくがわ家康いえやすきゅうさいころよりつかえ、「酒井さかい」、「大久保おおくぼ」、「本多ほんだ」、「阿部あべ」、「石川いしかわ」、「青山あおやま」となら徳川とくがわ家臣かしんだんなかでもさい古参こさん家格かかくであり、家康いえやす自身じしんより「いえ」のけることをゆるされた名門めいもん譜代ふだいでした。

1779ねん永安えいあんねんねんに、家督かとくいだ8だい藩主はんしゅいえ遊女ゆうじょ入水じゅすい自殺じさつし、江戸えど留守居るすいやく事件じけん露見ろけんまえに、病死びょうしとどて、あに家長かちょう養子ようしとしてむかえることで事件じけんかくしたとのはなしのこっています。この時代じだいは、江戸えどでも心中しんちゅうの流行りゅうこうしたとされ、幕府ばくふきびしい罰則ばっそくしていた時代じだいであり、露見ろけんすれば、おいえ断絶だんぜつにもなりかねないスキャンダルでした。

その、10代藩主はんしゅいえきょう儒学じゅがくしゃたに三山さんざん」(たにさんざん)を招聘しょうへい(しょうへい:丁重ていちょう態度たいどまねくこと)し、尊皇そんのう思想しそう傾倒けいとうしたことにより、幕末ばくまつまで高取たかとりはん思想しそう決定けっていけることとなりました。こうした背景はいけいもあり、名門めいもん譜代ふだいでありながら、「戊辰戦争ぼしんせんそうには官軍かんぐんくみし、京都きょうと御所ごしょ警護けいごにあたって、きゅう幕府ばくふりょうまりをおこなっていたのです。

高取たかとりはん(たかとりはん)

丹波たんば亀山かめやまはん(たんばかめやまはん)

丹波亀山藩(たんばかめやまはん)

江戸城えどじょう登城とじょうひかえのあいだは「みかどかんあいだ」(ていかんのま)。みかどかんあいだ一般いっぱんに、幕府ばくふ成立せいりつ以前いぜんからの譜代ふだい大名だいみょうめるあいだとされていました。

丹波たんば亀山かめやまはん」(たんばかめやまはん:現在げんざい京都きょうと)は、譜代ふだいはんであり山陰さんいんどうへの出入でいぐちとして重要じゅうよう役割やくわりになっていましたが、明治維新めいじいしんの「戊辰戦争ぼしんせんそうには、しん政府せいふぐんの「山陰さんいん鎮撫ちんぶ使」(さんいんちんぶし)にあっさりと降伏ごうぶくしています。

その原因げんいんとなったのが、どうはん所領しょりょう丹波たんば氷上ひかみぐん(たんばひかみぐん)、船井ふないぐん(ふないぐん)、備中びっちゅう浅口あさくちぐん(びっちゅうあさくちぐん)などとになっており、天保てんぽうでは亀山かめやまはんりょうのみの石高こくだか事実じじつじょう、2まんせきっていたともわれ、深刻しんこく財政難ざいせいなんなやまされつづけていたためでした。

明智光秀

明智あけち光秀みつひで

居城きょじょうとなった「亀山かめやましろ」は、戦国せんごく地元じもと豪族ごうぞくである波多野はたの討伐とうばつのために「明智あけち光秀みつひで」がはいり、そのいしずえきず近世きんせい発展はってんることとなります。この丹波たんば攻略こうりゃくには、かなしい伝説でんせつのこされており、光秀みつひで波多野はたの当主とうしゅ波多野はたの秀治しゅうじ」(はたのひではる)の開城かいじょう降伏ごうぶく条件じょうけん承諾しょうだくし、「織田おだ信長のぶなが」に波多野はたの助命じょめい嘆願たんがんをするため、その保証ほしょうとして実母じつぼ波多野はたの人質ひとじちしたとのこと。

しかし、信長のぶなが戦国せんごくではめずらしくもなかった波多野はたの従属じゅうぞく外交がいこうをよしとせず、波多野はたの秀治しゅうじおとうと秀尚ひでなお」(ひでひさ)を安土あづちの「慈恩寺じおんじ」(じおんじ)にてはりつけ(はりつけ)にしょしてしまい、その仕返しかえしとして、光秀みつひで実母じつぼはりつけしょせられたという伝説でんせつのこっています。

本能寺ほんのうじへんは、「羽柴はしば秀吉ひでよし」の一門いちもんしゅあたえられ、奉行ぶぎょうのひとりである「前田まえだ玄以げんい」(まえだげんい)がはいりました。なかでも、秀吉ひでよし一門いちもんしゅとして、「関ヶ原せきがはらたたか」の裏切うらぎりで有名ゆうめいな「小早川こばやかわ秀秋ひであき」(こばやかわひであき)も一時いちじ所領しょりょうしており、後世こうせいからてもいわきであるとかんじられるでしょう。

また、このかめ山城やましろ自体じたい放置ほうちされ荒廃こうはいしていた本城ほんじょうが、1919ねん大正たいしょうねん)にしん宗教しゅうきょう大本おおもときょう(おおもときょう)の指導しどうしゃ出口いでぐち王仁三郎おにさぶろう」(でぐちおにさぶろう)により購入こうにゅうされ、拠点きょてんのひとつとして整備せいびされていましたが、だい大戦たいせんちゅう大日本帝国だいにっぽんていこく政府せいふ徹底てっていした宗教しゅうきょう弾圧だんあつにより、亀岡かめおかまち破格はかく安値やすね売却ばいきゃくさせられやぶ却されています。

神殿しんでんは、げん大手おおてゼネコンである「清水建設しみずけんせつ」の前身ぜんしんである「清水しみずぐみ」により、1936ねん昭和しょうわ11ねん)に1,500はつものダイナマイトで爆破ばくはされました。戦後せんごは、大本おおもときょうふたた所有しょゆうけんもどり、現在げんざい大本おおもときょう聖地せいちのひとつとして存在そんざいしています。

丹波たんば亀山かめやまはん(たんばかめやまはん)

彦根ひこねはん(ひこねはん)

彦根藩(ひこねはん)

1600ねん慶長けいちょうねん)、「関ヶ原せきがはらたたか」の功績こうせきにより、「徳川とくがわ四天王してんのう」の一人ひとり井伊いい直政なおまさ」(いいなおまさ)が上野うえの高崎たかさき城主じょうしゅより18まんせき加増かぞうされ、「石田いしだ三成みつなり」の居城きょじょうであった佐和さわ山城やましろにゅうふうして佐和山さわやまはんだてはんしました。

しかし、賊将ぞくしょうであった石田いしだ三成みつなり本拠地ほんきょちだったことをきらい、拠点きょてんうつそうとこころみていた1602ねん慶長けいちょうねん)に、関ヶ原せきがはらたたかいでけたきずにより死去しきょ

直政なおまさいだ嫡男ちゃくなんちょくつぎちょくかち)」のだいとなり、彦根ひこねさん新城しんじょう建設けんせつ開始かいし。1606ねん慶長けいちょう11ねん)に完成かんせいし、居城きょじょうを「彦根城ひこねじょう」としました。ただし、ちょくつぎ病弱びょうじゃくであり、1615ねん元和がんわ元年がんねん)の「大坂おおさかじん」にさんじんできず、わってさんじんした直政なおまさ次男じなん井伊いい直孝なおたか」が、彦根ひこねはんだい藩主はんしゅとして継承けいしょうしています。これによりちょくつぎは、ちょくかちあらため、上野うえの安中あんなかはんに3まんせきぶんされ、彦根ひこね藩主はんしゅよりされることとなったのです。

彦根ひこねはん」とえば、以下いかのような有名ゆうめいはなしがあります。

いちまいまいさんまい……」。井戸いど奥底おくそこからこえてくるおんなのうらめしげなこえ

彦根城天守閣と附櫓

彦根城ひこねじょう天守閣てんしゅかく

ぞんじ、「怪談かいだんばんまちさら屋敷やしき」のいち場面ばめんです。ばんまちさら屋敷やしき舞台ぶたいになったのは、江戸えど牛込うしごめばんまち火付ひつき盗賊とうぞくあらため青山あおやま主膳しゅぜん」の屋敷やしきとされていますが、これに類似るいじしたはなし播州ばんしゅう姫路ひめじ松江まつえ土佐とさなど各地かくち伝来でんらい

ばんまちさら屋敷やしきをのぞけば、もっとも有名ゆうめいなのが、播州ばんしゅうさら屋敷やしきでしょう。こちらのさら屋敷やしきは、旗本はたもと青山あおやま鉄山てつざん」の私邸していで、女中じょちゅうきく遺骸いがいほうんだという井戸いどのこっているとわれています。

青山あおやま主膳しゅぜん」と「青山あおやま鉄山てつざん」は、同姓どうせいですが、なんのつながりもありません。というよりも、りょう実在じつざいしておらず、りょうさら屋敷やしきとも歌舞伎かぶき浄瑠璃じょうるりなどの演目えんもくひろられるようになったところから、そもそもがフィクションである可能かのうせいたかいとかんがえられます。

それにたいして、いや、うちこそがさら屋敷やしき本家ほんけげているのが滋賀しがけん彦根ひこねです。

彦根ひこねはん譜代ふだい藩士はんしである孕石はらみいし(はらみいし)嫡男ちゃくなん政之まさゆきすすむ(こちらは実在じつざい人物じんぶつ)と女中じょちゅうきく物語ものがたり主人公しゅじんこう孕石はらみいし屋敷やしき馬場うまばまちという場所ばしょになり、バンバチョウが戯作げさくしゃふでによってバンシュウ、そしてバンチョウにてんじていったのだとわれています。

ただし、こちらのストーリーは、世間せけん流布るふされている「さら屋敷やしき」よりもいくぶんかっています。政之まさゆきすすむとおきくは、相思相愛そうしそうあいなかであり、身分みぶんちがいのこいなやんだおきく政之まさゆきしん本心ほんしんたしかめるために、かれまえさらり、「わたし家宝かほうとどちらが大事だいじか」とせまりました。おきくおもいをった政之まさゆきしんは、のこる9まいさらかたなはたり、そのでおきく手打てうちに。そのまま政之まさゆきしん仏門ぶつもんはいり、生涯しょうがいをおきく菩提ぼだいとむらうことについやしたとわれているのです。

きくはかがある「長久寺ちょうきゅうじ」には、悲劇ひげきのもととなったさら保管ほかんされていて、希望きぼうしゃ実物じつぶつることができます。もともとさらは9まいあったものの、催事さいじなどにしているうちに紛失ふんしつし、現在げんざいは6まいになっているとのこと。そもそもこの10まいぐみさらは、初代しょだい藩主はんしゅ井伊いい直政なおまさが、「関ヶ原せきがはらたたかい」の武功ぶこう褒美ほうびとして家康いえやすからじきじきにたまわり、「大坂おおさかなつじん」の活躍かつやく褒章ほうしょうとして孕石はらみいし当主とうしゅがれたものだとわれています。まさに家宝かほうちゅう家宝かほうです。

彦根ひこね姫路ひめじには、おきく怨念おんねん化身けしんしたという、おきくちゅう伝承でんしょうも。おきくちゅう正体しょうたいは「ジャコウアゲハ」のさなぎ(さなぎ)で、おんなうしにくくられた姿すがたているところから、このまれました。おきくちゅうについては、『くもにしき随筆ずいひつ』などの、江戸えど時代じだい書物しょもつにもおお紹介しょうかいされています。

おも江戸えど100はん家紋かもんイラスト)「彦根ひこねはん桑名くわなはん館林たてばやしはん
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彦根藩・桑名藩・館林藩YouTube動画

彦根ひこねはん(ひこねはん)

姫路ひめじはん(ひめじはん)

姫路藩(ひめじはん)

姫路ひめじはん」(ひめじはん:現在げんざい兵庫ひょうごけん)のはんりょうは、元々もともと播磨はりま守護しゅご大名だいみょう赤松あかまつ」の地盤じばんでした。しかし、戦国せんごく時代じだいには「小寺こでら」の支配しはいとなり、姫路城ひめじじょう小寺こでら重臣じゅうしん黒田くろだ」の居城きょじょうになっていたのです。

その、「織田おだ信長のぶなが」が勢力せいりょくつよめ、中国ちゅうごく地方ちほう征伐せいばつとして「羽柴はしば[豊臣とよとみ]秀吉ひでよし」(はしば[とよとみ]ひでよし)が進出しんしゅつすると、姫路ひめじ城主じょうしゅだった「黒田くろだ官兵衛かんべえ/孝高よしたか」(くろだかんべい/よしたか)は、秀吉ひでよし姫路城ひめじじょうゆずわたします。1582ねん天正てんしょう10ねん)「本能寺ほんのうじへん」をて、秀吉ひでよし信長のぶなが後継こうけい地位ちいかため「だい坂城さかき」にはいったあと、秀吉ひでよし正室せいしつ北政所きたのまんどころ」(きたのまんどころ)の実兄じっけい木下きのした家定いえさだ」(きのしたいえさだ)が、2まん5,000せき拝領はいりょうし、姫路ひめじ城主じょうしゅとなりました。

しかし、1600ねん慶長けいちょうねん)「関ヶ原せきがはらたたか」の戦功せんこうにより、「池田いけだ輝政てるまさ」(いけだてるまさ)が播磨はりまいちこく52まんせきあたえられ、姫路ひめじはんだてはんします。

姫路城

姫路城ひめじじょう

姫路ひめじはんえば、白鷺しらさぎにもたとえられる優美ゆうび名城めいじょう姫路城ひめじじょう」がまずおもかぶはず。それでは、その立派りっぱなおしろ城主じょうしゅなんいえかとかれると、返事へんじこまひとおおいのではないでしょうか。

じつは、姫路ひめじはん藩主はんしゅ安定あんていせず、えのもっともおおかったはんなのです。まずは外様とざまの「池田いけだ輝政てるまさ」(いけだてるまさ)が52まんせき播磨はりまいちこくあたえられてにゅうふうしましたが、3だい因幡いなば鳥取とっとりはん」(とっとりはん:現在げんざい鳥取とっとりけん)へ国替くにがえされています。伝奇でんきとして名高なだかい、「宮本みやもと武蔵むさし」(みやもとむさし)の姫路城ひめじじょう天守閣てんしゅかくの「妖怪ようかい退治たいじ」は、はんせい以前いぜん木下きのした家定いえさだ城主じょうしゅだったきゅう姫路城ひめじじょう時代じだいのおはなしですが、池田いけだ城主じょうしゅ時代じだいもしばしば妖怪ようかい城内じょうない出没しゅつぼつしたとつたえられているのです。そのため、姫路城ひめじじょうないには、いくつかのひらかずの部屋へや存在そんざいしたとわれています。

ちなみに家定いえさだいもうとは、豊臣とよとみ秀吉ひでよし正妻せいさい北政所きたのまんどころ秀吉ひでよし義兄ぎけいということで、秀吉ひでよし旧姓きゅうせい木下きのした」をあたえられ、姫路ひめじ城主じょうしゅ時代じだいには「羽柴はしば」を名乗なのることをゆるされています。また、悪名あくめいたかい「小早川こばやかわ秀秋ひであき」(こばやかわひであき)は家定いえさだの5なんです。

池田いけだだいつづいて、親藩しんぱんの「本多ほんだ忠政ただまさ」(ほんだただまさ)が伊勢いせ桑名くわなはん」(くわなはん:現在げんざい三重みえけん)より15まんせき姫路ひめじりするものの、これも3だい大和やまと郡山こおりやまはん」(こおりやまはん:現在げんざい奈良ならけん)へ国替くにがえ。そのは、譜代ふだいの「松平まつだいら(奥平おくだいら)忠明ただあき」(まつだいら[おくだいら]ただあき)が18まんせき入府にゅうふしますが、嫡男ちゃくなん忠弘ただひろ」(ただひろ)が幼主ようしゅだったため出羽でわ山形やまがたはん」(やまがたはん:現在げんざい山形やまがたけん)へ。

わりにからたのは、やはり親藩しんぱんの「松平まつだいら(越前えちぜん)ちょくもと」(まつだいら[えちぜん]なおもと)でしたが、ほどなくぼっし、そのの「ちょくのり」(なおのり)は7さい越後えちご村上むらかみはん」(むらかみはん:現在げんざい新潟にいがたけん)に国替くにがえ

陸奥むつ白河しらかわはん」(しらかわはん:現在げんざい福島ふくしまけん)からやってきたのは、徳川とくがわ四天王してんのうのひとり「榊原さかきばら忠次ただつぐ」(さかきばらただつぐ)。榊原さかきばらは3だいつづきましたが、幼主ようしゅ榊原さかきばらまさしりん」(さかきばらまさみち)と交換こうかんで、越後えちご村上むらかみはんから松平まつだいら(越前えちぜん)ちょくのり出戻でもどり。

以後いごは、「本多ほんだ」(譜代ふだい・2だいつづく)、「榊原さかきばら」(譜代ふだい・4だいつづく)、「松平まつだいら越前えちぜん」(譜代ふだい、2だいつづく)とて、最後さいご酒井さかい譜代ふだい)になって、ようやく9だいまでつながりました。

このように短命たんめい城主じょうしゅつづいたのは、枢要すうよう姫路ひめじ城主じょうしゅ幼主ようしゅこころもとないという、将軍家しょうぐんけ判断はんだんだったのでしょう。妖怪ようかいたたりではなさそうです。

転々てんてんとする藩主はんしゅ酒井さかいした安定あんていしましたが、1749ねん寛延かんえいねん)の「姫路ひめじはん寛延かんえい一揆いっき」などにより、はん財政ざいせいきびしさをし、19世紀せいき初頭しょとうはん借金しゃっきんは73まんりょう現在げんざい価値かちやく73おくえん)という莫大ばくだいがくにのぼったとわれています。

1808ねん文化ぶんかねん)に、家老がろう河合かわいみちしん/すんおきな」(かわいみちおみ/すんのう)が、「諸方しょほう勝手かってむかい」に任命にんめいされ、財政ざいせい改革かいかくむこととなります。「質素しっそ倹約けんやくれい」をきつつ、領内りょうないくらかたやすしくら)をもうけて農民のうみん救済きゅうさいもし、はん安定あんていをもたらせるようつとめました。また、新田にった開発かいはつ飾磨港しかまこう整備せいびなどをおこない、特産とくさんひんの「木綿もめん」を専売せんばいせいとして莫大ばくだい利益りえき確保かくほし、はん借金しゃっきん完済かんさいしたとされています。

これ以外いがいにも、すでにあった藩校はんこう好古こうこどう」(こうこどう)とはべつに、私財しざいとうじて「ひとし寿山ことぶきやま黌」(じんじゅさんこう)を設立せつりつし、「よりゆき山陽さんよう」(らいさんよう)や「森田もりたたかしひとし」(もりたせっさい)、「猪飼いかい敬所けいしょ」(いかいけいしょ)らをむかえ、漢学かんがく国学こくがく医学いがくおしえ、教育きょういく奨励しょうれい人材じんざい育成いくせいみました。その功績こうせきはかれず、現在げんざいも、姫路ひめじ神社じんじゃないに「すんおう神社じんじゃ」(すんのうじんじゃ)としてまつられているのです。

姫路ひめじはん(ひめじはん)

福知山ふくちやまはん(ふくちやまはん)

福知山藩(ふくちやまはん)

福知山ふくちやまはん」(ふくちやまはん:現在げんざい京都きょうと福知山ふくちやま)は、もともと「織田おだ信長のぶなが」より「明智あけち光秀みつひで」がはいした領地りょうち。その光秀みつひでむすめ婿むこである「明智あけち秀満ひでみつ」(あけちひでみつ)にまかせるかたち整備せいびされ、山陰さんいんどう(さんいんどう)への拠点きょてんとなっていました。

秀満ひでみつは、1582ねん天正てんしょう10ねん)、「山崎やまざきたたか」における「安土あづちじょう」(あづちじょう:現在げんざい滋賀しがけん近江八幡おうみはちまん)の敗戦はいせん処理しょりにて、うまとも琵琶湖びわこわたった「湖水こすいわたり」で、一躍いちやくめいせためい武将ぶしょうです。福知山ふくちやまじょうおもであったときにも、租税そぜい免除めんじょである「地子じしぜに免除めんじょ」(じしせんめんじょ)や、城下町じょうかまち整備せいびなど善政ぜんせいほどこし、行政ぎょうせい能力のうりょくたかく、そのいしずえをすでにきずいていました。

明智あけち光秀みつひでほろびた山崎やまざきたたか以降いこうは、「豊臣とよとみ秀吉ひでよし」の義理ぎり伯父おじにあたる「杉原すぎはら家次いえつぐ」(すぎはらいえつぐ)や「小野木おのぎ重勝しげかつ」が福知山ふくちやまじょうはいっています。しかし重勝しげかつは、「関ヶ原せきがはらたたか」で西にしぐんいたことで、「細川ほそかわ忠興ただおき」(ほそかわただおき)の追討ついとうけて自害じがいしました。

その関ヶ原せきがはらたたかいでひがしぐんぞくし、功績こうせきのあった「有馬ありまゆたか」(ありまとようじ)が、遠江とおとうみこく横須賀よこすか(とおとうみのくに・よこすか:現在げんざい静岡しずおかけん掛川かけがわ)より加増かぞうてんふうされるかたちで、福知山ふくちやまはんたてはんされたのです。

初代しょだい藩主はんしゅとなったゆたかは、明智めいち統治とうち整備せいびされていた城下町じょうかまちさい整備せいびし、検地けんちなどもおこない、さらなる安定あんていはかりました。のちの「大坂おおさかじん」において戦功せんこうてたゆたかは、1620ねん元和がんわろくねん)、筑後ちくごこく久留くるべいはん」(ちくごのくに・くるめはん:福岡ふくおかけん久留米くるめ)に20まんせきうつりふうされたのです。

福知山城

福知山ふくちやまじょう

そのしばらくは、福知山ふくちやまはん天領てんりょう(てんりょう:江戸えど幕府ばくふ直轄ちょっかつ)として、当時とうじの「伏見ふしみ奉行ぶぎょう」(ふしみぶぎょう)で、茶人ちゃじんとしても有名ゆうめいな「小堀こぼり政一まさかずとおしゅう)」(こぼりまさかず[えんしゅう])が統治とうちしていたとつたえられています。天領てんりょう時期じきながらも、岡部おかべ稲葉いなば松平まつだいら[深溝ふかみぞ]時代じだいて、朽木家くちきけ(くつきけ)が藩主はんしゅとなって幕末ばくまつまでつづきました。

朽木家くちきけは、織田おだ信長のぶながによる朝倉あさくらめの撤退てったいせんとなった、「朽木くちきえ」をたすけた武将ぶしょう名高なだかい「朽木くちきもとつな」(くつきもとつな)の家系かけいです。

朽木家くちきけ藩主はんしゅとなったときは、すでにはん財政ざいせい窮乏きゅうぼうしていました。さらには、19世紀せいき前半ぜんはん編纂へんさんされた「徳川とくがわ実紀みき」(とくがわじっき)によると、5だい藩主はんしゅげんつな(とうつな)の時代じだいには、やく96まん9,900にん餓死がししたとしるされる「とおるだい飢饉ききん」(きょうほうのだいききん:1732ねん[とおる17ねん])になやまされ、「とおる強訴ごうそ」とばれた騒動そうどうこっています。このため、藩政はんせい混乱こんらんきたし、はん財政ざいせい窮乏きゅうぼうからせないままだったのです。

げんつな逸話いつわとしては、「明智あけち光秀みつひで御霊みたま法会ほうえ」(あけちみつひでごりょうほうえ)をはじめて許可きょかしたことが有名ゆうめい。これは、「丹波たんば福知山ふくちやま霊祭たままつり」(たんばふくちやまごりょうまつり)として現代げんだいにまでつづいており、おおくの観客かんきゃくあつめています。

はん財政ざいせいは、すでにきびしさをしてはいましたが、朽木家くちきけにはすぐれた藩主はんしゅおおく、7だい藩主はんしゅ・舖綱(のぶつな)は「なずらえ独語どくご」(ぎどくご)をあらわし、藩校はんこうあつしあかりかん」(じゅんめいかん)設立せつりつ基礎きそきずいています。

さらに8だい藩主はんしゅあきらつな(まさつな)は、蘭学らんがくしゃ大槻おおつき玄沢げんたく」(おおつきげんたく)やオランダ商館しょうかんちょう「イサーチ・チチング」とも交遊こうゆうして蘭学らんがくまなび、「蘭学らんがく階梯かいてい」(らんがくかいてい)の序文じょぶんや「古今ここんいずみ貨鑑」(ここんせんかかがみ)などのおおくの貴重きちょう著作ちょさくのこしているのです。つづく9だい藩主はんしゅりんつな(ともつな)も善政ぜんせいき、領民りょうみん教化きょうかのために「岩間いわまみず」(いわまのみず)をあらわしました。

13だいためつな(もりつな)の時代じだい幕末ばくまつむかえ、1871ねん明治めいじねん)の廃藩置県はいはんちけんにより福知山ふくちやまはんはいはん。「福知山ふくちやまけん」となったあと、のちに周辺しゅうへんけん合併がっぺいして「豊岡とよおかけん」(とよおかけん)となり、1876ねん明治めいじねん)、京都きょうと編入へんにゅうされました。

福知山ふくちやまはん(ふくちやまはん)

村岡むらおかはん(むらおかはん)

村岡藩(むらおかはん)

江戸城えどじょう登城とじょうさいひかえのあいだは、「やなぎあいだ」であり、大名だいみょうとしてのかくは「陣屋じんや」となっています。

てておおきなはんでもなく、歴史れきしてき重要じゅうよう役割やくわりたしたはんでもありませんが、じつはこの「村岡むらおかはん」は、室町むろまち時代じだいには、大名だいみょうあたまとして日本にっぽん全国ぜんこくの6ぶんの1を支配しはいしたとされ、「ろくぶんいち殿どの」ともばれた、「山名やまな」(やまなけ)の末裔まつえいりょうしたはんです。

源氏げんじ」(げんじ)の本姓ほんせい山名やまなは、「清和せいわはじめ」(せいわげんじ)の一家いっかけいであり、「河内かわうちはじめ」(かわちげんじ)の棟梁とうりょうでもある鎮守ちんじゅ(ちんじゅふ:古代こだい朝廷ちょうてい陸奥みちのくこく[むつのくに:現在げんざい秋田あきたけん北東ほくとう青森あおもりけん岩手いわてけん宮城みやぎけん福島ふくしまけん]に設置せっちした、軍政ぐんせいつかさど役所やくしょ将軍しょうぐん源義家みなもとのよしいえ」(みなもとのよしいえ)の子息しそく義国よしくに(よしくに)をとする名門めいもん新田にった(にったし)の一門いちもんでした。

徳川とくがわ家康いえやす」の先祖せんぞが、新田にった始祖しそである「新田にった義重よししげ」(にったよししげ)から新田にったそう世良田せらだ(せらた:現在げんざい群馬ぐんまけん太田おおた世良田せらだまちゆずけた、義重よししげ子息しそくであるよし(よしすえ)であるとされているため、徳川とくがわ幕府ばくふがわからても、本家ほんけということにもなるのが山名やまなだったのです。

応仁おうにんらん没落ぼつらくした山名やまな末裔まつえい山名やまな豊国ほうこく」(やまなとよくに)が、「関ヶ原せきがはらたたか」にてひがしぐん戦功せんこうげ、徳川とくがわ家康いえやすより但馬たじまこく七美しちみぐん(たじまのくにしつみぐん:現在げんざい兵庫ひょうごけん)に6,700せきあたえられ、これを領有りょうゆうすることとなったのがはじまり。

当初とうしょは、1まんせきえる大名だいみょうではなく、陣屋じんやかまえ、参勤交代さんきんこうたいおこなう旗本はたもと(はたもと)の意味いみでもある「交代こうたい寄合よりあい」(こうたいよりあい)でした。79さい死去しきょするまで豊国とよくに自身じしんは、大名だいみょう復帰ふっきへの意欲いよくがほぼなかったともつたえられています。

豊国ほうこくは、連歌れんが名人めいじんとしても有名ゆうめい当時とうじ教養きょうようじんでもあり、かつ山名やまなという名門めいもん出身しゅっしんということで、家康いえやすからも厚遇こうぐうされていました。また、戦国せんごく時代じだい弱腰よわごし外交がいこうによりみずからを追放ついほうした、かつての家臣かしんたちの窮乏きゅうぼうき、あらためて召抱めしかかえたという逸話いつわのこっているのです。

その、1642ねん寛永かんえい19ねん)、豊国とよくにからかぞえて3代目だいめとなるのりゆたか(のりとよ)のだいに、陣屋じんや但馬たじまこく黒野くろのむら(くろのむら)にうつし、その地名ちめい村岡むらおかあらため、「村岡むらおか陣屋じんや」を拠点きょてんとしました。村岡むらおかは、山地さんちおお農耕のうこうてきさなかったため、歴代れきだい領主りょうしゅ鉱山こうざん開発かいはつ畜産ちくさんぎょうなどを奨励しょうれいし、産業さんぎょう振興しんこうつとめています。とくに、10代目だいめよしといは、すくない耕地こうちながらも新田にった開発かいはつ領民りょうみん教化きょうかつとめ、村岡むらおか山名やまな歴代れきだいなかでも、名君めいくんばれているのです。

村岡むらおか陣屋じんやたてはんするのは、1868ねん明治めいじ元年がんねん)となります。11だい領主りょうしゅずみ(よしなり)のだいになり、しん政府せいふ太政官だじょうかんより、1まん1,000せきこうなおしされ、れて村岡むらおかはん成立せいりつしました。しかし、12だい(よしみち)のとき、1871ねん明治めいじねん)の廃藩置県はいはんちけんで「村岡むらおかけん」となり、「村岡むらおかはん」として存在そんざいしたのは、わずか3ねんのことだったのです。

このむら岡山おかやま名家めいかからは、大正たいしょう昭和しょうわ活躍かつやくした貴族きぞくいん議員ぎいんでもあった、社会しゃかい活動かつどうの「山名やまなよしづる」(やまなよしつる)が誕生たんじょうしています。

村岡むらおかはん(むらおかはん)

山家やまがはん(やまがはん)

山家藩(やまがはん)

大名だいみょうかくとしては、国主こくしゅじゅん国主こくしゅ城主じょうしゅ城主じょうしゅかく陣屋じんやしろ)のうちの「陣屋じんや」に該当がいとうするしょうはんでしたが、初代しょだい藩主はんしゅとなった「たにまもるとも」(たにもりとも)は、「織田おだ信長のぶなが」、「豊臣とよとみ秀吉ひでよし」らにもつかえ、おおくの武勲ぶくんあらわしためい武将ぶしょう。「賤ヶだけたたか」(しずがたけのたたかい)、「小牧こまき長久手ながくてたたか」、「九州きゅうしゅうやく」など、豊臣とよとみ秀吉ひでよし名高なだかせんのほとんどに参戦さんせんしています。

とくに、「羽柴はしば豊臣とよとみ秀吉ひでよし配下はいかおり中国ちゅうごくめの「三木みきしろ攻略こうりゃくさいちちまもるこう(もりよし)が戦死せんし弱冠じゃっかん17さいであったまもるともは、かたきである「しつしょう兵衛ひょうえ」(むろこへい)をち、ちち亡骸なきがら回収かいしゅうするという武功ぶこうしめし、信長のぶながより感状かんじょうけ、加増かぞううえ丹波山たばやま城主じょうしゅとなりました。

1600ねん慶長けいちょう5ねん)、「関ヶ原せきがはらたたか」のさい西にしぐんとして、丹波たんば福知山ふくちやま城主じょうしゅ小野木おのぎ重次しげつぐ」、亀岡かめおか城主じょうしゅ前田まえだ重次しげつぐ」とともに、「細川ほそかわ藤孝ふじたか幽斎ゆうさい)」がもる丹後たんご田辺たなべしろ攻撃こうげき。しかし実際じっさいのところまもるともは、「徳川とくがわ家康いえやす」が反旗はんきひるがえした「上杉うえすぎ景勝かげかつ」の会津あいづ征伐せいばつかう以前いぜんに、「本多ほんだ正純まさずみ」(ほんだまさずみ)をかいして徳川とくがわたいする臣下しんか意思いしせていたものの、同行どうこうゆるされず、畿内きない警備けいびめいじられていたのです。周囲しゅうい勢力せいりょく畿内きない西にしぐんとしてがるなかまもるとも自家じか存続そんぞくのため、はんして西にしぐんくみすることとなりました。

こうしてまもるともは、細川ほそかわ藤孝ふじたかもる丹後たんご田辺たなべじょうめることとなりましたが、藤孝ふじたか歌道かどう弟子でしでもあったことにくわえ、西にしぐんぞくしたことも不本意ふほんいでした。そのため、すでに藤孝ふじたか内通ないつう西にしぐんかた戦意せんいうたがわれぬよう、藤孝ふじたかもる田辺たなべじょうかって空砲くうほうはなったのです。これは、のちに「たにそら鉄砲てっぽう」という言葉ことば揶揄やゆされます。関ヶ原せきがはらたたか細川ほそかわ本多ほんだ正純まさずみなどの仲介ちゅうかいにより、はやくからひがしぐん内応ないおうしていたことがみとめられ、所領しょりょう安堵あんどされたことで、山家やまがはんりつはんいたりました。

陣屋じんや大名だいみょう」(じんやだいみょう)は、だてはんから明治維新めいじいしんまでてんふうなどもなく、ひとつのいえ藩主はんしゅつとげることがおおいのですが、山家やまがはんもまたおなじ。たにが、まもるともからまもるしげる(もりしげ)まで、13だいわた領有りょうゆう明治維新めいじいしんむかえ、1869ねん明治めいじ2ねん)に子爵ししゃくたまわり、1871ねん明治めいじ4ねん)の「廃藩置県はいはんちけん」にいたるまで存続そんぞくしたあと、京都きょうと編入へんにゅうされました。

はん領地りょうちは、山地さんちおお稲作いなさくなどに不向ふむきであり、財政ざいせいかならずしも潤沢じゅんたくではありません。そこで、はんげて林業りんぎょうなどを奨励しょうれいし、現在げんざい京都きょうと指定してい無形むけい文化財ぶんかざいにもなっている特産とくさんひん黒谷くろたに和紙わし」(くろたにわし)などではん財政ざいせいささえていました。黒谷くろたに和紙わしは、源平げんぺい合戦かっせんやぶれた「平家へいけ」の武者むしゃたちが山谷さんやかくみ、生活せいかつのためにはじめたとわれています。

また、たに公家くげとも関係かんけいふかく、まもるともむすめけん大納言だいなごんえん基音きおん」(そのもとなり)にとつぎ、姻戚いんせき関係かんけいにありました。そのむすめである「えん国子くにこ」(まもるとも孫娘まごむすめ)が後宮こうきゅう(こうきゅう)にはいり、皇嗣こうし(こうし:皇位こうい継承けいしょうだい1人物じんぶつ)をんだことで、外孫そとまご一人ひとりだい112だいれいもと天皇てんのう」(れいげんてんのう)として即位そくい現代げんだい皇室こうしつにもたにつたわっています。

たに武事ぶじとうと家柄いえがらでもあり、初代しょだいまもるともちちまもるこのみ当時とうじ刀剣とうけん性能せいのう測定そくていほうである「ためしがたなじゅつ」を創始そうし研鑽けんさんし「たにりゅう」として伝来でんらい。「公儀こうぎさま御用ごよう」(こうぎおためしごよう)をつとめた首切くびきあさみぎ衛門えもんこと、「山田やまだあさみぎ衛門えもん」(やまだあさえもん)らを輩出はいしゅつしています。

このあさみぎ衛門えもん系譜けいふは、9代目だいめ山田やまだよしあきら」(やまだよしふさ)までつづき、1911ねん明治めいじ44ねん)にくなるまで、「大久保おおくぼ利通としみち」(おおくぼとしみち)暗殺あんさつはんの「島田しまだ一郎いちろう」たちをはじめ、明治めいじ毒婦どくふばれた「高橋たかはしでん」(たかはしおでん)を処刑しょけいするなど、あさみぎ衛門えもんじぬ活躍かつやくのこしました。

山家やまがはん(やまがはん)

よどみはん(よどはん)

淀藩(よどはん)

江戸城えどじょう登城とじょうさいひかえのあいだは「かりあいだ」(かりのま)であり、かりあいだ一般いっぱんには3まんせき以上いじょう、15まんせき未満みまん譜代ふだい大名だいみょうひかえるあいだとされていました。

よどみはん」(よどはん:現在げんざい京都きょうと)は、1622ねん元和がんわ8ねん)に「伏見ふしみじょう」(ふしみじょう:現在げんざい京都きょうと)を居城きょじょうとする「伏見ふしみはん」がはいはんになったことにより、よく1623ねん元和がんわ9ねん)に「掛川かけがわはん」(かけがわはん:現在げんざい静岡しずおかけん)より、「松平まつだいら定綱さだつな」(まつだいらさだつな)が3まん5,000せきはいったことにはじまります。

定綱さだつな京都きょうと防衛ぼうえいのため、居城きょじょうとなる「よどみじょう」(よどじょう)築城ちくじょう尽力じんりょく。このよどみじょうは、「豊臣とよとみ秀頼ひでより」のはは淀殿よどどの」にあたえられた「よどみ古城こじょう」とは場所ばしょちがうとされています。ちなみによどみ古城こじょう築城ちくじょうは、「応仁おうにんらん」をこしたとされる、「畠山はたけやま政長まさなが」(はたけやままさなが)です。

松平まつだいら定綱さだつなは、「松尾まつお芭蕉ばしょう」にも影響えいきょうあたえたとわれる大名だいみょう歌人かじん木下きのした勝俊かつとし」(きのしたかつとし)や、「綺麗きれいさび」で名高なだかとおしゅうりゅう茶道さどう小堀こぼりとおしゅう」(こぼりえんしゅう:本名ほんみょう小堀こぼり政一まさかず])、儒学じゅがく大家たいかはやし羅山らざん」(はやしらざん)などの当代とうだいきっての文化ぶんかじんとも交流こうりゅうがあり、1680ねんのべたから8ねん)に編纂へんさんされた歌集かしゅうせいあまり雕玉」(せいよちょうぎょく)にもかれらととも詩歌しか収録しゅうろくされています。また江戸えど初期しょき兵法ひょうほう小幡おばた景憲かげのり」(おばたかげのり)より、甲州こうしゅうりゅう軍学ぐんがくまなんだとされる才人さいじんでもありました。

淀城跡

よどみ城跡じょうせき

藩政はんせい基盤きばんは、1633ねん寛永かんえい10ねん)に「古河ふるかわはん」(こがはん:現在げんざい茨城いばらきけん)よりはいった「永井ながいしょうせい」(ながいなおまさ)が、城下町じょうかまち開発かいはつ家臣かしんだん編成へんせい木津川きづがわ治水ちすい事業じぎょう尽力じんりょくかためることとなります。なおせいは、徳川とくがわ2だい将軍しょうぐん秀忠ひでただ」の近習きんじゅとして「大坂おおさかじん」で活躍かつやく。1622ねん元和がんわ8ねん)には、老中ろうじゅうにも抜擢ばってきされ、「井上いのうえただし就」(いのうえまさなり)、「板倉いたくら重宗しげむね」(いたくらしげむね)とともに「秀忠ひでただ近侍きんじさんしん」と評価ひょうかされるめいしんでもありました。

以降いこう石川いしかわ戸田とだ松平まつへい大給おぎゅう松平まつだいら藩主はんしゅわり、1723ねんとおる8ねん)に「稲葉いなばただし」(いなばまさとも)がはいると、以降いこう稲葉いなば幕末ばくまつまで藩主はんしゅつとめます。稲葉いなばは、10まん2,000せきという大身たいしんでしたが、全国ぜんこくにその所領しょりょう分散ぶんさんされており、山代やましろこくでの所領しょりょうは2まんせきにもたなかったとのこと。そのため、はん同様どうようはん財政ざいせい窮乏きゅうぼうなやまされつづけることとなりました。

よどみはん稲葉いなば後世こうせい評判ひょうばん決定けっていづけたのは、12だい藩主はんしゅ稲葉いなば正邦まさくに」(いなばまさくに)です。正邦まさくに自身じしんは、幕府ばくふ老中ろうじゅうしょくを2つとめ、「板倉いたくらかつしず」(いたくらかつきよ)や「小笠原おがさわら長行おさゆき」(おがさわらながみち)らととも活躍かつやくしましたが、かれ江戸詰えどづめ最中さいちゅうに「鳥羽とば伏見ふしみたたか」が勃発ぼっぱつ城代じょうだいが、朝廷ちょうていより朝敵ちょうてきにされたきゅう幕府ばくふぐんれをこばんだため、きゅう幕府ばくふぐん敗戦はいせん決定的けっていてきなものとしてしまいました。

その正邦まさくにきゅう幕府ばくふ崩壊ほうかい老中ろうじゅうであったため、しん政府せいふから謹慎きんしん処分しょぶんとなりますが、翌月よくげつにはゆるされて京都きょうと警備けいびまかされ、翌年よくねん版籍はんせき奉還ほうかんによってはん知事ちじとなっています。ただし、のちの時代じだい小説しょうせつなどで、きゅう幕府ばくふぐん拒絶きょぜつ批判ひはんする記述きじゅつなどもあり、よどみはん稲葉いなば裏切うらぎものという立場たちば決定けっていけてしまうこととなりました。

よどみはん(よどはん)

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