姫路城
姫路藩と言えば、白鷺にも例えられる優美な名城「姫路城」がまず思い浮かぶはず。それでは、その立派なお城の城主は何家かと聞かれると、返事に困る人が多いのではないでしょうか。
実は、姫路藩の藩主家は安定せず、入れ替えのもっとも多かった藩なのです。まずは外様の「池田輝政」(いけだてるまさ)が52万石で播磨一国を与えられて入封しましたが、3代で因幡「鳥取藩」(とっとりはん:現在の鳥取県)へ国替えされています。伝奇として名高い、「宮本武蔵」(みやもとむさし)の姫路城天守閣の「妖怪退治」は、藩制以前、木下家定が城主だった旧姫路城時代のお話ですが、池田城主時代もしばしば妖怪が城内に出没したと伝えられているのです。そのため、姫路城内には、いくつかの開かずの部屋が存在したと言われています。
ちなみに家定の妹は、豊臣秀吉の正妻、北政所。秀吉の義兄ということで、秀吉の旧姓「木下」を与えられ、姫路城主時代には「羽柴」を名乗ることを許されています。また、悪名高い「小早川秀秋」(こばやかわひであき)は家定の5男です。
池田家3代に続いて、親藩の「本多忠政」(ほんだただまさ)が伊勢「桑名藩」(くわなはん:現在の三重県)より15万石で姫路入りするものの、これも3代で大和「郡山藩」(こおりやまはん:現在の奈良県)へ国替え。その後は、譜代の「松平(奥平)忠明」(まつだいら[おくだいら]ただあき)が18万石で入府しますが、嫡男「忠弘」(ただひろ)が幼主だったため出羽「山形藩」(やまがたはん:現在の山形県)へ。
入れ替わりに出羽から来たのは、やはり親藩の「松平(越前)直基」(まつだいら[えちぜん]なおもと)でしたが、ほどなく没し、その子の「直矩」(なおのり)は7歳で越後「村上藩」(むらかみはん:現在の新潟県)に国替。
陸奥「白河藩」(しらかわはん:現在の福島県)からやってきたのは、徳川四天王のひとり「榊原忠次」(さかきばらただつぐ)。榊原家は3代続きましたが、幼主「榊原政倫」(さかきばらまさみち)と交換で、越後村上藩から松平(越前)直矩が出戻り。
以後は、「本多家」(譜代・2代続く)、「榊原家」(譜代・4代続く)、「松平(越前)家」(譜代、2代続く)と来て、最後の酒井家(譜代)になって、ようやく9代までつながりました。
このように短命城主が続いたのは、枢要の地・姫路の城主に幼主は心もとないという、将軍家の判断だったのでしょう。妖怪の祟りではなさそうです。
転々とする藩主家は酒井氏の下で安定しましたが、1749年(寛延2年)の「姫路藩寛延一揆」などにより、藩財政は厳しさを増し、19世紀初頭に藩の借金は73万両(現在の価値で約73億円)という莫大な額にのぼったと言われています。
1808年(文化5年)に、家老「河合道臣/寸翁」(かわいみちおみ/すんのう)が、「諸方勝手向」に任命され、財政改革に取り組むこととなります。「質素倹約令」を敷きつつ、領内に義倉(固寧倉)を設けて農民の救済もし、藩に安定をもたらせるよう努めました。また、新田開発や飾磨港の整備などを行ない、特産品の「木綿」を専売制として莫大な利益を確保し、藩の借金を完済したとされています。
これ以外にも、すでにあった藩校「好古堂」(こうこどう)とは別に、私財を投じて「仁寿山黌」(じんじゅさんこう)を設立し、「頼山陽」(らいさんよう)や「森田節斉」(もりたせっさい)、「猪飼敬所」(いかいけいしょ)らを迎え、漢学・国学・医学を教え、教育の奨励、人材育成に取り組みました。その功績は計り知れず、現在も、姫路神社内に「寸翁神社」(すんのうじんじゃ)として祀られているのです。