なめとこ山ざんの熊くま

　なめとこ山ざんの熊くま（くま）のことならおもしろい。なめとこ山ざんは大おおきな山やまだ。淵ふち沢さわ（ふちざわ）川かわはなめとこ山ざんから出でて来くる。なめとこ山ざんは一いち年ねんのうち大たいていの日ひはつめたい霧きりか雲くもかを吸すったり吐はいたりしている。まわりもみんな青黒あおぐろいなまこや海坊主うみぼうずのような山やまだ。山やまのなかごろに大おおきな洞穴どうけつ（ほらあな）ががらんとあいている。そこから淵ふち沢川さわかわがいきなり三さん百ひゃく尺しゃくぐらいの滝たきになってひのきやいたやのしげみの中なかをごうと落おちて来くる。
　中山なかやま街道かいどうはこのごろは誰だれ（たれ）も歩あるかないから蕗ふき（ふき）やいたどりがいっぱいに生はえたり牛うしが遁（に）げて登のぼらないように柵しがらみ（さく）をみちにたてたりしているけれどもそこをがさがさ三里さんりばかり行いくと向むこうの方ほうで風ふうが山やまの頂いただきを通とおっているような音おとがする。気きをつけてそっちを見みると何なんだかわけのわからない白しろい細長ほそながいものが山やまをうごいて落おちてけむりを立たてているのがわかる。それがなめとこ山ざんの大空滝おおぞらのたきだ。そして昔むかしはそのへんには熊くまがごちゃごちゃ居いたそうだ。ほんとうはなめとこ山ざんも熊くまの胆きも（い）も私わたしは自分じぶんで見みたのではない。人ひとから聞きいたり考かんがえたりしたことばかりだ。間あいだちがっているかもしれないけれども私わたしはそう思おもうのだ。とにかくなめとこ山ざんの熊くまの胆きも（い）は名高なだかいものになっている。
　腹はらの痛いたいのにもきけば傷きずもなおる。鉛なまりの湯ゆの入口いりくちになめとこ山ざんの熊くまの胆きも（い）ありという昔むかしからの看板かんばんもかかっている。だからもう熊くまはなめとこ山ざんで赤あかい舌したをべろべろ吐はいて谷たにをわたったり熊くまの子供こどもらがすもうをとっておしまいぽかぽか撲なぐ（なぐ）りあったりしていることはたしかだ。熊くま捕とりの名人めいじんの淵ふち沢さわ小しょう十じゅう郎ろうがそれを片かたっぱしから捕とったのだ。
　淵ふち沢さわ小しょう十じゅう郎ろうはすがめの赭黒（あかぐろ）いごりごりしたおやじで胴どうは小ちいさな臼うす（うす）ぐらいはあったし掌てのひら（てのひら）は北島きたじまの毘沙門びしゃもん（びしゃもん）さんの病気びょうきをなおすための手形てがたぐらい大おおきく厚あつかった。小しょう十じゅう郎ろうは夏なつなら菩提樹ぼだいじゅ（マダ）の皮かわでこさえたけらを着きてはむばきをはき生蕃せいばん（せいばん）の使つかうような山刀やまがたなとポルトガル伝来でんらいというような大おおきな重おもい鉄砲てっぽうをもってたくましい黄きいろな犬いぬをつれてなめとこ山ざんからしどけ沢さわから三みつ又またからサッカイの山やまからマミ穴あな森もりから白沢しらさわからまるで縦横じゅうおうにあるいた。木きがいっぱい生はえているから谷たにを溯さかのぼ（のぼ）っているとまるで青黒あおぐろいトンネルの中なかを行いくようで時ときにはぱっと緑みどりと黄金おうごん（きん）いろに明あかるくなることもあればそこら中ちゅうが花はなが咲さいたように日光にっこうが落おちていることもある。そこを小しょう十じゅう郎ろうが、まるで自分じぶんの座敷ざしきの中なかを歩あるいているというふうでゆっくりのっしのっしとやって行いく。犬いぬはさきに立たって崖がけ（がけ）を横よこ這（よこば）いに走はしったりざぶんと水すいにかけ込こんだり淵ふちののろのろした気味きみの悪わるいとこをもう一生いっしょうけん命めいに泳およいでやっと向むこうの岩いわにのぼるとからだをぶるぶるっとして毛けをたてて水みずをふるい落おとしそれから鼻はなをしかめて主人しゅじんの来くるのを待まっている。小しょう十じゅう郎ろうは膝ひざ（ひざ）から上うえにまるで屏風びょうぶ（びょうぶ）のような白しろい波なみをたてながらコンパスのように足あしを抜ぬき差さしして口くちを少すこし曲まげながらやって来くる。そこであんまり一いちぺんに言いってしまって悪わるいけれどもなめとこ山ざんあたりの熊くまは小しょう十じゅう郎ろうをすきなのだ。その証拠しょうこには熊くまどもは小しょう十じゅう郎ろうがぼちゃぼちゃ谷たにをこいだり谷たにの岸きしの細ほそい平たいらないっぱいにあざみなどの生はえているとこを通とおるときはだまって高たかいとこから見送みおくっているのだ。木きの上うえから両手りょうてで枝えだにとりついたり崖がけの上うえで膝ひざをかかえて座すわったりしておもしろそうに小しょう十じゅう郎ろうを見送みおくっているのだ。まったく熊くまどもは小しょう十じゅう郎ろうの犬いぬさえすきなようだった。けれどもいくら熊くまどもだってすっかり小しょう十じゅう郎ろうとぶっつかって犬いぬがまるで火ひのついたまりのようになって飛とびつき小しょう十じゅう郎ろうが眼め（め）をまるで変へんに光ひからして鉄砲てっぽうをこっちへ構かまえることはあんまりすきではなかった。そのときは大たいていの熊くまは迷惑めいわくそうに手てをふってそんなことをされるのを断ことわった。けれども熊くまもいろいろだから気きの烈れつ（はげ）しいやつならごうごう咆（ほ）えて立たちあがって、犬いぬなどはまるで踏ふみつぶしそうにしながら小しょう十じゅう郎ろうの方ほうへ両手りょうてを出だしてかかって行いく。小しょう十じゅう郎ろうはぴったり落おち着ついて樹き（き）をたてにして立たちながら熊くまの月つきの輪わをめがけてズドンとやるのだった。すると森もりまでががあっと叫さけんで熊くまはどたっと倒たおれ赤黒あかぐろい血ちをどくどく吐はき鼻はなをくんくん鳴ならして死しんでしまうのだった。小しょう十じゅう郎ろうは鉄砲てっぽうを木きへたてかけて注意深ちゅういぶかくそばへ寄よって来きてこう言いうのだった。
「熊くま。おれはてまえを憎にくくて殺ころしたのでねえんだぞ。おれも商売しょうばいならてめえも射い（う）たなけぁならねえ。ほかの罪つみのねえ仕事しごとしていんだが畑はたけはなし木きはお上かみのものにきまったし里さとへ出でても誰だれ（たれ）も相手あいてにしねえ。仕方しかたなしに猟師りょうしなんぞしるんだ。てめえも熊くまに生うまれたが因果いんがならおれもこんな商売しょうばいが因果いんがだ。やい。この次つぎには熊くまなんぞに生うまれなよ」
　そのときは犬いぬもすっかりしょげかえって眼めを細ほそくして座すわっていた。
　何なにせこの犬いぬばかりは小しょう十じゅう郎ろうが四よん十じゅうの夏なつうち中ちゅうみんな赤痢せきり（せきり）にかかってとうとう小しょう十じゅう郎ろうの息子むすことその妻つまも死しんだ中なかにぴんぴんして生いきていたのだ。
　それから小しょう十じゅう郎ろうはふところからとぎすまされた小刀こがたなを出だして熊くまの顎あご（あご）のとこから胸むねから腹はらへかけて皮かわをすうっと裂さいていくのだった。それからあとの景色けしきは僕ぼくは大だいきらいだ。けれどもとにかくおしまい小しょう十じゅう郎ろうがまっ赤あかな熊くまの胆きも（い）をせなかの木きのひつに入いれて血ちで毛けがぼとぼと房ぼうになった毛皮けがわを谷たにであらってくるくるまるめせなかにしょって自分じぶんもぐんなりした風ふうで谷たにを下くだって行いくことだけはたしかなのだ。
　小しょう十じゅう郎ろうはもう熊くまのことばだってわかるような気きがした。ある年としの春はるはやく山やまの木きがまだ一本いっぽんも青あおくならないころ小しょう十じゅう郎ろうは犬いぬを連つれて白沢しらさわをずうっとのぼった。夕方ゆうがたになって小しょう十じゅう郎ろうはばっかぃ沢さわへこえる峯みね（みね）になった処しょ（ところ）へ去年きょねんの夏なつこさえた笹ささ小屋こや（ささごや）へ泊とまろうと思おもってそこへのぼって行いった。そしたらどういう加減かげんか小しょう十じゅう郎ろうの柄えにもなく登のぼり口こうをまちがってしまった。
　なんべんも谷たにへ降おりてまた登のぼり直なおして犬いぬもへとへとにつかれ小しょう十じゅう郎ろうも口くちを横よこにまげて息いきをしながら半分はんぶんくずれかかった去年きょねんの小屋こやを見みつけた。小しょう十じゅう郎ろうがすぐ下したに湧水わきみず（わきみず）のあったのを思おもい出だして少すこし山やまを降ふりかけたら愕（おどろ）いたことは母親ははおやとやっと一いち歳さいになるかならないような子こ熊ぐまと二に疋（ひき）ちょうど人ひとが額がくに手てをあてて遠とおくを眺ながめ（なが）めるといったふうに淡あわい六ろく日にちの月光げっこうの中なかを向むこうの谷たにをしげしげ見みつめているのにあった。小しょう十じゅう郎ろうはまるでその二に疋の熊くまのからだから後光ごこうが射さすように思おもえてまるで釘くぎ付づけ（くぎづ）けになったように立たちどまってそっちを見みつめていた。すると小熊こぐまが甘あまえるように言いったのだ。
「どうしても雪ゆきだよ、おっかさん谷だにのこっち側がわだけ白しろくなっているんだもの。どうしても雪ゆきだよ。おっかさん」
　すると母親ははおやの熊くまはまだしげしげ見みつめていたがやっと言いった。
「雪ゆきでないよ、あすこへだけ降ふるはずがないんだもの」
　子こ熊ぐまはまた言いった。
「だから溶とけないで残のこったのでしょう」
「いいえ、おっかさんはあざみの芽めを見みに昨日きのうあすこを通とおったばかりです」
　小しょう十じゅう郎ろうもじっとそっちを見みた。
　月つきの光ひかりが青あおじろく山やまの斜面しゃめんを滑すべっていた。そこがちょうど銀ぎんの鎧よろい（よろい）のように光ひかっているのだった。しばらくたって子こ熊ぐまが言いった。
「雪ゆきでなけぁ霜しもだねえ。きっとそうだ」
　ほんとうに今夜こんやは霜しもが降ふるぞ、お月つきさまの近ちかくで胃い（コキエ）もあんなに青あおくふるえているし第だい一いちお月つきさまのいろだってまるで氷こおりのようだ、小しょう十じゅう郎ろうがひとりで思おもった。
「おかあさまはわかったよ、あれねえ、ひきざくらの花はな」
「なぁんだ、ひきざくらの花はなだい。僕ぼく知しってるよ」
「いいえ、お前まえまだ見みたことありません」
「知しってるよ、僕ぼくこの前まえとって来きたもの」
「いいえ、あれひきざくらでありません、お前まえとって来きたのきささげの花はなでしょう」
「そうだろうか」子こ熊ぐまはとぼけたように答こたえました。小しょう十じゅう郎ろうはなぜかもう胸むねがいっぱいになってもう一いちぺん向むこうの谷たにの白しろい雪ゆきのような花はなと余念よねんなく月光げっこうをあびて立たっている母子ぼしの熊くまをちらっと見みてそれから音おとをたてないようにこっそりこっそり戻もどりはじめた。風かぜがあっちへ行いくな行いくなと思おもいながらそろそろと小しょう十じゅう郎ろうは後退こうたい（あとずさ）りした。くろもじの木きの匂におい（におい）が月つきのあかりといっしょにすうっとさした。

　ところがこの豪儀ごうぎな小しょう十じゅう郎ろうがまちへ熊くまの皮かわと胆きも（きも）を売うりに行いくときのみじめさといったら全まったく気きの毒どくだった。
　町まちの中なかほどに大おおきな荒物屋あらものやがあって笊ざる（ざる）だの砂糖さとうだの砥石といし（といし）だの金きむ天狗てんぐ（きんてんぐ）やカメレオン印しるしの煙草たばこ（たばこ）だのそれから硝子がらす（ガラス）の蠅はえ（はえ）とりまでならべていたのだ。小しょう十じゅう郎ろうが山やまのように毛皮けがわをしょってそこのしきいを一足いっそくまたぐと店みせでは又また来きたかというようにうすわらっているのだった。店みせの次つぎの間まに大おおきな唐金からかね（からかね）の火鉢ひばち（ひばち）を出だして主人しゅじんがどっかり座すわっていた。
「旦那だんな（だんな）さん、先さき（せん）ころはどうもありがどうごあんした」
　あの山やまでは主おものような小しょう十じゅう郎ろうは毛皮けがわの荷物にもつを横よこにおろして叮（てい）ねいに敷板しきいたに手てをついて言いうのだった。
「はあ、どうも、今日きょうは何なんのご用ようです」
「熊くまの皮かわまた少すこし持もって来きたます」
「熊くまの皮かわか。この前まえのもまだあのまましまってあるし今日きょうぁまんついいます」
「旦那だんなさん、そう言いわなぃでどうか買かって呉ご（く）んなさぃ。安やすくてもいいます」
「なんぼ安やすくても要いらなぃます」主人しゅじんは落おち着つきはらってきせるをたんたんとてのひらへたたくのだ、あの豪気ごうきな山やまの中なかの主あるじの小しょう十じゅう郎ろうはこう言いわれるたびにもうまるで心配しんぱいそうに顔かおをしかめた。何なにせ小しょう十じゅう郎ろうのとこでは山やまには栗ぐり（くり）があったしうしろのまるで少すこしの畑はたけからは稗ひえ（ひえ）がとれるのではあったが米べいなどは少すこしもできず味噌みそ（みそ）もなかったから九きゅう十じゅうになるとしよりと子供こどもばかりの七なな人にん家内かないにもって行いく米こめはごくわずかずつでも要いったのだ。
　里さとの方ほうのものなら麻あさもつくったけれども、小しょう十じゅう郎ろうのとこではわずか藤ふじ（ふじ）つるで編あむ入いれ物ものの外そとに布ぬのにするようなものはなんにも出来できなかったのだ。小しょう十じゅう郎ろうはしばらくたってからまるでしわがれたような声こえで言いったもんだ。
「旦那だんなさん、お願ねがいだます。どうが何なにぼでもいいはんて買かって呉ご（く）なぃ」小しょう十じゅう郎ろうはそう言いいながら改あらためておじぎさえしたもんだ。
　主人しゅじんはだまってしばらくけむりを吐はいてから顔かおの少すこしでにかにか笑わらうのをそっとかくして言いったもんだ。
「いいます。置おいでお出でれ。じゃ、平助へいすけ、小しょう十郎じゅうろうさんさ二に円えんあげろじゃ」
　店みせの平助へいすけが大おおきな銀貨ぎんかを四よん枚まい小しょう十じゅう郎ろうの前まえへ座すわって出だした。小しょう十じゅう郎ろうはそれを押おしいただくようにしてにかにかしながら受うけ取とった。それから主人しゅじんはこんどはだんだん機嫌きげんがよくなる。
「じゃ、おきの、小しょう十郎じゅうろうさんさ一いち杯はいあげろ」
　小しょう十じゅう郎ろうはこのころはもううれしくてわくわくしている。主人しゅじんはゆっくりいろいろ談だん（はな）す。小しょう十じゅう郎ろうはかしこまって山やまのもようや何なにか申もうしあげている。間あいだもなく台所だいどころの方ほうからお膳ぜん（ぜん）できたと知しらせる。小しょう十じゅう郎ろうは半分はんぶん辞退じたいするけれども結局けっきょく台所だいどころのとこへ引ひっぱられてってまた叮寧な挨拶あいさつ（あいさつ）をしている。
　間まもなく塩引しおびきの鮭さけ（さけ）の刺身さしみやいかの切きり込こみなどと酒さけが一本いっぽん黒くろい小ちいさな膳ぜんにのって来くる。
　小しょう十じゅう郎ろうはちゃんとかしこまってそこへ腰掛こしかけていかの切きり込こみを手ての甲こうにのせてべろりとなめたりうやうやしく黄きいろな酒さけを小ちいさな猪口ちょこ（ちょこ）についだりしている。いくら物価ぶっかの安やすいときだって熊くまの毛皮けがわ二に枚まいで二に円えんはあんまり安やすいと誰だれ（たれ）でも思おもう。実じつに安やすいしあんまり安やすいことは小しょう十じゅう郎ろうでも知しっている。けれどもどうして小しょう十じゅう郎ろうはそんな町まちの荒物屋あらものやなんかへでなしにほかの人ひとへどしどし売うれないか。それはなぜか大たいていの人ひとにはわからない。けれども日本にっぽんでは狐きつね（きつね）けんというものもあって狐きつねは猟師りょうしに負まけ猟師りょうしは旦那だんなに負まけるときまっている。ここでは熊くまは小しょう十じゅう郎ろうにやられ小しょう十じゅう郎ろうが旦那だんなにやられる。旦那だんなは町まちのみんなの中なかにいるからなかなか熊くまに食くわれない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界せかいがだんだん進歩しんぽするとひとりで消きえてなくなっていく。僕ぼくはしばらくの間あいだでもあんな立派りっぱな小しょう十じゅう郎ろうが二度にどとつらも見みたくないようないやなやつにうまくやられることを書かいたのが実じつにしゃくにさわってたまらない。

　こんなふうだったから小しょう十じゅう郎ろうは熊くまどもは殺ころしてはいても決けっしてそれを憎にくんではいなかったのだ。ところがある年としの夏なつこんなようなおかしなことが起おこったのだ。
　小しょう十じゅう郎ろうが谷たにをばちゃばちゃ渉わたる（わた）って一ひとつの岩いわにのぼったらいきなりすぐ前まえの木きに大おおきな熊くまが猫ねこ（ねこ）のようにせなかを円まるくしてよじ登のぼっているのを見みた。小しょう十じゅう郎ろうはすぐ鉄砲てっぽうをつきつけた。犬いぬはもう大だい悦えつ（おおよろこ）びで木この下したに行いって木きのまわりを烈れつ（はげ）しく馳はせ（は）せめぐった。
　すると樹きの上うえの熊くまはしばらくの間あいだおりて小しょう十じゅう郎ろうに飛とびかかろうかそのまま射い（う）たれてやろうか思案しあんしているらしかったがいきなり両手りょうてを樹きからはなしてどたりと落おちて来きたのだ。小しょう十じゅう郎ろうは油断ゆだんなく銃じゅうを構かまえて打うつばかりにして近寄ちかよって行いったら熊くまは両手りょうてをあげて叫さけんだ。
「おまえは何なにがほしくておれを殺ころすんだ」
「ああ、おれはお前まえの毛皮けがわと、胆きも（きも）のほかにはなんにもいらない。それも町まちへ持もって行いってひどく高たかく売うれるというのではないしほんとうに気きの毒どくだけれどもやっぱり仕方しかたない。けれどもお前まえに今いまごろそんなことを言いわれるともうおれなどは何なにか栗ぐりかしだのみでも食くっていてそれで死しぬならおれも死しんでもいいような気きがするよ」
「もう二に年ねんばかり待まってくれ、おれも死しぬのはもうかまわないようなもんだけれども少すこしし残のこした仕事しごともあるしただ二に年ねんだけ待まってくれ。二に年ねん目めにはおれもおまえの家いえの前まえでちゃんと死しんでいてやるから。毛皮けがわも胃袋いぶくろもやってしまうから」
　小しょう十じゅう郎ろうは変へんな気きがしてじっと考かんがえて立たってしまいました。熊くまはそのひまに足あしうらを全体ぜんたい地面じめんにつけてごくゆっくりと歩あるき出だした。小しょう十じゅう郎ろうはやっぱりぼんやり立たっていた。熊くまはもう小しょう十じゅう郎ろうがいきなりうしろから鉄砲てっぽうを射うったり決けっしてしないことがよくわかってるというふうでうしろも見みないでゆっくりゆっくり歩あるいて行いった。そしてその広ひろい赤黒あかぐろいせなかが木きの枝えだの間あいだから落おちた日光にっこうにちらっと光ひかったとき小しょう十じゅう郎ろうは、う、うとせつなそうにうなって谷たにをわたって帰かえりはじめた。それからちょうど二に年ねん目めだったがある朝ちょう小しょう十じゅう郎ろうがあんまり風ふうが烈はげしくて木きもかきねも倒たおれたろうと思おもって外そとへ出でたらひのきのかきねはいつものようにかわりなくその下したのところに始終しじゅう見みたことのある赤黒あかぐろいものが横よこになっているのでした。ちょうど二に年ねん目めだしあの熊くまがやって来くるかと少すこし心配しんぱいするようにしていたときでしたから小しょう十じゅう郎ろうはどきっとしてしまいました。そばに寄よって見みましたらちゃんとあのこの前まえの熊くまが口くちからいっぱいに血ちを吐はいて倒たおれていた。小しょう十じゅう郎ろうは思おもわず拝おがむようにした。

　一いち月がつのある日ひのことだった。小しょう十じゅう郎ろうは朝あさうちを出でるときいままで言いったことのないことを言いった。
「婆ばば（ば）さま、おれも年とし老ろう（と）ったでばな、今朝けさまず生うまれで始はじめで水みずへ入はいるの嫌いや（や）んたよな気きするじゃ」
　すると縁側えんがわの日ひなたで糸いとを紡つむいでいた九きゅう十じゅうになる小しょう十じゅう郎ろうの母はははその見みえないような眼めをあげてちょっと小しょう十じゅう郎ろうを見みて何なにか笑わらうか泣なくかするような顔かおつきをした。小しょう十じゅう郎ろうはわらじを結ゆわえてうんとこさと立たちあがって出でかけた。子供こどもらはかわるがわる厩うまや（うまや）の前まえから顔かおを出だして「爺じい（じ）さん、早はやぐお出で（で）や」と言いって笑わらった。小しょう十じゅう郎ろうはまっ青さおなつるつるした空そらを見みあげてそれから孫まごたちの方ほうを向むいて「行いって来くるじゃぃ」と言いった。
　小しょう十じゅう郎ろうはまっ白しろな堅けん雪ゆきの上うえを白沢しらさわの方ほうへのぼって行いった。
　犬いぬはもう息いきをはあはあし赤あかい舌したを出だしながら走はしってはとまり走はしってはとまりして行いった。間まもなく小しょう十じゅう郎ろうの影かげは丘おかの向むこうへ沈しずんで見みえなくなってしまい子供こどもらは稗ひえ（ひえ）の藁わら（わら）でふじつきをして遊あそんだ。

　小しょう十じゅう郎ろうは白沢しらさわの岸きしを溯さかのぼ（のぼ）って行いった。水みずはまっ青さおに淵ふち（ふち）になったり硝子がらす（ガラス）板いたをしいたように凍こおったりつららが何なん本ほんも何なん本ほんもじゅずのようになってかかったりそして両りょう岸きしからは赤あかと黄きいろのまゆみの実みが花はなが咲さいたようにのぞいたりした。小しょう十じゅう郎ろうは自分じぶんと犬いぬとの影法師かげぼうしがちらちら光ひかり樺かば（かば）の幹みきの影かげといっしょに雪ゆきにかっきり藍あい（あい）いろの影かげになってうごくのを見みながら溯さかのぼって行いった。
　白沢しらさわから峯みねを一ひとつ越こえたとこに一疋いっぴきの大おおきなやつが棲（す）んでいたのを夏なつのうちにたずねておいたのだ。
　小しょう十じゅう郎ろうは谷たにに入はいって来くる小ちいさな支流しりゅうを五いつつ越こえて何なにべんも何なにべんも右みぎから左ひだり左ひだりから右みぎへ水みずをわたって溯さかのぼって行いった。そこに小ちいさな滝たきがあった。小しょう十じゅう郎ろうはその滝たきのすぐ下かから長根ながねの方ほうへかけてのぼりはじめた。雪ゆきはあんまりまばゆくて燃もえているくらい。小しょう十じゅう郎ろうは眼めがすっかり紫むらさきの眼鏡めがね（めがね）をかけたような気きがして登のぼって行いった。犬いぬはやっぱりそんな崖がけ（がけ）でも負まけないというようにたびたび滑すべりそうになりながら雪ゆきにかじりついて登のぼったのだ。やっと崖がけを登のぼりきったらそこはまばらに栗ぐりの木きの生はえたごくゆるい斜面しゃめんの平たいらで雪ゆきはまるで寒水かのみず石せきという風ふうにギラギラ光ひかっていたしまわりをずうっと高たかい雪ゆきのみねがにょきにょきつったっていた。小しょう十じゅう郎ろうがその頂上ちょうじょうでやすんでいたときだ。いきなり犬いぬが火ひのついたように咆（ほ）え出だした。小しょう十じゅう郎ろうがびっくりしてうしろを見みたらあの夏なつに眼めをつけておいた大おおきな熊くまが両足りょうあしで立たってこっちへかかって来きたのだ。
　小しょう十じゅう郎ろうは落おちついて足あしをふんばって鉄砲てっぽうを構かまえた。熊くまは棒ぼうのような両手りょうてをびっこにあげてまっすぐに走はしって来きた。さすがの小しょう十じゅう郎ろうもちょっと顔かおいろを変かえた。
　ぴしゃというように鉄砲てっぽうの音おとが小しょう十じゅう郎ろうに聞きこえた。ところが熊くまは少すこしも倒たおれないで嵐あらし（あらし）のように黒くろくゆらいでやって来きたようだった。犬いぬがその足あしもとに噛（か）み付ついた。と思おもうと小しょう十じゅう郎ろうはがあんと頭あたまが鳴なってまわりがいちめんまっ青さおになった。それから遠とおくでこう言いうことばを聞きいた。
「おお小しょう十郎じゅうろうおまえを殺ころすつもりはなかった」
　もうおれは死しんだと小しょう十じゅう郎ろうは思おもった。そしてちらちらちらちら青あおい星ほしのような光ひかりがそこらいちめんに見みえた。
「これが死しんだしるしだ。死しぬとき見みる火ひだ。熊くまども、ゆるせよ」と小しょう十じゅう郎ろうは思おもった。それからあとの小しょう十じゅう郎ろうの心持こころもちはもう私わたしにはわからない。
　とにかくそれから三さん日にち目めの晩ばんだった。まるで氷こおりの玉たまのような月つきがそらにかかっていた。雪ゆきは青白あおじろく明あかるく水みずは燐光りんこう（りんこう）をあげた。すばるや参まいり（しん）の星ほしが緑りょくや橙だいだい（だいだい）にちらちらして呼吸こきゅうをするように見みえた。
　その栗ぐりの木きと白しろい雪ゆきの峯みね々にかこまれた山やまの上うえの平たいらに黒くろい大おおきなものがたくさん環たまき（わ）になって集つどって各々おのおの黒くろい影かげを置おき回かい々（フイフイ）教徒きょうとの祈いのるときのようにじっと雪ゆきにひれふしたままいつまでもいつまでも動うごかなかった。そしてその雪ゆきと月つきのあかりで見みるといちばん高たかいとこに小しょう十じゅう郎ろうの死骸しがい（しがい）が半分はんぶん座すわったようになって置おかれていた。
　思おもいなしかその死しんで凍こごえてしまった小しょう十じゅう郎ろうの顔かおはまるで生いきてるときのように冴さえ（さ）え冴さえ（ざ）えして何なにか笑わらっているようにさえ見みえたのだ。ほんとうにそれらの大おおきな黒くろいものは参まいりの星ほしが天てんのまん中なかに来きてももっと西にしへ傾かたむいてもじっと化石かせきしたようにうごかなかった。