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田山録弥 黒猫

くろねこ

田山たやまろくわたる




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 知識ちしき堆積たいせき貯蔵ちょぞうしてくことが出来できるが、芸術げいじゅつにはそれが出来できぬ。何故なぜなら、芸術げいじゅつくまでも刹那せつなてき醗酵はっこうてきであらねばならないからである。
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 曾ては、かういふことをひとげん自分じぶんげんつた。よんじゅうじゅうになつたら、ちつとはなかのこともわかるだらう。すこしはすぐれたものもけるだらうと。想像そうぞうまった反対はんたいであつた。経験けいけんなどはけっしてめてくことの出来できるものではなかつた。たとへめていたにしても、それはきょう訓話くんわぐらゐのものにしかやくにたなかつた。
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 えず芸術げいじゅつてき気分きぶんかもされてゐるところにのみ、またえず燃焼ねんしょうてき態度たいどもたしてゐるところにのみ、芸術げいじゅつくろねこすわる。そしてその空気くうき稀薄きはくになれば、いつでも足音あしおとてずにそつとくだりつてりょうふ。
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 M・Kくんげんつた。『文章ぶんしょうとか、技巧ぎこうとかはなにうでもいから、もつとちからこめつた本当ほんとう素朴そぼくなものはないでせうかな……。小利口こりこう面白おもしろ半分はんぶんさくにはもうあきあきしました』わたし至極しごく同感どうかんだ。
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 わたしはまたあるひとげんつた。『きみ酒仙しゅせんだし、ぼくも曾つてその一人ひとりだつたから、よくめるとおもふが、あの葛西かさい善蔵ぜんぞうの『うごめしゃ』はあれはかんくだぢやないか。よいはらいひがかんいてゐるんぢやないか。面白おもしろいとげんへばそれが面白おもしろいのだが、あれからアルコール中毒ちゅうどくをさしけば、ゼロになりはしないかね? ……しかし、それもぼく酒仙しゅせんでなくなつたのでそれでさういふことをいふのかもれないけれどもね?』
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 さけをよしていちねんほどしたのちで、わたし自分じぶん自分じぶんげんつた。『不思議ふしぎがするな。いままで自分じぶんいたものは、みなさけかせたのだな? ……あのセンチメンタルはみなしゅげんはせたのだ……。本当ほんとう自分じぶんではなかつたのだ……』はたしてその本当ほんとう自分じぶんほういかさけかしたもののほういか、それは自分じぶんにもちよつとわからないが、うさぎかくさうおもえつたことをわたし繰返くりかえした。
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 よんがつ小説しょうせつでは、なんげんつても、あの島崎しまざき藤村とうそんの『さんにん』をわたしる。あの若々わかわかしさは? あのみず々しさは?
 Sくんげんつた。『さうですね。おくれるとかなにとかげんつたつて、そんなことはたいしたことはありませんね。丁度ちょうどあのそらかりれつのやうなものですよ。かりさききになつたりすることもありますけれども、またぢきにもとにかへつてきますよ。おくれるとかさきだつとかいふことは問題もんだいにするにはりないとおもひますね』
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 そのおなじん言葉ことばに、『さうですね。宇野うの浩二こうじくんのものには、とても完璧かんぺきげんつたやうなものはのぞむことは出来できないでせうね。なにうもナラチイブですね……。そのかわ何処どこかにユニツクなところはあるにはありますがね――』
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 だれ新聞しんぶん雑誌ざっし文芸ぶんげいらんへん輯振を批評ひひょうするものはないか。また、なん新聞しんぶん小説しょうせつ採録さいろくする方針ほうしんなにう? なん雑誌ざっし文芸ぶんげいろんせる態度たいどなにう? といふふうにその記者きしゃについて意見いけんべる批評ひひょうないか。広告こうこく関係かんけいがあるからとげんつて、毎月まいつき小説しょうせつ月評げっぴょうばかりやらずに、たまにはさういふ文芸ぶんげい記者きしゃ月評げっぴょうをするのもひとつの方法ほうほうではないか。新聞しんぶん雑誌ざっし文芸ぶんげいたいする態度たいど如何いかが、ときにはその芸術げいじゅつおこし、またときにはおとろえへさせるかたむきが全然ぜんぜんないとはげんはれないとわたしおもふ。
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 新聞しんぶん広告こうこくのために月評げっぴょう必要ひつようとする態度たいどは、商売しょうばいじょうむをないかもれぬが、いやなことだとおもえつた。
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風流ふうりゅうろん』はその作者さくしゃつては当然とうぜん立場たちばだといふはした。おそらくいまのあの作者さくしゃにはあれでいのだらう。しかし、あの作者さくしゃがあそこでたてとめつてゐたら、わたしはあの作者さくしゃおおきいとはおもへない。あの作者さくしゃがああいふ立場たちばからもういちおどして、いろいろなものを燃焼ねんしょうしてりょうつて、それから本当ほんとうのものがるとわたしおもえつてゐる。わたしはそのときるのを期待きたいしてゐる。必然ひつぜん期待きたいしてゐる。
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 うた俳句はいくとの相違そういは、みじかかいとかながいとかいふことの相違そういではあるまい。もつと根本こんぽんてきであらう。うた俳句はいくとは、その性質せいしつもそのざすところも、その発達はったつもすべてまるたがえつててゐるとおもふ。和歌わか詠嘆えいたんてきでなければならない性質せいしつつてゐる。何故なぜならばうた芸術げいじゅつといふよりもむしろそのひと日記にっきといふかたちであるからである。それにくらべると俳句はいくはやや独立どくりつしてゐる。客観きゃっかんてきである。したがえつて詠嘆えいたんとか意志いしとかいふことを目的もくてきとしてゐないやうなかたちがある。だからたんはしてきといふ意味いみからげんへば、俳句はいくよりもうたほう生活せいかつについてゐるわけである。わたしうたについてはさういふ教養きょうようからけてゐるので――いやいまだにそれをしんじてゐるので、いま歌人かじん諸君しょくんうたのやうに、うたふといふ本来ほんらい性質せいしつしつつたものには、さうおおくの共鳴きょうめいかんずることが出来できない。
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 うたふでかみくものではない。かんはさまつてこうしてぢかにうたつたものだ。ひとわかれるときでもなんでもみなさうだ――かううた師匠ししょうわたしげんつて、こえげてまんよううたをうたつてきかせた。わたしはそのときなんともげんはれぬがしたことをいまでもはつきりとおぼえてゐる。
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 俳句はいくでも最後さいごには現象げんしょうてきでそして根本こんぽんてきであるやうなものがおもじられてくだりつてゐる。なんでもおなじことだ。
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 つて一丸いちがんとなす――押詰おしつめてくと、さういふよりためかたがなくなる。げんじょうといひといひ、また意志いしといひ感覚かんかくといひ、気分きぶんといひ、みなその一部いちぶ乃至ないし一角いっかく都合つごうじょうげんつてゐるので、じつみな同時どうじにあるものなのである。じょうひとつになつてゐるものである。感覚かんかく意志いし気分きぶんはなれるべからず、またわかつべからざる状態じょうたいになつてゐるのである。つて一丸いちがんとなしたところに、はじめて主客しゅかく融合ゆうごうさかいうましてるのである。しかし、このさかい非常ひじょうむずかしかしい。いくら言説げんせつしても他人たにんをそこまでともなえれてることは容易よういでない。わたしたところでは、あの大部たいぶ経文きょうもんなども、ようするにその説明せつめいがたさかい説明せつめいしようとしてゐるもので、しかもあれほど忠実ちゅうじつ丁寧ていねいくちくして説明せつめいしても、本当ほんとうのことはちょう他人たにんつたへられずに、いつも誤解ごかい誤解ごかいともなえつててゐるのである。だから、おわりにはだまつてゐるのが一番いちばんいといふことになる。さとるつてもらいふよりにはためかたがないといふことになるのである。そしてこの説明せつめい出来できないことをなにうかして説明せつめいしてやらうとする心持こころもち――そこにも芸術げいじゅつくろねこはチヨコリンとすわつてゐるのをわたしつねる。
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所謂いわゆる盲滅法めくらめっぽうといふことですね。しまひにはなになんだかわからなくなりますね? まア自分じぶんつたものを素直すなお正直しょうじきしてくといふほかありませんね?』わたしたちのちにはこんなことをげんはなければならなくなつた。
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 猥談わいだんげんつては、ちとかるすぎる。さうかとげんつて、性慾せいよくろんげんつては、ちとかたすぎる。この中間ちゅうかんなにうまがないものか。
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 芭蕉ばしょう日光にっこうから黒羽くろはくだりつたを、わたしはじめはべつなにともおもえつてゐなかつたが、宇都宮うつのみやまでもどつて、奥羽おうう阿久津あくつふとし田原たはらといふふうにたどつてぎょうつたものとばかりおもえつてゐたが、ふとあるとき、(イヤ、これはさうぢやないんぢやないか?)とおもいて地図ちずひろげた。それは『これより直道なおみちにかかりしにかんとす』といふ文句もんくとめつたからである。また、(あの時分じぶん交通こうつういま交通こうつう状態じょうたいはんずることは出来できない。あの時分じぶんは、なんでもでもあるくのだから、きんみちを、きんみちをとつてぎょうつたに相違そういない……。さうすると、芭蕉ばしょうかなら日光にっこうで、黒羽くろはくにはなにれをくだりつたら一番いちばんちかいだらうとげんつてきいたに相違そういない……)かうわたしおもえつたからである。で、地図ちずをひろげたわたしは、一大いちだい発見はっけんをしたやうながした。何故なぜといふのに、芭蕉ばしょう今市いまいちからひだりにゅうつて、鬼怒川きぬがわをわたつて、那須野なすの荒蕪こうぶくわうぶなかを、今日きょうでもひと滅多めったとおらないやうなところを一気いっき真直まっすぐに突切つてぎょうつたのであるといふことわたしめてたからである。わたしはそれではじめてあのうまおっとしてれたはなしや、くらつぼぜにをつけてかえしたはなしなどを一層いっそうはつきりとまえうかべることが出来できるやうになつた。いや、こればかりではない。むかし交通こうつういま交通こうつうとでは非常ひじょうたがえつてゐる。『筑紫つくし紀行のりゆき』なども一々いちいちれい地図ちずあわせてると、いろいろなことがわかつてる。げんにこの『筑紫つくし紀行のりゆき』の作者さくしゃは、よりゆき山陽さんようがまだかない以前いぜんおいて、耶馬渓やばけい横断おうだんして、羅漢寺らかんじから英彦山ひこさんへとのぼつてくだりつてゐる。





底本ていほん:「定本ていほん はなぶくろ全集ぜんしゅう だいじゅうよんかん臨川りんせん書店しょてん
   1995(平成へいせい7)ねん4がつ10日とおか発行はっこう
底本ていほんしんほん:「よるすわ金星かなぼしどう
   1925(大正たいしょう14)ねん6がつ20日はつか
初出しょしゅつ:「文芸春秋ぶんげいしゅんじゅう だいねんだいごう 六月ろくがつ特別とくべつ付録ふろくごう
   1924(大正たいしょう13)ねん6がつ1にち
※「みなな」と「みな」の混在こんざいは、底本ていほんどおりです。
初出しょしゅつ表題ひょうだいは「ちいさなくろねこ」です。
入力にゅうりょく特定とくてい営利えいり活動かつどう法人ほうじんはるかぜ
校正こうせい:hitsuji
2021ねん5がつ27にち作成さくせい
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