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内藤湖南 聖徳太子

聖徳太子しょうとくたいし

内藤ないとう湖南こなん




 聖徳太子しょうとくたいしかんして徳川とくがわ時代じだい儒者じゅしゃこれ作者さくしゃひじりたたえせしじんがあつたが、これもっととうつてつて、殆んど人格じんかく全體ぜんたいを悉してるとおもふ。ささえ作者さくしゃひじりしょうするのは、すなわ人民じんみんため生活せいかつかんする種々しゅじゅ仕事しごと器物きぶつなど、さらすすんでは文物ぶんぶつ典章てんしょうさくつたじん聖人せいじんとするといい意味いみで、ふく犧神のう以下いか文武ぶんぶしゅうこういたるまでみなさういい性質せいしつひとである。日本にっぽんでは勿論もちろん人民じんみん生活せいかつかんする一般いっぱんてきのことはまえから自國じこく發明はつめいされてることもり、また聖徳太子しょうとくたいし以前いぜんおいささえから輸入ゆにゅうされたこともあるが、しかし内外ないがい文化ぶんかたくみあわせてそして今日きょう日本にっぽん文化ぶんか基礎きそつくり、その當時とうじ日本にっぽん文明ぶんめい建設けんせつしたといいてんおいては聖徳太子しょうとくたいし以上いじょうひとい。
 聖徳太子しょうとくたいしなが日本にっぽん歴史れきしおいただ佛教ぶっきょう尊崇そんすうされるのみならず、大工だいく左官さかんなどの職人しょくにんまつかみとしてもあがめられてるのは、あきらかに作者さくしゃたることを證據しょうこだててるものといいつてもよろしい。それがため佛教ぶっきょう反對はんたいほどこせいて聖徳太子しょうとくたいしにも反對はんたいするところ儒者じゅしゃでさへも、聖徳太子しょうとくたいし作者さくしゃたるのてんおいては異議いぎいので、あたかささえ聖人せいじんいいはれる人々ひとびとおな意義いぎおいこれ作者さくしゃしょうしたのである。文明ぶんめい建設けんせつしゃとしての事業じぎょうなかもっとおもなることにいて茲にさんべてみようとおもふ。

太子たいし外交がいこう方針ほうしん


 だいいち外交がいこうかんすることである。一口ひとくちいいへば日本にっぽん獨立どくりつ國家こっかたることを國人くにびと自覺じかくせしめ、それと同時どうじ外國がいこくにもみとめしめたのは太子たいしであるといいつてよろしい。てんあきらかにするにいては聖徳太子しょうとくたいし以前いぜん外交がいこう歴史れきし必要ひつようがある。
 日本にっぽん海外かいがい交通こうつう事實じじつは、我々われわれ日本にっぽん古代こだいおいつてるよりもはるかふるいものとおもはれる。山海さんかいけいやまと記事きじ戰國せんごくまつからかんはつまでの記録きろくであらうとおもはれる。つづかんたけみかど朝鮮ちょうせんたいらげて其處によんぐんいたときに、らくなみ海中かいちゅう倭人わじんあることがられて、すで漢書かんしょ地理ちりこころざしつた。此等は日本にっぽん日本にっぽん年代ねんだいよりいいへば神武じんむ天皇てんのう開國かいこく以後いごになるけれども、近來きんらい史家しかこれ神武じんむ天皇てんのう以前いぜんのこととしてみとめるに躊躇ちゅうちょしない。さうして日本にっぽん土地とちから遺物いぶつなかにも此の時代じだい相應そうおうするものが出土しゅつどして此の記事きじ裏書うらがきすることがおおい。神武じんむ天皇てんのう以後いごともそうはれる交通こうつう事實じじつには、こうかん光武みつたけみかど中元ちゅうげんねんゆだねやつこく朝貢ちょうこうした記事きじがあり、つづやすみかど時代じだいやまとめん國王こくおうよりなまこうけんぜしことがる。さんこく時代じだいになると有名ゆうめい卑彌呼ひみこ交通こうつうがあり、すすむだいより南朝なんちょうにかけて歴代れきだい交通こうつう記事きじかく時代じだいささえ正史せいしつてる。
 此等の交通こうつう裏書うらがきするものとしてもっともやかましい出土しゅつど遺物いぶつは、博多はかた志賀島しかしまよりかんやつ國王こくおうかねしるしであつて、これ當時とうじかん制度せいどかんがへても外國がいこくしるしとしてもっとおもんじたかたち迹もわかり、制度せいどにあるがごとへびぼたんであることなどもたしかなものであることをしめしてる。國學こくがくしゃなみ史家しかあいだには、これ九州きゅうしゅうからたので大和やまと朝廷ちょうていには關係かんけいいものと解釋かいしゃくするひとおおく、非常ひじょうくわしくかれてある卑彌呼ひみこ記事きじ九州きゅうしゅう地方ちほうおんな酋であるといいひ、またあずますすむよりそうみなみひとしにかけて倭國わのくにおうあずかへた官爵かんしゃくがいろ/\あるが、いちれいいいへば
使つかいぶしとくやまと百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王
などといいふものがあるが、此等も多分たぶん日本にっぽんからにん派遣はけんせられて太宰だざいみこともち朝廷ちょうてい濫用らんようしたのであらうなどとも解釋かいしゃくせられてる。しかし事實じじつは必しもさうではないのであつて、うえげたなが官爵かんしゃくめいでも、なか/\こまかにかんがへると面白おもしろ事實じじつ發見はっけんせられるので、日本にっぽんからしょうするときにはまえいいふがやまと百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事としょうするが、ささえ南朝なんちょうほうからあずかへるときにはひゃくすみのぞいてやまとしんつとむ伽羅きゃらはたかん慕韓ろくこくしょ軍事ぐんじしょうしてる。これ當時とうじ百濟くだらおう日本にっぽんずして直接ちょくせつ南朝なんちょう交通こうつうしてつたので、南朝なんちょうではそれをばべつ百濟くだらおうふうじてるから、日本にっぽんほうにはひゃくすみれなかつたのである。斯のごときことはにん太宰だざいではべきことではないとかんがへられる。勿論もちろん斯のごと記事きじゆうつたからといいつて、日本にっぽん當時とうじささえ屬國ぞっこくだといいふことにはならない。
 當時とうじ外交がいこう一種いっしゅ特別とくべつ事情じじょうがあるので、日本にっぽん朝廷ちょうてい海外かいがい交通こうつうするときに、使者ししゃしょくうけたまわはるしゃ何時いついつでもささえしくは朝鮮ちょうせん歸化きかじんである。もっとふる卑彌呼ひみこ時代じだいでもしん歸化きかじん使者ししゃしょくうけたまわつたのである。あずますすむそうひとしあいだ使者ししゃき、しくは交通こうつうつかさつたものはみなささえ歸化きかじんであることは、姓氏せいしろくなどをるとわかる。せいかばねても、譯語やくごおさいいふみふびといいぶんくびいい船首せんしゅいい種類しゅるいは、みな此の海外かいがい交通こうつう關係かんけいしてふね運上うんじょうかんする文書ぶんしょなどをつかさどり、貨物かもつ檢査けんさしてつたので、それがまたふみふびとでありそとにも朝廷ちょうていなみ豪族ごうぞくにもかく※(二の字点、1-2-22)歸化きかじん文書ぶんしょつかさどものがあつたらしいから、それらのよりどころつてささえ文字もじ利用りよう帳簿ちょうぼなどを製造せいぞうすることははやくからぎょうはれてつたものであらう。外交がいこうこと朝廷ちょうていでもそれらのやから委任いにんしてくのが至極しごく便利べんりであるので、朝廷ちょうていみずか記録きろくつく必要ひつようをもかんがへなかつたらしい。
 此等の歸化きかじん海外かいがい派遣はけんせらるゝさい朝廷ちょうていより貿易ぼうえきかんする趣意しゅいうけたまわつて、海外かいがいから珍貨ちんかを齎らし、しくはわざじんてびとしつれかえるべきにんびてく。くしてささえ到着とうちゃくすると、ささえむやみ體面たいめんおもんずるくにであり、海外かいがいよりものこれ蠻夷ばんい使者ししゃとして、國王こくおう上表じょうひょうなどがければつうとほりがわるい。それで譯語やくごふみふびとひとしささえ外交がいこうつかさどおおとり臚寺などの官吏かんりと諜しあいはせて、うまく上表じょうひょうつくり、それをささえ天子てんしのぼりてその自尊心じそんしん滿足まんぞくさせ、おもふ儘に日本にっぽん朝廷ちょうてい使命しめいたしてかえるので、これ當時とうじ使者ししゃおよわけかん祕訣ひけつであつたに相違そういない。斯のごときことははるか後世こうせいまでささえではこうはれたので、明代あきよおいよんやくかん保存ほぞんされてあつた各國かっこく上表じょうひょうなどによりどころつてかんがへてもくわかるので、たとへば滿州まんしゅう地方ちほうおんな眞人しんじんからの上表じょうひょうなどにはおんな文字もじおんなしん上表じょうひょういてはあるが、文法ぶんぽうささえ文法ぶんぽうで、さきささえぶん出來できてからそれをおんなしん直譯ちょくやくしたかたち迹の歴然れきぜんとしてそんするものがある。國字こくじゆうつてくに上表じょうひょうでさへも斯のごとくであるから、まったささえ文字もじもっ上表じょうひょうごときは、つくほうかたささえ朝廷ちょうてい都合つごうよくかれるといいふことは當然とうぜんのことで、南朝なんちょう時代じだいなどにおい日本にっぽんとか百濟くだら高句麗こうくりなどがうえつたひょういいふものの、如何いかにして出來できたかは想像そうぞうするにかたくない。
 また船首せんしゅかんなどがかれた時代じだい大分おおいた海外かいがい交通こうつう頻繁ひんぱんで、朝廷ちょうていちかしょすなわ河内かわうち大和やまととのさかいで、淀川よどがわ大和やまとがわにゅうつてふね檢査けんさするためにそれがかれたのであるが、以前いぜん檢査けんさはるかとお九州きゅうしゅう入口いりくちくだりつたので、かんやつ國王こくおうしるし志賀島しかしまからたのもためである。三國志さんごくし倭人わじんでんると日本にっぽんよりさんかんなみおびかたぐん往來おうらいするもの貨物かもつは、國王こくおう命令めいれいとして博多はかた附近ふきん檢査けんさせられる。それ當時とうじ海外かいがい交通こうつうつかさどしょくざいつた安曇あずみれんなどが、ささえから受取うけとりつた國王こくおうしるし自分じぶんいえあずかつていて、ささえ交通こうつうするさい勝手かってこれ押捺おうなつして文書ぶんしょさくつたものであらう。勿論もちろん此のとき文書ぶんしょたけ木簡もっかんで、どろふうじたうえしるし押捺おうなつするのであるから、しるしればすなわささえつてくだりつた證據しょうことなるので、文書ぶんしょ簡單かんたんでも、あるいくても、よかつたかもれない。これ後世こうせい足利あしかが時代じだい山口やまぐち大内おおうちが、足利あしかが日本にっぽん國王こくおうしるし使用しようしてあかり交通こうつうしたのと同樣どうよう關係かんけいであつて、勿論もちろん古代こだいほう朝廷ちょうていではしるし如何いか使用しようせられるかなどには無頓着むとんじゃくられて、たん貿易ぼうえき結果けっかのみをかんがへてられたのであらう。それ、此の時代じだい外交がいこう一言ひとことで掩へば通譯つうやく外交がいこうであり、貿易ぼうえきじょう利益りえきさへれば交通こうつう關係かんけいあるい不問ふもんせられたか、あるいあきらかに承知しょうちせられざりしかであつて、體面たいめんじょう問題もんだいおもきをかれなかつたのであらう。ただ日本にっぽん文化ぶんかがだん/\にすすんで、ときとして貴族きぞくあいだささえ學問がくもんをなさむとするじんると、此の交通こうつう方法ほうほう破綻はたんあらわはれることがある。うさぎどうやや郎子いらつこ高麗こうらい上表じょうひょう無禮ぶれい發見はっけんした傳説でんせつなどはいちれいであるが、これらはまれゆうつたことで、大體だいたい依然いぜんとして通譯つうやく外交がいこう繼續けいぞくしたのである。
 しかるに聖徳太子しょうとくたいしささえ學問がくもんをも充分じゅうぶんして、海外かいがい事情じじょうにもつうぜられたのであらう、通譯つうやく外交がいこうがいたく國家こっか體面たいめん毀損きそんせることにがついて、通譯つうやく獨占どくせんしてつた外交がいこうけん朝廷ちょうていおさめられ、ずい使者ししゃはすときには歸化きかじんわけかんふみふびとやからばかりに委任いにんせず、小野妹子おののいもこごとすめらぎべつ名家めいか使者ししゃとしてやつてる。それに國書こくしょごときもずいしょれる
にち出處しゅっしょ天子てんし致書日沒にちぼつしょ天子てんし恙云々
ごときは、語氣ごきからさっするに、おそらく太子たいしみずかひつられたものであつたらしく、全然ぜんぜん對等たいとうもちいひられたので、ずいの煬帝のごとき、ひさしく分離ぶんりしたささえ統一とういつしたといい自尊心じそんしんつて天子てんしをして、從來じゅうらいれい無禮ぶれい國書こくしょだとおどろかしめたのである。此のとき日本にっぽん國書こくしょ無禮ぶれいにはおどろいたが、海外かいがいくにおうとして不思議ふしぎなものとおもえつたらしく、いもうとかえるのに添へて裴世きよしいい使者ししゃはした。ときいもうとにもかえし翰をわたし、裴世きよしにはべつ國書こくしょさづけてはしたが、いもうと途中とちゅう百濟くだらじんぬすまれたといいつてかえし翰をつてない。これ多分たぶん書體しょたい對等たいとうではなかつたので、いもうと故意こいにそれをしつつたか、あるい太子たいし差金さしがねさしがねしつつたことにしたのであらうとおもえはれる。しかし裴世きよし持參じさんした國書こくしょは、これうしなわけかないから朝廷ちょうていすことになつたが、はつには
皇帝こうていといやまとすめらぎ
とあつた。のち出來でき太子たいしでんには、此のことを天皇てんのうからといはれたときに、太子たいしは、天子てんしから諸侯しょこうたまものしきである、しかしやまとすめらぎいいつてすめらぎもちいひてあつて、すめらぎみかど同樣どうようおもであるからといいつて、とりなして無事ぶじ通過つうかしたといいつてるが、じつささえ書式しょしきとしては皇帝こうていといやまとおうであるべきはずである、ずい原書げんしょやまとおうであつたに相違そういないが、日本にっぽんのぼられるときすこしゅへたに相違そういない。これたいして日本にっぽんからずいおくつた國書こくしょ日本にっぽんにあつて、
東天とうてんすめらぎ敬白けいはく西にし皇帝こうてい
とあつて、おなじく對等たいとう使つかいつてある。これりたか、ずいからはふたた使者ししゃなかつたが、太子たいしこう日本にっぽんささえ對等たいとうくにであることをらしめると同時どうじに、國交こっこうやぶらずして文化ぶんかれ、おおくの留學生りゅうがくせいなどをるつもりであつたから、餘程よほどうまく加減かげんをして外交がいこうをせられたものとえる。うさぎかく此の一擧いっきょ日本にっぽん朝廷ちょうてい自國じこく位置いち自覺じかくし、ささえにもこれらしめたのであるから、當時とうじ世界せかいおいては國際こくさいじょういち紀元きげんいいつてよかつたのである。
 これ以後いごつづささえとの交通こうつうくだりはれたときに、太子たいしぐらゐ巧妙こうみょうあつかえつたことも尠ないので、かくつとむ※(「りっしんべん+宗」、第4水準2-12-49)とうこうむねから使者ししゃとしてさいなどは、あつかえほう接待せったいがかり口授くじゅせられてこれあかりかにしなかつた。如何いかどう劃然かくぜん對等たいとうのやりほうかたではかつたらしくおもえはれる。しかし歴代れきだい遣唐使けんとうしが、ささえ交通こうつうするほか國々くにぐにとはつて、いち上表じょうひょうつてかない。ささえからも、國々くにぐにごと勅書ちょくしょ受取うけとりつてかえらない。それでもっ國交こっこう維持いじして、使者ししゃ座席ざせきなどはつね外國がいこく主位しゅいめたらしく、かつしん次位じいかれたときに、日本にっぽん使者ししゃ抗議こうぎをして位置いちかわへたといい故事こじのこつてる。ただとうげんむねときに、ちょうきゅうよわいくさした『みことのり日本にっぽん國王こくおうしょ』といいふのがあつて、
みことのり日本にっぽん國王こくおうぬしあかりらく御徳ごとく
したのがあるが、此の勅書ちょくしょ日本にっぽん到着とうちゃくしたか如何いかかは分明ぶんめいでない。
 大體だいたい聖徳太子しょうとくたいし方針ほうしん歴代れきだい國交こっこうのこつてつて、ささえとのあいだ不即不離ふそくふり交通こうつう維持いじしてつたらしい。なかにも見事みごとなやりかたは太子たいしであつて、のちにはこれほど巧妙こうみょうには出來できたことがい。

太子たいし内政ないせいじょう主義しゅぎ


 つぎには内政ないせいいてべるが、これも太子たいし以前いぜん國内こくない事情じじょう十分じゅうぶん理解りかいせなければ太子たいしすぐれたてんがわかりにくい。太子たいし以前いぜん國情こくじょう大化たいか革新かくしんさいみことのりえてところで、むかしから天皇てんのうとうきゅうへるだいみん處々ところどころたむろくらべつわけしんれんともづくり國造くにのみやつこ村主むらぬしたもてるきょくみんいいさまなものが全國ぜんこく滿ちて、朝廷ちょうてい官吏かんりともいいふべきものおさめる土地とちいたりつて尠なかつた。こと豪族ごうぞくおおくの土地とち占有せんゆうし、外交がいこう貿易ぼうえきうえにまで歸化きかじん利用りようしてわたし權力けんりょくちょうつて、殆んど朝廷ちょうていことならぬ有樣ありさまであつた。しかるに聖徳太子しょうとくたいし時代じだいおい有名ゆうめい憲法けんぽうじゅうななヶ條かじょう發布はっぷした。大體だいたい今日きょう法文ほうぶんごとくではなく、訓令くんれいからだであるけれども、なかには見逃みのがしがしがた立派りっぱ主張しゅちょうあらわはしたものがある。すなわだいじゅうじょう
國司こくし國造くにのみやつこ、勿斂百姓ひゃくしょうくにくんみんりょうあるじ率土そっと兆民ちょうみん、以王ためぬしところ任官にんかんみなおうしんなに敢與こう百姓ひゃくしょう
とあるが、これは當時とうじごと氏族しぞく制度せいど時代じだいおいて、すなわかく氏族しぞく公民こうみんおほみたからそとおおくのきょくみん私有しゆうしてつたさいに、斯のごと憲法けんぽうよりどころつて、かんみなおうしん人民じんみんみなおう人民じんみんいい主義しゅぎ發表はっぴょうしたのは、非常ひじょう進歩しんぽしたこういいはなければならぬ。國史こくしなかには、これ公民こうみんだけにたいしたことで、きょくみんふくんでらぬといいせつを唱ふるひともあつて、聖徳太子しょうとくたいし主義しゅぎつよひて無力むりょく解釋かいしゃくせむとしたりするが、百姓ひゃくしょういいふことが使つかいつてあつて、かみ兆民ちょうみんいい同樣どうよう使つかいひ、これみな公民こうみん意味いみ解釋かいしゃくして國史こくし國造くにのみやつこ以下いかあらゆるかん私有しゆうしてつたものも公民こうみんみとめる意味いみひょうはしたのは、けっして狹義きょうぎ解釋かいしゃくすべきものではない。これ最近さいきん明治維新めいじいしん版籍はんせき奉還ほうかんおな意味いみふくんでるものといいつてよろしいのである。
 もっと聖徳太子しょうとくたいしの斯のごと主義しゅぎおもひつかれたのは、ささえはたかん以來いらい政治せいじにも通曉つうぎょうしてられたためでもあらうが、あるいまたずいだい政治せいじ改革かいかくすでつてられて、それに倣はれたものと推測すいそくることもある。ずいぶんみかどすすむ以來いらいぞく專有せんゆう政治せいじあらためてさとかんはいし、科擧かきょ制度せいど端緒たんしょひらいたひとであつて、ささえ政治せいじ歴史れきしには重大じゅうだい關係かんけいゆうつてひとである。聖徳太子しょうとくたいし憲法けんぽう發布はっぷいもうとずい以前いぜんるけれども、いづれずい以前いぜんずい國情こくじょうをば出來できるだけ調しらべられたことであらうから、ずい政治せいじ改革かいかくをもつてられたかもれぬ。さうすれば此の憲法けんぽう趣意しゅい益々ますますもっ天皇てんのうだい一統いっとう主義しゅぎ解釋かいしゃくすべきものであつて、今日きょう日本にっぽん國體こくたい起源きげんひらいたのは太子たいしであるといいつてよろしい。ただ太子たいしは此の主義しゅぎ實行じっこうするにいたらずして早世そうせいきゅうひ、のちさんじゅうねんほど大化たいかときしゅとして天智天皇てんぢてんのうこれ實行じっこうせられたので、功績こうせき孝徳たかのり天智てんじりょう天皇てんのうすべきであるけれども、りょう天皇てんのう改革かいかく聖徳太子しょうとくたいし宏遠こうえん理想りそう規模きぼよりどころつたことはうたぐいことで、これたん主義しゅぎからいいふばかりでなく、大化たいか革新かくしんおもなる參謀さんぼうであつた人々ひとびと南淵請安みなぶちのしょうあん高向玄理たかむこのくろまろ僧旻そうみんなどいい人々ひとびとは、みな聖徳太子しょうとくたいしいもうとにつけてずいはした留學生りゅうがくせいである。天智天皇てんぢてんのうにしても藤原鎌足ふじわらのかまたりにしても、此等のしん智識ちしきかつたならば、けっしてあれだけの破天荒はてんこうおおとりぎょうすことが出來できなかつたであらう。してれば大化たいか革新かくしん功績こうせき主要しゅよう部分ぶぶんを、やはり聖徳太子しょうとくたいしかえせなければならぬわけである。

佛教ぶっきょう採用さいよういち理由りゆう


 聖徳太子しょうとくたいし佛教ぶっきょうもりにしたことにいて、今日きょうでは格別かくべつ攻撃こうげきするひとくなりつつあるが、一時いちじ國學こくがくしゃなどは歴史れきしぶん曲解きょっかいしてまでも惡口わるぐちいいつたので、たとへば推古天皇すいこてんのうじゅうねん神祇じんぎ祭祀さいしすることをだるつてはならぬといい詔勅しょうちょくるが、これだけは太子たいし意志いしでなくて、推古天皇すいこてんのう思召おぼしめしであると解釋かいしゃくし、太子たいし攝政せっしょう時代じだいなか事實じじつにまで斯のごとけをして太子たいし攻撃こうげきした。これ今日きょうふみからればいいはれのいことで、太子たいし佛教ぶっきょうもりにするととも神祇じんぎをも崇敬すうけいせしめたに相違そういい。それにいてかんがえふべきことは當時とうじ佛教ぶっきょうごとあたらしい宗教しゅうきょうれる必要ひつよう日本にっぽんにあつたことである。これ明治めいじ維新いしんでもわかるが、維新いしん以後いご迷信めいしんかんする淫祠いんしきんじ、あるい巫女ふじょ職業しょくぎょうきんじたようなことは、太子たいし時代じだいおいてはもっと必要ひつようがあつたにたがえひない。日本にっぽん探湯くかたち刑罰けいばつあるいへびびんなかいてこれ訴訟そしょうりょうみやつこしゃらせることなどはずいしょにもるくらゐであるから、一般いっぱんぎょうはれてきょつたに相違そういない。かゝる迷信めいしんのぞためには、當時とうじもっと合理ごうりてき進歩しんぽした宗教しゅうきょういいはれる佛教ぶっきょうごときはきわめて必要ひつようであつた。佛教ぶっきょうのちになつて日本にっぽん迷信めいしん利用りようして修驗しゅげんどうやら眞言宗しんごんしゅうやらがきょうつたけれども、太子たいし時代じだい輸入ゆにゅうされた佛教ぶっきょうきわめて理論りろんてきであることは、太子たいし著述ちょじゅつなるさんけい疏によりどころつてもることが出來できる。

蘇我そが太子たいし


 後世こうせい國學こくがくしゃ儒者じゅしゃからもっと太子たいし攻撃こうげきするのは、馬子まご弑逆しいぎゃく處分しょぶんせなかつたことであるが、また時勢じせいをも事情じじょうをもかんがへない議論ぎろんである。馬子まご弑逆しいぎゃくくだりつたといいふことは、今日きょうかられば明白めいはく事實じじつであつても、當時とうじ下手人げしゅにんべつにあつて、而も馬子まごはその下手人げしゅにんみずかころしてる。かたち迹があらわはれないうえに、當時とうじ太子たいし廿にじゅうとしにもたっしない少年しょうねんである。蘇我そが權勢けんせい絶頂ぜっちょうたっしてとしとて、太子たいし馬子まごたいしてことげてやぶれたならば、皇室こうしつ如何いかなる危害きがいおよんだかもれない。それゆえ隱忍いんにんしてときち、すぐれた才徳さいとくもっ自然しぜん馬子まごをも威服いふくせしめ、蘇我そが權力けんりょくをもあつへるようにしたことは、日本にっぽんんだだけでも分明ぶんめいである。
 太子たいし薨去こうきょせられてのちに、馬子まご推古天皇すいこてんのう葛城かつらぎけんあがた領地りょうちにしたいとうたときに、天皇てんのう巧妙こうみょうこれしゃたやせられた。天皇てんのうくずれせられるときに、太子たいし御子みこなるやま大兄たいけいおうゆずられる遺言ゆいごんがあつたが、これらは太子たいし推古天皇すいこてんのう生前せいぜんよく/\進言しんげんしてかれたことと想像そうぞうられる、それを馬子まご蝦夷えぞとう變更へんこうして舒明天皇てんのうくらいたてまつつた。のち蝦夷えぞ着々ちゃくちゃくやま大兄たいけいおう勢力せいりょくいで、ついこれしいたてまつつたが、經過けいかると太子たいし生前せいぜん蘇我そが勢力せいりょくために、自分じぶんしんしんするものをとりたてゝられたことがわかる。すなわさかいぜいなどがひとであつて、此等は太子たいしましませば勢力せいりょくもと蘇我そがあつへつける有力ゆうりょく人物じんぶつであつた。ただやま大兄たいけいおうじんやわらちちおうごとざいりゃくかつたから、此の有力ゆうりょく手足てあしみなさき蘇我そがため※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)られて、ついおうわざわい殃をこうむるにいたりつたが、しかし失敗しっぱいの迹によりどころつても太子たいし深謀遠慮しんぼうえんりょ推測すいそくすることが出來できるので、太子たいし馬子まごよりかも年少ねんしょうであり、晩年ばんねんまでにはかなら豪族ごうぞくあつへつける希望きぼうたっせられる目算もくさんであられたに相違そういない。出來できなかつたのは運命うんめいであるからいたしかたがない。聖徳太子しょうとくたいしごと位置いちにあるひと批評ひひょうをするのには、斯かる前後ぜんご情勢じょうせいかんがへなければならぬ。匹夫ひっぷ任侠にんきょうひじを攘げて一己いっここころざしくだりしゃ一樣いちようにはろんぜられないのである。

 斯のごとこうれば、太子たいし作者さくしゃとして、人格じんかくしゃとして、殆んど缺點けってんかつたひといいふことの出來できるくらゐである。近頃ちかごろになつて太子たいしいちせんさんひゃくねんに、いろ/\なくわだてよりどころつて太子たいし功徳くどくすこぶ表彰ひょうしょうされたが、しかしあいだには古史こしかんする國史こくし意見いけん我々われわれ贊成さんせいせられないところるので、茲に自分じぶん意見いけん概略がいりゃく發表はっぴょうして次第しだいである。
大正たいしょうじゅうさんねんろくがつ





底本ていほん:「内藤ないとう湖南こなん全集ぜんしゅう だいきゅうかん筑摩書房ちくましょぼう
   1969(昭和しょうわ44)ねん4がつ10日とおか初版しょはんだい1さつ発行はっこう
   1976(昭和しょうわ51)ねん10がつ10日とおか初版しょはんだい3さつ発行はっこう
底本ていほんしんほん:「ぞうてい日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅう弘文こうぶんどう
   1930(昭和しょうわ5)ねん11月
底本ていほんは、ものかぞえるさい地名ちめいなどにもちいる「ヶ」(区点くてん番号ばんごう5-86)を、大振おおぶりにつくっています。
入力にゅうりょく:はまなかひとし
校正こうせい菅野かんの朋子ともこ
2001ねん10がつ17にち公開こうかい
2016ねん4がつ20日はつか修正しゅうせい
青空あおぞら文庫ぶんこ作成さくせいファイル:
このファイルは、インターネットの図書館としょかん青空あおぞら文庫ぶんこ(http://www.aozora.gr.jp/)つくられました。入力にゅうりょく校正こうせい制作せいさくにあたったのは、ボランティアのみなさんです。




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