聖徳太子に
關して
徳川時代の
儒者で
之を
作者の
聖と
稱せし
人があつたが、
之は
最も
善く
當つて
居つて、殆んど
其の
人格の
全體を悉して
居ると
思ふ。
支那で
作者を
聖と
稱するのは、
即ち
人民の
爲に
其の
生活に
關する
種々の
仕事器物など、
更に
進んでは
文物典章を
作つた
人を
聖人とすると
謂ふ
意味で、
伏犧神
農以下文武周公に
至るまで
皆さう
謂ふ
性質の
人である。
日本では
勿論人民の
生活に
關する
一般的のことは
前から
自國で
發明されて
居ることも
有り、
又聖徳太子以前に
於て
支那から
輸入されたこともあるが、しかし
其の
内外の
文化を
巧く
煉り
合せてそして
今日の
日本文化の
基礎を
作り、その
當時の
日本文明を
建設したと
謂ふ
點に
於ては
聖徳太子以上の
人は
無い。
聖徳太子は
永い
日本の
歴史に
於て
啻に
佛教家に
尊崇されるのみならず、
大工左官などの
職人の
祭る
神としてもあがめられて
居るのは、
明らかに
其の
作者たることを
證據だてて
居るものと
謂つても
宜しい。それが
爲に
佛教に
反對し
施いて
聖徳太子にも
反對する
所の
儒者でさへも、
聖徳太子の
作者たるの
點に
於ては
異議が
無いので、
恰も
支那の
聖人と
謂はれる
人々と
同じ
意義に
於て
之を
作者と
稱したのである。
其の
文明の
建設者としての
事業の
中最も
主なることに
就いて茲に
二三述べてみようと
思ふ。
其の
第一は
外交に
關することである。
一口に
謂へば
日本が
獨立の
國家たることを
國人に
自覺せしめ、それと
同時に
外國にも
認めしめたのは
太子であると
謂つて
宜しい。
其の
點を
明らかにするに
就いては
聖徳太子以前の
外交の
歴史を
説く
必要がある。
日本の
海外交通の
事實は、
我々が
日本の
古代史に
於て
知つて
居るよりも
遙に
古いものと
思はれる。
山海經に
在る
倭の
記事は
戰國末から
漢初までの
記録であらうと
思はれる。
引き
續き
漢の
武帝が
朝鮮を
平げて其處に
四郡を
置いた
時に、
樂浪の
海中に
倭人あることが
知られて、
既に
漢書の
地理志に
載つた。此等は
日本紀の
日本年代より
謂へば
神武天皇の
開國以後になるけれども、
近來の
史家は
之を
神武天皇以前のこととして
認めるに
躊躇しない。さうして
日本の
土地から
出る
遺物の
中にも此の
時代と
相應するものが
出土して此の
記事を
裏書することが
多い。
神武天皇以後とも
想はれる
交通の
事實には、
後漢の
光武帝の
中元二年に
委奴國の
朝貢した
記事があり、
引き
續き
安帝の
時代に
倭面土國王より
生口を
獻ぜしことが
有る。
三國時代になると
有名な
卑彌呼の
交通があり、
晉代より
南朝にかけて
歴代交通の
記事が
各時代の
支那正史に
載つて
居る。
此等の
交通を
裏書するものとして
最もやかましい
出土の
遺物は、
博多の
志賀島より
出た
漢委奴國王の
金印であつて、
之は
當時の
漢の
制度を
考へても
外國に
遣る
印として
最も
重んじた
形迹もわかり、
制度にあるが
如く
蛇鈕であることなども
其の
確かなものであることを
示して
居る。
國學者並に
史家の
間には、
之が
九州から
出たので
大和の
朝廷には
關係の
無いものと
解釋する
人が
多く、
非常に
詳しく
書かれてある
卑彌呼の
記事も
九州地方の
女酋であると
謂ひ、
又た
東晉より
宋、
南齊にかけて
倭國王に
與へた
官爵がいろ/\あるが、
其の
一例を
謂へば
使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王
などと
謂ふものがあるが、此等も
多分日本から
任那に
派遣せられて
居る
太宰が
朝廷の
名を
濫用したのであらうなどとも
解釋せられて
居る。しかし
事實は必しもさうではないのであつて、
上に
擧げた
長い
官爵名でも、なか/\
細かに
考へると
面白い
事實が
發見せられるので、
日本から
稱する
時には
前に
謂ふが
如く
倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事と
稱するが、
支那の
南朝の
方から
與へる
時には
百濟を
除いて
倭新羅任那伽羅秦韓慕韓
六國諸軍事と
稱して
居る。
之は
當時百濟王は
日本を
經ずして
直接に
南朝に
交通して
居つたので、
南朝ではそれをば
別に
百濟王に
封じて
居るから、
日本の
方には
百濟を
入れなかつたのである。斯の
如きことは
任那の
太宰では
爲し
得べきことではないと
考へられる。
勿論斯の
如き
記事が
有つたからと
謂つて、
日本が
當時支那の
屬國だと
謂ふことにはならない。
當時の
外交は
一種特別の
事情があるので、
日本の
朝廷が
海外と
交通する
時に、
其の
使者の
職を
承はる
者は
何時でも
支那若しくは
朝鮮の
歸化人である。
最も
古い
卑彌呼時代でも
新羅の
歸化人が
使者の
職を
承つたのである。
東晉宋齊の
間に
使者に
行き、
若しくは
交通を
司つたものは
皆支那の
歸化人であることは、
姓氏録などを
見るとわかる。
其の
姓を
見ても、
譯語と
謂ひ
史と
謂ひ
文首と
謂ひ
船首と
謂ふ
種類は、
皆此の
海外交通に
關係して
船の
運上に
關する
文書などを
司り、
貨物を
檢査して
居つたので、それが
又史であり
其の
外にも
朝廷並に
豪族にも
各歸化人の
文書を
司る
者があつたらしいから、それらの
手に
據つて
支那の
文字を
利用し
帳簿などを
製造することは
早くから
行はれて
居つたものであらう。
外交の
事は
朝廷でもそれらの
輩に
委任して
置くのが
至極便利であるので、
朝廷で
自ら
記録を
作る
必要をも
考へなかつたらしい。
此等の
歸化人は
海外に
派遣せらるゝ
際、
朝廷より
貿易に
關する
御趣意を
承つて、
海外から
珍貨を齎らし、
若しくは
技人を
召しつれ
歸るべき
任を
帶びて
行く。
斯くして
支那に
到着すると、
支那は
むやみに
體面を
重んずる
國であり、
海外より
來る
者は
之を
蠻夷の
使者として、
國王の
上表などが
無ければ
通りが
惡い。それで
譯語、
史、
等は
支那の
外交を
司る
鴻臚寺などの
官吏と諜し
合はせて、うまく
上表を
作り、それを
支那の
天子に
上りてその
自尊心を
滿足させ、
思ふ儘に
日本朝廷の
使命を
果たして
歸るので、
之が
當時の
使者及び
譯官の
祕訣であつたに
相違ない。斯の
如きことは
遙に
後世まで
支那では
行はれたので、
明代に
於て
四譯館に
保存されてあつた
各國の
上表などに
據つて
考へても
善くわかるので、
譬へば
滿州地方の
女眞人からの
上表などには
女眞文字女眞語で
上表を
書いてはあるが、
其の
文法は
支那語の
文法で、
先づ
支那文が
出來てからそれを
女眞語に
直譯した
形迹の
歴然として
存するものがある。
其の
國字を
有つて
居る
國の
上表でさへも斯の
如くであるから、
全く
支那文字を
以て
書く
上表の
如きは、
其の
作り
法の
支那の
朝廷に
都合よく
書かれると
謂ふことは
當然のことで、
南朝時代などに
於て
日本とか
百濟高句麗などが
上つた
表と
謂ふものの、
如何にして
出來たかは
想像するに
難くない。
又た
船首の
官などが
置かれた
時代は
大分海外交通が
頻繁で、
朝廷の
近い
處即ち
河内と
大和との
界で、
淀川大和川に
入つて
來る
船を
檢査する
爲にそれが
置かれたのであるが、
其の
以前は
其の
檢査を
遙に
遠い
九州の
入口で
行つたので、
漢委奴國王の
印が
志賀島から
出たのも
其の
爲である。
三國志の
倭人傳に
據ると
日本より
三韓並に
魏の
帶方郡に
往來する
者の
貨物は、
國王の
命令として
博多附近で
檢査せられる。それ
故當時海外交通を
司る
職に
在つた
安曇連などが、
支那から
受取つた
國王の
印を
自分の
家に
預つて
置いて、
支那と
交通する
際に
勝手に
之を
押捺して
文書を
作つたものであらう。
勿論此の
時の
文書は
竹簡
木簡で、
泥で
封じた
上に
印を
押捺するのであるから、
印が
在れば
即ち
支那へ
持つて
行つた
時證據となるので、
文書は
簡單でも、
或は
無くても、よかつたかも
知れない。
之は
後世足利時代に
山口の
大内氏が、
足利家の
日本國王の
印を
使用して
明と
交通したのと
同樣の
關係であつて、
勿論古代の
方は
朝廷では
其の
印が
如何に
使用せられるかなどには
無頓着で
居られて、
單に
貿易の
結果のみを
考へて
居られたのであらう。それ
故、此の
時代の
外交は
一言で掩へば
通譯外交であり、
貿易上の
利益さへ
有れば
其の
交通の
關係は
或は
不問に
附せられたか、
或は
明らかに
承知せられざりしかであつて、
體面上の
問題は
重きを
置かれなかつたのであらう。
但し
日本文化がだん/\に
進んで、
時として
貴族の
間に
支那の
學問をなさむとする
人が
出て
來ると、此の
交通方法の
破綻が
顯はれることがある。
菟道稚郎子が
高麗の
上表の
無禮を
發見した
傳説などは
其の
一例であるが、これらは
稀に
有つたことで、
大體は
依然として
通譯外交が
繼續したのである。
然るに
聖徳太子は
支那の
學問をも
充分に
爲して、
海外の
事情にも
通ぜられたのであらう、
通譯外交がいたく
國家の
體面を
毀損せることに
氣がついて、
通譯が
獨占して
居つた
外交の
權を
朝廷に
收められ、
隋に
使者を
遣はす
時には
歸化人の
譯官、
史の
輩ばかりに
委任せず、
小野妹子の
如き
皇別の
名家を
使者としてやつて
居る。それに
國書の
如きも
隋書に
載れる
日出處天子致書日沒處天子無恙云々
の
如きは、
其の
語氣から
察するに、
恐らく
太子自ら
筆を
執られたものであつたらしく、
全然對等の
詞を
用ひられたので、
隋の煬帝の
如き、
久しく
分離した
支那を
統一したと
謂ふ
自尊心を
持つて
居る
天子をして、
從來に
例の
無い
無禮な
國書だと
驚かしめたのである。此の
時、
日本國書の
無禮には
驚いたが、
海外に
居る
國の
王として
不思議なものと
思つたらしく、
妹子の
歸るのに添へて裴世
清と
謂ふ
使者を
遣はした。
其の
時妹子にも
返翰を
渡し、裴世
清には
別に
國書を
授けて
遣はしたが、
妹子は
途中で
百濟人に
盜まれたと
謂つて
返翰を
持つて
來ない。
之は
多分其の
書體が
對等ではなかつたので、
妹子は
故意にそれを
失つたか、
或は
太子の
差金で
失つたことにしたのであらうと
想はれる。しかし裴世
清の
持參した
國書は、
之を
失ふ
譯に
行かないから
朝廷に
差し
出すことになつたが、
其の
初には
皇帝問倭皇
とあつた。
後に
出來た
太子傳には、此のことを
天皇から
問はれた
時に、
太子は、
天子から
諸侯に
賜ふ
式である、しかし
倭皇と
謂つて
皇の
字を
用ひてあつて、
皇も
帝も
同樣に
重い
字であるからと
謂つて、とりなして
無事に
通過したと
謂つて
居るが、
實は
支那の
書式としては
皇帝問倭王であるべき
筈である、
隋の
原書は
倭王であつたに
相違ないが、
日本で
上られる
時に
少し
手を
加へたに
相違ない。
之に
對して
日本から
隋へ
送つた
國書は
日本紀にあつて、
東天皇敬白西皇帝
とあつて、
同じく
對等の
詞を
使つてある。
之に
懲りたか、
隋からは
再び
使者は
來なかつたが、
太子の
考は
日本が
支那と
對等の
國であることを
知らしめると
同時に、
國交を
破らずして
其の
文化を
取り
入れ、
多くの
留學生などを
遣るつもりであつたから、
餘程うまく
加減をして
外交をせられたものと
見える。
兎も
角此の
一擧で
日本の
朝廷も
自國の
位置を
自覺し、
支那にも
之を
知らしめたのであるから、
當時の
世界に
於ては
國際上の
一紀元と
謂つてよかつたのである。
これ
以後引き
續き
支那との
交通の
行はれた
時に、
太子ぐらゐ
巧妙に
取り
扱つたことも尠ないので、
郭務が
唐の
高宗から
使者として
來た
際などは、
其の
取り
扱ひ
法は
接待係に
口授せられて
之を
明かにしなかつた。
如何も
劃然と
對等のやり
法では
無かつたらしく
想はれる。しかし
歴代の
遣唐使が、
支那に
交通する
他の
國々とは
異つて、
一度も
上表を
持つて
行かない。
支那からも、
他の
國々の
如く
勅書を
受取つて
歸らない。それで
以て
國交を
維持して、
其の
使者の
座席などは
恆に
外國の
主位を
占めたらしく、
嘗て
新羅の
次位に
置かれた
時に、
日本の
使者が
抗議をして
其の
位置を
換へたと
謂ふ
故事が
遺つて
居る。
唯唐の
玄宗の
時に、
張九齡が
草した『
勅日本國王書』と
謂ふのがあつて、
勅日本國王主明樂美御徳
と
書き
出したのがあるが、此の
勅書は
日本に
到着したか
如何かは
分明でない。
大體聖徳太子の
方針が
歴代の
國交に
遺つて
居つて、
支那との
間に
不即不離の
交通を
維持して
居つたらしい。
其の
中にも
見事なやりかたは
太子であつて、
後にはこれ
程巧妙には
出來たことが
無い。
次には
内政に
就いて
述べるが、これも
太子以前の
國内の
事情を
十分に
理解せなければ
太子の
勝れた
點がわかりにくい。
太子以前の
國情は
大化革新の
際の
詔に
見えて
居る
所で、
昔から
天皇等の
立て
給へる
子代の
民、
處々の
屯倉、
別、
臣、
連、
伴造、
國造、
村主の
保てる
部曲の
民と
謂ふ
樣なものが
全國に
充ち
滿ちて、
朝廷の
官吏とも
謂ふべき
者の
治める
土地は
至つて尠なかつた。
殊に
豪族は
多くの
土地を
占有し、
外交貿易の
上にまで
歸化人を
利用して
私の
權力を
張つて、殆んど
朝廷と
異ならぬ
有樣であつた。
然るに
聖徳太子は
其の
時代に
於て
有名な
憲法十七ヶ條を
發布した。
大體は
今日の
法文の
如くではなく、
訓令の
體であるけれども、
其の
中には
見逃がし
難い
立派な
主張を
顯はしたものがある。
即ち
第十二條に
國司國造、勿斂百姓、國非二君、民無兩主、率土兆民、以王爲主、所任官司、皆是王臣、何敢與公、賦斂百姓、
とあるが、これは
當時の
如き
氏族制度時代に
於て、
即ち
各氏族が
公民の
外に
多くの
部曲民を
私有して
居つた
際に、斯の
如き
憲法に
據つて、
官司は
皆王臣、
人民は
皆王の
人民と
謂ふ
主義を
發表したのは、
非常に
進歩した
考と
謂はなければならぬ。
國史家の
中には、
之は
公民だけに
對したことで、
部曲民を
含んで
居らぬと
謂ふ
説を唱ふる
人もあつて、
聖徳太子の
主義を
強ひて
無力に
解釋せむとしたりするが、
百姓と
謂ふことが
二度も
使つてあつて、
其の
上に
兆民と
謂ふ
詞も
同樣に
使ひ、
之を
皆公民の
意味に
解釋して
國史國造以下あらゆる
官司の
私有して
居つたものも
公民と
認める
意味を
表はしたのは、
決して
狹義に
解釋すべきものではない。
之は
最近の
明治維新の
版籍奉還と
同じ
意味を
含んで
居るものと
謂つてよろしいのである。
尤も
聖徳太子の斯の
如き
主義を
思ひつかれたのは、
支那の
秦漢以來の
政治にも
通曉して
居られた
爲でもあらうが、
或は
又た
隋代の
政治改革を
既に
知つて
居られて、それに倣はれたものと
推測し
得ることもある。
隋の
文帝は
魏晉以來の
名族專有の
政治を
改めて
郷官を
廢し、
後の
科擧制度の
端緒を
開いた
人であつて、
支那の
政治の
歴史には
重大な
關係を
有つて
居る
人である。
聖徳太子の
憲法發布は
妹子の
遣隋以前に
在るけれども、いづれ
遣隋以前に
隋の
國情をば
出來るだけ
調べられたことであらうから、
隋の
政治改革をも
知つて
居られたかも
知れぬ。さうすれば此の
憲法の
趣意は
益々以て
天皇の
大一統主義と
解釋すべきものであつて、
今日の
日本の
國體の
起源を
開いたのは
太子であると
謂つてよろしい。
唯太子は此の
主義を
實行するに
至らずして
早世し
給ひ、
後に
三十年程を
經て
大化の
時に
主として
天智天皇が
之を
實行せられたので、
其の
功績は
孝徳天智の
兩天皇に
歸すべきであるけれども、
兩天皇の
改革は
聖徳太子の
宏遠な
理想規模に
據つたことは
疑の
無いことで、
之は
單に
其の
主義から
謂ふばかりでなく、
大化革新の
主なる
參謀であつた
人々、
南淵請安、
高向玄理、
僧旻など
謂ふ
人々は、
皆聖徳太子が
妹子につけて
隋に
遣はした
留學生である。
天智天皇にしても
藤原鎌足にしても、此等の
新智識が
無かつたならば、
決してあれだけの
破天荒の
鴻業を
爲すことが
出來なかつたであらう。して
見れば
大化革新の
功績は
其の
主要な
部分を、やはり
聖徳太子に
歸せなければならぬ
譯である。
聖徳太子が
佛教を
盛にしたことに
就いて、
今日では
格別に
攻撃する
人も
無くなりつつあるが、
一時國學者などは
歴史の
文を
曲解してまでも
惡口を
謂つたので、
譬へば
推古天皇の
十五年に
神祇を
祭祀することを
怠つてはならぬと
謂ふ
詔勅が
出て
居るが、これだけは
太子の
意志でなくて、
推古天皇の
思召であると
解釋し、
太子攝政時代の
中の
事實にまで斯の
如き
選り
別けをして
太子を
攻撃した。
之は
今日の
史眼から
見れば
謂はれの
無いことで、
太子は
佛教を
盛にすると
共に
神祇をも
崇敬せしめたに
相違無い。それに
就いて
考ふべきことは
當時佛教の
如き
新しい
宗教を
取り
入れる
必要が
日本にあつたことである。
之は
明治の
維新でもわかるが、
維新以後迷信に
關する
淫祠を
禁じ、
或は
巫女の
職業を
禁じた
樣なことは、
太子の
時代に
於ては
最も
必要があつたに
違ひない。
日本の
探湯の
刑罰、
或は
蛇を
瓶の
中に
置いて
之を
訴訟の
兩造者に
取らせることなどは
隋書にも
出て
居るくらゐであるから、
一般に
行はれて
居つたに
相違ない。かゝる
迷信を
除く
爲には、
當時最も
合理的に
進歩した
宗教と
謂はれる
佛教の
如きは
極めて
必要であつた。
佛教は
其の
後になつて
日本の
迷信を
利用して
修驗道やら
眞言宗やらが
興つたけれども、
太子時代に
輸入された
佛教の
極めて
理論的であることは、
太子の
著述なる
三經疏に
據つても
知ることが
出來る。
後世の
國學者儒者から
最も
太子を
攻撃するのは、
馬子の
弑逆を
處分せなかつたことであるが、
是亦時勢をも
事情をも
考へない
議論である。
馬子が
弑逆を
行つたと
謂ふことは、
今日から
見れば
明白な
事實であつても、
當時は
下手人は
別にあつて、而も
馬子はその
下手人を
自ら
殺して
居る。
形迹が
顯はれない
上に、
當時の
太子は
廿歳にも
達しない
少年である。
蘇我氏の
權勢が
絶頂に
達して
居る
歳とて、
若し
太子が
馬子に
對して
事を
擧げて
敗れたならば、
皇室に
如何なる
危害が
及んだかも
知れない。それ
故に
隱忍して
時を
待ち、
其の
勝れた
才徳を
以て
自然に
馬子をも
威服せしめ、
蘇我氏の
權力をも
壓へる
樣にしたことは、
日本紀を
讀んだだけでも
分明である。
太子の
薨去せられて
後に、
馬子が
推古天皇に
葛城の
縣を
領地にしたいと
請うた
時に、
天皇は
巧妙に
之を
謝絶せられた。
天皇が
崩去せられる
時に、
其の
位を
太子の
御子なる
山背大兄王に
讓られる
御遺言があつたが、これらは
太子が
推古天皇に
生前よく/\
進言して
置かれたことと
想像し
得られる、それを
馬子の
子の
蝦夷等が
變更して舒明
天皇を
位に
即け
奉つた。
其の
後蝦夷は
着々山背大兄王の
勢力を
削いで、
遂に
之を
弑し
奉つたが、
其の
經過を
觀ると
太子が
生前に
蘇我氏の
勢力を
削ぐ
爲に、
自分の
親信する
者をとりたてゝ
居られたことがわかる。
即ち
境部摩理勢などが
其の
人であつて、此等は
太子が
在せば
其の
勢力の
許に
蘇我氏を
壓へつける
有力な
人物であつた。
唯山背大兄王が
仁柔で
父王の
如き
材略が
無かつたから、此の
有力な
手足が
皆先づ
蘇我氏の
爲に
ぎ
取られて、
遂に
王も
禍殃を
蒙るに
至つたが、しかし
其の
失敗の迹に
據つても
太子の
深謀遠慮を
推測することが
出來るので、
太子は
馬子よりかも
年少であり、
其の
晩年までには
必ず
豪族を
壓へつける
希望を
達せられる
目算であられたに
相違ない。
其の
出來なかつたのは
運命であるから
致しかたがない。
聖徳太子の
如き
位置にある
人の
批評をするのには、斯かる
前後の
情勢を
考へなければならぬ。
匹夫の
任侠の
徒が
臂を攘げて
一己の
志を
行ふ
者と
一樣には
論ぜられないのである。
斯の
如く
考へ
來れば、
太子は
作者として、
人格者として、殆んど
缺點の
無かつた
人と
謂ふことの
出來るくらゐである。
近頃になつて
太子の
一千三百年忌に、いろ/\な
企に
據つて
太子の
功徳が
頗る
表彰されたが、しかし
其の
間には
古史に
關する
國史家の
意見に
我々の
贊成せられない
處も
有るので、茲に
自分の
意見を
概略發表して
置く
次第である。
(大正十三年六月)