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北條民雄 邂逅

邂逅かいこう

北條ほうじょう民雄たみお




 高等こうとうねん多吉たきちは、ある夕方ゆうがた校門こうもんるとただ一人ひとりきりで家路いえじむかいつた。学友がくゆうたちはいくつかのかたまりになつてそれぞれの方向ほうこうわかれ、なに大声おおごえ議論ぎろんあいつてゐるのもあれば、また軍歌ぐんか合唱がっしょうしてゐるくみもあつた。多吉たきちはちらりと彼等かれらほう視線しせんうつしたが、てはならぬものをたかのやうにすぐかおそとけると、幾分いくぶんあたま気味ぎみにしてあしはやめた。かれ何事なにごとふかこうんでゐた。あしはやめたとたんに、道路どうろいしあたまつまずいてさんよろめいたが、それにもづかぬくらゐであつた。
「やあい、多吉たきち!」
 とこえがそのとき背後はいごからきこえた。かれからはもうかなりはなれた一団いちだんなかからさけんだのにたがえひなかつた。三郎さぶろうさぶちやんだな、と多吉たきちはすぐにさとつた。あのこえ三郎さぶろうたがえひない、とかれふたたあたまなかかんがへたが、返事へんじはしなかつた。すると、
「タアよしちやあん。」
 とこえがまた背中せなかにぶつかつてた。
 かれはやつぱり返事へんじはしなかつたが、今度こんどはちよつとたてとまつてかえつた。
明日あしたあしたあそびにいよ!」と、そのこえがまたさけんだ。「やまかうよ!」と、一人ひとりだいつてごとつた。すこしのあいだ多吉たきちはじつと突立つきたてつて、ぞろぞろとちかづいて一団いちだんながめてゐたが、ふと、明日あした日曜にちようだつた、とわすれてゐたものをおもすと、さつとかなしげな表情ひょうじょうながれた。そして突然とつぜんくるりとかかとかえすと、無意識むいしきのうちに左手ひだりてかばんをしつかりと横抱よこだきにして一散いっさんした。一時いちじはやくみんなからられないところへ、どこかひとのゐないところへかくれてしまひたいのであつた。
 多吉たきちいえは、まちはづれにながれてゐる小川おがわわたると、もういちちょうとはない麦畑むぎばたけなかにあつた。麦畑むぎばたけむこうにはすぐ小高こだか山々やまやまれんりがあつて、それはずつとまちのうしろまでびてゐた。さらにその山並やまなみ背後はいごにはゆきくつがえはれた高峰こうほうが、ゆらゆらとながれてくもあいだ屹立きつりつしてゐた。
 多吉たきちまちはづれまで夢中むちゅうけてると、小川おがわのほとりでふとあしめて前方ぜんぽう山々やまやまながめた。なかしずみかかつた夕陽ゆうひあかひかりをけて、やま片側かたがわだけがあかるくしてゐた。紅色こうしょくまつた細長ほそながくもや、巨大きょだいくまのやうな格好かっこうをしたくもなどが、みねいて、ゆるやかにその周囲しゅういめぐつてゐる。毎日まいにちながめる風景ふうけいには相違そういなかつたが、このときかれはなんだかいままでたこともないさんくもるやうな寒々さむざむとしたうつくしさをかんじた。毎日まいにちながめるさんそらとは、まったべつなもののやうにおもはれるのだつた。かれしんなかにはまった未知みち土地とちへ迷ひんだやうな、不安ふあんな、孤独こどくな、そして真暗まっくらなものがながれてゐた。かれながあいだ、じつと突つつたままでゐたが、やがて徐々じょじょこしげて、ちいさなどうまるめてそこへしやがみこみん…………





底本ていほん:「定本ていほん 北條ほうじょう民雄たみお全集ぜんしゅう 上巻じょうかん東京とうきょうそうもとしゃ
   1980(昭和しょうわ55)ねん10がつ20日はつか初版しょはん
入力にゅうりょく:Nana ohbe
校正こうせい:フクポー
2018ねん11月24にち作成さくせい
青空あおぞら文庫ぶんこ作成さくせいファイル:
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