1980
年代。
時代は
洋楽全盛だった。
音楽ファンがこぞって
読んでいた
各出版社から
発行されていた
大手FM
誌やミュージックライフ
誌の
発行部数はそれぞれ20
万~50
万部を
超え、ベストヒットU.S.A.の
視聴率は10%を
超えていた
時代である。
そんな
洋楽メディア
全盛期の80
年代初期においてさえ、ブラック・ミュージックを、コアファンから
一般の
音楽ファンへ
広げる
宣伝施策というものは、なかなか
難しい
状況だったという。
当時の
洋楽のトレンドは、AOR(アダルトオリエンテッドロック)とUKロック。マイケル・ジャクソンを
取り
上げるメディアは
意外にも
少なく、クィンシー・ジョーンズ・プロデュースによる
名作『Off The Wall』ですら、ディスコを
核とした
変化球プロモーションを
行なわざるを
得なかった。それでも
地道なプロモーションが
次第に
実を
結び、アルバム『Off The Wall』はロングセラーとなり、
本人出演のCMが
決まるなど、じわじわとマイケルの
存在が
世に
広まっていき
始めていた。
次作への
期待も
高まり、これまでの
専門メディアから
一般メディアでマイケルを
取り
上げてもらうべく、
発売から1
年後という
時期に、プロモーション・スタッフ
全員がタキシード
姿でラジオ
局や
雑誌社をねり
歩くという
異例のプロモーションを
行なっていたのだ。
そんな
中での『Thriller』のリリース。
一気にアルバムは
大ブレイク…と、
誰もが
思うものの
現実はそうに
非ず。
先行シングルの「Girl Is Mine」がダンスナンバーではなかったためディスコで
流れず、なんとセールスの
出足は、
予想と
期待を
下回るものだったのだ。
その
状況を
一変させたのが、「Billie Jean」「Beat It」と
立て
続けに
供給された“ビデオ・クリップ”であった。
当時、
日本にはビデオ・クリップがオンエアされる
番組は
少なかったが、それでもベストヒットU.S.A.やオールナイト・フジなどでオンエアされるたびに
少しずつ
反響は
拡大、それがセールスにも
反映をし
始めた。
モータウン25
周年のステージで
初めて
披露された、かのムーンウォーク
映像も、ビデオ・パッケージが
発売になると、
徐々にテレビでも
紹介されるようになり、マイケルの
魅力が
多面的に
世の
中に
露出されはじめた。そこから、
年末に
発表されるという「Thriller」の14
分のショートフィルムへの
期待がじわじわと
高まっていくのである。
時代の
流れが
生まれ
始めたのだ。
しかし
問題があった。
皆が
待ち
焦がれているそのショートフィルム…どこで
初公開をするのか。
地上波しかない
時代に、14
分間ものミュージック・ビデオ・クリップをフルに
流してくれるテレビ
番組なんて
当時としてはありえなかったのだ。
しかし
時代の
女神はマイケルへ
微笑んだ。
<
聖夜にスリラー>というコピーで
展開された
新聞の
全面広告の
前あおりをもって、12月24
日クリスマスイヴの
日にオンエアーされた「ベストヒットU.S.A.」は、13%を
超える
視聴率を
上げ、その
中で
紹介された“Thrillerショートフィルム”は
大反響。ショートストーリーとなったまさしく
映画のようなクリップ
自体、
画期的でもあり
刺激的でもあった。マイケルの
先進性やほとばしる
才、ひきつけてやまないアーティスト
性と
作品のクオリティが、
全国を
一気に
駆け
抜けていく。その
後、テレビのお
笑い
番組でもパロディーになるほど、マイケル
自体が
社会現象となっていく。
そして、
最後の
決め
手が、Jacksonsの<Victory Tour>に
大量の
取材陣を
送り
込むパブリシティー
作戦であった。Kansas CityとDallasの
計3
回のスタジアム・コンサートにテレビクルーを
含む、
総勢30
名以上の
取材陣を
送り
込み、
大量のパブリシティーを
獲得した。
日本におけるマイケルの
存在は
鉄壁のものとなった。その
後のマイケル
来日時の
大騒動となる
下地が、ここで
出来上がったのである。
※Spechai Thanx to
秦幸雄(『スリラー』
発売当時の
宣伝チーフ)