SHIKINEN SENGU

式年しきねん遷宮せんぐう歴史れきし

ろくじゅうかいせんさんひゃくねんおよ
遷宮せんぐう歴史れきし

式年しきねん遷宮せんぐう制度せいどは、天武てんむてんむ天皇てんのうのご発意はついによりはじまり、つぎもちみつるじとう天皇てんのう4ねん(690)にだい1かいおこなわれました。なが歴史れきしあいだには一時いちじ中断ちゅうだんはあったものの、これまで20ねんいちやく1300ねんながきにわたりかえおこなわれ、平成へいせい25ねん10がつには62かい遷宮せんぐうおこなわれました。

あお用語ようご説明せつめい表示ひょうじします

はじめての遷宮せんぐう

神宮じんぐうもっとふる姿すがた現在げんざいのようなだい規模きぼみやでなく、おまつりごとにかみあおぎまつる「かみませひもろぎ」や「ほこらやしろ」とばれる仮設かせつてき祭場さいじょうもうけて、天照大御神あまてらすおおみかみをおまつりしていたとかんがえられます。

このほこらみやへとだい規模きぼあらためられたのは、いまから1300ねんまえ天武てんむてんむ天皇てんのう発意はついされ、つぎもちみつるじとう天皇てんのうねん(690)に内宮ないくうどう6ねん(692)に外宮げくうはじめておこなわれた遷宮せんぐうころかんがえられます。

古殿ふるどのからのぞ内宮ないくうせいみや

やくおっと⼯⽶やくぶくまいによる遷宮せんぐう

平安へいあん時代じだい中期ちゅうき以降いこう朝廷ちょうてい衰微すいびして律令りつりょうりつりょう制度せいど破綻はたんすすむと神宮じんぐうおんしは、荘園しょうえんしょうえん一部いちぶである御厨みくりやみくりや御園みそのみその確保かくほし、公私こうし祈祷きとうおこなって資財しざいつのっていきました。
また、遷宮せんぐう経費けいひは「ふと神宮じんぐうやくおっとこうまいだいじんぐうやくぶくまいせい」が制定せいていされ、全国ぜんこくにわたって定率ていりつぜいめいじるようになりました。やくおっとこうまいせいによる式年しきねん遷宮せんぐう重大じゅうだい国家こっかだい事業じぎょうであり、遷宮せんぐう国民こくみんげてのおまつりであるとの意義いぎくわわり、神宮じんぐう崇敬すうけいねん遷宮せんぐうごとにたかまりをみせていきました。この制度せいど室町むろまち時代じだいいたるまでやく20かい遷宮せんぐう経費けいひをまかなっています。

内宮ないくうない玉垣たまがきけられたかかぜい

遷宮せんぐう中断ちゅうだん復興ふっこう

室町むろまち時代じだい後期こうきになると、やくおっとこうまいによる遷宮せんぐう徴収ちょうしゅう困難こんなんになり、やく120ねんあまりのあいだ中断ちゅうだんせざるをなくなりました。やがて安土あづち桃山ももやま時代じだいになると、遷宮せんぐう上人しょうにんせんぐうしょうにんばれるけいこういんきよしじゅんけいこういんせいじゅんしゅうようしゅうよう勧進かんじんによって織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよし遷宮せんぐう費用ひよう献納けんのうし、復興ふっこうすることができました。江戸えど時代じだいもこうした敬神けいしんねん徳川とくがわ将軍家しょうぐんけがれ、造営ぞうえい奉行ぶぎょうめいじて式年しきねん遷宮せんぐう全面ぜんめんてき協力きょうりょくにあたらせました。

慶長けいちょう8ねん(1603) 徳川とくがわ家康いえやすからけいこういんしゅうようてた朱印しゅいんじょう
伊勢いせりょうみやただし遷宮せんぐうこと先例せんれいにまかせとりおこなうべき也」

くに⺠総奉賛ほうさん式年しきねん遷宮せんぐう

明治めいじ時代じだいはいると古制こせい精神せいしんふくし、みやつこ神宮じんぐう使つかいちょう官制かんせいとしてもうけられ国家こっか盛儀せいぎとしてれやかにときぎょうされましたが、戦後せんごだい59かい式年しきねん遷宮せんぐう(昭和しょうわ28ねん)はGHQの神道しんとう指令しれいによって国家こっかはなれ、国民こくみん奉賛ほうさん主軸しゅじく移行いこうしておこなわれるようになりました。そのひろ国民こくみんちから結集けっしゅうしての遷宮せんぐうつづいており、「国民こくみん遷宮せんぐう」・「民間みんかん遷宮せんぐう」として定着ていちゃくしつつあります。ただし、式年しきねん遷宮せんぐう国民こくみん中心ちゅうしんとなっておこなうということではなく、あくまでも天皇陛下てんのうへいかだいしんからだしておこなわれる本義ほんぎもとづくのであり、それが普遍ふへんてき精神せいしんといえます。

昭和しょうわ28ねん外宮げくう遷御の

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