仏教ぶっきょうで唱となえる「南無なむ」とは、梵語ぼんご(サンスクリット)の音訳おんやくで、「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」は、阿弥陀あみだ仏ぼとけに帰依きえして救すくいを求もとめる唱となえことばです。
これに対たいして神道しんとうでは特別とくべつな唱となえ言ごとはありませんが、神社じんじゃに参拝さんぱいするときや神棚かみだなを拝おがむときには、「祓はらえ給たまい、清きよめ給たまえ、神かみかむながら守まもり給たまい、幸こうさきわえ給たまえ」(お祓はらい下ください、お清きよめ下ください、神様かみさまのお力ちからにより、お守まもり下ください、幸しあわせにして下ください)と唱となえる場合ばあいもあります。神道しんとうでは自みずからの祓はらい清きよめが信仰しんこう的てきにも神様かみさまに近ちかづくための大切たいせつなおこないとなっているからです。
このほか、古ふるくは占うらないに関連かんれんして用もちいられ、その後ご、神様かみさまを拝おがむときに用もちいられるようにもなった「吐普加美かみ依よ身み多た女おんなとおかみえみため」という唱となえ言ごとがあります。この言葉ことばの本来ほんらいの意味いみははっきりしていませんが、「遠とお神かみ能のう看み可か給きゅう」(遠とおつ御ご祖そみおやの神かみ、御ご照覧しょうらんましませ)、あるいは「遠とお神かみ笑美えみ給きゅう」(遠とおつ御ご祖その神かみ、笑わらいほほえみ給たまえ)といった意味いみであるともいわれています。もともと、占うらないに用もちいられた言葉ことばなので、「神様かみさまの御ご心しんがあきらかになりますように」という意味いみであったのではないかと思おもわれます。
我わが国くにには、古来こらい言葉ことばには霊力れいりょくが宿やどり、口くちに出だすことによって、その力ちからが発揮はっきされるという言霊ことだまことだまの信仰しんこうがありました。神社じんじゃにお参まいりする際さいに具体ぐたい的てきな願ねがい事ごとを声こえに出だして唱となえるのも、こうした信仰しんこうに基もとづくものです。
(『神道しんとういろは』88頁ぺーじ参照さんしょう)