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■1−2 重度じゅうど重複じゅうふく障害しょうがいしゃろうろう介護かいご背景はいけいについて 河北かわきたまり (パワーポイント2)  日本にっぽん重度じゅうど重複じゅうふく身体しんたい障害しょうがいしゃ介護かいご社会しゃかいおくれている。グループホーム・ケアホームの対象たいしょうしゃ知的ちてき障害しょうがいひとと、精神せいしん障害しょうがいつひとにかぎられていたが、2009ねん10がつ1にちはじめて正式せいしき身体しんたい障害しょうがいひとみとめられた。各地かくち自治体じちたい裁量さいりょうで、シンボルてきすこしはつくられてはきたが、圧倒的あっとうてきにそのかずはすくない。内閣ないかく平成へいせい20年度ねんどばん 障害しょうがいしゃ白書はくしょ』によると知的ちてき身体しんたい精神せいしん障害しょうがいをもつ大人おとなどもは375まんにん、そのうち重度じゅうどさんぶんいちやく99%が在宅ざいたくである。その介護かいごほとんどが、母親ははおやとなっている。 (パワーポイント3) 老人ろうじん介護かいごはせいぜいながくて10ねん、15ねんであろう。障害しょうがいひと介護かいごは、20ねん、30ねん、40ねん、50ねん、そして80さいだい母親ははおやが60にちか障害しょうがいどもの車椅子くるまいすすということも現実げんじつにみられる。その背景はいけいには、ノーマライゼイションのかけごえのもと、新規しんき施設しせつつくられず、またグループ・ホーム、ケア・ホームは経済けいざい悪化あっかで、かく自治体じちたい予算よさんきびしく、なかなかつくることがむずかしい。とく重度じゅうど重複じゅうふく障害しょうがいとなると設備せつび車椅子くるまいす仕様しよう、エレベーター、介護かいご費用ひようなど、コストがかかることからますます後回あとまわしにされていっている。原田はらだ純孝すみたかはやくからこの状況じょうきょう見通みとおして、(「日本にっぽんがた福祉ふくし家族かぞく政策せいさく」2001野口のぐち祐二ゆうじ大村おおむら英昭ひであきへん臨床りんしょう社会しゃかいがく実践じっせん有斐閣ゆうひかくしゃ)「ノーマライゼイションの理念りねんも、公的こうてき福祉ふくしサービスの供給きょうきゅう体制たいせい十分じゅうぶんととのったうえで、それが問題もんだいとされる西欧せいおう諸国しょこくちがって、わがくに場合ばあいには、公的こうてき財政ざいせい負担ふたん軽減けいげん手段しゅだんという側面そくめんともなっている。」(p54)とべている。日本にっぽん経済けいざい世界一せかいいちになろうとも戦後せんごずっと家族かぞく位置いちづけを「社会しゃかい保障ほしょう抑制よくせいささしゅとしての家族かぞく」、さらには「社会しゃかい保障ほしょうになとしての家族かぞく」という把握はあくをしてきている(原田はらだ 同上どうじょうp48) 立岩たていわしん也もはやくから「家族かぞく義務ぎむし、家族かぞく以外いがいさないという根拠こんきょはどこにもない」とし、「ひときていく権利けんりがあるとする。そのようにいきていくことを支援しえんする義務ぎむ人々ひとびとにはあるということである。その義務ぎむを、そのひと家族かぞく家族かぞくでないひととはおなじにう。これが原則げんそくとなる。」(立岩たついわ 「過剰かじょう空白くうはく世話せわをすることをめぐ言説げんせつについて」副田そえだ義也よしや そのへん現代げんだい家族かぞく家族かぞく政策せいさく』2000 ミネルみねるァ書房ぁしょぼう p68)とべ、「サービスは基本きほんてき有償ゆうしょうとし、税金ぜいきんなどのさい配分はいぶんによってその費用ひようはまかなわれる。資源しげん供給きょうきゅうとサービス提供ていきょうしゃについての決定けってい分離ぶんりし、前者ぜんしゃ政治せいじてきさい配分はいぶんによって確保かくほし、後者こうしゃ当事とうじしゃ利用りようしゃゆだねる。」(p80)と基本きほんてき枠組わくぐみはべられているが、それから10ねん重度じゅうど重複じゅうふく障害しょうがいしゃについてほとん進展しんてんはない。 その現実げんじつわらず、おやたおれてはじめて、行政ぎょうせい施設しせつきをもとうごし、つかるまでどもは転々てんてん施設しせつ移動いどうし、選択せんたく余地よちなどなく、たおれたのちおや行政ぎょうせいまかせるなく、どもは不安ふあんのどんぞことされるという修羅場しゅらばがそのたびかえされている。自己じこ決定けってい当事とうじしゃ主義しゅぎなどえがいたもちである。70ねんあおしばかい横塚よこつか晃一こういちの『ははころすな』のこえ母親ははおやにいまだとどいていない。90ねん以降いこう母親ははおやによる障害しょうがいしゃ殺人さつじんえたことが夏堀なつぼり (2007 「戦後せんごにおけるおやによる障害しょうがいしゃころ事件じけん検討けんとう」)でべられている。 (パワーポイント4)  重度じゅうど重複じゅうふく障害しょうがいかかえるどもの介護かいご社会しゃかいはなぜすすまないのか。その原因げんいんさぐるべく、介護かいごする母親ははおや焦点しょうてんててろうろう介護かいご背景はいけいからいくつか要因よういん指摘してきしたいとおもう。  ようや重度じゅうど重複じゅうふく障害しょうがいしゃけのグループ・ホーム建設けんせつにこぎつけたのに、入居にゅうきょしゃ募集ぼしゅうをしたらなかなか希望きぼうしゃあつまらない。また行政ぎょうせい職員しょくいんから、「重度じゅうど重複じゅうふく障害しょうがいしゃ親御おやごさんは子供こどもはなしたがらない」とわれたこともある。自分じぶん高齢こうれいにもかかわらず40だい、50だい、60間近まぢか障害しょうがいをもつどもをなぜ手放てばなそうとしないのか。 それはきょう依存いぞん概念がいねん使つかうと説明せつめいできるのではないか。このきょう依存いぞん概念がいねん障害しょうがいしゃ介護かいごについててはめると、介護かいご母親ははおやとそのどもである障害しょうがいしゃ関係かんけいきょう依存いぞん関係かんけいあらわれる。 AKKアディクション問題もんだいかんがえるかい『アディクション治療ちりょう相談そうだんさきぜんガイド』よりきょう依存いぞん定義ていぎてみると(緒方おがた あかり1996『アダルトチルドレンときょう依存いぞんまことしん書房しょぼう所収しょしゅう)きょう依存いぞん定義ていぎとは<人間にんげん関係かんけいへのアディクション(嗜癖)、「自己じこ喪失そうしつ」のやまい。アルコール依存いぞんしょうしゃからいわれるようになった。きょう依存いぞんひと相手あいてをどうにかすることであたまいちはいになっている。自己じこのエネルギーを相手あいてのために使つかたしてしまい自分じぶんのためにきることができない。「相手あいて必要ひつようとされる」ことで、自分じぶん存在そんざい価値かち見出みいだすため、必要ひつようとなってくれる相手あいてとの関係かんけい依存いぞんする。しかし献身けんしん自己じこ犠牲ぎせいえないちからとなって相手あいてしばけていることはがつかない。>とされている。 1989ねんだいいちかいども依存いぞん会議かいぎでの定義ていぎは、「きょう依存いぞんとは、強迫きょうはくてき行為こういによるいたましいほどの依存いぞん様式ようしきであり、安全あんぜんせい自己じこ評価ひょうか同一どういつせいもとめて、他人たにんから賞賛しょうさんもとめる。回復かいふく可能かのうである」(緒方おがた 同上どうじょう141)とある。「ギデンスもきょう依存いぞんしゃ存在そんざいろんてき安全あんぜんかんるために、自分じぶんの、欲求よっきゅう定義ていぎするため他者たしゃ必要ひつようとするひと指摘してきしている。」(緒方おがた あきら 同上どうじょう p153 ギデンズ1995『親密しんみつけん変容へんよう近代きんだい社会しゃかいにおけるセクシュアリティ、愛情あいじょう、エロティシズム』而立じりつ書房しょぼうにてだいろくしょうども依存いぞん社会しゃかいがくてき意味いみいている。) 緒方おがたによれば、「きょう依存いぞん」が「病気びょうき」や「パーソナリティ障害しょうがい」などの「関係かんけいせい病理びょうり」であることがわかる。したがってきょう依存いぞん定義ていぎ関係かんけいせい病理びょうりろんじているのだから、多面ためんてきであることはけざるをない。定義ていぎはさだまっていない。「しかし定義ていぎできなくとも人間にんげん関係かんけい存在そんざいするのは事実じじつである。厳密げんみつ定義ていぎきょう依存いぞんにしようとすること自体じたいあやまっているのかもしれない。」(緒方おがた 同上どうじょうp159)とその証明しょうめいむずかしさを指摘してきしている。 立岩たていわは「障害しょうがいがく認識にんしきろんであるより、実践じっせんてきなものである。社会しゃかい運動うんどうてき志向しこうをもつ」とべている。(立岩たていわしん也2004『よわくある自由じゆうへ―自己じこ決定けってい介護かいご生死せいし技術ぎじゅつ青土おうづちしゃp90)きょう依存いぞん関係かんけいせい病理びょうりであり、またいちかいだけでなく、長期ちょうきてき反復はんぷくされ、様々さまざま症状しょうじょうしめす。これを実証じっしょうてき証明しょうめいすることはむずかしい。しかし治療ちりょう概念がいねんとしては、非常ひじょう有用ゆうようであるとされるがこの概念がいねんてきたケースワーキングの治療ちりょう過程かていあきらかにすることはできない。カウンセリングのは、そのかぎりのことであり、グループ以外いがいのところではなされたり、研究けんきゅう対象たいしょうになってはいけないという基本きほん原則げんそくがある。(緒方おがた 同上どうじょう p68)米国べいこくではアル中あるちゅう薬物やくぶつ中毒ちゅうどく理解りかいして援助えんじょするためにきょう依存いぞん概念がいねんかせなくなっている。 この概念がいねん重度じゅうど身体しんたい障害しょうがいしゃ介護かいご現場げんばてはめてみると、母親ははおやは、どもを出産しゅっさんするまではかんがえもしなかった、障害しょうがいどもの介護かいごきあわざるをない状況じょうきょうのなか、障害しょうがいをもつどもの母親ははおややくをなかば強制きょうせいてきけさせられていく。 (パワー・ポイント5) 以下いか障害しょうがいをもつ母親ははおやがわからみた状況じょうきょう。 なんとかすこしでも機能きのう改善かいぜんができるよう病院びょういんがよいがはじまり、障害しょうがいどものしん同士どうし関係かんけいもでき、病院びょういん学校がっこうというシステムのなかで福祉ふくしあたたかい(?)世界せかい徐々じょじょにそしてどっぷりつかることになる。この時期じき母親ははおや自分じぶん人生じんせいあきらめ、いやおうでもすこしずつ社会しゃかいからの差別さべつ排除はいじょされるという有形ゆうけい無形むけいのマイノリティのがわにいる自己じこ存在そんざい認識にんしきしていく。自分じぶんども、あるいは自分じぶん家族かぞくたい社会しゃかい構図こうずづき、自分じぶんはもう一般いっぱん社会しゃかい一員いちいんではないと気付きづかされ福祉ふくし世界せかいへといやられていく。中根なかねしげる寿ことぶき知的ちてき障害しょうがいしゃ家族かぞく研究けんきゅうなかで(中根なかねしげる寿ことぶき 2006 『知的ちてき障害しょうがいしゃ家族かぞく臨床りんしょう社会しゃかいがく社会しゃかい家族かぞくでケアを分有ぶんゆうするために』明石書店あかししょてん)ケアを父親ちちおや分有ぶんゆうすることについて、「その余裕よゆうあるポストへの配転はいてん希望きぼうすることは、自分じぶん職業しょくぎょうじんとしての将来しょうらいせいもプライドもり、それまでのじゅうすう年間ねんかん努力どりょく否定ひていする、自殺じさつ行為こういひとしい」(p134)とべる父親ちちおや手紙てがみ紹介しょうかいし、「障害しょうがいをもつどもの父親ちちおやとしてどもにかかわりたいというねがいをもちつつも、職場しょくばにおいて“それまでの価値かちかん根底こんていからくつがえ”すこのとの困難こんなんさである。自殺じさつというメタファーでかれかたるのは、これまでかれが きずきあげてきた男性だんせいせいから否定ひていすることである。…そのような葛藤かっとうえて、ケアする存在そんざいとして家族かぞくかかわっても、それは家族かぞくない介護かいご限界げんかい認識にんしきすることしかならない」(p134)とその手紙てがみたいする中根なかね感想かんそうべているが、じゅうすうねん仕事しごと没頭ぼっとうできた父親ちちおやと、障害しょうがいをもつどもの誕生たんじょうに、一切いっさい自己じこ人生じんせい選択肢せんたくしうしな母親ははおや比較ひかくすると、著者ちょしゃのジェンダーバイアスをかんぜざるをない。ここにはケアをめぐって社会しゃかい以外いがい選択肢せんたくしはどうしても潜在せんざいてき母親ははおやがすべきだとの固定こてい観念かんねん前提ぜんていにされているのではないかと危惧きぐする。母親ははおやは、障害しょうがいどもをまもるのは自分じぶんしかいないという覚悟かくごいられる。ただいち障害しょうがいどもとその母親ははおや大手おおてっていけるのは病院びょういん障害しょうがいをもつ子供こども専用せんよう学校がっこうである。母親ははおや介護かいごをし、子供こども学校がっこうへやり、どもの健康けんこうのためと病院びょういんがよいをしてさえいれば、社会しゃかいてき非難ひなんされることはない。母親ははおや子供こども介護かいご中心ちゅうしん生活せいかつとなる。母親ははおや認識にんしきするしないにかかわらず、つね無言むごん社会しゃかいかんされている。どもの介護かいご以外いがいきちんとした仕事しごとができない環境かんきょうなかで、10ねん、20ねん、30ねん、40ねんつうち、母親ははおや子供こどもに、結果けっかとして、自分じぶんがいなければおまえきていけないのだよということを日々ひび介護かいごとおして、懇懇こんこんおしんでいくことになる。そしてどものことはすべ母親ははおやめる。みちどもとあるいていると、または車椅子くるまいすしていると、世間せけんひとかなら当事とうじしゃでなく、介助かいじょしゃはなしかける。「脳性のうせいまひしゃまれたときから代行だいこうされつづけているし、生活せいかつすること、あるいは食事しょくじすることさえおのれきるのだという実感じっかんをつかみえないまま一生いっしょうおわっていくのだ。」(立岩たついわ 同上どうじょうp107 横田よこた発言はつげん)とうことになる。母親ははおやどもの介護かいご世界せかい唯一ゆいいつ自分じぶんすべてをコントロールできる世界せかいへとつくげていく。そしてどもとの関係かんけい支配しはい支配しはい関係かんけいとなる。どもにたいして支配しはいけんにぎりつつ、どものこと以外いがい自分じぶんにはなにもないことを認識にんしきしつつ、「自分じぶんにはどものことがあるからしかたない」と障害しょうがいどもの存在そんざい自己じこ人生じんせいのアリバイ証明しょうめいとし、自分じぶんどもにしばられていることのみの認識にんしきはあるが、どもをしばっているという認識にんしきうすいかほとんどない。 (パワー・ポイント6) 障害しょうがいをもつどものがわから状況じょうきょう どもは中学生ちゅうがくせいのころまでは母親ははおや影響えいきょうりょく絶大ぜつだいである。とく小学生しょうがくせいまでは全面ぜんめんてき母親ははおや依存いぞんする。母親ははおやなれたコントロールのもと、母親ははおやのいうことをかざるをない。ましてどこにくにも一人ひとりけない重度じゅうど重複じゅうふく障害しょうがいしゃ全面ぜんめんてき母親ははおやたよらざるをない。 重度じゅうど重複じゅうふく障害しょうがい世界せかい母親ははおや自分じぶんとの世界せかいである。特別とくべつ支援しえん学校がっこうられる情報じょうほうすくなく、福祉ふくし世界せかいなか隔絶かくぜつしているので、一般いっぱん社会しゃかいとの接触せっしょく情報じょうほう一般いっぱんどもにくらべて圧倒的あっとうてきすくない。福祉ふくし世界せかい表面ひょうめんてきにはあたたかいが、マニュアルてきで、安全あんぜんだいいち医療いりょうだいいちことなかれ主義しゅぎ蔓延まんえんする。この状況じょうきょうを「青葉あおばえん」「のまネット」の施設しせつちょう 清水しみず明彦あきひこは「おや安心あんしんどものしあわせではない」とするど見抜みぬいている。(全日本ぜんにほんしゅをつなぐ育成いくせいかいDVD政策せいさく委員いいんかい制作せいさく2010「わたしのらし」所収しょしゅう保護ほごはされるが自由じゆうはなく、危険きけんすくないが自己じこ決定けっていをする教育きょういくがなされておらずそのちからそだっていない。自己じこ決定けっていができないということはアイデンティティがないということで、人格じんかくみとめられていないということである。一般いっぱん社会しゃかいとのかべあつい。母親ははおや介助かいじょ介護かいごいっぱいであり、どもが二十歳はたちくらいまではそとせるが、地域ちいきませる活動かつどうや、社会しゃかい参加さんかなどの活動かつどうまでもとめるのは無理むりである。母親ははおやがいないと自分じぶんきていけないのでは、もし母親ははおや病気びょうきになったらどうしようと二十歳はたちぎるころから不安ふあん潜在せんざいてきかんはじめる。母親ははおや健康けんこう心配しんぱいしだすのもこの年代ねんだい以降いこうである。自分じぶんはどうなるのか、どうしたらいいのかまったからず、ひと顔色かおいろるしかない。完全かんぜん母親ははおやへの依存いぞん状態じょうたいである。信頼しんらいできる味方みかた母親ははおや(または父親ちちおや)しかいない。母親ははおや苦労くろうをかけているという認識にんしきはもっているが、母親ははおや人生じんせいのアリバイ証明しょうめい自分じぶんわされているとは気付きづかない。母親ははおやのうっとうしさはかんじるが、母親ははおやがいなくなった場合ばあい不安ふあんほうおおきい。  地域ちいき自分じぶんいえわる生活せいかつ(グループ・ホーム、ケア・ホームなど)がない。いえわるざらがない以上いじょうおや母親ははおやたよらざるをない。 (パワー・ポイント7) 「現実げんじつにあるものを出発しゅっぱつてんにして、…論理ろんりをたどって…そこにあるものを見出みいだそうとする、言葉ことばにする作業さぎょうである。対象たいしょうあきらかにしようとするときには、そこに存在そんざいする価値かち検討けんとうされることになる。」(立岩たていわしん也1997『私的してき所有しょゆうろん』勁草書房しょぼう)と立岩たていわべている。きょう依存いぞんにこの言葉ことばてはめていくと、重度じゅうど重複じゅうふく障害しょうがいしゃろうろう介護かいご状態じょうたい構成こうせいしている親子おやこという現実げんじつまえにして、どうしてどもの介護かいご社会しゃかいする方向ほうこう母親ははおや積極せっきょくてきうごさないかのひとつの説明せつめいがつくとおもう。どもはおやなしにきていけないとおもい、母親ははおやは、どもの介護かいごをとられたら、どうきていいかわからないという不安ふあんがあり、双方そうほうしばう、きょう依存いぞん関係かんけい成立せいりつしてしまう。 重度じゅうど重複じゅうふく障害しょうがいしゃ母親ははおやきょう依存いぞん関係かんけいになってしまう背景はいけいには、日本にっぽん福祉ふくし貧困ひんこんがある。 ノーマライゼイションは、障害しょうがいしゃ生活せいかつ施設しせつから親元おやもとすのでなく、親元おやもとから独立どくりつさせ 各地かくちにグループ・ホームをつくることでざらつくることなくしてありえない。自己じこ決定けってい標榜ひょうぼうするなら、親元おやもとからはなすことなくして障害しょうがいしゃ自己じこ決定けっていりょくそだつことはありない。そしてどんなおも障害しょうがいしゃたいしてもかれらの意志いしちからをつけるよう介護かいごしゃ育成いくせい必要ひつようとなる。その具体ぐたいてきなやりかたは『て!いて!かって!知的ちてき障害しょうがいのあるひと理解りかい支援しえんとは ?スウェーデンはつ 人間にんげん開発かいはつ全体ぜんたいてき視点してん』(グンネル・ヴィンルンド スサンヌ・ローセンストレーム=ベンハーゲン2009明石書店あかししょてん)にくわしい。 ノーマライゼイション、自己じこ決定けっていすすんでいるスウェーデン福祉ふくし現場げんばでは民主みんしゅ推進すいしん標榜ひょうぼうされている。(2008ねんのスウェーデン大使館たいしかんのパンフレットより) かえって日本にっぽん福祉ふくし現場げんばきびしい。  さきにあげた中根なかねしげる寿ことぶきは『知的ちてき障害しょうがい家族かぞく臨床りんしょう社会しゃかいがく』をいた理由りゆうとして「横塚よこつか晃一こういちが『ははよ!ころすな』をいてからもうさんじゅうねんである。…にもかかわらず家族かぞくによってころされる障害しょうがいしゃたない。「なぜだ!」とのおもいから本書ほんしょかれている。」とべている。これは勿論もちろんざらがないことも重要じゅうよう原因げんいんであるが、もうひとつ、わたし母親ははおやどもの私物しぶつがあるのではないかとおもっている。「苦労くろうしてそだてたのだから、生殺与奪せいさつよだつけんわたしっている」とおもっているのかもしれない。しかしこれは間違まちがっている。わたしも37さい重度じゅうど重複じゅうふく障害しょうがいむすめがいるが、いざというときにはというおもいが以前いぜんはあった。横塚よこつかほんむかしんでいるにもかかわらず、いまおもえばわかっていなかったとおもう。それははちじゅうはちさい認知にんちしょうははおしえてくれた。はは自分じぶん記憶きおくがだんだんわるくなることに不安ふあんかんじて、またちかづいてくるのがこわいのか、わたしに「一緒いっしょんでくれ」とった。そのをなんとかしのいだわたしは、内心ないしん、とてもはらてていた。「なんて勝手かっておやだ。いつまでどもを自分じぶんのものだとおもっているのか。」そしてふとがついたのである。自分じぶんもわがむすめおなじことをしようとしていたと。むすめ知的ちてきには3さいレベルであるが、いくら重度じゅうどとはいえ、彼女かのじょには彼女かのじょ世界せかいがある。彼女かのじょ生活せいかつ年齢ねんれいぶん自分じぶん世界せかいつくってきた。それをわたし一存いちぞん道連みちづれにしようとは。彼女かのじょ彼女かのじょわたしわたし。3さい自立じりつさせようとするおやはいないだろうとおもっていたが、おやさきくのはうごかせない事実じじつである。どもの人生じんせいとってからぬことはありえない。となるとおやのしなければならないことは、彼女かのじょ安心あんしんしてたくすことができるグループ・ホーム、またはケア・ホームをつくることしかない。できればはやくから「おまえはいずれからて、自分じぶん生活せいかつをするのだよ」とかえし、はなしておけばよかったとおもっている。どもはけっして母親ははおやのものではない。どもを私物しぶつしてはならない。このことだけはきもめいじようとおもう。  最後さいご障害しょうがいしゃ権利けんり条約じょうやく国連こくれんでの採択さいたくについて。 日本にっぽん経済けいざい成長せいちょう神話しんわつよく、福祉ふくし先進せんしんこく最低さいていランクになっている。現在げんざいこの条約じょうやく国内こくない法律ほうりつとのすりわせがおこなわれている。日本にっぽん外圧がいあつよわく、とく国連こくれん採択さいたく重要じゅうようされてきた。この条約じょうやく採択さいたくにより、日本にっぽん障害しょうがいしゃ福祉ふくし底上そこあげにおおきなドライブがかかるのではと期待きたいしている。外圧がいあつであろうと、内圧ないあつであろうとすこしでも方向ほうこうかえばとねがっている。 以上いじょう清聴せいちょうありがとうございました。