(Translated by https://www.hiragana.jp/)
■6−3 障害しょうがいしゃ芸術げいじゅつ表現ひょうげんとポジショナリティ ──共同きょうどう作品さくひん制作せいさくにおける価値かち判断はんだんをめぐって── 長津ながつゆい一郎いちろう東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく日本にっぽん学術がくじゅつ振興しんこうかい特別とくべつ研究けんきゅういん) はじめに  障害しょうがいしゃによる表現ひょうげん活動かつどうは、社会しゃかいあたえるインパクトのつよさから、こんにち美的びてき価値かち非常ひじょうたかいものとして位置いちづけられるでしょう。また、純粋じゅんすい鑑賞かんしょうてき享受きょうじゅとしての価値かちだけではなく、共生きょうせい社会しゃかいにおけるあたらしい福祉ふくしのありかた提示ていじなど、芸術げいじゅつ社会しゃかいてき展開てんかいする分野ぶんやえます。発表はっぴょうしゃはこ れまで観察かんさつしゃとして、またときには実演じつえんとしてこうした事例じれい関与かんよしてきておりますが、これまでの療法りょうほうてき側面そくめんや、福祉ふくしてき側面そくめん余暇よか活動かつどうとしての意義いぎなどをえ、クリエイティブな刺激しげきもとめてアーティストが積極せっきょくてき障害しょうがいしゃ関与かんよしていくれい増加ぞうかしています。  ほん発表はっぴょうでは、日本にっぽんにおける障害しょうがいしゃ表現ひょうげんについての近年きんねん展開てんかい概観がいかんし、こうした活動かつどう障害しょうがい当事とうじしゃのみならず多様たよう人々ひとびとかかわりをうながしているてん着目ちゃくもくします。そのうえで、発表はっぴょうタイトルにもありますポジショナリティの問題もんだいについて考察こうさつし、実際じっさい芸術げいじゅつ表現ひょうげん事例じれい検討けんとう手法しゅほうとしてもちいることで、今後こんご課題かだいけて考察こうさつしたいとかんがえております。 1.障害しょうがいしゃ表現ひょうげんについての近年きんねん展開てんかい  まずは、日本にっぽんにおける障害しょうがいしゃ表現ひょうげんについての近年きんねん展開てんかい概観がいかんします。  1990年代ねんだい以前いぜん日本にっぽんにおいて障害しょうがいしゃによる美術びじゅつ表現ひょうげんは、メディアが賞賛しょうさんしたものや、ごく一部いちぶ先進せんしんてき活動かつどうのぞいては、ほとんどが福祉ふくし施設しせつ余暇よか活動かつどうとしておこなわれ、作品さくひん保存ほぞんもままならず、正当せいとう評価ひょうかがされてきませんでした。この状況じょうきょうは1990年代ねんだいに、世田谷せたがや美術館びじゅつかんでのだい規模きぼ展覧てんらんかい実施じっしや、作品さくひんへの顕彰けんしょう制作せいさく支援しえんなどのしょ活動かつどうによって改善かいぜんされます。このような活動かつどう結果けっかくに地方自治体ちほうじちたい近年きんねんこの分野ぶんや着目ちゃくもくしています。「アール・ブリュット」「アウトサイダー・アート」とされる障害しょうがいしゃによる表現ひょうげんは、美術びじゅつの「インサイダー」たちにも着目ちゃくもくされてゆき、美術びじゅつけい雑誌ざっし特集とくしゅうまれるのもめずらしくなくなりました。  一方いっぽう舞台ぶたい表現ひょうげん活動かつどうでは、1983ねんより活動かつどう開始かいしした「劇団げきだんたいへん」の衝撃しょうげきがまずげられるでしょう。旗揚はたあ公演こうえんいろにおえど』を皮切かわきりに現在げんざいまで活動かつどうつづけるかれらは、障害しょうがいしゃ身体しんたいとその日常にちじょう抽出ちゅうしゅつしリアルに加工かこうすることで、健常けんじょうしゃがヘゲモニーをにぎるこの社会しゃかい挑発ちょうはつする手段しゅだんとして演劇えんげき手法しゅほうもちいたのでした。また2000年代ねんだい以前いぜんには「デフ・パペットシアターひとみ」「みやぎダンス」などが活動かつどう開始かいしし、それぞれのフィールドで活動かつどう展開てんかいしてきました。また、スポーツ分野ぶんや活動かつどうではありますが、障害しょうがいしゃプロレスなども話題わだいあつめています。障害しょうがいしゃ同士どうしのプロレス興行こうぎょう現在げんざいでもとし1〜2かい開催かいさいされ、健常けんじょうしゃたい障害しょうがいしゃなどといった対戦たいせんカードもまれています。劇団げきだんたいへん同様どうよう倉本くらもとによる整理せいりによって「差異さい」として障害しょうがいがく分野ぶんやでも紹介しょうかいがなされました。  1995ねんには芸術げいじゅつつうじて障害しょうがいしゃの「障害しょうがい」ではなく「可能かのうせい」に着目ちゃくもくし、社会しゃかい価値かちかんらがせることを目指めざした概念がいねん「エイブル・アート」が提唱ていしょうされます。障害しょうがいのみならず、現代げんだい社会しゃかいかかえるさまざまな問題もんだいきづらさなどを解決かいけつする手段しゅだんとしてのアートを探求たんきゅうしようとこころみる運動うんどうとしておおきくひろがりをせました。また近年きんねんでは、小暮こぐれらが2008ねんに「アウトサイダー・ライブ」という概念がいねんによって、障害しょうがいしゃによる舞台ぶたい表現ひょうげん活動かつどうさい定義ていぎこころみています。 2.(「障害しょうがい健常けんじょう」などの)境界きょうかいせん――重層じゅうそうせい相対そうたいせい  そうした背景はいけいのなか、わたしほん発表はっぴょう着目ちゃくもくするのは、こうした表現ひょうげん現場げんばにおける多様たよう人々ひとびと同士どうし関係かんけいせいや、ポジショナリティの問題もんだいです。  障害しょうがいしゃふくむコラボレーションの現場げんばにおいては、さまざまな立場たちば人々ひとびと混在こんざいしています。障害しょうがい当事とうじしゃ、その支援しえんしゃ家族かぞく芸術げいじゅつ、アートマネージャー、見学けんがくしゃ...。こうした現場げんばにおいては、それぞれの立場たちばへの疑問ぎもんまれます。障害しょうがいしゃがステージにのぼっているだけで拍手はくしゅをしなければならないのか? 「障害しょうがいしゃにも理解りかいできる」、もしくは「障害しょうがいしゃささえるひとたちによろこばれる」表現ひょうげんつくらなければならないのか? そして、完成かんせいした作品さくひんだれのものとえるのか?  こうした疑問ぎもんは、他者たしゃとのかかわりのうえ表現ひょうげんみだすなかでは必然ひつぜんてきみだされるものであるとえます。そして、この立場たちば差異さいからまれる逡巡しゅんじゅん創造そうぞう現場げんばにおけるひとつのエネルギーとなるのです。吉野よしのさつきは「作品さくひんのクオリティをうことは障害しょうがいのあるなしとは関係かんけいないといつつ、でも障害しょうがい独自どくじせいがあるからこのあたらしい表現ひょうげんまれたんじゃないかとってみたり。じゃあ障害しょうがいのあるひとはみんな素晴すばらしいのか、とうとそうじゃないとってみたり、つね反転はんてんかえしながらなにかをつづけているかんじ。それはつくるがわがわかかわるひとすべてに、つねにいろんないがげかけられている」とべていますが、こうした「反転はんてん」に着目ちゃくもくしていくことは重要じゅうようてんです。  そもそも人々ひとびとあいだには、その立場たちばごとに「健常けんじょう障害しょうがい」などの、何者なにものかによる抑圧よくあつがもたらすような「境界きょうかいせん」が存在そんざいしていますが、その構造こうぞうは、「障害しょうがい健常けんじょう」というたんなるこう対立たいりつにとどまりません。  ひとつには、その境界きょうかいせんはときに重層じゅうそうてきです。「障害しょうがい健常けんじょう」という線引せんひきがなされたとしても、その障害しょうがいなかにも「知的ちてき障害しょうがい身体しんたい障害しょうがい精神せいしん障害しょうがい...」などといった障害しょうがい区分くぶん、また「男性だんせい女性じょせい」といった境界きょうかいせんがあります。また、「在日ざいにち外国がいこくじんである障害しょうがいしゃ」「セクシュアル・マイノリティである障害しょうがいしゃ」などといったダブル・マイノリティの問題もんだいかかわります。  そしてこうしたマイノリティの姿すがたは、つねにマジョリティによって可視かしされます。フェミニズムの歴史れきしをたどっても、「主体しゅたい」としてかたられるのはながく「おとこ」であったことからもあきらかなように、マイノリティの存在そんざいつね相対そうたいてきなものです。 3.「境界きょうかいせん」とポジショナリティ  そのうえで重要じゅうようてんは、こうした「境界きょうかいせん」は、ひとつの断絶だんぜつしたかべではなく、つねらいでいるのです。そしてときにその境界きょうかいは、ずらされ、つなぎかわるものなのです。そのうえでのポジショナリティについては、以下いかかんがえに沿って検討けんとうすることが有効ゆうこうでしょう。  石川いしかわじゅんは「平等びょうどう差異さい」の議論ぎろんについてつぎのような議論ぎろん展開てんかいしました。障害しょうがいしゃ能力のうりょく技術ぎじゅつにつけたとしても社会しゃかい平等びょうどうあつかわないため差別さべつされているものであると位置いちづけ、「統合とうごう要求ようきゅう強調きょうちょうせずに文化ぶんか構築こうちくさい評価ひょうか目指めざしたのでは(りゃく障害しょうがいしゃ排除はいじょするつもりであることはふたたかくされてしまう」としました。そのうえで、平等びょうどうとして同化どうか主義しゅぎ推進すいしんすることと、差異さいとして文化ぶんか構築こうちくしつつ社会しゃかい障害しょうがいしゃ排除はいじょする構造こうぞう隠匿いんとくすること、どちらかをえらぶという「き」=「悲のせいは「理不尽りふじんなこと」とべました。  ではどうしたらいのか。石川いしかわは「社会しゃかいしつける図式ずしき従順じゅうじゅんしたがってどちらかをえらぶのではないみち、〈異化いか排除はいじょ〉にあまんじず、戦略せんりゃくてき拠点きょてんとしての〈同化どうか排除はいじょ〉にひとまずとどまって〈異化いか統合とうごう〉をめざしつづけるみち、どちらかにかた純化じゅんかしないという戦略せんりゃく有効ゆうこう」とべます。すなわち、ことなったままでおな場所ばしょ居合いあわせ、社会しゃかいのコモンセンスをも変容へんようさせるために戦略せんりゃくてき本質ほんしつ主義しゅぎてき位置いちることが有効ゆうこうであることを示唆しさしたのです。  また研究けんきゅうにおける当事とうじしゃ当事とうじしゃをめぐる議論ぎろんでは杉野すぎのが「個人こじんてきな「あしまれたいたみ」をどこまで社会しゃかいてき抑圧よくあつとしてえがけているかということにき」、障害しょうがいしゃ障害しょうがいしゃ、また抑圧よくあつするもの/されるものというとらえかたではなく、「個々ここ研究けんきゅう内容ないようをトータルに吟味ぎんみしてしか判断はんだんできない」とべています。また近年きんねん議論ぎろんでは、ポストコロニアリズムなどから発展はってんさせて宮地みやじが「環状かんじょうとう」というモデルを提起ていきしていますが、その著書ちょしょのなかで、当事とうじしゃとは一線いっせんいたさきにある、当事とうじしゃ研究けんきゅうしゃなどのポジショナリティについて言及げんきゅうしているてん興味深きょうみぶかいとえます。  いずれにせよ、障害しょうがい当事とうじしゃ以外いがい人々ひとびとんだ活動かつどうにおいてはこのように、必然ひつぜんてきに「境界きょうかいせん」を意識いしきせざるをません。そのうえで、それぞれのかれている状況じょうきょうそのもののレッテルごとに活動かつどう方向ほうこうせい分割ぶんかつさせることではなく、ことなったままでおな場所ばしょ居合いあわせるというてん重要じゅうようしていくポジショナリティが有効ゆうこうであろうということをここまでべてきました。 4.芸術げいじゅつ表現ひょうげんと「境界きょうかいせん」 (1)「ゆるく」連帯れんたいすることをうなが表現ひょうげん  ではそのなかで、芸術げいじゅつ表現ひょうげんはどのように機能きのうするのでしょうか。  社会しゃかいてき抑圧よくあつや「境界きょうかいせん」が現前げんぜんしているなかまれる芸術げいじゅつ表現ひょうげんは、蓄積ちくせきした多様たよう記憶きおく昇華しょうかします。芸術げいじゅつ活動かつどうにおける社会しゃかい包摂ほうせつてきみは、障害しょうがいという問題もんだい以外いがい領域りょういきにもさまざまにひろがりをせています。芸術げいじゅつとお年寄としよりとの関係かんけいせい芸術げいじゅつ活動かつどうつうじてゆらぎ、相互そうご作用さようする演劇えんげき制作せいさくする北海道ほっかいどう富良野ふらの事例じれいや、芸術げいじゅつとお年寄としよりのこだわりの応酬おうしゅうすえまれる、いつまでも完成かんせいつづけないラディカルな「共同きょうどう作曲さっきょく」に野村のむらまこと事例じれいなどは代表だいひょうてきですし、議論ぎろん領域りょういきをやや越境えっきょうしますが、新宿しんじゅく丁目ちょうめでは「HIV陽性ようせいしゃ/HIV陽性ようせいではない異性愛者いせいあいしゃ異性愛者いせいあいしゃ」という関係かんけいせいに「Living Together」(=一緒いっしょきている)というキーワードをあたえて「ゆるい」連帯れんたい目指めざすような音楽おんがくイベントもなされています。  このようなみの意義いぎ整理せいりすると、そのままつたえるとあまりにストレートでつたわらない言葉ことば事実じじつを、記憶きおくかさなりや、多様たようこえとして紹介しょうかいしていくてんが、芸術げいじゅつ表現ひょうげんのひとつのつよみであるともえるでしょう。近代きんだいてきなアクティヴィズムとは微妙びみょう位置いちをずらした場所ばしょで、「ゆるく」連帯れんたいし、婉曲えんきょくし、身体しんたいてきつたえ、ときにはラディカルな表出ひょうしゅつをもげる芸術げいじゅつ表現ひょうげんのありかたそのものが、「境界きょうかいせん」の様相ようそうそのものとの親和しんわせいりにします。 (2)われつづけるポジショナリティ――マイノリマジョリテ・トラベル  そうした「境界きょうかいせん」と表現ひょうげん関係かんけいについてはしてきあらわしていたのが、「マイノリマジョリテ・トラベル」というユニットの活動かつどうです。  「障害しょうがい背負せおいながらも頑張がんばってパフォーマンスするのがうつくしい」といった福祉ふくしてき意義いぎ称揚しょうようすることへの違和感いわかんから、無自覚むじかく使つかわれている「障害しょうがい」というタームがじつ曖昧あいまい定義ていぎなのではないか、と疑問ぎもんいた主催しゅさいしゃたちはつぎのようにかんがえました。すなわち、身体しんたいてき精神せいしんてき特徴とくちょうや、文化ぶんかてき社会しゃかいてき背景はいけいが「障害しょうがい」となるのは、社会しゃかい構造こうぞうがその特徴とくちょう背景はいけい排除はいじょしたものであるためで、障害しょうがい健常けんじょうちがいというのは、ある意味いみきわめて相対そうたいてきなものであり、その枠組わくぐみを形作かたちづく境界きょうかいせん自体じたい本来ほんらい流動的りゅうどうてきなものではないだろうか。そこで、その境界きょうかいせんうちそとするたびをおこない、そこからまれるエネルギーを舞台ぶたい作品さくひんにするプロジェクトを主宰しゅさいすることで、社会しゃかいにおけるすべての枠組わくぐみの相対そうたいせい示唆しさしようとこころみたのです。  せい同一どういつせい障害しょうがい、アルコール依存いぞんしょう摂食せっしょく障害しょうがいなどさまざまな「障害しょうがい」を社会しゃかいたいしてかんじている人々ひとびと役者やくしゃとしてあつめて、ねばづよいワークショップのすえおこなわれた公演こうえんは、公共こうきょうのバスをっておこなわれるなど、個々ここ参加さんかしゃのエピソードがまじえられた刺激しげきてき公演こうえんとなりました。こうしためんについてはべつ論考ろんこう考察こうさつしておりますので詳細しょうさいはぶきますが、ほん発表はっぴょう重要じゅうようしたいのはそうした、いわば「毒性どくせい」ばかりではありません。「共同きょうどうせい」ともうべき関係かんけいせい発露はつろです。  役者やくしゃたちはワークショップの休憩きゅうけい時間じかんなどもふくめて、自分じぶんのバックグラウンドのこと、政治せいじへの不満ふまんせい話題わだいなどをとにかくよくかたるメンバーでした。自助じじょグループであればおたがいのおもいを尊重そんちょうするべくだまっていているべきものですが、ときにはひとはなししのけてまで会話かいわがマシンガンのごとくすすんでゆきます。そして結果けっかてきに、参加さんかしゃたちがしゃべっていたことは、演出えんしゅつ脚色きゃくしょくされ、作品さくひんれられます。なにじゅうじょうものくすりゆかにぶちまける、車椅子くるまいすがバスにることができずに乗車じょうしゃ拒否きょひとなってしまう、舞台ぶたいじょうでただただ猥談わいだんひろげる...。しかもそれぞれのエピソードはすこしフィクションされたため、役者やくしゃたちを戸惑とまどわせます。参加さんかしゃに、みずからのエピソードをみずからにえんじさせることで、場合ばあいによっては個人こじんてきであった問題もんだいたいする意思いしいかけるように仕掛しかけたのでした。  こうしてされた表現ひょうげんにおいて、「障害しょうがい健常けんじょう」の境界きょうかいせんもとづいた表現ひょうげんではなく、個々ここの「リアルな身体しんたい」が表出ひょうしゅつされた、とする論評ろんぴょうがなされたのは重要じゅうようすべきでしょう。彼女かのじょたちの「境界きょうかいせん」をめぐる考察こうさつのすえされた表現ひょうげん活動かつどうは、一元化いちげんかされがちな「障害しょうがいしゃぞうのレッテルを背負せおうのではなく、個々ここ多様たようせい内包ないほうさせ、役者やくしゃとなったかれらひとりひとりの現在げんざいてき意味いみ照射しょうしゃすることに成功せいこうしたのでした。また、観客かんきゃくからは「モヤモヤかん」「見世物みせもの小屋こやの「どく」」という反応はんのうしめされました。彼女かのじょたちは、これまでの概念がいねんでは理解りかいできないような「境界きょうかいせん」のありようについて、表現ひょうげん行為こうい媒体ばいたい提示ていじすることで、観衆かんしゅうにショックをあたえることに成功せいこうし、みずからの問題もんだいとして思索しさくをさせる機会きかいとして機能きのうさせたのです。 (3)関係かんけいせい昇華しょうか作品さくひんせいへの回収かいしゅう  しかし実際じっさいには、「境界きょうかいせん」のゆらぎと芸術げいじゅつ表現ひょうげんとの親和しんわせいは、ときにきばをむく場合ばあいもあります。もうひとつの事例じれいは、音楽おんがく療法りょうほう即興そっきょう音楽おんがく専門せんもんとする若手わかて音楽家おんがくか民家みんか利用りようして、2007ねんより継続けいぞくしておこなっている、障害しょうがいしゃ地域ちいき住民じゅうみん音楽おんがく大学だいがく学生がくせいなどさまざまな人々ひとびととともに、その即興そっきょうてきうたづくりをおこないつづけるワークショップです。  この企画きかく特徴とくちょうてきなのは、音楽おんがく制作せいさくという枠組わくぐみでありながらも、音楽おんがく以外いがいのパフォーマンスや美術びじゅつなど多様たよう表現ひょうげん形態けいたいを「うた」としょうしていることです。あえて音楽おんがくというじた領域りょういきのみに参加さんかしゃ表現ひょうげん欲求よっきゅう回収かいしゅうすることなく、多様たようはば提供ていきょうしたことで、音程おんていただしく、うつくしくうたげるような模範もはんてきな「うた」をうたうことができないひとにとっての「うた」をもとめ、その居合いあわせる人々ひとびとでしかできない表現ひょうげんすことに成功せいこうしています。  しかし一方いっぽうをファシリテートする芸術げいじゅつたちにより、一旦いったん担保たんぽされたかにえた多様たようせいうしなわれる瞬間しゅんかんもまたまれています。ワークショップでつくった「うた」をCDにのこ過程かていでは、障害しょうがいしゃ自身じしん歌声うたごえ録音ろくおんしながら音程おんてい補正ほせいおこなうなど「きれいに」したアレンジをして、「ちゃんと」演奏えんそうされた状態じょうたいのこし、多様たようゆえにまれるノイズは排除はいじょされます。  これは芸術げいじゅつとしてのかれらの活動かつどう記録きろくしていくための行為こういとしての、芸術げいじゅつをめぐる社会しゃかい構造こうぞう問題もんだいてん一端いったん提起ていきしているともえますが、芸術げいじゅつてき表出ひょうしゅつ芸術げいじゅつのみの価値かちかん回収かいしゅうしてしまっているともとらえられます。すなわちほん事例じれいにおいては、二面ふたおもてせい、すなわち、あるしゅの「ゆるさ」をたもつづけるふところふかさが必然ひつぜんてき希求ききゅうされながら、居合いあわせた関係かんけいせい作品さくひん昇華しょうかしていくが、しかし「芸術げいじゅつてき概念がいねんと「作品さくひんせいへの回収かいしゅうへの危険きけん、ひいては芸術げいじゅつによる他者たしゃへの搾取さくしゅ危険きけんせいつねはらむ――が背反はいはんしながらも同時どうじ進行しんこうしている、という指摘してきができるのです。 5.おわりに  これまでほん発表はっぴょうでは、日本にっぽんにおける障害しょうがいしゃ表現ひょうげんについての近年きんねん展開てんかい概観がいかんし、こうした活動かつどう障害しょうがい当事とうじしゃのみならず多様たよう人々ひとびとかかわりをうながしているてん着目ちゃくもくしました。人々ひとびと線引せんひきをする「境界きょうかいせん」は単純たんじゅんこう対立たいりつではなく重層じゅうそうてきかつ相対そうたいてき流動的りゅうどうてきであることを指摘してきしたうえで、それぞれのかれている状況じょうきょうのカテゴリごとにかんがえるのではなく、ことなったままでおな場所ばしょ居合いあわせるというてん重要じゅうようしていくポジショナリティが有効ゆうこうであろうということをべました。  そしてその多様たようさ、めると「ひとりひとりのこえ」を、柔軟じゅうなんかたちでゆるく表出ひょうしゅつさせることができるのが芸術げいじゅつ表現ひょうげんつよみであり、また役割やくわりであろう、とべてきました。しかしそこにもなお、そのにおけるつよいものとよわいものはけられ、権力けんりょく構造こうぞうみだされつづけるのです。最後さいごにご紹介しょうかいしたふたつの事例じれいは、いずれも観客かんきゃくおよび周辺しゅうへん支援しえんしゃからは一定いってい芸術げいじゅつてき評価ひょうかている活動かつどうでありますが、「障害しょうがい健常けんじょう」の境界きょうかいせんにとどまらず、その居合いあわせる人々ひとびとの、じつ多様たようさまを、そのままでいかに担保たんぽするかというてんについては対照たいしょうてき結果けっかとなっているとえるでしょう。  近年きんねん芸術げいじゅつによる社会しゃかい包摂ほうせつてきみが近年きんねん隆盛りゅうせいしています。しかしそのおおくは、実現じつげん可能かのう社会しゃかい変革へんかくへの道筋みちすじってしまい、芸術げいじゅつ論理ろんりのみにもとづいて目的もくてきにただ一緒いっしょなにかをやる、という現実げんじつおおたりにします。しかしそうではなく、こうした活動かつどうは、まえにいる「あなた」と「わたし」のあいだ、そして「われわれ」と「わたし」のあいだにある差異さいけるところからはじまる、すべての関係かんけいせいいなおす行為こういとしておこなわれるべきです。それでこそ、境界きょうかいせんをずらし、つなぎかえるような芸術げいじゅつ表現ひょうげん活動かつどう隆盛りゅうせいする意義いぎがあるのである、とえるでしょう。 ※本稿ほんこうは、障害しょうがい学会がっかいだいかい大会たいかい詳細しょうさい原稿げんこうとして、情報じょうほう保障ほしょう観点かんてんから提出ていしゅつするものです。実際じっさい大会たいかいでの発表はっぴょうにおいて、多少たしょう内容ないよう差異さいしょうじる可能かのうせいがありますこと、あらかじめご留意りゅういください。