〔 page 1/5 〕

6139

　62番目ばんめの染しみ（し）みの隣となりには、小ちいさな窪くぼ（くぼ）みがある。ピアノ教室きょうしつを休やすみたかった私わたしが、メトロノームを天井てんじょうに叩たたきつけた時ときにできた跡あとだ。あんなに嫌いやだったピアノなのに、今いまでは鍵盤けんばんを叩たたく感触かんしょくを思おもい出だすと泣なきそうになる。
　63、64、65、66。四よっつの染しみは、カーテンレールのすぐそばに星座せいざのように並ならんでいる。偽にせ十字じゅうじ座ざという名前なまえをつけたのは、目めを覚さましてから2066日にち目め。今日きょうから4073日にち前まえ。暗算あんざんばかりが上手じょうずになってしまった。
　歪ひずみ（いびつ）な偽にせ十字じゅうじの隣となりでは、色褪いろあせたレースのカーテンが風ふうに揺ゆれている。施ほどこされた花はな柄がらの刺繍ししゅう（ししゅう）が、一層いっそうデザインを土臭つちくさく見みせていた。こんなに長ながく眺ながめる羽目はめになるのなら、母ははが自慢じまんげに買かって来きたその日ひに引ひき裂さいてやれば良よかった。当時とうじから我慢がまんできないほど野暮やぼったいと思おもっていたのだから。
　情なさけないのは「かわいいでしょう」と笑わらう母ははに思おもわず「ありがとう」と返事へんじをしてしまったことだ。中学生ちゅうがくせいの頃ころの私わたしは、センスも知性ちせいもない母ははに何なにを伝つたえても無駄むだだとあきらめていた。どうせ数すう年ねんで出でて行いく予定よていの、親おやから与あたえられた部屋へやに権利けんりを主張しゅちょうするのも馬鹿ばからしいと思おもっていた。
　67、68、69。中学校ちゅうがっこうの卒業そつぎょうアルバムの隣となりには、ピンクの背せ表紙ひょうしの文集ぶんしゅうが並ならんでいる。70、71、72。高校こうこう三さん年生ねんせいの三さん月がつで止とまったままの壁掛かべかけホワイトボードの上うえには、丁寧ていねいに額縁がくぶちに納おさめられた大学だいがくの合格ごうかく証書しょうしょ。それがまだあの人ひとたちにとっては大切たいせつなのか。73、74、75、76。真まっ黒くろいテレビデオの横よこには、無造作むぞうさに置おかれたたくさんのビデオテープ。きっとほとんどが当時とうじの出演しゅつえん番組ばんぐみなのだろう。77、78。アンモニアの消毒しょうどく液えきと、排泄はいせつ物ぶつ（はいせつぶつ）の混まじった臭においには今いまでも慣なれない。79。いくらそれが自分じぶんのものだったとしても。80。あの人ひとたちは何なにも思おもわないのだろうか。
　79、80、81。数字すうじを数かぞえるのはピアノを弾ひくのに少すこし似にている。ミソラソラ。何気なにげなくピアノで弾ひいていただけなのに、ラの音おとが鳴なった時ときに自然しぜんと涙なみだが出しゅっそうになって、その勢いきおいで一いち曲きょくを作つくってしまった。私わたしが生うまれて初はじめて作つくった曲きょくは、今いまでも頭あたまの中なかで急きゅうに響ひびき出だす。
　間違まちがいない。天井てんじょうの染しみの数かずは今日きょうも81だった。起おきるたびに、必かならず81を数かぞえるようになって、もう何なん千せん日にちが経たつだろう。鍵盤けんばんの数かずには7つ足たりないけれど、何なん度ども私わたしを救すくってくれた魔法まほうの数字すうじ。
　そういえば子こどもの頃ころは、頭あたまを打うった時とき、自分じぶんが正常せいじょうであることを確たしかめるために、よく九きゅう九きゅうの七ななの段だんを復唱ふくしょうしていた。奇数きすうが多おおくて、法則ほうそく性せいに乏とぼしい上うえに、リズムの取とりにくい七ななの段だん。しちいちがしち。しちにじゅうし。「しち」ではなく「なな」だっただろうか。なないちがなな？　なないちはなな？　やっぱり、しちいちがしち？
　すぐに思おもい出だせないことはたくさんある。サザエさんに出でてくる伊佐いさ坂ざか（いささか）先生せんせいの娘むすめの名前なまえ。島根しまね県けんの県庁けんちょう所在地しょざいち。1は煙突えんとつ、2はアヒルで始はじまる数かぞえ歌うたの3。逆立さかだちをすると軽かるくなる生いき物もの。海うみ（うみ）くんの電話でんわ番号ばんごう。気きになったことをすぐに調しらべられないのは、いつまで経たっても慣なれない。姉あねや母ははが持もつあの小ちいさな板いたを使つかってインターネットに接続せつぞくすれば、答こたえはすぐにわかるはずだ。
　子こどもの頃ころから、図鑑ずかんで調しらべものをするのが好すきだった。もう題名だいめいはおぼろげにしか思おもい出だせない。毎日まいにちのように何なん度ども読よんだはずなのに。あの黄色きいろい背せ表紙ひょうしの本ほんは何なにだっただろう。表紙ひょうしにドーナツ型がたのスペースコロニーが描えがかれた小学しょうがく館かんの図鑑ずかん。写真しゃしんのようにこびりついているページならいくつもある。観光かんこう用ようのスペースシャトルで宇宙うちゅう旅行りょこうを楽たのしむ人々ひとびと。4・3光年こうねん離はなれた恒星こうせい（こうせい）へ向むかう光子こうしロケット。
　この部屋へやからさえ抜ぬけ出だせなかった私わたしにとって、途方とほうもない規模きぼで語かたられる宇宙うちゅうの物語ものがたりは胸むねが躍おどった。いつか大人おとなになったら、この家いえやこの街まちどころか、地球ちきゅうさえも脱出だっしゅつできる。しかもその日ひは、あまり遠とおくない未来みらい。そう思おもうたびに早はやく大人おとなになりたいと思おもった。それがまさか大人おとなになってからまた、この部屋へやに閉とじ込こめられることになるなんて。
　だから、やたらこのベッドで宇宙うちゅうの夢ゆめを見みてしまうのだろうか。一いち日にちに何なん度ども朝あさが訪おとずれる地球ちきゅう周回しゅうかい軌道きどう上じょうのホテルから、無数むすうの光ひかりが明滅めいめつする地上ちじょうを眺ながめる夢ゆめ。
　女おんなの子こなのに宇宙うちゅうが好すきなのね。そう言いったのは祖母そぼだったか。手てを伸のばすことができれば、図鑑ずかんはすぐそこにあるはずだ。金属きんぞくの本棚ほんだなの二に段だん目め。きっと卒業そつぎょうアルバムの二に冊さつ隣となり。それにもかかわらず、もう一生いっしょう、そのページを繰く（く）ることはできないのだろう。だけど、その程度ていどのことならあきらめるのは容易ようい（たやす）い。図鑑ずかんで得えた知識ちしきや、抱だいた感情かんじょうはとっくに自分じぶんの一部いちぶになっているはずだから。
　今日きょうも時間じかん通どおりにインターフォンが鳴なる。月曜日げつようびの朝あさだから清水しみずくんだろう。小太こぶとりで猫背ねこぜの上うえに、歯並はならびが悪わるいせいでまるで垢あか抜（あかぬ）けない見みた目めだが、痩やせれば悪わるくない外見がいけんをしている。整形せいけいと矯正きょうせいでもすればいいのに。
　整形せいけい手術しゅじゅつをするにしても、目めと鼻はなと口くちの位置いちを動うごかすことはできない。清水しみずくんの顔かおは整形せいけい向むきだ。整形せいけいといえば、去年きょねんまで来きていた山崎やまざきはひどかった。プロテーゼを入いれて尖とがらせた鼻はなに合あわせて、おでこや頬ほおにヒアルロン酸さんを注射ちゅうしゃしたせいか、顔かお全体ぜんたいが球体きゅうたいのようになっていた。介護かいごの仕事しごとだけで整形せいけい費用ひようがまかなえるとは思おもえないから、夜よるはきっと西小岩にしこいわや葛西かさいあたりで働はたらいていたのだろう。
　仕事しごとも雑ざつだったので、彼女かのじょが結婚けっこんを機きに辞やめると知しったときは嬉うれしくて仕方しかたがなかった。頼たのんでもいないのに山崎やまざきは結婚けっこん相手あいての写真しゃしんを見みせてきた。彼女かのじょと同おなじく、鼻はなとあごからプロテーゼが飛とび出だしそうになっている金髪きんぱつの男おとこ。お似合にあいだと思おもった。結婚けっこん相手あいてを探さがす時ときに、イメージをよくするためのアリバイとして介護かいご職しょくに就（つ）いているのだろうという見立みたては外はずれたけれど。
「香織かおりさん、おはようございます」
　大おおきくウサギがプリントされた格好かっこう悪わるいエプロンをした清水しみずくんが部屋へやに入はいって来きた。エプロンの下したには長袖ながそでのスウェットとデニム。縫製ほうせいは悪わるくないものの、サイズが身体しんたいと合あっていない。清水しみずくんは足あしが細ほそいのだから、スキニーでも穿はけばいいのに。パンツさえ絞しぼれば、誰だれでも多少たしょうはお洒落しゃれに見みせることができる。
　できれば腕うでまくりもさせたい。手首てくびをきちんと露出ろしゅつさせたほうが、バランスがとれて痩やせて見みえるから。太ふとった人ひとのファッションは、首くびや手首てくび、足首あしくびといった細ほそい部分ぶぶんをきちんと見みせるのが基本きほんだ。家庭かてい科かの教科書きょうかしょにでも載のせれば、この国くにから見苦みぐるしい人ひとの数かずが少すこしは減へると思おもう。
　今日きょうも外そとは暑あついのか、うっすらと汗あせをかいている。中年ちゅうねん男性だんせいの加か齢よわい臭しゅうは問題もんだい外がいだけど、若わかい男おとこの子この汗あせの匂においは嫌きらいじゃない。まだ大学だいがくを卒業そつぎょうして間あいだもないはずだから20代だい前半ぜんはんのはずだ。
　遅おくれて父ちちも部屋へやに来くる。着古きふるしたポロシャツと、随分ずいぶんと高たかい位置いちでベルトを締しめたスラックス。美術館びじゅつかん通がよいが好すきなはずなのに服ふくのセンスは皆無かいむだ。
　清水しみずくんと父ちちは手際てぎわよくスリングシートを身体しんたいの下したに敷しき込こみ、リフトを使つかって私わたしを車椅子くるまいすに乗のせる。清水しみずくんの汗あせがシャツ越ごしに私わたしの肌はだにも滲（にじ）んだ気きがした。唐辛子とうがらしのような匂においがする。まるで父ちちの臭においをかき消けしてくれるようで嬉うれしい。腕うでには、安やすいカシオの時計とけいが巻まかれていた。物価ぶっかが変かわっていなければ1200円えんくらい。私わたしが車椅子くるまいすに乗のったのを確認かくにんすると、父ちちは自室じしつへ戻もどっていった。
　清水しみずくんに押おされて玄関げんかん前まえの廊下ろうかを通とおりリビングへと向むかう。昔むかしは玄関げんかんには大おおきな姿見すがたみが置おかれていたのに、今いまでは私わたしのポスターが貼はられている。ロンドンのバタシー発電はつでん所しょの前まえで、真まっ赤かな服ふくを着きて、おもちゃの銃じゅうを構かまえていた。白しろい大おおきな文字もじで「KAORI FUJIMOTO」「1998.8.5 in stores」と書かかれている。CMとプロモーションビデオの撮影さつえいを兼かねて行いったイギリスでは、結局けっきょく予定よていの映像えいぞうを撮とりきれなくて、足たりない部分ぶぶんは川崎かわさきの工業こうぎょう地帯ちたいで何なにとか補おぎなった。もともとセピア色しょくの写真しゃしんだから、今いまでも色褪いろあせて見みえないのが嬉うれしい。きっと清水しみずくんの年齢ねんれいだと、私わたしをリアルタイムで観みたこともないのだろう。
　リビングでは姉あねがテレビを眺ながめていた。どこに行いく予定よていもないだろうに、真まっ赤かなサテンシャツを着きている。この数すう年ねん、好このんで着きているグッチのはずだ。襟えり（えり）から首くびの肉にくがだらしなくはみ出でている。世界一せかいいち不幸ふこうなグッチだと思おもった。彼女かのじょは私わたしを一瞥いちべつ（いちべつ）すると、テレビに視線しせんを戻もどす。朝あさのワイドショーでは、東京とうきょうオリンピックまでついに二に年ねんを切きったというニュースが放送ほうそうされていた。
　8畳じょうのリビングには無造作むぞうさにいくつもブランドのバッグが置おかれている。その高級こうきゅう品ひんとは不ふ似合にあいなインテリアは、私わたしが子こどもの頃ころから変かわっていない。ビニール製せいの安やすいテーブルクロスの掛かかった平井ひらいの島忠しまちゅうで買かってきたテーブル。明あかるいだけが取とり柄えの真まっ白しろな蛍光けいこう灯とう。ピンクの食器しょっき棚だな。日ひに灼やけた壁紙かべがみ。天井てんじょうから吊つるされた黄土おうど色しょくのハエ取とり紙し。調和ちょうわという概念がいねんが一切いっさい存在そんざいしない部屋へや。
　服ふくやバッグに使つかうお金かねがあるなら、家いえをリフォームするなり、インテリアを買かい換かえるなりすればいいのに、姉あねたちにその発想はっそうはないらしい。金遣かねづかいは荒あらいくせに保守ほしゅ的てきな人々ひとびと。彼かれらは最もっとも資産しさんを残のこせない。
　この家いえを出でて一人ひとり暮くらしをしていた頃ころの私わたしは、部屋へやに一ひとつとしてセンスの悪わるいものを置おきたくなかった。マイケル・ヤングのソファに、ペインティングしてもらったイームズのシェルチェアを並ならべて、壁かべには奈良なら美智みち（よしとも）の絵えやロバート・フランクの写真しゃしんを飾かざる。もちろん、何なにが格好かっこうよくて、何なにが格好かっこう悪わるいかなんて主観しゅかんでしかないし、時代じだいと共ともに移うつり変かわってしまうけれど、あの時ときの私わたしの部屋へやは間違まちがいなく素敵すてきだった。
　なぜなら、私わたしがいいと思おもうものを、少すくなくない人々ひとびとがいいと思おもってくれていたから。雑誌ざっしでは、私わたしが選えらんだファッションやインテリアの特集とくしゅうが何なん度ども組くまれた。ヘルムートラングのシャツとかコズミックワンダーのデニムとか、流行りゅうこうさせたものは一ひとつや二ふたつではないと思おもう。
　できたばかりの恵比寿えびすのタワーマンションの32階かい。東京とうきょう中ちゅうのビルが見渡みわたせそうな部屋へやで、毎晩まいばんのように友達ともだちを呼よんでパーティーを開ひらいた。朝方あさがたまで飲のんで、寝ねないで現場げんばに向むかう。仮眠かみんは移動いどう中ちゅうに済すませて、プロモーション期間きかん中ちゅうは膨大ぼうだいな収録しゅうろくや取材しゅざいをこなす。どんなに仕事しごとが遅おそくまでかかっても、夜よるを一人ひとりで明あかすのは嫌いやだった。よく体力たいりょくが持もったものだと思おもう。
　今いまから思おもえば、全すべてが夢ゆめのようだった。四六時中しろくじちゅうけたたましくて、とにかく色いろ鮮あざやかだった日々ひび。私わたしが閉とじ込こめられた江戸川えどがわ区くの片隅かたすみの民家みんかとは、信しんじられないくらい隔へだたった場所ばしょ。初はじめて海うみくんと会あったのも、そんな慌あわただしい夜よるの中なかの一いち日にちだった。
　いじわる爺じい（じじい）のような司会しかい者しゃがスポーツについて熱弁ねつべんしていたワイドショーからCMに変かわり、今夜こんや放送ほうそうされる歌うた番組ばんぐみの宣伝せんでんが流ながれ始はじめる。平成へいせいヒットソング特集とくしゅうと聞きいてそわそわした。SMAP、安室あむろ奈美恵なみえ、ポケットビスケッツ、globe、ZARDと平成へいせいを彩いろどり（いろど）った新旧しんきゅうのアーティストの映像えいぞうが次々つぎつぎに現あらわれ、消きえていく。
　その中なかに一瞬いっしゅん、私わたしの姿すがたも映うつった。
　40㎏にも満みたない華奢きゃしゃ（きゃしゃ）な身体しんたいに、真まっ黒くろいディオールのワンピースを着きている。よく手入ていれされた金髪きんぱつは胸元むなもとまで伸のびていて、顔かおが小ちいさい分ぶんだけ黒くろいアイラインの引ひかれた目めが大おおきく見みえた。高音こうおんのロックバラードは最もっともセールス的てきに成功せいこうした7枚まい目めのシングルだ。私わたしが作詞さくし作曲さっきょくをしたことになっているけれど、半分はんぶんくらいは海うみくんに手伝てつだってもらった。
「清水しみずくん、観みた？　今いま、一瞬いっしゅんだけ香織かおりが映うつったの」
「台所だいどころに行いってたんで、観みてなかったです」
　清水しみずくんはストローのついたペットボトルを持もってきてくれた。それをゆっくりと私わたしの口くちに入いれてくれる。息いきを吸すうように、水みずを飲のみ込こむ。医者いしゃに指示しじされた通とおりに、清水しみずくんは律儀りちぎに15分ふんごとに水分すいぶん補給ほきゅうをしてくれる。画面がめんの中なかにいた私わたしにはまるで関心かんしんがないようだ。それでいいと思おもった。
「テレビ局てれびきょくから連絡れんらくが来きてたけど、二に曲きょくも流ながしてくれるんだって。覚おぼえてた？　今年ことしは香織かおりのデビュー20周年しゅうねんなのよ。最近さいきんはサブスクもあるから、テレビの効果こうかって馬鹿ばかにできないの」
　信しんじられないほどの時間じかんが経たってしまった。
　あの事故じこがなかったとしても、現役げんえきを続つづけられたかどうかが怪あやしいほどの期間きかんだ。実際じっさい、テレビで観みなくなってしまった知しり合あいは多おおい。海うみくんも、とっくに現役げんえきを退しりぞいてしまって、今いまでは裏方うらかたの仕事しごとが多おおいのだという。
「清水しみずくん、おせんべいでも食たべない？」
　姉あねは自分じぶんが食たべていたサラダせんべいを清水しみずくんに勧すすめる。どうせ太ふとるのならば、もっといいものを食たべればいいのに。サブスクというもののおかげで、この前まえも数すう百ひゃく万まん円えんの印税いんぜい収入しゅうにゅうがあったらしい。
「まず香織かおりさんの朝あさご飯はんを作つくっちゃいますね」
　清水しみずくんは台所だいどころへ行いき、私わたしのためにご飯はんを作つくってくれる。本当ほんとうは久ひさしぶりにおいしい中華ちゅうかでも食たべたいが、今いまの私わたしには望のぞむべくもない。去年きょねん、海うみくんが来きた時ときに教おしえてくれたFurutaなんて、きっと一生いっしょう行いく機会きかいなんてないのだろう。私わたしには、年としに一いち度どだけ来きてくれる海うみくんとテレビしか情報じょうほう源げんがない。あれからどれだけの新あたらしいお店みせが誕生たんじょうしたのだろう。せめてインターネットを自由じゆうに使つかえたらいいのに。
　白しろいご飯はんと焼やき鮭さけ、そして味噌汁みそしる。20年ねん前まえの私わたしなら絶対ぜったいに食たべなかったものばかりが食卓しょくたくに並ならべられる。毎日まいにち、メニューは代かわり映ばえしない。昨日きのうは焼やき鮭さけの代かわりに卵焼たまごやき、その前まえはスクランブルエッグといった具合ぐあいだ。
　清水しみずくんは私わたしに料理りょうりの匂においを嗅かがせた後のちで、食事しょくじをミキサーにかけていく。ドブ水すいのようになった液体えきたいをお椀わんによそい直なおして口くちの奥おくに入いれてくれる。だけど、ご飯はんだったものを二に口くちと、鮭さけだったものを一いち口くちだけ食たべて、もう口くちを閉とじてしまった。清水しみずくんは少すこし悲かなしそうな顔かおを見みせたが、それ以外いがいの意思いし表示ひょうじができないのだから仕方しかたがない。ただの流動りゅうどう食しょくでは味気あじけないと攪拌（かくはん）前まえの食事しょくじを見みせてくれるのは清水しみずくんの優やさしさだ。だけどそもそも私わたしは焼やき鮭さけも味噌汁みそしるも好すきではない。
　嚥下えんか（えんげ）もできなかった事故じこ直後ちょくごに比くらべて劇的げきてきな回復かいふくだと医師いしや看護かんご師しは言いうが、それならばこの口くちを使つかって話はなせるようになりたい。さすがに歌うたうことはあきらめたから。
「香織かおり、またこんなに残のこしたの？　食たべなくちゃだめよ」
　二に階かいから母ははが降おりてくる。姉あねよりも太ふとった母ははは、白しろいTてぃーシャツに水色みずいろのジャージを着きていた。片付かたづけでもしていたのだろうか。本当ほんとうなら老人ろうじんが必要ひつよう以上いじょうに食事しょくじを摂とる方ほうが身体しんたいに悪わるいと言いいたいところだ。
　母ははは、山崎やまざきに教おそわったのか、おでこにボトックスを入いれ始はじめた。おそらく山崎やまざきと同おなじ美容びよう整形せいけい外科げかに通かよっているのだろう。美容びよう整形せいけいは医師いしの好このみや癖くせが出でやすい。顔かおは一いちヶ所かしょでも手てを入いれると、それに合あわせて他たの部位ぶいもいじりたくなってくる。もしも私わたしが母ははの顔かおだったら、頬ほおをリフティングして、鼻はなにヒアルロン酸さんも入いれたい。
　自分じぶんの顔かおが気きに入いって若返わかがえりを望のぞむ人間にんげんの整形せいけいは、ボトックスから始はじまることが多おおい。次第しだいに歯止はどめがきかなくなると、あごや鼻先はなさきにヒアルロン酸さんを入いれたり、フェイスラインに脂肪しぼう溶解ようかい注射ちゅうしゃも打うち出だす。最終さいしゅう的てきには、顔かおが膨ふくらんでしまうか、あごが縦たてに伸のびすぎてしまう人ひとが多おおい。美容びよう整形せいけいの技術ぎじゅつは20年間ねんかんで大おおきく進化しんかしたはずなのに、テレビを観みている限かぎり、顔かおをいじることにはまってしまった人々ひとびとの末路まつろは、大おおきく変かわらないようだ。
「夜よるの歌うた番組ばんぐみ、香織かおりも出でるんでしょ。ほら、ここにちゃんと名前なまえ出でてるじゃない。藤本ふじもと香織かおりって。ねえ、お姉ねえちゃん、録画ろくが予約よやくしたの？」
　母ははは新聞しんぶんのテレビ欄らんを指差ゆびさしながら姉あねに尋たずねる。テレビは画質がしつも大おおきさも20年ねんですっかり変かわったのに、新聞しんぶんだけはそのままだ。薄うすくてざらざらした紙かみに、必要ひつようかどうかもわからない情報じょうほうがびっしりと書かかれている。その時代じだいに取とり残のこされそうな紙かみに、同おなじくすっかり時代じだいから置おいていかれた藤本ふじもと香織かおりの名前なまえが記しるされていた。
「どうせVTRなんだからいいじゃん。後ごからCXの人ひとにいえば、DVDも送おくってくれるだろうし。ママは香織かおりが好すきね」
　普通ふつうにフジテレビって言いえばいいのに。姉あねはぶつぶつと文句もんくを言いいながらリモコンをいじる。母ははは私わたしの隣となりに座すわり、ミキサーにかけなかった残のこりの味噌汁みそしるを飲のみ出だした。
「薄うす味あじね。香織かおりはもっと濃こい味あじが好すきなんじゃないの」
　不正確ふせいかくだった。私わたしは味噌汁みそしるが嫌きらいだ。本当ほんとうは清水しみずくんが作つくった料理りょうりは、私わたし以外いがいが食たべるべきではないのだが、彼かれは何なにも言いわずに笑わらって何なん度どか頷うなずく。
　母ははは小言こごとを言いいながら、すっかり泥水どろみずのようになった焼やき鮭さけと味噌汁みそしるも完かん食しょくしてしまった。その後ご、冷蔵庫れいぞうこからコーラを出だしてきて、大おおきなマグカップで一気いっきに飲のみ干ほす。母ははの行動こうどうを観察かんさつしていると、一ひとつ一ひとつの細こまかな選択肢せんたくしの積つみ重かさねの結果けっかが、今いまの体型たいけいだということがわかる。
　人ひとはある日ひ、急きゅうに太ふとり出だすわけではない。太ふとると太ふとらないという選択肢せんたくしがあると、常つねに太ふとるほうを選えらんできた人ひとが太ふとるのだ。概がいして整形せいけいにはまる人ひとというのは、首くびから下したに無頓着むとんじゃくである。夜よるの銀座ぎんざみたいな顔かおを目指めざすにもかかわらず、首くびから下したは埼玉さいたまのイオンモールでいいという感覚かんかくがいまいちわからない。
　ワイドショーが終おわると、もう一度いちど、今夜こんやの歌うた番組ばんぐみのCMが流ながれた。さっきとは違ちがう瞬間しゅんかんを切きり取とった映像えいぞうが画面がめんに映うつる。大おおきな目めで真まっ直すぐとカメラを見据みすえて、自信じしんたっぷりに歌うたう私わたしの姿すがた。おそらく、事故じこの数すう週間しゅうかん前まえの姿すがただ。力強ちからづよくて、凜々しいと思おもった。もう戻もどりたいわけでもないし、戻もどれるとも考かんがえていない。ただ、そう客観きゃっかん的てきに受うけ止とめられるくらい、時間じかんは流ながれた。
　清水しみずくんが水みずを飲のませてくれる。その時とき、ちょっと首くびが前まえに傾かたむいてしまって、自分じぶんが着きている服ふくが見みえた。しわしわになった黄色きいろい花はな柄がらのシャツ。グッチとは言いわないから、せめてユニクロの無地むじのシャツでも着きさせてくれたらいいのに。
　ある日ひ、急きゅうに太ふとることはできなくても、ある日ひ、急きゅうに人生じんせいが変かわることはあり得える。今いまから6172日にち前まえ、17年ねん前まえの夏なつ、私わたしは奈落ならくへと落おちた。

　＊

　夜よる眠ねむる前まえ、香織かおりの部屋へやを覗（のぞ）くことを日課にっかにしている。身体中からたじゅうがチューブにつながれていた事故じこ直後ちょくごと比くらべて、娘むすめは信しんじられないほどの回復かいふくを見みせた。何なにせ今いまでは自分じぶんで呼吸こきゅうをして、ちょっとした食事しょくじまでができるというのだから。
　部屋へやに入はいり、少すこし開ひらいたままになっていたカーテンを閉しめる。香織かおりが中学生ちゅうがくせいの頃ころに買かったものだから、もうさすがに色褪いろあせてしまった。だけど彼女かのじょのお気きに入いりなのだから新調しんちょうはしたくない。私わたしが生協せいきょうのカタログで選えらんだカーテンを、香織かおりが嬉うれしそうに何なん度ども眺ながめてくれたのを昨日きのうのことのように覚おぼえている。感情かんじょう表現ひょうげんが苦手にがてで無口むくちな娘むすめだったから、余計よけいに「ありがとう」と言いってくれたのは嬉うれしかった。
　思春期ししゅんきに入はいってから私わたしを口汚くちぎたなく批判ひはんするようになった彼女かのじょが口くちにした、たった一いち度どだけの感謝かんしゃ。香織かおりにとっても私わたしにとっても、大切たいせつなカーテンだ。
　うつろな目めをした香織かおりの頬ほおにそっと触ふれる。まるで赤あかちゃんのような表情ひょうじょうをしている。私わたしにそっくりのかわいい娘むすめ。ぽとりと汗あせが彼女かのじょの顔かおに落おちた。エアコンの設定せってい温度おんどを高たかくしてあるせいだ。顔かおの汗あせを香織かおりに着きせたTてぃーシャツで拭ぬぐえ（ぬぐ）う。部屋へやを出でようとすると、カーテンがかすかに揺ゆれた。窓まどが少すこし開ひらいたままだったようだ。夜よる風ふうが部屋へやに入はいり込こんで来くる。夏なつの蒸むし暑あつい空気くうきが肌はだにまとわりつくのが不愉快ふゆかいで仕方しかたがない。