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1998ねん10がつにちだい三種さんしゅ郵便ゆうびんぶつ認可にんか毎月まいつきかい8の発行はっこう)2022ねんがつ27にち発行はっこう SSKU 増刊ぞうかん通巻つうかんだい7424ごう

SSKU
特定とくてい営利えいり活動かつどう法人ほうじん タートル 情報じょうほう

情報じょうほうタートル だい60ごう

表紙ひょうし説明せつめい

カメのイラストがあります。

目次もくじ

巻頭かんとうげん 『ご挨拶あいさつ』 理事りじ 伊藤いとう 裕美ひろみ
認定にんていNPO法人ほうじんタートル2022ねん通常つうじょう総会そうかい記念きねん講演こうえんかい 『まなよろこび はたらきがいをもとめて』 藤野ふじの 高明こうめい
職場しょくば頑張がんばっています! 『そして、いま。』 藤川ふじかわ たかし
だいかいロービジョン・ブラインド川柳せんりゅうコンクール」作品さくひん募集ぼしゅうのおらせ
らせコーナー
編集へんしゅう後記こうき
奥付おくづけ

巻頭かんとうげん

『ご挨拶あいさつ

理事りじ 伊藤いとう 裕美ひろみ(いとう ひろみ)

このたび、タートルICTサポートプロジェクトをげたごえん理事りじ拝命はいめいいたしました伊藤いとう裕美ひろみです。これからどうぞよろしくおねがいいたします。
2020ねん視覚しかく障害しょうがいがあってもたりまえはたらけるICT環境かんきょう目指めざして、タートルICTサポートプロジェクトが始動しどうしました。これまで、すうがつだい日曜日にちようびっているICTサロンでは、さまざまなパネリストにご登壇とうだんいただき、ロービジョンのICTの工夫くふう、スクリーンリーダーの特徴とくちょう、ジョブコーチの現場げんばでのおはなしや、実際じっさい利用りようしたほう体験たいけんなどのテーマについておはなしいただきました。また、ICTグループメールやミニICTサロンでは、知識ちしき豊富ほうふみなさんのアドバイスにより、疑問ぎもん問題もんだいてん解決かいけつするとなっています。そして、ICTポータルサイトは、そとけの情報じょうほう発信はっしんツールとして、ICTを工夫くふうしている方々かたがたのインタビュー記事きじなど、すこしずつ内容ないよう充実じゅうじつさせています。
タートルICTサポートプロジェクトは今後こんご様々さまざまひと団体だんたいとのつながりを重視じゅうしし、さらに活動かつどうはばひろげようとしています。ICTの視点してんから、タートルの活動かつどう貢献こうけんできればとかんがえております。今後こんごのご指導しどうとご鞭撻べんたつのほど、どうぞよろしくおねがもうげます。

認定にんていNPO法人ほうじんタートル2022ねん通常つうじょう総会そうかい記念きねん講演こうえんかい

まなよろこび はたらきがいをもとめて』

講師こうし藤野ふじの 高明こうめい (ふじの たかあき)
もと 大阪おおさか市立しりつ盲学校もうがっこう教諭きょうゆ

みなさん、こんにちは。こん紹介しょうかいいただきました藤野ふじの 高明こうめいです。Zoomによるおはなしはあまりれていないというか、感覚かんかくてきには苦手にがてなのですが、今日きょうはZoomでいているほう全国ぜんこくにかなりいらっしゃるということで、わたしこんマイクにかっています。具体ぐたいてきこまることがあれば、スタッフのほう手伝てつだってもらいますが、できるだけレジュメに沿っておはなしをしていきたいとおもいます。ただ、かぎられた時間じかんですから、さきほどからレジュメをずっとながめていました。最後さいごほう項目こうもくになりますが、去年きょねんだい58かい 点字てんじ毎日まいにち文化ぶんかしょうをいただきました。さきにそのはなしからさせてもらうのが、一番いちばんはいりやすいかとおもいますので、そこからはじめさせてください。

点字てんじ毎日まいにち文化ぶんかしょう受賞じゅしょうして〉

今年ことしになってわられましたが、去年きょねんあき点字てんじ毎日まいにち編集へんしゅうちょう遠藤えんどうさんから、お電話でんわをいただきました。「だい58かい 点字てんじ毎日まいにち文化ぶんかしょう受賞じゅしょう藤野ふじのさんにまりました。けていただけますか」という大変たいへん丁寧ていねいなご挨拶あいさつ電話でんわでした。わたしは、即座そくざに「ありがとうございます。もちろんよろこんでおけいたします」ともうしました。
というのは、点字てんじ毎日まいにち今年ことしでちょうど100ねんなのです。100ねんというのは大変たいへんりの数字すうじで、政党せいとううと日本にっぽん共産党きょうさんとう大衆たいしゅう運動うんどううと水平すいへいしゃ部落ぶらく解放かいほう運動うんどう開始かいしから100ねんになります。点字てんじ毎日まいにちも100ねんですから、その前年ぜんねんに「だい58かい 点字てんじ毎日まいにち文化ぶんかしょう」をいただけるのはうれしいなとおもいました。
このしょうは、わたし敬愛けいあいする先輩せんぱい何人なんにん受賞じゅしょうされていますし、日頃ひごろいのある友人ゆうじん知人ちじんにも受賞じゅしょうしゃがいますから、わたししんのどこかにあこがれのようなものをかんじていました。そういうしょうですから、非常ひじょううれしかったのです。ただ、東京とうきょうでの授賞じゅしょうしきおこなえないということで、東淀川ひがしよどがわにある編集へんしゅうちょう編集へんしゅう次長じちょう二人ふたりてくれました。編集へんしゅう次長じちょう濱井はまいさんは今年ことし編集へんしゅうちょうになりましたが、去年きょねんまでは編集へんしゅう次長じちょうをされていました。
そして、おどろいたのはわたしかお彫刻ちょうこくされているというのでしょうか。さわるとわかるのですが、そういう彫刻ちょうこくいた記念きねんたて大変たいへんおもかったですね。両手りょうてかかえると、としそうになるくらいのおもさをかんじました。4キロはあるでしょうか。「わたしかおがわかる」というのでさわってみましたが、あまり実感じっかんはありませんでした。大体だいたい自分じぶんかおさわるというのは、あまりたのしいものではありませんが、おもものをいただきました。
そして、時計とけいくわえて、なんと30まんえん目録もくろくもありました。くのをわすれていましたが、30まんえん目録もくろくもいただきました。本当ほんとううれしかったのですが、一番いちばんうれしかったのはおかねではありませんでした。もちろんおかねうれしかったのですが、わたし一番いちばん感激かんげきしたのは、表彰状ひょうしょうじょう文言もんごんでした。くわしいところまではおぼえていませんが、ふたつのことが具体ぐたいてきいてありました。普通ふつう一般いっぱんてき表現ひょうげんではなくて「じゅう障害しょうがいいながら」ということで、そこにはふたつのことがいてありました。
そのひとつは「一生懸命いっしょうけんめいはたらきましたね」と、「社会しゃかい教員きょういんとして学校がっこうはたらきましたね」ということでした。社会しゃかい教員きょういんでしたから、社会しゃかい仕組しくみといったものを、そしてどんなに障害しょうがいがあってもむねってきていくことを、生徒せいとたちによくつたえてくれたということで、「学校がっこう先生せんせいとして、しっかりやりましたね」とめてくれました。
そして、もうひとつはわたし障害しょうがいかんすることでした。視力しりょくうしない、両手りょうてうしなった原点げんてんである戦争せんそうについて、「本当ほんとうによくかんがえて、平和へいわもとめて、障害しょうがいしゃ運動うんどうちからくしてきましたね」ということでした。このふたつの内容ないようをきちんと具体ぐたいてきいてくれたのです。
学校がっこう先生せんせいになったことはわたしきがいですし、ぜんきょう会長かいちょうふくめて障害しょうがいしゃ運動うんどうみなさんと一緒いっしょあるかせてもらったことも、きちんと評価ひょうかをしてくれました。ですから「さすが点字てんじ毎日まいにちやなぁ」とおもいました。「よく頑張がんばりましたね」だけではなくて、具体ぐたいてきにきちんとふたつのことがかれていたことに、わたし大変たいへん感動かんどうをいたしました。レジュメでは最後さいごほうになりますが、これを最初さいしょいたいとおもいました。

簡単かんたん自己じこ紹介しょうかい

さきほどご紹介しょうかいいただきましたが、わたしは1938ねん昭和しょうわ13ねん)12月にまれましたから、今年ことしたりどしになります。今年ことしとらねんなので、「とら、ベートーベンもマルクスも」という下手へた川柳せんりゅうを「点字てんじみんほう」1がつごうきました。芸術げいじゅつとしては、やはりベートーベンは大好だいすきですし、わたし哲学てつがくじょうえば、次元じげんちがうので「先生せんせい」とあおぐような存在そんざいではありませんが、マルクスだとおもっています。「ヨーロッパにはそんなものいやろ」というような、無粋ぶすいなことはわないでくださいね。ベートーベンもマルクスもとらねんになります。そして、わたしいま83さいです。
わたしまれそだったのは、九州きゅうしゅう福岡ふくおか中央ちゅうおうです。高宮たかみや小学校しょうがっこうという学校がっこうっていました。当時とうじは、小学校しょうがっこうわずに国民こくみん学校がっこういましたが、そこにかよっていました。福岡ふくおかまれそだち、盲学校もうがっこうとなりにあったのですが、20さいになるまで盲学校もうがっこうにはけませんでした。大阪おおさか市立しりつ盲学校もうがっこうは、いま大阪おおさか府立ふりつ 大阪おおさかきた視覚しかく支援しえん学校がっこうという名前なまえになっています。長年ながねん大阪おおさか市立しりつ盲学校もうがっこうなので「大阪おおさかめくら」とわたしたちはっていました。そこにまん20さいから25さいまでの5年間ねんかん中学ちゅうがく年生ねんせいから普通ふつうの3年生ねんせいまで、大阪おおさか市立しりつ盲学校もうがっこう生徒せいととしてお世話せわになりました。
そして、1972ねんから2002ねんの30年間ねんかん教職員きょうしょくいんとしてお世話せわになりました。ですから、35年間ねんかん生徒せいととして教職員きょうしょくいんとして大阪おおさか市立しりつ盲学校もうがっこうでお世話せわになり、2010ねんから同窓どうそう会長かいちょうもさせてもらいました。今年ことし9月くがつからはあたらしいひと同窓どうそう会長かいちょうゆずることになっていますが、そういうかたち仕事しごとをしてきました。
趣味しゅみはいっぱいありますが、将棋しょうぎすことが大好だいすきです。将棋しょうぎのルールをらなくても、藤井ふじいさとしふとし将棋しょうぎているだけでもたのしいです。棋譜きふらなくても、棋譜きふをわざわざなくても「すごいな」とおもいますし、やっぱりこういうのを「しょう」とうのでしょうが、わたしももう「しょう十分じゅうぶんや」とおもいますし、ルールをらなくても面白おもしろいのです。
将棋しょうぎすのは大好だいすきですが、将棋しょうぎにはけがあります。ったらうれしいですが、けるとドッとつかれがます。それでも、1かげつに1かい大阪おおさか早川はやかわ福祉ふくし会館かいかんというところで障害しょうがいしゃ将棋しょうぎクラブをやっています。是非ぜひ、おちかくのほうだい金曜日きんようび大阪おおさか早川はやかわ福祉ふくし会館かいかんの4かいをのぞいてみてください。
それから、音楽おんがくくこともきです。また、野球やきゅうきですが、野球やきゅうにもけがあります。ったうれしいですが、けたはもうもなくなるような厄介やっかい趣味しゅみです。昨日きのうは、わたしのひいき球団きゅうだん西武せいぶライオンズが4たい2でなにとかちましたが、薄氷はくひょうおもいでした。4たい2でしたが、8かいおもてワンアウト満塁まんるい吉田よしだ ただしなお(ヨシダ マサタカ)がてきました。野球やきゅうっているひとならごぞんじだとおもいますか、吉田よしだ ただしなおという日本にっぽん代表だいひょうするものすごいスラッガーが、ワンアウト満塁まんるいてきたのです。西武せいぶはピッチャーをえ、平良たいらというピッチャーがてきて、サードファールフライにって2アウト満塁まんるいとし、つぎの4ばん 杉本すぎもと三振さんしんりました。ホッとしましたが、本当ほんとう薄氷はくひょうおもいで野球やきゅうくこともあります。
つぎ項目こうもくになりますが、スタッフのみなさん、こまりごととはこのことなのです。わたし点字てんじゆびめなくてくちびるむのですが、そのためマイクにぶつかってしまうのです。くちびるむというのは厄介やっかいなものです。途中とちゅうですみませんでしたが、こえにくかったらってください。学校がっこう先生せんせいをしているときから、生徒せいとに「先生せんせい、やかましい」とわれるぐらいこえおおきいのですから。

ふたつの戦時せんじ体験たいけん

わたしたちの世代せだいでも、もしかしたら83さいしたひとは、この会場かいじょうにいないかもしれません。ですから、わたし一番いちばんじょうなのかもしれません。全国ぜんこくにはいらっしゃるかもしれませんが、83さいという年齢ねんれいは、みなさん、ひとつの節目ふしめ年齢ねんれいなのです。
つまり、小学校しょうがっこう年生ねんせいときには戦前せんぜん教育きょういくけたわけです。「ふたつの戦時せんじ体験たいけん」ときましたが、83さいという年齢ねんれいひとつの節目ふしめ年齢ねんれいで、ちょうど小学校しょうがっこう年生ねんせいときが、1945ねん昭和しょうわ20ねん)の4がつになります。ですから、わたしたちの世代せだいが、最後さいごのいわゆる戦中せんちゅう教育きょういくけたわけです。どんな教育きょういくけたかというと、小学校しょうがっこう年生ねんせいたいして先生せんせいふたつのことをおしえてくれました。
そのひとつは、「天皇陛下てんのうへいか神様かみさまだ」ということです。天皇陛下てんのうへいかというのは昭和しょうわ天皇てんのうですから、いま天皇てんのうのおとうさんのおとうさんです。昭和しょうわ天皇てんのうは1900ねんごろまれだとおもいますから、20世紀せいきとも年齢ねんれいかさねた天皇てんのうです。わたし小学校しょうがっこう年生ねんせいときには45さいです。ってみればはたらざかりなのでしょう。その天皇てんのう勲章くんしょうのいっぱいいた軍服ぐんぷくて、しろうまって凛々りりしくあるかれている姿すがたは、本当ほんとう写真しゃしんても、先生せんせいが「このひと神様かみさまや」とえば、それをそのまましんじられるようなものでした。
先生せんせいおしえてくれたもうひとつの戦争せんそうについてのはなしです。当時とうじわたしたちのくには、だい世界せかい大戦たいせんたたかっていました。これは歴史れきしわたしたちがよくっていることで、アジア・太平洋戦争たいへいようせんそうという名前なまえもついています。おおきくうと、だい世界せかい大戦たいせんでは日本にっぽんがドイツとともに、1943ねん以降いこうイタリアは途中とちゅうけて戦争せんそうには参加さんかしませんでしたから、ドイツと日本にっぽんが、しっかり侵略しんりゃく戦争せんそうたたかっていたわけです。
この戦争せんそうたいして、学校がっこう先生せんせいは「いい戦争せんそうだ」といました。素晴すばらしい戦争せんそうといったロマンチックないいかたはしませんでしたが、いまたたかっている戦争せんそうは、「いい戦争せんそうですよ」と。なぜかとうと「アジアのひとたちをたすけるために、日本にっぽんがったんや」と。そして、「アメリカとかイギリスとか、わるわるくにがおるから、これをやっつけるんや。その戦争せんそうをしているんや」と。そして、天皇てんのう神様かみさまです。「神様かみさまくにやから日本にっぽんけるはずがない」「かならつ」「かならつ」とわれたのです。これが、戦時せんじ教育きょういく中心ちゅうしんです。おしえることの中心ちゅうしんでした。もちろん、算数さんすう文字もじおしえましたが、日本にっぽん初等しょとう教育きょういく先生せんせいどもに一番いちばんおしえたのはこのことでした。そういう戦時せんじ体験たいけんっています。
そして、もうひとつの戦時せんじ体験たいけんは、空襲くうしゅう体験たいけんになります。1944ねんごろから都市とし爆撃ばくげきはげしくなりました。日本にっぽん軍隊ぐんたい制空権せいくうけんをなくしていましたから、アメリカぐん飛行機ひこうき放題ほうだいんでて、あちこちの都市とし放題ほうだいそらからばくだんとします。そらからばくだんとしますから、とすほう本当ほんとうつよいですし、とされるほうよわいわけです。
1945ねんがつ19にちですが、わたし小学校しょうがっこう年生ねんせいとき福岡ふくおかだい空襲くうしゅういました。佐賀さがけん福岡ふくおかけんあいだに1,000メートルほどの脊振せふり(せふり)というやまがありますが、そこをえてアメリカのB29という大型おおがたばくげきが、ここに239いてありますが、それがんで福岡ふくおかもう爆撃ばくげきしたのです。よるの11ごろからやくあいだあいだひとがちょうどねむりにつくころになります。こわかったですよ。このことになが時間じかんれませんからここでやめますが、とにかくそらからばくだんってくるというのは、本当ほんとうこわいことです。わたしには、そういう生々なまなましい戦時せんじ体験たいけんがありました。戦争せんそうはなしはもうすこししたいのですが、もう時間じかんがありません。のちほど時間じかんがあればすこしおはなしをしたいとおもいます。

〈よみがえる平和へいわ民主みんしゅ主義しゅぎ

戦争せんそうわったのは、1945ねんがつ15にちです。戦争せんそうはもうそれ以前いぜんに、14にちにはわっているはずですが、わたしたちがそのことを天皇てんのう玉音ぎょくおん放送ほうそうによってらされたのは、8がつ15にちでした。わたしはちょうど夏休なつやすみで、どもでしたから親戚しんせきのいる佐賀さがけん多久たくというところに疎開そかいしていたのですが、戦争せんそうわって本当ほんとうにホッとしました。ホッとしたというのは、もうばくだんちてこないからです。
そして、夏休なつやすみがわって学校がっこうくと、1学期がっきまで使つかっていた教科書きょうかしょなのに、「これは使つかったらいかん」とうのです。さらに、なんも「ここはすみしなさい」とわれます。みなさんたちにはそういう体験たいけんがないでしょうから、実感じっかんはわかないですよね。教科書きょうかしょのいろいろなところをすみるのです。楠木くすのき正成まさしげとか、っていますか。すごくいいじんだとっていたのに、このひとわるひとだということですみったのです。だから、価値かちかん逆転ぎゃくてんしたのです。
そういうこともありましたが、学校がっこう先生せんせいやさしくなったということはかんじました。それまで体罰たいばつ普通ふつうでした。その差別さべつはありましたが、朝鮮ちょうせんひとたいする差別さべつ中国ちゅうごくひとたいする差別さべつ以前いぜんはあからさまにありましたから、そういうものがすこしはくなったのかとおもいました。ですから、戦争せんそうわって本当ほんとうにホッとしました。
わたしがそれを一番いちばん身内みうちかんじたのは、身内みうちというのはわたしははあね旦那だんなさんになりますが、くつ工場こうじょうはたらいているとき機械きかいまれて、右手みぎてだったか左手ひだりてだったかうしなった伯父おじさんがいました。ウエダという名前なまえでした。ウエダという名前なまえがあるのに、だれも「ウエダ」とはばないのです。どうんでいたかとうと、「ぼう」とんでいました。わたしどもなのでわかりませんでしたが、片手かたてぼうのようだからぼうっていたみたいでした。
伯父おじさんは、自分じぶんせたくないから、ほうをいつもポケットにれていました。ズボンのポケットやふくのポケットにれてかくしていましたから、いつも背骨せぼね前屈まえかがみになるのです。前屈まえかがみの姿勢しせいというのはあまり格好かっこうくないですよね。「なにかさみしそうやな」「かわいそうやな」というように、どものにもえていました。ようするに、肩身かたみせまおもいをしていたのだとおもいます。
当時とうじ障害しょうがいしゃという言葉ことばはありませんでした。今日きょう勉強べんきょうかいですから、言葉ことばには必要ひつよう配慮はいりょはせずにはなしますが、えないひと視覚しかく障害しょうがいしゃいますね。最近さいきんはロービジョンともいますが、わるひとは「盲人もうじん」といました。盲人もうじんまえは「めくら」とっていました。わたしちいさいとき盲学校もうがっこうがすぐちかくにありましたから、さすがに「めくら」とはいませんでしたが、盲学校もうがっこうとはっていました。みなも「めくらさん」とはっていましたね。「さん」をつけたら、すこしは緩和かんわされるということでしょうか。
ですから、障害しょうがいしゃとか視覚しかく障害しょうがいしゃという言葉ことばができたときには、わたし本当ほんとうかったとおもいました。「めくら」とわれなくてむし、視覚しかく障害しょうがいしゃとか盲人もうじんわれるほうが、まだらくですから。大体だいたい障害しょうがいしゃなどという言葉ことば普通ふつう使つかいませんでした。どうしていたかというと、「不具ふぐしゃ」とか「かたわもの」という言葉ことば堂々どうどう大手おおてってあるいていた時代じだいでした。
だから、ウエダさんという伯父おじさんが、どんなに肩身かたみせまおもいをしていたのか、よくわかりました。戦争せんそうわったのちくつ工場こうじょう労働ろうどう組合くみあいができて時々ときどきストライキをしたり、デモをしたりしていました。おじさんがのあるほうでプラカードをかかげて、ニコニコしながらあるいているのをていました。どもはデモとかきですから、「あっ、デモや」「行列ぎょうれつや」「おまつりや」とってついてあるくと、そのなかにウエダの伯父おじさんがいて、あるほうわたしっているのです。わたし高明こうめいですから、「こうちゃん、一緒いっしょあるこう」とってくれました。いえ近所きんじょでしたから、途中とちゅうはしまで一緒いっしょあるこうとおもってあるきました。そのおじさんが元気げんきになったのをて、「戦争せんそうわってかったな」とどもしんおもいました。

不発ふはつだん暴発ぼうはつ不幸ふこうはじまり〉

ここでは大丈夫だいじょうぶだとおもいますが、この「不幸ふこうはじまり」という言葉ことばのフレーズには、時々ときどきクレームをつけられたことがあります。わたしかいさずにこのフレーズはよく使つかいますが、「不発ふはつだん暴発ぼうはつ不幸ふこうはじまり」というのは、わたしまけ原点げんてんなのです。けの原点げんてんなのです。でも、「かんがかたによれば、えなくなってくなるのは、不幸ふこうではないでしょう」「不幸ふこうなこととってしまったら、もふたもないじゃないですか」とひともいました。だれがどうっても、わたしは「そんなものやっぱり不幸ふこうやで」とずっとしんなかおもってきました。
また、あるひとはこういました。「えなくなって、くなったあなたが元気げんききている姿すがたて、どれだけのひとはげまされるでしょう」と。でも、若者わかものになってからですが「オレはひとはげますためにきているわけではないよ」と、しんなかでそうおもいました。それよりも「なにとかしてくれよ」とおもいました。「なにとかしてくれよ」というのは、「えるようになりたいな」「学校がっこうきたいな」「勉強べんきょうをしたいな」ということでした。
わたしが「勉強べんきょうをしたい」「学校がっこうきたい」とったら、あるお年寄としよりの男性だんせいは、「藤野ふじのさん、あなたのようにえない、両手りょうていようなひとは、そんなに無理むりをして点字てんじとか文字もじおぼえたり、そんなことを苦労くろうせんでいいやろ」といました。そうではなくて、本当ほんとうくにがおかねをいっぱいして、ようするにくに衣食住いしょくじゅうをきちんと保障ほしょうするような時代じだいれば、そういう社会しゃかいになれは、あなたたちもゆっくりらせるだろうと。
おとうとくなったけれど、おにいちゃんはのこったわけですから、「えんでもたのしいことがあるやろうし、美味おいしいものは美味おいしいし、ゆっくりきたらええんで。勉強べんきょうをしようとか、はたらきたいとか、そんなんおもわんでええ」とわれたのです。最初さいしょわたしどもでしたから、「やさしいおじちゃんやな」とおもいました。「そういうことがあるんかな」と。でも、ちないのです。どこにちないのかというと、はらちないのです。「そうやな」とか、「そうしたいな」という気持きもちは、なぜか全然ぜんぜんてこないのです。
結局けっきょくえないことはやっぱり不幸ふこうなことですし、いことは不幸ふこうなことです。でも、不幸ふこうだからずっと不幸ふこうばかりできていられるかというと、そんなことはありません。わたしがよく中途ちゅうと視覚しかく障害しょうがい生徒せいとさんにったのは、「えることだけが100%ちゃうからな。人間にんげん人生じんせいっていろいろあるしな」ということです。
でも、そんなことをったら、おこられたことがありました。「先生せんせいは、そこまでようさとったな」と、「オレら、ようさとらんわ」とわれたこともありました。ごまかしはしませんでしたが、「まあ、時間じかんはかかるで」とって妥協だきょうはしました。「そうやろな」とおもいました。中途ちゅうと視覚しかく障害しょうがいになって、生活せいかつかかんで、仕事しごとをどうするかなやんで、家庭かてい崩壊ほうかいするかもしれないというときに「えるのが100%ちゃうからな」と藤野ふじのからわれても、きっと「腹立はらだつやろな」とわたしおもいました。
わたしがケガをしたのは、戦後せんご処理しょりのこされたきゅう日本にっぽんぐん爆発ばくはつぶつ原因げんいんでした。それが、民間みんかんじんとおって、学校がっこうちかくのかわ岸辺きしべててあったのです。たん4くらいのおおきさの爆弾ばくだんでした。乾電池かんでんちたん4くらいのものがたくさんててあったのです。それを近所きんじょどもたちとひろってきて、おとうと一緒いっしょあそんでいました。片一方かたいっぽうあなひらいていますが、もう一方いっぽうはふさがってしたほうなにかがまっているようでした。トントンたたいてみると、砂粒さりゅうのようなものがちてきます。ちるから「綺麗きれいになったなぁ」と、あさはんべたのちおとうと2人ふたりで、玄関げんかんのところでかえ綺麗きれいにしていました。
でも、なかなかすぐには砂粒さりゅうちてこないので、あなひらいている一方いっぽうくぎんで、中身なかみをかきそうとしたのです。ようするにそれが不幸ふこうはじまりです。それで爆発ばくはつこったのです。本当ほんとうおおきな爆発ばくはつだったようです。ゆかちて、天井板てんじょういたきはがされて、タンスのうらぶたがほとんどはずれていたといいます。また、しがガーっとまえていたとわれましたから、風圧ふうあつがすごかったのでしょう。わたしはそのとき視力しりょくをなくし、両手りょうてうしないました。おとうとは5さいでしたが即死そくしでした。
おとうと即死そくしらされたのは、わたし半月はんつきくらいの入院にゅういん生活せいかつえてからです。7月しちがつ18にちにケガをしたので、8がつ13にちのおぼん初盆はつぼんだったとおもいます。わたしおとうと正明まさあき(マサアキ)といますが、正明まさあき即死そくしだったことを母親ははおやからげられました。げられるほうは、ただびっくりしましたが、げるほうはどんなにくるしかったことでしょう。そういうことがありました。

学校がっこうけなかった13年間ねんかん

さいどもが学校がっこうけずに13ねんつと、いくつになりますか。20さいになりますね。人生じんせい80ねんとか100ねんとかいますが、100ねんほうがいいですね。みなさん、この7さいから20さいまでの13ねんですが、人間にんげん一生いっしょうのうちどこか13ねん無作為むさくいったとすると、7さいから20さい一番いちばん大事だいじ時期じきだとおもいませんか。もちろん、30さいから43さいはたらざかりですから大事だいじですが。
しかし、身体しんたいどもから大人おとな成長せいちょうし、しんたましいえてふとっていくときは、ってみたらどうにでもなるし、どちらにもなる時期じきなのです。本当ほんとうに、人類じんるいつくした最善さいぜんのものをきちんとどもたちに保障ほしょうして、教育きょういく保障ほしょうし、どもたちを立派りっぱそだてたら、その社会しゃかいくなるはずなのです。
ぎゃくに、どもたちを虐待ぎゃくたいしたり、いじめたり、貧困ひんこん状態じょうたいなか放置ほうちすることが、どれだけそのくに将来しょうらいあやうくするのかわかるとおもいますが、わたし場合ばあいも7さいから20さいまで、わたし在宅ざいたくかれたとおもっています。なぜなら、となり盲学校もうがっこうだったからです。しかも、福岡ふくおか県立けんりつ盲学校もうがっこうです。県費けんぴで、けんのおかねててけんのおかね運営うんえいしている公立こうりつ盲学校もうがっこうが、となり高宮たかみや小学校しょうがっこう在校生ざいこうせいえなくなったどもを、いからといってはなっておきますか。わたし盲学校もうがっこう先生せんせいならはなっておきませんよ。「藤野ふじのさんはそううけど、時代じだいがそうしたのだろう」とひとには、「時代じだいのせいにするな」といたいですね。
これは、やはり当時とうじ先生せんせいのせいだとおもいます。なぜなら、当時とうじ先生せんせいたちは、めくら教育きょういく先端せんたんになっていたわけですから。そういう先生せんせいたちが、「となり高宮たかみや小学校しょうがっこうで、どもが全盲ぜんもうになりくなっている」「いから点字てんじめないな。按摩あんま、マッサージも鍼灸しんきゅうもできへんな。うちの学校がっこうでもどうしようもないな」と、そこではなしわっていたとおもいます。わたし盲学校もうがっこう教員きょういんをしてきましたが、はるかなる先輩せんぱいたちにたいしても「先生せんせいたち、間違まちがってたやろ」と、「時代じだいのせいにせんとってほしいな」とおもつづけてきました。

視力しりょく回復かいふくぼくゆめでした〉

そんなかたちでケガをしましたが、みぎはもう最初さいしょからダメでした。ただ、ひだりは「なにとかなりそうやな」とお医者いしゃさんがってくれて、0.06ぐらいまでは回復かいふくしました。0.06といったらかなりの視力しりょくでしょう。
でも、それまでは晴眼せいがんしゃでよくえていました。小学校しょうがっこうなん年生ねんせいでしたか、たしか1年生ねんせいとき通知つうち簿ると、一方いっぽうが2.0でもう一方いっぽうが1.5でしたから、よくえるでした。それにくらべると、0.06という視力しりょくはいかにもえないわけですが、それでも「えてきたな」とおもっていました。
眼科がんかいお医者いしゃさんがいるとけばそこにきましたし、最初さいしょころはずいぶんと宗教しゅうきょうにもきました。「あそこの神様かみさまにおまいりしたらえるようになる」とくと、母親ははおやふゆさむなかでもお百度参ひゃくどまいりをしてくれました。わたし父親ちちおやわり理性りせいてきひとでしたから、そういう宗教しゅうきょうにはしんうばわれていなかったようですが、母親ははおやかくれてお百度参ひゃくどまいりをしていました。えるようになることに、それくらい熱心ねっしん努力どりょくをしていました。
すると、あるとき母親ははおやが「こうちゃん、なにきなものをべるのをってねがいをかけたら、えるようになる」とってきました。お風呂ふろはいっているときに、そんなことをいながら「こうちゃん、なにいとうね?」とくのです。きなものとわれましたが、こんにゃくとかシイタケとかべたくないものをこたえると、「それは、こうかんけんやろ」といます。「これやったらいとうというものをおねがいして、これをべないからえるようにしてくださいとねがえば、えるようになるらしい」とうのです。それならなにきなものとおもい、「そうやねぇ」といながら、きな大根だいこんおろしにしました。そんなこともおぼえています。
そんなこともしましたが、えるようになるのは…。それに、もう学校がっこうにもおこなっていないわけです。それなのに、近所きんじょどもたちは6年生ねんせい中学生ちゅうがくせいとなっていきます。「あのひと高校こうこうったげな」ということになると、わたしはずっと…。そして、大人おとなは「なん年生ねんせい?」と、よくきますよね。らないひとは。わたしはウソをつけませんから、「小学しょうがく年生ねんせいときにケガをして、そこからってないんです」とうと、「そうか」とって、同情どうじょうはされます。同情どうじょうはされますが、そういうことで学校がっこうにはけませんでしたから、本当ほんとうにつらかったですね。だから、えることだけがゆめだったのです。そこにすがっていたのです。
そして、福岡ふくおかみなみ野多目のためにある国立こくりつ筑紫つくし病院びょういんというところに、眼科がんかのニシダ マサオという先生せんせいがいて、くちコミで「あの先生せんせいにかかったら、大体だいたいえるようになるらしいよ」とき、15さいになるとそこにって入院にゅういんしました。その先生せんせいもいい先生せんせいで、本当ほんとう一生懸命いっしょうけんめいてくれて、おおきな手術しゅじゅつを5かいと、ちいさな手術しゅじゅつを7かいけい12かい手術しゅじゅつをしてくれました。
でも、18さいころには徐々じょじょえなくなり、自分じぶんはもうどうなるのかとおもっていました。先生せんせいからは、「最善さいぜんくした」とわれたでしょうか。とにかく、そういう意味いみのことをわれました。「一生懸命いっしょうけんめいにやったけど、手術しゅじゅつもあなたもっているようになんかいもしたけど、どうしてもえるようにならなくてもうわけなかったですね」とわれました。
それからですよ、わたしも。ようするに目標もくひょうがなくなったわけです。勉強べんきょうをしようとおもっても、勉強べんきょうはできないでしょう。文字もじらないし、学校がっこうにもおこなっていません。わたしいまでもおもいますが、えない重度じゅうど障害しょうがいしゃというのは、本当ほんとうにぐれることさえできないのです。不良ふりょうになったり非行ひこうはしったりするのも、なかなか面倒めんどうなことですし、むずかしいわけです。よるまち一人ひとりでほっつきあるいたり、カッコいいおんなをナンパしたりすることもまったくできません。「えない、ひとなにうてんねん」というようなものでしょう。
そして、本当ほんとうにもう鬱屈うっくつしたというか、にっちもさっちもかなくなって、しんしょがなくなっていくのです。そして、なにかんがえるかというと、大体だいたいぬことをかんがえるわけです。でも、なぜななかったのかというと、わたしが15さいときに、わたし父親ちちおやは42さいでがんでくなったのです。そうして、母親ははおやが5にんどもをそだてながら、わたしたちをそだてながら、一人ひとりはたらいていたのです。母子ぼし家庭かていでね。
その母親ははおやのことをおもうと、「わたしんだら母親ははおやはどうなるやろ」とおもうと、ねませんでした。本当ほんとうななくてかったのですが、あやうかったですよ。いまかんがえると、なにあしはずせば二度にどがることのできない危険きけんふちをね。なにというのでしょうか、おぼつかないあしどりであるいたこともあったと回想かいそうしますが、これは本当ほんとうのことです。
では、ねなかったらどうなるか、ぐれることもできなければどうなるかというと、れるのです。自分じぶんしんなかでね。そして、言葉ことばづかいがすごく乱暴らんぼうになります。ひとによくっかかって、なにわれたら、それに因縁いんねんをつけておこるわけです。そういう時期じきがありました。そういうはなしをするのはずかしいですから、あまりばなしもしないし、きもしませんでしたが。
わたし一番いちばんずかしいとおもうのは、わたし眼科がんか病棟びょうとうの6ごうしつにいたときのことです。となりが5ごうしつで、まだ3さいか4さいくらいのちいさなおんな手術しゅじゅつ入院にゅういんしていました。すこえていたようでしたが、かべつたってあるいていましたから十分じゅうぶんにはえなかったのでしょう。シズエちゃんといましたが、カタカタ履物はきものあるいていたので、シズエちゃんがあるくとよくわかりました。カタカタカタカタとあるきますから。ちいさいのに、わるいから手術しゅじゅつもよく頑張がんばっていたことでしょう。
そのから「藤野ふじのにいちゃん、かと」とわれ、わたしはものすごくはらったのです。となりにいるおんな患者かんじゃさんたちが、17、18さい少年しょうねんにとってはオバちゃんになりますが、そのオバちゃんたちが、オレのことをおしえたのだなと。シズエちゃんはオレがいことをっているはずはないですから、「オレが手無てなしやっていうことを、だれおしえたんや」とっておこったのです。わたしはシズエちゃんをたたいたりするほど、そこまで堕落だらくはしていませんよ。それで、シズエちゃんをっこして「おれ手無てなしやいうことをだれおしえたんや」とって、その部屋へや怒鳴どなんでいったのです。
すると、わたし剣幕けんまくおどろいて、こわいからシズエちゃんはくわけです。シズエちゃんはくし、オバちゃんたちはもうびっくりして「藤野ふじのさん、なにをそんなにおこらなあかんの」といます。自分じぶんたちは「藤野ふじののおにいちゃんはいのに、ごはん自分じぶんべているよとおしえたのに、なんでそぎゃんおこらないかんと」とうので、「そんなん、シズエちゃんにおしえてどげんなるとや」とって、もう言葉ことばです。言葉ことばっても、だれいませんからね。わたし勝手かってっているのですが、あれはかんがえてもずかしいですね。
そうしたら、看護かんごさんがんできて、「藤野ふじのさん、なにうとね。なんでそんなにおこらないかんと」といます。おこられて、わたしもそのとき理性りせいうしなっていますから、くわけです。わたしわりくのです。わたしくのは、ちいさいときにそれをおしえた母親ははおやわるいのです。「こうちゃんね、しんどいことやら、かなしいことやら、くやしいことがあったら、我慢がまんせんでいいから、ときはいっぱいきなさいよ」とったのです。だから、わたしは「きたいときには、かないかん」とおもっていました。そんなことはいちいちおもしませんけどね。
すると、看護かんごさんたちも、さすがにこれは自分じぶんたちのえないとおもったのでしょう。今度こんどは、主治医しゅじいのニシダ先生せんせい出番でばんです。手術しゅじゅつのためにるのではなくて、藤野ふじの気持きもちをおさめなければいけないとおもって。でも、40だい立派りっぱ大人おとなから説諭せつゆをされてごらんなさい。17、18さい若者わかものにとってはどれだけこたえるのか。そのひと尊敬そんけいしていただけに、ずかしさもありました。
先生せんせいから、眼科がんかとして自分じぶんちからおよばなかったということと、「藤野ふじのさんな、おかあさんがどれだけあんたのことおもってはたらいているのかかんがえてごらん」とわれました。それで、わたしは「やっぱり真面目まじめにならないかんな」とおもいました。真面目まじめにならなければいけないと。そのころに、病院びょういんった看護かんご学生がくせい熊本くまもと敏子としこさんというほうがいて、わたしよりもみっ年上としうえでしたが、彼女かのじょがよく部屋へやてくれました。このひと高校こうこうてからデパートではたらいていたのですが、もうすこちが仕事しごとをしたいとおもって、看護かんご学校がっこうに1ねんおくれてはいってきたひとです。「わたしもまわりみちをしてるんよ」などと、そんなはなしをしていました。
このひとが「わたしが、藤野ふじのさんになにかできることあるかな」とうので、「ほんんでほしい」とったら、彼女かのじょんでくれたのが『いのちの初夜しょや』でした。これは北條ほうじょう民雄たみおの『いのちの初夜しょや』です。わたしは『いのちの初夜しょや』にたすけられたとおもっています。ほんひと人生じんせいえるのです。わたしは、みなさんたちにもどこかで機会きかいがあればんでほしいとおもいます。
北條ほうじょう民雄たみおは、1914ねんまれ、37ねんに23さいんでいます。ハンセン病はんせんびょう患者かんじゃです。すごく文学ぶんがくてき才能さいのうがあったひとで、川端かわばた康成やすなりみとめられました。川端かわばた康成やすなり当時とうじ社会しゃかいてき風潮ふうちょうなかでさえも北條ほうじょう民雄たみおたすけようとして、一生懸命いっしょうけんめい指導しどうってひとになります。わたし点字てんじもうとおもったのは、この小説しょうせつからハンセン病はんせんびょうのことをったからです。
ハンセン病はんせんびょうでは点字てんじくちびるむとおもっていましたが、ハンセン病はんせんびょうひとたちはくちびるではなく、本当ほんとうした点字てんじむのだそうです。これは、日本点字図書館にほんてんじとしょかん館長かんちょうになられた立花たちばな(たちばな)先生せんせいから、つい2、3ねんまえおしえてもらったことです。「藤野ふじのさんは、ハンセン病はんせんびょう患者かんじゃくちびる点字てんじむとおもっているかもしれないけど、基本きほんてきには舌先したさきなんですよ」というふうに、立花たちばな先生せんせいからおしえてもらいました。
わたしくちびる点字てんじむことをおぼえましたが、みなさん、くちびる点字てんじむのはいろいろな不都合ふつごうがあります。さきほども、あたまからフェイスシールドをかぶってマイクを使つかっていたのですが、点字てんじとぶつかるのでえてもらいました。このように、スタッフのひとわたしも、おもいもつかなかったようなことが障害しょうがいになります。では、点字てんじんでみます。これくらいのはやさでめるのです。これは、『いのちの初夜しょや』の冒頭ぼうとうです。名作めいさく冒頭ぼうとうにインパクトがありますからね。こういうふうなしをしています。

えきじゅうふんほども雑木林ぞうきばやしなかあるくともう病院びょういん生垣いけがき(いけがき)がはじめるが、それでもそのあいだにはたにのようにひくまったしょや、小高こだかやまのだらだらさかなどがあって人家じんからしいものはいちけん見当みあたらなかった。東京とうきょうからわずかじゅうマイルそこそこのところであるが、奥山おくやまへはいったようなしずけさと、人里ひとざとはなれた気配けはいがあった。
梅雨つゆにはいるちょっとまえで、トランクをひっさげ(さ)げてあるいている尾田おだは、(高野たかの注釈ちゅうしゃく尾田おだというのは北條ほうじょう自身じしんのことだとおもいます)十分じゅうぶんもたたぬあいだにはやじっとりはだあせばんでるのをおぼえた。ずいぶん辺鄙へんぴ(へんぴ)なしょなんだなあとおもいながら、人気にんきいのをさいわい、いままでふかにかぶっていた帽子ぼうしをずりげて、木立こだちかしてとおくをながめ(なが)めた。見渡みわたかぎ青葉あおばおおわれた武蔵野むさしので、そのなかにぽつんぽつんとつくばい(うずくま)っているわら屋根やね(わらやね)がなんとなく原始げんしてきさびたで(せきりょう)をしのばせていた。

これはもっとつづくのですが、ここになにいてあってわたしなに感動かんどうしたかというと、かれハンセン病はんせんびょう発病はつびょうしているということを宣告せんこくされて、しばらくはぬことばかりをかんがえていたわけです。公園こうえんっても街路がいろあるいていても、えだると、「このえだほそすぎて自分じぶん体重たいじゅうささえきれないのではないか。あのえだだかすぎてのぼるのが大変たいへんだ」と。薬局やっきょくまえあるくと、いろいろな睡眠薬すいみんやくて、安楽あんらく往生おうじょうしている自分じぶん姿すがたえてきます。汽車きしゃ電車でんしゃれば、そのした悲惨ひさんげている自分じぶん姿すがたおもされます。
これから療養りょうようしょって、自分じぶんはどうきていこうとしているのか、くろ渦巻うずまきなかまれてしまいそうながするということをいて、療養りょうよう生活せいかつなかはいっていくわけです。そのなか見聞みききした仲間なかまたちのことを、ころもせない文章ぶんしょうでしっかりとのこしてくれています。機会きかいがありましたら、是非ぜひこのほんんでほしいとおもっています。「視力しりょく回復かいふくぼくゆめでした」ということですが、これはダメだったわけです。

絶望ぜつぼうふち(ふち)で出会であった点字てんじ

そして、点字てんじすくわれました。これはなくいますが、本当ほんとう点字てんじすくわれました。文字もじ自由自在じゆうじざいめるのは、まぁ自由自在じゆうじざいとまではいきませんし、わたし自由じゆうにはめませんし、むのはおそいです。ただ、いまくらいめると、中途ちゅうと視覚しかく障害しょうがい生徒せいとさんたちのなかには、なかなかわたしひとはいませんでした。1ページの32マス17ぎょう文字数もじすうにすると、漢字かんじ仮名かめいじりぶん大体だいたい300程度ていど情報じょうほうりょうになります。わたしは、それをだいたい2ふんはんぐらいでめます。これぐらいでめれば、なにとか仕事しごとにはなりますが、なかなかむのは大変たいへんです。
でも、タイプライターがあれば、くのは自由自在じゆうじざいです。ごぞんじだとおもいますが、ライトブレーラーです。ライトブレーラーはいまつくっていないし、修繕しゅうぜんもききませんが、教員きょういん採用さいよう試験しけんとおったのも、わたしにとっては本当ほんとうにライトブレーラーがあったからです。だから、初代しょだい社長しゃちょうさんのナカムラ ノブオ先生せんせいには、本当ほんとうにお世話せわになりました。
最初さいしょころは、「藤野ふじのさんのためにつくりましょう」とって、キーとキーのあいだを、1のてんと2のてんあいだすこひろげてくれたり、2のてんと3のはばすこひろげてくれたりしました。最初さいしょはそういう改良かいりょうのあるタイプライターを使つかいながら、次第しだいはばせま普通ふつうのものでも使つかえるようになったのです。
それはなぜかとうと、わたし右手みぎて左手ひだりて手先てさきだけがくなっていて、ひじからさきわりとあるのです。両手りょうて使つかえばかなり自在じざいけますし、大体だいたいまいを5ふんくことができます。のあるひとには3ふんぐらいでひともいますから、のあるひと競争きょうそうをするとけてしまいます。むのはわり不自由ふじゆうですが、くのはかなりけるという自信じしんがあります。

青春せいしゅん大阪おおさか市立しりつ盲学校もうがっこう

大阪おおさか市立しりつ盲学校もうがっこうに、わたしは20さいとき中学ちゅうがく年生ねんせいクラスに編入へんにゅうしました。盲学校もうがっこうはいってなにかったかとうと、本当ほんとうによく勉強べんきょうをしたことです。数学すうがく英語えいごもわかりやすくおしえてくれました。みなさんはらないでしょうが、英語えいご先生せんせいには、ひとるカイ タエコという全盲ぜんもう女性じょせい先生せんせいがいらっしゃいました。現職げんしょくに、ずいぶんとはやく49さいぐらいでくなられましたが、本当ほんとう素晴すばらしい先生せんせいがいて、先生せんせいめぐいました。勉強べんきょうもいっぱいできましたし、だいいち友達ともだち大勢おおぜいできました。
えなくてければ、普通ふつう社会しゃかいではひとにものをたのむことはたくさんあっても、ひとからものをたのまれることはあまりありません。でも、盲学校もうがっこうったら、ひとからいろいろたのまれました。なにたのまれたかというと、「生徒せいとかい会長かいちょうになってくれ」とか、「○○クラブの部長ぶちょうになってくれ」など、いろいろとわれました。ひとからものをたのまれることは本当ほんとうかったので、なんだかすごくうれしかったですね。なんでもかんでもけたわけではありませんが、たのしかったのでみな一緒いっしょにやりました。
大阪おおさか市立しりつ盲学校もうがっこうで「盲学校もうがっこうって、こんなに素晴すばらしいところなのに、なんとなりにあった福岡ふくおか盲学校もうがっこうれてくれへんかったんや」とおもって、なおさら「残念ざんねんやなぁ」とかんじました。それで、青春せいしゅん大阪おおさか市立しりつ盲学校もうがっこうで「学校がっこう先生せんせいにどうしてもなりたい」とおもったのです。そして先生せんせいになるのなら、世界せかい先生せんせいになりたいとおもったのです。

世界せかい魅力みりょくにひきつけられて〉

なぜ世界せかい先生せんせいになりたいかとうと、わたし世界せかいきだからです。なんきなのかとうと、人間にんげん大勢おおぜいてくるからです。そのなか人間にんげんはやっぱりうつくしかったりみにくかったりします。本当ほんとう戦争せんそうもするし、ひとだますし、裏切うらぎりもします。人間にんげんいやなところもいっぱいっていますが、すごくうつくしいめんもやっぱりたくさんもっているのです。
わたし歴史れきしなか一番いちばんきなのは、スパルタクスという奴隷どれいです。ローマ時代じだいにブルガリアのほうかられてきたられたローマの奴隷どれいです。けんやつわれて、武器ぶきってたたかわされます。いのちをかけてローマ市民しみん見世物みせものをさせられたスパルタクスは、そういう不条理ふじょうりなことにはどうしても屈服くっぷくできずに、反乱はんらんこすのです。そういう正義せいぎ味方みかたということで、単純たんじゅんでしょうが、「正義せいぎ素晴すばらしいな」「できたら正義せいぎ味方みかたでありたいな」とおもいました。世界せかい本当ほんとうきになったのは、このスパルタクスというひとがきっかけです。
また、16世紀せいきはじごろにドイツで活躍かつやくしたおぼうさんに、トマス・ミュンツァーというひとがいますが、このひと農民のうみんたちが奴隷どれいのようにはたらかされる制度せいどに、キリスト教徒きりすときょうととして反対はんたいしたおぼうさんです。マルティン・ルターとどう時代じだいひとですが、マルティン・ルターとはちが立場たちばったひとで、結局けっきょく領主りょうしゅからころされてしまいました。でも、そういうひと勉強べんきょうをすることがすごくきでした。それで、世界せかい先生せんせいになりたいとおもいました。世界せかい先生せんせいになれば、そういうことをいくらでも勉強べんきょうできるとおもったのです。

日大にちだい真夏まなつのキャンパス〉

学校がっこう先生せんせいになるには、大学だいがくかなければいけませんが、当時とうじはどこの大学だいがくもなかなか視覚しかく障害しょうがいしゃれてくれませんでした。いまはだいぶ状況じょうきょうちがいますが、わたし日本にっぽん大学だいがく通信つうしん教育きょういくで5ねんはんかけて卒業そつぎょうしました。わたし自分じぶん障害しょうがいかくさず、「こういうじゅう障害しょうがいがありますが、勉強べんきょうをしたいので受験じゅけんさせてください」とおねがいしましたが、どこの大学だいがくでもそれはかないませんでした。
そして、結局けっきょく最後さいごには通信つうしん教育きょういくこころみました。通信つうしん教育きょういく書類しょるい審査しんさ学籍がくせきれますから、「えない」とか「い」とか、余計よけいなことをかなくてもいいわけです。それはわたしにとっては重要じゅうようなことですが、身体しんたい状況じょうきょうらんはどこにもありませんでしたから、かずに書類しょるいしたのです。
わたし作戦さくせん成功せいこうして日大にちだいはいりましたが、今度こんどはスクーリングでそれがつかり「かえれ」
われました。「スクーリンクをけないでかえりなさい」と。でも、日大にちだい視覚しかく障害しょうがいしゃをちゃんと大勢おおぜい入学にゅうがくさせています。高橋たかはし みのるさんは全日ぜんじつせい卒業そつぎょうしていますし、わたしはいったときにもアリムレさんもいました。アリムレさんは療科の先生せんせいで、もう故人こじんになられましたが、かれ療科の先生せんせいとしてはたらきながら、学生がくせいとして日大にちだい勉強べんきょうもしていました。ニシヤマさんという女性じょせいほう点字てんじばんでカタカタをきながら授業じゅぎょうけていましたから、わたしはどれだけ仲間なかま心強こころづよちからづけられたのかわかりません。
でも、大学だいがく当局とうきょく学生がくせい教務きょうむ職員しょくいん二人ふたりでやってたのです。「藤野ふじのさんがこんなに重度じゅうど障害しょうがいをおちのほうとは、わたしたちはりませんでした。これは大学だいがくがわ手落ておちでした」とわれたのです。「でも、藤野ふじのさんはすでに60すう単位たんいられていますから、短期大学たんきだいがく卒業そつぎょう資格しかくげます」と、「そうすれば、中学校ちゅうがっこうきゅう社会しゃかい免許めんきょれますよ。就職しゅうしょくできるでしょう」というような、安直あんちょくなことをうわけです。ふざけているでしょう。
日大にちだいのあなたたちが差別さべつする以上いじょうに、障害しょうがいしゃはたらくバリアがどれだけおおきいか、ハードルがたかいかということをまったらないひとが、えてうなら連中れんちゅうが、「すでに62単位たんい以上いじょう習得しゅうとくされているから、これで短期大学たんきだいがく卒業そつぎょうできます」「社会しゃかい中学校ちゅうがっこうきゅう免許めんきょれますから、就職しゅうしょくできますよ」とうのです。わたしがもうちょっとちが人間にんげんだったら、なぐりかかっていたかもしれません。本当ほんとうくやしいおもいをしました。
でも、わたし日大にちだいをやめませんでした。なぜかとうと、やっぱりみな仲間なかまだったからです。わたしにはえない仲間なかま大勢おおぜいいますが、まみえようとえまいと、仲間なかま大勢おおぜいいます。日大にちだい勉強べんきょうしていた福岡ふくおか学友がくゆうかいの40にん仲間なかま全員ぜんいんえました。共通きょうつうなのは、仕事しごとちながら、あるいは一般いっぱん大学だいがくきたくてもけなかったから「通信つうしん教育きょういくだけど頑張がんばろう」とってていたことです。だから、藤野ふじの気持きもちもそれなりに理解りかいしてくれたのです。
そして、「かえらんでいいよ」と、「教室きょうしつ移動いどうとかノートテイクとか、いろいろ手伝てつだうことがあったら、オレたちがそれやるけんね」とってくれたのです。だから、わたしつづけることができましたが、これがぎゃくなら大学だいがくにはられなかったとおもいます。かりに、大学だいがくがわが「てもいいよ」とっても、福岡ふくおか学友がくゆうかいが「やっぱり藤野ふじのさん無理むりやね」とっていたら、わたし大学だいがくられなかったとおもいます。そんなかたち日大にちだい卒業そつぎょうしました。

はじめての点字てんじによる教員きょういん採用さいよう試験しけん

視覚しかく障害しょうがいしゃえない普通ふつう教員きょういんには、わたしはい以前いぜんにも大勢おおぜい先輩せんぱいがいらっしゃいました。目黒めぐろ伸一しんいち先生せんせい田中たなか聞多(もんた)先生せんせいさきほどおはなしをしたカイ タエコ先生せんせい数学すうがくのコジマ ノボル先生せんせいなど、すぐに固有名詞こゆうめいしをフルネームでえるような先生せんせいたちが、大勢おおぜいいらっしゃいました。でも、そういうひとたちは「特別とくべつ任用にんよう」というかたちなのです。その教科きょうか特別とくべつすぐれた能力のうりょくをおちだとか、ちょうど盲学校もうがっこうきがあったとか、なんらかのプラスのコネクトがあったという理由りゆうによって、盲学校もうがっこう現場げんばはたらいていらっしゃいました。
わたしも「世界せかい先生せんせいになりたいな」と、「できたら母校ぼこう大阪おおさかめくら仕事しごとがしたいな」とおもいましたが、「仕事しごとができるならどこの盲学校もうがっこうでもきますよ」「普通ふつうこうでもきますよ」というこころざしっていました。でも、特別とくべつ任用にんようしかなかった時代じだいです。大学だいがく卒業そつぎょうした1971ねんに、卒業そつぎょうした大阪おおさか市立しりつ盲学校もうがっこう校長こうちょう先生せんせいのモリモト キヨシ先生せんせいのところにきました。「先生せんせい特別とくべつ任用にんようというかたちでいいですから、是非ぜひ仕事しごとをさせてください」とおねがいをしたのです。
先輩せんぱいたちもみなそうしていたし、うちにも何人なんにんかそういう先生せんせいがいて、日本にっぽんのキヌガワ マスオ先生せんせいもそうでした。そういう先生せんせいたちは教員きょういん採用さいよう試験しけんけずにはいっていたので、「わたしも、そうできないでしょうか」とおねがいにったのです。すると、モリモト先生せんせいなにわれたかというと、「藤野ふじのさんな、それもいいけど、それもひとつの方法ほうほうやけど、なかなかそれはむずかしいで」と。特別とくべつ任用にんようにはプラスのコネクトも必要ひつようだし、いろいろあると。そして、「藤野ふじのさんな、教員きょういん採用さいよう試験しけんけて、合格ごうかくしてむねってはいっていよ」とわれました。
そこで、「それはぼくらものぞむところです」と、わたしいました。「障害しょうがいしゃ運動うんどう組合くみあい運動うんどうわたし応援おうえんしてくれたひとたちも、それはのぞむところです」と。「どうぞ、先生せんせい教育きょういく委員いいんかい先生せんせいのご意見いけん具申ぐしんしてください」といました。そして、わたし試験しけんけました。147にんのうち24にん合格ごうかくしたのですが、そのなかれましたから、「先生せんせいとおりました」とご挨拶あいさつきました。すると、モリモト先生せんせいは「よう、頑張がんばったな」「いままでは藤野ふじのさんが頑張がんばる。これからはわたしたちが頑張がんばばんや」と、こうってくださいました。
わたし組合くみあい立場たちば頑張がんばってきた教員きょういんですし、きみまるには断固だんこ反対はんたいでしたから、絶対ぜったい起立きりつしませんでしたが、わる校長こうちょう先生せんせいばかりではありません。モリモト先生せんせいはずいぶんしっかりした先生せんせいだとわたしおもっています。
でも、結局けっきょくはどうなったかとうと、教育きょういく委員いいんかいはさぼりにさぼって「定員ていいんがいっぱいや」とか、「藤野ふじのさんを採用さいようするなら、お手伝てつだいとして実習じっしゅう助手じょしゅ一人ひとりれなければいけないだろう」とか、「ごはんはどうやってべはるんや」など、いろいろなことをってきました。
そこで「身辺しんぺん自立じりつ全部ぜんぶできているのだから」とこたえました。そうしたら、なにわれたかというと、「生徒せいと安全あんぜん指導しどうはどうするんや」「火事かじときどうするんや」「れてげれるん?」といます。そこまでわれたら、「まかしといてください」なんて、わたしいません。そんな科学かがくてきな、いい加減かげんなことはいませんから。
すると、組合くみあい先生せんせいたちが「教育きょういく現場げんばというのは、そういうもんではない」と。「一人ひとり人間にんげんへの生徒せいと指導しどうには、進路しんろ指導しどうもあれば、生活せいかつ指導しどうもあれば、安全あんぜん指導しどうもある」と、いろいろなことがあって、それは教師きょうし集団しゅうだんおぎなってやっていくものだと。それを、藤野ふじのさんにたいして「火事かじときにどうやって生徒せいとたすけるんや」などとうのは、障害しょうがいしゃ差別さべつさいたるものだとって頑張がんばってくれました。
結局けっきょく有効ゆうこう期限きげんは1ねんはんあったのですが、れてしまいました。すると、非常勤ひじょうきん講師こうしとして発令はつれいしたのです。卑怯ひきょうでしょう。非常勤ひじょうきん講師こうし発令はつれいされましたから、当時とうじ教員きょういん初任しょにんきゅうが58,000えん時代じだいでしたが、7あいだ金額きんがくは19,100えんでした。そこから2,300えん税金ぜいきんると、手取てどりは16,900えん授業じゅぎょうは7あいだだけです。
そういう非常勤ひじょうきん講師こうし発令はつれいし、10かげつあいだやらせてから、「採用さいよう試験しけん合格ごうかく有効ゆうこう期限きげんれたので、もういちかいけてください」とうのです。これはすごい差別さべつだとおもいませんか。人事じんじ差別さべつそのものではないですか。わたしたちは断固だんことして拒否きょひし、「きちんと教諭きょうゆとして採用さいようしてください」といましたが、やっぱり教育きょういく委員いいんかい態度たいどかたいし、つめたかったのです。「有効ゆうこう期限きげんれているのは、どうしようもない」とわれました。「ったのは、あなたたちじゃないですか」とっても、これは水掛みずかろんというか、喧嘩けんかにしかなりません。
「どこかで妥協だきょうせにゃいかんな」というはなしになりました。結局けっきょく組合くみあい先生せんせいが「藤野ふじのさんにはけてもらいます。けてもらいますが、条件じょうけんがある」と、「71ねんがつ藤野ふじのさんがけたときに、藤野ふじのさんがけるならわたしけたいとって2人ふたりげたのに、藤野ふじのさんは特例とくれいだとって、あなたたちはその2人ふたりったでしょう」と。そうではなくて、「今度こんどけたいというひとがいたらだれでもけさせますか。点字てんじでやらせますか」とくと、相手あいてがわは「それは、やります」といます。そうやって特例とくれいはずしたので、わたしひゃくゆずって試験しけんけて、なにとか合格ごうかくすることができました。そうして、30年間ねんかん大阪おおさか市立しりつ盲学校もうがっこうはたらくことができたのです。
そのときわたしささえてくれたのは河野こうの 勝行かつゆきさんという脳性のうせい麻痺まひ友達ともだちでした。友人ゆうじん歴史れきし研究けんきゅうしゃ河野こうの 勝行かつゆきさんは、わたしより6さいわかくていま現役げんえきですが、かれがまだ20さいだいころに、『ぼくもはたらきたい』というほんいたのです。この『ぼくもはたらきたい』というほんのタイトルが、わたしをどれだけ共感きょうかんさせてはげましたことでしょうか。『ぼくもはたらきたい』というほんが。
それこそ、くにがおかねしてしずかなところでたのしく一生いっしょうおくらせてもらうということが、断固だんことしてはらちなかったわたしが、この『ぼくもはたらきたい』という脳性のうせい麻痺まひ河野こうのさんのほんのタイトルによって、どれだけ勇気ゆうきづけられたのか、みなさんたちにはわかっていただけるとおもいます。

教職きょうしょく30ねん きがい〉

わたしは30ねんはたらきました。えなくなって、くなったことは不幸ふこうでしたが、自分じぶん一番いちばんしたかった仕事しごとで。だれにでも一番いちばんしたい仕事しごとというのはありますよね。竹下たけしたさんなら「弁護士べんごしになりたい」とおもったわけですし、大胡田おおごださんだって「弁護士べんごしになりたい」とって頑張がんばって努力どりょくしたわけです。「学校がっこう先生せんせいになりたい」「国会こっかい議員ぎいんになりたい」とって、頑張がんばることだってできますし、つとめていた会社かいしゃで「継続けいぞく雇用こようしてほしい」と頑張がんばることも、まった不可能ふかのうではなくなった時代じだいを、わたしたちはつくしてきているとおもいます。

職場しょくばでのなやみとよろこび〉

学校がっこうで30年間ねんかんはたらいたのはわたしきがいですが、なやみもよろこびもありました。いくつかありましたが、一番いちばんなやみはなにかというとひとつは運動会うんどうかい遠足えんそくなど学校がっこう行事ぎょうじときでした。運動会うんどうかいでは、シューっと白線はくせんいたり、椅子いすならべたり、ゴザをいちめんいて、かたづけるときにはそれをキュッといたりする作業さぎょうがあります。それを一人ひとりでやれとわれたら、いちばんちゅうかけてでもやりますが、みな一緒いっしょおこなうとテンポがわないのです。ですから、運動会うんどうかいとか遠足えんそくというのが気分きぶんてきには一番いちばんしんどかったですね。
それから、プール掃除そうじもそうでした。プール掃除そうじときにはうみパンをはいて、まわりのかべ雑巾ぞうきんでゴシゴシとこすることはできます。土曜日どようびひるからプール掃除そうじをしていたので、おもって雑巾ぞうきんってったのです。そうしたら、体育たいいくおんな先生せんせいが、「藤野ふじの先生せんせい、そんなことせんでいい」「自分じぶんらにまかせといてください」とってめてくれました。それで、「そうですか。ごめんね」とって、シャワーびて着替きがえてから職員しょくいんしつもどりましたが、そういうことが一番いちばんしんどかったですね。
もうひとつ、しんどかったことがあります。これはあまり文章ぶんしょうにはいていませんでしたが、盲学校もうがっこうにも知的ちてき障害しょうがいのあるが、いわゆるめくら重複じゅうふくということで、重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいどもがはいってることがあります。そういうときに、職員しょくいん会議かいぎでは大体だいたいそのたちを合格ごうかくにするのです。中学校ちゅうがっこうまでは義務ぎむ教育きょういくですから仕方しかたがないけれど、高等こうとう学校がっこう義務ぎむですから。
「こんなふうに英語えいごもわからないし、社会しゃかいもわからない。トイレも一人ひとりでできないし、食事しょくじ一人ひとりでできない。そんな重度じゅうどどもは、小・中学校しょうちゅうがっこうまでは仕方しかたがないが、高等こうとうにはれる必要ひつようがない」と。「こんなものは教育きょういくとはちがう。子守こもりではないか」とか、「自分じぶんたちは英語えいご教員きょういん採用さいよう試験しけんけてはいってきているので、このたちにごはんべさせるとか、トイレの始末しまつをするのはちがう」といった意見いけんてきます。それには、たしかに一定いってい説得せっとくりょくがあります。
しかし、「どんなどもたちにも、後期こうき中等ちゅうとう教育きょういくけさせよう」と、おやがそれをのぞみ、本人ほんにんたちも「もっと学校がっこう勉強べんきょうしたい」とっているなら、べつ高等こうとう学校がっこう英語えいご数学すうがくではなくても、本当ほんとう人間にんげんとしてつよきるじゅつまなぶような教育きょういくが、後期こうき中等ちゅうとう教育きょういく障害しょうがい教育きょういくなかにあってもいのではないかとって、わたしたちは頑張がんばりました。
でも、わたしはそういう意見いけんがなかなかえませんでした。わたしも13年間ねんかんおおやけ教育きょういくである学校がっこう現場げんば現場げんばから、除外じょがいされてきた経験けいけんがあります。「このたちを是非ぜひれてください」とえればかったのですが、それがなかなかえませんでした。
しかし、最後さいごには民主みんしゅ主義しゅぎ多数決たすうけつまります。最初さいしょころ本当ほんとうに40たい5などという数字すうじけていて、そのたちは盲学校もうがっこうれませんでした。しかし、そのたちを土曜どよう日曜にちよう学校がっこうきたさせて活動かつどうしていたのを、先生せんせいたちもていました。「たすけてよ。にちちゅう一回いっかいでいいからて、このたちと一緒いっしょにプールであそんだり、いろいろしようよ」といながらぜんさわとぎ活動かつどうをしてくると、次第しだいに、賛成さんせいしゃえて、けるにしても接戦せっせんになってきたのです。
すると、「藤野ふじのさんな、一言ひとことあんたがな、自分じぶん経験けいけんふくめてこんなどもたちにも教育きょういくける権利けんりがあるんや」「教育きょういくけるよろこびがあるんや」と、「定員ていいんわくもあるのに、それをことわるのはやっぱりおかしいのではないか」ということで、組合くみあい先生せんせいから「藤野ふじのさん、一言ひとことうてよ」とわれたのです。組合くみあいふく分会ぶんかいちょうをしていたこともありますから、「そうやな」とおもって、あるときわたしおもって職員しょくいん会議かいぎったのです。
たしかに、民主みんしゅ主義しゅぎというのは面倒めんどうですよね。手間暇てまひまかかるし、時間じかんもかかります。結論けつろんるまでに10ぎてしまいます。差別さべつではなくて配慮はいりょとして「おんな先生せんせいたちだけでも、はやさないかんな」とっていたのですが、10ぎてもまだ結論けつろんないのです。ばんはんべてかえっててから会議かいぎをしていました。そのときに「藤野ふじのさん、一言ひとことうてよ」とわれて、わたしわたしなりに頑張がんばってはなしをしたのです。そして、採決さいけつをすると2ひょうか3ひょうでそのたちが合格ごうかくしたのです。みなよろこびましたし、わたしうれしかったのです。
ところが、のちになって「藤野ふじのがあんなことをったから、まよっていたひと合格ごうかくげた。だから、担任たんにん藤野ふじのたせろ」というような意見いけんを、わたしのいない会議かいぎひと何人なんにんてきました。「藤野ふじの自分じぶんよごさないで、そういうどもたちの担任たんにんなにもできないくせに、格好かっこうだけつけて、すじだけとおしよった」などとわれました。それは、もう本当ほんとうにつらかったですね。
ただ、そのとき何人なんにんかの先生せんせいが「それはちがうやろ」とってくれました。藤野ふじのさんは自分じぶん体験たいけんとおして、どもたちや保護ほごしゃのことをったのであると。「自分じぶんのできないことはわない」というのはへんはなしで、障害しょうがいしゃひとにそこまで遠慮えんりょさせる必要ひつようはないし、藤野ふじのさんが意見いけんうのはたりまえのことだと。
そして担任たんにんはしませんでしたが、わたし授業じゅぎょうにははいりました。そういったことがわたし一番いちばんなやみでしたね。これは、本当ほんとう現職げんしょくときにはなかなかえなかったことですが。

はるかなるウクライナにしんせて〉

これは大変たいへんなことです。プーチンがウクライナにみましたが、わたしはもうあんなことはないとおもっていたのです。20世紀せいき人間にんげんおおきな戦争せんそうふたつもして、たくさんのひとたちを犠牲ぎせいにして障害しょうがいしゃにしました。しかし、反省はんせいして「戦争せんそうはもうこさない」ということであたらしい憲法けんぽうをつくり、国際こくさい連合れんごう憲章けんしょうめ、植民しょくみん基本きほんてきくして、あたらしい時代じだいはいりました。だから、もうあんな戦争せんそうはないとわたししんじたかったのです。
ところが、あんなことがこりましたから、わたしは「歴史れきし裏切うらぎられたな」とくちすべらせたことがありました。でも、かんがえてみると歴史れきしわたしたちを裏切うらぎるはずはないのです。わたしたちが、歴史れきし裏切うらぎったのだと、歴史れきしはそこまですすんできたのに、プーチンみたいなのがてきたのです。かれ政界せいかいおくしたのはロシアの有権者ゆうけんしゃですよ。「選挙せんきょだれがなっても一緒いっしょや」という迷信めいしんは、国民こくみん民衆みんしゅうなかから払拭ふっしょくしないといけないとおもいます。だれがなっても一緒いっしょではないのです。
ヒットラーのことはあまりいませんが、ヒットラーは暴力ぼうりょく使つかったし、うそもいっぱいついたし、デマゴーグもたくさん使つかいましたが、基本きほんてきには選挙せんきょだいちをしててきたわけです。ドイツの民衆みんしゅう基本きほんてきにはえらんだわけですから、あとやんでもどうしようもないのです。やっぱり、きっちりしたひとえらばなければいけないのだと、わたしおもいます。そして、ウクライナについては、めげずにこえをあげて行動こうどうしていくことだとわたしおもいます。ロシアのいいぶんには、まったくの合理ごうりせい正義せいぎもないとおもいますから。

おしえるとは希望きぼうかたること まなぶとはむねしん(まこと)をきざむこと―ルイ・アラゴン〉

最後さいごに、これをってわりにしたいとおもいます。聖書せいしょなかに「はじめに言葉ことばありき」というフレーズがありますが、言葉ことばというのは人間にんげんきずつけることもあれば、ころすこともあります。でも、はげますこともあれば、ちからになることもあるとおもいます。わたしが、河野こうのさんのほん題名だいめいの「ぼくもはたらきたい」というフレーズに、いかに勇気ゆうきづけられたか。「ぼくも、そういうことをっていいんや」とおもいました。えなくても、くても、「ぼくはたらきたい」とえばいのです。だから、言葉ことばというのはすごく大事だいじなものだとおもいます。
わたし学校がっこう先生せんせいをしているときに、ずっと自分じぶん座右ざゆうめいにしていた言葉ことばがあります。それは、「おしえるとは希望きぼうかたること、まなぶとはむねしん(まこと)をきざむこと」という言葉ことばです。これは、わたし学校がっこう先生せんせいをしながら、いつもしんにとめていた言葉ことばです。大体だいたいひとにものをおしえるというのは、こわいことですからね。「天皇てんのう神様かみさまだ」「いまやっている戦争せんそうはいい戦争せんそうで、かならつ」などと、わたしたちもおしえられましたから。そういうふうに、なん根拠こんきょもなしに大人おとなどもたちにおしえて、そこにはえせの希望きぼうがありました。しかし、そうではなくて本物ほんもの希望きぼうかたらなければいけません。
わたしも、13年間ねんかん学校がっこうけませんでしたが、大人おとなたちは「可哀かわいそうやね」といながら、いっぱい同情どうじょうをしてくれました。でも、その「可哀かわいそう」から出口でぐちを、ほとんどのひとたちはつくってくれなかったし、わたし見出みいだすこともできませんでした。わたし教職きょうしょくにはおりませんが、おしえるとは希望きぼうかたることであって、まなぶというのはむねしん(まこと)をきざむことでありつづけたいとおもいます。

職場しょくば頑張がんばっています

『そして、いま。』

賛助さんじょ会員かいいん 藤川ふじかわ たかし (ふじかわ たかし)
SMBC日興証券にっこうしょうけん てんコンプライアンス

網膜もうまく色素しきそ変性へんせいしょうわたし病名びょうめいです。幼少ようしょうから夜盲やもうがあり、視力しりょくは0.3程度ていどで、成長せいちょうするにつれ低下ていかしていき、現在げんざいは0.02程度ていどです。
おさないころ、両親りょうしんは、精一杯せいいっぱいのことをわたしにしてくれたとおもいますが、自分じぶん家庭かていはお世辞せじにも裕福ゆうふくとはえない環境かんきょうであることも理解りかいしていました。がたち、授業じゅぎょうりょう免除めんじょしてもらい、奨学しょうがくきんながら、大学だいがく卒業そつぎょうし、証券しょうけん会社かいしゃ総合そうごうしょくとして入社にゅうしゃし、営業えいぎょう経験けいけんしました。この経験けいけんかして、現在げんざい会社かいしゃ転職てんしょくし、営業えいぎょうたずさわりました。
営業えいぎょう時代じだいは、周囲しゅうい仲間なかま上司じょうしのサポートに本当ほんとうたすけられました。移動いどう困難こんなんだったため、運転うんてんしゅさんきの支店してんちょうしゃりて、おきゃくさまのところまでき、運転うんてんしゅさんに玄関げんかんなどをおしえてもらい、訪問ほうもんしていました。こまかい文字もじめないため、拡大かくだい読書どくしょ書類しょるい内容ないようをあらかじめ把握はあくして商談しょうだんのぞみました。それなりに実績じっせきんだころ、営業えいぎょう部門ぶもんでの出世しゅっせ意識いしきするようになりました。そんな営業えいぎょう時代じだいが、10ねん程度ていどつづきましたが、残念ざんねんながら視力しりょく低下ていかすすみ、0.05をったあたりからおきゃくさまに対応たいおうすることがむずかしくなってきました。営業えいぎょう現場げんばでは、不幸ふこうにも訴訟そしょう発展はってんするようなものもあります。そのときに、「わるいから説明せつめいれていました」は通用つうようしません。はたらかたえていく必要ひつようせまられました。そして、それまでこばんでいたしろつえつことをめ、営業えいぎょう現場げんばから本社ほんしゃへの異動いどうねがいしました。
わたし会社かいしゃにはすでに視覚しかく障害しょうがいがありながら活躍かつやくされている先輩せんぱいがおられました。そのほうから様々さまざま器具きぐ音声おんせいげソフトなどのサポートについておしえていただき、現在げんざいは、コンプライアンス部門ぶもんで、営業えいぎょう経験けいけんかし、営業えいぎょう管理かんり業務ぎょうむたずさわらせていただいております。
わたしは、ごえんがあって入社にゅうしゃしたいま会社かいしゃ大変たいへん感謝かんしゃしております。理由りゆうは、わたしはたら環境かんきょう成長せいちょうする機会きかいあたえてくれたからです。しかも、わたしこまったときには、その問題もんだい様々さまざま部署ぶしょほう全力ぜんりょく解決かいけつしようと努力どりょくしてくださいます。わたしちから本当ほんとう微々びびたるものですが、おおくの仲間なかまささえられ、いまいたります。本社ほんしゃうつったとき、自分じぶんにはなにができるんだろうかとなやくるしんだ時期じきもあるからこそ、えます。大切たいせつなのは、まえ課題かだいい、どうすればできるのか、そのためにだれめばいいのかを自分じぶんかんがえ、そして、いちずつでもあゆみだすこと。おずかしいはなしですが、本社ほんしゃ異動いどうした当時とうじはこの課題かだいからをそらし、うしなった営業えいぎょう部門ぶもんでの出世しゅっせにこだわっていました。自分じぶんよりも営業えいぎょう成績せいせきるわなかった同僚どうりょう出世しゅっせねたみ、自分じぶん仕事しごとにプライドをてない時期じきもありました。いまおもえば、それこそ視野しやせまかったとずかしくなります。
最近さいきんは、本業ほんぎょうはもちろん、副業ふくぎょうはじめたコーチぎょう、ブラインドテニスなどのスポーツやねんまえに40さいはじめたピアノ、うた個人こじんレッスンをたのしみながら、つま二人ふたりどもたちとの平穏へいおん充実じゅうじつした日々ひびおくっています。
そして、いま苦悩くのうした日々ひびも、わらってはなせるいまかならおとずれると確信かくしんしています。未熟みじゅくわたしですが、皆様みなさまから刺激しげきをいただきながら成長せいちょうできるようつづはげみます。
長文ちょうぶんにおいいただき、ありがとうございました。

だいかいロービジョン・ブラインド川柳せんりゅうコンクール」作品さくひん募集ぼしゅうのおらせ

『ロービジョン・ブラインド川柳せんりゅうコンクール』

事務じむきょく 神田かんだ しん

だいいちかいよりタートルにはご協力きょうりょくいただいているほんコンクール。
昨年さくねんは、ついにタートルから最優秀さいゆうしゅうしょう受賞じゅしょうしゃ誕生たんじょういたしました。
このコンクールは、視覚しかく障害しょうがいちなんだ川柳せんりゅう当事とうじしゃだけでなくすべてのほうからつのり、それぞれの立場たちばからまれた川柳せんりゅうつうじ、たがいの理解りかい視覚しかく障害しょうがい社会しゃかい啓発けいはつ目的もくてきとしています。視覚しかく障害しょうがいちなんだテーマを、それぞれの視点してん川柳せんりゅうにしてご応募おうぼください。
応募おうぼ期間きかん:2023ねんがつ31にちまで
いちに5までですが、なんでもご応募おうぼいただけます。
以下いか該当がいとうする部門ぶもんより応募おうぼできますので、まわりのひとにもおすすめください。
1.えにくさをかんじているほう部門ぶもん視覚しかく色覚しきかく障害しょうがいのあるかた
2.メディカル・トレーナー部門ぶもん医師いし看護かんごのう訓練くんれん歩行ほこう訓練くんれん・その訓練くんれん施設しせつとう先生せんせいかた
3.サポーター部門ぶもん家族かぞく友人ゆうじん職場しょくばほう誘導ゆうどうガイド、ヘルパー、その一般いっぱんほう
応募おうぼは、「だいかいロービジョン・ブラインド川柳せんりゅうコンクール」ホームページよりおねがいします。
https://www.paris-miki.co.jp/lv-senryu/
過去かこ受賞じゅしょう作品さくひん入選にゅうせん作品さくひんをはじめ協力きょうりょく団体だんたいのホームページ一覧いちらん掲載けいさいしています。
協力きょうりょく団体だんたいのホームページはQOLの向上こうじょうにお役立やくだててください。
今年ことしは「日本にっぽん眼科がんかかいしょう」が新設しんせつされました。最優秀さいゆうしゅうしょうかく部門ぶもんしょう、NEXT VISIONしょう、および入選にゅうせん作品さくひんは2023ねんがつ下旬げじゅん、ホームページで発表はっぴょうします。
ふるってご応募おうぼください。
以下いか昨年さくねん応募おうぼ作品さくひんよりご紹介しょうかいいたします。

つかみれ くしたものと えに
[作者さくしゃ解説かいせつ] わたし視力しりょくうしないましたが、訓練くんれんをしていただいたおかげで、いろいろな技術ぎじゅつかんがかた、そしてきる自信じしん獲得かくとくしました。
ファービー ロービジョン

えなくても うしないたくない 自分じぶんらしさ
[作者さくしゃ解説かいせつ] 視力しりょくがだんだんわるくなり、だんだんとしんがしぼんで自分じぶんわっていくとかんじていました。でもおななやみのほう出会であ元気げんき姿すがたて、自分じぶんもこのさき自分じぶんらしさだけはうしなわないように、柔軟じゅうなんしんきていきたいです。
あい裕美ひろみゆう ロービジョン

ふくえらび センスのいいじん まずえら
[作者さくしゃ解説かいせつ] 全盲ぜんもうしゃにとって洋服ようふくえらぶときは、センスのいいじんえらんでもらうのがコツ。
ゆきちゅうキリギリス ブラインド

だれもかも フリーアドレスで 行方ゆくえ不明ふめい
[作者さくしゃ解説かいせつ] 盲人もうじんはな相手あいてさがすには、ちかくのひとこえをききわけたりせきおぼえておくしかないが、フリーアドレスになると毎日まいにちせきわるので、どこにだれがいるのかからない。
えたはちたからさい ブラインド

仕事しごとする 分厚ぶあついメガネの ママ素敵すてき
[作者さくしゃ解説かいせつ] やまいにかかっても、分厚ぶあついメガネをかけて、仕事しごと頑張がんばるママの姿すがた素敵すてきです。
とらまる ご家族かぞく

おもいやり 整理せいり整頓せいとん こころがけ
[作者さくしゃ解説かいせつ] 視覚しかく障害しょうがいのあるほう自分じぶんができること。同僚どうりょうはたらきやすいように職場しょくば不要ふようなものかないだとか整理せいり整頓せいとんをするだとか。はたらきやすい環境かんきょう提供ていきょうしたい。
のりんこ 職場しょくばほう

らせコーナー

参加さんかをおちしております!!(今後こんご予定よてい

交流こうりゅうかい

昨年さくねんはコロナ開催かいさいできませんでしたが、今年度こんねんどはまた、9月くがつ、11月、3月さんがつだい土曜日どようび、14:00~16:00までオンラインでおこないます。毎回まいかい講演こうえんいたあと、講師こうしとの質疑しつぎ応答おうとう時間じかんもうけます。

◎タートルサロン

上記じょうき交流こうりゅうかい実施じっしがつ以外いがい毎月まいつきだい土曜日どようびの14:00~16:00におこないます。情報じょうほう交換こうかん気軽きがる相談そうだんとしてご利用りようください。
ほかにも、原則げんそくだい日曜日にちようびには、テーマべつサロン(偶数ぐうすうがつ)、ICTサロン(すうがつおこないます。

新型しんがたコロナウイルス感染かんせんしょう動向どうこうによっては、会場かいじょうでの会合かいごうむずかしく、つづ開催かいさいひかえさせていただきます。
※その場合ばあいにも、Zoomによるオンラインでのサロンはつづおこないます。ふるってご参加さんかください(詳細しょうさい下記かき事務じむきょくあてにおわせください)。

一人ひとりなやまず、ずは相談そうだんを!!

えなくても普通ふつう生活せいかつしたい」というねがいはだれもがおなじです。職業しょくぎょうてき自立じりつし、たりまえはたらつづけたい願望がんぼうがだれにもあります。一人ひとりかかまず、仲間なかま同士どうし一緒いっしょかんがえ、気軽きがる相談そうだんうことで、えてくるものもあります。まよわずご連絡れんらくください!おな体験たいけんをしている視覚しかく障害しょうがいしゃ丁寧ていねい対応たいおうします。(相談そうだん無料むりょうです)

新型しんがたコロナウイルス感染かんせんしょう動向どうこうによっては、会場かいじょう参集さんしゅうしての相談そうだんかいつづひかえさせていただきます。

電話でんわやメールによる相談そうだんはおけしていますので、下記かき事務じむきょくまで電話でんわまたはメールをおせください。

ICTにかんする情報じょうほう提供ていきょう情報じょうほう共有きょうゆうおこなっています。

タートルICTサポートプロジェクトでは、就労しゅうろうにおけるICTの課題かだいんでいます。ICTについては、専用せんようのポータルサイトやグループメールをご活用かつようください。

タートルICTポータルサイト
https://www.turtle.gr.jp/hpmain/ict/

タートルICTグループメールへの登録とうろく以下いかをご参照さんしょうください。
https://www.turtle.gr.jp/hpmain/ict/activity-2/ict-groupmail/

正会員せいかいいん入会にゅうかいのご案内あんない

認定にんていNPO法人ほうじんタートルは、みずからが視覚しかく障害しょうがい体験たいけんしたものたちが「はたらくことにとく」した活動かつどうをしている「当事とうじしゃ団体だんたい」です。疾病しっぺいやけがなどで視力しりょく障害しょうがいわずらったさい、だれでも途方とほうにくれてしまいます。そのようなとき仕事しごと継続けいぞくするためにはどのようにしていけばいいかを、経験けいけんとおして助言じょげん支援しえんをします。そしてえなくてもはたらける事実じじつひろ社会しゃかいってもらうことを目的もくてきとして活動かつどうしています。当事とうじしゃだけでなく、晴眼せいがんしゃほう入会にゅうかい歓迎かんげいいたします。
入会にゅうかいきんはありません。年会ねんかいは5,000えんです。

賛助さんじょ会員かいいん入会にゅうかいのご案内あんない

賛助さんじょ会員かいいん会費かいひは「認定にんていNPO法人ほうじんへの寄付きふ」として税制ぜいせい優遇ゆうぐうけられます!
認定にんていNPO法人ほうじんタートルは、視覚しかく障害しょうがい当事とうじしゃはもちろん、タートルの目的もくてき活動かつどう賛同さんどうし、ご理解りかい協力きょうりょくいただける個人こじん団体だんたい入会にゅうかいしんから歓迎かんげいします。
年会ねんかいは1くち5,000えんです。(複数ふくすうこうだい歓迎かんげいです)
眼科がんか先生せんせいかたはじめ、産業さんぎょう先生せんせい医療いりょう従事じゅうじしておられる方々かたがたには、視覚しかく障害しょうがいしゃしんささえ、QOLの向上こうじょうのためにも是非ぜひ賛助さんじょ会員かいいんへの入会にゅうかい歓迎かんげいいたします。また、疾患しっかんにより就労しゅうろう継続けいぞく不安ふあんをおちの患者かんじゃさんがおられましたら、どうぞ、とう認定にんていNPO法人ほうじんタートルをご紹介しょうかいいただけますとさいわいにぞんじます。
入会にゅうかいもうみはタートルホームページの入会にゅうかいもうみメールフォームからできます。また、申込もうしこみしょをダウンロードすることもできます。
URL:https://www.turtle.gr.jp/hpmain/

寄付きふのおねが

税制ぜいせい優遇ゆうぐうけられることをご存知ぞんじですか?!
認定にんていNPO法人ほうじんタートルの活動かつどうにご支援しえんをおねがいします!!
昨今さっこん中途ちゅうと視覚しかく障害しょうがいしゃからの就労しゅうろう相談そうだん希望きぼうは、本当ほんとう数多かずおおくあります。また、視力しりょく低下ていかによる不安ふあんから、ロービジョン相談そうだんかいかく拠点きょてんふく交流こうりゅうかいやタートルサロンにはじめて参加さんかされるひとえています。それらにてきかく迅速じんそく対応たいおうする体制たいせいづくりや、関連かんれん資料しりょう作成さくせいなど、わたしたち活動かつどうを、より充実じゅうじつさせるために皆様みなさまからの資金しきんてき支援しえん必須ひっすとなっています。
個人こじん団体だんたいわず、あたたかいご寄付きふをおねがもうげます。

とう法人ほうじんは、寄付きふされたほう税制ぜいせい優遇ゆうぐうけられる認定にんていNPO法人ほうじん認可にんかけました。
また、「認定にんていNPO法人ほうじん」は、年間ねんかん100めい寄付きふけることが認定にんてい条件じょうけんとなっています。皆様みなさま積極せっきょくてきなご支援しえんをおねがいいたします。
寄付きふ一口ひとくち3,000えんです。いつでも、なんくちでもご協力きょうりょくいただけます。
寄付きふもうみは、タートルホームページの寄付きふもうみメールフォームからできます。また、申込もうしこみしょをダウンロードすることもできます。
URL:https://www.turtle.gr.jp/hpmain/

会費かいひ寄付きふとう振込ふりこみさき

郵便ゆうびんきょくからの振込ふりこみ
ゆうちょ銀行ぎんこう
記号きごう番号ばんごう:00150-2-595127
加入かにゅうしゃめい特定とくてい営利えいり活動かつどう法人ほうじんタートル

銀行ぎんこうからの振込ふりこみ
銀行ぎんこうめい:ゆうちょ銀行ぎんこう
金融きんゆう機関きかんコード:9900
支店してんめい:〇いちきゅうてん(ゼロイチキユウてん
支店してんコード:019
預金よきん種目しゅもく当座とうざ
口座こうざ番号ばんごう:0595127
口座こうざ名義めいぎ:トクヒ)タートル

支援しえん感謝かんしゃもうげます!

おおくの皆様みなさまから本当ほんとうあたたかいご寄付きふ頂戴ちょうだいしました。しんより感謝かんしゃもうげます。これらのご支援しえんは、とう法人ほうじん活動かつどう有効ゆうこう使用しようさせていただきます。
今後こんごとも皆様みなさまのご支援しえんをおねがもうげます。

活動かつどうスタッフとボランティアを募集ぼしゅうしています!!

あなたも活動かつどう参加さんかしませんか?
認定にんていNPO法人ほうじんタートルは、視覚しかく障害しょうがいしゃ就労しゅうろう継続けいぞく雇用こよう啓発けいはつにつなげる相談そうだん交流こうりゅうかい情報じょうほう提供ていきょう、セミナー開催かいさい就労しゅうろう啓発けいはつとう事業じぎょうおこなっております。これらの事業じぎょう企画きかく運営うんえい一緒いっしょ活動かつどうするスタッフとボランティアを募集ぼしゅうしています。会員かいいんでも会員かいいんでもかまいません。「当事とうじしゃ」だけでなく、「晴眼せいがんしゃ不自由ふじゆうでないほう)」の協力きょうりょくもとめています。首都しゅとけん以外いがいにも、関西かんさい九州きゅうしゅうなどかく拠点きょてんでもボランティアを募集ぼしゅうしています。
具体ぐたいてきには事務じむ作業さぎょう支援しえん情報じょうほう編集へんしゅう、HP作成さくせい支援しえん交流こうりゅうかい受付うけつけ視覚しかく障害しょうがい参加さんかしゃえきからの誘導ゆうどう通信つうしん設定せっていとうさまざまです。詳細しょうさいについては事務じむきょくまでお気軽きがるにおわせください。

タートル事務じむきょく連絡れんらくさき

Tel:03-3351-3208
E-mail:m#ail@turtle.gr.jp(#をのぞいて送信そうしんしてください。)

編集へんしゅう後記こうき

全国ぜんこくのタートル会員かいいん皆様みなさま、いかがおごしでしょうか?
いつも情報じょうほう愛読あいどくしてくださり、ありがとうございます!
読者どくしゃなかには、電車でんしゃ通勤つうきん復活ふっかつしたひともいらっしゃるのではないでしょうか? わたしも、ひさしぶりに満員まんいん電車でんしゃられ、それなりにつらおもいをしながら、毎日まいにち電車でんしゃ通勤つうきんたのしんでいるこのころです。
そのような通勤つうきんでの1コマ…。先日せんじつ夕方ゆうがたのラッシュに、つりかわをつかむことができず、頑張がんばってれにえているわたし。そのときこえをかけてくれたおとこひとがいました。そのひとわたしって、すりに誘導ゆうどうしたそのとき電車でんしゃおおきくれたのです!! そしてわたしとそのひとは、バランスをうしないました。わたしは、すぐそばにすわっていたほうたおれこんでしまいました。わたしあやまると、すわっていたほうが「不自由ふじゆうとはおもいませんでした。がつかなくてすみませんでした。」といつつ、せきゆずってくださいました。わたし謝辞しゃじべそのまま座席ざせきすわりました。
そのべてくれたほう会話かいわをしました。そのほうは「じつわたし片腕かたうでがないのです。なので、もう片方かたがた使つかえずにバランスをうしなってしまい、こんなことになってしまいました。ごめんなさい。」とわれました。
わたしは、「おになさらずに。」とこたえ、その仕事しごとはなし趣味しゅみはなしなどざっくばらんにかたいました。さきりるかれかって、「またおいできたら!」とこえをかけました。かれもまた「たのしかったです。」とっていました。
様々さまざまな「気持きもち」が交錯こうさくした車中しゃちゅう。いつものリズムをきざみながら電車でんしゃはしり、久々ひさびさ感慨かんがいにふけるわたしがいました。
さて、今回こんかい情報じょうほうはいかがでしたでしょうか?これからも、みなさんにたのしんでもらえる誌面しめんをおとどけしますので、情報じょうほうタートルを、どうぞよろしくおねがいします!

(イチカワ ヒロ)

奥付おくづけ

特定とくてい営利えいり活動かつどう法人ほうじん タートル 情報じょうほう
『タートルだい60ごう
2022ねんがつ27にち発行はっこう SSKU 増刊ぞうかん通巻つうかんだい7424ごう
■ はつ あるき 特定とくてい営利えいり活動かつどう法人ほうじん タートル理事りじちょう 重田しげた まささとし
■ 事務じむきょく 〒160-0003 東京とうきょう新宿しんじゅく四谷よつや本塩ほんしおまち2-5
社会しゃかい福祉ふくし法人ほうじん 日本にっぽん視覚しかく障害しょうがいしゃ職能しょくのう開発かいはつセンター 東京とうきょうワークショップない
でん はなし 03-3351-3208  ファックス 03-3351-3189
■ NPO法人ほうじんタートルの連絡れんらくようメール m#ail@turtle.gr.jp(#をのぞいて送信そうしんしてください。)
■ URL: https://www.turtle.gr.jp/hpmain/

発行はっこうしょ 郵便ゆうびん番号ばんごう いちなな―〇〇七三 東京とうきょう世田谷せたがやきぬたろく二六にろくいち 特定とくてい営利えいり活動かつどう法人ほうじん障害しょうがいしゃ団体だんたい定期ていき刊行かんこうぶつ協会きょうかい 定価ていかななえん会費かいひふくまれている)