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舒赫とく

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舒赫とく
《紫光閣功臣像》
だいきよし太子たいしふとし武英たけひで殿どのだい學士がくし
ぞく滿まんしゅう
はたせき滿まんしゅうせい白旗はっき
ごうはくよう
諡號しごうぶんじょう
出生しゅっしょうかんよんじゅうきゅうねん(1710ねん
逝世いぬいたかしよんじゅうねん(1777ねん
おやぞくせきしかやすし曾祖そうそ
じょ元夢もとむ祖父そふ
せきかくちち
舒臨おとうと
舒常舒寧舒安
出身しゅっしん
  • ふでじょうしき

舒赫とく满语ᡧᡠᡥᡝᡩᡝ᠋きよし麟德轉寫てんしゃšuhede,1710ねん—1777ねん舒穆ろく[1]はくよう[2]はくゆう[3]ごうあかりてい[2]おくりなぶんじょう[4]滿まんしゅうせい白旗はっきひと清朝せいちょう军事はた领、清朝せいちょう初期しょき政治せいじ人物じんぶつ,授武英たけひで殿どのだい學士がくしじょ元夢もとむこれまご

生平おいだいら

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雍正ろくねんにんふでじょうしき[4]きさきあらため內閣中書ちゅうしょ[4]。雍正じゅうねんにん內閣侍讀じどく[4]。雍正じゅうさんねんあらためかん察御軍機ぐんきしょつかさいんくだりはしいぬいたかしさんねんにん內閣侍讀じどく學士がくし[4][5]

いぬいたかしよんねんにんひだりふく兵部ひょうぶひだりさむらいろう[6]いぬいたかしろくねんにんぐんすべりょう[6]いぬいたかしじゅうねんけんかん戶部とべみぎさむらいろう[7]つぎねんにんけん兵部ひょうぶさむらいろう[4]せい黃旗きはたかんぐんみやこみつる[4]、鑲紅はたかんぐんみやこみつる[8]軍機ぐんきしょぎょうはしかいてんかん總裁そうさいいぬいたかしじゅうさんねんにん兵部ひょうぶ尚書しょうしょかん戶部とべさむらいろう[8]きさき調ちょう戶部とべ尚書しょうしょ[4]けんかん兵部ひょうぶ事務じむ[9]管理かんりさん大臣だいじん[4]

いぬいたかしじゅうよんねんいぬいたかしみかどいのち其跟したがえ經略けいりゃくだい學士がくしでんひさしせい金川かながわ,授金かわさんさん大臣だいじん[4]太子たいしふとし同年どうねんじゅうがつあらため兵部ひょうぶ尚書しょうしょ[10]つぎねん軍機ぐんきしょぎょうはし[11]せめおさむけんふるしゅうぐすくいぬいたかしじゅうろくねんかんえいじょうかわこうまたいのちいた浙江せっこう調ちょう杭州こうしゅう將軍しょうぐんさとしがくしかとう收受しゅうじゅ賄賂わいろごと[12]

いぬいたかしじゅうななねんいのち其與兵部ひょうぶさむらいろうたま赴北ぐんぼうじゅん噶爾いぬいたかしじゅうはちねんいんじゅん噶爾發生はっせい內亂,而撤ぼう召還しょうかんにんりょうさむらいまもる大臣だいじん[4]管理かんり內務大臣だいじん[13]つぎねんいん處理しょりとくこれごと惹乾たかしみかどだいいか,而閒[14]

いぬいたかしじゅうねんあきらきょう銜。いぬいたかしじゅういちねんにんせいべにはたかんぐんふくみやこみつるつぎねんけん鑲黃はたかんぐんみやこみつるにん兵部ひょうぶ尚書しょうしょ[15][16]いぬいたかしじゅうねん正月しょうがついぬいたかしみかどいのちなり袞扎ぬのためていあたり將軍しょうぐん,逐捕おもねむつみなんじ撒納,授舒赫德ためさんさん大臣だいじんきさきます兵部ひょうぶ尚書しょうしょけん鑲黃はたかんぐんみやこみつる同年どうねんさんがついん舒赫とくざいぐんどく疏奏ごとせめ其放たて罷免ひめん其尚しょ職位しょくい同年どうねんじゅうがついんひさしこうみことのり罪狀ざいじょう舒赫とくれいだつしょくためへい[17]

いぬいたかしじゅうさんねんきゅうあたまとうさむらいまもるちゅうおもねかつ同年どうねんじゅうがつ將軍しょうぐんちょうめぐみ逐捕霍集うらないいん孤軍こぐん深入ふかいりかこえいぬいたかしみかどいのちていあたりみぎふく將軍しょうぐんとみとくぜん救援きゅうえん,授舒赫德ためさんさん大臣だいじんざいともえなんじすわえかつかい。舒赫とくみとめためざいおもねかつとおるなんじ喀什噶爾よう隘,とうしつらえ卡倫,とくいたいぬいたかしみかどよしみ獎,しょうにん吏部さむらいろう,遷工尚書しょうしょ、鑲紅滿まんしゅうみやこみつるたまもの孔雀くじゃく翎。同年どうねんじゅうがつ簡阿かつするどしょみちへいさきいたりしゃはせ援兆めぐみいぬいたかしじゅうよんねん正月しょうがつ,其與とみとくごうぐんかいちょうめぐみかこえくもじょうしょく同年どうねんなながついのち移駐いちゅうなんじ,旋命仍駐おもねかつにんおもねかつ辦事大臣だいじん[18]いぬいたかしじゅうろくねんにん喀什噶爾まいりさん大臣だいじん[19]刑部おさかべ尚書しょうしょ[20]いぬいたかしじゅうななねん管理かんりさん大臣だいじん[21]いん戰功せんこう而入むらさきひかりかく功臣こうしんぞういぬいたかしじゅうはちねんにんけいむしろこうかんしょこう尚書しょうしょつとむ殿どのためし讀卷かん[22]しょぐんすべりょう太子たいしふとしたもてしょ戶部とべ尚書しょうしょ[23]

いぬいたかしじゅうきゅうねんかん國子くにこかんさんがく[22]かん戶部とべ事務じむ[4]いぬい隆三りゅうぞうじゅういちねんにん戶部とべ尚書しょうしょ[24]しょ陝甘總督そうとく戶部とべ尚書しょうしょいぬい隆三りゅうぞうじゅうねんにんさんつうかんふく總裁そうさいいぬい隆三りゅうぞうじゅうさんねん將軍しょうぐんあかりみずせいはるはい績而ほろびいぬいたかしみかどいのちだい學士がくしでんひさしため經略けいりゃく,授舒赫德さんさん大臣だいじんさき雲南うんなん籌畫進軍しんぐんよし舒赫とくみつ疏議じゅん忤上むね,而被だつかんなみそぎくもじょうしょくいのち以都すべ銜參さん大臣だいじんちゅうがらす,授烏什參さん大臣だいじん[4][25]

いぬい隆三りゅうぞうじゅうろくねんなんじ扈特あせ渥巴すずひとしにわからい朝廷ちょうてい眾人以為にせくだ,舒赫とく力持ちからもち其無他心たしん,而被いのちためすき宣撫せんぶひろ授伊すき將軍しょうぐん同年どうねんじゅういちがつ,授戶尚書しょうしょいぬい隆三りゅうぞうじゅうななねんにんりょうさむらいまもる大臣だいじん[4]いぬい隆三りゅうぞうじゅうはちねん太子たいしふとし,授武英たけひで殿どのだい學士がくし軍機ぐんき大臣だいじん[26]いん平定へいていおうりん叛亂はんらんさいつぎ恢復かいふくくもじょうしょく後任こうにん刑部おさかべ尚書しょうしょ[4]國史こくしかん四庫全書清字經館總裁、せい白旗しらはた滿みつるしまみやこみつる總理そうり吏部、管理かんりさん大臣だいじん[4]けいむしろこうかんいぬい隆三りゅうぞうじゅうきゅうねんにん翰林院かんりんいんてのひらいん學士がくし御前ごぜん大臣だいじんくもじょう[4]いぬいたかしよんじゅうねんつとむ殿どのためし讀卷かん[27]教習きょうしゅう庶吉いぬいたかしよんじゅういちねんにん文淵ぶんえんかく領事りょうじこうむ源流げんりゅう臨清畧正總裁そうさい[4]いぬいたかしよんじゅうねんよんがつおくふとたもておくりなぶんじょうまつ賢良けんりょうほこら[28][29]

おんな儿舒きよしろくよめ镶黄はた满洲一等いっとうこう两广总督だいみずうみ广总とくとくなりなま于乾たかしはちねんそつ于乾隆三りゅうぞうじゅうさんねん硕裕しょう亲王こう祿ろくだいじゅうさん镇国はたあきらさきがけ[30]

延伸えんしん阅读

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维基文库中的相关文本:清史きよし稿こう·まき313》,出自しゅつじちょうなんじたつみ清史きよし稿こう

参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ きゅうてん備徵 ,3かん
  2. ^ 2.0 2.1 國立こくりつみや博物はくぶついん圖書としょ文獻ぶんけんしょ清史きよしかんでん稿こう ,701006754ごう
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  4. ^ 4.00 4.01 4.02 4.03 4.04 4.05 4.06 4.07 4.08 4.09 4.10 4.11 4.12 4.13 4.14 4.15 4.16 4.17 國立こくりつみや博物はくぶついん圖書としょ文獻ぶんけんしょ清國きよくにかんでん稿こう ,701005742ごう
  5. ^ みんこく·ちょうなんじたつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき313):“舒赫とくはくよう舒穆魯氏滿まんしまただし白旗はっきひとじょ元夢もとむまご也。 舒赫とくふでじょうしき內閣中書ちゅうしょるいたかし軍機ぐんきしょあきらきょういぬいたかしねん,疏言:「はちはたなましげるもりきょう黑龍江こくりゅうこうやすしとう三省みつよし沃可こう。請將あいだうつりたむろなみじょうしつらえ公庫こうこ,以各しょう稅務ぜいむ專屬せんぞくはたいん,贖旗てん於民しゃ,以官畀無はたひのと。以じゅうねんため次第しだい施行しこう。」じょう稅務ぜいむ專屬せんぞくはたいんためさとし曰:「 舒赫とく 此議,ただしはた人生じんせいけい艱難かんなん不知ふち國家こっかしつらえせきよく稽察かん宄,ため收稅しゅうぜいこれいん家計かけい也。ちん以砥礪廉すみつとむしんこうなおおそれ不能ふのう遵奉じゅんぽう,而可以謀しるべ乎?きょう各省かくしょう稅務ぜいむほんひつじぶん滿みつるかんはたいんゆう廉潔れんけつしゃなに不可ふか大抵たいていためうえしゃほどこせ逮下ひとしおもんみゆう勵以忠勤ちゅうきんしめせ節儉せっけんためしゃみなとうはやさくよるおもえせんりょくきょうしょく,以永受國家こっかめぐみようほういいけい長久ちょうきゅうぶたあつ生計せいけい不可ふかおもえ,而長むさぼ以為惠下えげのり未見みけん其利,而且貽害,所以ゆえんきょうはたいんまた所以ゆえんあいはたいん也。」はつ,雍正あいだ京師けいししつらえかんべいきょくおさむはたひのと餉米そんもうかひらせり。 舒赫とく疏請ふくしつらえしたがえこれ遷至兵部ひょうぶ尚書しょうしょうつり戶部とべ尚書しょうしょ。”
  6. ^ 6.0 6.1 中央ちゅうおう研究けんきゅういん歷史れきしげん研究所けんきゅうじょ內閣だい檔案 ,117700ごう
  7. ^ 清史きよし稿こうこう註 ,7さつ191かん ,5758
  8. ^ 8.0 8.1 中央ちゅうおう研究けんきゅういん歷史れきしげん研究所けんきゅうじょ內閣だい檔案 ,117720ごう
  9. ^ 清史きよし稿こうこう註 ,7さつ191かん ,5761
  10. ^ きよし實錄じつろくこう宗純そうじゅん皇帝こうてい實錄じつろく ,355かん
  11. ^ きよし實錄じつろくこう宗純そうじゅん皇帝こうてい實錄じつろく ,377かん
  12. ^ みんこく·ちょうなんじたつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき313):“じゅうさんねんいのちしたがえ經略けいりゃくだい學士がくしでんひさしせい金川かながわ,授參さん太子たいしふとしじゅうよんねんかえとめ辦軍需奏銷。いのち雲南うんなんみずうみひろ河南かなん查閱營伍,なみかん雲南うんなん金沙江きむしゃこううんどう水道すいどう。 舒赫とく 疏言金沙江きむしゃこうゆうどううん阻,うえゆうよんじゅうあまりなだおお峻險しゅんけん,仍當陸運りくうん總督そうとくちょうまことずい言上ごんじょうゆうみな疏通そつう不實ふじつふるしゅうそうへい哈尚とくよしふるしゅうみず,請移じょううえれい 舒赫とく しょう。 舒赫とく 請城內外疏積すいまちうつりけんじゅうがつふくうつり兵部ひょうぶ尚書しょうしょじゅうねん,疏言:「定例ていれいがくへいひゃくにんかけいいめいかて』,ためぐんちゅう公使こうしぜにおもんみつくろえぐんめぐぼうまいきゅう於用。うまへいよろし於東おひがしみなみ,其在西北せいほくじゅうきょ其八,またりょうげんとうぱいへいぜん實用じつようなずらえ於馬へいとうぱいへい內加ぞうめいかて,以備公用こうよう。」廷議まことぎょう十二月じゅうにがついのち浙江せっこうかんうみ塘。じゅうろくねんいのちかんえいじょうかわこうまたいのち浙江せっこう杭州こうしゅう將軍しょうぐんさとしがくしかとう受賕じょう。”
  13. ^ 清史きよし稿こうこう註 ,1さつ11かん ,405
  14. ^ みんこく·ちょうなんじたつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき313):“じゅうななねんいのち偕侍ろうだま赴北ぐんぼうじゅん噶爾。じゅうはちねん,以準噶爾內亂,撤防,召還しょうかんいのち如江みなみふさが銅山どうざんはり馬路まじかわけつときじゅん噶爾いたるかわらひとしふくためたいきち所部ところぶもりなんじはくとくたいきちくるましのげとうじゅん噶爾おさむくわ瑪木とくがらすやなかいとくひとし扎木さん瑚圖かつとうおいしゃしのげ先後せんごたけなわ入北にゅうほく卡倫うえいのち 舒赫とく鄂爾ひつじさる軍事ぐんじ,而令さむらいろうだまたもてぜんほこさきすべりょうつとむさん大臣だいじん薩喇なんじていあたりひだりふく將軍しょうぐんなり袞扎ぬのじゅうきゅうねんはる, 舒赫とく いたりぐんまいりさん大臣だいじんいたるきよしおもね誘致ゆうち瑪木とくはたおりおく京師けいし,疏聞,うえ以瑪とく聞召そくいたりいのちしゃく使つかいかえすんで,薩喇なんじつとむさんそちあたり扎木さん、瑚圖かつ, 舒赫とく とうふく疏請おりおく京師けいしうえ以瑪とく誘致ゆうち,扎木さんとう乃逐捕所得しょとくこと不同ふどうせめ 舒赫とく 謬誤,いのち以扎さんとうしゅうおけぐんちゅうぐん中方なかほう傳達でんたつかわらひとし其將扎努噶爾ぬの以五せんにんはんあたりなり袞扎ぬのとう致書たちかわらひとしげん瑪木とく、扎木さんとう以入本末ほんまつうえ以為ふとし懦,さとし 舒赫とく とう上方かみがた以準噶爾內訌,しょうじょうおさむがらすやなかい,以薩喇爾ほんこうむあたまじん,習邊ごとはた倚以招致しょうち。 舒赫とく とう疏言たちかわらひとしふくためだいきちがらすはりうみとうえき招致しょうちれい薩喇なんじちゅうぐんたくかつさくまち舉。うえせめ 舒赫とく かしこおびえ使つかい薩喇なんじ掣肘せいちゅうこうむふるかいがく琳沁おおやけかく勒克ともえ丕勒以赴ぐん遷延せんえんとくざい, 舒赫とく とう疏言其至ぐん奮勉,請贖罪しょくざい上下じょうげみことのりせめ其舛謬,なみ行文こうぶんたちかわらひとしこと下部かぶだつかんとくむねひろしめんうえみゆきねつかわ,召 舒赫とく まいくだりざいしめせ方略ほうりゃく。旋解なり袞扎ぬの將軍しょうぐん以授さく楞。なながつてるとくたいきちおもねむつみなんじ撒納。 舒赫とく あずかさくとめおもねむつみなんじ撒納及諸あたまじんぐんちゅう待命たいめい,以其孥移おけとくおもねむつみなんじ撒納ゆうけいため瑪木とくしょ,乞資以行かて俾赴援, 舒赫とく もと上方かみがたよく倚阿むつみなんじ撒納とりこたちかわらひとしこと聞,うえもりいかみことのり罪狀ざいじょうさく楞、 舒赫とくりゃくいい:「おもねむつみなんじ撒納はつらいくだ,乃以其眷屬けんぞくうつりおけほこかべみなみそう距數千里せんり使つかい父母ちちはは妻子さいし分析ぶんせきはなれきょしつとおじんしんじゅん噶爾內亂,所部ところぶ叩關內附,せいしめせ懷柔かいじゅうえい邊境へんきょうさく楞、 舒赫とく 顛倒てんとうます謬,いたり於此きょく!」みなだつしょく,以閒散在さんざいさんさん大臣だいじんじょう效力こうりょく贖罪しょくざいなみせき其家,つみ及諸。”
  15. ^ きよし實錄じつろくこう宗純そうじゅん皇帝こうてい實錄じつろく ,533かん
  16. ^ みんこく·ちょうなんじたつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき313):“じゅうねん正月しょうがつうえいのちおもねむつみなんじ撒納はんだいそちいたるかわらひとしおもねむつみなんじ撒納請移ゆうまきがらすさとみやびだいうえもといのちりょうたい大臣だいじんちょうめぐみちゅうぐん於此, 舒赫とく あきらきょう銜佐ちょうめぐみ六月ろくがつやめじょうすきさとし曰:「さく楞、 舒赫とく ぐんぜん效力こうりょくこん大功たいこうやめなりほんよくほどこせおんひらき其自こうさく楞已みやこみつる銜,ちゅうぐん巴里ぱりひつじさるけん 舒赫とく ひつさつ,雖無怨望,乃效漢人かんど習,にち記事きじ作詩さくし。嗣宜つうあらため悔,れい仍以あきらきょうとめがらすさとみやびだい。」上分かみぶんじゅん噶爾ほん眾建諸侯しょこう,四衞拉特各為汗。おもねむつみなんじ撒納もとめため總統そうとううえもととげ叛。其妻子さいしざいがらすさとみやびだい, 舒赫とく 偕兆惠收送京師。じゅういちねん喀爾喀たいきちあおたぎざつぼく叛,えき道中どうちゅう梗。かい察哈なんじへいすうひゃくおくひつじいたり, 舒赫とく とめ分布ぶんぷしょたい站,ぐんほう乃通。くだりいたりつとむ兌木りんまもるやく魯特ひとかすめしゃがらすりょう海人かいじんにゅうあたり,竄匿にわかはせげき往索。うえよしみ其治ごとなおきょう機宜きぎ召還しょうかん,授正黃旗きはたかんぐんふくみやこみつる。”
  17. ^ みんこく·ちょうなんじたつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき313):“じゅうねん正月しょうがつうえいのちなり袞扎ぬのためていあたり將軍しょうぐん,逐捕おもねむつみなんじ撒納,授 舒赫とく さんさん大臣だいじんひろ擢兵尚書しょうしょけん鑲黃はたかんぐんみやこみつる三月さんがつ,以舒赫德ざいぐんどく疏奏ごとせめ其放たてやめ尚書しょうしょなながつ,疏請ぼうはんすな喇斯遊牧ゆうぼく內移,うえ斥其藉作けいいむさとしさる戒。十二月じゅうにがつうえ以成袞扎ぬのひさしこうみことのり罪狀ざいじょう 舒赫とく略言りゃくげん:「 舒赫とく おこりはいせきはつ赴軍授方りゃくれいでんさとしなり袞扎ぬのなみ戒其毋更恇怯。乃至ないしぐん諸事しょじみなしつ機宜きぎそく如招ふくかつ哷特、がらす魯特とう遊牧ゆうぼくとうおさむ其馬以佐ぐん;乃任れいたむろちゅう山中さんちゅう,致兵ふく叛。及朕ゆうむね詰責きっせきはじめひがしさえぎ西にし往來おうらいどうつかれ馬力ばりき於無よう。舉此いちはし諸事しょじみな成算せいさん。此實 舒赫とく しょうちんむねせんしめせなり袞扎ぬのこれしょ致也。 舒赫とく ざいかち誅,ちんねんなり袞扎ぬの去年きょねんとりこあおたぎざつぼくこうもらい 舒赫とく 以不れいだつしょくためへい從軍じゅうぐん贖罪しょくざい。」”
  18. ^ 清史きよし稿こうこう註 ,9さつ213かん ,7000-7003
  19. ^ 清史きよし稿こうこう註 ,9さつ213かん ,7003-7004
  20. ^ 中央ちゅうおう研究けんきゅういん歷史れきしげん研究所けんきゅうじょ內閣だい檔案 ,076915ごう
  21. ^ いしぶみでんしゅう ,2さつ27かん ,830
  22. ^ 22.0 22.1 いしぶみでんしゅう ,2さつ27かん ,831
  23. ^ みんこく·ちょうなんじたつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき313):“じゅうさんねんあたまとうさむらいまもる銜,ちゅうおもねかつじゅうがつ將軍しょうぐん兆惠逐捕霍集占,深入ふかいりかこえいのちていあたりみぎふく將軍しょうぐんとみとく往援,授 舒赫とく さんさん大臣だいじんかいともえなんじすわえかつ。 舒赫とく以阿かつとおるなんじ喀什噶爾よう隘,とうしつらえ卡倫うえ嘉之よしゆき,擢吏さむらいろう,遷工尚書しょうしょ、鑲紅滿まんしゅうみやこみつるたまもの孔雀くじゃく翎。十二月じゅうにがつ,簡阿かつするどそつしょみちへいさきいたりしゃはせ援兆めぐみじゅうよんねん正月しょうがつあずかとみ德合とくあいぐんかいちょうめぐみかこえくもじょうしょくなながついのち移駐いちゅうなんじ,旋命仍駐おもねかつ先後せんごそうていかいじょうぜいだい站酌しつらえはくかつおもねかつあがかく,以四そんこうろく畀回じんおもねかつくらしゃ哈喇すななんじがらすかずおけ文武ぶんぶ吏。みなとくむねぎょうひろ以回ひらめ圖形ずけいむらさきひかりかくじゅうはちねん太子たいしふとし。”
  24. ^ 清史きよし稿こうこう註 ,7さつ191かん ,5797
  25. ^ みんこく·ちょうなんじたつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき313):“じゅうきゅうねんいのち福建ふっけん提督ていとくつかまつ厦門あもい洋行ようこう陋規總督そうとく楊廷あきら以下いかみなとくざいしょう廷璋でんさんじゅういちねんしょ陝甘總督そうとく,旋署戶部とべ尚書しょうしょさんじゅうねん,如湖南北なんぼく讞獄。さんじゅうさんねん將軍しょうぐんあかりみずせいはるはい績,うえいのちだい學士がくしでんひさしため經略けいりゃく,授 舒赫とく さんさん大臣だいじんさき赴雲みなみ籌畫進軍しんぐん。 舒赫とく みつ疏議じゅん,忤上むね下部かぶだつかんなみそぎくもじょうしょくいのち以都すべ銜參さん大臣だいじんちゅうがらす。”
  26. ^ 清史きよし稿こうこう註 ,7さつ183かん ,5408-5410
  27. ^ きよし實錄じつろくこう宗純そうじゅん皇帝こうてい實錄じつろく ,981かん
  28. ^ 國史こくし列傳れつでん ,5かん ,208
  29. ^ みんこく·ちょうなんじたつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき313):“さんじゅうろくねんなんじ扈特あせ渥巴すずとうにわか斯來,眾疑其偽くだ, 舒赫德力とくりきしろこころざしいのち如伊すき宣撫せんぶひろ授伊すき將軍しょうぐん十一月じゅういちがつ,授戶尚書しょうしょさんじゅうはちねん太子たいしふとしたもて,授武英たけひで殿どのだい學士がくし九月くがついのち如江みなみかん黃河こうがろう壩口隄工。ことぶきちょうみんおうりん叛,やぶ臨清,いのちとくしん剿,克之かつゆきりん燔死。たまもの雙眼そうがん孔雀くじゃく翎,ふくくもじょうしょく,賚貂かんむりくろきつね褂。よんじゅういちねん金川かながわひらめ圖形ずけいむらさきひかりかくはつ, 舒赫とくためすき將軍しょうぐん舒寧在京ざいきょうつえやつとくざいうえいのちはつすき交 舒赫とく 約束やくそく。及是,また以爭すす礦為山東さんとうみんしょ訟, 舒赫とくばく舒寧おく刑部おさかべ,疏請ざい下部かぶだつかんいのち寬之ひろゆきよんじゅうねんよんがつそつおくふとたもておくりなぶんじょうまつ賢良けんりょうほこら。”
  30. ^ あいしんさとしはじめ》3さつかぶとさんだい1365ぺーじ. 
かん
前任ぜんにん
はんだい
清朝せいちょう兵部ひょうぶ滿まん尚書しょうしょ
いぬいたかしじゅうさんねんじゅうがつへいいぬ - いぬいたかしじゅうさんねんじゅういちがつかのえたつ
1748ねん11月25にち - 1749ねん1がつ18にち
つぎにん
瑚寶
前任ぜんにん
いんつぎぜん
清朝せいちょう戶部とべ滿みつる尚書しょうしょ
いぬいたかしじゅうさんねんじゅういちがつかのえたつ - いぬいたかしじゅうよんねんじゅうがつからし
1749ねん1がつ18にち - 1750ねん1がつ24にち
つぎにん
うみもち
前任ぜんにん
哈達哈
清朝せいちょう兵部ひょうぶ滿まん尚書しょうしょ
いぬいたかしじゅうよんねんじゅうがつからし - いぬいたかしじゅうきゅうねんなながつ丙午ひのえうま
1750ねん1がつ24にち - 1754ねん9がつ15にち
つぎにん
はんだい
前任ぜんにん
でんもり
清朝せいちょう兵部ひょうぶ滿まん尚書しょうしょ
いぬいたかしじゅうねんがつおつとり - いぬいたかしじゅうねんさんがつからし
1757ねん4がつ11にち - 1757ねん5がつ7にち
つぎにん
哈達哈
前任ぜんにん
おさめ扎勒
清朝せいちょうこう滿まん尚書しょうしょ
いぬいたかしじゅうさんねんじゅういちがつ丁未ていみ - いぬいたかしじゅうろくねんなながつからしうし
1758ねん12月24にち - 1761ねん8がつ4にち
つぎにん
おもねかつら
前任ぜんにん
鄂彌たち
清朝せいちょう刑部おさかべ滿みつる尚書しょうしょ
いぬいたかしじゅうろくねんなながつからしうし - いぬい隆三りゅうぞうじゅうさんねんがつへいいぬ
1761ねん8がつ4にち - 1768ねん4がつ14にち
つぎにん
たくいさお
前任ぜんにん
なんじ
清朝せいちょう戶部とべ滿みつる尚書しょうしょ
いぬい隆三りゅうぞうじゅうろくねんじゅういちがつちょう - いぬい隆三りゅうぞうじゅうはちねんなながつ甲子きのえね
1771ねん12月16にち - 1773ねん8がつ24にち
つぎにん
おもねかつら
前任ぜんにん
ゆたかぶく
清朝せいちょう武英たけひで殿どのだい學士がくし
いぬい隆三りゅうぞうじゅうはちねん - いぬいたかしよんじゅうねん
1773ねん - 1777ねん
つぎにん
おもねかつら