巨人のV9時代を投手として支えた倉田誠(くらた・まこと)さんが7日午前7時30分、心不全のため川崎市の自宅で死去した。75歳。東京都出身。葬儀は近親者で行った。喪主は妻・郁子(いくこ)さん。1965年に巨人に入団。73年に18勝(9敗)を挙げて最高勝率のタイトルを獲得し、この年達成した9連覇の立役者の一人となった。77年からヤクルトでプレーし、78年の球団初のセ・リーグ優勝にも貢献した。
巨人の黄金期に活躍した名投手が亡くなった。倉田さんは当時のプロ野球選手としては長身の185センチから投げ下ろす速球投手として65年、神奈川・鶴見高から入団。当時は無名で、川上監督ら首脳陣の見守る中、テストを受け採用された。球は速いが、体力がついておらず入団当初の50メートル走に8秒6かかったというエピソードもあった。
入団当初から「堀内が速球投手、倉田は豪球投手」と言われる球威で68年、イースタン・リーグで2試合連続1安打完投。同年終盤には1軍で6勝挙げたものの、制球難に加え、肝臓を患って長期入院したり、右肘尺骨骨折などもあって1軍定着には時間がかかった。
73年、不調だったキャンプで2軍落ちを命じられると、中尾碩志2軍監督から「少し横から投げるようにしてみないか」と進言された。オーバーハンドからやや腕を下げるフォームに変えると、直球の制球が良くなり、決め球のフォークボール、チェンジアップなどがさえわたった。
前半戦はリリーフだったが、後半戦は先発ローテーションの柱となって5連続完投含む8連勝。8月以降だけで12勝(5敗)した。チームは0・5ゲーム差で迎えた阪神との最終戦に勝ち、9連覇を達成。倉田さんは18勝9敗で、勝率・667はリーグ最高だった。左のエース・高橋一三が23勝(13敗)を挙げたが、堀内恒夫が12勝(17敗)と苦しむ中、72年まで通算20勝(最多は68年の6勝)だった背番号17の飛躍なくしてV9は成し遂げられなかった。
日本シリーズ第2戦は6回0/3を2失点、第5戦は6回2/3を1失点で勝利投手。巨人は堀内、高橋、倉田さんの3投手だけで南海を4勝1敗で退けた。
その後は再び故障に泣き、77年に浅野啓司との交換トレードでヤクルト入り。78年、5勝4セーブでチーム初のセ・リーグ優勝に貢献した。80年限りで現役を引退した。
プライベートでは、同期入団の高橋が女優・橘和子と結婚したことで、その縁で同じく女優で橘の姉の姿美千子=写真=と71年に結婚。2人は義理の兄弟として知られた。
81年から渉外担当として巨人のフロント入り。広報担当補佐、1軍マネジャー、運営部長などを歴任。国際部部長時代には韓国・趙成ミン投手の獲得に尽力した。ユニホームを脱いでからも定年までフロント業務という裏方で長く巨人を支えた。
◆倉田 誠(くらた・まこと)1946年6月3日、東京都生まれ。65年、神奈川・鶴見高から巨人に入団。68年に6勝を挙げ注目を集める。73年に18勝9敗で最高勝率のタイトルを獲得し、V9に貢献。77年にヤクルトに移籍し、78年に球団初のセ・リーグ優勝に貢献。80年に現役を引退後は巨人のフロント入りした。185センチ、83キロ(現役時)。右投右打。