播磨(兵庫県南西部)出身の戦国武将、黒田如水(
孝高
)。官兵衛の名でも知られる豊臣秀吉の軍師で、千利休の屋敷跡に近い上京区如水町に屋敷跡が残る。如水町の南側は、旧姓「小寺」にちなんだ小寺町だ。
如水が没した伏見。嫡男長政の屋敷もこの辺りにあったと伝わる(伏見区で)
軍事面で名高い如水だが、茶の湯については
定書
で「我流ではなく利休流」と教えを請うたことを強調し、親交の深さがうかがえる。
「孝高
之
を嫌ひて、勇士の好むべきことにあらず」「主客無刀になり、狭き席にこぞり座し、甚だ不用心なり」。幾多の戦場をくぐり抜けてきたからだろうか、逸話集「名将言行録」では「丸腰」で臨む茶の湯に当初、懐疑的な目を向けていたと記される。それから、秀吉に「茶室なら疑念を招かず、2人で密談ができる」と諭されたのを機に、その世界に引き込まれたとされる。
如水が没した伏見。嫡男長政の屋敷もこの辺りにあったと伝わる(伏見区で) 「黒田官兵衛」の著書がある諏訪勝則さん(57)は「茶の湯は連歌と並んで教養人の社交の場。たしなまないとリーダーとしての格も落ちた」と指摘する。
一説には秀吉から「次の天下人」とまで言われた如水だが、主君から出たその言葉を警戒してか、九州に所領を得てから早々に嫡男長政に家督を譲り、茶の湯や連歌を深めた。利休の死から2年後の1593年には出家して如水を名乗り、倹約を是としたという。
諏訪さんは、徳川の世に移った後にも注目し、「幕府に細心の注意を払っていた。政治よりも文化を重んじる家風だと印象づける狙いもあったはず」と語る。
1604年、如水は屋敷があった伏見で死去。キリスト者として知られたが、茶の湯と関わりの深い京の寺にも墓所がある。
如水の名の由来は諸説あるが、司馬遼太郎は小説「播磨灘物語」で、「身は
褒貶毀誉
の間に在りと
雖
も心は水の
如
く清し」「水は方円の器に
随
う」の古語を挙げた。戦場の
喧騒
の対極にある
静謐
な茶の世界に浸ることで、その境地を深めていったのだろうか。(坂木二郎)(おわり)