東京湾で試運転中の空母信濃(大和ミュージアム提供)
信濃艦長の阿部俊雄大佐
今も大切に保管されている大佐の遺品(阿部俊英さん提供)
戦時中の1944年11月に横須賀海軍
工廠
で建造された当時世界最大の空母「信濃」が、初航海で米潜水艦の攻撃を受け、和歌山県潮岬沖で沈没してから29日で80年となった。戦争体験の伝承が年々難しくなる中、遺族ら関係者は歴史の風化が進むことに胸を痛めている。(光尾豊)
遺族ら沈痛 遺品保管歴史後世へ
信濃は旧日本海軍の象徴だった大和型戦艦の3番艦として、40年5月に起工した。42年6月のミッドウェー海戦で主力空母4隻が撃沈され、急きょ戦艦から空母に計画変更。44年6月のマリアナ沖海戦で空母3隻を失うと、工員だけでなく兵士も動員して工期を3か月以上短縮し、同11月19日に何とか完成させた。
空襲が心配される横須賀から広島県呉市への回航が決まり、11月28日午後1時32分、護衛の駆逐艦3隻とともに出港した。搭載する航空機はなく、レイテ戦に投入するために開発された特攻専用機「桜花」を50機載せていた。
日米の戦闘記録によると、信濃は敵に発見されるのを防ぐため、夜を待って太平洋に出たが、翌29日午前3時17分、米潜水艦「アーチャーフィッシュ」の魚雷4発を右舷に受け、初出港から約21時間後の同10時57分、和歌山県潮岬沖で転覆、沈没した。
荒れる海に投げ出された乗員は1080人が駆逐艦に救助されたが、791人が亡くなった。基準排水量6万2000トン、全長266メートルの巨艦が4発の魚雷で沈んだ事実を重く見た海軍軍令部は同年12月、「S事件調査委員会」を開き、生存者や工廠の技術者から事情を聞いた。報告書は終戦直後に処分され、結論は現在も不明のままだ。
信濃と運命を共にした艦長・阿部俊雄大佐の孫、俊英さん(57)(東京都渋谷区)は「信濃を描いた本などで『沈没は艦長の過信や判断ミスが原因』とされるケースがあり残念だ」と気持ちを吐露する。艦長としての責任はもちろんある。だが、「駆逐艦3隻だけで戦闘機の護衛はなし。多数の敵潜水艦がいる太平洋に出て、万一うまくいけばラッキーという軍令部の作戦は粗雑だ」と言う。
俊英さんは祖母の喜代さん(1992年に89歳で死去)から、無謀な命令を受けて死を覚悟した祖父が出撃前、鎌倉の家で軍の書類を燃やしていたことや大通りに出るとき、いつもと違い祖母を振り返らなかったことなどを聞いていた。
自宅には祖父の勲章や礼装に付ける肩章、喜代さんが大切にした軍服のボタンなどが保管してある。興味がある人に見てもらい、遺品を通じて戦争の歴史を残したいと考えるが、若い世代は関心がないと感じることも多くなった。
駆逐艦に救出され、九死に一生を得た元乗員の岩瀬栄さん(2021年に94歳で死去)(横須賀市)は戦後、元乗員や遺族でつくる「信濃思い出の会」の世話人を務めた。妻の光さん(91)は「戦友が死んで自分は生き残った。何かしないとつらかったのでしょう」と推し量る。
父の安人さん(当時33歳)を失った池上武さん(83)(仙台市)によると、思い出の会は高齢化が進んで会合の出席者が減り、岩瀬さんが「元気なうちにけじめをつけたい」と他の会員に諮った上で、信濃の命日にあたる2015年11月29日の集いを最後に解散した。
光さんは昨年、三男に連れられて参拝した靖国神社で「(夫は)今は肩の荷が下り、戦友と一緒にこっちを見ているようだ」と感じた。時代の流れは否めないが、「体力が続く限り、夫や皆さんの
冥福
を祈り続ける」と気持ちを奮い立たせている。