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朝霧 裕「バリアブレイク!!――利用者/介助者の新たな形と再評価についての模索」
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朝霧あさぎり ひろし「バリアブレイク!!――利用りようしゃ介助かいじょしゃあらたなかたちさい評価ひょうかについての模索もさく

障害しょうがい学会がっかいだいかい大会たいかい報告ほうこく要旨ようし 於:立命館大学りつめいかんだいがく
20090927


報告ほうこく要旨ようし
 朝霧あさぎり ひろし
 「バリアブレイク!!――利用りようしゃ介助かいじょしゃあらたなかたちさい評価ひょうかについての模索もさく

  利用りようしゃ主体しゅたい尊重そんちょうする介助かいじょ現場げんば一部いちぶ介助かいじょしゃ手足てあしろん」とばれる、利用りようしゃ介助かいじょしゃ関係かんけいせいがある。
  「介助かいじょしゃ手足てあしろん」を介助かいじょしゃ教育きょういく主体しゅたいとする現場げんばでは、介助かいじょしゃたちは、「いかなるときも、利用りようしゃ意思いし決定けっていもとうごくこと」をとく信条しんじょうとし、「まち共通きょうつういにはなしかけられても、『おはよう』などの挨拶あいさつなどもふくめ、介助かいじょしゃは、くちかなくてい」「ヘルパー資格しかくっていても、仕事しごと以外いがい場所ばしょ友人ゆうじん関係かんけいのある場合ばあいは、いにならぬよう、介助かいじょはいってはいけない」など、事業じぎょうしょごとのいくつかのルールにもとづいて、利用りようしゃ関係かんけいせいつくってゆくことがおおい。
  「介助かいじょしゃ手足てあしろん」としょうされる関係かんけいせいおおくが、夜勤やきんまりをふくむ、利用りようしゃ介助かいじょしゃが1たいせいの、利用りようしゃ介助かいじょしゃせっする時間じかんおお滞在たいざいがた介助かいじょ現場げんばもとめられる。   また、1たいせい介助かいじょとはぎゃく介助かいじょ仕組しくみとして、一人ひとり介助かいじょしゃ短時間たんじかんいくにんもの利用りようしゃいえまわ巡回じゅんかいがた介助かいじょもある。こちらの場合ばあいにも、利用りようしゃせっする時間じかん短時間たんじかんのため、「介助かいじょしゃ利用りようしゃ指示しじ沿ってうごく」という以外いがいの、たい個人こじんとしての会話かいわまれにくい。介助かいじょしゃ手足てあしろん否定ひていをしないじょうで、「利用りようしゃ介助かいじょしゃが、外出がいしゅつ社会しゃかい参加さんかふく日常にちじょう生活せいかつ時間じかん共有きょうゆうするなかで、それぞれの立場たちばから、ともにかんがえ、ともにかんじ、『ひととしてのこえ』を、社会しゃかいはっすることができるような、利用りようしゃ介助かいじょしゃであり、障害しょうがいしゃ健常けんじょうしゃ、という呼称こしょうに捉われない、利用りようしゃ介助かいじょしゃあらたな関係かんけいせいが<あってもい>のではないか。」という疑問ぎもんから、介助かいじょしゃ利用りようしゃあらたな関係かんけいせい社会しゃかいてき役割やくわり模索もさくします。
  介助かいじょという職業しょくぎょうは、物理ぶつりてきいだかかえなどの動作どうさ以上いじょうに、おおくの時間じかんを「ひとい、せっする職業しょくぎょう」という意味いみで、「11ねん連続れんぞく国内こくない自殺じさつしゃまんにん」「国内こくないにうつびょう患者かんじゃすうは250まんにんから600まんにん人口じんこうの3〜5%)」など、ひとひととのいの深刻しんこく不足ふそくしている現代げんだいにおいて、<ひとひととのしんのつながりの大切たいせつさ>をつめなおすヒントをたしかに内包ないほうしているとかんがえます。『このくにになくてはならない職業しょくぎょう』として、『介助かいじょ』という職業しょくぎょう特色とくしょくである<ひとせっする仕事しごと>という本質ほんしつ価値かち社会しゃかいなかさい評価ひょうかされることをねがい、24あいだ介助かいじょけて生活せいかつをする当事とうじしゃ立場たちばから、生活せいかつ様子ようす、スライド写真しゃしんなどももちいて、「これからの時代じだい利用りようしゃ介助かいじょしゃ関係かんけいせい」、また、「ひととして、こころゆたかにきること」への考察こうさつを、介助かいじょしゃ立場たちばからの意見いけんれながら発表はっぴょうします。

報告ほうこく原稿げんこう

<バリアブレイク!!〜利用りようしゃ介助かいじょしゃあらたなかたちさい評価ひょうかについての模索もさく〜>

 皆様みなさまこんにちは。わたし名前なまえは、朝霧あさぎり ひろしもうします。今日きょうはおはなしを、4つにわけてはなします。
では、どうぞよろしくおねがいたします。

1・自己じこ紹介しょうかいをします。
 わたしは、さいたま女性じょせいで、まれつき、ウエルドニッヒ・ホフマンしょうという難病なんびょうっています。進行しんこうせい筋肉きんにく難病なんびょうで、つこと、あるくこと、おもいものをげるなどができず、筋肉きんにく発育はついくしてゆかないというものです。そのため、生活せいかつには24あいだ介助かいじょ必要ひつようとします。具体ぐたいてきにはどういうことかというと、着替きがえ、トイレ、お風呂ふろ食事しょくじ支度したく洗濯せんたく外出がいしゅつよるにベッドで寝返ねがえりをつ、などなど。いちにち動作どうさ介助かいじょ必要ひつようで、その生活せいかついちねん365にちつづけます。ですから、わたし物理ぶつりてき動作どうさ一挙一動いっきょいちどう指示しじわたしこえと、介助かいじょしゃ実際じっさいうごきとは、「あ・うんの呼吸こきゅう」で、連動れんどうしています。
 そして、そのうえで、日頃ひごろなにをやっているかというと、全国ぜんこく学校がっこうや、まちをまわって、講演こうえん活動かつどうをしたり、うたうたうので、コンサートに出演しゅつえんしたり、表現ひょうげんつうじて、えるもの、しんかんじるものをつたえる役目やくめをしています。うしろの、しろいワンピースで舞台ぶたいうたっている写真しゃしんは、コンサートのときのものです。むらさき帽子ぼうしにミニスカートのくろいワンピース、コーラスをっている女性じょせい親友しんゆうえんちゃん。介助かいじょしゃでもあり、音楽おんがく仲間なかまでもあります。
 ですが、今日きょうは、音楽おんがくコンサートのおはなしがおもではありません。
 私生活しせいかつなかで、いま、ひとりの女性じょせいとしておもうことをおはなしします。
まず、私生活しせいかつ場面ばめんでは、生活せいかつ様子ようすおおやけはなすと、
「365にち他人たにんとなり部屋へや寝泊ねとまりする生活せいかつは、使つかってづかれませんか」とよくわれます。
 それはもちろん、そんなもあります。が、つかれるもあることは、介助かいじょしゃもまたおなじですから、介助かいじょしゃ利用りようしゃ「どちらか一方いっぽうだけがつね他方たほう使つかつづけている」とか「どちらか一方いっぽうだけが、自分じぶん感情かんじょうころして、嫌々いやいや、その共有きょうゆうしている」ということでは、すくなくともでは、介助かいじょしゃ利用りようしゃ一対一いちたいいちせいですから、精神せいしん衛生えいせいじょう、もう生活せいかつちません。
 また、わたしは、公私こうしともに、今日きょうしかり、本当ほんとうそとるのがきなのです。ならば、せっかく、介助かいじょしゃも、色々いろいろ場所ばしょへ、常々つねづねどもくのですから、利用りようしゃ介助かいじょしゃ、それぞれの経験けいけんからた、「なかまだまだバリアフルだとおもうこと」を、一緒いっしょこわしてゆけるような、<おな時代じだいきる仲間なかま同士どうし>になれたらいいね?というのが、わたし介助かいじょしゃとのかかわりの根底こんていにあるおもいです。

2・今日きょう、まず、ここでつたえたいこと。
 さて、みなさまにおきします。この現代げんだいなかはバリアフリーになったでしょうか。
 たくさんのことが、20ねん、30ねんまえむかしくらべれば、素晴すばらしくわりました。まちのアクセスも、介助かいじょ保障ほしょうも、「病院びょういん施設しせつくのがたりまえ」とされていた障害しょうがいひとかたも、1980ねん〜90年代ねんだいくらべれば、かく時代じだい当事とうじしゃ運動うんどう先駆せんくしゃたち尽力じんりょくで、としうごとに、多様たようをしてきました。
 けれども、だからとって、当事とうじしゃやそのオーディエンスが主張しゅちょうをせず、「むかしよりは、はるかに生活せいかつをしやすくなったのだから、ある程度ていどはガマンや妥協だきょう範囲はんい時代じだいになったね。」と、「よろこんでいても、もう大丈夫だいじょうぶ」な時代じだいたしていまでしょうか。
 いつのも、その時代じだい時代じだいあたまをもたげてくる問題もんだいがあります。そして、時代じだいごとの問題もんだい根本こんぽんが、じつは、“おなじ”というところからすこしも脱却だっきゃくしていないのではないか、とふとおもときわたしは、恐怖きょうふかんじます。
 ALSをはじめとする、知的ちてき障害しょうがいはないけれども、発声はっせいゆびさしなどの「意志いし表示ひょうじ」が不可能ふかのうとなる難病なんびょう当事とうじしゃをめぐる“尊厳そんげん”の問題もんだい、。母親ははおや体内たいないにいるうちに、障害しょうがいってまれてくることがほどけすじ疾患しっかんや、自閉症じへいしょうなどの子供こどもたちをめぐる出生しゅっしょうぜん治療ちりょう問題もんだい
 わたし難病なんびょうも、出生しゅっしょうぜん治療ちりょう対象たいしょうになります。
 尊厳そんげんも、出生しゅっしょうぜん治療ちりょうも、どちらもが、「重度じゅうど障害しょうがいっているがゆええらぶ(出生しゅっしょうぜん治療ちりょう場合ばあいは、自己じこ選択せんたくではなく、親御おやごさんの意思いしによってのみえらばされる)」という、障害しょうがい当事とうじしゃからたら、とんでもなくがた問題もんだいはらんでいます。
 「障害しょうがい重度じゅうどしたら、んだほうがしあわせ」でしょうか。
 「障害しょうがいは、まれてこないほうがしあわせ」でしょうか。
 身体しんたい知的ちてきなどの種類しゅるいわず、おおくのひとが<障害しょうがいつこと>にたいしてネガティブイメージをいまだにつのは、
 「ひとりてまできるなんてもうわけない」
 「介助かいじょりょうまかなっているのは公費こうひであり、はたらける人々ひとびと税金ぜいきんかされているなんてもうわけない」
 という、物理ぶつりてき不自由ふじゆうさと、医療いりょう介護かいごりょう自分じぶん以外いがい労働ろうどうしゃ税金ぜいきんまかなわれていることへのひとにも、モノにも、制度せいどにも、
 「できるかぎりは、世話せわにならないで、生活せいかつできるほうがい」
 とする、このくに何故なぜ非常ひじょう根強ねづよい、<差別さべつ意識いしき美徳びとく意識いしき>が絶妙ぜつみょうからったような、日本人にっぽんじん特有とくゆう意識いしきてき背景はいけいがあるからではないかとわたしおもっています。
 「介助かいじょしゃたよるよりも、できるかぎりは、なにごとも自力じりきでできたほうい」
 「電動でんどうくるまいすにるよりも、手動しゅどうくるまいすをこげるほうがい」
 など、<障害しょうがいのないひと身体しんたいてき状態じょうたいが、精神せいしんせいまでをふくめた、人間にんげん優劣ゆうれつ基準きじゅん>であるかのような、過度かどのリハビリ思想しそうも、すこしずつ変化へんかをしてはいても、わたししん世代せだい方々かたがたにはまだとてもつよいものです。
 また、 わたしふくめて、重度じゅうど障害しょうがいひとおおくは、「労働ろうどうしゃとして、障害しょうがいのないひとおなじだけの社会しゃかいてき生産せいさんせいがあるのか」という「社会しゃかい全体ぜんたい合理ごうり」の視点してんからたら、かずはやさの勝負しょうぶでは、社会しゃかいてき生産せいさんせいとぼしい、もしくはひとだい多数たすうです。
 ですから、
 「これでもむかしくらべたら、はるかに生活せいかつがしやすくなった<だけでもありがたい>」というところで、つたえることをめてしまうと、先達せんだつ方々かたがたが、必要ひつようとあらば厚生こうせい労働省ろうどうしょうすわみをしたり、階段かいだんしかない全国ぜんこくえきや、路線ろせんバスのルートにくるまいすでしていって、
 「わたしたちも、病院びょういん施設しせつ地域ちいきらす権利けんりがあるんだ!!
 公共こうきょう電車でんしゃ路線ろせんバスに権利けんりがあるんだー!!」
 と日々ひびこえげ、きる権利けんりってきた歴史れきしうえに、現在げんざいわたしらしもあるというのに、はやさやおかね合理ごうりせい利便りべんせいおもきを現代げんだい社会しゃかいだからこそ、
 「障害しょうがいしゃは、健常けんじょうしゃおなじようにはたらけないのにもかかわらず公費こうひ使つかってきている、くににとって世話せわのかかるやっかいしゃ
 として、<排除はいじょされるがわいのち>にまわされてしまう一抹いちまつ可能かのうせいがあるわけです。
 しかし、
「なぜ、障害しょうがいのない状態じょうたいを<状態じょうたい>、障害しょうがいのある状態じょうたいを<わる状態じょうたい>とおもわされなければならないのか?」
ということを、障害しょうがい当事とうじしゃとしてのわたし紐解ひもとかなくてはいけないし、障害しょうがい当事とうじしゃにとってもっとも身近みぢか健常けんじょうしゃである、介助かいじょしゃ友人ゆうじんたちなどのオーディエンスが、間違まちがっても、
 「障害しょうがいのあるあかちゃんだったら、もかかるしおかねもかかるから、まれてこないほうがいいよね?」
 なんてわないでも大丈夫だいじょうぶな、なかせる使命しめいがあります。
 わたしはウエルドニッヒ・ホフマンしょうっていますが、まれてきて、きることができて、とてもよかった。
 とてもしあわせで、きていることがたのしい。もちろん、物理ぶつりてき不自由ふじゆうもあるけれども、家族かぞく介助かいじょスタッフ、友人ゆうじんたちと、必要ひつよう知恵ちえちからわせれば、困難こんなん解決かいけつできることのほうがおおいのです。
 ですから、だれもが、年老としおいて自力じりきのみで身動みうごきがれなくなったときにこそ、
 「尊厳そんげんきでにましょう?!」
 とわれるのではなく、
 「最後さいごのひとにちまできましょう!!」
 と、最期さいごまで、あるがままを肯定こうていされたなかで、人生じんせいまっとうできるような社会しゃかいせたい。
 今後こんご自分じぶん障害しょうがい進行しんこうつづけていっても、精神せいしんてきにはアクティブにきていたいし、にたくはないし、まして、ころされたくはない。
 そしてまた、もしも、自分じぶん母親ははおやで、あかちゃんがわたしおな障害しょうがいっていることがわかったら、
 「残念ざんねんですが、お子様こさまには、おも障害しょうがいが… …」
 と、まれるまえからすえのようなくら―いごえで、「残念ざんねん」とわれるのではなく、
 「ラッキーですね!!個性こせい際立きわだ人物じんぶつそだちますよ!」
 くらいのことは、お医者いしゃさまがってくれるような、社会しゃかいづくりに寄与きよしたい。これが、わたし人生じんせいなかでずっとかんがえてきたことです。

3・歴史れきしをちょっとだけ紐解ひもときます。
 そもそも「障害しょうがい不幸ふこう」というかんがかた非常ひじょうふるく、障害しょうがいしゃ運動うんどう歴史れきしなどをあつかほんでは、外国がいこくではだい世界せかい大戦たいせんの、かのナチスドイツの事例じれい度々たびたびげられます。だい世界せかい大戦たいせんおり、ヒトラー総統そうとうひきいるナチスドイツぐんは、自分じぶんたちドイツじんこそ民族みんぞくよりもすぐれた民族みんぞくであるとのかたよった思想しそうもと、ユダヤじんをはじめとする民族みんぞく大量たいりょう虐殺ぎゃくさつしました。が、そのときの、大量たいりょう虐殺ぎゃくさつのためのどくガスの使用しよう実験じっけんなどを、民族みんぞくたいしておこなうよりもまえに、自国じこく身体しんたい障害しょうがいしゃ知的ちてき障害しょうがいしゃたいしてったとわれています。そのかずじつに30まんにんにもたっし、そのきっかけとなったのは、障害しょうがいつひとりの母親ははおやが、政府せいふ要人ようじんてていたいちつう手紙てがみであったといます。
 そこにはこんな文章ぶんしょうがありました。
 『わたし子供こどもは、あしたず両手りょうてともかず、長年ながねんたきりの生活せいかつです。このにとって、きていることがなにになるんでしょう。こののために、わたしたち夫婦ふうふ将来しょうらいは、まっくらです』
 これは、「障害しょうがいしゃころしても存在そんざいである」と、歴史れきしてき肯定こうていをされてしまった、あまりにもかなしい事例じれいです。
 そして、結果けっか、30まんにん障害しょうがい人々ひとびとと、100まんにんえる、ドイツじんではない民族みんぞく人々ひとびと大量たいりょう虐殺ぎゃくさつ犠牲ぎせいになるのですが、こんなかたるもひどいような出来事できごとの「きっかけ」を、たった一人ひとり人間にんげんいた1つう手紙てがみ、そのなかかれた『あいだちがったメッセージ』が、になった、ということは、着目ちゃくもくすべき事実じじつです。
 日本にっぽんでは、昭和しょうわ45ねん西暦せいれき1970ねん)に、脳性のうせい麻痺まひむすめ母親ははおやが、介助かいじょ制度せいど皆無かいむなか家族かぞく介護かいごにし、エプロンのひもくびめてころしたとする「袴田はかまだ美保子みほこちゃん殺害さつがい事件じけん」が、当時とうじ介護かいご制度せいど介護かいごじん圧倒的あっとうてき不足ふそく、また、障害しょうがいしゃをめぐる周囲しゅうい人々ひとびとの「意識いしき問題もんだい」をりにする事件じけんとして、障害しょうがいしゃ運動うんどう転機てんきとなっています。
 この事件じけんでは、「むすめ殺害さつがいした」という事実じじつ以上いじょうに、マスコミなどをつうじ「介護かいごにして」という母親ははおや心理しんりてき背景はいけいたいする世論せろん同情どうじょうあつまり、本来ほんらい事件じけんせいよりも、つみ軽減けいげんされたという事態じたいこりました。
 わたし当時とうじをリアルタイムではりませんが、この事件じけんを、「他人事たにんごと」ではなく「障害しょうがい当事とうじしゃとしての、自分じぶんのこと」としてとらえた、脳性のうせい麻痺まひをもつ当事とうじしゃ方々かたがたが<あおしばかい>を結成けっせいのちに、どう事件じけんをきっかけにして、障害しょうがいしゃ運動うんどうともあゆんだ半生はんせいつづり『ははよ!ころすな』という名著めいちょのこされた横塚よこつか晃一こういちさんや、全国ぜんこく各地かくちへとひろがってゆく障害しょうがいしゃ運動うんどう先駆さきがてき人々ひとびと排出はいしゅつしています。
 また、昭和しょうわ20年代ねんだい西暦せいれき1940年代ねんだい)から昭和しょうわ50年代ねんだい西暦せいれき1980年代ねんだい)には、障害しょうがいひとは、すじ疾患しっかんなどの専門せんもん病棟びょうとうがある病院びょういん長期ちょうき入院にゅういんをするか、施設しせつ入所にゅうしょするしからす場所ばしょがないような時代じだい背景はいけいにして、身体しんたい知的ちてき障害しょうがい女性じょせい子宮しきゅう摘出てきしゅつ手術しゅじゅつなども、入所にゅうしょ施設しせつ独断どくだんおこなわれていました。
 1979ねんまれのわたしには、みみうたがうようなことですが、日本にっぽんには、1948ねんから1996ねんまで、前述ぜんじゅつのドイツの思想しそうのような『優生ゆうせい保護ほごほう』という法律ほうりつ存在そんざいしました。
 『優生ゆうせい保護ほごほう』には、「遺伝いでんせい疾患しっかん、ハンセンびょう遺伝いでんせい疾患しっかん以外いがい精神せいしん薄弱はくじゃく精神病せいしんびょうをもつ患者かんじゃたいする断種だんしゅ」がさだめられ、1996ねんに、障害しょうがい当事とうじしゃへの強制きょうせいてき優生ゆうせい手術しゅじゅつかんする条文じょうぶん削除さくじょされるまで、「強制きょうせいてき優生ゆうせい手術しゅじゅつ」は1まん6せんけん、その7わり女性じょせい中絶ちゅうぜつ子宮しきゅう摘出てきしゅつ手術しゅじゅつでした。書類しょるいじょう同意どういうえとされる手術しゅじゅつは80まんけん以上いじょうとされています。
 まれてくることを否定ひていされた子供こどもたちのなかに、ウエルドニッヒ・ホフマンしょうはいたのか。きんジストロフィーの脳性のうせい麻痺まひ自閉症じへいしょうは、、、。
 どんなにか、まれたかったにちがいない。
 このまれて、おとうさんとおかあさんのうできしめてもらいたかったにちがいない。
 わたしは、しんからそうしんじています。

 4・未来みらい希望きぼうつたえます。
 「障害しょうがいしゃ運動うんどう歴史れきしかたほんんでいると、やっと、ほんとうにやっと、『優生ゆうせい保護ほごほう』が廃止はいしになって、障害しょうがい女性じょせい強制きょうせいてき子宮しきゅう摘出てきしゅつされたり、あかちゃんを中絶ちゅうぜつさせられたり、、、という時代じだいから、人間にんげんとしてかたえらぶことが可能かのうな、現代げんだいになったことがほどける。なのに、どうしていままた『障害しょうがい重度じゅうどしたらにますか/にませんか』とか、『あかちゃんが障害しょうがいっていたらみますか/みませんか』ということを、やっているんだろう。これでは、『優生ゆうせい保護ほごほう』はなくなっても、障害しょうがいがないほうが「い」/障害しょうがいがあるほうが「わるい・もしくは、ハッキリとわるいとはわないまでも、くはない」という、『優生ゆうせい思想しそう』が、人々ひとびと意識いしきなかにはのこっていて、根本こんぽんなにわっていない。『障害しょうがい不幸ふこうではありませんよ?』ということへの周知しゅうちだけが、なぜこんなにもおくれているんだろう?」
 ほん発表はっぴょうように、わたしは、できるだけ現代げんだい介助かいじょスタッフたちいてみました。介助かいじょしゃは、18さいのトモちゃん、21さいのアサミちゃん、本日ほんじつ介助かいじょしゃのミワちゃんら、非常ひじょうわか仲間なかまです。
 以下いかに、介助かいじょスタッフとの座談ざだん抜粋ばっすいします。
 「まず、わたし経験けいけんでは、小学しょうがくから大学だいがくまで、クラスメイトにはくるまいすの友達ともだちがだれもいなかった。だから、学生がくせい時代じだいに、『学校がっこう友達ともだち』になれる機会きかいがなかった。たとえば、30にんのクラスで、10にんくるまいすの生徒せいとだったとか、せめて、2,3にんはいたとか、毎日まいにち日常にちじょうてきに、いれば、(ともに)いることがたりまえになる。とにかく、学校がっこうてほしい。」
 「わたし地方ちほう出身しゅっしんで、ふるさとのほうでは、くるまいすのひとを、本当ほんとうに、一人ひとりも、まちなかたことがい。いるのかな?いないのかな?施設しせつにいるのかな?というかんじ。バリアフリーになったとうけど、それは、東京とうきょうや、各地かくち都市とし都会とかいだけ、というかんじがする。地方ちほうひとも、障害しょうがいおもくても、ひとりらしができるの?」
 「朝霧あさぎりさんは、『エスカレーターや階段かいだんしかいない時代じだいくらべたら、地元じもとえきにエレベーターがついただけでも時代じだいになったよ』とうけれど、わたしは、10ねんまえ様子ようすらない。だから、わたし感覚かんかくでは、
 『え?これのどこが便利べんりなの?!』というおもいがある。とてもおおきなえきで、エレベーターはあるけれども、たとえば、北口きたぐちだけ、とか、特定とくていの1かしょにしかなくて、15ふん以上いじょうあるいたり、一旦いったんえき構内こうないからて、そと遠回とおまわりしなければならなかったり… …。階段かいだんだけのえきだって地方ちほうにはまだまだある。朝霧あさぎりさんとあるくと、『階段かいだんしかない時代じだいよりはマシとっても、くるまいすで電車でんしゃるというだけで、なんでこんなにも遠回とおまわりのみちしかないんだー!!』とおもう。『障害しょうがい不幸ふこう』ではなくても、物理ぶつりてきなことで、『ああ、やっぱり、くるまいすってこんなにも大変たいへんなんだ』とおもうことは、外出がいしゅつのたびに、たくさんある。」
 … …いまうしろにているスライドは、えきなかあるいていて、駅員えきいんさんと介助かいじょしゃ補助ほじょをしてもらい、くるまいすをななめにし、エスカレーターにっているもの。日々ひびわたしある様子ようすは、こんなかんじです。
 これは、駅員えきいんさんの補助ほじょで、電車でんしゃわたいたのような、スロープをかけて、りこむところです。
 さて、座談ざだんもどります。
 「電動でんどうくるまいすやクラッチ(つえ)のビジュアルイメージはつよいから、<物理ぶつりてき不自由ふじゆうさ>と、<だから障害しょうがいしゃってきるのが大変たいへんなんでしょう?>という精神せいしんろんとが、『ごちゃまぜ』になっているとおもう」
 「でも、すくなくとも自分じぶん世代せだいでは、障害しょうがいしゃ大変たいへんとか不幸ふこうとか、<勝手かってめつけること>は、自分じぶんたちにとっても、抵抗ていこうかんがあることで、『障害しょうがいしゃのためにやってあげる』『たすけてあげる』とか『わたしたちボランティアをやっているからえらいでしょ?』みたいな、福祉ふくし分野ぶんやかかわっていることを『ひけらかすことは、カッコわるいこと』という感覚かんかくがある。『おれたちいいことやってます〜』と、くちしてアピールするようなこと?
障害しょうがいひとたいしても、『自分じぶんたちとはちがうから』と、へだてる姿勢しせいは、『ダサイこと』という意識いしきが、いまわか世代せだいにはあるとおもう。」
 「障害しょうがいひと先入観せんにゅうかんられることがあるように、介助かいじょしゃも、『介助かいじょをやっているなんて、すごいねー』『えらいねー。そんな大変たいへん仕事しごと、よくできるねえ、わたしには、とてもできないよー』とどう世代せだい友達ともだちわれる。<白衣はくい天使てんし>、<献身けんしんてき>、みたいなイメージがあるのか?でも、わたし介助かいじょ仕事しごとを、自分じぶんがやりたくて、やっている。おおくのひとに、介助かいじょ仕事しごとを、ってほしい。」
 介助かいじょ動作どうさのみをかんがえれば、
 「わたしったことだけをサポートして、あとは待機たいきで、くちかないでください」という指示しじ仕方しかたもできますし、もしもそうであっても、介助かいじょしゃたちは、<介助かいじょという職業しょくぎょうのプロ>としてしたがってくれるでしょう。ですが、
 「ひととして、このまれ、きていることのよろこび」とは、「ひと出会であい、しんかよわせること」にあるのではないかと、わたし個人こじんは、日々ひびかんじます。
 この現代げんだい健常けんじょうしゃであっても、なにかの受難じゅなんいつめられて、みずかいのちってしまう国内こくない自殺じさつしゃは3まんにんえています。そんななかで、
 ひとが、ひととして、ありのままの、おたがいの存在そんざいを、「肯定こうてい」しあうこと。また、それができる社会しゃかいづくりのこと。それらについてかんがえ、つたえてゆくためのかくとなり精神せいしんせいを、<人間にんげん同士どうし人間にんげんせっする>という特性とくせいった、身体しんたい障害しょうがいしゃであるわたし日々ひびと、介助かいじょしょく従事じゅうじする仲間なかまたち、双方そうほうが、たしかにっていると、わたし確信かくしんをしています。
 本日ほんじつ介助かいじょのミワちゃんは、来月らいげつで、介助かいじょしょく4ねんになります。彼女かのじょは、
利用りようしゃ介助かいじょしゃべつだれでもいい、介助かいじょしゃだけうごかせばいいんだ、あなたのわりなんかだれだっているんだから、というやりかたではなく、『介助かいじょしゃとして、自分じぶんが、このひと人生じんせい一端いったんに、いま必要ひつようとされているんだ』とかんじられることで、わたしは、介助かいじょしゃというこの職業しょくぎょうに、ほこりをっています」
 と、わたしはなしてくれたことがあります。
 この社会しゃかいを、だれもが「きてきてよかった!まれてきてよかった!!」
 と、かんじられるじょうへと、えてゆくこと。介助かいじょという職業しょくぎょうを、おおくの方々かたがたってもらうこと。 
 「どんな身体しんたい、どんなしんまれても、だれもが、こころゆたかにきる」
 そんな未来みらいのために、利用りようしゃ介助かいじょしゃのこんな関係かんけいせいがあってもいのではないかとおもい、おはなしをさせていただきました。
 また、今回こんかい介助かいじょしゃたちともはななかで、障害しょうがい当事とうじしゃ手記しゅき多数たすう出版しゅっぱんをされていますが、「現役げんえき若手わかて介助かいじょしゃいたほん」が、なか非常ひじょうすくなく、介助かいじょしゃがわからのこえを、リアルタイムにいているほんがもっとあればいいな、と、かんじたことを最後さいごくわえます。
 皆様みなさまのおひとりずつもまた、おな時代じだいきる仲間なかまとして、わたしのそばに、いてくだされば、とてもしあわせです。
 ご清聴せいちょう、どうもありがとうございました。


作成さくせい
UP:20090906 REV:20090920
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