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地主 明広「意味の障害/障害の意味 ――「心」のありかと障害学」
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地主じぬし 明広あきひろ意味いみ障害しょうがい障害しょうがい意味いみ ――「しん」のありかと障害しょうがいがく

障害しょうがい学会がっかいだいかい大会たいかい報告ほうこく要旨ようし 於:立命館大学りつめいかんだいがく
20090927


報告ほうこく要旨ようし
 地主じぬし 明広あきひろ(NPO法人ほうじんそら・同志社大学どうししゃだいがく大学院だいがくいん博士はかせ後期こうき課程かてい
 「意味いみ障害しょうがい障害しょうがい意味いみ ――「しん」のありかと障害しょうがいがく

  障害しょうがいがくにおいて個人こじん社会しゃかい関係かんけいせいへの注目ちゅうもくすすむとともに、関係かんけいにおいて意味いみてき相対そうたいできないインペアメントへの注目ちゅうもくもまたすすんでいる。そこでは、インペアメントの物質ぶっしつせいと、それに社会しゃかいあたえた意味いみ区別くべつする必要ひつようわれもする。
  インペアメントの物質ぶっしつせいは、それがはじめから「いたみ」になることがさだめられているのではなく、おおくが当事とうじしゃ自身じしんによる広義こうぎの「意味いみ付与ふよひらかれているという意味いみで、相対そうたいてきなものである。ところが、みずからの体験たいけん別様べつようでもありうるものと反省はんせいてき意味いみづけることを苦手にがてとしている人々ひとびとにとって、意味いみはただそのようにしかありえないものとしてあらわれやすい。たとえば重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいしゃばれる人々ひとびとである。
  この場合ばあい当事とうじしゃによって意味いみあたえられているのは、物質ぶっしつせいとしてのインペアメントよりもさきに、世界せかいそのものである。そこで、定型ていけい発達はったつしゃによる意味いみ付与ふよとの差異さいしょうじ、インペアメントとして指摘してきされる。比較ひかくてきあたらしい支援しえん方法ほうほうはここで差異さい一方いっぽうてき解消かいしょうさせるべく、意味いみつうじた反省はんせい経由けいゆせずに、固定こていてき意味いみ生成せいせいされるように(また、ことなる意味いみ排除はいじょされるように)環境かんきょう操作そうさする。これはTEACCHに象徴しょうちょうてきである。
  ところが、これが心身しんしん二元論にげんろんてき理解りかいむすびつけば、周囲しゅうい内面ないめんとしての「しん」にインペアメントを原因げんいん帰属きぞくさせやすい。その解消かいしょうにいかなる方法ほうほう採用さいようしようとも、意味いみづける当事とうじしゃしん精神せいしん問題もんだいがあると理解りかいされるならば、定型ていけい発達はったつしゃにとって「わかりやすい」世界せかいのありかたうたがわれず、「障害しょうがいしゃのための」環境かんきょうべつ用意よういすることでわる。
 したがって、世界せかい意味いみづけることの障害しょうがいくるしむ人々ひとびと社会しゃかいてきささえるために必要ひつようなのは、優勢ゆうせいてき意味いみ社会しゃかいてき構築こうちくせい暴露ばくろのみならず、「しん」を身体しんたいから環境かんきょうへと外部がいぶしてとらえる理論りろんである。そうした理論りろん実践じっせん基盤きばんとして標榜ひょうぼうしながら、環境かんきょう操作そうさする支援しえん方法ほうほうもちいられるべきであり、ここに障害しょうがいがくが「しん科学かがく哲学てつがく」と連携れんけいするみちひらかれる。

報告ほうこく原稿げんこう

意味いみ障害しょうがい障害しょうがい意味いみ――「しん」のありかと障害しょうがいがく

NPO法人ほうじんそら/同志社大学どうししゃだいがく大学院だいがくいん社会しゃかいがく研究けんきゅう社会しゃかい福祉ふくしがく専攻せんこう博士はかせ後期こうき課程かてい
地主じぬし明広あきひろ

1.問題もんだい意識いしき
 星加ほしか(2007)は、ディスアビリティ理論りろんにおける「個人こじん」と「社会しゃかい」の二元論にげんろんてき理解りかい批判ひはんした。個人こじん外部がいぶにある社会しゃかい原因げんいん帰属きぞくさせることではディスアビリティを特定とくていできず、障害しょうがいたいする否定ひていてき評価ひょうかがもたらされる過程かていしょ要素ようそ関係かんけいせいとして理解りかいすることが必要ひつようであるとされる。
 それはディスアビリティへとつらなるかぎりにおいて、インペアメントを理論りろんちゅう包摂ほうせつしようとする。そこでは、心身しんしん差異さいやそれによる否定ひていてき意味いみづけがディスアビリティへと変換へんかんされるメカニズムを具体ぐたいてきうことができる。実際じっさいに、たとえば規範きはん理論りろんを〈重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいしゃ〉の視座しざからとらえなおすこころみもはじまっているし(田中たなか 2009)、星加ほしか自身じしんも〈制度せいどてき位相いそう制度せいどてき位相いそう〉などの区別くべつもちいて、重層じゅうそうてきなメカニズムをあきらかにしようとしている。
 その一方いっぽうで、インペアメントの体験たいけん関係かんけいせい解消かいしょうされない、という主張しゅちょうもまたなされる。田中たなか(2007)は、インペアメントを包摂ほうせつしようとする社会しゃかいモデルが知的ちてき障害しょうがいしゃ生活せいかつ困難こんなんのリアリティを捕捉ほそくできない理由りゆうとして、身体しんたいへの意味いみづけに偏向へんこうした注目ちゅうもくと、身体しんたい物質ぶっしつせいおよびそれにともなう〈いたみ〉の看過かんか指摘してきする。
 障害しょうがいしゃ経験けいけんする問題もんだい問題もんだい弁別べんべつしようとする「同定どうてい可能かのうせい要求ようきゅう」(星加ほしか)にこたえようとするならば、身体しんたい物質ぶっしつせいにおける〈いたみ〉のみをして障害しょうがいモデルのなか位置いちづけるのは困難こんなんさもあるようにおもう。それでも、当事とうじしゃにとって重要じゅうよう問題もんだいにはちがいない。たとえば近年きんねん発達はったつ障害しょうがいしゃによるおおくの著作ちょさくは、おおくがその〈いたみ〉を主張しゅちょうしているようにえる。
 〈いたみ〉をとりあげる意義いぎは、ディサビリティへと展開てんかいするよりも以前いぜんにある身体しんたい物質ぶっしつせい当事とうじしゃがどう感受かんじゅしているか、をあきらかにできるところにある。それゆえに理論りろんは〈いたみ〉を「社会しゃかい」との連関れんかんかたることをいったん留保りゅうほするだろう。また、発達はったつ障害しょうがいしゃ自身じしんによる著作ちょさくも、社会しゃかいてき支援しえん必要ひつようせいうったえることはあるとしても、おおくが社会しゃかいめはしない。
 当事とうじしゃ苦難くなん体験たいけんかたるとき、なにかの因果いんがせいについての説明せつめいふく必要ひつようはないのだから、ただ「わたしいたんでいる」という体験たいけんのみがしめされるのは必然ひつぜんてきである。そのようなことをかんがえなくても、当事とうじしゃによるかたりにみみかたむけられるだけでももたらされる〈いたみ〉の緩和かんわ解消かいしょうもあるのだから、それでよしとされるかもしれない。ただ、それだけでは解消かいしょうされない〈いたみ〉がなおものこりはしないだろうか。発表はっぴょうしゃは、支援しえんしゃとしてかかわりのある重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいしゃにとっての〈いたみ〉を想起そうきする。
 インペアメントの〈いたみ〉がしょうじるメカニズムもまた検証けんしょうされねばならない。〈いたみ〉とはどこからるのだろうか。それが「個人こじん」あるいは「身体しんたい」からであるとわれるなら、いったい「個人こじん」や「身体しんたい」とはなにのことか。そして、それはだれによってどのように認識にんしきできるのだろうか。ほん発表はっぴょうでは、とく重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいというインペアメントの〈いたみ〉の由来ゆらいについて検討けんとうすることをつうじて、その〈いたみ〉の解消かいしょう社会しゃかいてきおこなうための前提ぜんていについて考察こうさつしていく。

2.重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいの〈いたみ〉

 インペアメントの物質ぶっしつせいは、無条件むじょうけんに〈いたみ〉へとわるわけではない。おおくの人々ひとびとはプロ野球やきゅう選手せんしゅになれないことに苦痛くつうかんじないし、小説しょうせつけないことに失望しつぼうもしない。心身しんしん機能きのう差異さいゆえになにかができるものとできないものがいるのは必然ひつぜんであり、問題もんだいとなるのはそれが苦痛くつうかんじさせるかかの線引せんひきがいかにおこなわれるのか、の基準きじゅんである。
 その基準きじゅんが「社会しゃかいてき」にさだめられたものであるならば、それはもはや障害しょうがいがく軽視けいししてきたとされる〈いたみ〉としては理解りかいされない。田中たなか(2007)がしめしたように、それはあたらしい社会しゃかいモデルによってすで捕捉ほそくされているインペアメントの社会しゃかいてき構築こうちくせい、すなわち特定とくてい言説げんせつによってインペアメントにあたえられた意味いみへの着目ちゃくもくにとどまるものである、ということになる。それでは、社会しゃかいてきではない〈いたみ〉はいかに特定とくていされるのだろうか。
 まず、「社会しゃかいてき」とはなに意味いみするのか。「なにか」が社会しゃかいてき形成けいせいされている、と主張しゅちょうすることは、その「なにか」のありかた別様べつようでもありえる、ということである。「なにか」が不可避ふかひでないことがあきらかにされ、相対そうたいされうるとき、それは「社会しゃかいてき」である(「社会しゃかいせい」をもつ)とえる。社会しゃかいがくはそのような方法ほうほうこのんでもちいてきたし、社会しゃかい構成こうせい主義しゅぎ主張しゅちょうもそのように概括がいかつされることがある(Hacking 1999=2006)。
 ここで、別様べつようでもありえた「なにか」のなかにいくつかのものを区別くべつする必要ひつようわれる(立岩たていわ 2004: 338-341; Hacking 1999=2006: 48-79)。たとえば、うえしめした定義ていぎならば、なにかにあたえられた「意味いみ」「観念かんねん」が人々ひとびとによってつくられたものあることと、「なにか」に対象たいしょうとしての実在じつざいみとめたうえ周囲しゅうい環境かんきょうからの因果いんがてき影響えいきょうがあること、がいずれも「社会しゃかいてき」という言葉ことばくくられる。それぞれの社会しゃかいせいしめすことの意義いぎ方法ほうほうことなるから、両者りょうしゃ混同こんどういましめられる。
 このように「社会しゃかいせい」を理解りかいすると、なにかが社会しゃかいてきでないことをしめすために、そのなにかが物質ぶっしつてきにも意味いみてきにも別様べつようではありえない、不可避ふかひなものであることをわねばならない。そして、ほん発表はっぴょう問題もんだい意識いしきからは「なにか」に「インペアメントによる〈いたみ〉」を代入だいにゅうすることになる。インペアメントによる〈いたみ〉として「社会しゃかいてきでない」とかんがえられるものはなにだろうか。
 心身しんしん機能きのうにおけるインペアメントによって「できない」ことは、さまざまな不便ふべん劣等れっとうかんやスティグマなどをしょうじさせる。しかし、「できなさ」の認識にんしきは「できる」他者たしゃや「できた」過去かこ自分じぶん、あとすこしで「できる」未来みらい自分じぶんなどとの比較ひかくなかしょうじる。「できない」ことになやむには、「できる」ことと「できない」ことの差異さいらねばならない。だれにとってもできない、あるいは比較ひかくされないならば、「できなさ」にともないたみはしょうじない。このてんで、インペアメントによる「できなさ」にともないたみは社会しゃかいてきである。
 ただし、現実げんじつ比較ひかくすることが不可避ふかひであるならば、比較ひかくしないという選択肢せんたくしかぶことがなく、「できなさ」が社会しゃかいてきなものであるとうことは困難こんなんとなる。では、「比較ひかくすることが不可避ふかひである」という信念しんねん不可避ふかひなものでないとしたら? これはどこまでも反省はんせいてきつづけることができるのであり、「できなさ」にともなう〈いたみ〉が社会しゃかいてきであるかかの判断はんだんは、しろくろかではなく濃淡のうたんつものにならざるをえない。それでも、可能かのうかぎりにおいて社会しゃかいせい暴露ばくろしていくことが〈いたみ〉の軽減けいげん役立やくだつことはあるだろう。
 では、重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいはどうか。重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいについても、うえの「できなさ」についての説明せつめいはそのまま該当がいとうして、外部がいぶからその社会しゃかいせい指摘してきすることができる。しかし、重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいしゃ自身じしんにとって、その指摘してきは〈いたみ〉の軽減けいげん役立やくだちはしない。重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいとは、みずからの体験たいけんする世界せかい別様べつようでもありうると意味いみづけなおすことがむずかしい障害しょうがいである(なかでも自閉症じへいしょうあわ場合ばあい、その特徴とくちょうはより顕著けんちょあらわれる)。おもって換言かんげんすれば、重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいをもつ人々ひとびと世界せかいを「社会しゃかいてき」なものとして感受かんじゅするのがむずかしいとえるだろう。世界せかいは、ただそのようにあるしかないものとして意味いみづけられる。意味いみてき経験けいけんされる〈いたみ〉は、意味いみづけをあらためることで緩和かんわされうるが、ここではその方法ほうほう採用さいようするのが困難こんなんである。
 ここで、重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいというインペアメントは別様べつようではありえない〈いたみ〉をしめすことになる。たとえ、知的ちてき障害しょうがいともなおおくの〈いたみ〉が社会しゃかいてきであるとあばけたとしても、その「社会しゃかいてきであるということ」が実感じっかんできないならば、苦痛くつう緩和かんわされない。重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいは「意味いみづけることの障害しょうがい」というインペアメントであるとうことができ、それは相対そうたい困難こんなんなものとしてるぎない物質ぶっしつせいしめしはじめることになるだろう(ちゅう1)。そして、重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいの〈いたみ〉は「社会しゃかい」とははなされ、「社会しゃかい」とはことなるほかなにかに理由りゆうもとめられる。

3.「意味いみ」の由来ゆらいと「しん

 では、この場合ばあいの「意味いみづけることの障害しょうがい」が社会しゃかい由来ゆらいしないのだとすれば、それはどこからているとえるのだろうか。
 知的ちてき障害しょうがいをもつ人々ひとびとはそれぞれに世界せかい意味いみづけている。ところがその意味いみづけかた多数たすうである「健常けんじょうしゃ」「定型ていけい発達はったつしゃ」によるものとことなり、かつ意味いみづけを多数たすうわせて変化へんかさせていくことがむずかしい。この意味いみづけの差異さい契機けいきとして多数たすうは「知的ちてき障害しょうがい」というインペアメントを発見はっけんしたとしんじることとなるが、「健常けんじょうしゃ」がみずからの意味いみづけをうたがわないかぎり、インペアメントは知的ちてき障害しょうがいしゃ内部ないぶもとめられる。すなわち、健常けんじょうしゃにとってみれば、知的ちてき障害しょうがいしゃは「意味いみづけを間違まちがえている」と理解りかいされる。
 意味いみづけがことなれば、周囲しゅういとの軋轢あつれきしょうじる。そこで、多数たすう意味いみづけにわせていくことが当事とうじしゃに、あるいは支援しえんしゃもとめられるのだが、そもそも意味いみづけをやりなおすのがむずかしい障害しょうがいである。試行錯誤しこうさくごつうじてまなぶようなことはもとめられない。自閉症じへいしょう支援しえんプログラムとしてもっと有力ゆうりょくなTEACCHでは、「自閉症じへいしょうどもやひとを、治療ちりょう教育きょういくによって修正しゅうせい矯正きょうせいしようとする姿勢しせいはない(佐々木ささき正美まさみ 2008: 19)」とされる。そして、環境かんきょう意味いみをわかりやすくするために「構造こうぞう」の手法しゅほうもちいられる。構造こうぞう多義たぎてき環境かんきょう単純たんじゅんしてしめすことで、意味いみづけを特定とくてい方向ほうこうへとみちびいていく。すなわち、わかりにくい環境かんきょうをわかりやすくすることにおもきをく。
 環境かんきょうをわかりやすくする方法ほうほうは、すでにおおくの支援しえん現場げんばでも活用かつようされている。ここでは、障害しょうがい環境かんきょうとの関連かんれん理解りかいしているのだから、「意味いみづけることの障害しょうがい」はその解消かいしょうのための方策ほうさくつうじて、もう一度いちど社会しゃかい」と関連かんれんづけられていくようにおもえる。相対そうたいのできないインペアメントの物質ぶっしつせいみとめつつも、その〈いたみ〉の解消かいしょう社会しゃかい変化へんかなしにはありえない、となれば、知的ちてき障害しょうがいをもつ人々ひとびと一方いっぽうてき努力どりょくいられることはっていく。この意味いみでTEACCHのはたした功績こうせきおおきい。
 ただ、こうした環境かんきょうととのえる方法ほうほうは、「意味いみづけることの障害しょうがい」において意味いみとらえなおす機能きのうのみを関係かんけいろんてきとらえながら、実行じっこうすることができる。意味いみづける主体しゅたい知的ちてき障害しょうがいしゃ本人ほんにんであり、意味いみづけるしん個人こじん内部ないぶにあり、知的ちてき障害しょうがいしゃ意味いみづけを「あやまっている」とかんがえながらでも、TEACCHの技法ぎほうこうなえる。それゆえに、世界せかいたいする意味いみづけに「ただしい」ものと「あやまった」ものがある、という理解りかいは、支援しえんしゃのこされたままでありうる。
 TEACCHは実践じっせん主義しゅぎてきなアプローチであって、自閉症じへいしょう理解りかいするための「理論りろんモデル」を構築こうちくしようとするうごきはよわいとわれるが(ふじきょ神谷かみや 2007: 67-68)、実際じっさい障害しょうがいをもつとされる個人こじんたいする否定ひていてきなイメージをのこし、わかりにくい環境かんきょうがわの「責任せきにん」を積極せっきょくてきわないでませる余地よちをまだのこしてしまっているのではなかろうか。
 ひろ社会しゃかいけて「知的ちてき障害しょうがい」や「自閉症じへいしょう」の理解りかいうながして、多数たすう自明じめいする社会しゃかい意味いみなおさせるには、環境かんきょう単純たんじゅんする援助えんじょ技法ぎほうつうじてではなく、「なぜそのように意味いみづけるのか」について探究たんきゅうすることが必要ひつようである。さもなければ、なにかが「できる」ようになるという観点かんてんにおいてのみ、個人こじん援助えんじょ技法ぎほう価値かちみとめられるということにもなりかねないだろう。
 そこで、知的ちてき障害しょうがいしゃ内部ないぶにある心的しんてきなものが外部がいぶにある世界せかい意味いみづける、という理解りかいについて検討けんとうしてみたい。「しん」とばれるものをいかに理解りかいできるのかについての議論ぎろんは、しん科学かがくしん哲学てつがくにおいておこなわれてきた。そのなかで、デカルトてき心身しんしん二元論にげんろんもとづいて物理ぶつりてきな「しん」を想定そうていする立場たちばは、認識にんしきろんてきにも方法ほうほうろんてきにもえらばれなくなり、素朴そぼくに「しん」を行動こうどう説明せつめいもちいようとするのは「民間みんかん心理しんりがく(folk psychology)」として「科学かがくてき」のそしりをまぬかれなくなっている。
 たとえば、心理しんりがくにおいて心身しんしん二元論にげんろん批判ひはんして登場とうじょうした行動こうどう主義しゅぎは、ブラックボックスであるしん直接ちょくせつ研究けんきゅう対象たいしょうとしない。行動こうどう主義しゅぎにも諸説しょせつがあり、心的しんてき過程かてい存在そんざい方法ほうほうろんてき排除はいじょしない立場たちばもあるが、徹底的てっていてき行動こうどう主義しゅぎながれをけた現在げんざい行動こうどう分析ぶんせきがくにおいて、行動こうどう原因げんいんはもっぱら外部がいぶ環境かんきょうもとめられる(藤原ふじわら 1997; 佐藤さとう 2003; 杉山すぎやま 2005)。
 一方いっぽうで、「のう」と「しん」の関係かんけい立場たちばにおいては、「しん」がのうってわられようとしている。しん状態じょうたい特定とくていのう状態じょうたい同一どういつするしんのうどう一説いっせつしんのう機能きのうとしてとらえることで物理ぶつりてき構造こうぞうとはべつ理解りかいしようとする機能きのう主義しゅぎ、さらにはのうのニューロンぐんとシナプスのおも配置はいちによって「しん」を説明せつめいしようとするコネクショニズムなど、認知にんち科学かがく進展しんてんとともに「しん」は消去しょうきょされるか、のう還元かんげんされる(しんじげん 2002)。
 世界せかい意味いみづけるものが「しん以外いがいなにかであるとしたら、その「しん」を内属ないぞくさせてきた障害しょうがいしゃ自身じしん世界せかいへの意味いみづけについてわされる責任せきにんは、いくらか軽減けいげんされるだろう。実際じっさいに、行動こうどう分析ぶんせきがくにおいては障害しょうがい自身じしんやそのおや問題もんだい原因げんいんがないことを強調きょうちょうできるし(高畑たかはた 2006: 38)、発達はったつ障害しょうがいをもつ人々ひとびと医師いしから診断しんだんけた結果けっか、「わたしのせいではないとわかり、ほっとした」体験たいけんかたられたりする(高橋たかはし 2008: 13)。これらは、「個人こじん」に注目ちゅうもくしたアプローチにてっすることで、むしろ従来じゅうらい意味いみでの「個人こじん」をインペアメントの原因げんいん責任せきにんからはなしている。このように当事とうじしゃへのかえりせめ回避かいひすることに成功せいこうするのは、「意味いみづけることの障害しょうがい」をたないひとにとっては〈いたみ〉を緩和かんわする意義いぎおおきい。それでも、これらは意味いみづける「しん」を行動こうどうのうといったべつのものにスライドさせただけで、世界せかいへの意味いみづけをあやまった個人こじんという人間にんげんかんせていないようにおもえる(ちゅう2)。
 このてんえば、ギブソンの提唱ていしょうする「生態せいたいがくてき心理しんりがく」はもうすこ面白おもしろ可能かのうせいっている。障害しょうがいがく関連かんれんでもすで紹介しょうかいがあるが(あや熊谷くまがい 2008: 68-76)、ギブソンによる「アフォーダンス」のかんがかたもとづけば、ひと環境かんきょうとの相互そうご作用さようにおいて環境かんきょう直接的ちょくせつてき知覚ちかくしている。アフォーダンスとは生物せいぶつきていくために環境かんきょう提供ていきょうするものであり、「価値かち意味いみ環境かんきょうちゅう実在じつざいしているという主張しゅちょうふくまれている」(河野こうの 2006: 32)という。つまり、意味いみ価値かち人間にんげん内部ないぶ構築こうちくされるものではない。同一どういつ事象じしょうについて、「健常けんじょうしゃ」であるだれかと「重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいしゃ」であるだれかがことなる意味いみづけをしたとする。アフォーダンスのかんがかたもとづけば、どちらがただしいわけでもあやまっているわけでもない。それらはどちらの意味いみ多元的たげんてき実在じつざいしている、ということである。これは「存在そんざいろんてき多元たげん主義しゅぎ」ともばれる(河野こうの 2003: 126)。
 生態せいたいがくてき心理しんりがく理論りろんは、人間にんげんとの「関係かんけい」において環境かんきょう意味いみ規定きていされることを主張しゅちょうしながらも、意味いみ主観しゅかんてきなものとも構成こうせいてきなものとも位置いちづけないところが、「重度じゅうど知的ちてき障害しょうがい」の支援しえんしゃにとって魅力みりょくてきである。そこからみちびかれる支援しえん方法ほうほうろんがたとえTEACCHと同様どうようのものであっても、知的ちてき障害しょうがいしゃ根拠こんきょのない意味いみづけをしているのではなく、そのようにも世界せかい意味いみ実在じつざいしているのだ、とえる。これは知的ちてき障害しょうがいというインペアメントを個人こじんせめさせない、というてんにおいて、障害しょうがい社会しゃかいモデルの一部いちぶとも等価とうか機能きのうさせることができる。
 インペアメントとしての知的ちてき障害しょうがいたいして心理しんりがくてき接近せっきんすることや「しん」のりかをうことは、障害しょうがい社会しゃかいせいつづけてきた障害しょうがいがくにとっては無用むようのこと(あるいはその社会しゃかいせい忘却ぼうきゃくさせるものとして有害ゆうがいなこと)のようにおもえるかもしれない。しかし、すでおおくの「しん」にかんする研究けんきゅうは、単純たんじゅん人間にんげんの「内部ないぶ」をさぐろうとするものではなくなっている。知的ちてき障害しょうがい発達はったつ障害しょうがいのようなインペアメントのいたみを緩和かんわさせるための方法ほうほうには、「社会しゃかい」の研究けんきゅうだけではなく、治療ちりょう教育きょういく志向しこうするのではない「しん」の研究けんきゅう寄与きよしうるのではないか、という可能かのうせい最後さいご提起ていきしておきたい。

ちゅう1 もちろん重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいの〈いたみ〉を「意味いみづけることの障害しょうがい」として網羅もうらてき説明せつめいすることはできない(「意味いみ」という概念がいねん相当そうとう多義たぎてきではあるが)。「意味いみづけ」との関連かんれんとらえきれない〈いたみ〉については、今後こんご検討けんとう課題かだいである。
ちゅう2 ただし、行動こうどう分析ぶんせきにおける「弁別べんべつ刺激しげき」の概念がいねんと、本文ほんぶんちゅうでこののちべる「アフォーダンス」の近似きんじせい指摘してきする主張しゅちょうもある(つつみ曾我そが小松こまつ 2002: 167)。

参考さんこう引用いんよう文献ぶんけん
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高畑たかはた庄蔵しょうぞう(2006)『みんなの自立じりつ支援しえん目指めざすやさしい応用おうよう行動こうどう分析ぶんせきがく ――「支援しえんツール」による特別とくべつ支援しえん教育きょういくから福祉ふくし小・中学校しょうちゅうがっこう通常つうじょう教育きょういくへの提案ていあん明治めいじ図書としょ
竹中たけなかひとし(2008)『自閉症じへいしょう社会しゃかいがく世界せかい思想しそうしゃ
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さかい敦史あつし曾我そがしげる小松こまつえいかい(2002)『ギブソン心理しんりがく核心かくしん』勁草書房しょぼう
渡辺わたなべ恒夫つねお村田むらた純一じゅんいち高橋たかはし澪子みおこへん(2002)『心理しんりがく哲学てつがく北大路きたおおじ書房しょぼう

作成さくせい
UP:20090905 REV:20090921
全文ぜんぶん掲載けいさい  ◇障害しょうがい学会がっかいだい6かい大会たいかい  ◇障害しょうがい学会がっかいだい6かい大会たいかい報告ほうこく要旨ようし
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