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地主 明広「意味の障害/障害の意味 ――「心」のありかと障害学」
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◆報告要旨
地主 明広(NPO法人そら・同志社大学大学院博士後期課程)
「意味の障害/障害の意味 ――「心」のありかと障害学」
障害学において個人と社会の関係性への注目が進むとともに、関係において意味的に相対化できないインペアメントへの注目もまた進んでいる。そこでは、インペアメントの物質性と、それに社会が与えた意味を区別する必要が言われもする。
インペアメントの物質性は、それがはじめから「痛み」になることが定められているのではなく、多くが当事者自身による広義の「意味」付与に開かれているという意味で、相対的なものである。ところが、自らの体験を別様でもありうるものと反省的に意味づけることを苦手としている人々にとって、意味はただそのようにしかありえないものとして現れやすい。たとえば重度知的障害者と呼ばれる人々である。
この場合、当事者によって意味を与えられているのは、物質性としてのインペアメントよりも先に、世界そのものである。そこで、定型発達者による意味付与との差異が生じ、インペアメントとして指摘される。比較的に新しい支援方法はここで差異を一方的に解消させるべく、意味を通じた反省を経由せずに、固定的な意味が生成されるように(また、異なる意味が排除されるように)環境を操作する。これはTEACCHに象徴的である。
ところが、これが心身二元論的な理解と結びつけば、周囲は内面としての「心」にインペアメントを原因帰属させやすい。その解消にいかなる方法を採用しようとも、意味づける当事者の心・精神に問題があると理解されるならば、定型発達者にとって「わかりやすい」世界のあり方は疑われず、「障害者のための」環境を別に用意することで終わる。
したがって、世界を意味づけることの障害に苦しむ人々を社会的に支えるために必要なのは、優勢的な意味の社会的構築性の暴露のみならず、「心」を身体から環境へと外部化して捉える理論である。そうした理論を実践の基盤として標榜しながら、環境を操作する支援方法は用いられるべきであり、ここに障害学が「心の科学/哲学」と連携する道が拓かれる。
◆報告原稿
意味の障害/障害の意味――「心」のありかと障害学
NPO法人そら/同志社大学大学院社会学研究科社会福祉学専攻博士(後期)課程
地主明広
1.問題意識
星加(2007)は、ディスアビリティ理論における「個人」と「社会」の二元論的理解を批判した。個人の外部にある社会に原因帰属させることではディスアビリティを特定できず、障害に対する否定的評価がもたらされる過程を諸要素の関係性として理解することが必要であるとされる。
それはディスアビリティへと連なる限りにおいて、インペアメントを理論中に包摂しようとする。そこでは、心身の差異やそれによる否定的な意味づけがディスアビリティへと変換されるメカニズムを具体的に問うことができる。実際に、例えば規範理論を〈重度知的障害者〉の視座から捉えなおす試みも始まっているし(田中 2009)、星加自身も〈制度的位相/非制度的な位相〉などの区別を用いて、重層的なメカニズムを明らかにしようとしている。
その一方で、インペアメントの体験は関係性に解消されない、という主張もまたなされる。田中(2007)は、インペアメントを包摂しようとする社会モデルが知的障害者の生活困難のリアリティを捕捉できない理由として、身体への意味づけに偏向した注目と、身体の物質性およびそれに伴う〈痛み〉の看過を指摘する。
障害者の経験する問題を他の問題と弁別しようとする「同定可能性要求」(星加)に応えようとするならば、身体の物質性における〈痛み〉のみを取り出して障害モデルの中で位置づけるのは困難さもあるように思う。それでも、当事者にとって重要な問題には違いない。たとえば近年の発達障害者による多くの著作は、多くがその〈痛み〉を主張しているように見える。
〈痛み〉をとりあげる意義は、ディサビリティへと展開するよりも以前にある身体の物質性を当事者がどう感受しているか、を明らかにできるところにある。それゆえに理論家は〈痛み〉を「社会」との連関で語ることをいったん留保するだろう。また、発達障害者自身による著作も、社会的な支援の必要性を訴えることはあるとしても、多くが社会を責めはしない。
当事者が苦難の体験を語るとき、何かの因果性についての説明を含む必要はないのだから、ただ「私は痛んでいる」という体験のみが示されるのは必然的である。そのようなことを考えなくても、当事者による語りに耳を傾けられるだけでももたらされる〈痛み〉の緩和や解消もあるのだから、それでよしとされるかもしれない。ただ、それだけでは解消されない〈痛み〉がなおも残りはしないだろうか。発表者は、支援者として関わりのある重度の知的障害者にとっての〈痛み〉を想起する。
インペアメントの〈痛み〉が生じるメカニズムもまた検証されねばならない。〈痛み〉とはどこから来るのだろうか。それが「個人」あるいは「身体」からであると言われるなら、いったい「個人」や「身体」とは何のことか。そして、それは誰によってどのように認識できるのだろうか。本発表では、特に重度知的障害というインペアメントの〈痛み〉の由来について検討することを通じて、その〈痛み〉の解消を社会的に行うための前提について考察していく。
2.重度知的障害の〈痛み〉
インペアメントの物質性は、無条件に〈痛み〉へと変わるわけではない。多くの人々はプロ野球選手になれないことに苦痛を感じないし、小説が書けないことに失望もしない。心身機能の差異ゆえに何かができる者とできない者がいるのは必然であり、問題となるのはそれが苦痛を感じさせるか否かの線引きがいかに行われるのか、の基準である。
その基準が「社会的」に定められたものであるならば、それはもはや障害学が軽視してきたとされる〈痛み〉としては理解されない。田中(2007)が示したように、それは新しい社会モデルによって既に捕捉されているインペアメントの社会的構築性、すなわち特定の言説によってインペアメントに与えられた意味への着目にとどまるものである、ということになる。それでは、社会的ではない〈痛み〉はいかに特定されるのだろうか。
まず、「社会的」とは何を意味するのか。「何か」が社会的に形成されている、と主張することは、その「何か」のあり方が別様でもありえる、ということである。「何か」が不可避でないことが明らかにされ、相対化されうるとき、それは「社会的」である(「社会性」をもつ)と言える。社会学はそのような方法を好んで用いてきたし、社会構成主義の主張もそのように概括されることがある(Hacking 1999=2006)。
ここで、別様でもありえた「何か」の中にいくつかのものを区別する必要も言われる(立岩 2004: 338-341; Hacking 1999=2006: 48-79)。例えば、上に示した定義ならば、何かに与えられた「意味」「観念」が人々によって作られたものあることと、「何か」に対象としての実在を認めた上で周囲の環境からの因果的な影響があること、がいずれも「社会的」という言葉で括られる。それぞれの社会性を示すことの意義や方法は異なるから、両者の混同は戒められる。
このように「社会性」を理解すると、何かが社会的でないことを示すために、その何かが物質的にも意味的にも別様ではありえない、不可避なものであることを言わねばならない。そして、本発表の問題意識からは「何か」に「インペアメントによる〈痛み〉」を代入することになる。インペアメントによる〈痛み〉として「社会的でない」と考えられるものは何だろうか。
心身の機能におけるインペアメントによって「できない」ことは、さまざまな不便や劣等感やスティグマなどを生じさせる。しかし、「できなさ」の認識は「できる」他者や「できた」過去の自分、あと少しで「できる」未来の自分などとの比較の中で生じる。「できない」ことに悩むには、「できる」ことと「できない」ことの差異を知らねばならない。誰にとってもできない、あるいは比較されないならば、「できなさ」に伴う痛みは生じない。この点で、インペアメントによる「できなさ」に伴う痛みは社会的である。
ただし、現実に比較することが不可避であるならば、比較しないという選択肢は浮かぶことがなく、「できなさ」が社会的なものであると言うことは困難となる。では、「比較することが不可避である」という信念が不可避なものでないとしたら? これはどこまでも反省的に問い続けることができるのであり、「できなさ」に伴う〈痛み〉が社会的であるか否かの判断は、白か黒かではなく濃淡を持つものにならざるをえない。それでも、可能な限りにおいて社会性を暴露していくことが〈痛み〉の軽減に役立つことはあるだろう。
では、重度知的障害はどうか。重度知的障害についても、上の「できなさ」についての説明はそのまま該当して、外部からその社会性を指摘することができる。しかし、重度知的障害者自身にとって、その指摘は〈痛み〉の軽減に役立ちはしない。重度知的障害とは、自らの体験する世界を別様でもありうると意味づけなおすことが難しい障害である(中でも自閉症を併せ持つ場合、その特徴はより顕著に現れる)。思い切って換言すれば、重度知的障害をもつ人々は世界を「社会的」なものとして感受するのが難しいと言えるだろう。世界は、ただそのようにあるしかないものとして意味づけられる。意味的に経験される〈痛み〉は、意味づけを改めることで緩和されうるが、ここではその方法を採用するのが困難である。
ここで、重度知的障害というインペアメントは別様ではありえない〈痛み〉を示すことになる。たとえ、知的障害に伴う多くの〈痛み〉が社会的であると暴けたとしても、その「社会的であるということ」が実感できないならば、苦痛は緩和されない。重度知的障害は「意味づけることの障害」というインペアメントであると言うことができ、それは相対化の困難なものとして揺るぎない物質性を示しはじめることになるだろう(注1)。そして、重度知的障害の〈痛み〉は「社会」とは切り離され、「社会」とは異なる他の何かに理由を求められる。
3.「意味」の由来と「心」
では、この場合の「意味づけることの障害」が社会に由来しないのだとすれば、それはどこから来ていると言えるのだろうか。
知的障害をもつ人々はそれぞれに世界を意味づけている。ところがその意味づけ方は多数派である「健常者」「定型発達者」によるものと異なり、かつ意味づけを多数派に合わせて変化させていくことが難しい。この意味づけの差異を契機として多数派は「知的障害」というインペアメントを発見したと信じることとなるが、「健常者」が自らの意味づけを疑わない限り、インペアメントは知的障害者の内部に求められる。すなわち、健常者にとってみれば、知的障害者は「意味づけを間違えている」と理解される。
意味づけが異なれば、周囲との軋轢が生じる。そこで、多数派の意味づけに合わせていくことが当事者に、あるいは支援者に求められるのだが、そもそも意味づけをやり直すのが難しい障害である。試行錯誤を通じて学ぶようなことは求められない。自閉症の支援プログラムとして最も有力なTEACCHでは、「自閉症の子どもや人を、治療や教育によって修正や矯正しようとする姿勢はない(佐々木正美 2008: 19)」とされる。そして、環境の意味をわかりやすくするために「構造化」の手法が用いられる。構造化は多義的な環境を単純化して示すことで、意味づけを特定の方向へと導いていく。すなわち、わかりにくい環境をわかりやすくすることに重きを置く。
環境をわかりやすくする方法は、すでに多くの支援現場でも活用されている。ここでは、障害を環境との関連で理解しているのだから、「意味づけることの障害」はその解消のための方策を通じて、もう一度「社会」と関連づけられていくように思える。相対化のできないインペアメントの物質性を認めつつも、その〈痛み〉の解消は社会の変化なしにはありえない、となれば、知的障害をもつ人々が一方的な努力を強いられることは減っていく。この意味でTEACCHの果した功績は大きい。
ただ、こうした環境を整える方法は、「意味づけることの障害」において意味を捉えなおす機能のみを関係論的に捉えながら、実行することができる。意味づける主体は知的障害者本人であり、意味づける心は個人の内部にあり、知的障害者が意味づけを「誤っている」と考えながらでも、TEACCHの技法は行なえる。それゆえに、世界に対する意味づけに「正しい」ものと「誤った」ものがある、という理解は、支援者に残されたままでありうる。
TEACCHは実践主義的なアプローチであって、自閉症を理解するための「理論モデル」を構築しようとする動きは弱いと言われるが(藤居・神谷 2007: 67-68)、実際に障害をもつとされる個人に対する否定的なイメージを残し、わかりにくい環境の側の「責任」を積極的に問わないで済ませる余地をまだ残してしまっているのではなかろうか。
広く社会に向けて「知的障害」や「自閉症」の理解を促して、多数派が自明視する社会の意味を問い直させるには、環境を単純化する援助技法を通じてではなく、「なぜそのように意味づけるのか」について探究することが必要である。さもなければ、何かが「できる」ようになるという観点においてのみ、個人や援助技法の価値が認められるということにもなりかねないだろう。
そこで、知的障害者の内部にある心的なものが外部にある世界を意味づける、という理解について検討してみたい。「心」と呼ばれるものをいかに理解できるのかについての議論は、心の科学や心の哲学において行われてきた。その中で、デカルト的な心身二元論に基づいて非物理的な「心」を想定する立場は、認識論的にも方法論的にも選ばれなくなり、素朴に「心」を行動の説明に用いようとするのは「民間心理学(folk psychology)」として「非科学的」の謗りを免れなくなっている。
たとえば、心理学において心身二元論を批判して登場した行動主義は、ブラックボックスである心を直接の研究対象としない。行動主義にも諸説があり、心的な過程の存在を方法論的に排除しない立場もあるが、徹底的行動主義の流れを受けた現在の行動分析学において、行動の原因はもっぱら外部環境に求められる(藤原 1997; 佐藤 2003; 杉山 2005)。
一方で、「脳」と「心」の関係を問う立場においては、「心」が脳に取って代わられようとしている。心の状態を特定の脳状態と同一視する心脳同一説、心を脳の機能として捉えることで物理的な構造とは別に理解しようとする機能主義、さらには脳のニューロン群とシナプスの重み配置によって「心」を説明しようとするコネクショニズムなど、認知科学の進展とともに「心」は消去されるか、脳に還元される(信原 2002)。
世界を意味づけるものが「心」以外の何かであるとしたら、その「心」を内属させてきた障害者自身が世界への意味づけについて背負わされる責任は、いくらか軽減されるだろう。実際に、行動分析学においては障害児自身やその親に問題の原因がないことを強調できるし(高畑 2006: 38)、発達障害をもつ人々が医師から診断を受けた結果、「私のせいではないとわかり、ほっとした」体験が語られたりする(高橋 2008: 13)。これらは、「個人」に注目したアプローチに徹することで、むしろ従来の意味での「個人」をインペアメントの原因や責任から切り離している。このように当事者への帰責を回避することに成功するのは、「意味づけることの障害」を持たない人にとっては〈痛み〉を緩和する意義が大きい。それでも、これらは意味づける「心」を行動や脳といった別のものにスライドさせただけで、世界への意味づけを誤った個人という人間観は抜け出せていないように思える(注2)。
この点で言えば、ギブソンの提唱する「生態学的心理学」はもう少し面白い可能性を持っている。障害学関連でも既に紹介があるが(綾屋・熊谷 2008: 68-76)、ギブソンによる「アフォーダンス」の考え方に基づけば、人は環境との相互作用において環境を直接的に知覚している。アフォーダンスとは生物が生きていくために環境が提供するものであり、「価値や意味が環境中に実在しているという主張が含まれている」(河野 2006: 32)という。つまり、意味や価値は人間の内部で構築されるものではない。同一の事象について、「健常者」である誰かと「重度知的障害者」である誰かが異なる意味づけをしたとする。アフォーダンスの考え方に基づけば、どちらが正しいわけでも誤っているわけでもない。それらはどちらの意味も多元的に実在している、ということである。これは「存在論的な多元主義」とも呼ばれる(河野 2003: 126)。
生態学的心理学の理論は、人間との「関係」において環境の意味が規定されることを主張しながらも、意味を主観的なものとも構成的なものとも位置づけないところが、「重度知的障害」の支援者にとって魅力的である。そこから導かれる支援の方法論がたとえTEACCHと同様のものであっても、知的障害者は根拠のない意味づけをしているのではなく、そのようにも世界の意味は実在しているのだ、と言える。これは知的障害というインペアメントを個人に帰責させない、という点において、障害の社会モデルの一部とも等価に機能させることができる。
インペアメントとしての知的障害に対して心理学的に接近することや「心」の在りかを問うことは、障害の社会性を問い続けてきた障害学にとっては無用のこと(あるいはその社会性を忘却させるものとして有害なこと)のように思えるかもしれない。しかし、既に多くの「心」に関する研究は、単純に人間の「内部」を探ろうとするものではなくなっている。知的障害や発達障害のようなインペアメントの痛みを緩和させるための方法には、「社会」の研究だけではなく、治療や教育を志向するのではない「心」の研究も寄与しうるのではないか、という可能性を最後に提起しておきたい。
注1 もちろん重度知的障害の〈痛み〉を「意味づけることの障害」として網羅的に説明することはできない(「意味」という概念も相当に多義的ではあるが)。「意味づけ」との関連で捉えきれない〈痛み〉については、今後の検討課題である。
注2 ただし、行動分析における「弁別刺激」の概念と、本文中でこの後に述べる「アフォーダンス」の近似性を指摘する主張もある(堤・曾我・小松 2002: 167)。
参考・引用文献
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