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ご由緒|江島神社について | 【公式】日本三大弁財天・江島神社

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しまのはじまり

しま湧出ゆうしゅつについては諸説しょせつありますが、『江島えじま縁起えんぎ』では、欽明天皇てんのうじゅうさんねん(552ねんよんがつじゅうにちよるからじゅうさんにちあさまで大地だいち震動しんどうし、天女てんにょじゅう童子どうじしたがえてあらわれ、しまつくったと表現ひょうげんしています。このことをしゃでんでは、「欽明天皇てんのう御宇ぎょうぎょう かみせん しんせんによりみことのりして みやしまみなみりゅうあなてられ いちさい祭祀さいしこのときはじまる」としるしており、欽明天皇てんのう勅命ちょくめいで、しま洞窟どうくつくつ(おんいわや)現在げんざい岩屋いわや)に神様かみさままつったのが、江島えじま神社じんじゃのはじまりであるとつたえています。欽明天皇てんのうは、聖徳太子しょうとくたいしよりもすこまえ時代じだい天皇てんのうで、このころ日本にっぽんでは仏教ぶっきょうおおやけでんされ、日本にっぽん固有こゆう神道しんとう外来がいらい仏教ぶっきょうとも大事だいじにされていました。

名僧めいそうたちがご神徳しんとくあおぎにおとずれたしま

その文武ぶんぶ天皇てんのうよんねん(700ねん)に、やく小角おがくえんのおづぬという修験しゅげんしゃが、しまくつ参籠さんろうしてかみかんけ、修験しゅげん霊場れいじょうひらきました。これにつづき、やすしきよしたいちょうみちさとしどうち弘法ぐほうこうぼう安然あんねんあんねん日蓮にちれんにちれん などの名僧めいそうが、くつ次々つぎつぎくだりり、たかいご神徳しんとくあおいだとつたえられています。そして、ひろじんねん(814ねん)に空海くうかい岩屋いわや本宮ほんぐうを、ひとし寿ことぶきさんねん(853ねん)に慈覚大師だいし上之宮うえのみや中津なかつみや)を創建そうけんときて、たてひさし元年がんねん(1206ねん)に慈覚上人しょうにんりょうしん源實朝みなもとのさねともねがって下之宮しものみやあたり津宮つのみや)を創建そうけんしました。

奥津おくつみやは、岩屋いわや本宮ほんぐう海水かいすいはいりこんでしまうよんがつじゅうがつまでの期間きかん岩屋いわや本宮ほんぐうのご本尊ほんぞん遷座せんざされたところで、江戸えど時代じだいまでは本宮ほんぐう御旅所おたびしょ(ほんぐうおたびしょ)とわれていました。創建そうけん年代ねんだいしょうですが、風土記ふどきなどの資料しりょうから1600年代ねんだい創建そうけんかんがえられています。

たたかいのかみ”から“芸能げいのう音楽おんがく知恵ちえかみ”へ

鎌倉かまくら時代じだいには、岩屋いわや参籠さんろうして戦勝せんしょう祈願きがんおこなったみなもと頼朝よりともはちひじ弁財天べざいてん鳥居とりい奉納ほうのう。またこう宇多天皇うだてんのう ごうだてんのう は、こうむぐん退しりぞけた御礼おれいとして、江島えじま大明神だいみょうじん勅額ちょくがく奉納ほうのうされました。このことから“たたかいのかみ”としての弁財天べざいてん信仰しんこうひろがり、東国とうごく武士ぶしたちがおおしまおとずれるようになりました。江戸えど時代じだいになってからは泰平たいへいとなり、江島えじま神社じんじゃは“たたかいのかみ”から“芸能げいのう音楽おんがく知恵ちえかみ”として、また“福徳ふくとく財宝ざいほうかみ”として信仰しんこうされるようになりました。慶長けいちょうねん(1600ねん)には徳川とくがわ家康いえやす参詣さんけい代々だいだい将軍しょうぐんたちも、病気びょうき治癒ちゆ安産あんざん旅行りょこう安全あんぜんなどを祈願きがんしたとつたえられています。

時代じだいてもわらないご神威しんい

それから慶安けいあんねん(1649ねん)に仏教ぶっきょうとの習合しゅうごうにより、江島えじま神社じんじゃ金亀こんきさんあずかねがいてらきんきざんよがんじごうしますが、江島えじま大神おおがみとしてのご神威しんいはいささかくもたまうことなく、ご神徳しんとくはいよいよ広大こうだいあおがれました。明治めいじ初年しょねん神仏しんぶつ分離ぶんりによって、仏式ぶっしき全廃ぜんぱいしてじゅん神道しんとうふくし、あらためて「江島えじま神社じんじゃ」とごうし、これまでの本宮ほんぐう御旅所おたびしょ奥津おくつみや上之宮うえのみや中津なかつみや下之宮しものみやあたり津宮つのみや改称かいしょうし、うみかみみずかみ幸福こうふく財宝ざいほうまねき、芸道げいどう上達じょうたつ功徳くどくかみとしてあおがれています。

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