(Translated by https://www.hiragana.jp/)
小林英樹「障害者ドラマ、あるいはマイノリティの視点」
HOME > 全文ぜんぶん掲載けいさい >

障害しょうがいしゃドラマ、あるいはマイノリティの視点してん


last update: 20151221


障害しょうがいしゃドラマ、あるいはマイノリティの視点してん
福祉ふくし文化ぶんか学会がっかい掲載けいさい予定よてい

                             小林こばやし 英樹ひでき(学苑がくえんしゃ)
1 はじめに
 このところ、障害しょうがいしゃ主役しゅやくにしたテレビドラマがゴールデンタイムに登場とうじょうし、軒並のきなみ
たか視聴しちょうりつげている。障害しょうがいしゃドラマが、道徳どうとく延長線えんちょうせんじょうにあるようなヒューマ
ン・ドラマとしてではなく、通常つうじょうのドラマわく人気にんきはくしたことをまず評価ひょうかしたい。
 筆者ひっしゃは、このブームが、バブルでおどらされたのち日本にっぽん清涼せいりょういちじんかぜおく
だものと解釈かいしゃくしている。きっと欲望よくぼう世界せかい対極たいきょくにあるかれらの純粋じゅんすい無垢むくなイメージが、
おおくの人々ひとびと共感きょうかんんだのではあるまいか。しかし、それだけでは、今回こんかいのブーム
のすべてをかたくすことはできないであろう。
 知的ちてき障害しょうがいしゃ天使てんしてき存在そんざいなすイメージは、19世紀せいき初頭しょとう勃興ぼっこうする産業さんぎょう社会しゃかいたい
する危機ききさけばれるなか英国えいこく詩人しじんワーズワースなどロマン人々ひとびとによってにうつく
うたげられた。しかし、そのようなロマンチックな障害しょうがいしゃぞうは、20世紀せいき初頭しょとうゆう
なま思想しそうたいする防波堤ぼうはていとはなりえず、優生ゆうせい思想しそう席巻せっけんするなかおおくの障害しょうがいをもつ人々ひとびと
断種だんしゅされたり、ガスしつおくまれたりした。これは、ナチス・ドイツだけのはなし
はなく、アメリカでも同様どうよう事態じたいが、より先行せんこうしてしょうじていたのである。すなわち、
産業さんぎょう社会しゃかい汚濁おだくされぬ純粋じゅんすい無垢むく障害しょうがいしゃぞうは、産業さんぎょう社会しゃかいにおける無用むよう存在そんざいとしての
障害しょうがいしゃぞうってわられてしまったのである。
 障害しょうがいしゃドラマ・ブームがバブルの終焉しゅうえんによってもたらされたものであるとすれば、
そのなかかたられるイメージは、19世紀せいきのロマンのものとそれほどことなったものとは
えないであろう。しかし今日きょう、このイメージは、文化ぶんか観点かんてんからも、人権じんけん観点かんてん
らも、そのまま首肯しゅこうしうるものではなくなっている。そして、このような状況じょうきょうは、ド
ラマの世界せかいにもストレートに反映はんえいされるのである。
2 異人いじんたん
 このブームの要因よういんとして、もうひとつここでげておかなければならないことが
ある。それは、障害しょうがいしゃつストレンジャーせいであり、この起源きげんは、上述じょうじゅつ天使てんしてきさわ
がいしゃぞうよりもさらにさかのぼる。天使てんしてき障害しょうがいしゃぞう近代きんだい社会しゃかい固有こゆうのイメージであるとすれ
ば、ストレンジャーとしての障害しょうがいしゃぞうは、ぜん近代きんだいてき民話みんわ昔話むかしばなしにその起源きげんをもつ。
共同きょうどうたいなかかたがれてきたストレンジャーにたいするイメージは、差別さべつ偏見へんけんすけ
ちょうするめんふくんでいたので、このふる物語ものがたり構造こうぞうからの脱却だっきゃくを、本論ほんろんにおけるひとつの
評価ひょうかじくえようとかんがえる。しかし、このふるいタイプにぞくするドラマもこのブームに
あずかっているので、まず、それらの作品さくひん紹介しょうかいからはなしすすめてみたい。
 (1) ほし金貨きんか
 「ほし金貨きんか」(主演しゅえん : 酒井さかい法子のりこ大沢おおさわたかお、1995ねん4〜6がつ放送ほうそう)では、同名どうめいのグ
リム童話どうわいちへん朗読ろうどくシーンが随所ずいしょ登場とうじょうし、それによって、ドラマ全体ぜんたいのイメージ
づくりがなされている。グリム童話どうわの「ほし金貨きんか」とは、「まずしい少女しょうじょ自分じぶん
ているものをもっとまずしいどもたちにすべてあたえ、はだか同然どうぜんになってあるいている
と、満点まんてんそらほし金貨きんかとなってパラパラと彼女かのじょのところにそそいでくる」、と
いった内容ないようはなしである。
 しかし、ドラマのほうの「ほし金貨きんか」は、むしろアンデルセンの「人魚にんぎょひめ」とてい
る。すなわち、北海道ほっかいどう主人公しゅじんこう聴覚ちょうかく障害しょうがい女性じょせい倉本くらもとあや(酒井さかい法子のりこ)が、故郷こきょう
結婚けっこんちかった医師いし永井ながい秀一ひでかず(大沢おおさわたかお)をいかけて上京じょうきょうするのだが、結局けっきょく
悲恋ひれんわり、失意しついのまま故郷こきょうかえっていく。そのなかで、秀一ひでかずおとうとつぶせ(たけ野内やないゆたか)
との関係かんけいとうりまぜて、物語ものがたりすこふくらみをたせているが、基本きほんせんは、やはり悲
げきえるだろう。そして、人魚にんぎょひめ聴覚ちょうかく障害しょうがい女性じょせい王子おうじ医師いしえれば、
いくつもの類似るいじてん見出みいだされるのである。すなわち、主人公しゅじんこう故郷こきょうてたてん恋人こいびと
主人公しゅじんこうのことをまったおぼえていないてん(秀一ひでかずは、事故じこ記憶きおく喪失そうしつとなっている)、主人しゅじん
おおやけこえ自分じぶんとのかつての関係かんけいげることができないてん最終さいしゅうてきには恋人こいびとべつ
女性じょせいむすばれてしまうてん、などである。
 これらがたんなる偶然ぐうぜんなのかはらぬが、この現代げんだいのドラマが、その基本きほん構造こうぞうにおい
て、昔話むかしばなしつうそこする部分ぶぶんがあるということだけはたしかだとおもう。
ことかいからやってきたものさとものこいおちいったり、事件じけんこしたりし、ふたたことかい
へとっていくという基本きほんパターンは、かぐやひめ夕鶴ゆうづるにもられるが、ここで
はこれを「異人いじんたん」とぶことにしよう。
 「ほし金貨きんか」では、グリム童話どうわいちへんをタイトルにもちいていることからも、脚本きゃくほん
りゅうきょ由佳ゆかさとは、ドラマ全体ぜんたい童話どうわてきなイメージをりばめようとしていたにちがいな
い。しかし、童話どうわてきイメージをもとめることによって、ぎゃくに、異人いじんたん世界せかい埋没まいぼつ
してしまったのだと、筆者ひっしゃ推測すいそくする。りゅうきょはその、「ピュア」の脚本きゃくほん担当たんとうし、
表面ひょうめんてきには、この障害しょうがいしゃドラマブームをささえた中心ちゅうしん人物じんぶつのようにられがちである。
しかし、彼女かのじょ脚本きゃくほんいた作品さくひんには、異人いじんたん色濃いろこかげとしてしまう傾向けいこうがあ
る。異人いじんたんがなぜ問題もんだいなのかについては、つぎの「フォレスト・ガンプ」のこうで、より
具体ぐたいてき説明せつめいしてゆきたい、
 (2) フォレスト・ガンプ
 「フォレスト・ガンプ 一期一会いちごいちえ」は、1995年度ねんどアカデミーしょう部門ぶもんかがやき、日本にっぽん
でも大変たいへん評判ひょうばんんだ。この映画えいがは、知的ちてき障害しょうがいしゃ青年せいねん、フォレスト・ガンプ(ト
ム・ハンクス)のサクセス・ストーリーであるが、かれ成功せいこう大金持おおがねもちになったにも
かかわらず、最後さいごのシーンはあまりにも孤独こどくである。筆者ひっしゃは、このラストに、ストレ
ンジャーが共同きょうどうたいらなければならないのと類似るいじした悲劇ひげき構造こうぞうかんじる。
 この映画えいが監督かんとくのロバート・ゼメキスは、スピルバーグの弟子でしだけあって、「フォ
レスト・ガンプ」にもファンタジックな要素ようそ随所ずいしょまれている。たとえば、
どものころあしわる装具そうぐ使用しようしていたガンプは、いじめっこのいしつぶてからのが
るため、もうスピードではししていく。そして、それ以来いらいガンプはあるけるようにな
り、それどころか人一倍ひといちばいはやはしれることがかれ特技とくぎとなり、後年こうねん、その俊足しゅんそく
れ、大学だいがくのフットボールチームの選手せんしゅえらばれる。また、おさななじみのジェニーに失恋しつれん
したときも、その痛手いたでいやすために、やはり黙々もくもくはしっていると、それにおおくのもの
ちがつきしたがっていき、いつのにか教祖きょうそまつげられてしまう。
 このようなファンタジックなストーリーがゆるされるのだから、アップル・コン
ピュータをフルーツの会社かいしゃだとおもいこんでいるようなガンプでも、わか社長しゃちょうとしてビジ
ネスかい華々はなばなしく活躍かつやくさせることも十分じゅうぶん可能かのうだったはずである。ところが、そのよう
展開てんかい一切いっさいなく、かれはいつのまにかビジネスの世界せかいからあしあらい、故郷こきょうかえり、ひろ
にわ芝刈しばかりしながらのしずかな毎日まいにちおくっている。しかも、その経過けいかかんして、ほとん
説明せつめいがなされていない。しかし、かれ引退いんたいした理由りゆうは、この映画えいがひとは、おお
よその見当けんとうがついていたにちがいない。すなわちそれは、知的ちてき障害しょうがいしゃであるガンプに
とっておおきな会社かいしゃ経営けいえい無理むりであった、ということである。そして、さらに悪意あくい
みとれば、ベトナム戦争せんそう身体しんたい障害しょうがいしゃとなった共同きょうどう経営けいえいしゃのダンが、いつのまにか
会社かいしゃ実権じっけんにぎってしまい、実質じっしつてきにはガンプを追放ついほうしたのである。富裕ふゆうになったガ
ンプがらすこぎれいな郊外こうがい別荘べっそうは、社会しゃかいから隔絶かくぜつされた衛生えいせい環境かんきょうととのった郊外こうがい
施設しせつ連想れんそうさせる。
 このように「フォレスト・ガンプ」は、ややかな現実げんじつかんただよわせている作品さくひんであ
る。れいほかにもある。たとえば、ダンは、アジアけいのあまりうつくしくない女性じょせい結婚けっこんする
が、これなども、身体しんたい障害しょうがいしゃであり経営けいえいしゃであるダンとのいという現実げんじつてき側面そくめん
をいやでも想像そうぞうさせられるシーンである。ダンが結婚けっこんするというはなし原作げんさくにはなく、
この映画えいがでも、二人ふたりのなれそめや関係かんけいについてはほとんどふれていないにもかかわら
ず、唐突とうとつ結婚式けっこんしきのシーンだけがあらわれる。そして、アメリカ社会しゃかいにおいてひく地位ちい
あるアジアけい花嫁はなよめ身体しんたい障害しょうがいしゃ花婿はなむこというカップルからはっせられるのは、酷薄こくはく
メッセージにならないのである。
 また、金持かねもちになったガンプのまえに、ヒッピーに運動うんどう参加さんかしてつかったジェ
ニーがあらわれるが、この二人ふたり関係かんけいも、彼女かのじょがガンプのことをものにしているとしか
おもえないのだが、うつくしいラブロマンスとしてえがかれている。
 ガンプと一期一会いちごいちえ出会であいをする友人ゆうじんは、まずしい家庭かていそだ幼児ようじ父親ちちおやから虐待ぎゃくたい
されたジェニー、黒人こくじんへいのババ、傷病しょうびょうへいのダンである。しかし、その友情ゆうじょうは、戦死せんし
たババとの場合ばあいのぞきどこか屈折くっせつしており、よわものがよりよわものみつけにすると
いうかなしい構造こうぞうかくれする。そして、この映画えいがでは、このかなしい構造こうぞう自覚じかくてき
対象たいしょうされるどころか、美化びかされてしまっているのである。
 また、ガンプにたいして侮辱ぶじょくてき言葉ことば人々ひとびと登場とうじょうするが、このような設定せっていは、
それにもめげずにがんばったガンプを賞賛しょうさんするためにのみ存在そんざいし、そういった言葉ことば
はなった人々ひとびとたいする告発こくはつてき視点してんはない。
 (3) つめたいリアリズム
 つめたいリアリズムは、「ほし金貨きんか」にもられる。たとえば、まだ北海道ほっかいどうにいたころ
祖父そふいろどりに、秀一ひでかずとの結婚けっこん所詮しょせんかなわぬゆめだからあきらめよと説得せっとくする。また、秀一ひでかず
婚約こんやくしゃ結城ゆうき祥子さちこ細川ほそかわ直美なおみ)は、聾唖ろうあしゃであるいろどりしんきずつけるような残酷ざんこく言葉ことば
く。「ほし金貨きんか」では、このほかにも聴覚ちょうかく障害しょうがい手話しゅわ否定ひていてきられるシーンが
てくる。
 「ほし金貨きんか」と「フォレスト・ガンプ」は、かよったオーラを発散はっさんする作品さくひんであ
る。両者りょうしゃは、ともに異人いじんたん定型ていけいんでおり、同時どうじにまたややかな現実げんじつかんをかも
しゅつしている。筆者ひっしゃは、りょう作品さくひんにおけるこれらの特徴とくちょうは、ストレンジャーにたいするま
なざしから派生はせいしたものだととらえている。ようするに、異人いじんたんとは、あくまで里人さとびと
からかれた物語ものがたりなのである。すなわち、異人いじんにとどまりつづけてほしくないと
いう里人さとびとたちの無意識むいしき本音ほんねがちらつく異人いじんたんそのもののが、ある意味いみで、つめたいリ
アリズムを内在ないざいさせていたのではないかとおもわれるのである。
 先程さきほどほし金貨きんか」が障害しょうがいしゃドラマ・ブームの先頭せんとうったとべたが、それは、こ
作品さくひんがブームのつけやくたしたことを意味いみしない。なぜなら、そのときはす
でにじゅくしており、主役しゅやくではないが障害しょうがいしゃ登場とうじょうさせたドラマが目立めだっておおくなってき
ていたからである。そして、このようなムードは、ある一人ひとり人物じんぶつによってもたらさ
れたと筆者ひっしゃしんじてる。そして、視聴しちょうりつ至上しじょう主義しゅぎなかにあってこのブームを本当ほんとう
あじ仕掛しかけた人物じんぶつと、異人いじんたんからの脱出だっしゅつをはかろうとした人物じんぶつが、じつおなじであった
ことをここで指摘してきしておきたい。
 
3 野島のじましんとマイノリティの視点してん
 (1) 不思議ふしぎ特徴とくちょう
 野島のじましんが、現在げんざいもっと活躍かつやくしている若手わかて脚本きゃくほん一人ひとりであることにこととなえるもの
いないであろう。かれは、「101かいのプロポーズ」(主演しゅえん : 武田たけだ鉄矢てつや浅野あさの温子あつこ
1991ねん放送ほうそう)で実質じっしつてきなデビューをたしたのち、「高校こうこう教師きょうし」(主演しゅえん : 真田さなだ広之ひろゆきさくら
幸子こうじ、1993ねん放送ほうそう)というドラマ史上しじょうのこ名作めいさく発表はっぴょうしたが、その次々つぎつぎ
ヒットをばしている。そして、初期しょきからかれ作品さくひんてきたひとは、ある不思議ふしぎとく
しるしづいていたにちがいない。すなわち、かれ脚本きゃくほんいたドラマには、障害しょうがいしゃやそ
れにるいする人々ひとびと頻繁ひんぱん登場とうじょうするのである。
 たとえば、「高校こうこう教師きょうし」で、赤井あかい英和ひでかずえんじる体育たいいく教師きょうし息子むすこ難病なんびょうであったが、この
設定せっていは、最後さいごまでストーリーとは関係かんけいせず、かえって不自然ふしぜん印象いんしょうあたえている。ま
た、「あいというのもとに」(主演しゅえん:鈴木すずき保奈美ほなみ唐沢からさわ寿明としあき、1992ねん放送ほうそう)では、登場とうじょう
人物じんぶつ一人ひとりが、ある見知みしらぬおとこめられ、「福祉ふくし世界せかい興味きょうみはありません
か」とさそいをける。また、「ひとつ屋根やねした」(主演しゅえん:江口えぐち洋介ようすけ酒井さかい法子のりこ、1993ねん
放送ほうそう)や「いえなき」(企画きかく作品さくひん主演しゅえん:安達あだち祐実ゆみ、1994ねん放送ほうそう)にも、車椅子くるまいす少年しょうねん
登場とうじょうする。これらのてんからも、この脚本きゃくほんには、福祉ふくし接点せってんたせたいというつよ
おもいがあったのではないかとさっせられたのである。
 これらの作品さくひんはすべて評判ひょうばんび、それゆえ、視聴しちょうしゃも、ゴールデンタイムのドラ
マに障害しょうがいしゃるということにたいしていつのまにからされていったのだとおもう。し
かし、この時点じてんでも、かれがなにゆえ頻繁ひんぱん障害しょうがいしゃ登場とうじょうさせるのか、その理由りゆう今一いまいち
判然はんぜんとしなかった。その意図いとがおぼろげながらもあらわになってくるのは、「この
て」(主演しゅえん:鈴木すずき保奈美ほなみ三上みかみ博史ひろふみ、1994ねん放送ほうそう)においてである。
 (2) このて、人間にんげん失格しっかく
 「このて」は、従来じゅうらいのドラマとはことなり、芸術げいじゅつてき色彩しきさい作品さくひんである。ド
ラマのあらすじは省略しょうりゃくするが、この作品さくひんえがかれているのは、「このて」とい
うタイトルがしめすように、都市とし空間くうかんひそ辺境へんきょうのイメージである。「東京とうきょうラブストー
リー」がある意味いみでの都市とし賛歌さんかであり、キラキラとしたまばゆい光芒こうぼうはな都市とし空間くうかん
人間にんげん模様もよう肯定こうていてきえがいたのにたいし、「このて」では、おな都市とし片隅かたすみに蠢
人々ひとびとふかしんやみりにされている。そして、ここには、おさなころ一生いっしょうつぐないき
れないつみおかしてしまったおんな転落てんらく狂乱きょうらんしていくピアニスト、盲目もうもく美少女びしょうじょかお
みにくくただれた若者わかもの悪意あくいうごかされてしかきることのできないホステス、その
ホステスにあいするつまころしてしまったおとこ人生じんせいかがやぶしったのちむなし
時間じかんおくりつづけるおんな、などが登場とうじょうする。
 そして、主人公しゅじんこう砂田すなだまりあ(鈴木すずき保奈美ほなみ)は、こうした人々ひとびとしんきずきしめ
る、まさに聖母せいぼマリアのような存在そんざいとしてえがかれている。そして、辺境へんきょう住人じゅうにん一人ひとり
盲目もうもく少女しょうじょ・なな(桜井さくらい幸子さちこ)がえらばれたことには、いままでの作品さくひんとはことなった意味いみ
で、なにがしかの説得せっとくりょくかんじられたのである。また、盲目もうもく少女しょうじょにも、従来じゅうらいのような
端役はやくではなく、ストーリー全体ぜんたいかぎにぎるような重要じゅうよう役割やくわりあたえられ、視覚しかく障害しょうがい
もつことによってけたしんきず葛藤かっとう丹念たんねんえがきこまれていた。
 このようにこのドラマのなかでは、野島のじまがこれまで頻繁ひんぱん障害しょうがいしゃ登場とうじょうさせてきた
よしが、おぼろげながらもその片鱗へんりんのぞかせていた。そして、このとしつづけて発表はっぴょうされた
人間にんげん失格しっかく たとえばぼくがんだら」(主演しゅえん:赤井あかい英和ひでかず堂本どうもとつよし堂本どうもと光一こういち、1994
とし放送ほうそう)も、「このて」と同様どうよう野島のじま問題もんだい意識いしきたかまりがつたわってくるよう
なすぐれた作品さくひんである。「人間にんげん失格しっかく」には直接ちょくせつ障害しょうがいしゃ登場とうじょうしないが、“いじめ”
という深刻しんこく問題もんだいあつかわれている。すなわち、主人公しゅじんこう少年しょうねん(堂本どうもとつよし)は、受験じゅけんこう
陰湿いんしつないじめに自殺じさついこまれるのだが、そのいじめに教師きょうしまで関与かんよしてい
たことをった父親ちちおや(赤井あかい英和ひでかず)は、息子むすこいやったものたちに復讐ふくしゅう開始かいしする。
 野島のじまのテンションのたかまりがいきおいをなか、その奔流ほんりゅうは、翌年よくねんの「未成年みせいねん」(主演しゅえん:
いしだ壱成いっせい桜井さくらい幸子さちこ、1995ねん10〜12がつ放送ほうそう)へとそそぎこまれていく。そして、さわ
がいしゃ登場とうじょうさせてきた本当ほんとうなぞけるのは、この作品さくひんにおいてなのである。
 (3) 未成年みせいねん
 「未成年みせいねん」の前半ぜんはんは、ごく普通ふつう青春せいしゅんドラマとしてすべりだしていく。すなわち、
ちこぼれの高校生こうこうせいヒロ(いしだ壱成いっせい)と順平じゅんぺい(北原きたはら雅樹まさき)、かれらがデクと綽名をつけた
近所きんじょ知的ちてき障害しょうがい青年せいねん(香取かとり慎吾しんご)、ヒロの家庭かてい教師きょうしのモカ(桜井さくらい幸子さちこ)、暴力団ぼうりょくだんぐみ
いん五郎ごろう(反町そりまち隆史たかし)、東大とうだい目指めざすエリート高校生こうこうせいつとむ(河合かわい我聞がもん)らの奇妙きみょう友情ゆうじょう
淡々たんたんえがかれていく。
 ところが、途中とちゅうからはなし急転直下きゅうてんちょっかする。すなわち、ヒロは、信頼しんらいしていた担任たんにん教師きょうし
裏切うらぎりにより大学だいがく推薦すいせん入学にゅうがくっこちてしまう。順平じゅんぺいは、甲子園こうしえん出場しゅつじょうけた
大事だいじ試合しあい平凡へいぼんなフライをとし、下級生かきゅうせいからリンチをける。モカは、心臓しんぞうさわ
がいがあったが、そのことを恋人こいびと告白こくはくすると婚約こんやく破棄はきされてしまう。五郎ごろう恋人こいびと
所帯じょたいをもつため組織そしきからあしあらったが、そのためにその恋人こいびところされてしまう。つとむ
は、バレエ教室きょうしつかよ少女しょうじょこいをしちを決意けついをする。
 このようにごくごく普通ふつう若者わかものたちは、ちょっとした偶然ぐうぜんかさなりあいによって、
通常つうじょうのレールから次第しだいにはずれた方向ほうこうへとみだしていく。そしてその最中さいちゅうに、ある
事件じけん勃発ぼっぱつする。すなわち、知的ちてき障害しょうがい青年せいねんデクが、銀行ぎんこう強盗ごうとうをしてしまうのであ
る。かれとしては、おかねこまっている両親りょうしんるにかねて、銀行ぎんこう窓口まどぐちで「おかね」と
さけんだだけだったのだが、行員こういんともみあっているうちに、もと暴力団ぼうりょくだん組員くみいん五郎ごろうから
もらった拳銃けんじゅう発砲はっぽうし、その行員こういん重傷じゅうしょうわせてしまう。偶然ぐうぜんその居合いあわせたヒ
ロと順平じゅんぺいがデクをれだしてげるが、それによってさわぎはさらにおおきくなる。
 そして、社会しゃかいのレールから逸脱いつだつしはじめていたモカ、五郎ごろうつとむらが、かれさんにんごう
ながし、全員ぜんいんでそのまちからの脱出だっしゅつをはかり、福島ふくしまけん廃校はいこうかくひそみ、共同きょうどう生活せいかつはじ
る。しかし、世間せけんではすでに大騒おおさわぎになっており、マスコミは、かれらは政治せいじてき意図いと
もった凶悪きょうあく集団しゅうだんであると断定だんていした。
 そして、最終さいしゅうかいちかくになってこのドラマのおおいなるなぞきがおこなわれる。すなわ
ち、かれらがてこもっている(と報道ほうどうされている)やまあいの廃校はいこう機動きどうたい包囲ほうい突撃とつげき
するというシーンがうつされたからである。それは、このドラマが放送ほうそうされるすこ
まえ全国ぜんこく人々ひとびと釘付くぎづけにした上九一色かみくいしきむら光景こうけいとそっくりであった。
 結局けっきょくかれらは全員ぜんいん逮捕たいほされ、ラストは、裁判官さいばんかんまえでズボンをろすというあかるいラ
ストシーンでまくじる。しかし、野島のじまが、この純情じゅんじょう若者わかものたちとオウムの信者しんじゃたち
かさねあわせたことは明白めいはくであろう。このドラマが放送ほうそうされたのは1995ねん10がつ〜12がつ
であり、地下鉄ちかてつサリン事件じけん(1995ねん3がつ20日はつか)からわずか半年はんとししかっておらず、時期じき
まとにもピッタリ符合ふごうしていた。
 野島のじまがあえて危険きけんけをおかしてまで、このようなオウム事件じけんのパロディをやろう
とした理由りゆうは、筆者ひっしゃにはいたいほどよくわかる。当時とうじ、この事件じけんたいする世間せけん反応はんのう
は、マジョリティがマイノリティを一方いっぽうてき断罪だんざいするという図式ずしきそのものであった。
そして、このような風潮ふうちょう世間せけんおおくしていることにたいして、野島のじま苦々にがにがしくかんじ
じていたにちがいない。それゆえかれは、視聴しちょうしゃ主人公しゅじんこうたちに共感きょうかんしいつのまにか自分じぶん
自身じしん同一どういつしてしまうというドラマの特性とくせいかして、視聴しちょうしゃにあるしゅ思考しこう実験じっけん
強要きょうようしたのではなかろうか。そして、このようなシミュレーションによって想像そうぞうりょく
ふくらますことは、オウム事件じけん事実じじつ問題もんだいとはべつに、我々われわれ自身じしん内在ないざいする差別さべつ意識いしき
つめるうえで、いてはならぬプロセスなのである。
 ここで、野島のじまもとめようとしたものを、わたしは、「マイノリティの内在ないざいてき視点してん」とよび
ぶことにしたい。さきほど、異人いじんたん視点してん共同きょうどうたいがわ視点してんであるとべたが、換言かんげん
すれば、異人いじんたん視点してんは、マイノリティにたいする外在がいざいてき視点してんえるかもしれない。
そして、「未成年みせいねん」において、デクとモカという二人ふたり障害しょうがい若者わかもの登場とうじょうする
が、かれらをアウトサイダーの仲間なかまくわえたことのなかにこそ、かれいままでながいこと障害しょうがい
もの頻繁ひんぱんにドラマに登場とうじょうさせてきたことの本当ほんとう理由りゆうのぞかれるのである。
 「未成年みせいねん」では、たとえば、ぎのようなシーンにも、マイノリティの視点してんがうかが
われる。すなわち、だい10しょうの「きずだらけのクリスマス」のなかで、廃校はいこう機動きどうたい包囲ほうい
されたとき、モカがヒロにたいして「世界中せかいじゅうてきにまわしても、貴方あなたまもってあげる」
とつぶやく。マイノリティの心性しんせいあらわすとき、筆者ひっしゃはこれ以上いじょうてきした言葉ことばらな
い。事実じじつ筆者ひっしゃはかつて、ある障害しょうがいしゃグループのなかで、これと同様どうよう言葉ことばみみにした
経験けいけんがある。
 そういえば、野島のじましん実質じっしつてきなデビューさくとなった「101かいのプロポーズ」の
主人公しゅじんこうは、武田たけだ鉄矢てつやえんじる風采ふうさいがらず仕事しごとめんでもあまりパッとしない、見合みあ
を100かいもふられつづけたなか年男としおとこである。ある意味いみで「101かいのプロポーズ」は、
しま自身じしん思想しそうてき原点げんてんしめした作品さくひんだったのかもしれない。
 (4) マイノリティの視点してんとは
 そして、ここまではなしひろげると、「マイノリティ」という言葉ことば意味いみすこ曖昧あいまい
おもわれきもあるだろう。ここで筆者ひっしゃう、「マイノリティ」という言葉ことば意味いみ
をもうすこ整理せいりしてみたい。「マイノリティ」という言葉ことばは、少数しょうすう民族みんぞくなど、集団しゅうだん
のものを意味いみする実体じったい概念がいねんではない。アメリカには、マイノリティのなかに、女性じょせいさわ
がいしゃ老人ろうじんなどもふくめるというかんがかたがある。女性じょせい当然とうぜんながら人口じんこう半分はんぶんめる
のだから、マイノリティが少数しょうすうグループであるとはけしてえなくなる。しかし、ふで
ものは、マイノリティの対象たいしょうをこのように拡大かくだいして解釈かいしゃくすることにたいしてはとく疑問ぎもん
かんじない。
 たとえば、赤坂あかさか憲男のりおは、現実げんじつなか居場所いばしょつからず公園こうえんいちにちちゅうひなたぼっこし
ている老人ろうじんのことを、「れなずむ黄昏たそがれ老人ろうじんたち」と命名めいめいしたが、かれらと、政治せいじ
おもて舞台ぶたい実権じっけんにぎっている高齢こうれいしゃたちと当然とうぜんおなじにはかたれない。一口ひとくち老人ろうじん高齢こうれいしゃ
っても、個々ここにおいて立場たちば社会しゃかいてき機能きのうまったことなるからである。すなわち、ろう
ひとのマイノリティせいとは、実体じったいではなく、その機能きのうにもとづくものなのである。
 しかし、一見いっけんれなずむ黄昏たそがれ老人ろうじんまった無縁むえん存在そんざいであるとおもえる権力けんりょくしゃ老人ろうじん
なかにも、いつおとずれるかわからない痴呆ちほうへの恐怖きょうふなど、かれらと共通きょうつうする心性しんせい宿やど
していないともかぎらない。そして、レーガンもと大統領だいとうりょうのように、引退いんたいゆるやかに
マイノリティの世界せかいなかはいっていくものもいるだろう。ゆえに、老人ろうじんのマイノリティ
せい機能きのうにもとづくとはっても マイノリティにぞくする老人ろうじんとマジョリティにぞく
老人ろうじん画然かくぜん区別くべつすることは困難こんなんであろう。こうかんがえていくと、老人ろうじんのマイノリ
ティせいとは、個人こじん付着ふちゃくしたレッテルというよりも、個々ここ内面ないめんなか芽生めばふくらん
でいく断片だんぺんてき心理しんりてき要素ようそとしてとらえたほうがよいのではないかとおもえてくる。この
ような側面そくめんは、むろん女性じょせい少数しょうすう民族みんぞく障害しょうがいしゃとうにもあるはずである。また、まずしい
ひと病気びょうきをもつひと容貌ようぼうがひどくみにくひとちこぼれの生徒せいと、いじめや児童じどう虐待ぎゃくたいを受
けたども、なんらかの理由りゆう集団しゅうだんから無視むしされたり仲間外なかまはずれにされたひとなども、社会しゃかい
主流しゅりゅうからはずれていることでしんふかきずをもっているはずである。この意味いみで、おお
くの人々ひとびとは、みずからのうちにさまざまなかたちでのマイノリティせいかかえているにもかかわら
ず、そのことにをつむり、マジョリティとしてのアイデンティティをもとめたがるかたぶけ
むかいがあるのである。
 筆者ひっしゃが、ここでうマイノリティの視点してんというのは、そのしんきずとおして、ないし
はそれを起点きてんとして、世界せかい相対そうたいする姿勢しせいのことをさす。そして、マイノリティの
てんつということは、ちょうど反転はんてんさせるように、自分じぶんいままで糊塗ことしつ
づけてきた“うちなるマイノリティ”の視点してんきたせようとすることにならない
のだ。
 野島のじまは、このような“うちなるマイノリティ”をうため、かくしあじのようなかたち
障害しょうがいしゃ登場とうじょうさせつづけてきたにちがいない。そして、「このて」、「人間にんげん
失格しっかく」によってみずからの問題もんだい意識いしき凝縮ぎょうしゅくさせ、「未成年みせいねん」によって、そのおもいのたけの
すべてを一挙いっきょきだそうとした、はずであった。しかし、野島のじまおおいなる野望やぼうは、
まったくの空回からまわりにわってしまった。なぜなら、露骨ろこつなまでに上九一色かみくいしきむら連想れんそうさせる
機動きどうたい突撃とつげきシーンを、オウム事件じけんむすびつけたものだれもいなかったからである。
未成年みせいねん」はそこそこの視聴しちょうりつ獲得かくとくしたが、ドラマが終了しゅうりょうしたのちは、その主題歌しゅだいか
使つかわれた「Top of the World」と「青春せいしゅんかがやき」がカーペンターズのリバイバルによせ
くみしたということのみが、人々ひとびと記憶きおくにとどめられた。
 「未成年みせいねん」ののち障害しょうがいしゃドラマ・ブームが本格ほんかくてきはじまるわけだが、それらはすべ
て、野島のじまによって敷設ふせつされたレールのうえはしったとっても過言かごんではないだろう。し
かし、野島のじま自身じしんは、現在げんざいいたるまで、障害しょうがいしゃ主人公しゅじんこうにした作品さくひん一本いっぽんいていな
い。
 (5) NIGHT HEAD
 野島のじまてき視点してんとシンクロするドラマは、なに障害しょうがいしゃ登場とうじょうさせた作品さくひんにはかぎらな
い。たとえば、「NIGHT HEAD」(飯田いいだ譲治じょうじ脚本きゃくほん監督かんとく、1992ねん10がつ〜1993ねん3がつ)がその
好例こうれいで、この作品さくひんは、深夜しんや時間じかんたい(午前ごぜんれい40ふん〜110ふん)にもかかわらず、異常いじょう
人気にんきんだ。
 「NIGHT HEAD」は、直人なおと(豊川とよかわ悦史えつし)と直也なおや(武田たけだ真治しんじ)というちょう能力のうりょく二人ふたりあに
おとうと物語ものがたりである。あに直人ただびとはテレコキネシス(ねん動力どうりょく)のちからを、おとうと直也なおやはリーディン
グの能力のうりょくをそれぞれっているが、このふたつの能力のうりょくは、マイノリティのしん世界せかいにお
けるふたつの方向ほうこうせい暗示あんじするものではないかと推測すいそくされる。すなわち、直也なおやのリー
ディング能力のうりょく異常いじょう繊細せんさいきずつきやすい感受性かんじゅせいともない、直人ただびとのテレコキネシスはおい
いつめてくるてきたいする破壊はかいとなって炸裂さくれつする。直也なおやは、過剰かじょうなる感覚かんかく情報じょうほうによって
支配しはいされており、その心象しんしょう風景ふうけいは、高機能こうきのう自閉症じへいしょうしゃドナ・ウィリアムズのそれを彷彿ほうふつ
とさせる。また、この兄弟きょうだいたい構造こうぞうは、「人間にんげん失格しっかく」における、自殺じさついこまれ
息子むすこ復讐ふくしゅうちか父親ちちおや姿すがたともオーバーラップする。すなわち、きずつきやすいしん
と、ときおり炸裂さくれつするアグレッションが一対いっついとなって、マイノリティの内面ないめん世界せかいぞう
しるしているのである。
 このドラマでは、いち完結かんけつで、前半ぜんはんは、事件じけんぶつあり、恋愛れんあいぶつあり、バイオレンスぶつ
ありだが、後半こうはんからすこしずつ様相ようそうえ、ひとつのテーマにかってしぼまれてい
く。すなわち、「変革へんかく」というキーワードが登場とうじょうし、変革へんかくのぞちょう能力のうりょくしゃグループ
と、変革へんかくのぞまない、すなわち、世界せかいがこのままでありつづければいいとねがちょう能力のうりょく
ものグループのこうそうといったかたちへとはなし発展はってんしていくのである。この「変革へんかく」の具体ぐたいてき
内容ないようについては十分じゅうぶんにはかたられていないが、大筋おおすじとしては、物質ぶっしつ文明ぶんめいから精神せいしん文明ぶんめい
転換てんかん示唆しさされている。二人ふたり青年せいねんは、自分じぶんたちにちょう能力のうりょくがあることをられぬよ
う、かくれてたびつづけているのだが、次第しだいにこのこうそううずなかまれてい
き、変革へんかくのぞまないグループからいのちねらわれだすようになる。すなわち、ちか将来しょうらい
この二人ふたりが「変革へんかく」のキーパースンになることが予言よげんされており、変革へんかくのぞまないグ
ループは、かれらを危険きけん分子ぶんしなし、はやいうちにそのってしまおうとする
のである。このドラマで面白おもしろいのは、世界せかいがこのままでありつづけてくれればいいと
いう、いわばマジョリティとして当然とうぜんねがいを人々ひとびとが、あきらかに悪人あくにんとしてえが
れているてんである。そして、「15 APOCALYPSE 啓示けいじ」では、かれにん自身じしん変革へんかく
本当ほんとうただしいことなのかどうかまよいはじめる。そして、おとうと直也なおやが、自分じぶんたちがも
しかしたらあいだちがった存在そんざいなのではないかという疑心暗鬼ぎしんあんきられだしたとき、あにじき
ひとは、こうこたえている。
だれにものぞまれなくったっていい。おれたちがつくれる未来みらいがあれば、おれはそれをもち
む。おれとオマエに存在そんざいする意味いみがあれば、なにでもいい、おれはそれをのぞむ。たとえ、
なか全部ぜんぶてきにまわすことになってもな」
 この「なか全部ぜんぶてきにまわすことになっても」が、「未成年みせいねん」においてモカがヒ
ロにかたった、「世界中せかいじゅうてきにまわしても、貴方あなたまもってあげる」とかさなることは
までもない。このように、「NIGHT HEAD」は、マイノリティの視点してんがかなり鮮明せんめいかたち
表現ひょうげんされている作品さくひんであるとえよう。
 (6) その
 飯田いいだ譲治じょうじは、野島のじま同様どうよう、マイノリティにたいする自覚じかくてき問題もんだい意識いしきをもつ作家さっからし
く、そのの、「すな粧妙最後さいご事件じけん」(主演しゅえん:浅野あさの温子あつこ柳葉やなぎば敏郎としお、1995ねん7〜9がつ
放送ほうそう)でも、これがつよされている。「すな粧妙最後さいご事件じけん」では、警視庁けいしちょう
のプロファイリング・チームの天才てんさいてき研究けんきゅういんが、快楽かいらく殺人さつじん犯罪はんざい心理しんり探求たんきゅうしてい
るうちに、犯罪はんざいしゃしん世界せかいなか本当ほんとうはいってしまい、みずか殺人鬼さつじんきしていく。
また、この作品さくひんからは、マジョリティにたいする憎悪ぞうおねんがそこはかとなくにおってく
る。
 また、岡田おかだめぐみは、「イグアナのむすめ」(主演しゅえん:菅野かんの美穂みほ川島かわしまなお原作げんさく :萩尾はぎおのぞむ
、1996ねん4〜6がつ放送ほうそう)で、女子高じょしこうせい劣等れっとうかん過剰かじょう自意識じいしきから自分じぶんのことが本当ほんとう
みにくいイグアナにえてくるという、思春期ししゅんきしん模様もようえがいている。このドラマは、
妄想もうそう世界せかい現実げんじつ世界せかい交錯こうさくさせることにより、幻想げんそうてき雰囲気ふんいきをかもしだしてい
る。また、岡田おかだは、こののち、ベトナムじん留学生りゅうがくせいのことをテーマにあつかった「ドク」(あるじ
えんじ:香取かとり慎吾しんご安田やすだ成美まさみ、1997ねん放送ほうそう)の脚本きゃくほんいているが、これなどは、今回こんかいいち
れんのブームにリンクする作品さくひんであるとえよう。
 また、マイノリティの視点してんとは若干じゃっかんおもむきことにするが、筆者ひっしゃが「清貧せいひんドラマ」と名付なづけ
けたところの一連いちれん作品さくひんも、障害しょうがいしゃドラマブームに関与かんよしていたとおもわれる。「清貧せいひん
ドラマ」という命名めいめいは、もちろんベストセラーとなった中野なかの孝次たかじの『清貧せいひん思想しそう』か
らとったものである。このジャンルにぞくする作品さくひんとして、筆者ひっしゃづいただけでも、
わたし運命うんめい」(主演しゅえん:坂井さかい真紀まきあずま幹久みきひさ、1994ねん10がつ〜95ねん3がつ放送ほうそう)、「きみって
から」(主演しゅえん:本木もとぎ雅弘まさひろ鶴田つるた真由まゆ、1996ねん4〜6がつ放送ほうそう)、「コーチ」(主演しゅえん:浅野あさのあつし
玉置たまき浩二こうじ、1996ねん7〜9がつ放送ほうそう)、「それがこたえだ」(主演しゅえん:三上みかみ博史ひろふみ萩原はぎはら聖人まさと
1997ねん7〜9がつ放送ほうそう)、「こんなこいはなし」(主演しゅえん:真田さなだ広之ひろゆき玉置たまき浩二こうじ松嶋まつしま菜々子ななこ
1997ねん7〜9がつ放送ほうそう)などがある。
 清貧せいひんドラマに登場とうじょうするのは、まずしくとも、素朴そぼくきよらかな人生じんせいおくっている人々ひとびと
が、このドラマのなかでは、かれらが、世間せけんてきにはトップエリートとわれているものあたい
かん根底こんていからるがしてしまうのである。そして、清貧せいひんドラマには、もうひと重要じゅうよう
特徴とくちょうがある。それは、エリートたちが一方いっぽうてきに「清貧せいひん思想しそう」によって折伏しゃくぶくされる
のではなく、両者りょうしゃあいだに、あるしゅ相互そうご作用さようのようなものがはたらくというてんである。す
なわち、素朴そぼくかたをしている人々ひとびともまた、エリートたちの力強ちからづよ価値かちかんなまきざ
まからおおくをまなびとり、影響えいきょうけるのである。ゆえに、このドラマには、従来じゅうらいのよ
うな確固かっことした正義せいぎあく図式ずしき存在そんざいしない。
 今日きょう、バブルの崩壊ほうかいから経済けいざい効率こうりつ主義しゅぎたいする疑問ぎもんつよまり、地球ちきゅう環境かんきょう問題もんだいから
も、個人こじんのエネルギー消費しょうひりょうらすことは、人類じんるいほろびないための切実せつじつ課題かだいとな
りつつある。清貧せいひんもとめる価値かちかん現実げんじつてき思想しそう課題かだいとなっている今日きょうだからこそ、
このような作品さくひんてきたのではないだろうか。
 また、アニメの世界せかいでは、この傾向けいこうはさらにつよまっているようにえる。たとえば、
記録きろくてきだいヒットとなった「もののけひめ」は、たたら、エミシ、白拍子しらびょうしもり住人じゅうにん
精霊せいれいなど、日本にっぽんにおける異端いたんしゃ視点してんからえがかれており、時代じだい設定せってい室町むろまち時代じだいにも
かかわらず、武士ぶし農民のうみんははるかに背景はいけいしやられている。また、「しん世紀せいき エ
ヴァンゲリオン」では、戦闘せんとうようロボットのはなしでありながら、てき少年しょうねんんだこころ
世界せかいとおしてたたかいが描写びょうしゃされていく。
 これらは、障害しょうがいしゃこそ登場とうじょうしないが、野島のじま作品さくひんいつにするものとおもわれる。
5 障害しょうがいしゃドラマブーム
 野島のじましんの「未成年みせいねん」ののち本格ほんかくてきはじまった一連いちれん障害しょうがいしゃドラマは、秀逸しゅういつ作品さくひん
おおい。そして、これらのドラマは、以上いじょう議論ぎろんまえてながめてみるとよくえて
くる。
 (1) オンリー・ユー
 たとえば、「オンリー・ユー あいされて」(主演しゅえん : 大沢おおさわたかお・鈴木すずき京香きょうか、1996ねん
1〜3がつ放送ほうそう)は、知的ちてき障害しょうがいしゃ青年せいねん(大沢おおさわたかお)と有名ゆうめいモデル(鈴木すずき京香きょうか)とのラブス
トーリーだが、この作品さくひんにはおな知的ちてき障害しょうがいしゃ主人公しゅじんこうにした「フォレスト・ガンプ」
欠点けってん見事みごとまぬかれている。たとえば、大沢おおさわたかおえんじる主人公しゅじんこう知的ちてき障害しょうがい青年せいねんは、
高嶺たかねとのはなともおもえる女性じょせいのことをふかあいするが、ガンプの場合ばあいとは対照たいしょうてきに、その
執心しゅうしんぶりは視聴しちょうしゃ辟易へきえきさせるほどである。そして主人公しゅじんこうは、とうとう彼女かのじょしん
めてしまうのである。そして、「フォレスト・ガンプ」とはことなり、主人公しゅじんこう青年せいねん
がとこかへってはくことはなく、かれにとって幸福こうふく絶頂ぜっちょうなかでドラマはまく
る。
 さきべたように「フォレスト・ガンプ」には、ファンタジーてき要素ようそがたくさん含
まれているにもかかわらず、肝心かんじんなところはややかなリアリズムによってつらぬかれて
いた。その反対はんたいに「オンリー・ユー」は、ファンタジーてき要素ようそはほとんどないにもか
かわらず、主人公しゅじんこうねがいは現実げんじつ原則げんそくえてかなえられていくのである。
 (2) ピュア
 もうひとつやはり、知的ちてき障害しょうがいしゃ主人公しゅじんこうにしたドラマに「ピュア」(主演しゅえん :和久井わくいうつ
つつみ真一しんいち、1996ねん1〜3がつ放送ほうそう)という作品さくひんがある。「ピュア」では、和久井わくい映見えみ
好演こうえんした、際立きわだった才能さいのうしめす、自閉症じへいしょうかサバン症候群しょうこうぐんおもわせる女性じょせい主人公しゅじんこう
である。そして、主人公しゅじんこうはやがて、彼女かのじょ作品さくひん取材しゅざい新聞しんぶん記者きしゃ青年せいねん(つつみ真一しんいち)
のことをしたうようになる。
 このドラマの脚本きゃくほんは、「ほし金貨きんか」のりゅうきょ由佳ゆかさとであり、この作品さくひんは「ほし金貨きんか
同様どうよう異人いじんたんかたちをとっている。しかし、「ピュア」は、「ほし金貨きんか」よりはるか
興味深きょうみぶか作品さくひんとなっている。すなわち、ここでは、主人公しゅじんこう知的ちてき障害しょうがいしゃではなく、
寡黙かもく新聞しんぶん記者きしゃ青年せいねんほうがストレンジャーとしてえがかれており、ある意味いみで、“ぎゃく
異人いじんたん”とでもいうべき世界せかい成立せいりつしているのである。これは特筆とくひつすべきてんであろ
う。そして、異人いじんたんのパターンどおり、この新聞しんぶん記者きしゃははかなくり、主人公しゅじんこうまえ
からっていく。全体ぜんたいとして、この作品さくひんこんひと成功せいこうしていないが、この発想はっそう
おおいに評価ひょうかされてよい。
 (3) あいしてくれとってくれ
 「あいしてくれとってくれ」(主演しゅえん : 豊川とよかわ悦司えつし常盤貴子ときわたかこ、1995ねん7〜9がつねん放送ほうそう)
もまたすぐれた作品さくひんである。これは、聴覚ちょうかく障害しょうがいしゃである新進しんしん気鋭きえい画家がか(豊川とよかわ悦司えつし)
と、かれこいをするけん聴者ちょうしゃ女性じょせい(常盤貴子ときわたかこ)とのあいだのラブストーリーである。「ほしかね
貨」も聴覚ちょうかく障害しょうがいしゃ主人公しゅじんこうにしたドラマであるが、両者りょうしゃ比較ひかくしてみるといろいろと
面白おもしろい。
 たとえば、「ほし金貨きんか」では、恋人こいびとしたしい友人ゆうじん以外いがいはみな筆談ひつだんをするというつめたい
リアリズムがかくれするが、「あいしてくれとってくれ」では、喫茶店きっさてんのマスター
美術びじゅつ関係かんけいしゃなど、どうかんがえても手話しゅわとあまりえんのなさそうな人々ひとびとまで手話しゅわ使つかいこ
なすという、あたたかな荒唐無稽こうとうむけいさが横溢おういつしている。
 また、「ほし金貨きんか」では、聴覚ちょうかく障害しょうがい手話しゅわたいしてネガティブな価値かちしかあたえられ
ていないようにえるのだが、「あいしてくれとってくれ」では、聾唖ろうあという障害しょうがい
が、“寡黙かもくで、ニヒルで、カッコイイ”という、ポジティブな価値かちむすびついてい
る。また、かれのしなやかなうごきが画面がめんいちはいひろがり、うつくしいパフォーマンスと
なってひろげられていく。「あいしてくれとってくれ」の手話しゅわ指導しどう丸山まるやまひろしであ
るが、これからも、手話しゅわうつくしさの追求ついきゅうがはっきりと意図いとされたものであったとおも
れる。
 アメリカでは、手話しゅわ聴覚ちょうかく障害しょうがいしゃ文化ぶんか一端いったんにな独自どくじ言語げんご体系たいけいであるという
主張しゅちょうがなされており、政治せいじてきにもおおきな勢力せいりょくとなっている。このかんがかたからすれば、
音声おんせいトレーニング、補聴器ほちょうき人工じんこう内耳ないじなどはもってのほかで、けん聴者ちょうしゃ言語げんご体系たいけい
たりわせたりする必要ひつようまったくないという、ラディカルな思想しそうへとむすびついていく。
日本にっぽんでは、聴覚ちょうかく障害しょうがいしゃ政治せいじてき運動うんどうはこれほど活発かっぱつではないが、手話しゅわげきなどのかたちで、
聴覚ちょうかく障害しょうがいしゃ独自どくじ文化ぶんか主張しゅちょうするといううごきはある。また、身体しんたい障害しょうがいしゃのグループで
も、「劇団げきだん たいへん」など、身体しんたい障害しょうがいしゃ身体しんたい表現ひょうげんによる追求ついきゅうしようという芸術げいじゅつかつ
どうがある。
 ちなみに、「劇団げきだん たいへん」を主宰しゅさいする金満きんまんさとは、今回こんかい障害しょうがいしゃドラマブームにたい
ては否定ひていてきで、「本物ほんもの障害しょうがいしゃ主人公しゅじんこうになってやればいい。言語げんご障害しょうがいのキツイやく
だったら、ホントの言語げんご障害しょうがいひとれてきてやればいい」とべている(「スパ」
1996ねん3がつ27にちごう、「障害しょうがいしゃたちがわらうメディアの『障害しょうがいしゃブーム』」)。きむ満里まりのコ
メントはもっともであり、先年せんねん世界せかいメディア会議かいぎでも、当事とうじしゃ俳優はいゆう養成ようせいつよく訴
えられており、げん海外かいがいでは、しょうるような演技えんぎりょく発揮はっきする当事とうじしゃ俳優はいゆう輩出はいしゅつ
ているという。日本にっぽんちか将来しょうらい是非ぜひそうなってほしいとねがうが、しかし、当事とうじしゃの俳
ゆう出演しゅつえんするということと、ドラマに内在ないざいする思想しそうせいとは、べつろんじられなければな
らないことなのである。
6 むすぶ び
 障害しょうがいしゃドラマのブームは、すでにひとつのぶしえつつあるようである。このブー
ムは、「ほし金貨きんか」(1995ねん4〜6がつ)にはじまったとおもうが、「ぞくほし金貨きんか」(主演しゅえん :
酒井さかい法子のりこ大沢おおさわたかお、1996ねん10〜12がつ)では、脚本きゃくほんりゅうきょ由佳ゆかさとから山崎やまざき淳也あつや
交代こうたいしたが、筆者ひっしゃは、この「ぞくほし金貨きんか」によって障害しょうがいしゃドラマ・ブームに一応いちおう
ピリオドがたれたと解釈かいしゃくしている。
 すなわち、この作品さくひんでは、初期しょき野島のじま作品さくひんにおけるかくしあじてきであった障害しょうがいしゃそん
ざいが、強烈きょうれつなスパイスへと様変さまがわりし、ストーリーに山場やまばたせるために登場とうじょう人物じんぶつ
ぎからぎへと障害しょうがいしゃになっていき、しかもそれがどんどんエスカレートしてい
く。いわば、障害しょうがいしゃになるということにたいして、従来じゅうらいおな意味いみ付与ふよされたわ
けである。がカタルシスにおいて不可欠ふかけつであるというのは、おそらくドラマの発生はっせい
ともにあったふる様式ようしきであろうが、これに、障害しょうがいしゃになるということが安易あんいにつけ
えられるべきではない。なぜならそれは、障害しょうがいしゃになることを悲劇ひげき不幸ふこうなすはつ
そうへとつながるからである。筆者ひっしゃは、なに障害しょうがいしゃになることを悲劇ひげきてき文脈ぶんみゃくあつかえ
うことすべてがいけないとっているわけではないが、すくなくともそれが、様式ようしきとし
固定こていされるようなことはあってはならないとおもう。
 「ぞくほし金貨きんか」は、エンターテインメントとしてはおそろしく成功せいこうした作品さくひんであ
る。脚本きゃくほん交代こうたいしたとはえ、異人いじんたんとして出発しゅっぱつした「ほし金貨きんか」の続編ぞくへんが、この
ような人道的じんどうてきドラマへと帰結きけつしたのは、ある意味いみ必然ひつぜんであったのではないかとも
おもわれる。そして、障害しょうがいしゃドラマの潮流ちょうりゅう地下ちかにもぐりこんだたとしても、清貧せいひんドラ
マはいまもって健在けんざいであるし、もっとおおきくメディア全体ぜんたい見渡みわたせば、マイノリティの
視点してんはさらに胎動たいどうつよめつつあるように見受みうけられる。それは、「もののけひめ」や
しん世紀せいき エヴアンゲリオン」のちょう人気にんきぶりをてもあきらかであろう。今後こんごのさらな
展開てんかいたのしみである。



障害しょうがいしゃ)・と・メディア・芸術げいじゅつ  ◇全文ぜんぶん掲載けいさい
TOP HOME (http://www.arsvi.com)