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森正司「障害個性論―知的障害者の人間としての尊厳を考える」
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障害しょうがい個性こせいろん

知的ちてき障害しょうがいしゃ人間にんげんとしての尊厳そんげんかんがえる―

もり 正司しょうじ 1999

last update: 20151221


          目次もくじ
 1.序論じょろん
   1.1背景はいけい説明せつめい
     (1)「障害しょうがい個性こせいである」という言説げんせつ経緯けいい
     (2)障害しょうがい個性こせいろん周辺しゅうへん
     (3)「障害しょうがい個性こせいろんへ」、「障害しょうがい個性こせいろんから」
     (4)知的ちてき障害しょうがいしゃによる障害しょうがい理解りかい障害しょうがい個性こせいろん
     (5)障害しょうがい個性こせいろん主張しゅちょうされる状況じょうきょう
   1.2問題もんだい提起ていき
 2.本論ほんろん
   2.1障害しょうがい個性こせいろん肯定こうていてき立場たちばかんがえる
    (1)安積あさか純子じゅんこ
    (2)石川いしかわ じゅん
    (3)土屋つちや貴志たかし
    (4)小池こいけ将文まさふみ
   2.2障害しょうがい個性こせいろん否定ひていてき立場たちばかんがえる
    (1)久本ひさもと洋二ようじ
    (2)豊田とよだ正弘まさひろ
   2.3肯定こうてい否定ひていえる立場たちばかんがえる
     立岩たていわしん
   2.4障害しょうがい個性こせいろん補完ほかんする
    (1)あらためて「障害しょうがい個性こせいろん」をかんがえる
    (2)「他者たしゃ」をみとめる
    (3)「他者たしゃ」としての知的ちてき障害しょうがいしゃ
    (4)限界げんかい
  3.むす
    文献ぶんけんひょう
    ちゅう
 4.謝辞しゃじ

1. 序論じょろん

1.1背景はいけい説明せつめい

(1)「障害しょうがい1は個性こせいである」という言説げんせつ経緯けいい
 この言説げんせつ障害しょうがいしゃ解放かいほう運動うんどうなかから誕生たんじょうしており、1970年代ねんだい脳性のうせいマヒしゃ団体だんたいあおしばかい」などでさかんにもちいられていた。「『障害しょうがい=かけがえのない個性こせい』は『あおしば以来いらい障害しょうがいしゃ運動うんどうでは一種いっしゅ綱領こうりょうてき命題めいだいである。(1992 石川いしかわ じゅん 『アイデンティティ・ゲーム』p127)」 このような表現ひょうげんでなくともおなおもいをいていた障害しょうがいしゃおおかったようである(1998 石渡いしわた和実かずみ 『障害しょうがいしゃ問題もんだい基礎きそ知識ちしき』)。またこのような障害しょうがいしゃ自身じしん自己じこ主張しゅちょうけるかたちで障害しょうがいしゃ理解りかいふか人々ひとびとあいだにこのかんがかたひろがったようである。
 政府せいふ閣議かくぎ決定けってい刊行かんこうする『平成へいせい年版ねんばん障害しょうがいしゃ白書はくしょ バリアフリー社会しゃかいをめざして』(1995ねん総理府そうりふ)でこの障害しょうがい個性こせいろんりあげた部分ぶぶんがある。だいしょうだいせつ障害しょうがいしゃよっつの障壁しょうへき」の4番目ばんめに「意識いしきじょう障壁しょうへき」として社会しゃかい障害しょうがいしゃかん変遷へんせん過程かていが4段階だんかいけてべられている。
 だいいち段階だんかい 無知むち関心かんしんによる偏見へんけん差別さべつ障害しょうがいしゃかん
 だい段階だんかい あわれみ、同情どうじょう障害しょうがいしゃかん
 このふたつの障害しょうがいしゃかんは、障害しょうがいしゃ障害しょうがいのないひととはことなった特別とくべつ存在そんざいてん共通きょうつうしており、意識いしきじょう障害しょうがいそのものとえる。
 だいさん段階だんかい 現在げんざい主流しゅりゅうといえる「共生きょうせい」の障害しょうがいしゃかん
「ノーマライゼーション」「インテグレーション」の理念りねんはこれによる。
 だいよん段階だんかい障害しょうがい個性こせいである」という障害しょうがいしゃかん
 健常けんじょうしゃ障害しょうがい個性こせいろんとらえる場合ばあいにも様々さまざま問題もんだい疑問ぎもんがあるが、政府せいふ刊行かんこうする白書はくしょにこのかんがえがれられる場合ばあいはさらに問題もんだい疑問ぎもん湧出ゆうしゅつする。これらの問題もんだいについてものち検討けんとうする。
        (ここまでもりによる「意識いしきじょう障壁しょうへき」のまとめ)
(2)障害しょうがい個性こせいろん周辺しゅうへん
 このように障害しょうがい個性こせいろんはじめに障害しょうがいしゃ主張しゅちょうし、そのあと健常けんじょうしゃがその表現ひょうげんもちいていくという経緯けいいがある。しかしここでかんがえておかなければならないのは障害しょうがいしゃが、あるもの(自分じぶん障害しょうがい)をなに大切たいせつなもの(個性こせい)として提示ていじしなくてはならないこと自体じたい問題もんだいではないだろうか(立岩たていわ1997,p401)。現在げんざい当事とうじしゃ健常けんじょうしゃ)が感受かんじゅするある属性ぞくせい(たとえば障害しょうがい)をもつ存在そんざい可能かのうせい消去しょうきょすることがおこなわれている(出生しゅっしょうぜん診断しんだん受精卵じゅせいらん診断しんだん)。「障害しょうがい個性こせいである」と主張しゅちょうすることで自己じこ障害しょうがい障害しょうがいしゃ肯定こうていしても、個性こせいであるとべた障害しょうがいは、出生しゅっしょうぜん診断しんだんなどがおこなわれている社会しゃかいではあきらかに否定ひていされているであろう。
 たとえば、障害しょうがいんだ母親ははおやは「障害しょうがい」が社会しゃかい個人こじんから否定ひていてきにのみ価値かちづけられていることをおもらされる。この否定ひていてき障害しょうがいかんそれ自体じたいなおすことが必要ひつようとなる。そこでいくつかの立場たちばがある(『なま技法ぎほう』p85)。
・「障害しょうがい」が障害しょうがいとして社会しゃかいてき構成こうせいされ、理解りかいされる場合ばあい作用さようする暗黙あんもく基準きじゅん(それがたん生産せいさん能力のうりょく優越ゆうえつてき資本しほん主義しゅぎてき合理ごうり主義しゅぎのものでしかない)としてそれを批判ひはんしていく立場たちば。[具体ぐたいてきには、おおやけ教育きょういくから企業きぎょう業績ぎょうせき資本しほん主義しゅぎてき合理ごうり主義しゅぎ)までをつらぬ近代きんだい社会しゃかい根本こんぽん原理げんりである、良質りょうしつ均一きんいつ労働ろうどうりょく存在そんざいもとめる能力のうりょく主義しゅぎ限定げんてい、ないし否定ひていする。]
・「障害しょうがい」を「個性こせい」として理解りかいし、それを積極せっきょくてき表現ひょうげんしていこうとする立場たちば。この立場たちばがこの論考ろんこう検討けんとうされる主題しゅだいである。
・みんな[障害しょうがいしゃ]のりない部分ぶぶんおぎないつつともきようとする立場たちば

(3)「障害しょうがい個性こせいろんへ」、「障害しょうがい個性こせいろんから」
 健常けんじょうしゃかたとして、自分じぶんのある部分ぶぶんきだが、ある部分ぶぶんきらいだ、できるならなおしたい、と大抵たいていひと気軽きがるくちにするし、かんがえる。
 ところが障害しょうがいしゃ場合ばあい、つぎのような問題もんだいがある。「基本きほんてき問題もんだいは、障害しょうがいがことさらにされ、否定ひていされ障害しょうがいひとむすびつけられ、そのひと全体ぜんたい否定ひていされてしまうことである」(『なま技法ぎほう』p162)。このように社会しゃかいないし個人こじんにより「障害しょうがい」にたいして否定ひていてき価値かちづけがなされている。この否定ひていたいして障害しょうがいというまけ価値かち転換てんかんして価値かちあるものと主張しゅちょうする言説げんせつあらわれた。この障害しょうがい個性こせいろん(<3>)が主張しゅちょうされる以前いぜんふたつのかんがかた(<1>、<2>)があり、さらに障害しょうがい個性こせいろんえる理論りろんづけとしてふたつのかんがかた(<4>、<5>)がある。
<1>「障害しょうがい」と自分じぶん本体ほんたいとをはなべつのところで自分じぶん価値かち
 けをこころみる方向ほうこうがある。
  この方法ほうほう問題もんだいてんは、障害しょうがいおとしめる健常けんじょうしゃ文化ぶんかとではなく、貶
 められる障害しょうがいたたかってしまうところにある。つまり問題もんだい社会しゃかい
 かえ契機けいきよわい。
<2>「障害しょうがい」を否定ひていするために「障害しょうがい」を克服こくふくする方法ほうほうえらばれる
 場合ばあいもあった。そのために補償ほしょう努力どりょくおこなわれる。
<3>障害しょうがい個性こせいろん登場とうじょうして「障害しょうがい」を肯定こうていし、マイナスの価値かちづけ
転換てんかんし、「障害しょうがいはかけがえのない個性こせいである」と主張しゅちょうされたの
であった。
<4>「障害しょうがい個性こせいである」とみとめたうえで「障害しょうがい/健常けんじょう」という二分にぶん
 ほう存立そんりつそのものを解体かいたいする。
<5>障害しょうがい個性こせいろん枠組わくぐみからる。個別こべつ障害しょうがいいかわるいかをはん
だんするというからりる。「障害しょうがい個性こせいである」ととても認識にんしき
できない、あるいはその当事とうじしゃ自身じしん主張しゅちょうできない場合ばあい、すなわ
意志いし起点きてんとする原則げんそく通用つうようしないのではないかとかんがえられ
場合ばあい具体ぐたいてきには知的ちてき障害しょうがいしゃ)に、この障害しょうがい個性こせいろんおぎなかんが
が、わたしたち健常けんじょうしゃがわ必要ひつようとされる。

(4)知的ちてき障害しょうがいしゃ2による障害しょうがい理解りかい障害しょうがい個性こせいろん
 はじめに、身体しんたい障害しょうがいしゃ知的ちてき障害しょうがいしゃにおける障害しょうがいちがいについてかんがえてみたい。石川いしかわじゅん朝日新聞あさひしんぶん<ひとらん>(1994.4.19)で「自分じぶんから障害しょうがいかずにきたい」とべている。これは前述ぜんじゅつの(3)の<1>(障害しょうがい自分じぶん本体ほんたいはなし、べつのところで自分じぶん価値かちづけをこころみる方向ほうこう)の否定ひていであるが、全盲ぜんもうである障害しょうがいいたり、かないようなものとして自己じこからはな可能かのうなものとしてとらえている。つまり、身体しんたい障害しょうがい自己じこ領域りょういきから追放ついほうできるようなものとして、当事とうじしゃ意識いしきされるうるものなのである。これにたいして、知的ちてき障害しょうがいはどのようなものとして当事とうじしゃ意識いしきされうるだろうか。
 障害しょうがいしゃ自己じこの「障害しょうがい」を理解りかいする場合ばあい身体しんたい障害しょうがいしゃ障害しょうがい理解りかいと、知的ちてき障害しょうがいしゃ障害しょうがい理解りかいとはちがうであろう。身体しんたい障害しょうがい場合ばあい肢体したい不自由ふじゆうなどのように、自己じこ障害しょうがい身体しんたいてき損失そんしつなどにより、その能力のうりょく低下ていかしていることなどをよく理解りかいできる。ところが知的ちてき障害しょうがいしゃ自己じこ障害しょうがいをどのように理解りかいしているであろうか。

 「たとえば、まれるとき酸素さんそすくなすぎたために大脳だいのう損傷そんしょうけたというように、障害しょうがい原因げんいんをわかりやすく説明せつめいすることは重要じゅうようである。本人ほんにんおおくは、障害しょうがいとは実際じっさいなに意味いみしているのか、それはどのようなものなのかについて非常ひじょう不確ふたしかで、はっきりと理解りかいできていない。そのため、訓練くんれんすれば障害しょうがいけるのだろうか、あるいは障害しょうがい徐々じょじょえていくことはあるのだろうかなどとかんがえてしまう。」(1994 柴田しばたひろしわたる尾添おぞう和子わこ知的ちてき障害しょうがいをもつひと自己じこ決定けっていささえる』 p25)

 「ウレ「知的ちてき障害しょうがいがどんなことなのからないひとは、たくさんいます。わたしだってまだりません。それがほんとうはどんなことか、だれもおしえてくれなかったから」
 ステン「それはキズのようなものじゃないの?まれるときとか、ほかのときについた…」
 ブリット「わたしのおかあさんは、わたしまれたとき、大脳だいのうにキズがついたと、わたしはなしてくれた。それで、わたしは、そうだとおもってきたの」」
  (「わたしたちはっています・知的ちてき障害しょうがいとはどんなことかを」本人ほんにんよう学習がくしゅうしょ前掲ぜんけいp29)

 知的ちてき障害しょうがいしゃ知的ちてき障害しょうがい自己じこ認識にんしきさせるには本人ほんにん率直そっちょくはない、わかりやすく説明せつめいすればある程度ていど理解りかいされる。自分じぶんものをしたときおつりの計算けいさんができないとか、はじめての場所ばしょ自分じぶんひとりでけないなど理解りかいりょく判断はんだんりょくがあまりないことが自己じこ理解りかいされる場合ばあいもある。しかしほとんど言語げんごをもたない重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいしゃ場合ばあい自己じこ知的ちてき障害しょうがい理解りかいさせることは非常ひじょう困難こんなんであろう。かれ自身じしんが「知的ちてき障害しょうがい個性こせいである」と意識いしき理解りかい主張しゅちょうすることは非常ひじょうむずかしいとかんがえられる。障害しょうがい個性こせいろんはその主張しゅちょうされはじめた経緯けいいからみると、障害しょうがいしゃがわから健常けんじょうしゃないし社会しゃかいがわけて主張しゅちょうされてきた。ところがこの「障害しょうがいしゃから」は「すべての障害しょうがいしゃから」ではないのである。運動うんどう主体しゅたいになることができない障害しょうがいしゃ存在そんざいする。

(5)障害しょうがい個性こせいろん主張しゅちょうされる状況じょうきょう
  障害しょうがい個性こせいろん主張しゅちょうされるとき、どのような立場たちばだれ対象たいしょうとしてこの主張しゅちょうがなされるかで、いくつかの状況じょうきょうかんがえられる。ここで方向ほうこうづけをし、整理せいりしておくことにする。わたし本稿ほんこうろんずるのは、「障害しょうがい個性こせいである」という言説げんせつ命題めいだいとして真偽しんぎうのではなく、この言説げんせつがどのような立場たちばだれだれべられたときに、どのような効果こうか影響えいきょうはたらくのかを考察こうさつすることである。

     一般いっぱん健常けんじょうしゃ  障害しょうがいしゃへ いちじるしい抑圧よくあつ道具どうぐ…<1>
健常けんじょうしゃ
     介助かいじょしゃ家族かぞく  障害しょうがいしゃ  はげまし(肯定こうてい)…<2>
                  えない(否定ひてい)…<3>

     身体しんたい障害しょうがいしゃ   障害しょうがいしゃ  障害しょうがい受容じゅよう効果こうか,ピア・カウンセリング…<4>
障害しょうがいしゃ          健常けんじょうしゃ  障害しょうがいしゃかん転換てんかん…<5>
     知的ちてき障害しょうがいしゃ        主張しゅちょうすること自体じたい困難こんなん…<6>
                            (1)

 このの<6>で注意ちゅういすべきは、知的ちてき障害しょうがいしゃが「障害しょうがい個性こせいである」と主体しゅたいてき主張しゅちょうすること自体じたい困難こんなんであるという意味いみであり、「障害しょうがい個性こせいである」という主張しゅちょう第三者だいさんしゃである家族かぞく介助かいじょしゃにはえるであろうことを意味いみする。また、障害しょうがいしゃ家族かぞくにもつ健常けんじょうしゃは、一般いっぱん健常けんじょうしゃちが障害しょうがいへの認識にんしきがあるのではないか。<2>と<3>という相反あいはんするとらかたになるのはなぜか。「障害しょうがい個性こせいなんだよ、だから普通ふつうきたらいいんだよ」と家族かぞくとしての障害しょうがいしゃはげますことが可能かのうなのは、身体しんたい障害しょうがいしゃ軽度けいどちゅう知的ちてき障害しょうがいしゃ対象たいしょうとする場合ばあいになるのではないか。重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいしゃ家族かぞくにもつものが、第三者だいさんしゃかって「このにはこの独自どくじ世界せかいひろがっていて本当ほんとう個性こせいのあるだよ」とはえるが、家族かぞくとしての重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいしゃかって「おまえ知的ちてき障害しょうがい個性こせいなんだよ、だから普通ふつうきたらいいんだよ」とっても、理解りかいができないので、とてもえないということになる。知的ちてき障害しょうがいしゃ主張しゅちょう決定けってい能力のうりょく問題もんだいとしたいのはこの理由りゆうによる。また、この問題もんだい知的ちてき障害しょうがいしゃ主張しゅちょう決定けってい能力のうりょくなまなかにどう位置いちづくのかをわたしたちにかんがえさせることになる。主張しゅちょう決定けってい能力のうりょく起点きてんとして能動のうどうてき主体しゅたいてききていくことだけが人間にんげんにとってのぞましいかたなのかをうことにもなる。ところで、「障害しょうがい個性こせいである」をa)「身体しんたい障害しょうがい個性こせいである」とb)「知的ちてき障害しょうがい個性こせいである」とけてかんがえてみると、a)は自己じこによる自己じこ障害しょうがい把握はあく他者たしゃによる外側そとがわ健常けんじょうしゃ)からの障害しょうがい把握はあく両方りょうほう可能かのうであるのにたいして、b)は他者たしゃによる外側そとがわからの障害しょうがい把握はあく中心ちゅうしんになるであろう(1.1(4)参考さんこう)。この分類ぶんるい考察こうさつもちいる。

1.2 問題もんだい提起ていき
 わたしは「障害しょうがい個性こせいである」という言説げんせつはじめていたとき、違和感いわかんった。違和感いわかんったこの言説げんせつ意味いみするところを、調しらべてみたいとおもった。よるおそまち徘徊はいかいする重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいしゃ出会であうことがある。まちあかりのなかをいつまでもあるいている。また毎朝まいあさバス停ばすていんで両足りょうあし体重たいじゅう交互こうごうつしながら、作業さぎょうしょかうバスをっている年老としおいた知的ちてき障害しょうがいしゃう。わたしかれらの人生じんせいがどのような意味いみっているのかりたい。「どのような意味いみだれつのか」というのは、「かれ自身じしんにとっての意味いみ」であるし、そのかれく「われわれにとっての意味いみ」である。
 「障害しょうがい肯定こうていする」「障害しょうがい個性こせいである」と障害しょうがいしゃがわ主張しゅちょうすることになったのは、この社会しゃかい健常けんじょうしゃ中心ちゅうしんとする)がかれら(障害しょうがいしゃ)にたいして、否定ひていてき規定きていをしてきたからである。たとえば、「人間にんげんとして価値かちひくい」「精神せいしんてき経済けいざいてき負担ふたんして家族かぞく不幸ふこうになる」「本人ほんにん不幸ふこうである」「社会しゃかいてき有用ゆうようでない」「社会しゃかい負担ふたんになる」「周囲しゅういものにとって不都合ふつごうである」「手間てまがかかる」「必要ひつよう人間にんげんである」「経済けいざい社会しゃかいやくにたない」「生産せいさん活動かつどういていない」。このようなことばや眼差まなざしがみずからにおくられることにこうし、自己じこさい規定きていをし、自己じこ定義ていぎ変更へんこううなが運動うんどう展開てんかいし、わたしたち・社会しゃかいがわに「障害しょうがいじつ個性こせいなのである」ということばをおくかえしたのである。このことでこの社会しゃかいにある「どこまで障害しょうがいしゃでなくなるか」、「どこまで障害しょうがい克服こくふくするか」、という問題もんだい設定せっていから、「いまのままの自分じぶんでよいのだ」という自己じこ肯定こうていへ、みずからを移動いどうさせようとしたのである。障害しょうがい個性こせいろん主張しゅちょうされるとき、肯定こうてい立場たちばをとるか、否定ひてい立場たちばるか、どちらにもくみしないのかその意見いけん立脚りっきゃくてん考察こうさつすることになる。また本稿ほんこう最終さいしゅう目標もくひょうである知的ちてき障害しょうがいしゃ人間にんげんとしての尊厳そんげんについては、本人ほんにんでありながら肯定こうてい否定ひてい主張しゅちょう自体じたい困難こんなんである(ほぼ不可能ふかのう場合ばあいもある)のであらたな枠組わくぐみで考察こうさつこころみられることになる。障害しょうがい個性こせいろん主張しゅちょうする場合ばあい、<6>の場合ばあいのぞいていずれの立場たちば主体しゅたいてき主張しゅちょうであることが確認かくにんできる。ところが<6>の場合ばあいは、主体しゅたいてき主張しゅちょう軽度けいどちゅう知的ちてき障害しょうがいしゃ適切てきせつ援助えんじょがなされた場合ばあいかぎりなされるものとかんがえられるのではないか。ここに障害しょうがい個性こせいろん運動うんどうのスローガンとすることの限界げんかいがあり、これを補完ほかんするこころみがなされる。決定けってい能力のうりょく生産せいさん能力のうりょくがこの社会しゃかいでは重視じゅうしされており、健常けんじょうしゃはこの両者りょうしゃそなえている。また身体しんたい障害しょうがいしゃ決定けってい能力のうりょくはあり、生産せいさん能力のうりょくけるところがあるが知的ちてき労働ろうどうしゃになりうるということで、この知的ちてき能力のうりょく優位ゆうい社会しゃかいでは知的ちてき労働ろうどうしゃたちの支持しじることができる。これにたいして知的ちてき障害しょうがいしゃ決定けってい能力のうりょくけるところがあり、そのことで生産せいさん能力のうりょく発揮はっきしにくい立場たちばになっており、この知的ちてき能力のうりょく優位ゆうい社会しゃかいでは尊重そんちょうされにくい。また主張しゅちょうするがわかたがわがいつもつよ立場たちば、より正常せいじょうである立場たちばってきたという歴史れきしがある。かたることのちからこそちからであり、排除はいじょするがわち、かたられるがわよわ立場たちばおとしめられてきた。まさしく重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいしゃかたることができないものとして存在そんざいする。そこで知的ちてき障害しょうがいしゃを、この問題もんだい考察こうさつする典型てんけいてき対象たいしょうとして設定せっていし、かれらの人間にんげんとしての尊厳そんげんをどのように社会しゃかい多数たすうしゃである健常けんじょうしゃ)がかんがえるべきかを検討けんとうしてみたい。そのことでわたしたち健常けんじょうしゃそくが、かれら(障害しょうがいしゃ)の人間にんげんとしての尊厳そんげんたかめるみち実際じっさい行為こういのなかでどのようにえらぶことができるかをかんがえてみたい。
 本稿ほんこう目指めざすのはわたしたち健常けんじょうしゃがわにいるわたし考察こうさつした平等びょうどうシステム実現じつげんへのかたろんである。マジョリティ(健常けんじょうしゃがわからの考察こうさつからられたかんがえにぎないもので、これをマイノリティである障害しょうがいしゃ、とくに知的ちてき障害しょうがいしゃ適用てきようこころみることは結局けっきょくわたしたち健常けんじょうしゃがわ論理ろんりによる社会しゃかい構築こうちくかうことになるのかもしれない。しかし、これまで障害しょうがいしゃ自分じぶんたちの主体性しゅたいせいをいかに確立かくりつするか、という運動うんどうなかまれた障害しょうがい個性こせいろん健常けんじょうしゃつつもうとする戦略せんりゃくであったのだから、そのことをふかめてわたしたち健常けんじょうしゃかたかんがえてみることには意義いぎがある。そのこころみとしてこの論考ろんこうかれる。


     肯 じょう てき だて じょう
安積あさか純子じゅんこ自分じぶんきなる」
     「自己じこ肯定こうていする」
石川いしかわ じゅん  存在そんざい証明しょうめいからの肯定こうてい
土屋つちや貴志たかし肯定こうてい/否定ひてい」という二分にぶんほう否定ひてい
小池こいけ将文まさふみ障害しょうがい個性こせいかんがえたい」
     いや じょう てき だて じょう
久本ひさもと洋二ようじ危険きけん表現ひょうげんである」
豊田とよだ正弘まさひろ社会しゃかい責任せきにん回避かいひさせる理由りゆうになる」
     肯 じょういな じょう てき   を こし え る だて 
立岩たていわしん也 「否定ひていせいれない」「からりる」
                            (2)

2.本論ほんろん

2.1 障害しょうがい個性こせいろん肯定こうていてき立場たちばかんがえる

 (1)安積あさか純子じゅんこかた辿たどることで1の<4>、<5>について考察こうさつする。は1983ねんから84ねんにかけて米国べいこくカリフォルニアしゅうバークレーにんだときの体験たいけんつぎのようにかたっている。

 「わたしもおかねちょうだいってこえかけられたよ。それもすごいなっておもうね。日本にっぽん障害しょうがいしゃおんなに10セントちょうだいとかさ。(中略ちゅうりゃく)でもほんとにってよかった。あまりにもみんないろいろちがうっていうことにね、新鮮しんせん感動かんどうだよ。だから自分じぶん徹底的てっていてきちがっていいっていうふうに意識いしきてきにはおもわなかったけど、無意識むいしきてきにはおもってかえってきただろうね。」
    (「<わたし>へ─さんねんについて」『なま技法ぎほう』p20〜56)
 「なんだ、ひとわっていてたりまえじゃないかとかね。ひとわっているということはいいことじゃないか。(中略ちゅうりゃく日本語にほんごでもひとわっているということをうときに、すこれやすい言葉ことばとして個性こせいてきといういいかたがあるとおもいますけれど」
       (『障害しょうがいわたし個性こせいかみだかきょうブックレット16 p4〜5)

 安積あさか場合ばあい自分じぶんきになり、自己じこ肯定こうていするきっかけをアメリカ留学りゅうがくれたようである。これは個性こせい評価ひょうかにおける文化ぶんかちがいの影響えいきょうおおきいともいえるが、当事とうじしゃ自己じこ障害しょうがいれ、それを肯定こうていてきとら障害しょうがい個性こせいとまで表現ひょうげんできたれいである。
 しかしこのことは障害しょうがいれるまでのみちのりが日本にっぽんでは非常ひじょう困難こんなんである証明しょうめいでもある。

 「養護ようご学校がっこう教育きょういくなか徹底的てっていてきに、「おまえ障害しょうがいしゃだからひと迷惑めいわくになっちゃいけない」とか「じゃまになっちゃいけない」とか、「障害しょうがいつことはよくない。わるいことなんだ」というような教育きょういくけてしまっていたものですから、自己じこ肯定こうていについては非常ひじょうかなしみ、おどろきかつなげきました。」
       (かみだかきょうブックレットp1)

 障害しょうがい個性こせい主張しゅちょう肯定こうていするとき、以下いかげるようなストレスを当事とうじしゃである障害しょうがいしゃつであろう。

 「ひとちがってなにわるいと一生懸命いっしょうけんめいひらなおって障害しょうがいしゃ運動うんどうたたかっていました。マイナスのほうれていた自分じぶん自己じこイメージというものを、こんどは障害しょうがいしゃ運動うんどうなかでプラスに転化てんかしようとおもって一生懸命いっしょうけんめいがんばるわけですよね。でもどっちにしても、マイナスからプラスっていうか、極限きょくげんから極限きょくげんへという緊張きんちょう状態じょうたいにあるわけです。」
        (かみだかきょうp2下線かせんもりによる)

  なぜこのような緊張きんちょう状態じょうたいおちいるのか。

 「肯定こうていするという言葉ことばを、たん否定ひてい反対はんたい、プラスに評価ひょうかするということだとかんがえると、危険きけんがないとはいえない。否定ひていするちからはげしければはげしいだけ、それにさからう肯定こうていへの意志いしもそれだけねつびる。だが、ろうとやっきになり、自分じぶん没頭ぼっとうしすぎるあまり、さししならないところにはまりこみはしないか。」
                       (立岩たていわしん也『なま技法ぎほう』P161)

 社会しゃかいが「障害しょうがい」にたいしてりがたい否定ひていてき価値かちやまなざしが「障害しょうがい」をもの容赦ようしゃなくせてくるとき、当事とうじしゃ肯定こうていするとわざるをない状況じょうきょうに、はめまれているとえるのではないか。このとき障害しょうがい治療ちりょう除去じょきょ障害しょうがいしゃ自身じしんかって行動こうどうしているという意味いみ障害しょうがいしゃはぎりぎりのところで、この社会しゃかいつ「障害しょうがい」の否定ひていれてしまっているようにかんがえられる。そのうえで「障害しょうがい個性こせいである、障害しょうがい肯定こうていせよ」と主張しゅちょうさせられているのではないか。健常けんじょうしゃ障害しょうがいしゃたいして「障害しょうがい個性こせいである」と主張しゅちょうするとき1の<1>に分類ぶんるいされたように、いちじるしい抑圧よくあつ道具どうぐとしてこの言説げんせつ機能きのうする。またそのように機能きのうするように社会しゃかいなか方向ほうこうづけがあり、それにらされている障害しょうがいしゃがいる。健常けんじょうしゃにとっても個性こせいは、ひとつの自己じこ肯定こうていの「たたかい」のなかでそのひと独自どくじ特徴とくちょうとしてまれるものである。自分じぶんにとって個性こせいきで肯定こうていできるものであったり、きらいで否定ひていしたい・できればなおしたいものとして存在そんざいし「これこれは個性こせいである」と主張しゅちょうすることで他者たしゃ承認しょうにんられる。たしかに「障害しょうがいという個性こせい」はこの社会しゃかいでは否定ひていてきなものとしての把握はあくがなされてきた。それは消去しょうきょあるいは軽減けいげんすべきものとされ、それが不可能ふかのう場合ばあい健常けんじょうしゃのなるべく負担ふたんとならないかれようとしてきた。またその障害しょうがいという個性こせいはそれをもつ存在そんざい自体じたい否定ひてい、さらには抹殺まっさつにまでいたった。この意味いみで「健常けんじょうしゃ個性こせい」とちが処遇しょぐう社会しゃかいでなされてきたといえる。

 「あなたのはなたかいように、あなたのあしながかったりみじかかったり。それからおおきいひとちいさいひとがいるように、そういう個性こせい延長えんちょうとしてひとつ[個別こべつ障害しょうがいが]あるんです」
          (安積あさか 1990 p12)

これは安積あさか講演こうえんなどで「障害しょうがい個性こせいである」とはなすときの言葉ことばであるが、はな高低こうていあし長短ちょうたん外的がいてき大小だいしょうなどのたんなる外的がいてき形態けいたいてき相違そういと、なんらかの機能きのう障害しょうがい損傷そんしょうからこる能力のうりょく低下ていかである「障害しょうがい」とを同様どうようにみた言説げんせつだとかんがえられる。られるものとしてある特徴とくちょうひときて活動かつどうするときにあらわれる特徴とくちょうおな個性こせいということばで表現ひょうげんできるであろう。そのおな個性こせいがなぜこの社会しゃかいではことさらにげられ、否定ひていてき評価ひょうかあたえられるのか。あってはならないものとして障害しょうがい認識にんしきされているかぎりは、このように主張しゅちょうされざるをないのである。このような社会しゃかい障害しょうがい認識にんしきたいして「障害しょうがいというのはかけがのない自分じぶん個性こせいなんだというふうな認識にんしきをしていこうというスローガン」(かみだかきょうブックレットp10~11)なのである。障害しょうがい個性こせいろんはやはり目標もくひょう確定かくていされた障害しょうがいしゃ解放かいほう運動うんどうのスローガンなのである。スローガンは障害しょうがいしゃばかりがもちいるものでは本来ほんらいなく、健常けんじょうしゃ障害しょうがいしゃ自身じしん意図いと十分じゅうぶんったうえでもちいるべきものであろう。これは運動うんどう障害しょうがいしゃ内部ないぶ運動うんどうとしてのみおこなわれることをけるためにも重要じゅうようなことである。「障害しょうがい個性こせいである」とみずからの障害しょうがいけられた社会しゃかいからの抑圧よくあつはらいのける主体しゅたいとして、また自身じしんけてこの主張しゅちょう主体しゅたい内面ないめんできる障害しょうがいしゃ身体しんたい障害しょうがいしゃ軽度けいどちゅう知的ちてき障害しょうがいしゃ)と第三者だいさんしゃから「あの障害しょうがいこそまさに個性こせいだ」と、このスローガンを周縁しゅうえんから主張しゅちょうしてもらう障害しょうがいしゃ重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいしゃ)では、このスローガンのはたらきはちがっているのではないか。すくなくとも後者こうしゃにおいては、社会しゃかい構成こうせいする障害しょうがいしゃ以外いがい他者たしゃからの理解りかいがあって、はじめてスローガンとして効果こうか発揮はっきすることができるであろう。自己じこ決定けってい能力のうりょく重視じゅうしされるこの社会しゃかいにあって、理解りかい能力のうりょく判断はんだん能力のうりょく主張しゅちょう能力のうりょくは、障害しょうがい個性こせいろん効力こうりょくはかるうえで障害しょうがいしゃ自身じしんにとって重要じゅうよう要素ようそとなる。この意味いみ知的ちてき障害しょうがいしゃ障害しょうがい個性こせいろん射程しゃていから、ある部分ぶぶんはみたところに存在そんざいするといえよう。
 ここまでわたし障害しょうがい個性こせいろん限界げんかいについてべてきたが、積極せっきょくてき評価ひょうかできる効用こうよう1の<4>障害しょうがい受容じゅよう効果こうか)もある。障害しょうがいしゃ自己じこたいする否定ひていてきまなざしに自分じぶん自身じしんふかきずつき、ときに自信じしん意欲いよく喪失そうしつしている場合ばあいおおい。

 「そしてられてるわたしというものにたいして、(中略ちゅうりゃく非常ひじょう肩身かたみせまいというか、あながあったらはいりたいというか、自分じぶんられるということが非常ひじょうによくないというかずかしいというか、自分じぶん身体しんたいたいするれがまるでできてませんでしたから、非常ひじょうられることからけようけようとしてあるいていました。」
        (かみだかきょうブックレットp3)

 「一人ひとりの19のおんなでも、いち人間にんげんでもなくくら肉体にくたいきずった奇妙きみょう物体ぶったい―それがわたし自分じぶん自分じぶんであることからすことはできない。」
  (「じゅうだい日記にっき」VTR『まれておいでよ 安積あさか遊歩ゆうほ40さい 出産しゅっさん記録きろく』より)

 これは機能きのう障害しょうがい能力のうりょく低下ていか社会しゃかいてき不利ふり客観きゃっかんてき次元じげん障害しょうがいぶことにたいして「主観しゅかんてき障害しょうがい体験たいけんとしての障害しょうがい)」(ちゅう参考さんこう)と分類ぶんるいされる場合ばあいであり、障害しょうがいしゃ自身じしんがその障害しょうがいをどうめるかにかんするものである。客観きゃっかんてき次元じげんにおけるみっつのレベルの障害しょうがい発生はっせいにより、障害しょうがいしゃきずつき、意欲いよくをなくし、他人たにん依存いぞんてきになったり、いえじこもりがちになる。この自己じこたいする否定ひていてき評価ひょうか転換てんかんさせるちから障害しょうがいしゃ自身じしん言説げんせつとして「障害しょうがい個性こせいである」とべることにあるとかんがえられる。このような言説げんせつにより自己じこ障害しょうがい受容じゅようすることで能力のうりょく低下ていか社会しゃかいてき不利ふり状態じょうたいをも改善かいぜんするちからられる。また機能きのう障害しょうがい社会しゃかいてき不備ふびからしょうじる能力のうりょく低下ていか社会しゃかいてき不利ふりとをはな効果こうかがこの言説げんせつにはあるようにおもわれる。そして以下いかのようにべる。

 「でもいまはほんとに自分じぶん障害しょうがいったということにたいして、これはなにかものすごくとくをしたというようながしてるんですね。」(安積あさか 1990 p13)

 この障害しょうがいは、彼女かのじょ自身じしんかんじる背中せなか苦痛くつうやうまくあるけないという不便ふべんによるものであり、その機能きのう形態けいたい障害しょうがい社会しゃかい構成こうせいぶつとして能力のうりょく低下ていか社会しゃかいてき不利ふりむすびつけてしまうことになる。この構図こうずなか健常けんじょうしゃはなるべく障害しょうがい機能きのう障害しょうがいレベルにめようとする。だからリハビリをしてすこしでも健常けんじょうしゃちかづけようとする。しかし安積あさか場合ばあい能力のうりょく低下ていか状態じょうたいみずかえらっている。そのことでみずからのきる範囲はんいひろげ、活動かつどうてき前向まえむきな人生じんせいあゆむことができている。障害しょうがい個性こせいである、障害しょうがい肯定こうていせよとうことによって無理むりをしない人並ひとなみのせいられるのである。

 「そこで[障害しょうがいしゃ運動うんどう主催しゅさい花見はなみ大会たいかい参加さんかして]、なんと、車椅子くるまいす使つかっていいんだということをおしえられたわけ。なんとおどろくべきことに、車椅子くるまいす使つかっちゃいけないんだってそれまでわれてた。すこしでもあるけるあるき、あるけない松葉杖まつばづえ使つかい、車椅子くるまいすっていうのは一番いちばんひどい、かわいそうなことなんだっていうのがあったわけ。車椅子くるまいすっていうのはひとつの道具どうぐで、自分じぶん行動こうどう半径はんけい自分じぶんかたのなかで、自分じぶんえらりたければえらんでいいんだと…」(『なま技法ぎほう』p29 [ ]ないもりによる補足ほそく

 ここでは機能きのう障害しょうがい能力のうりょく低下ていか発生はっせいさせないように道具どうぐ利用りようさせられるのではなく、障害しょうがいしゃ自己じこゆたかな生活せいかつのために、道具どうぐ利用りようすることをえらって主体しゅたいてき機能きのう障害しょうがいはたらきかけているといえる。この場面ばめんはまさに障害しょうがいしゃ健常けんじょうしゃはたらきかけみずからの主体性しゅたいせい確立かくりつする戦略せんりゃく成功せいこうしている場面ばめんといえよう。

 「これからどんな人生じんせいになるだろう。一方いっぽうてきなにかをしつけられ、様々さまざまなものをになわさられる人生じんせいなんてもうごめんだ。積極せっきょくてき遊歩ゆうほ安積あさかのペンネーム]とのりはじめて、さらに人生じんせい興味深きょうみぶかかんじられる。わたし車椅子くるまいすわたしきだ。」 (安積あさか 1993)

 安積あさか障害しょうがい個性こせいであると場合ばあいふたつの意味いみがあるようにおもわれる。ひとつは自分じぶん人生じんせいかえって障害しょうがい個性こせいであるとべる場合ばあい、それは自己じこ歴史れきしせい肯定こうていであり、否定ひていてきていた自分じぶん障害しょうがいなが時間じかんかけてみとめ、障害しょうがいってきていこうというかんがえのなかからまれた主張しゅちょうとなる。自己じこ障害しょうがいから影響えいきょうけながら、けっしてその下敷したじきになって圧迫あっぱくされながらきるのではなく、自己じこ個性こせいはぐくむものととらえたものとかんがえられる。ある意味いみ障害しょうがいたん個性こせいではなく、個性こせいつくすものとなっている。第三者だいさんしゃからときに、安積あさか障害しょうがい透明とうめいして、そのひとのかけがえのない個性こせいとしてあらわれる。だいにこの言説げんせつ運動うんどうじょうのテクニック(手法しゅほう)ととらえてもちいるという意味いみがある。
以下いか安積あさか考察こうさつ参考さんこうとして、障害しょうがいしゃ障害しょうがい個性こせいろん主張しゅちょうする場合ばあい功罪こうざいについてまとめてげておくことにする。
いさお
障害しょうがいしゃ自己じこにも巣食すくみずからにたいする否定ひていこばみ、自己じこ肯定こうていするちからとなる。
健常けんじょうしゃを「目指めざすべきもの」とする価値かちかんからの脱却だっきゃくをはかること
 になる。このことで必要ひつよう以上いじょうのリハビリや治療ちりょう訓練くんれんから障害しょうがいしゃ
 をまもることができる。
障害しょうがいしゃ意識いしき障害しょうがい受容じゅようかう結果けっか自身じしん本来ほんらいっているのう
 ちから活用かつようしようとする。
社会しゃかい否定ひていてき価値かちづけをしたもの(障害しょうがい規定きてい)に、あらたなプ
 ラスの価値かちづけ(みずからの価値かち形成けいせい)をはか障害しょうがいしゃせっすることで、
 障害しょうがいしゃばかりでなく周囲しゅうい一般いっぱん健常けんじょうしゃならびに介助かいじょしゃ家族かぞく
 の固定こてい観念かんねんをも変化へんかさせることができる。このように障害しょうがい肯定こうてい
 することで、障害しょうがいしゃでもやればこれだけのことが可能かのうであるとい
 う発想はっそう障害しょうがい以外いがいによいところがあるという発想はっそう拒否きょひできる。
つみ
・「障害しょうがい」をある意味いみ前面ぜんめんすことで障害しょうがい自体じたい強調きょうちょうすること
 になる。
障害しょうがい個性こせいであるととら肯定こうていするというとき、障害しょうがい自体じたい変更へんこう
 きないことを前提ぜんていしている。
・「当事とうじしゃ幻想げんそう」になる。
・「障害しょうがい個性こせいである」と障害しょうがいしゃ主張しゅちょうされても、健常けんじょうしゃであるおお
かずしゃが「障害しょうがい個性こせいである」というかんがかたをしてよいのかとい
疑問ぎもんがある。
一般いっぱんに「障害しょうがい個性こせいである」という主張しゅちょう自体じたい不可能ふかのう障害しょうがいしゃは、
 みずか運動うんどう主体しゅたいになりない。

 (2)はつ全盲ぜんもう東大とうだいせいとして話題わだいとなった石川いしかわ じゅんは「障害しょうがい克服こくふくするのではなく、自分じぶんしたしい個性こせいとしてれられるようになったのは、83ねん米国べいこく留学りゅうがくころです」(下線かせんもりによる)とべている。それまでは障害しょうがい克服こくふくするために、たとえば東大とうだいえらぶことで自分じぶんたか目標もくひょうあたえて存在そんざい証明しょうめいという自己じこ肯定こうていこころみたりしていたという(朝日新聞あさひしんぶん1994.4.19 「ひと」らん)。
 石川いしかわによると 「ひと価値かちあるアイデンティティを獲得かくとくし、まけのアイデンティティを返上へんじょうしようとしてあらゆる方法ほうほう駆使くしすることが存在そんざい証明しょうめいである」(「アイデンティティの政治せいじがく」:1996岩波いわなみ講座こうざ現代げんだい社会しゃかいがく15『差別さべつ共生きょうせい社会しゃかいがく』p171~185所収しょしゅう)という。ここではかんがえをしゅとして障害しょうがい個性こせいろん立場たちばから考察こうさつしてみることにする。は「存在そんざい証明しょうめい突出とっしゅつするのはとりわけ差別さべつしゃにおいてである。差別さべつひとから存在そんざい価値かち剥奪はくだつする。差別さべつかえこうむったひとびとははげしい自尊心じそんしん損傷そんしょう経験けいけんする。損傷そんしょうした自尊心じそんしん修復しゅうふく要求ようきゅうして存在そんざい証明しょうめい拍車はくしゃをかける。」(どうp172)とべ、「存在そんざい証明しょうめい指摘してきされるのは、日常にちじょうてきなルーティンワークの外部がいぶ存在そんざい証明しょうめい突出とっしゅつしたときである。」(どうp172)として、存在そんざい証明しょうめい日常にちじょうながれのなか自覚じかくされず、他者たしゃづかれることもなく、達成たっせいされているから外部がいぶ突出とっしゅつした場合ばあいひとはどうするかを考察こうさつしている。一般いっぱん障害しょうがいしゃ場合ばあい存在そんざい証明しょうめい日常にちじょうのルーティンワークをとおして達成たっせいされがたく、そのことが自覚じかくされ、他者たしゃるところであり、公然こうぜん指摘してきされ否定ひていされることもある。障害しょうがいしゃにとって存在そんざい証明しょうめい恒常こうじょうてき突出とっしゅつすることになり、その存在そんざい証明しょうめいのために躍起やっきになり、存在そんざい証明しょうめい無限むげんのループにおちいることになる。
 その方法ほうほうには、<印象いんしょう操作そうさ>、<補償ほしょう努力どりょく>、<他者たしゃ価値かち剥奪はくだつ>、<価値かちもどし>がある。
 <印象いんしょう操作そうさ>とは、ひとられると否定ひていてき評価ひょうかされるまけのアイデンティティをかくし、価値かちあるアイデンティティのぬしであるようにせかけるという存在そんざい証明しょうめい方法ほうほうである。この場合ばあいられると否定ひていてき評価ひょうかされるまけのアイデンティティを「障害しょうがい」とすると、その「障害しょうがい」とは「社会しゃかいてき不利ふり」として社会しゃかいされる以前いぜん状態じょうたいとして分類ぶんるいされる「機能きのう障害しょうがい能力のうりょく不全ふぜん」とかんがえられよう。印象いんしょう操作そうさ方法ほうほうでは自己じこ生物せいぶつがくてきレベルや個人こじんのレベルでとらえた障害しょうがい社会しゃかいされ価値かち評価ひょうかけるまえ時点じてんで、価値かちあるアイデンティティのぬしであるとよそおうことに躍起やっきになるのである。ところが自己じこ障害しょうがいかく社会しゃかいせかけることに躍起やっきになればなるほど内心ないしん自己じこ嫌悪けんお再帰さいきてき増幅ぞうふく作用さようともない、その障害しょうがいはますます自分じぶんからはなせないものとして存在そんざいする本質ほんしつおもうようになるメカニズムが作動さどうすることになるのである。この方法ほうほうでは存在そんざい証明しょうめいがかえって破綻はたんすることになる。
 <補償ほしょう努力どりょく>とは、価値かちあるアイデンティティを獲得かくとくすることで、否定ひていてき価値かちびた自分じぶん補償ほしょうしようとすることである。これは「名誉めいよ挽回ばんかい」といってもよい(1992 石川いしかわ p28)。この場合ばあい否定ひていてき価値かちびた自分じぶんとは障害しょうがいをもつもののことであり、その障害しょうがいとは社会しゃかいてき存在そんざいとしての人間にんげんのレベルでとらえた障害しょうがい社会しゃかいてき不利ふり)のことである。この方法ほうほう障害しょうがい克服こくふくしようとしても、「かれ障害しょうがいをもつがはやはしることができるひとだ」という形式けいしき評価ひょうかしかられない。補償ほしょう部分ぶぶんとしていくら価値かちあるアイデンティティを増幅ぞうふく獲得かくとくしたとしても、否定ひていてき価値かちはそのままであり、相対そうたいてき減少げんしょうしたにぎない。かえってその障害しょうがいがそのひと本質ほんしつとしてかびあがり、障害しょうがい完全かんぜんることができない以上いじょう、それでられるものはアイデンティティの勘定かんじょうをどうにかゼロてんもどすことくらいである。
 <他者たしゃ価値かち剥奪はくだつ>とは、価値かち相対そうたいせいということを前提ぜんていとして、ひとから価値かちうばうという間接かんせつてき方法ほうほうによって自己じこ存在そんざい証明しょうめい実現じつげんする方法ほうほうのことである。これは存在そんざい証明しょうめいのためにひとおとしめることであるから、これを「差別さべつ」といういいかたもできる。しかしここで他者たしゃ眼前がんぜんにいる)からうばえる価値かちとは外在がいざいてき価値かちであり、自己じこ(このわたし)にふかきざまれてある「障害しょうがい」という内在ないざいてき絶対ぜったいてき価値かち増幅ぞうふくすることにはならない、という消極しょうきょくてき方法ほうほうである。
 <価値かちもどし>とは、社会しゃかい支配しはいてき価値かちつくえることによって、これまで否定ひていてき評価ひょうかされてきた自分じぶん社会しゃかいてきアイデンティティを肯定こうていてきなものへと価値かち転換てんかんをはかり自分じぶん価値かちもどそうとすることである。これを別言べつげんすると「ひらなおり」あるいは「解放かいほう」ともえよう。これにはカテゴライゼーションの変更へんこう要求ようきゅうする場合ばあい既成きせいのカテゴリーをあえて使つか場合ばあいふたつの形式けいしきがある。
<1> カテゴライゼーションの変更へんこう要求ようきゅうという形式けいしき場合ばあいは、所与しょよの「障害しょうがい」のカテゴライゼーションをいったんけたうえで、カテゴライズされた「障害しょうがい」というカテゴリーが内包ないほうするものを肯定こうていてきなものへと変更へんこうしようとこころみる。その過程かていで、既成きせいのカテゴリめい否定ひていし、あたらしい名称めいしょう提案ていあんする。
<2> 既成きせい価値かち体系たいけいへのたたかいのために、既成きせいのカテゴリーである「障害しょうがい」なるカテゴリーをあえて使つか場合ばあいは、「障害しょうがい」というマイナスの符号ふごうをあえて主体しゅたいてきえらることで、「障害しょうがい」なるカテゴリーの内包ないほうするものを変容へんようさせようとこころみる。
 障害しょうがいしゃ解放かいほう運動うんどうのなかから誕生たんじょうした「障害しょうがい個性こせいである」という思想しそうは「『障害しょうがい』とか『障害しょうがいしゃ』という既成きせい恣意しいてきなカテゴリー作用さようをいったんけておいて、まけ価値かちわされつつつくられたそのような差異さいひとひとつに価値かちあたがえそうとする実践じっせん」(1996 石川いしかわ P181)である。<価値かちもどし>は他者たしゃ価値かち体系たいけい変更へんこう同時どうじこさなければ十分じゅうぶんには実現じつげんしない。ところが、存在そんざい証明しょうめい連動れんどうしているから、だれかが存在そんざい証明しょうめい仕方しかた劇的げきてき変更へんこうすると、それまで順調じゅんちょう存在そんざい証明しょうめい達成たっせいしてきた他者たしゃ存在そんざい証明しょうめいおびやかされることになりやすい。
 以上いじょうよっつの存在そんざい証明しょうめい方法ほうほうについて若干じゃっかんまとめておく。価値かち剥奪はくだつのために深刻しんこくなアイデンティティ問題もんだいったひとびと、とくに社会しゃかいてき不利ふり背負しょわされた障害しょうがいしゃは、その緩和かんわのために躍起やっきになって、<印象いんしょう操作そうさ>、<補償ほしょう努力どりょく>、<他者たしゃ価値かち剥奪はくだつ>にたよる。これらの方法ほうほうが、存在そんざい証明しょうめい躍起やっきになればなるほどますますこれを必要ひつようとしそこにはまりむ、無限むげんのループをめぐじた行為こういであることを自覚じかくすると、<価値かちもどし>をもとめるのである。 
 しかし、障害しょうがいしゃはつねにこの方法ほうほう執着しゅうちゃくするわけではない。この存在そんざい証明しょうめい要求ようきゅうする社会しゃかいてき権力けんりょくから超越ちょうえつするために、存在そんざい証明しょうめい不要ふようとするありのままの自分じぶん価値かちくことができれば、存在そんざい証明しょうめい無限むげんループから離脱りだつすることができる。これを<存在そんざい証明しょうめいからの自由じゆう>とぶ。 
 また、障害しょうがいしゃ解放かいほう運動うんどうなかから誕生たんじょうした「障害しょうがい個性こせいだ」「ありのままの自分じぶん肯定こうていしよう」のように、既成きせい恣意しいてきカテゴリー作用さようをいったんけておいて、まけ価値かちわされつつつくられたそのような差異さいひとひとつに価値かちあたがえそうとする実践じっせんとしての<価値かちもどし>は、価値かち拡大かくだいはかいとなみである。また一人ひとりいちにん生命せいめいたい本来ほんらいてきひとしく内属ないぞくする価値かち無条件むじょうけん承認しょうにんおうとする活動かつどうである<存在そんざい証明しょうめいからの自由じゆう>であるともえる。これらは、既成きせい支配しはいてき存在そんざい証明しょうめい体系たいけいくず潜在せんざいりょくゆうする、と分析ぶんせきしている(前掲ぜんけいp181 もり要約ようやく下線かせんもりによる)。
 石川いしかわ下線かせんにあるように「既成きせい恣意しいてきカテゴリー作用さよう」や「まけ価値かちわされつつつくられた差異さい」という否定ひていせいれることをみとめる。う<価値かちもどし>は「障害しょうがい」という否定ひていせい以外いがい部分ぶぶん自己じこ価値かち見出みいだし、存在そんざい証明しょうめいはかいとなみである。しかし、このみちけわしく、いかに価値かち拡大かくだいはかろうと、結局けっきょく、「障害しょうがい」という否定ひていせい自己じこ価値かち全体ぜんたいのなかで相対そうたいてき縮小しゅくしょうするにぎず、いつまでも自己じこ価値かち拡大かくだいをしつづけなければならないのではないか。知的ちてき能力のうりょくのある障害しょうがいしゃ、すなわちこの社会しゃかい主体しゅたいてき自己じこ肯定こうていでき、価値かち拡大かくだいはかれる障害しょうがいしゃ知的ちてき能力のうりょくをうまく発揮はっきできず主体しゅたいてき主張しゅちょうができないためにこの社会しゃかいみとめられない障害しょうがいしゃの、分断ぶんだんしょうじることにもなる。知的ちてき能力のうりょくされ、その能力のうりょく自己じこ価値かち拡大かくだいはかられることのおおいこの社会しゃかいにおいて、重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいしゃは、<価値かちもどし>は他者たしゃによる適切てきせつなサポートがあろうと最終さいしゅうてきには主体しゅたいてき実践じっせんがたいのではないか。なぜなら主張しゅちょう立論りつろん能力のうりょくける知的ちてき障害しょうがいしゃ社会しゃかいにある自己じこ価値かち転換てんかんはかるためには、適切てきせつなサポートという他者たしゃによる介入かいにゅう必要ひつようであり、そのしゃによる理解りかい完全かんぜんでないかぎり、知的ちてき障害しょうがいしゃ主体性しゅたいせい究極きゅうきょくてきにはまもられないことになる。ここにかれらの主体性しゅたいせいばかりにたよ必要ひつようのないさらにひろ射程しゃていをもつ理論りろん必要ひつようとなる。

 (3)土屋つちや貴志たかしは「障害しょうがい個性こせいであるような社会しゃかい」において、障害しょうがいしゃ福祉ふくしのもとに社会しゃかいから隔離かくりかくすことが、社会しゃかい多数たすうめる健常けんじょうしゃの「障害しょうがいしゃはいないのがたりまえ」「障害しょうがいしゃ不幸ふこう」「かわいそう」という感覚かんかくをさらに増幅ぞうふくさせることになる。そこで、障害しょうがいしゃたいする偏見へんけんさい生産せいさんつづける悪循環あくじゅんかん方法ほうほうとして、「障害しょうがいしゃがいるのがたりまえ」になるように日常にちじょう情景じょうけいつくげる必要ひつようがある、と提言ていげんしている。
 (『「ささえあい」の人間にんげんがく森岡もりおか正博まさひろ編著へんちょ1994 P244〜261:土屋つちや貴志たかし執筆しっぴつ
 現在げんざい、この社会しゃかいでは障害しょうがいしゃ隔離かくりされているといえる。障害しょうがい学級がっきゅう養護ようご学校がっこう作業さぎょうしょ授産じゅさん施設しせつ家庭かていなど健常けんじょうしゃれる場所ばしょからとおざけられている。それだけでなく障害しょうがいしゃ利用りようすることをまった無視むししたまちづくりがなされている。だから障害しょうがいしゃいまいきなりまち社会しゃかいのなかに積極せっきょくてきるとおおきな困難こんなんにぶつかり、ちのめされることがおおい。
 障害しょうがいしゃ隔離かくりされたから、一人ひとり市民しみんとして地域ちいき普通ふつう生活せいかつできるように社会しゃかいえていくノーマライゼーションがいまだできていないこの社会しゃかいなかで「障害しょうがいをありのまま肯定こうていせよ」「障害しょうがい個性こせいである」という主張しゅちょうを、健常けんじょうしゃのみならず、自分じぶん自分じぶん仲間なかまたいしても、いいきかせていくということは、非常ひじょうきびしい状況じょうきょう障害しょうがいしゃむ。なぜなら「障害しょうがい」を消去しょうきょ軽減けいげんすべきものとし、それができない場合ばあいには、社会しゃかい活動かつどう生産せいさん活動かつどう阻害そがいしないような位置いちこうとする、この社会しゃかい障害しょうがいたいする否定ひていてき把握はあくがあるからである。しかし、そのように他者たしゃ統制とうせいされる生活せいかつこばむことが自立じりつ生活せいかつ運動うんどう目的もくてきである。
 土屋つちや障害しょうがい個性こせいろん主張しゅちょう以下いかふたつの問題もんだい指摘してきしているとべている。
<1> 障害しょうがいかた不適切ふてきせつである
<2> 障害しょうがいあつかかた不適切ふてきせつである
<1> では健常けんじょう前提ぜんていとしてそれ以外いがい状態じょうたい障害しょうがいとしていることに問題もんだいがあるとする。健常けんじょう障害しょうがい客観きゃっかんてき区別くべつできず、多数たすうしゃであるか、少数しょうすうしゃであるかによっておおきく左右さゆうされる相対そうたいてき概念がいねんであるという。<2>については、不適切ふてきせつめられた障害しょうがい健常けんじょう状態じょうたいなおそうとすることに抗議こうぎしているとする。この主張しゅちょう障害しょうがいしゃ本人ほんにん意志いしはんしておこなわれる「治療ちりょう」や「リハビリテーション」を拒否きょひしようとする。また先天せんてんせい障害しょうがいしゃれいとしてまわりによって障害しょうがいをもつことは不幸ふこうであるとおもわされることを指摘してきしている。このような健常けんじょうしゃ文化ぶんかのもつ価値かちかん同調どうちょうすることを拒否きょひし、自己じこにある障害しょうがい存在そんざいひらなおってれることをうながちからがこの主張しゅちょうにはある。これにたいして中途ちゅうと障害しょうがいしゃは「障害しょうがいはあってもいい」とひらなおりにくいとしている。(土屋つちや 1994 p246〜247)

 「『障害しょうがい』を規定きていするものとして唯一ゆいいつ正当せいとうなのは、世間せけん一般いっぱんないし他者たしゃ価値かちかん棚上たなあげにしても、なお不便ふべん苦痛くつうとしてかんじられることだけなのです。」(前掲ぜんけいp247)

  だが、このきわめて主観しゅかんてき障害しょうがい規定きてい基準きじゅん身体しんたい障害しょうがいしゃでは有効ゆうこうであるが、知的ちてき障害しょうがいしゃには基準きじゅんとしてがたいのではないか。知的ちてき障害しょうがいしゃには、ある程度ていど精神せいしんてき苦痛くつうはあるにしても身体しんたいてき苦痛くつうはなく、生活せいかつじょう不便ふべんすこしある程度ていどであろう。ぎゃく世間せけん一般いっぱんないし他者たしゃ価値かちかんこそかれらを圧迫あっぱくする社会しゃかいてき不利ふりという障害しょうがい構成こうせいしているのではないか。
 障害しょうがい規定きていするものがきわめて主観しゅかんてき基準きじゅんであるから、「客観きゃっかんてきに『障害しょうがい』と『健常けんじょう』を区別くべつする基準きじゅんてられないことになります。」(前掲ぜんけいp248)とある。たしかに主観しゅかんてきには「障害しょうがい」を規定きていするただいち正当せいとうなものは「そのひと自身じしん不便ふべん苦痛くつう」だけである。しかし社会しゃかいは「能率のうりつてき生産せいさん都合つごうよい」、「負担ふたんにならない」などの暗黙あんもく基準きじゅんち、障害しょうがいはないほうがよいという方向ほうこうづけをおこなっているとはいえる。
 つぎ障害しょうがい個性こせいとらえる見方みかたは「障害しょうがい/健常けんじょう」という二分にぶんほうのようなあら範疇はんちゅうてること自体じたい拒否きょひするところまで到達とうたつしている、という主張しゅちょう(1994 土屋つちやp249)についてかんがえたい。

 「したがってなによりもまずわたしたちは、もっと障害しょうがい人々ひとびとせっし、障害しょうがい実際じっさいについてらなければならない。そして、個々ここ障害しょうがい中身なかみについて、もっとかたらなければならない。それは、一人ひとりひとりの障害しょうがい障害しょうがいというあらいカテゴリーにてはめてるのではなく、一人ひとりひとりのもつ個性こせいとしてていくことにつながる。すなわち障害しょうがい健常けんじょうという二分にぶんほう前提ぜんていとせずに、一人ひとりひとりの特性とくせいを、ありのままに、そのひとのかけがえのない個性こせいとして、とらえていくことになる。」(土屋つちやほか 1995 p170)

 土屋つちやは、障害しょうがいというもののひとひとつは実際じっさいにはきわめて個別こべつのものであるのに、われわれは個別こべつ障害しょうがい中身なかみることなく、「障害しょうがい」という粗雑そざつなカテゴリーにてはめててしまっていることに注意ちゅうい喚起かんきしている。がここでべている「個性こせい」とは個人こじん個人こじん状態じょうたい差異さいのことである。だから「障害しょうがい個性こせいとしてみる」ということは二分にぶんほう前提ぜんていとせず、一人ひとりひとりの特性とくせい個別こべつなものとしてカテゴライズしないでようということである。
 「一般いっぱんに「障害しょうがい」とされる特定とくてい状態じょうたい欠如けつじょも『程度ていど』にぎない」(1994 土屋つちやp248)、とする。程度ていどだから特別とくべつ範疇はんちゅうてること自体じたい拒否きょひされることになる。健常けんじょうしゃはわずかな「程度ていど」を障害しょうがいしゃからし、それをことさら「しつ」とし、それを「障害しょうがい」とづけ、範疇はんちゅうて、二分にぶんほう採用さいようしてきた。これにたいする異議いぎもうてが障害しょうがいしゃによる障害しょうがい個性こせいろんである。ここには障害しょうがい肯定こうていてきとらえなければならない障害しょうがいしゃ障害しょうがいしゃかん障害しょうがい否定ひていてきとらえる健常けんじょうしゃ障害しょうがいしゃかんとのおおきなズレがられる。この克服こくふくがないかぎり「障害しょうがい」とされる特定とくてい状態じょうたい欠如けつじょたんなる「程度ていど」としてみられることにはならないであろう。健常けんじょうしゃ社会しゃかいなかでは、わずかな能力のうりょく程度ていどでどれほどあらゆる階層かいそう秩序ちつじょ形成けいせいされていることであろうか。
 「『障害しょうがい個性こせいである』という主張しゅちょう本意ほんいは、どんな妥当だとう区別くべつであれ、『健常けんじょう』と『障害しょうがい』という範疇はんちゅうてること自体じたい拒否きょひするところまで到達とうたつしているとかんがえられます。」(前掲ぜんけいp249)とし、「たとえ『健常けんじょうしゃ』といえども、能力のうりょくの『すぐれた』にん能力のうりょくの『おとった』にんはいる。だから一般いっぱんに『障害しょうがい』とされる特定とくてい状態じょうたい欠如けつじょも、ようするに程度ていどにすぎない。『障害しょうがい』と『健常けんじょう』の差異さいは、もともと個人こじん個人こじん状態じょうたいちがいとればよいのであって、『健常けんじょうしゃ』と『障害しょうがいしゃ』をそれぞれひとまとめにしてへだてる必要ひつようはない。」(前掲ぜんけいp248)のであるとべている。
  障害しょうがい個性こせいであるという主張しゅちょうがなされることで効果こうか発揮はっきするのは以下いかのような警告けいこくとしてである。

 「「個性こせいよ」とうったえていくことは非常ひじょう重要じゅうよう指摘してきになりえます。「障害しょうがい個性こせいである」「病気びょうき個性こせいである(なぜなら、そのときそのひと固有こゆう状態じょうたいであることにわりがないから)」「異常いじょう個性こせいである」「未熟みじゅくさも個性こせいである」「おんなであることも、おとこであることも個性こせいである」。こうした言説げんせつは、とかく「障害しょうがいしゃのくせに」「病人びょうにんのくせに」「異常いじょうしゃのくせに」「子供こどものくせに」「おんなのくせに」などと十把じっぱひとからげにかんがえてしまいがちなわたしたちのきがたい傾向けいこうたいする警句けいくとしては、かなり有効ゆうこうでしょう。」(前掲ぜんけいP249)

 土屋つちや障害しょうがい個性こせいろんは「障害しょうがい健常けんじょう二分にぶんほう克服こくふく主題しゅだいである。これはこれまでの障害しょうがいかん変遷へんせんあらたな地平ちへいひらいたとることができる。なぜならこれまではあくまで障害しょうがいというレッテルをったうえで議論ぎろんかさねてきたことを、実際じっさい個別こべつ具体ぐたいてきひと特性とくせいとしてそのひと障害しょうがいつめることに注意ちゅういけたからである。
 さらに土屋つちやとらかた提出ていしゅつする意義いぎについて、つぎのような解釈かいしゃく可能かのうである。一般いっぱん価値かちは「差異さい」によってつくられるのが常識じょうしきである。また、差異さいには序列じょれつともなうものと、そうでないものとがある。これまでの二分にぶんほう健常けんじょう障害しょうがいより優位ゆういつための序列じょれつともな差異さいであるとかんがえられる。これにたいして、障害しょうがい個性こせいろん解釈かいしゃくでは、二分にぶんほう克服こくふくし、序列じょれつともなわない差異さいにまで到達とうたつしていることを指摘してきしている。そのれいとして以下いかのようにべる。

 「ここでわたしたちは、「障害しょうがい」「病気びょうき」「異常いじょう」といった範疇はんちゅうてること自体じたい意義いぎわれています。もっとも、個々ここ状態じょうたい記述きじゅつするための「病名びょうめい」は、それが木々きぎあおさや夕焼ゆうやけのあかさを記述きじゅつするのとおなじような意味いみで、個々ここの「個性こせい」を記述きじゅつする手段しゅだんとして客観きゃっかんてきに(評価ひょうかてき価値かちてき意味いみめずに)もちいられるなら、否定ひていする必要ひつようはありませんし、否定ひていすることは不可能ふかのうでしょう。」(前掲ぜんけいp249〜250)

 (4)小池こいけ将文まさふみ総理府そうりふ障害しょうがいしゃ施策しさく推進すいしん本部ほんぶ担当たんとう室長しつちょうであり、「平成へいせい年度ねんど障害しょうがいしゃ白書はくしょ」のなか障害しょうがい個性こせいろんりあげた文責ぶんせきしゃである。本来ほんらい障害しょうがいしゃ健常けんじょうしゃけて主張しゅちょうした障害しょうがい個性こせいろんを、行政ぎょうせいがわがどのようにげたのかを考察こうさつする。
 本稿ほんこうではよっつの障壁しょうへきのうち「意識いしきじょう障壁しょうへき」をりあげ、つぎ朝日新聞あさひしんぶんの「論壇ろんだん」に投稿とうこうした文章ぶんしょう(1996.6.6)をりあげ、障害しょうがい個性こせいろん検討けんとうする。障害しょうがいしゃ社会しゃかい参加さんかしようとしたときのもっとおおきな問題もんだいとして社会しゃかいなかにあるしんかべである「意識いしきじょう障壁しょうへき」の記述きじゅつなか障害しょうがいしゃかん変遷へんせん辿たどっている。

 「我々われわれなかには、つよひともいればよわひともいる、記憶きおくりょくのいいじんもいればわすれっぽいひともいる、うた上手じょうずひともいれば下手へたひともいる。これはそれぞれのひとの個性こせいあじであって、それでなかひとふたつにけたりはしない。おなじように障害しょうがい各人かくじんっている個性こせいひとつととらえると、障害しょうがいのあるひととないじんといったひとつの尺度しゃくどなかひと二分にぶんする必要ひつようはなくなる」(『平成へいせい年版ねんばん 障害しょうがいしゃ白書はくしょ』p12)

 ここでわれているのは以下いかのようにまとめることができる。
1)それぞれのひと個性こせいあじ)で、なかひと二分にぶんしない。
2)障害しょうがい各人かくじんっている個性こせいひとつととらえる。
3)障害しょうがい健常けんじょうといったひとつの尺度しゃくどなかひと二分にぶんする必要ひつようはない。
4)障害しょうがい個性こせいろん二分にぶんほう否定ひていするところまで射程しゃていをもつ。
 3)、4)の二分にぶんほう否定ひていかんしては土屋つちや箇所かしょくわしくろんじたが、昨今さっこん個性こせい尊重そんちょうしたふんはしないが、わずかなちがいにおうじて細分さいぶんされた段階だんかい範疇はんちゅうもうけているのではないかとおもわれる。しかし、このあとはこの二分にぶんほう解消かいしょうという難問なんもんを、わたしたちの現実げんじつ認識にんしきわれば、現実げんじつ簡単かんたんわるという。

 「そうなれば[障害しょうがい認識にんしきわれば]ことさらに社会しゃかいへの統合とうごうなどとわなくても、一緒いっしょたのしんだり、喧嘩けんかをしたり、こまっているときは、おたがいにたすい、ささ普通ふつう人間にんげん関係かんけいきづける社会しゃかいになるであろうというものである。」(前掲ぜんけいp12 [ ]ないもりによる補足ほそく

 ここでは、障害しょうがい個性こせいろんがゆきわたり、「障害しょうがい健常けんじょう」の二分にぶんほうという意識いしきじょう問題もんだいがなくなれば、障害しょうがいしゃをあえて社会しゃかい統合とうごうする必要ひつようもないとべている。たしかに障害しょうがいしゃ問題もんだい解決かいけつのためには、意識いしき障壁しょうへきをなくす必要ひつようがありそれが端緒たんしょであることにちがいないが、ここには障害しょうがいしゃかん変更へんこうすることが障害しょうがいしゃ問題もんだい解決かいけつする、というような短絡たんらくてき観念かんねんてきかんがえがみられる。これは障害しょうがい認定にんていし、障害しょうがいしゃ問題もんだい具体ぐたいてきになくす方策ほうさく立場たちば言説げんせつとしては問題もんだいがあるのではないか。なぜなら、障害しょうがいしゃ問題もんだい健常けんじょうしゃ意識いしきじょう変革へんかくのみで解決かいけつしようとし、実際じっさい政策せいさくうえ解決かいけつする意図いとられないからである。
 小池こいけは「まちれる、まちれる」というあじわいぶか標語ひょうごがある、とし、社会しゃかいのいろいろな場面ばめん種々しゅじゅ障害しょうがいのあるひとがいるのがあたりまえという状況じょうきょうにする必要ひつようがある、とべているが、後述こうじゅつする豊田とよだ指摘してきしているように問題もんだいとらかたぎゃくになっているのではないか。障害しょうがいしゃがいることを当然とうぜん前提ぜんていとした社会しゃかいまちづくりがあり、すなわち「まちれ」、その結果けっかとして障害しょうがいしゃまちて、「まちれる」。これが本来ほんらいのありかたであり、順序じゅんじょというものではないか。まちれないような社会しゃかいシステムをつくってきたのは行政ぎょうせいちからおおきいといえる。たとえば、就学しゅうがく特殊とくしゅ学級がっきゅう特殊とくしゅ学校がっこうへの分離ぶんり養護ようご施設しせつまちからとおはなれたところに設置せっちされていることなど。個々人ここじんちからよわい、まして障害しょうがいしゃ一人ひとりまちると無防備むぼうびちか状態じょうたいとなる。障害しょうがいしゃ個々ここ努力どりょく犠牲ぎせいだいとしてまちづくりをするのではなく、障害しょうがいしゃきやすいまちづくりがなされたうえで障害しょうがいしゃまちにどんどんだし状況じょうきょうづくりをすることが必要ひつようであろう。北欧ほくおうなどでさかんにわれているノーマライゼーションとは「まちれる、まちれる」という精神せいしんもとづいて社会しゃかい整備せいびされ、そこへ健常けんじょうしゃおなじように障害しょうがいしゃ社会しゃかい参加さんかできるようになっている。ところが障害しょうがいしゃ家庭かてい養護ようご学級がっきゅう養護ようご学校がっこう作業さぎょうしょ施設しせつなどに排除はいじょしてきたがわにいたものが、てのひらかえすように「ず、まちれろ」とべることはできないのではないか。いま状況じょうきょう障害しょうがいしゃまちまちれるには非常ひじょう負担ふたん個人こじんいることになるであろう。障害しょうがいしゃをその誕生たんじょうからまで健常けんじょうしゃけずにらせる社会しゃかいづくりこそが最初さいしょおこなわれる施策しさくでなければならない。すなわち社会しゃかい全般ぜんぱんにわたりあらかじめ障害しょうがいのある人々ひとびとへの配慮はいりょをしておこうというノーマライゼーションのかんがかた3がなければならない。そのためにも「障害しょうがい個性こせいであると肯定こうていする」ということばを、「その存在そんざい障害しょうがいしゃ)をそのまま社会しゃかいれる」意味いみとして解釈かいしゃくなお必要ひつようがある。
 しかし、一方いっぽう安積あさかのように不便ふべん覚悟かくご個人こじんちからでも、おくすることなく、まちにいる健常けんじょうしゃをどんどん利用りようし、「その介護かいご体験たいけんをさせてあげるのだ」というほどの気持きもちでさわやかにそして勇気ゆうきってまちることも必要ひつようであろう。まちれるまでっていられないのも事実じじつである。まち障害しょうがいしゃれるようにさせることも必要ひつようなのではないか。
 つぎ朝日新聞あさひしんぶん論壇ろんだん」に投稿とうこうした文章ぶんしょうで「障害しょうがい個性こせいかんがえたい」とだいして、白書はくしょりあげ批判ひはん非難ひなんされたことに弁明べんめいこころみている。ここで論点ろんてんとなっているのが、「障害しょうがい個性こせいである」と行政ぎょうせい責任せきにんしゃがこのようなかんがかた表明ひょうめいしたときに、この言説げんせつがもつようになる影響えいきょうである。障害しょうがい個性こせいろん本来ほんらい障害しょうがいしゃあるいはその支援しえんしゃから健常けんじょうしゃけて主張しゅちょうされてきた議論ぎろんである。それが健常けんじょうしゃから障害しょうがいしゃけて主張しゅちょうされる場合ばあいふたつの意味いみ影響えいきょうをもつようになるとかんがえられる。
 1)障害しょうがい個性こせいという個人こじんてき問題もんだい還元かんげんし、障害しょうがいしゃ抑圧よくあつする手段しゅだんになってしまう。(1の<1>)
 2)障害しょうがいしゃ健常けんじょうしゃ社会しゃかい統合とうごうしようとする方向ほうこうづけをなくし、現状げんじょう肯定こうていかう。
 1)については「全盲ぜんもうなどの重度じゅうど障害しょうがいしゃが、きびしい状況じょうきょうなかかれているのに、障害しょうがいしゃたいする公的こうてきサービスを不要ふようとするような帰結きけつみちび障害しょうがいしゃかんがまかりとおるのは見逃みのがせない」(朝日新聞あさひしんぶん論壇ろんだん」1996.6.6)という指摘してきのように、障害しょうがいしゃ問題もんだい個人こじん内包ないほうさせ、社会しゃかい免責めんせきはかっていることになっている。2)は立岩たていわしん也氏の所論しょろん検討けんとうくわしくろんじ、そのあとで、様々さまざま障害しょうがいしゃ社会しゃかいれるありかた提唱ていしょうされるであろう。
 最後さいごに、障害しょうがい個性こせいろん主張しゅちょうする障害しょうがいしゃ一枚岩いちまいいわではないことについてべておく。

 「一方いっぽうで『障害しょうがい個性こせい』と主張しゅちょうする障害しょうがいしゃがいて、他方たほうでその意見いけん同調どうちょうできない障害しょうがいしゃがいます。それぞれの主張しゅちょうはうまくかみ議論ぎろんではなく、どちらがただしいというものでもありません。」(朝日新聞あさひしんぶん論壇ろんだん」)

 障害しょうがい個性こせいであると主張しゅちょうするとき、「障害しょうがい」を共通きょうつう個性こせいとして共有きょうゆうすることができるだろうか。それぞれの障害しょうがい個別こべつ事情じじょうをかかえる。たとえば、障害しょうがい分類ぶんるい度合どあい・個別こべつ家庭かてい環境かんきょう地域ちいき社会しゃかいとのむすびつき・性別せいべつ就学しゅうがくなどによる生活せいかつ実態じったい各自かくじ障害しょうがいしゃかんによって障害しょうがいしゃ分断ぶんだんしょうじると、自分じぶんとはことなる障害しょうがいものたいして排他はいたてきになるであろう。すなわち障害しょうがいしゃ分断ぶんだん帰結きけつしやすい主張しゅちょうであることが指摘してきできる。

2.2 障害しょうがい個性こせいろん否定ひていてき立場たちばかんがえる

 (1)久本ひさもと洋二ようじは「『障害しょうがい個性こせい』は危険きけん表現ひょうげんでは」(わだち37 1996/07 )で小池こいけ将文まさふみの「障害しょうがい個性こせいかんがえたい」という主張しゅちょうへの疑問ぎもん提示ていじした。なぜ行政ぎょうせい、マスコミは「障害しょうがい個性こせい」を宣伝せんでんするのか問題もんだい提起ていきする。障害しょうがい以下いかのように定義ていぎする。

 「障害しょうがいは、そのひと機能きのう低下ていか不調ふちょう存在そんざいとそれによる社会しゃかい生活せいかつじょう制限せいげん不便ふべん存在そんざいあらわす、医療いりょう行政ぎょうせいじょう専門せんもん用語ようごである」(前掲ぜんけいp11)と「障害しょうがいはその社会しゃかいっている機能きのう評価ひょうか価値かち尺度しゃくどにより位置いちづけられるものであり、たんなる個人こじんやそのひとかた独自どくじせいというようなものではありません。」
                 (前掲ぜんけいp12下線かせんもりによる)

 下線かせんにおいて久本ひさもとは、「障害しょうがい」はたんなる個別こべつてき差異さいかた独自どくじせいのような個人こじんてき問題もんだいとして孤立こりつして存在そんざいするものではなく、障害しょうがいしゃ社会しゃかいなか相関そうかんてきとらえられるものであることを指摘してきしている。つまり障害しょうがい各人かくじん個人こじん内包ないほうされる個性こせい還元かんげんできない社会しゃかいせいつものであるととらえている。2.1(1)の安積あさかのような自己じこ肯定こうていのための戦略せんりゃくとしての個性こせい障害しょうがいしゃとしてきた人生じんせいなかつくげられたものとしての個性こせいではない。それゆえ、おおやけに「障害しょうがいしゃとなるには、前者ぜんしゃ定義ていぎのように、専門医せんもんい医療いりょう)が診断しんだん都道府県とどうふけん知事ちじ行政ぎょうせい)が認定にんていするという社会しゃかいてき手続てつづきをみ、障害しょうがいしゃ手帳てちょう取得しゅとくして社会しゃかいてき障害しょうがいしゃとなるのである。たとえば、社会しゃかいてき障害しょうがいしゃとなってもなお相対そうたいてき行政ぎょうせいサービスの利益りえき社会しゃかいてき偏見へんけんによる差別さべつくらべておおきいと本人ほんにん判断はんだんする場合ばあいなどである。ただし「障害しょうがいつもの」がすべて障害しょうがいしゃ手帳てちょう取得しゅとくするわけではない。障害しょうがい軽度けいど場合ばあいとく知的ちてき障害しょうがい精神せいしん障害しょうがい)でノーマライゼーションが実現じつげんできていない社会しゃかいでは、おおやけ障害しょうがいしゃとなることで不利益ふりえき偏見へんけんなどによる就労しゅうろう困難こんなんなど)がおおきくなる場合ばあいがあり、ひと社会しゃかいてき障害しょうがいしゃとなること(障害しょうがいしゃ手帳てちょう取得しゅとく)を極力きょくりょくけることになるであろう。欧米おうべい日本にっぽん障害しょうがいしゃすうちがいはこのあたりにあるといわれる(参考さんこう アメリカ17%、スウェーデン9%、日本にっぽん4%:数字すうじそう人口じんこう欧米おうべい障害しょうがいしゃ福祉ふくし制度せいど調査ちょうさ』1995)。
 久本ひさもとは「障害しょうがい個性こせい」という障害しょうがいしゃによる表現ひょうげんを、健常けんじょうしゃ障害しょうがいしゃによる「おねがい」とることをいましめ、障害しょうがいしゃによる社会しゃかいたいする切実せつじつな「いかり」としてめるよう主張しゅちょうする。この障害しょうがい個性こせいろんは、本来ほんらい障害しょうがいをプラスに評価ひょうかする当事とうじしゃたちの障害しょうがい認識にんしきであり障害しょうがい受容じゅよう方法ほうほうであったが、この主張しゅちょうそとけて発信はっしんすることで社会しゃかいがわ認識にんしきをもえようとしている。このことを「おねがい」とめるのはわたしたち健常けんじょうしゃがわになるのだが、健常けんじょうしゃがわがすぐに障害しょうがいしゃかたえられない、あるいはえようともしないので、障害しょうがいしゃは「いかり」をぶつけることになる。それでも健常けんじょうしゃがわは、態度たいどえたようにせて、社会しゃかい構造こうぞうえようとせず、かえって不満ふまんをそらせて福祉ふくしのもとに隔離かくり政策せいさくっているのが現状げんじょうである。養護ようご学校がっこう義務ぎむ作業さぎょうしょ拡大かくだい授産じゅさん施設しせつ充実じゅうじつはかり、障害しょうがい個性こせいみとめず、「障害しょうがい」に出会であうことさえける社会しゃかい促進そくしんされる。障害しょうがい個性こせいろんはマイナスの価値かちをプラスに転換てんかんするとてん当事とうじしゃにとって有効ゆうこうであっても、障害しょうがい個性こせい(プラスのもの)なのだから健常けんじょうしゃがわ義務ぎむ免責めんせきされる、とかえされると、障害しょうがいしゃ健常けんじょうしゃ分断ぶんだんしょうじさせることになりそうである。前述ぜんじゅつしたように「おねがい」することすら困難こんなんで、「いかり」をあらわすこともあまりない知的ちてき障害しょうがいしゃたちを障害しょうがい個性こせいろんのみですくすことには困難こんなんがある。

 (2)豊田とよだ正弘まさひろ小池こいけ障害しょうがい個性こせいろん批判ひはんするかたちべた「『障害しょうがい個性こせいろん批判ひはん」(『わだち37 1996/07』 p19〜20)は、WHOの定義ていぎにもあるように、障害しょうがいというものは障害しょうがいしゃかれている個別こべつ具体ぐたいてき状況じょうきょう社会しゃかい環境かんきょうとの整合せいごうせい問題もんだいであるにもかかわらず、個人こじん内包ないほうしている個性こせいむすけて、あたかも障害しょうがい個人こじん内包ないほうされているように、障害しょうがいしゃわそうとしているてん誤謬ごびゅうがあると指摘してきしている。豊田とよだは、障害しょうがい機能きのう障害しょうがいぎず、能力のうりょく低下ていか社会しゃかいてき不利ふりはあくまでも社会しゃかいつくげて個人こじん付与ふよしたものであるから、障害しょうがい個性こせいという個人こじん限定げんていして存在そんざいするものとかんがえることに反対はんたいする。本質ほんしつてき社会しゃかい全体ぜんたいむべき問題もんだいなのに、その責務せきむうことをけ、狭義きょうぎ当事とうじしゃせいふうめられると批判ひはんしている。べつ論文ろんぶんではつぎのようにべている。

 「マイノリティとして存在そんざいする以上いじょう、その問題もんだいはアプリオリには存在そんざいない。マイノリティの問題もんだいはそれに対峙たいじするマジョリティとの関係かんけい問題もんだいでもある。」(「当事とうじしゃ幻想げんそうろん」『現代げんだい思想しそう』26−2 p103)

 そのひとまわりの関係かんけい障害しょうがいとらえられるのであるから、障害しょうがい個人こじん内包ないほうされるものではく、あえて個性こせいんで強調きょうちょうする必要ひつようもない。障害しょうがい個性こせいろんは、問題もんだい本質ほんしつを「個性こせい」に解体かいたいしているとはいう。

 「障害しょうがい有無うむによらず個人こじん存在そんざい個別こべつてきであるから、自身じしん自身じしん以外いがいではありないことをもってすべてのひと個性こせいてきであり、障害しょうがいしゃもまたその意味いみにおいて障害しょうがいしゃ区別くべつされる存在そんざいではない。」(前掲ぜんけいp111)

 すべてのひと個性こせいてきであるが、「障害しょうがい」はこの社会しゃかいでは決定的けっていてきなものとしてされ、障害しょうがいひと全体ぜんたいであるようになされてしまう。健常けんじょうしゃ場合ばあいは「個性こせいてき」といわれて、その個性こせいがそのひと全体ぜんたいむすけられても、きるじゅつまでもうばわれその存在そんざいまでも否定ひていされることにはならない。であるから健常けんじょうしゃ障害しょうがいしゃから「障害しょうがい個性こせいである、肯定こうていせよ」とわれたとき、「個性こせいほどのものなのか、では、わたしたち健常けんじょうしゃはこの問題もんだい当事とうじしゃではないのだ、かかわらなくてもいのだ」という安心あんしんかんがおこるのではないか。障害しょうがい障害しょうがいしゃ問題もんだいであり、健常けんじょうしゃには関係かんけいないのだ、というようにされることによって、障害しょうがいしゃ運動うんどう障害しょうがいのある当事とうじしゃ運動うんどうにされ、健常けんじょうしゃ社会しゃかい運動うんどうになりえなくなるという意味いみで、健常けんじょうしゃ障害しょうがいしゃ分断ぶんだんをもこす可能かのうせいがある。

 「障害しょうがいしゃはその個性こせい個性こせいという障害しょうがいなのだが]によってまち社会しゃかい]の問題もんだい一人ひとり背負しょわされ、社会しゃかいは『障害しょうがいしゃがいることを当然とうぜん前提ぜんていとした社会しゃかい』のまちづくりから免罪めんざいされているのである。こうした障害しょうがい個性こせいろん障害しょうがいしゃ問題もんだいを「個性こせい」に解体かいたいし、社会しゃかい責任せきにん免罪めんざいする。」(前掲ぜんけいp112 [ ]ないもりによる補足ほそく

2.3 肯定こうてい否定ひていえる立場たちばかんがえる                                       ― からりること

 立岩たていわしん也氏は『私的してき所有しょゆうろん』のなかで、障害しょうがいについて否定ひていするのではなく、またあえて肯定こうていすると主張しゅちょうせず「そうした個別こべつ障害しょうがいいかわるいかを判断はんだんする」(p423)じょうからりることをすすめる。障害しょうがいものが、障害しょうがい理由りゆう自分じぶん卑下ひげしないための、ふたつの自己じこ肯定こうてい方法ほうほう検討けんとうしている(『なま技法ぎほう』p159〜162)。ひとつは、障害しょうがいがあること自体じたいべつのところに自分じぶん価値かちみとめる方法ほうほうである。すなわち障害しょうがいがあることでその存在そんざいひく否定ひていせいれ、障害しょうがい改善かいぜんする努力どりょくをする、あるいは価値かちある部分ぶぶんさがすのである(石川いしかわ分類ぶんるいでは<補償ほしょう努力どりょく>にあたる)。これと対照たいしょうてきに、障害しょうがいひとつのかけがえのない個性こせいとしてれ、ありのままの自分じぶんをまるごと一気いっき肯定こうていする方法ほうほうがある。後者こうしゃ方法ほうほう本稿ほんこう問題もんだいとされていることである。ここでは、あるひとのある属性ぞくせい否定ひていされるとき、これに対抗たいこうする方法ほうほうとして、いやじつはそれはいものだと、肯定こうていする必要ひつようはないとする。

 「そうした個別こべつ障害しょうがいいかわるいかを判断はんだんするという土俵どひょう必要ひつようがないのだとかんがえる。この場所ばしょはこうしたいがてられたときに、抵抗ていこうしようとするがわいやられてしまうなのであり、いられた場所ばしょなのである。」(前掲ぜんけいp423)

 すなわち、障害しょうがいをもつもの否定ひていせい改善かいぜんかわせたり、否定ひていされたものをあえて肯定こうていさせるそのような選択せんたくしょうじさせているもの(健常けんじょうしゃ文化ぶんかのもつ価値かちかん)こそを問題もんだいとし、これを無力むりょくにすることを目指めざすべきであるとする。これが「からりる」ということの意味いみである。

2.4 障害しょうがい個性こせいろん補完ほかんする
 (1)あらためて「障害しょうがい個性こせいろん」をかんがえる
 これまで障害しょうがい個性こせいろんについて肯定こうてい否定ひてい様々さまざま立場たちば検討けんとうしてきた。それぞれの立場たちばにおいてわれていることはただしいことのようにおもわれた。しかし、ここではこれまでとちが枠組わくぐみを設定せっていし、それにもとづいて、障害しょうがいしゃ運動うんどうなか誕生たんじょうした「障害しょうがい個性こせいである」という言説げんせつ障害しょうがいしゃ主張しゅちょうし、それにわたしたち健常けんじょうしゃがどのようにこれをるかで障害しょうがい個性こせいろん意味いみ変化へんかするかを検討けんとうしてみたい。そのあたらしい枠組わくぐみは、主張しゅちょうできる障害しょうがいしゃである身体しんたい障害しょうがいしゃ主張しゅちょう一般いっぱんができない知的ちてき障害しょうがいしゃ存在そんざいするという事実じじつがあるのに、この両者りょうしゃ区別くべつすることなく「障害しょうがい個性こせいである」という主張しゅちょうすべての障害しょうがいしゃからの主張しゅちょうっていてよいのか、という疑問ぎもんからはっしている。そこでこれまでとはちが枠組わくぐみでこのことを区別くべつしてかんがえることになる。
 「障害しょうがい個性こせいである」という言説げんせつ障害しょうがいしゃ運動うんどうがわからてきたことはたしかである。しかしそれをけて健常けんじょうしゃであるわたしたちが、障害しょうがいわたしたちにとって負担ふたんであり、不都合ふつごうであり、マイナスのものであるというこれまでの障害しょうがいしゃかん転換てんかんし、支援しえん活動かつどうかうことができるからこれはただしい主張しゅちょうである、ということでは重要じゅうようてん看過かんかされているようにおもわれる。障害しょうがいしゃがわからの主張しゅちょうだけで、本当ほんとうわたしたち健常けんじょうしゃ障害しょうがいしゃかん根本こんぽんてき転換てんかんしたであろうか。「障害しょうがい個性こせいである」という言説げんせつは、きて存在そんざいする障害しょうがいしゃからの主張しゅちょうである。きて存在そんざいするとともに、主張しゅちょうできることも、この言説げんせつわたしたち健常けんじょうしゃ多数たすうめるこの社会しゃかいたいしてうったえていく条件じょうけんである。この主張しゅちょうは1970年代ねんだい障害しょうがいしゃだれかがった主張しゅちょうなのだ、だからそれ以降いこうその言説げんせつった健常けんじょうしゃがわ障害しょうがいしゃかん転換てんかんすべきだとし、ある程度ていど障害しょうがいしゃ支援しえんするようになった、とはいえる。しかし現実げんじつには、出生しゅっしょうぜん診断しんだん選択せんたくてき人工じんこう妊娠にんしん中絶ちゅうぜつとセットになって、障害しょうがいつであろうかくりつたか胎児たいじ中絶ちゅうぜつされている。わたしたち健常けんじょうしゃだい部分ぶぶんわっていない。すくなくともこのような技術ぎじゅつえらんでいるものがいるかぎり、わたしたち健常けんじょうしゃ障害しょうがいしゃかんまった転換てんかんしたとはいえない。わたしたち健常けんじょうしゃ現実げんじつきて存在そんざい主張しゅちょうできる障害しょうがいしゃ主張しゅちょうされて、はじめてげんきて存在そんざいする障害しょうがいしゃ支援しえんはじめる。このとき主張しゅちょうできない障害しょうがいしゃ支援しえんされるであろう。しかしすくなくとも「障害しょうがい個性こせいである」と最初さいしょ障害しょうがいしゃ主張しゅちょうした運動うんどうなかには、その運動うんどう主体しゅたいとしては存在そんざいしなかったであろう知的ちてき障害しょうがいしゃは、「障害しょうがい個性こせいである」と主張しゅちょうすることでられる支援しえんとはべつ理由りゆう支援しえんされてきたのではないか。このときわたしたちは、主張しゅちょう能力のうりょく決定けってい能力のうりょく意識いしき感覚かんかくという、ひとかかわる内容ないよう(「パーソン」という資格しかく)ではないものの見方みかたにおいて、知的ちてき障害しょうがいしゃ支援しえんしたり、尊重そんちょうしているのではないか。そこでわたしたち健常けんじょうしゃ(ここでひとくくりにしているのは、とくに、知的ちてき障害しょうがいしゃ家族かぞくにもつ健常けんじょうしゃ)が「障害しょうがい個性こせいである」という言説げんせつを、これを主張しゅちょうする障害しょうがいしゃ主張しゅちょう能力のうりょくそれ自体じたい注目ちゅうもくし、肯定こうていしてれるとした場合ばあい、これまでの身体しんたい障害しょうがいしゃ知的ちてき障害しょうがいしゃではない)からの主張しゅちょうによる障害しょうがいしゃかん転換てんかんというかたことなるふたつの立場たちばがあることに注目ちゅうもくしたい。ただし、「障害しょうがい個性こせいである」という命題めいだいは、それを主張しゅちょうできるかかと無関係むかんけいに、真偽しんぎ第三者だいさんしゃとしてえる。そしてそれはしんであるなら、この命題めいだいは、主張しゅちょうできるかかとは無関係むかんけいに「障害しょうがいしゃ」という存在そんざい普遍ふへんてきにあてはまるといえる。
1)障害しょうがいしゃ主張しゅちょう能力のうりょく必要ひつよう条件じょうけんとして、肯定こうていする立場たちば
  主張しゅちょう能力のうりょくというひとかかわる内容ないよう条件じょうけんとする立場たちば(パーソンろん)にくみすることになる。
2)障害しょうがいしゃ主張しゅちょう能力のうりょく必要ひつよう条件じょうけんとせず、肯定こうていする立場たちば
  主張しゅちょう能力のうりょくひとかかわる内容ないよう条件じょうけんとして、肯定こうていする立場たちば全面ぜんめんてきくみしないことになる。すなわち、主張しゅちょう能力のうりょく自体じたいとそのひときていくことができること(そのひとひとであることの資格しかくとすること)とは独立どくりつのことととらえる。
 このふたつの立場たちば射程しゃていとする障害しょうがいしゃ以上いじょう立場たちばからことなるであろう。1)の場合ばあい主張しゅちょう能力のうりょく自体じたい身体しんたい障害しょうがいしゃのみが射程しゃていとなるであろう。また2)の場合ばあい主張しゅちょう能力のうりょくひととする必要ひつよう条件じょうけんとはしないので、すべての障害しょうがいしゃ身体しんたい障害しょうがいしゃ知的ちてき障害しょうがいしゃ)が射程しゃていということになるであろう。このことから「障害しょうがい個性こせいである」という主張しゅちょうわたしたち健常けんじょうしゃがどのような立場たちばれるかによって、この言説げんせつ意味いみわってくることになることがわかる。

 (2)「他者たしゃ」をみとめる
 ここであらたなかんがえが導入どうにゅうされる。自分じぶんではないものを「他者たしゃ」と一般いっぱんぶ。「他者たしゃ」はなに充実じゅうじつした内容ないようたとえば意識いしき感覚かんかく主張しゅちょう能力のうりょくなど)をもつという積極せっきょくてき理由りゆうによって定義ていぎされるのではなく、自分じぶんではないという消極しょうきょくてき理由りゆうによって定義ていぎされる。これまで主張しゅちょう能力のうりょく必要ひつよう条件じょうけんとしないところにすべての障害しょうがいしゃひととしてあらわれることをた((1)の2))。このように障害しょうがいしゃなん資格しかく条件じょうけんをつけないという消極しょうきょくてき理由りゆう尊重そんちょうすることは重要じゅうようである。なぜならこれと反対はんたいに「障害しょうがい個性こせいである」という主張しゅちょう能力のうりょく必要ひつようであるとしてわたしたち健常けんじょうしゃれる場合ばあい、これを主張しゅちょうするその存在そんざい障害しょうがいしゃ)にたいして、すで主張しゅちょう能力のうりょく要件ようけんとして人格じんかく存在そんざいであるということをみとめていることになるからである。そこには主張しゅちょうできない障害しょうがいしゃ尊重そんちょうされない存在そんざいとして区別くべつされることになる危険きけんせいがある。「他者たしゃ」になに主張しゅちょう能力のうりょく意識いしき感覚かんかくなどの内容ないようつという条件じょうけんをつけていることになる。「他者たしゃ」とはあくまで自分じぶんではないという消極しょうきょくてき理由りゆうによってのみ定義ていぎされることを確認かくにんしておく。だから<1>「障害しょうがい個性こせいである」と主張しゅちょうするから障害しょうがいしゃであることを肯定こうていしようということと<2>障害しょうがいしゃを「他者たしゃ」として尊重そんちょうしよう、ということにはちがいがある。<1>はわたしたち健常けんじょうしゃ障害しょうがいしゃ主張しゅちょう能力のうりょく一度いちどみとめたうえで、そのことを条件じょうけんとして障害しょうがいしゃ肯定こうていかうということであるのにたいして、<2>は主張しゅちょう能力のうりょくのようなひととしての内容ないよう他者たしゃ他者たしゃであることや、ひとひとであることの根拠こんきょもとめていないというちがいがある。それゆえ(1)の2)の「障害しょうがいしゃ主張しゅちょう能力のうりょく必要ひつよう条件じょうけんとせず、肯定こうていする立場たちば」には知的ちてき障害しょうがいしゃのような主張しゅちょう能力のうりょくがない存在そんざいをも一気いっき肯定こうていするちからがあるとかんがえる。

 (3)「他者たしゃ」としての知的ちてき障害しょうがいしゃ
 「障害しょうがい個性こせいである」と主張しゅちょうできない知的ちてき障害しょうがいしゃ尊重そんちょうするあらたな視点してんが「他者たしゃ」として障害しょうがいしゃすべてを尊重そんちょうするというとらかたであった。ここでは意識いしきてき知性ちせいてき存在そんざいしゃとして人間にんげん把握はあくするパーソンろんと「他者たしゃろんちがいについてろんじる。知的ちてき障害しょうがいしゃには、わたしたち健常けんじょうしゃ知的ちてき障害しょうがいがない身体しんたい障害しょうがいしゃふくむ)が理性りせい言語げんごなどで把握はあくできない世界せかい保持ほじしているようにおもわれる。もちろんその世界せかいかれのすべてではなく、わたしたちと共有きょうゆうし、意志いし疎通そつう可能かのう部分ぶぶんちながらも知的ちてき障害しょうがいしゃには、わたしたちには究極きゅうきょくてきにはることができない世界せかいかれ内面ないめん展開てんかいしているようにおもわれる。たとえば、つぎべるような知的ちてき障害しょうがいしゃ実在じつざいしている。かれは、よるまち繁華はんかがいのネオンサインがきらめくのがよくえるはしうえで、はげしく興奮こうふんしてくびかたむけてがりながらたたいている。とおりすがりの人々ひとびとは、あるひとおどろいてびのき、またあるひと遠巻とおまきにぎる。わたしたち健常けんじょうしゃにとってネオンサインはやはりうつくしい。図柄ずがら瞬時しゅんじ変化へんかするのを、きずにながめることもある。「わぁー、きれいね」。しかし、そのあとわたしたち健常けんじょうしゃはそのネオンサインになに意味いみ宣伝せんでん意図いと)をるであろう。これにたいして、この知的ちてき障害しょうがいしゃはこのネオンサインの意味いみ作業さぎょう多少たしょうおこなうとおもわれる)とともに、わたしたち健常けんじょうしゃには到達とうたつない独自どくじ世界せかいなかにいるようにおもわれる。わたしたち健常けんじょうしゃはしばらくまったあと、それにきてとおぎる。かれ数時間すうじかんそこにまり、きずにながめている。
 知的ちてき障害しょうがいしゃ自己じこ意識いしきしたり、反省はんせいしたりしなくても、かれ独自どくじのありかた世界せかいかんじていることがあるようにおもわれる。わたしたち健常けんじょうしゃのように判断はんだんしたり、おな時間じかんじく空間くうかん感覚かんかく共有きょうゆうしていないようにえても、独自どくじかんかたとらかたでこの世界せかいをどのようにかとらえてきているようである。他者たしゃをこのようなものとしておもっているのはわたしたち健常けんじょうしゃがわである。わたしたちとはちがうようにではあるが、わたしたちと同様どうように、世界せかいがそのもの独自どくじかんじられてあるということにおいて、わたしたちがおもいやり尊重そんちょうすべき存在そんざいとしての他者たしゃであることをかたちづくるのではないか。これにたいして、パーソンろんではわたしたちとおな世界せかいのもとに意識いしき感覚かんかく主張しゅちょう能力のうりょくをもつ存在そんざいであることをもってひととらえているてんで、「他者たしゃろんおおきくことなるといえよう。それゆえにパーソンろん他者たしゃろん把握はあくしようとする存在そんざいよりひと範囲はんいせまいことになる。
 このことを身体しんたい障害しょうがいしゃ知的ちてき障害しょうがいしゃちがいとしてかんがえるとつぎのようになる。その存在そんざいにその存在そんざいだけの世界せかいけており、どのようにか世界せかいとらえている知的ちてき障害しょうがいしゃだけの世界せかいがあるということ(かぎりない反復はんぷくたのしんだりする)と、身体しんたい障害しょうがいしゃ障害しょうがい個性こせいである云々しかじか主張しゅちょうするような自己じこ意識いしきがあること(わたしたちに運動うんどうとしてとどく)とはおなじではないということがえる。身体しんたい障害しょうがいしゃほうわたしたち健常けんじょうしゃおなじんとしての内容ないようをもって存在そんざいすると、わたしたちはとらえている。パーソンろんでは身体しんたい障害しょうがいしゃのみをひととして尊重そんちょうすることになるが、他者たしゃろんでは知的ちてき障害しょうがいしゃをもひととして尊重そんちょうすることになるであろう。
 つぎに、知的ちてき障害しょうがいしゃを「他者たしゃ」として理解りかいすることはどのようなことになるかをかんがえてみる。2.1(4)においてげた小池こいけ将文まさふみ知的ちてき障害しょうがいしゃ以下いかのように理解りかいしている。

 「「さをりり」の創始そうししゃじょうみさをさんは、知的ちてき障害しょうがいしゃ作品さくひん素晴すばらしさに感銘かんめいして全国ぜんこく各地かくちへの普及ふきゅうすすめ、いまでは海外かいがいでもひろれられています。常識じょうしきまりったルールにとらわれない作品さくひん芸術げいじゅつせいたかく、彼女かのじょは「障害しょうがい個性こせいというより才能さいのう」とまでっています。」
       (朝日新聞あさひしんぶん論壇ろんだんらん障害しょうがい個性こせいかんがえたい」)

 他者たしゃ理解りかいするとき、わかろうとするときわたしたちは間違まちがいをおかしているのではないか。知的ちてき障害しょうがいしゃ作品さくひんには、わたしたち健常けんじょうしゃおな常識じょうしきまりったルールをたないにもかかわらず、わたしたちの常識じょうしきまりったルールを適用てきようしようとしてうまくいかないことを芸術げいじゅつせいたかいと評価ひょうかしているだけなのではないか。そのことがわたしたちには新鮮しんせんうつるのである。わたしたち健常けんじょうしゃ知的ちてき障害しょうがいしゃ全面ぜんめんてきに「わかること」「理解りかいすること」は不可能ふかのうではないか。わたしたちが知的ちてき障害しょうがいしゃ理解りかいすることができたというとき、わたしたちは知的ちてき障害しょうがいしゃ世界せかい認識にんしき内容ないよう自分じぶんたちと同様どうよう世界せかい認識にんしき内容ないようとして理解りかいしたことになる。つまりここでは知的ちてき障害しょうがいしゃという他者たしゃたいしてわたしたち健常けんじょうしゃ認識にんしき理解りかい適用てきようこころみそれに成功せいこうしたとかんがえることである。しかし、これはたん理解りかいしたになっているだけではないだろうか。このときわかることやわたしたちとおなじであるとおもうことは、他者たしゃなにかそのものにだけ展開てんかいしてある世界せかい破壊はかいしたうえで、わたしたちに自明じめいなものとしてある世界せかい他者たしゃしつけていることになっているのではないか。そのような理解りかい知的ちてき障害しょうがいしゃ存在そんざいたいする抑圧よくあつになっているのではないか。以下いかのような事例じれいがある。わたしたち健常けんじょうしゃは、一般いっぱん得体えたいれないという感情かんじょう知的ちてき障害しょうがいしゃたいしてっている。ある知的ちてき障害しょうがいしゃ本屋ほんやはいっていくのをたことがある。かれ時々ときどきその本屋ほんやおとずれては、テレビ番組ばんぐみガイドをふける。本屋ほんや主人しゅじんかれ背後はいご監視かんしつづける。かずじゅうふんかれはそれをうか、きちっとたなもどすだけである。そのあいだ、そのよこちかくのたなでさまざまじん健常けんじょうしゃ)がみした雑誌ざっしたな乱雑らんざつまれてあった。
 このような他者たしゃ理解りかい健常けんじょうしゃあいだにもあり、そのことが他者たしゃきるはば制限せいげんしてしまっている場合ばあいがよくられる。わたしたちが他者たしゃ理解りかいするのは他者たしゃなにかがわかることではなく、他者たしゃがいることがわかるだけではないか。わたしにおいてしかわたし世界せかい存在そんざいしないこととすくなくとも同格どうかくのことがそこに他者たしゃにおいて存在そんざいしているのだということをっているだけなのである。知的ちてき障害しょうがいしゃ他者たしゃとして理解りかいすることは、無理むりやりにわたしたちが理解りかいできるものの範囲はんいもうとすることではない。また、到底とうてい理解りかいできない部分ぶぶんや、理解りかいできるものの範囲はんいからとおはなれている部分ぶぶんわたしたち健常けんじょうしゃ世界せかいから抹殺まっさつすることでもない。このような態度たいどから、つぎのようなことがみちびかれる。たとえば養護ようご学校がっこうといった知的ちてき障害しょうがいしゃだけをあつめ、知的ちてき障害しょうがいなおし、わたしたち健常けんじょうしゃ世界せかいのありようを無理むりやり訓練くんれんおしみ、このことは完全かんぜんには成功せいこうしないにもかかわらず、教育きょういくというのもとにこれを継続けいぞくし、そのものたちを隔離かくりつづけ、わたしたちとはちがったありようをもつ知的ちてき障害しょうがいしゃを、わたしたち健常けんじょうしゃ理解りかいする世界せかいのみが現実げんじつ世界せかいであるとして、現実げんじつ表面ひょうめんからとしてしまうことをけっしてしないということがわたしたちのかたとしてみちびかれるべきではないか。知的ちてき障害しょうがいしゃをその障害しょうがいまるごとれること、そしてこの社会しゃかいなかで、自分じぶんのままでいること、自分じぶんがあるがままでいることができ、そのことがゆるされてあるような関係かんけい他者たしゃむすぶことが、知的ちてき障害しょうがいしゃ他者たしゃとして尊厳そんげんある存在そんざいとしてあらしめるわたしたちのえらぶべきかたではないか。

 (4)限界げんかい
 ここまで考察こうさつした障害しょうがい個性こせいろんや、これをカバーする他者たしゃろんなども結局けっきょくわたしたち健常けんじょうしゃがわきずくものでしかない。そのひと尊重そんちょうするとか尊重そんちょうしなくてもよいというようなことをべているのはわたしたち知的ちてき健常けんじょうしゃがわ理由りゆうけによっている。いずれにしてもわたしたち健常けんじょうしゃ他者たしゃたいする関係かんけいとしてある。しかし知的ちてき障害しょうがいしゃ他者たしゃとして尊重そんちょうするというわたしたちのありかたは、そのひと知的ちてき障害しょうがいしゃ)において独自どくじ世界せかい展開てんかいされてあるというとき、それはすべてわたしたち健常けんじょうしゃおもうことであっても、特別とくべつ意味いみつとかんがえる。この特別とくべつ意味いみとは、たしかにこの場合ばあいわたしたちがこのようにおもうということのなかにあることではあるが、そこにおいて世界せかいがあるということが他者たしゃ存在そんざいがよりつよ現実げんじつせいとして、超越ちょうえつすることができない、その存在そんざい破壊はかいしないものとしてわたしたち健常けんじょうしゃまえあらわれているのではないか。この社会しゃかいにあって多数たすうしゃであり、知的ちてきなものが優位ゆういめ、そのようなものが価値かちとしてげられるにおいては、この社会しゃかいは、知的ちてき障害しょうがいしゃきず社会しゃかいではなく、わたしたち健常けんじょうしゃきず社会しゃかいシステムのなかでのわたしたちによる他者たしゃ尊重そんちょうにしかぎないのではないか。

3.むす

 本稿ほんこうでは、「障害しょうがい個性こせいろん」が障害しょうがいたいして否定ひていてき価値かちづけをするものへの批判ひはん否定ひていとしてあらわれたことを指摘してきした。「マイナスとされている属性ぞくせい価値かちみとめよ」と価値かちかん転換てんかんせま方法ほうほうこそがこの主張しゅちょう戦略せんりゃくである。しかし自分じぶんかんがえを主張しゅちょうできないもの主張しゅちょう困難こんなんもの自己じこ障害しょうがい障害しょうがい理解りかいできないものは「障害しょうがい個性こせいである」、「障害しょうがい肯定こうていせよ」と主張しゅちょうできないであろう。障害しょうがい個性こせいろん障害しょうがいしゃ解放かいほう運動うんどうから登場とうじょうしたかんがえである。それゆえに、これが主張しゅちょうする障害しょうがいはすべての障害しょうがい意味いみするはずである。個別こべつ障害しょうがいいかわるいかを判断はんだんするがあるとき、それに抵抗ていこうしようとするものは、障害しょうがいいかわるいかをわされる立場たちばまれる。しかしこのような必要ひつようはない。障害しょうがい個性こせいであり、これを肯定こうていする主張しゅちょうはあくまでも積極せっきょくてきはたらきかけであり、障害しょうがいしゃ自身じしんによるはたらきかけのもとに社会しゃかいえようとする意図いとから出発しゅっぱつしている。障害しょうがい個性こせいろん効用こうよう否定ひていするのでなくこれを保持ほじしつつ、あらゆる障害しょうがいしゃなにひととしての内容ないようつことを条件じょうけんとして尊重そんちょうするのではなく、わたしたち(健常けんじょうしゃ)が到達とうたつしえない世界せかい存在そんざいとしての他者たしゃ他者たしゃとしてきることができる方向ほうこうへと社会しゃかい構築こうちくしていくことができるのではないか。

ちゅう
1 「障害しょうがい」という言葉ことばは、人間にんげん心身しんしん機能きのう特殊とくしゅ状態じょうたいである機能きのう低下ていか異常いじょう喪失そうしつしめすものである。これを狭義きょうぎの「障害しょうがい」あるいは医学いがくてきレベルの「障害しょうがい」とぶ。1980ねんの「国際こくさい障害しょうがいしゃねん行動こうどう計画けいかく」はだい65こうにおいて「障害しょうがいしゃは、その社会しゃかいことなったニーズをもつ特別とくべつ集団しゅうだんかんがえられるべきでなく、その通常つうじょう人間にんげんてきニーズをたすのに特別とくべつ困難こんなん普通ふつう市民しみんかんがえられるべきなのである。」(下線かせん筆者ひっしゃ)とべている。この「特別とくべつ困難こんなん」とは広義こうぎの「障害しょうがい」といわれ医学いがくてきレベルから社会しゃかいてきレベルまでを包括ほうかつするものである。またWHOは「国際こくさい障害しょうがい分類ぶんるい試案しあん」を発行はっこうしている。これを直訳ちょくやくすると「機能きのう障害しょうがい能力のうりょく低下ていか社会しゃかいてき不利ふり国際こくさい分類ぶんるい」となり、「障害しょうがい」のみっつのレベルや「障害しょうがい」の構造こうぞうばれている。このように「障害しょうがい」という言葉ことばには狭義きょうぎ広義こうぎ両方りょうほう用法ようほうがあり、かつ意味いみ多様たようせいがある。以下いか、「障害しょうがい」の意味いみを4つにけて構造こうぞうてき整理せいりしてみる。
・impairment(機能きのう形態けいたい障害しょうがい)…障害しょうがいいちてきレベルであり、病理びょうりてき状態じょうたい表面ひょうめんしめし、原理げんりてき器官きかんのレベルの変調へんちょうあらわす。これは生物せいぶつがくてきレベルでとらえた障害しょうがいである。治療ちりょうてきアプローチをようする。生理学せいりがくてき医学いがくてき障害しょうがい
・disability(能力のうりょく低下ていか)…障害しょうがいてきレベルであり、人々ひとびと通常つうじょうっている活動かつどう遂行すいこう行動こうどうが、過剰かじょうであったり不足ふそくしていたりすることである。機能きのう障害しょうがい客観きゃっかんしめし、人間にんげん個人こじんレベルの変調へんちょうあらわす。代償だいしょうてきアプローチをようする。個人こじんてき障害しょうがいであり、生活せいかつ視点してんがベースになっている。
・handicap(社会しゃかいてき不利ふり)…障害しょうがいさんてきレベルであり、機能きのう障害しょうがい能力のうりょく低下ていか社会しゃかいしたものであり、個人こじんにとっての、機能きのう障害しょうがい能力のうりょく低下ていか文化ぶんかてき社会しゃかいてき経済けいざいてき環境かんきょうてき結果けっかあらわす。環境かんきょう改善かいぜん改革かいかくてきアプローチをようする。この社会しゃかいてきなレベルの不利益ふりえきとは、その社会しゃかい時代じだいおおくの人々ひとびと保障ほしょうされている生活せいかつ水準すいじゅん社会しゃかい活動かつどうへの参加さんか社会しゃかいてき評価ひょうかなどが保障ほしょうされていない状態じょうたいしめす。
・illness(やめい・主観しゅかんてき障害しょうがい体験たいけんとしての障害しょうがい)…障害しょうがいしゃ本人ほんにん自己じこ価値かち否定ひていてきてしまうことによりしょうじる。主観しゅかんてき障害しょうがいあるいは体験たいけんとしての障害しょうがいである。

なお国際こくさい障害しょうがい分類ぶんるい改訂かいてい作業さぎょう進行しんこうちゅうであり(1999ねんには「WHO国際こくさい障害しょうがい分類ぶんるいバージョンU」が出版しゅっぱんされる予定よてい)、disabilityを使用しようしない方向ほうこうすすめられている。その理由りゆうとして北米ほくべいではdisabilityは機能きのうてき制約せいやくとしてもちいられているが、英国えいこくでdisabilityは社会しゃかいてき不利ふりとしてもちいられている。これは handicapの語源ごげんがhand in capで物乞ものごいを想起そうきさせるという誤解ごかい原因げんいんでもある。(この部分ぶぶん立岩たていわ しん也:「1970ねん」を参照さんしょう
BCODP(英国えいこく障害しょうがいしゃ協会きょうかい)はDPI (障害しょうがいしゃインターナショナル)において、impairmentがdisabilityに、disabilityがhandicapのそれぞれわりとしてもちいることができるとくわえている。長瀬ながせ おさむ:『ノーマライゼーション 障害しょうがいしゃ福祉ふくし』1996-6)

2 「知的ちてき障害しょうがいしゃ」と記述きじゅつされる。一般いっぱんのう不全ふぜんによって理解りかいりょく判断はんだんりょく低下ていかしているひとわれる。「精神せいしん薄弱はくじゃくしゃ基本きほんほう」(1960ねん)、障害しょうがいしゃ基本きほんほう(1993ねん)では「精神せいしん薄弱はくじゃく」と記述きじゅつされてきた。1998ねん9がつ議員ぎいん立法りっぽうで「知的ちてき障害しょうがい」と用語ようご変更へんこうする改正かいせいほう成立せいりつし、1999ねん4がつから施行しこうされる。かつて時代じだいって、白痴はくち(idiot)・痴愚ちぐ(imbecile)・魯鈍ろどん(moron)・精神せいしん発育はついく制止せいししょう劣等れっとう低能ていのう精神せいしん薄弱はくじゃく精神せいしん遅滞ちたい知恵ちえおくれ・知的ちてき発達はったつ遅滞ちたい知的ちてき発達はったつ障害しょうがい理解りかいのハンディキャップ・知的ちてきハンディキャップなどさまざまな用語ようごがあった。その、(the people with )intellectual disability・feeble-mindedness ・mental deficiency ・mental handicap ・intellectual handicap ・mental retardation・intellectually challengedといった英語えいご表現ひょうげんもある。また最近さいきん英国えいこくじんによる口語こうご表現ひょうげんとしては、かなり丁寧ていねい表現ひょうげんとして、someone who is not clever, someone who slow learner, someone who finds it difficult to study or to learnなどと、婉曲えんきょくてき表現ひょうげん使つかわれており、たとえばfeeble-mindednessなどはいたこともないとわれるほどいまでは日常にちじょうてきには使つかわれないようである。障害しょうがいについての差別さべつてき表現ひょうげんのなかで、自覚じかくてき訂正ていせいされたとかんがえられるれいとして、それぞれdefectがdisabilityに、defectiveがdisabledに、mentally retardedがintellectually disabledに改訂かいていばん変更へんこうされているものがある。(ピーター・シンガー『実践じっせん倫理りんり』1979ねん初版しょはんから1993ねんだい2はんでの変化へんか土屋つちや貴志たかし 1994「『シンガー事件じけんのシンガー」による)
 障害しょうがいしゃ本人ほんにん自己じこ障害しょうがい受容じゅようできアイデンティティを確立かくりつしやすい用語ようごで、かつ社会しゃかいがその用語ようごでマイナスの価値かちたないようなものとして、「精神せいしん」という言葉ことばしん気力きりょく理念りねん意志いしなどの意味いみにも使つかわれるため「精神せいしん薄弱はくじゃく」・「精神せいしん遅滞ちたい」では意味いみ不明ふめいで,たとえば「意志いし薄弱はくじゃく」と誤解ごかいける場合ばあいがあり適当てきとうであろう。また「精神せいしん遅滞ちたい」・「知恵ちえおくれ」・「知的ちてき発達はったつ遅滞ちたい」・「知的ちてき発達はったつ障害しょうがい」などの用語ようごは、発達はったつ障害しょうがい限定げんていされると、19さい以後いご病気びょうき交通こうつう事故じこなどで知能ちのう低下ていかする中途ちゅうと知的ちてき障害しょうがいしゃ該当がいとうしなくなる。中途ちゅうと知的ちてき障害しょうがいしゃ場合ばあい、いったん発達はったつしたあとの「痴呆ちほう」とみなされると療育りょういく手帳てちょう取得しゅとくもできない。発達はったつ障害しょうがいである「精神せいしん薄弱はくじゃく」ではないのがその理由りゆうである。ゆえに用語ようごあらためるにあたり、その用語ようご対象たいしょう発達はったつ障害しょうがい限定げんていせず、19さい以後いごのう損傷そんしょうによる知能ちのう低下ていかなどの中途ちゅうと障害しょうがい包括ほうかつする用語ようごもちいることが重要じゅうようとなる。ところで知的ちてき障害しょうがいしゃ本人ほんにん自分じぶん障害しょうがいについてかたるときに、「精神せいしん」や「おくれ」がつく言葉ことば使つかいたくないという意見いけんっている。「ハンディキャップ」は世界せかい保健ほけん機構きこう(WHO)の国際こくさい障害しょうがい分類ぶんるい試案しあん(ICIDH:下図したず参考さんこう)でいうimpairment(機能きのう障害しょうがい損傷そんしょう),disability(能力のうりょく低下ていか能力のうりょく障害しょうがい),handicap(社会しゃかいてき不利ふり)のひとつであるが、障害しょうがいしゃ自己じこ認識にんしき基礎きそである「障害しょうがい受容じゅよう」は、上記じょうき分類ぶんるいのうち自己じこ損傷そんしょう能力のうりょく低下ていか受容じゅようすることであり、handicapを受容じゅようすることではけっしてない。ゆえに「知的ちてきハンディキャップ」という用語ようご世界せかいてきにもかなり共通きょうつう使つかわれているが、誤解ごかいしょうじやすい。障害しょうがい認識にんしき容易ようい用語ようごにすべきであるが「精神せいしん薄弱はくじゃく」、「精神せいしん遅滞ちたい」にはAAMR(アメリカ精神せいしん遅滞ちたいがく協会きょうかい)の定義ていぎにより知能ちのう障害しょうがい発育はついく障害しょうがい適応てきおう障害しょうがいという3種類しゅるい条件じょうけんふくまれるとされる。上記じょうきのWHO国際こくさい障害しょうがい分類ぶんるい試案しあんしたがえば、「知能ちのう障害しょうがい」はimpairmentの領域りょういき概念がいねんである。また「適応てきおう障害しょうがい」はdisabilityを意味いみするのかhandicapを意味いみするのかあいまいである。このあいまいさゆえにhandicapを解消かいしょうするために社会しゃかい努力どりょくすべき問題もんだい障害しょうがいしゃ個人こじん努力どりょくすべき問題もんだいにすりかえられてきたことが指摘してきされよう。このてん、ノーマライゼーションはdisabilityとhandicapを明確めいかく区別くべつし、handicapの解消かいしょう軽減けいげん社会しゃかい責任せきにんとしてあきらかにした。知力ちりょく障害しょうがい知能ちのう障害しょうがいという表現ひょうげんでもよいが、国際こくさい知的ちてき障害しょうがい協会きょうかい連盟れんめいだい10かい世界せかい大会たいかい(パリ大会たいかい1990ねん以後いご障害しょうがいをもつ本人ほんにんたちが了解りょうかいしたということもあり、よく使つかわれるようになり急速きゅうそくひろまった「知的ちてき障害しょうがい」に現在げんざいいている。
 「知的ちてき障害しょうがい」という用語ようごは「身体しんたい障害しょうがい」という用語ようご対比たいひしてかんがえるときにかりやすい表現ひょうげんである。このほか、「障害しょうがい全般ぜんぱんに、つぎのような工夫くふう有効ゆうこうではないか。たとえば「癲癇てんかん」というマイナス価値かちをもった用語ようごをひらがなにしてそのままもちいつつ、社会しゃかい偏見へんけん低減ていげんさせた日本にっぽんてんかん協会きょうかい運動うんどうまなび、「障害しょうがい」も「しょうがい」とひらがなで表記ひょうきすることも検討けんとうしてみてはどうか。元来がんらい、「障害しょうがい」は「障碍しょうがい」の「碍」が当用漢字とうようかんじにないので「がい」を使用しようしたという経緯けいいもある。
  さらにここで、知的ちてき障害しょうがい程度ていどについてべておく。以前いぜん白痴はくち痴愚ちぐ魯鈍ろどんという分類ぶんるいや、教育きょういく可能かのう(educable)、訓練くんれん可能かのう(trainable)、保護ほご相当そうとう(custodial)という分類ぶんるいもちいられてきた。1950ねんごろ、アメリカでは重度じゅうど(low Grade)、ちゅう(middleまたはmoderately)、軽度けいど(highまたは slightly)という程度ていど分類ぶんるい用語ようごわってきた。今日きょう福祉ふくし現場げんばでは、1さい重度じゅうど)、2重度じゅうど)、3ちゅう)、4軽度けいど)という障害しょうがい程度ていどけた用語ようご一般いっぱんてきもちいられていることを最後さいごくわえておく。
以上いじょう知的ちてき障害しょうがいをもつひと自己じこ決定けっていささえる』だいあげしゃ(p170〜183)、『精神せいしん薄弱はくじゃくしゃ福祉ふくしろん中央ちゅうおう法規ほうき(p11〜13)を参考さんこうまとめた。)
 さらに知的ちてき障害しょうがいしゃ定義ていぎ一般いっぱんにないが、もっとひろ医療いりょう福祉ふくし分野ぶんやもちいられているアメリカ精神せいしん遅滞ちたい協会きょうかい定義ていぎ(1973ねんだい7はん)を紹介しょうかいすると
 精神せいしん遅滞ちたい(mental retardation)とは「全般ぜんぱんてき知的ちてき機能きのうあきらかに平均へいきんよりもひくく、同時どうじ適応てきおう行動こうどうにおける障害しょうがいともな状態じょうたいで、それが発達はったつあらわれるもの」とされている。
 このなか発達はったつとはまん18さいまでをしめす。これは高齢こうれいしゃ痴呆ちほうなどと区別くべつする必要ひつようからてきた。知的ちてき機能きのうについては、知能ちのう検査けんさ結果けっかもとにしたおおよその目安めやす標準ひょうじゅんされた知能ちのう検査けんさ平均へいきんより標準ひょうじゅん偏差へんさ以上いじょうひくいもの、IQ70以下いか)がしめされている。適応てきおう行動こうどうについては以下いかみっつの時期じきけてしめされている。
<1>乳幼児にゅうようじでは感覚かんかく運動うんどう、コミュニケーションなどの成熟せいじゅく問題もんだいとなる。
<2>児童じどうおよび青年せいねん前期ぜんきでは、基礎きそてき学習がくしゅう日常にちじょう生活せいかつへの応用おうようてきかく推理すいり判断はんだん集団しゅうだん への参加さんか対人たいじん関係かんけい調節ちょうせつなどがあげられる。
<3>青年せいねん後期こうきから成人せいじんにかけては、職業しょくぎょうてきおよび社会しゃかいてき責任せきにんたすことなどがあげられる。
この適応てきおう行動こうどう知能ちのう水準すいじゅん両方りょうほう問題もんだいある場合ばあいにのみ知的ちてき障害しょうがいであるとされることになる。しかしじつは「知的ちてき機能きのう」とはなにかについて、専門せんもんあいだでの一定いっていした見解けんかい定義ていぎはない。最近さいきんでは知能ちのう検査けんさ結果けっかより、毎日まいにち生活せいかつなかでどのようにがかかるか、どのような援助えんじょ介護かいご必要ひつようかなど「適応てきおう行動こうどう」に関係かんけいのある事柄ことがら側面そくめんおもんじられる傾向けいこうがみられる。なお1992ねんだい9はん改定かいていでは、以前いぜん適応てきおう行動こうどう障害しょうがい」としていたものを「適応てきおうスキル」とあらため、以下いかのような項目こうもくげ、これらのふた以上いじょう制限せいげんみとめられる場合ばあいを「精神せいしん遅滞ちたい」としている。
  コミュニケーション、身辺しんぺん自立じりつ家庭かてい生活せいかつ社会しゃかいてきスキル、
  社会しゃかい資源しげん利用りよう自己じこ管理かんり健康けんこう安全あんぜん実用じつようてき知識ちしき
  余暇よか労働ろうどう
  以上いじょうてきたように「知的ちてき障害しょうがい」についての客観きゃっかんてき明確めいかく判断はんだん基準きじゅんはなく、あくまでも相対そうたいてき概念がいねんにすぎないことがわる。またこのような定義ていぎ仕方しかたは「知的ちてき機能きのう低下ていか」という「機能きのう障害しょうがい」だけでなく、「適応てきおう行動こうどう障害しょうがい」という視点してんくわえることで、「能力のうりょく障害しょうがい」や「社会しゃかいてき不利ふり」までも配慮はいりょしようとするものだといえる。
 最後さいごに、原因げんいんによる分類ぶんるいをしておく。<生理せいりがた>は、のう組織そしき異常いじょうはない、のうはたらきに影響えいきょうおよぼすような身体しんたいめん異常いじょう病気びょうき見当みあたらない。しかし集団しゅうだんなかでは知的ちてきおくれがき、「正常せいじょう」という範囲はんいにははいらない。これにたいし <病理びょうりがた>は知的ちてき障害しょうがいのごく一部いちぶめる。生理せいりがたくらべて、知的ちてき機能きのう低下ていか平均へいきんてきでなく、均衡きんこうになりがちなのが特徴とくちょうとされる。知的ちてき障害しょうがいとなった原因げんいん明確めいかくであり、知的ちてきおくれがおも場合ばあいおおく、心臓しんぞうびょう運動うんどう機能きのう障害しょうがいなどを合併がっぺいすることもある。これを分類ぶんるいすると以下いかのようになる。

(1)感染かんせんしょう薬物やくぶつなどの中毒ちゅうどく外傷がいしょう、そののう疾患しっかんによるもの
(2)代謝たいしゃ障害しょうがいによるもの アミノ酸あみのさん代謝たいしゃ障害しょうがいによるフェニールケトン尿にょうしょうなど
(3)染色せんしょくたい異常いじょうによるもの ダウン症候群しょうこうぐんなど
(4)神経しんけいせい皮膚ひふ疾患しっかんははまだら)によるもの 結節けっせつせい硬化こうかしょうなど
以上いじょう障害しょうがいをもつのいるらし』筑摩書房ちくましょぼう、『障害しょうがいしゃ問題もんだい基礎きそ知識ちしき明石書店あかししょてん参考さんこうまとめた。)

3 バンク・ミケルセン(デンマーク)によると「障害しょうがいのあるひとたちに、障害しょうがいのない人々ひとびとおなおな生活せいかつ条件じょうけんつくすことをいう。ノーマライズというのは、障害しょうがいがあるひとをノーマルにすることではありません。かれらの生活せいかつ条件じょうけんをノーマルにすることです。ノーマルな生活せいかつ条件じょうけんとは、そのくに人々ひとびと生活せいかつしている通常つうじょう生活せいかつ条件じょうけんということです。」という。
 さらにベンクト・ニィリエ(スウェーデン)はこの理論りろん制度せいど重要じゅうよう役割やくわりたした。定義ていぎは「すべての知的ちてき障害しょうがいしゃ日常にちじょう生活せいかつ様式ようしき条件じょうけんを、社会しゃかい普通ふつう環境かんきょう生活せいかつ方法ほうほうにできるかぎちかづけることを意味いみする」としている。ニィリエはノーマライゼーションのやっつの原則げんそくとして<1>いちにちのノーマルなリズム、<2>いち週間しゅうかんのノーマルなリズム、<3>いち年間ねんかんのノーマルなリズム、<4>ライフサイクルでのノーマルな経験けいけん、<5>ノーマルな要求ようきゅう尊重そんちょう、<6>異性いせいとの生活せいかつ、<7>ノーマルな経済けいざいてき水準すいじゅん、<8>ノーマルな環境かんきょう水準すいじゅんげ、これらが障害しょうがいしゃ権利けんりとして保障ほしょうされなければならないと強調きょうちょうしている。「日本にっぽんには日本にっぽんの、中国ちゅうごくには中国ちゅうごくのノーマルな生活せいかつがある。地域ちいきおうじたノーマルをもとめるのですから、どんなくにでも使つかえます」とべるように、これは「国連こくれん障害しょうがいしゃ権利けんり宣言せんげん」(1975ねん)の土台どだいにもなって各国かっこく影響えいきょうあたえた。
以上いじょう 石渡いしわた和実かずみ 1998と「朝日新聞あさひしんぶんひとらん」1998.10.8を参考さんこう

4.謝辞しゃじ
 論文ろんぶん作成さくせいにあたり、懇切こんせつ丁寧ていねいなご指導しどうたまわった土屋つちや貴志たかし先生せんせい大阪市立大学おおさかいちりつだいがく文学部ぶんがくぶ哲学てつがく)にふか謝意しゃいあらわします。また論文ろんぶん作成さくせい途中とちゅう大阪府立大学おおさかふりつだいがく総合科学部そうごうかがくぶ比較ひかく思想しそうゼミにおいて森岡もりおか正博まさひろ教授きょうじゅならびにゼミの方々かたがたには、部外ぶがいしゃにもかかわらず、様々さまざま助言じょげんはげましをいただきました。ここにふか謝意しゃいあらわします。


 文献ぶんけんひょう著者ちょしゃめいのアルファベットじゅん

安積あさか純子じゅんこ 1990 『障害しょうがいわたし個性こせいかみだかきょうブックレットO
──── 1993 『いやしのセクシー・トリップ ─わたしはくるまイスのわたしき!』
        太郎たろうろうしゃ
──── 1996.7.11放映ほうえい NHKどもきる明日あしたまれておいでよ 
        安積あさか遊歩ゆうほ 40さい 出産しゅっさん記録きろく
石川いしかわ じゅん 1996 「アイデンティティの政治せいじがく」『岩波いわなみ講座こうざ現代げんだい社会しゃかいがく15差別さべつ
        と共生きょうせい社会しゃかいがく岩波書店いわなみしょてん 所収しょしゅう
────    『アイデンティティ・ゲーム 存在そんざい証明しょうめい社会しゃかいがくしん評論ひょうろん
石渡いしわた和実かずみ 1998 『障害しょうがいしゃ問題もんだい基礎きそ知識ちしき明石書店あかししょてん
金子かねこいくよう 1992 『ボランティア もうひとつの情報じょうほう社会しゃかい岩波いわなみ新書しんしょ
森岡もりおか正博まさひろ 1988 『生命せいめいがくへの招待しょうたい
毛利もうり子来こらい山田やまだしん野辺のべ明子あきこへん 1995 『障害しょうがいをもつのいるらし』筑摩書房ちくましょぼう
長瀬ながせ おさむ 1996 「障害しょうがいしゃ)の定義ていぎ――英国えいこくれいうえ
        『ノーマライゼーション 障害しょうがいしゃ福祉ふくし』16─6
久本ひさもと洋二ようじ 1996「『障害しょうがい個性こせい』は危険きけん表現ひょうげんでは」『わだち』37 1996/07
佐藤さとう久夫ひさお 1991 『障害しょうがいしゃ福祉ふくしろんまことしん書房しょぼう
柴田しばたひろしわたる尾添おぞう和子わこ 1994 『知的ちてき障害しょうがいをもつひと自己じこ決定けっていささえる
         ──スウェーデン・ノーマリゼーションのあゆみ』だいあげしゃ
総理府そうりふへん 1995 『平成へいせい年版ねんばん障害しょうがいしゃ白書はくしょ
立岩たていわしん也・安積あさか純子じゅんこほか 1995 『なま技法ぎほう藤原ふじわら書店しょてん
立岩たていわしん也 1997 『私的してき所有しょゆうろん
立岩たていわしん也 1998 「いちきゅうななねん」『現代げんだい思想しそう26―2』青土おうづちしゃ
豊田とよだ正弘まさひろ 1996 「『障害しょうがい個性こせいろん批判ひはん」『わだち』No.37 1996/07
──── 1998 「当事とうじしゃ幻想げんそうろん」『現代げんだい思想しそう26―2』青土おうづちしゃ
土屋つちや貴志たかし 1994 「障害しょうがい個性こせいであるような社会しゃかい」『「ささえあい」の人間にんげんがく法蔵館ほうぞうかん
────    「"シンガー事件じけん"のシンガー -実践じっせんてき倫理りんりがくだい2はん 
         における障害しょうがいしゃ問題もんだいあつかい」『プラクティカクエシックス研究けんきゅう
         千葉大学ちばだいがく教養きょうよう倫理りんりがく教室きょうしつp137
────  1995 「『まれてこなかったほうがよかったいのち』とは」
        『つくられる生殖せいしょく神話しんわ制作せいさく同人どうじんしゃ
柳崎やながさきたちいち  1994 『精神せいしん薄弱はくじゃくしゃ福祉ふくしろん中央ちゅうおう法規ほうき


  ……以上いじょう以下いかはホームページの運営うんえいしゃによる)……

障害しょうがいがく  ◇安積あさか遊歩ゆうほ安積あさか純子じゅんこ  ◇石川いしかわじゅん  ◇立岩たていわしん  ◇土屋つちや貴志たかし  ◇豊田とよだ正弘まさひろhttp://www02.u-page.so-net.or.jp/fa2/basket/  ◇長瀬ながせおさむ  ◇野辺のべ明子あきこ  ◇森岡もりおか正博まさひろ  ◇毛利もうり子来こらい  ◇山田やまだしん  ◇障害しょうがい肯定こうていする/しない〜「障害しょうがいしゃ個性こせい  ◇全文ぜんぶん掲載けいさい
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