■参考資料
○文献
1:宮田登 1994『白のフォークロア――原初的思考』平凡社
2:赤坂憲雄 1992『異人論序説』筑摩書房
3:横田則子 1994「近世都市社会と障害者――見世物をめぐって」塚田孝ほか編『身分的周縁』部落問題研究所: 529-62
4:キース・ヴィンセント/小谷真理 1996「クィア・セオリーはどこまで開けるか」『ユリイカ』28(3): 78-98
5:佐藤雅樹 1996「少女マンガとホモフォビア」クィア・スタディーズ編集委員会『クィア・スタディーズ ’96』七つ森書館: 161-9
6:溝口彰子 2003「それは、誰の、どんな、『リアル』?――ヤオイの言説空間を整理するこころみ」イメージ&ジェンダー研究会『イメージ&ジェンダー』4: 27-55
7:東浩紀 2001『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』講談社
8:斎藤環 2006『戦闘美少女の精神分析』筑摩書房
9:ササキバラ・ゴウ 2004『〈美少女〉の現代史――「萌え」とキャラクター』講談社
10:本田透 2005『萌える男』筑摩書房
11:兜木励悟 1997『エヴァンゲリオン研究序説』KKベストセラーズ
12:萩原弘子 2002『ブラック――人種と視線をめぐる闘争』毎日新聞社
13:石井政之ほか編 2001『見つめられる顔――ユニークフェイスの体験』高文研
14:藤井輝明編 2001『顔とトラウマ――医療・看護・教育における実践活動』かもがわ出版
15:小坂井敏晶 1996『異文化受容のパラドックス』朝日新聞社
16:アーヴィング・ゴッフマン 1987『スティグマの社会学――烙印を押されたアイデンティティ』(石黒毅訳)せりか書房
17:Roy Archie W. N. & Spinks Robin M. 2005 "Real Lives: Personal and Photographic Perspectives on Albinism" Albinism Fellowship in UK
18:Lee G. Edwards 2001 "Too White To Be Black And Too Black To Be White: Living With Albinism" 1st Books Library
19:西倉実季 2003「『普通でない顔』を生きること――顔にあざのある女性たちのライフストーリー」桜井厚編『ライフストーリーとジェンダー』せりか書房: 65-85
20:草柳千早 2004「『曖昧な生きづらさ』と社会――クレイム申し立ての社会学」世界思想社
以上が、戦前までの日本のアルビノをめぐる歴史なのですが、ここまで話してきたことは、アルビノに限らず、多くの病者・障害者、昔で言うところの異形・不具・奇形などとカテゴリー化をされてきた人々がたどった系譜とほぼ同じで、特に目新しい話ではありません。アルビノをめぐる状況が独自の展開をしていくのは戦後になってからのことで、それが今日の報告の一番楽しい所といいますか、僕の趣味です。戦後のサブカルチャー・シーン、特にアニメやゲーム、マンガ、ライトノベル、フィギュアやトレーディングカードなどの近年のオタク文化に氾濫しているアルビノのキャラクターに関することです。
ちょいと古い話については簡単に紹介するにとどめますが、例えば、手塚治虫の『ブラック・ジャック』、萩尾望都『スター・レッド』、中島らも『ガダラの豚』、吉本ばなな『アムリタ』、山岸涼子『イシス』、最近では石田衣良の『アキハバラ@DEEP』、それから海外の作品ではアルビノの描かれ方がいくぶん違うものの、1980年代の日本のファンタジーブームに影響した作品として、マイクル・ムアコックの『エルリック・サーガ』シリーズなどが挙げられます。以上は一例ではありますが、けっこうな有名作家たちがマンガや小説の中にアルビノのキャラクターを登場させている。そこに出てきたアルビノのキャラクターの特徴は、白い髪に白い肌、赤い目をして、虚弱・病弱で日光を浴びると溶けて死ぬ、だから夜しか活動しない、目が見えない代わりに未来が見える、あるいは人の心が読める、死んでも生き返る、人を呪い殺せる、目からビームが出る、右腕がガトリングガンになる、アメリカ軍艦隊よりも強い、火星人、アンドロイド、クローン人間などなど、最初のほうで説明したアルビノに対する誤った神話の多くを備え、さらには、見る者を釘付けにするすばらしく美しいキャラクターとして、過度に美化されて登場する。こうして、著名な作家たちの作品などによって、後々に受け継がれていくステレオタイプなアルビノ表象が形作られた。
で、その後、オタク文化圏でアルビノが萌え属性として人気を博し、定着してしまったのですが、そこに行く前に先に「萌え」とは何かということを説明しておきたいと思います。近年「萌え」という言葉はすっかり市民権を得て広く使われるようになり、「オタク」という言葉と同様、あまりにも広く使われすぎているために、明確に定義するのは非常に難しい。コレクターやマニア、ただ何々が好きな人をオタクを同義に扱う、可愛いとかいい感じといった曖昧な形容詞を萌えとい替える、フェチと萌えを混同するなどの使われ方をしている。全部ひっくるめるとややこしくなるので、これから説明する「萌え」はアニメやゲーム、マンガなど狭い意味でのオタク文化に限定したものです。
それと、主に男性のオタクに限った話にします。女性についても共通する特徴が多くありますし、むしろここから先の話は、やおいに関する議論の中から出てきた論点をかなり援用しています。詳細は省きますが(詳細は文献4〜6など)、主に女性作家が女性読者を対象にして描いた男性同士の恋愛・性愛の物語、そういったマンガや小説のジャンルのことをやおい、あるいはボーイズラブなどと呼びます。1990年代にあるゲイ男性がやおい作品は極めてホモフォビックであると痛烈な批判をして、その後「やおい論争」と呼ばれる論争に発展しました。その論争の中で明らかになったやおい作者・読者のゲイ男性に対する態度と、これからお話しするアルビノ当事者に対するオタクたちの態度というのはとてもよく似ています。その意味からも、この先の僕の話はオタク男性だけでなく、やおい女性、さらにはやおいではない女性オタクにも当てはまることだとは思います。また、美少女キャラだけではなくて、アルビノの美少年キャラもやおいに限らず色んな作品に出てくるので、その意味でも、オタク男性だけの特徴ではないと思いますが、僕があまりそちらの方をリサーチしていないので、今日のところはオタク男性に限定します。
それで、「萌える」とはいかなる行為かというと、キャラクターなどの偶像の存在に対して抱く虚構の恋愛感情、または性的欲望です。「萌えキャラ」とは、そうした萌える主体である私の恋愛感情や性的な欲望を受け止めてくれる対象であって、当然、萌えキャラは虚構の存在なので、私の中で理想的な姿に作り上げられている。一昔前ならアイドルがこの役割を担っており、ファンの頭の中には清楚で可憐な理想的なアイドル像があった。アイドルはおならをしない、アイドルは処女である、未成年のアイドルがタバコを吸うなんてもってのほか、といった幻想を抱いていたが、生身の人間にそんな幻想を押しつけるのには限界がある。だから、けっして私を裏切らない、私を傷つけない、そして、私によって傷つけられない、私の頭の中で作り上げられた理想的な二次元のキャラクターが求められた。それが萌えキャラです。そして、萌え属性(萌え要素)とは何かというと、萌えキャラを構成する様々な外見的特徴や性格、設定のこと。具体的にはツインテール、メガネといった服装や髪型、アクセサリー。猫耳、アンドロイドなどの身体的な特徴。それから、服装と連動していることが多いのですが、メイドや巫女、ウェイトレスなどの職業属性。さらにはドジでおっちょこちょいとか、無口で取っつきづらいとかいった性格上のもの。また、妹や幼なじみなどの関係属性や、不治の病や天涯孤独といった設定上のものなどたくさんの萌え属性があります。
このような萌え属性を組み合わせることによって萌えキャラが作られるわけですが、人気のある萌え属性をなんでもかんでも組み合わせれば人気のあるキャラクターができるわけではなくて、これまでのアニメやマンガやゲームの中の萌えキャラの特徴をうまいこと引き継いで、相性のいいものを組み合わせる必要がある。凄くベタな例だが、例えばメガネ・お下げ髪・まじめ・学級委員長とか、長い黒髪・おしとやか・料理が上手・お姉さんとか、金髪・ツインテール・ツンデレ・お嬢様などの相性のいい組み合わせによって萌えキャラは構成されている。むしろ、ある特定の外見的特徴は、ただのキャラクターデザインではなくて、はじめから相性のいい性格や設定といった何らしかの意味が与えられている。ですから、萌えキャラはハナから類型的でステレオタイプな表現になるようにできていると言っても過言ではないかもしれない(萌えについては主に文献7〜10)。
「萌え」の説明はこれくらいにしておいて、本題に戻って「アルビノ萌え」について説明します。ここで図版資料を見ていただきます。今日、集まった皆さんでアニメなんて見ないよという方々でも「エヴァンゲリオン」という名前は聞いたことがあると思います。1995年に放送され、放送終了後にいろいろあって爆発的な人気を博し、ブームを通り越して社会現象にまでなったアニメです。その中に登場するヒロインの綾波レイというこれまた人気のあるキャラクターがいます(図版1)。彼女は水色の髪の毛、白い肌、赤い目をした美少女中学生でロボットのパイロットでもあります。さらに無口で無表情で無愛想で、神秘的な力を持ったクローン人間で、しょっちゅうケガをして包帯を巻いている。この綾波レイというキャラクターは、さっき説明した従来のマンガや小説に登場してきたアルビノのキャラクターの特徴の多くを網羅していたために、視聴者・ファンの間で綾波レイ=アルビノと認識された。そしてこのキャラクターが人気を得たことによって、それ以降、綾波に類似したキャラクターが数多く登場することになった。 図版資料の続き。今日持ってきたのは、数多くの類似キャラクターの中でも特に人気があるキャラです。まず、図版2は「機動戦艦ナデシコ」というアニメに登場したホシノ・ルリ。青みがかった薄いグレーの髪の毛はアニメ表現では銀髪を意味します。それに白い肌、金色の目をした戦艦のオペレーターで、これまた無口で、遺伝子操作によって生まれた女の子です。このアニメを作るにあたって、プロデューサーが「綾波のようなキャラを出せ」と指示したという逸話もあります。続いて図版3、同じタイトルのマンガを原作とした「ローゼンメイデン」というアニメに登場する水銀燈。彼女は悪い魔法使い的なポジションのキャラクターなので、図版は全般的に暗いのですが、銀髪、白い肌、赤目で、背中から黒い羽が生えている魔力を持ったアンティークドール、西洋人形です。さらに続いて図版4、今、僕のパソコンのデスクトップがこれなんですが「イリヤの空、UFOの夏」というライトノベルを原作にしているアニメの主人公、伊里野加奈。この作品は、原作のライトノベルの企画書段階では「UFO綾波」とタイトルが付けられていたと言われている。彼女の髪は元々紫だったのが、ある日突然真っ白になってしまいます。白い肌、赤い目、よくわからないが何かしらの人為的な操作を施された体であるために、頻繁に血を吐いたり鼻血を出したりする虚弱な女の子ですが、それでも健気に世界を守るため、あるいは好きな男の子を守るために戦闘機に乗って出撃していく中学生です。最後の図版5は、18禁のアダルトゲームを原作とした「Fate/stay night」というアニメに登場するイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。銀髪、白い肌、赤い目をしており、彼女は魔術によって作り出されたホムンクルスという設定で、潜在的な魔力は最強です。以上、図版でお見せしたキャラクターは、ごく一部ですが、いずれも外見だけでなく、性格や出生の秘密などの設定に共通の特徴を持っていることがわかります。
そして、重要なことをあえて言ってなかったのですが、ここでお見せした5人、さらには大量に消費されているアルビノのキャラクターのほとんどは、設定上アルビノではない。だから「アルビノと思しきキャラクター」と言う方が正確です。あくまでも視聴者や読者、ファンの間でアルビノと認識されているだけであって、作品の中でアルビノだと明確にされているわけでもなければ、設定資料にアルビノと書いてあるわけでもない。ネット上で、マンガやアニメの感想やそれについての考察を書いてある個人のホームページやブログが数多くある。その中で「何とかというキャラは白い髪で赤い目をしていてアルビノっぽいけどどうだろう、検証してみよう」と書いてある。で、そのキャラが作中でどう描写されているかが説明されて、最終的に読み進めると、「おそらくこれはアルビノではない、なぜなら視力に関して特に苦労している描写がないからだ、紫外線対策をしている様子がないからだ」と結論づけられている。個人のブログやホームページでこうした考察を目にすることがありますし、綾波レイに関してはほぼ同じことを書いてる本が出てます(文献11)。 星の数ほど存在する白髪・銀髪キャラや色素が薄い系とひと括りにされるキャラの中から、ある1人のキャラがアルビノかもしれないと疑いを抱かれる、その理由は、逆説的ですけど、設定上何であろうともそれだけの特徴を持っていれば充分アルビノに見えてしまうということです。つまり、オタク文化に慣れ親しんでいる人々は、既存のアルビノキャラの特徴、具体的には髪の色、肌の色、目の色といった外見、無口で無愛想、虚弱・病弱で、謎の能力を持った神秘的な美少女という一連の特徴を「アルビノ」という言葉の元に共有している。アルビノかどうか検証する以前に、アルビノかもしれないと疑いを抱く段階でオタクたちが参照するのは、医学書ではなく、既存の作品から抽出され共有されている萌え要素のデータベースの方です。重要なのは制作者サイドが何を意図したか、現実の当事者と同じように描写されているかではなくて、そのキャラクターを見た視聴者・読者がその特徴から何を読み取ったかの方です。つまり、オタク文化圏で共有されている誤った神話や間違った症状のキャラクターほどアルビノと認識される傾向があるわけだから、現実の姿と違うという理由でアルビノであることを拒否するのは転倒している。なんにせよ結果的に、綾波レイというキャラクターが凄まじい人気を誇ったことによって、より綾波レイに似ているキャラクターほどアルビノと認識される可能性が高まった。これによってさらなる限定的で画一的なステレオタイプ表現ができあがった。
さて、綾波レイというキャラクターが果たした役割は、このような画一的な表現を作り出しただけではなくて、何よりも萌え属性としてのアルビノをオタク文化圏に定着させたこと。つまり、アルビノキャラ、あるいはアルビノと思しきキャラに対してほぼ無条件で萌える固定ファンがついた。他にたくさんあるメイド萌えや猫耳萌え、メガネっ娘萌えといったものと同じように、アルビノにも萌える人たちがいる。しかし、アルビノというのはもともと遺伝病であって、この病気を患っている患者、当事者がいる。現代のような病者・障害者を見世物にすることはもちろん、好奇の視線で見たり話題にのせることすらはばかられる道徳的な社会においては、病者・障害者に萌えることは倫理的に問題があるとされ、ましてやその普通ではない異形の身体に性的な欲望を抱こうものならば、それはフェティシズムとして異常視されてしまう。ですから、もともと病気・障害であるアルビノに萌えるためには、こうした倫理的葛藤を回避する必要がある。
では、具体的に何をしているかですが、その前に一点だけ確認しておきたいことがある。後から詳しく話しますが、アルビノは一般にはあまり知られていない病気で、めったに当事者に出会うこともないし、アルビノについて積極的に知ろうとしても医学・遺伝学領域以外の情報を集めるのはなかなか難しい。だから、オタクに限らず、多くの人々にとっては、リアルな生きている当事者について知る機会はほとんどない。その一方で、オタク文化圏にはアルビノのキャラクターが氾濫している。オタクたちにとって身近なアルビノとは始めから2次元の存在であって、2次元のキャラクターと3次元の当事者との間には連続性などありはしない。まずこの連続性がないということを確認しておきます。
しかし、連続性がないといっても、現実世界にはアルビノ当事者なる人々がいる。さきほど萌えとは何かという説明でも話したように、萌えるという行為で誰かが傷つくことは避けなくてはならなず、アルビノキャラに萌えることによって、現実のアルビノ当事者が2次元と3次元の間に連続性を見出し、そして傷つき、そのこのとによって萌える主体である私を批判し、私が傷つくなんていうことも避けなくてはならない。ですから、アルビノに萌える人々は2次元と3次元は違う、別物であると強く主張します。ここでお配りしている資料を見て下さい。1〜3はイラストや小説などでアルビノのキャラを描いて同人活動をしている人々が集まるホームページ、それのトップページにあるアルビノについての但し書きです。で、大変恐縮なんですが、3番の「アルビノ・銀髪好きコミュニティー『White Kingdom』」は去年の夏ごろまではあったのですが、現在は閉鎖されていてありません。ただ、この3番がないと話にならないので使わせていただきます。ご了承下さい。それから4番は、何か補うものがないかと思って探していて、先週見つけておもしろかったので載せてみました。「早稲田大学妹研究会」なるサークルのホームページにある萌え属性としてのアルビノの説明文です。この4つを資料として用います。さて、それらを読んでわかるように、そこでは私たちの趣味はあくまでも2次元のことであって現実の当事者とは関係ないと主張しています。1番の「ALBINO + UNION」では「軽視した上での頁では御座いません。あくまでも二次元でのお話です」とあり、2番の「二次元アルビノ同盟」では「非難または庇護する事を目的とした場所ではありません。あくまで二次元です」、さらに4番が一番潔いと思いますが「2次元では多く登場するが、3次元ではあまり考えるべきではない属性と言えよう」と3次元を完全に切って捨ててます。ここで注目したいのは2番の「庇護することを目的としていない」という発言。私たちは当事者の皆さんを傷つけるつもりも差別するつもりもない、それと同時に助けることも守ることもしません、と明言している。つまり私たちとは無関係であって、当事者の身の上に起こることは対岸の火事であって知ったこっちゃないと宣言している。オタクたちにとっては連続性がないことは自明であって、むしろ、連続性が生まれてしまうと素直に萌えることができなくなるからここまで言わなければならない。
ここで話は脱線しますが、2次元の妹キャラに萌える妹萌えというのがあります。萌えの王道とも言える妹萌えですが、実際に血のつながった妹がいる男性は、妹萌えなんて理解できない、そんな奴らの気が知れないとよく口にします。彼らからすると、本物の妹があまりに身近にいるために2次元のキャラと自分の妹との連続性を断ち切ることができない。そのまま妹に萌えてしまったら場合によってはインセストタブーに触れてしまう。誤解を恐れずに言えば、究極的には彼らは2次元のキャラクターを使ってオナニーをしている。だから、画面上にいる2次元の美少女キャラを見ることによって、隣の部屋で受験勉強している自分の妹を連想してしまっては萎えてしまう。アルビノを含め一部の萌え属性はこれと同様で、2次元と3次元の連続性が断絶していることによって初めて萌えることができる。だからこのように別物なんだと強く主張している。
ですが、ただ違うから違うと言うだけでは説得力がないので、アルビノに萌える人々はさらにそれを正当化する必要に迫られます。そこで何をするかというと、資料の3番にあるような「実際に視力が弱かったり皮膚がん等を起こしやすかったりと障害が出やすい事は確かです。外見的異端性から差別もあるとか」と、当事者の抱える視力障害や紫外線、差別の問題に言及し、それに心を痛めるフリをする。さらには、同じく3番の「絵の題材として不用意に扱うことで実際にそういった問題と直面している方には不快感を与えてしまうかも知れません」といった形で先手を打って自らの非を認める誠実さ。他にも医学・遺伝学的な説明を記すこと、特に3番が最も顕著ですが「アルビノとは製造器官の異常により色素が全くない……、先天性遺伝子代謝異常性疾患、劣性遺伝性疾患と言われる事もあります」となんだか難しい言葉が書いてある。そんな風に言われることはないので間違いなのですが、しかし、なんだかそれっぽい漢字を並べた医学的な用語を使っていてもっともらしく見えてしまう。このように、私たちは現実の当事者についてこんなにたくさんのことを知っている、医学的な知識も持っている、当事者の抱える問題に心を痛めているんですよとアピールしている。つまり、理解している私、当事者を傷つけない私=政治的に正しい私という立場を作り上げることによって、アルビノに萌える正当性を作り出している。資料として引用している文章の中には細かい事実誤認がたくさん含まれているが、そうした事実誤認を精査することなく世界発信しているということは、当事者について理解することよりも、医学的なことを知るよりも、なによりもまず理解している私、政治的に正しい私という既成事実を作ることが優先されているから。まずこれが、萌えるためのロジックの一点目、政治的な正しさです。
もう一点は萌えることを正当化するために生まれたものではなく、既存のアルビノキャラにすでにあった、美しい、キレイ、可愛い、カッコイイといった肯定的な評価をさらに強く賞賛することです。1番のアルビノユニオン参加資格のところに「問答無用で綺麗」とか「最高」と書いてますし、3番も「『白い髪』に『赤い眼』という奇異な容姿の美を芸術的観点から称える」と記し、美しいから私たちはアルビノを描くのですと言ってる。もともと美しいという理由でアルビノに魅了され、萌えるようになった人々ですから、ここには何ら葛藤はありません。ですが、こうした美化・理想化は、美しいものを賞賛するのは無条件によいことであるという常識に支えられているし、実際に、美しいものに性的に欲情してもそれがフェティシズムとして異常視されることはない。結果論ではあるが、これによってアルビノという病気・障害に萌えることの倫理的葛藤を小さくする働きがあると思われます。
さらに、それ以外の美化・理想化の効果として挙げられることが他にもあり、それは他の多くのマイノリティ表象とは違って、少なくとも否定的には描いていない、美しいからいいじゃないか、と主張できてしまう。これによって、マイノリティ表象に対するステレオタイプ批判のスキを突かれてしまう可能性もある。どういうことかというと、それまで周縁化されて描かれてこなかった、あるいは否定的にしか描かれなかった人々の抗議・運動によって獲得された新しいマイノリティ表象は、結局は白人社会で成功した黒人弁護士とか、男性社会で成功した女性の重役とか、異性愛主義社会に受け入れられた同性愛者などにすぎなかった。否定的な表現はよくないけれども、そのオルタナティブとして出てきたのがヘテロセクシュアルな白人男性の価値観に基づいた正しい・肯定的な表象にすぎなかった(文献12)。それが批判の結果獲得されたものだとするならば、大多数の人々にすでに正しく肯定的だと認められている美しさという価値観、それを始めから持っているアルビノキャラを旧来の論理で批判することはできない。実際に、ハリウッド映画に登場するアルビノのキャラクターは非常に否定的な描かれ方をしていて、それに対して北アメリカの当事者団体のNOAH(The National Organization for Albinism and Hypopigmentation)(ウェブサイト1)が毎度抗議をしている。ハリウッド側がまったく聞く耳もたないのも悪いんですが、NOAHは「赤い目は間違っている」「ステレオタイプだ」「悪役ばかりで登場させるな」といった抗議ばかりしているように僕には見受けられる。しかし『エヴァンゲリオン』からすでに10年以上が経過し、日本のオタク文化圏のアルビノのキャラクターにはそれなりの多様性が生まれ、しかも美化・理想化されている。となると、NOAHがやっているようなステレオタイプ批判は有効ではない。スキを突かれるとはそういった意味であって、美化・理想化はそのような批判を回避するのに利用されかねないということです。
そして、美化・理想化の最も重要な側面が次の点です。美しく描くということは同時に美しくないものを隠す、または見ないようにするという過程も含んでいる。必ずしも美しいわけではなく、差別をされていたり、日焼けをしてヒーヒー言ってたり、鼻クソほじったりする生々しい当事者の姿、オタクたちが描くアルビノキャラとはかけ離れた当事者の姿を不可視化することにつながる。さっきの話にあった当事者を傷つけない私という立場は、実際に当事者を傷つけないことを意味するのではなくて、私が傷つける可能性のある当事者を私からは見えないところに追いやるという意味の方が強いと言える。 以上から、アルビノキャラに萌えることの差別性をまとめます。美化・理想化、それと2次元と3次元の連続性の断絶という2点については、アルビノに限らず他の多くの萌え属性・萌え要素にも見られる現象です。ただ、ある特定の対象に萌えるにあたって倫理的な葛藤が生じてしまう場合にこの二つは改めて動員され、そこに政治的な正しさも加わって、相互補完的に機能する。倫理的な葛藤が生じた時、妹萌えの場合は萌えることを諦める方向に進んだのに対し、アルビノに萌える人々は諦めることなく、自分たちの行為を正当化し、その過程において萌えることに支障をきたす3次元の当事者を見ない努力をする方向に進みます。つまり、2次元のアルビノキャラに萌えるために用いられるロジックは、結果的に現実にいる生々しい当事者の姿を不可視化する働きがある。
以上が僕の趣味の話で、ここから先、ガラッと変わります。これまで話してきた歴史上の文献の中のアルビノ、さらにはアニメなどに登場するアルビノは、あくまでも残された記録、描かれるキャラクター、まなざされる対象としての極めて受動的な存在であって、当然ながらそこにはリアルな生々しい当事者の姿があるはずはない。ここから先の話は今日の研究会のご案内のコメントにも書いたとおり「今後の課題」についてなので、詰めが甘いのですが、最後に生々しい話をして終わりたいと思います。
さて、アルビノは根本的な治療法がなく、かといって放っておいても死なず、症状が悪化することもなく安定しています。中には特徴的な合併症がある遺伝タイプもあるが、これは非常にまれで、大部分は日常的な通院・介護などは必要なくて、お金のかからない病気です。おそらく僕自身は当事者の中でも極端に金がかからない部類に入り、5、600円の日焼け止めクリームで1年もちます。こうした特徴は何をもたらすかというと、簡単には死なないし悪化もしないので医療専門家の関心が低く、医師主導による患者会といった組織が作られることはなかった。さらに、金がかからないために、当事者や家族が連帯して行政に働きかけるための家族会とかセルフヘルプグループが組織されることもなかった。また、学術的な研究という点でも、医学・遺伝学領域で研究対象となることはあっても、人文・社会科学でアルビノが主題化されることはなかった。これは日本に限った話ではなく、世界的に見てそうです。それから、フィクション以外のメディアに登場することもほぼなかった。つまり、これまでアルビノの問題が「問題」として顕在化することがなく、その存在が人々に知られることもなかったのです。視覚障害者としての問題は、ある程度制度化されているものによって軽減することは可能ですが、お上から視覚障害者として認定をいただかなければその恩恵にあずかることはできない。また、外見の問題は特にこれまで顕在化してこなかったことで、「人を見た目で判断してはならない」「人は見た目ではなく中身が大切だ」という常識・建前が、外見に関する悩みは個人的なことであるとして、問題を矮小化してしまう。
しかし、当事者たちは就職・バイトの面接で「その髪じゃ接客業はダメ」と断られたり、集団下校の小学生に「ハロー、ガイジン」とわめき散らされたり、学校でいじめられたりすることを経験する。そういった経験を経て、髪の毛を染めて生きていこうかどうしようか、あるいはすでに染めているけども元の色に戻そうかどうしようかというジレンマに悩まされる。こういった状況はユニークフェイスの問題ととても似通っている(文献13、14など)。ですが、それプラスでアルビノに特徴的な問題は、その外見が必ずしも否定的なスティグマとして働かないという点です。主にこれは近代以降、他の様々なものと一緒に導入された西洋中心主義的な身体美意識であって、もちろん普遍的な美意識ではないんですが、それ以降白人のような外見は美しいという価値観が根づいてしまった(文献15)。そして、それと共通するアルビノの症状である金髪、白い肌もまた「キレイ・カッコイイ・美しい」と賞賛され、非常に肯定的に評価されるにいたった。それだけではなく、90年代以降の茶髪の普及によって、現在は黒くない髪の色に対する許容度はずいぶんとゆるやかになってきています。ですが、大学4回生が就職活動に備えて黒く染め直すという現象が全国的に見られることからもわかるように、黒くない髪の毛が許されない状況は依然としてあるし、多くの場合、生まれながらに髪が黒くない日本人の存在は念頭に置かれていない。また、アルビノがあまり知られていないという側面についてですが、そのへんを歩いてるだけなら白人と間違われる。ですから「普通ではない日本人」としてではなく「普通の白人」と誤解されることによってアルビノというスティグマをパスできてしまう。僕は今、京都市に住んでますが、外国人観光客や留学生がたくさんいる街なので、京都の人たちにとってはアルビノの外見は物珍しくも何ともないのかもしれず、ジロジロ見られることがあまりない、比較的過ごしやすい環境です。一方で僕の地元の岡山に帰りますと、他人の視線はけっこう痛い。
そもそもスティグマとは普遍的・本質的なものではなくて、それぞれの時代・社会・文化において、多数派を占める人々がそれにどのような意味を与えるか、ノーマルさんとの関係によっていくらでも変わりうる可変的なものではある(文献16)。しかし、この極めて可視的な身体、同じ私の同じ外見であるにもかかわらず、ある時は差別的に扱われ、ある時は賞賛され、ある時は普通にやりすごすこともできる。同じ時代・社会・文化の中でこうも違っていると、当事者たちがアルビノとしてどのようにアイデンティファイしているのだろうか、というのは大変興味深いことなんですが、これは「今後の課題」です。 続いて、レジュメの順番を入れ替えまして、先に海外の事例について簡単に紹介します。これまで広く認知されることもなく、当事者や家族たちが「ここに問題があるぞ」と声を発していく機会がほとんどなかったとは言いましたが、まったくなかったわけではなくて、僕の手元に1冊の本がありますが、英語圏ではこのようなプロジェクトが進んでいます。今し方スティグマの可変性の話をしましたが、特にアルビノの外見の問題というのは、その当事者自身の人種的バックグラウンドはもちろん、彼/彼女が生まれ落ちた場所、そして生きていく場所の人種構成や歴史的背景、例えば植民地支配をしたか・されたかなどによって多様であることは言うまでもありません。この本はその一端を教えてくれる意味で大変に希有なものです。イギリスのAlbinism Fellowship(ウェブサイト2)という当事者団体が出している「Real Lives」(文献17)というタイトルの本で、当事者12人にインタビューをしてそれをまとめています。ここに登場する12人はおそらく全員白人なので、あくまでイギリスの白人当事者の現実という側面のみではありますが、それでも僕自身も共感できる部分はたくさんある。街中でジロジロ見られるとか、出合い頭にギョッとされるとか、待ち合わせ場所に指定されるとか、僕らもよく経験することです。ただし、全体的に見て外見に関する語りが少なくて、視力障害についての話がどちらかというと多い。断言はできませんが、相対的に見れば、白人のアルビノ当事者よりも非白人の当事者の方が外見についてのことを問題として経験しているのではないかと思います。ここに出てくる人たちは髪の毛が白いために年老いて見られると報告しているのですが、少なくとも白人当事者は自分が属しているエスニック・グループのメンバーと見なされないことはめったにありません。で、まあ、これ(「Real Lives」)は回します。余談ですがその本の中には写真がたくさん載ってまして、普段白人と触れ合う機会があまりない僕なんかが見ると、普通の白人とアルビノの白人との違いがわかりにくいです。
それは余談としまして、一方でこちらにもう1冊「Too White To Be Black And Too Black To Be White」(文献18)という本があります。アルビノのアフリカン・アメリカンで、しかも家庭の事情で南部と北部を行ったり来たりしていたエドワーズさんの自伝です。この中は外見の話、「何でオレはこんなに白いんだ」ということばかりが書いてある。彼自身はアフリカン・アメリカンとしてアイデンティファイしているけれども、仲間たちからは「あまりにも白すぎる、オレたちとは違う」と排除され、場合によっては「あいつは白人としてパスしようとしている」と非難されることもある。また、そうとは知らない白人の教師が彼に対して妙に優しかったりする。かといって白人のコミュニティに全面的に受け入れてもらえるわけではなく、マージナルな立場に置かれることになりました。白人が主導的な地位を占めている社会でありながらも、白人のように見えるということが、彼にとっては少なくとも何ら肯定的な意味を持たなかったということがわかります。
で、今、回してる「Real Lives」に話をうつしますと、そちらでも当事者自身はその外見をさほど肯定的にとらえているわけではない。ですが、その本の最後の方ではアルビノの外見を「Beauty」と表現している箇所があります。ただしその本はAlbinism Fellowshipという当事者団体が出しているものであって、極めて戦略的に「Beauty」を使っていると思われます(「Beauty」については他にウェブサイト3)。しかも、当事者の語りの中には一度たりともそんな言葉は出てこないうえに、著者たちも自覚しているように、そこでの「Beauty」は、西洋中心主義的な美意識に根差していると言わざるをえないでしょう。
その西洋中心主義的な美意識というのは、当然ながら日本に住んでる僕らの中にも共有されていることです。最後に話を日本に戻して、肯定的な評価という点に絞って話をして、終わりにしたいと思います。アルビノの存在が広く知られていない、認知度が低いということはこの外見に病気・障害という否定的な、タブー視されがちな意味があることも知られていないことでもあって、僕たちは頻繁に「その髪どおしたの? 染めてるの? ハーフ? ダブル? お母さん何人?」といった無遠慮な質問にさらされる。よく知られていないスティグマが他の一般的なものに誤解され、タブー視されることなく気軽に質問されてしまうことを、僕は知人の言葉を借りて地雷を踏むと表現します。地雷を踏んでしまった人に、これこれこういう遺伝病でこのような症状があって何かと苦労が絶えないのですと正直に説明すると、非常に気まずい空気になり、相互行為が滞ってしまう。相手の方もそこで何とかしなきゃと思って、慰めの言葉として「いやでもカッコイイですよ、羨ましいですよ」とフォローしてくる。これもよくあることです。僕には何の責任もないのに、期せずしてスティグマが露呈してしまった。それによる気まずい状況は、外見にまつわる否定的な問題経験をそれ以上語るのを躊躇させるに充分な力を持っている。
また、スティグマをもった人々はノーマルさんたちとの相互行為において様々な気詰まりに出くわすことが多いので、それへの対処法、戦略を身につけている。そういった戦略のひとつとして、自分はこのスティグマをそれほど深刻に受け止めているわけではない、たいして悩んでいるわけではないのだと呈示することがあります。さほど露骨ではない、被差別体験と言うほどでもないマイルドな出来事を面白おかしくネタにしたり、アルビノであるがゆえの独特の経験、例えば、顔と名前を覚えられやすいとか待ち合わせ場所で見つけてもらいやすいとか、インスタントの証明写真を撮る時に背景が白いボックスで撮ったら顔の輪郭がなかったとか、日本語で道を尋ねたのに必死な英語で教えられたとか、そういった話をすることがよくあります。地雷を踏まれた後の気まずい空気を回復させるために、肯定的な評価なども利用して、悩んでないんですよ、気にしてませんよと呈示する戦略をとってしまうと、やっぱりまた否定的な問題経験を語らせてもらえなくなるし、場合によっては「あいつはアルビノであることを受け入れている、受容している」などという誤解すら招きかねない。 逆に、質問されるのではなく、自分の方から積極的に語る場合であっても、肯定的な評価は厄介な代物です。さっきの萌えのところの美化・理想化の説明の中にもあったように、仮に僕が「そうは言ってもバイトの面接とか大変なのよ」と不満をもらしたとしても「肯定的ならいいじゃない、美しいからいいじゃない、誉められてるのに何が不満なの」といったことを少なくとも僕は言われたことがあります。肯定的に評価されることは、僕にとっては問題である外見についての否定的な経験が「問題」と見なされず、そこでのクレイムを無効化する働きもある。
さらに、地雷を踏んだ人からの慰めや、不満をもらした時の反論などの形でなく、常日頃から「キレイ・カッコイイ・美しい」と言われ続けてると、なんだかこお「あれ、オレってもしかしてカッコイイんじゃねえの」とその気になってしまう。皆さんが僕のことをどう思ってるかは知りませんけども、なんにせよ、アイデンティティが他者からの承認を必要としている以上、せっかくの肯定的な評価をむげに退けるのはもったいないし、誉められて嫌な気はしないというのは確かです。
しかし、そこには大きな落とし穴があって、肯定的か否定的かにかかわらず、アルビノの外見を評価しそれに意味づけするのは大多数の髪の黒い人たちです。美しい/醜い、あるいは普通/普通でないという、極めて恣意的な線引きをできる側にいるノーマルさんから与えられた評価であり、しかもそれは、名誉白人を誇ってしまう国の人たちが抱いている白人崇拝という価値観に便乗したものでしかない。ですから、カッコイイカッコイイと言われるからといって安穏とはしていられない。とはいえ、肯定的に評価されることは、アルビノとして積極的にアイデンティファイするのを促す可能性もあり、実際に「これが私の個性」といった感じで前向きにとらえている当事者もたくさんいるし、この髪の色や肌の色を積極的に利用して自己を呈示している当事者もいる。
ちょっと脱線しまして、顔にアザのある女性のライフストーリーをもとにした論文があり(文献19)、そこで、当事者の女性たちは、美しい/美しくないという文脈以前に、普通/普通でないという文脈のもとで自分の顔をとらえている、普通の顔になってはじめて、美しい/美しくない、美醜の市場に参入できるのではないか、と指摘されている。ですが、アルビノの外見は一目瞭然に普通ではないにもかかわらず、普通ではない体のまま美醜の市場に参入し、場合によってはファッションとして活かすことすらできてしまう。 肯定的に評価されたり、積極的に利用することによって当事者自身がアルビノであることを肯定的に受け入れる状況が用意されている。あるいは、アルビノ当事者たちがその場その場の相互行為を滞りなく進めていくために採用している戦略が、「あいつは受け入れているから大丈夫」と誤解され、ノーマルさんたちを安心させることにつながるかもしれない。これは一面では、ノーマルさんがアルビノの否定的な側面を見なくなる、あるいは、当事者たちが否定的な問題経験を語れなくなるということでもあり、そうした中でクレイムを申し立てていくためのポリティクス(主に文献20)、これもまた「今後の課題」ということにして、僕からの報告はお終いです。
ありがとうございました。