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片山 知哉 指定質問2「記憶を紡ぎ出す「場」を巡る問い」
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指定
してい
質問
しつもん
2「
記憶
きおく
を
紡
つむ
ぎ
出
だ
す「
場
ば
」を
巡
めぐ
る
問
と
い」
片山
かたやま
知
とも
哉
2008/02/29
立命館大学
りつめいかんだいがく
グローバルCOEプログラム「
生存
せいぞん
学
がく
」
創成
そうせい
拠点
きょてん
20080229
『PTSDと「
記憶
きおく
の
歴史
れきし
」――アラン・ヤング
教授
きょうじゅ
を
迎
むか
えて』
立命館大学
りつめいかんだいがく
生存
せいぞん
学
がく
研究
けんきゅう
センター,
生存
せいぞん
学
がく
研究
けんきゅう
センター
報告
ほうこく
1,157p. ISSN 1882-6539 pp.49-53
last update: 20151225
指定
してい
質問
しつもん
2「
記憶
きおく
を
紡
つむ
ぎ
出
だ
す「
場
ば
」を
巡
めぐ
る
問
と
い」
片山
かたやま
知
ち
哉(
立命館大学
りつめいかんだいがく
大学院
だいがくいん
先端
せんたん
総合
そうごう
学術
がくじゅつ
研究
けんきゅう
科
か
院生
いんせい
)
私
わたし
は、
先
さき
ほどの
小宅
おやけ
さんと
同様
どうよう
、ヤング
先生
せんせい
のご
著書
ちょしょ
である『PTSD の
医療
いりょう
人類
じんるい
学
がく
』を
読
よ
んだ
中
なか
で、
自分
じぶん
の
中
なか
に
浮
う
かび
上
あ
がってきた
問
と
いについてここで
質問
しつもん
させていただきたいと
思
おも
います。
『PTSD の
医療
いりょう
人類
じんるい
学
がく
』において、ヤング
先生
せんせい
は
外傷
がいしょう
性
せい
記憶
きおく
の
概念
がいねん
の
歴史
れきし
を
辿
たど
り、これを「
記憶
きおく
の
可塑
かそ
性
せい
」という
点
てん
から
批判
ひはん
的
てき
に
検討
けんとう
なさっています。「
外傷
がいしょう
性
せい
記憶
きおく
」とは、
外傷
がいしょう
が
生
しょう
じた
時点
じてん
での
事実
じじつ
をそのままに
保持
ほじ
するもの、
従
したが
ってそれは
過去
かこ
の
不
ふ
正義
せいぎ
を
証
しょう
するものであり、
真実
しんじつ
の
配達
はいたつ
人
じん
であり、それは
現在
げんざい
の
文脈
ぶんみゃく
によって
変容
へんよう
するものではないと
一般
いっぱん
に
思
おも
われているものです。しかもこれは、
本人
ほんにん
にも
隠蔽
いんぺい
された
記憶
きおく
であり、そこへのアクセスは
医療
いりょう
専門
せんもん
家
か
のみが
可能
かのう
であるとされます。そしてこれこそが、PTSD
概念
がいねん
を
支
ささ
える
根幹
こんかん
に
位置
いち
しているものなのです。
しかしヤング
先生
せんせい
は、これは
二
に
重
じゅう
の
意味
いみ
で
無
む
時間
じかん
的
てき
な
真理
しんり
ではないと
指摘
してき
しています。
第
だい
一
いち
に、
外傷
がいしょう
性
せい
記憶
きおく
の
内容
ないよう
についてです。
外傷
がいしょう
性
せい
記憶
きおく
の
個々
ここ
の
内容
ないよう
は、それを
保持
ほじ
する
本人
ほんにん
の
置
お
かれた
現在
げんざい
の
文脈
ぶんみゃく
に
依存
いぞん
し、
後追
あとお
い
的
てき
に
構成
こうせい
されうる、というのがその
理由
りゆう
です。そして
第
だい
二
に
に、
外傷
がいしょう
性
せい
記憶
きおく
の
概念
がいねん
についてです。
外傷
がいしょう
性
せい
記憶
きおく
という
概念
がいねん
は、それ
自体
じたい
が
歴史
れきし
性
せい
を
持
も
つものであって、
臨床
りんしょう
家
か
と
研究
けんきゅう
者
しゃ
が、その
前提
ぜんてい
条件
じょうけん
である
実地
じっち
医療
いりょう
と
技術
ぎじゅつ
を
作
つく
り
出
だ
すまでは
存在
そんざい
しなかった。すなわち
苦痛
くつう
はリアルであるし、PTSD もまた
現在
げんざい
リアルなものとして
我々
われわれ
が
感受
かんじゅ
するにせよ、PTSD という
概念
がいねん
装置
そうち
は、
無
む
時間
じかん
的
てき
な
真理
しんり
ではない。
私
わたし
はこの
指摘
してき
に
深
ふか
く
感銘
かんめい
を
受
う
けたものであります。
私
わたし
個人
こじん
の
経験
けいけん
、
精神
せいしん
科
か
医
い
としての
経験
けいけん
になりますが、そこで
感
かん
じてきたリアリティをい
当
いあ
てていると
感
かん
じたからです。
私
わたし
が
仕事
しごと
を
通
つう
じてお
会
あ
いしてきた
精神
せいしん
科
か
ユーザーたちは、
外傷
がいしょう
性
せい
記憶
きおく
と
呼
よ
び
得
え
る
事態
じたい
を
感受
かんじゅ
しているとしても、それは
現在
げんざい
本人
ほんにん
が
置
お
かれた
文脈
ぶんみゃく
抜
ぬ
きに
理解
りかい
することはできない。その
記憶
きおく
は
繰
く
り
返
かえ
される
幾重
いくえ
もの
現在
げんざい
のたびごとに、
新
あら
たに
再
ふたた
びそれを
外傷
がいしょう
性
せい
記憶
きおく
として
同定
どうてい
され、
意味
いみ
を
付与
ふよ
され、
織
お
り
上
あ
げられていく。そのようにして、その
記憶
きおく
は
不変
ふへん
なるものとして
生成
せいせい
され
続
つづ
けているのです。
こう
言
い
ったからといって、ユーザーの
体験
たいけん
の
意味
いみ
を
価
あたい
値下
ねさ
げしたり、ましてその
記憶
きおく
がリアルでないとすることにはならない。むしろ、ユーザー
本人
ほんにん
が
現在
げんざい
置
お
かれている
文脈
ぶんみゃく
を、そこに
存在
そんざい
する
社会
しゃかい
的
てき
抑圧
よくあつ
や
苦痛
くつう
を
見
み
つめることこそが
治療
ちりょう
的
てき
な
意味
いみ
を
持
も
つのであるし、
意識
いしき
が
過去
かこ
の
出来事
できごと
へと
収斂
しゅうれん
してしまうメカニズムと
背景
はいけい
を
問
と
うことのない
回復
かいふく
はあり
得
え
ないと
考
かんが
えるからです。そして、
本人
ほんにん
がつむぎだす
新
あら
たな
記憶
きおく
とは、はるかに
豊
ゆた
かな
役割
やくわり
を
有
ゆう
しており、そのような
記憶
きおく
を
単
たん
に
真偽
しんぎ
を
明
あ
かす
証人
しょうにん
の
地位
ちい
に
切
き
り
下
さ
げてしまうことによる
弊害
へいがい
こそ
銘記
めいき
されるべきだと
考
かんが
えるのです。
その
上
うえ
で、
私
わたし
がヤング
先生
せんせい
に
伺
うかが
いたいのは、そのような
記憶
きおく
をつむぎだす「
場
ば
」についてどのように
位置
いち
づけていらっしゃるのか、ということです。
現在
げんざい
、
医療
いりょう
の
専門
せんもん
家
か
も、
運動
うんどう
家
か
たちも、そろってそのような「
場
ば
」を
重視
じゅうし
しているように
思
おも
われます。
同
おな
じ
体験
たいけん
を
有
ゆう
する
本人
ほんにん
たちの
集団
しゅうだん
の
中
なか
でこそ、
新
あら
たな
語
かた
りをつむぎ、
回復
かいふく
を
進
すす
めるための
力
ちから
が備給されるのだという
期待
きたい
がそこにはあります。だがそれは、
無条件
むじょうけん
的
てき
な
真実
しんじつ
なのでしょうか。
ヤング
先生
せんせい
は『PTSD の
医療
いりょう
人類
じんるい
学
がく
』
第
だい
5〜7
章
しょう
において、
医療
いりょう
専門
せんもん
職
しょく
によって
本人
ほんにん
たちにイデオロギーが
注入
ちゅうにゅう
されていく
有様
ありさま
を
詳細
しょうさい
に
記述
きじゅつ
なさっています。そこでも、
同
おな
じ
体験
たいけん
を
有
ゆう
する
者
もの
同士
どうし
の
相互
そうご
作用
さよう
はあり、
新
あら
たな
記憶
きおく
がつむがれ、またそのことを
医療
いりょう
専門
せんもん
職
しょく
の
側
がわ
も
期待
きたい
していた。だがそこにあるのは、
医療
いりょう
専門
せんもん
職
しょく
の
側
がわ
が
仕立
したて
て
上
あ
げた PTSD
像
ぞう
に、
本人
ほんにん
たちを
一方
いっぽう
的
てき
に
当
あ
てはめようとする
事態
じたい
であり、
本来
ほんらい
あり
得
え
たはずの
多様
たよう
な
記憶
きおく
はごく
一
いち
面
めん
的
てき
に
切
き
り
取
と
られ、あとは
捨象
しゃしょう
されてしまっている。それは
奇妙
きみょう
で
不快
ふかい
な
場面
ばめん
であり、
私
わたし
もまたこれを
肯定
こうてい
することはできないと
感
かん
じます。
しかし、それを
認
みと
めるにしても、
医療
いりょう
専門
せんもん
職
しょく
が
支配
しはい
する
場
ば
でないのであれば、そのような
事態
じたい
は
避
さ
けられるのか。
同
おな
じ
体験
たいけん
を
持
も
つものだけが
存在
そんざい
する
場
ば
であれば、
自然
しぜん
発生
はっせい
的
てき
に
対等
たいとう
で
深
ふか
いピア
関係
かんけい
が
生
う
まれ、
多様
たよう
で
複雑
ふくざつ
な
自身
じしん
の
全体
ぜんたい
が
受
う
け
止
と
められ、
適切
てきせつ
な
語
かた
りがつむがれるのだろうか。あるいは
運動
うんどう
家
か
たちはそう
信
しん
じたいかもしれませんが、
私
わたし
はこれも
無条件
むじょうけん
で
肯定
こうてい
はできないと
思
おも
います。
正当
せいとう
化
か
のためのメカニズムを
有
ゆう
し、
抵抗
ていこう
も
生
しょう
じるような「イデオロギー」の
注入
ちゅうにゅう
は、そのような
場
ば
でも
生
しょう
じ
得
え
るし、
自身
じしん
の
一
いち
面
めん
しか
承認
しょうにん
されないような
事態
じたい
もやはり
生
しょう
じ
得
え
る。
その
指摘
してき
に
際
さい
し、
精神
せいしん
科
か
医
い
としてではなく、
一人
ひとり
のゲイとしての
経験
けいけん
を
振
ふ
り
返
かえ
ってみたいと
思
おも
います。
常
つね
に
抑圧
よくあつ
を
受
う
け
続
つづ
けるマイノリティの
心理
しんり
的
てき
特性
とくせい
を、
複雑
ふくざつ
性
せい
PTSD、あるいはその
類似
るいじ
のものとして
記述
きじゅつ
する
動
うご
きがありますので、やや
強引
ごういん
な
例示
れいじ
かもしれませんが、ご
寛容
かんよう
を
願
ねが
います。
近年
きんねん
変化
へんか
してきたとは
言
い
うものの、ゲイの
集
あつ
まる
場
ば
は、
決
けっ
して
一枚岩
いちまいいわ
ではありません。それは、
私
わたし
が
他
た
のゲイたちと
関
かか
わりを
持
も
ち
始
はじ
めた10
年
ねん
前
まえ
には
今
いま
よりも
強
つよ
かったし、
友人
ゆうじん
がそうであった 20
年
ねん
前
まえ
はもっと
強
つよ
かったと
聞
き
いています。とはいえ
今
いま
も
昔
むかし
も、そのような
場
ば
が
強
つよ
く
求
もと
められる
状況
じょうきょう
に
変
か
わりはありません。そうした
中
なか
で、ゲイ・アクティビズムにおいては、ホモフォビアやヘテロセクシズムという
概念
がいねん
によって
自分
じぶん
の
状況
じょうきょう
を
振
ふ
り
返
かえ
ったり、カミングアウトを
一
ひと
つのメルクマールとするような
空気
くうき
がありました。それは
先達
せんだつ
が
新入
しんい
りに
注入
ちゅうにゅう
していく、
反証
はんしょう
不可能
ふかのう
なイデオロギーだったと
言
い
っていいでしょう。
確
たし
かにそれは
私
わたし
に、
自分
じぶん
が
受
う
けている
社会
しゃかい
的
てき
抑圧
よくあつ
の
一部
いちぶ
を
教
おし
え、そこから
逃
のが
れる
方法
ほうほう
の
一部
いちぶ
を
教
おし
えましたが、そのように
自分
じぶん
の
体験
たいけん
が
切
き
り
取
と
られその
側面
そくめん
で
解釈
かいしゃく
されることに、
違和感
いわかん
と
逃
のが
れ
難
むずかし
さも
感
かん
じたのです。
一方
いっぽう
でゲイバーにおいては、まるで
違
ちが
ったハビトゥス、あるいはカルチャーがありました。そこで
必要
ひつよう
なスキルとは、その
場
ば
でいかに
盛
も
り
上
あ
がることができるかであって、
実生活
じっせいかつ
を
積極
せっきょく
的
てき
に
切
き
り
離
はな
すスタイルが
必要
ひつよう
でした。いや、そのような
二
に
重
じゅう
生活
せいかつ
を
選
えら
び
取
と
ること
自体
じたい
がイデオロギーであったのでしょう。そこは
私
わたし
に、
前
ぜん
言語
げんご
的
てき
な
快
こころよ
を
教
おし
えてくれましたし、その
場
ば
で
出会
であ
う
仲間
なかま
は
私
わたし
にとって
大切
たいせつ
なものではありました。しかし
姓名
せいめい
も
知
し
らず、
住所
じゅうしょ
も
職業
しょくぎょう
も
知
し
らない
大勢
おおぜい
の
顔
かお
を
思
おも
い
浮
う
かべるとき、また
実生活
じっせいかつ
における
差別
さべつ
や
困難
こんなん
を
語
かた
ることを
避
さ
ける
空気
くうき
を
思
おも
い
出
だ
すとき、そこにいたのは
一体
いったい
誰
だれ
であったのか、そこでの
語
かた
りとは
一体
いったい
何
なに
であったのか、と
虚脱
きょだつ
感
かん
を
覚
おぼ
えた
自分
じぶん
を
思
おも
い
出
だ
します。
その
二
ふた
つは、まるで
異
こと
なる
空間
くうかん
でした。そして
対立
たいりつ
がありました。
ゲイ・コミュニティと
呼
よ
ばれるゲイ
全員
ぜんいん
が
帰属
きぞく
できる
場
ば
など、あったためしがありません。
孤島
ことう
のように
小
ちい
さな
集団
しゅうだん
が、
不安定
ふあんてい
なままに
点在
てんざい
し、そこに
人
ひと
はしがみつく。それだけのことでした。
一体
いったい
どこに、
自然
しぜん
発生
はっせい
的
てき
に
対等
たいとう
で
深
ふか
いピア
関係
かんけい
が
生
う
まれ、
多様
たよう
で
複雑
ふくざつ
な
自身
じしん
の
全体
ぜんたい
が
受
う
け
止
と
められ、
適切
てきせつ
な
語
かた
りがつむがれる
場
ば
があったのだろうか。そうしたつむぎは
時
とき
に
発生
はっせい
するが、
無条件
むじょうけん
に
起
お
こるものではなく、そして
私
わたし
自身
じしん
はといえば、その
両者
りょうしゃ
のイデオロギーにある
種
しゅ
抵抗
ていこう
し、しかし
部分
ぶぶん
的
てき
に
取
と
り
入
い
れ、
断片
だんぺん
化
か
された
語
かた
りをつむぎつつ、その
間
あいだ
を
生
い
きています。そのような、
複数
ふくすう
の
場
ば
を
同時
どうじ
に
持
も
ち
得
え
るのは
通常
つうじょう
マジョリティにとってはごく
当
あ
たり
前
まえ
のことなのですが、それは
現在
げんざい
にあっても、まだ
誰
だれ
にとっても
容易
ようい
に
持
も
ち
得
え
る
事態
じたい
ではなく、
私
わたし
は
自分
じぶん
の
置
お
かれた
文脈
ぶんみゃく
の
偶然
ぐうぜん
を
常
つね
に
意識
いしき
させられます。
重
かさ
ねてヤング
先生
せんせい
に
質問
しつもん
させていただきます。
第
だい
一
いち
に、ヤング
先生
せんせい
が『PTSD の
医療
いりょう
人類
じんるい
学
がく
』で
記述
きじゅつ
されたイデオロギーの
注入
ちゅうにゅう
は、
私
わたし
が
思
おも
うに、
形式
けいしき
的
てき
には
比較的
ひかくてき
ありふれたことではないでしょうか。そこに
質的
しつてき
な
差異
さい
、
良
よ
いものと
悪
わる
いものとの
差異
さい
はあるのでしょうか。
第
だい
二
に
に、その「
場
ば
」でのイデオロギーは、
確
たし
かに
一方
いっぽう
では
自分
じぶん
の
語
かた
りのつむぎを
助
たす
けるものでありつつ、しかし
一方
いっぽう
ではその
枠
わく
の
中
なか
でしか
認
みと
められない
縛
しば
りでもある、という
両面
りょうめん
を
持
も
っているのではないでしょうか。
換言
かんげん
すれば、
承認
しょうにん
と
排除
はいじょ
が
表裏一体
ひょうりいったい
となって
存在
そんざい
しているのではないでしょうか。
第
だい
三
さん
に、マイノリティは、その
置
お
かれた
社会
しゃかい
的
てき
抑圧
よくあつ
という
文脈
ぶんみゃく
ゆえに
承認
しょうにん
の
場
ば
を
強
つよ
く
必要
ひつよう
とし、その
結果
けっか
として
自由
じゆう
に
語
かた
りの
場
ば
を
選
えら
ぶことも、またそこから
自由
じゆう
に
撤退
てったい
することも
難
むずか
しいために、マジョリティと
比較
ひかく
して
困難
こんなん
が
生
しょう
じるのだと
言
い
えるのではないでしょうか。そしてそれこそが、マイノリティの
語
かた
りのつむぎの
困難
こんなん
性
せい
なのではないでしょうか。 こうした
場
ば
をめぐる
困難
こんなん
性
せい
について、ヤング
先生
せんせい
のお
考
かんが
えを
聞
き
かせてください(
拍手
はくしゅ
)。
(
佐藤
さとう
)
片山
かたやま
さん、どうもありがとうございました。
二人
ふたり
の
大学院生
だいがくいんせい
から
出
だ
された
指定
してい
質問
しつもん
は、PTSD を
中核
ちゅうかく
として、
異
こと
なる
方向
ほうこう
からの
質問
しつもん
だったと
思
おも
いますが、これに
対
たい
してアラン・ヤング
先生
せんせい
にお
答
こた
えいただき、それを
通訳
つうやく
の
方
ほう
と
宮坂
みやさか
先生
せんせい
に
適宜
てきぎ
通訳
つうやく
していただくということでよろしくお
願
ねが
いいたします。
□
立命館大学
りつめいかんだいがく
グローバルCOEプログラム「
生存
せいぞん
学
がく
」
創成
そうせい
拠点
きょてん
20080229
『PTSDと「
記憶
きおく
の
歴史
れきし
」――アラン・ヤング
教授
きょうじゅ
を
迎
むか
えて』
,
立命館大学
りつめいかんだいがく
生存
せいぞん
学
がく
研究
けんきゅう
センター,
生存
せいぞん
学
がく
研究
けんきゅう
センター
報告
ほうこく
1,157p. ISSN 1882-6539
UP:20100409 REV:
◇
生存
せいぞん
学
がく
創成
そうせい
拠点
きょてん
の
刊行
かんこう
物
ぶつ
◇
テキストデータ
入手
にゅうしゅ
可能
かのう
な
本
ほん
◇
身体
しんたい
×
世界
せかい
:
関連
かんれん
書籍
しょせき
2005-
◇
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◇