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野崎泰伸「「生きるに値しない生」とはどんな生か──メンバーシップの画定問題を考える」
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きるにあたいしないせい」とはどんなせいか──メンバーシップの画定かくてい問題もんだいかんがえる

野崎のさき 泰伸やすのぶ 2009/12/04
立命館大学りつめいかんだいがくグローバルCOEプログラム「生存せいぞんがく創成そうせい拠点きょてん 20091204
櫻井さくらい 浩子ひろこ堀田ほった 義太郎よしたろう 出生しゅっしょうをめぐる倫理りんり――「生存せいぞん」への選択せんたく
立命館大学りつめいかんだいがく生存せいぞんがく研究けんきゅうセンター,生存せいぞんがく研究けんきゅうセンター報告ほうこく10,194p. ISSN 1882-6539 pp.62-82


きるにあたいしないせい」とはどんなせい
   ──メンバーシップの画定かくてい問題もんだいかんがえる

野崎のさき泰伸やすのぶ

はじめに

 「きるにあたいしないせい」が存在そんざいするのであれば、当然とうぜんきるにあたいするせい」も存在そんざいする。「きるにあたいしないせい」という概念がいねんは、うらかえせば「きるにあたいするせい」のきる権利けんり画定かくていするものでもある。
 功利こうり主義しゅぎ主流しゅりゅうは、「生命せいめいしつ」をよりどころにしながら、「きるにあたいしないせい」の存在そんざい肯定こうていしてきた。つまり、「生命せいめいしつ」──意識いしきがあったりかい感受かんじゅできたりすること──がひく生命せいめいは、「きるにあたいしないせい」なのである。そして、そのようなメンバーは、きていてもんでもどちらでもよい、すなわち、きることが権利けんりではない。よって、そのなまにかかわるまわりのもの選好せんこうにより、ころすことも正当せいとうされる。
 本稿ほんこうでは、以下いかのようなみっつの立場たちば注目ちゅうもくする。
 (1)すべてのせい無条件むじょうけん肯定こうていされる
 (2)せいのなかには肯定こうていされるべきなま否定ひていされるべきせいがある
 (3)すべてのせい無条件むじょうけん否定ひていされる
 おおくの功利こうり主義しゅぎしゃは、「生命せいめいしつ」をよりどころにしながら(2)を正当せいとうする。だが、論理ろんりてきには(1)?(3)の立場たちばちがいは、「線引せんひきの場所ばしょ」をどこにするかという問題もんだいである。0か1かその中間ちゅうかんかだけの問題もんだいなのだ。(2)を支持しじするものは、じつはニヒリズムてき立場たちばの(3)を拒否きょひしながら、(1)という立場たちば現実げんじつてきだという理由りゆうらないからこそ、(2)を正当せいとうしようとするのではないのか。この立場たちばにおいては、倫理りんりとは現実げんじつ可能かのうなもののなかから見出みいだすべきだという、いわばかくれた主張しゅちょうえてくる。
 わたしは、これらすべては正当せいとうという営為えいいによっては主張しゅちょうできないとかんがえる。そのことをしめすために、多少たしょう遠回とおまわりかもしれないが、わたしう「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」という概念がいねんをまずは説明せつめいするところからはじめたい。なお、本稿ほんこうべる「正当せいとう」とは、権利けんり概念がいねんとパラレルに理解りかいされる。すなわち、なんらかの道徳どうとくてき、あるいは法的ほうてき基準きじゅんをもって当該とうがい判断はんだん理由りゆうづけするものである。本稿ほんこうでの文脈ぶんみゃくしたがっていかえれば、「だれか(特権とっけんてきな)にんがいて、あるいはなに命題めいだいがあって、あるひときてよいか、あるいはきてはよくないかの正当せいとう判断はんだんくだす」ということが「正当せいとう」の内実ないじつである。

1.「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」とはどういうものか

 わたしう「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」とは、たんに「あるがままのあなたをそのままれる」というような、対面たいめん相手あいてへの行為こういや、心理しんりてき側面そくめんだけに還元かんげんされるようなものではない。標語ひょうごてきにいえば、つぎのようなものである。

「もしも正義まさよしというものがあるならば、それは「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」である。正義せいぎとは、すべてのせい無条件むじょうけん肯定こうていするものでなければならない」

 容易よういにわかるように、「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」というのは、「すべてのせい」を対象たいしょうにしているところから、社会しゃかいてきなものである。「あなたがきることを無条件むじょうけん肯定こうていする」ためには、どうしても社会しゃかいてき整備せいび必要ひつようである。社会しゃかいてき制度せいどうにおよばず、社会しゃかいてき価値かちかんをも問題もんだいにしなければならない。たとえば、ざいがなければきていくことなど不可能ふかのうであるし、特定とくてい社会しゃかいてき集団しゅうだんせい否定ひていするような価値かちかんなかにあっては、集団しゅうだんなかとう本人ほんにんきることを肯定こうていされない。
 そしてそれを、正義せいぎであるというところにも特徴とくちょうがある。ただ、このときに正義せいぎというものがもしあれば、それは「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」にしかならない、と主張しゅちょうしているのであって、そもそも正義せいぎ存在そんざいするかどうかはわからない。けれどもまた、正義せいぎなどないと主張しゅちょうしているのでもない。存在そんざいするかどうかわからない、つまり、実体じったいとしてその存在そんざい証明しょうめいができないものとして、なおそのうえで正義せいぎ存在そんざいするということにけているのである。
 また、正義せいぎ実行じっこう可能かのうせいなどということも無意味むいみである。じっさい、「すべてのせい無条件むじょうけん肯定こうていする」というようなことは、現実げんじつてきにはほとんど無理むりであるか、おそらくは困難こんなんきわめるであろう。それでも、もし正義まさよしというものがあるとすれば、「すべてのせい無条件むじょうけん肯定こうていする」を正義せいぎである、とめておくことに意味いみはある。なにか内容ないようのあることを正義せいぎだとめておかないことには、社会しゃかいにおいて「よい/わるい」の判断はんだんができないからである。すなわち、現実げんじつ実行じっこう可能かのうなものとして社会しゃかいうごかそうとするとき、それがよいかわるいか判断はんだんしなければならないが、その判断はんだん基準きじゅんさだめておかなければ、そもそも判断はんだんができないことになってしまうということだ。これでは、なにをしようが、あるいはなにをしまいが、なんでもかまわないことになってしまう。そうならないためにも、実行じっこう可能かのうかにかかわらず、正義せいぎ実質じっしつてき内容ないようめておく必要ひつようはある。
 つぎに、「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」が、いわゆる「生命せいめい神聖しんせいせい」や、「生命せいめい至上しじょう主義しゅぎ」とばれるようなものとちがうということを指摘してきしておく必要ひつようがある。たとえば、「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」は、「末期まっき患者かんじゃをどこまでも延命えんめいすべきだ」というような主張しゅちょうではない。おなじく、「不死ふし思想しそう肯定こうてい」でもない。「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」は、医療いりょう資源しげん使つかえるだけ使つかってでもいのちをながらえることを正当せいとうするようなものではない。
 生命せいめい価値かちは、生命せいめいそれ自体じたい内在ないざいしてあるわけではない。より正確せいかくえば、生命せいめいという価値かち中核ちゅうかくは、生命せいめいがあることによって価値かち実現じつげんする可能かのうせいにある。たとえば、自由じゆうという価値かちも、その価値かち享受きょうじゅする主体しゅたい生命せいめい宿やどっていなければ、現実げんじつ社会しゃかいにおいては意味いみをなさない。その意味いみで、生命せいめいという価値かちは、ほかの価値かちとはちがった価値かちであるということはできる。ほかのあらゆる価値かち基底きていでありかつ、それは外在がいざいてき価値かちなのではないだろうか。たとえば、生命せいめい多様たようせいは、生命せいめい内在ないざいする価値かちではなく、たん事実じじつである。事実じじつとして生命せいめいのありようが多様たようなだけであって、多様たようさに価値かち付与ふよすることなどできない。
 しかし、だからこそ、生命せいめい大切たいせつ価値かちなのではないか。自由じゆう平等びょうどうは、生命せいめいうえにしかりたないのであるから。そして、自由じゆう平等びょうどうは、いちどうばわれても、生命せいめいがあるかぎうばかえ可能かのうせいはゼロではない。しかし、生命せいめいはいったんうしなってしまえば、それをもどすことはできない。そのようなものであるからこそ、無条件むじょうけん肯定こうていされなくてはならないのではないか。
 とはいえ、そのうえで、いくらでも長生ながいきするのがよいとっているわけでもない。そうした主張しゅちょうは、従来じゅうらい功利こうり主義しゅぎてき観点かんてんから正当せいとうされようとしてきた。わたしは、きながらえて社会しゃかい負担ふたんになるからそのせいじるべきだという思想しそう一切いっさい反対はんたいする。そうではなくて、もうすこべつ角度かくどから、正当せいとうとはべつ方法ほうほうによって立論りつろんできるのではないか。
 社会しゃかいが、すべてのせい無条件むじょうけん肯定こうていする方向ほうこうへとかうことは、前提ぜんていである。これは、社会しゃかい制度せいど価値かちかんなど、あらゆるところにわたってそのようにあらなければならないということである。そのうえで、「自分じぶんはもうきることをじゅうぶんにあじわった」とおもうなら、そのせいじることを否定ひていする理屈りくつてるのも、困難こんなんなのではないか。まわりは、「ぬな」とはえても、それはぬことをきんじることではないだろう。すなわち、まわりはきることの支援しえんしんではならないが、にもかかわらず、つづけさせる正当せいとう理由りゆうはない、ということである。つづけるための制度せいど思想しそう社会しゃかいづかせるべきだというのと、まえせいじようとするひとに、その選択肢せんたくしをとることを禁止きんししないということとは、論理ろんりてきには矛盾むじゅんしない。
 ただし、この絶望ぜつぼうしたり、自分じぶんはダメだとおもいながらのについては、はなしべつである。それらは基本きほんてきには、社会しゃかいのせいである。絶望ぜつぼうせざるをない、あるいは、自分じぶんがダメだという価値かちかん醸成じょうせいしてしまう社会しゃかい原因げんいんがあると、まずはってしまってよい。絶望ぜつぼうしようが、自分じぶんがダメだとおもおうが、論理ろんりてきにはきていることの価値かちえないはずなのである。きていることを否定ひていするような価値かちも、逆説ぎゃくせつてきだが、きているからこそ成立せいりつするのである。つまりは、事実じじつとしての生命せいめい肯定こうていすることがあったうえでしか、生命せいめい否定ひていするという論理ろんりりたないことになる。ただし、そうではあっても、現実げんじつにはみずかきることに絶望ぜつぼうし、自分じぶんきていることを否定ひていしてしまうひとがいるのもまた事実じじつである。このことをどうかんがえるか。
 なにかの理由りゆう自分じぶんきていることをひどく否定ひていし、自殺じさつかんがえ、リストカットやオーバードーズをしてしまうひとたちがいる。そのとき、一時いちじてきにはその理由りゆうづけに反対はんたいし、反対はんたい理由りゆうづけによってきることを肯定こうていされてよい。たとえば、だれからもみとめられないという理由りゆう自分じぶんきることを否定ひていしたりするものもいるだろう。そのとき、だれかがそのひと具体ぐたいてきみとめることは、そのひとにとってはおおきな肯定こうていかんにつながるはずである。ただし、それは「ひとからみとめられる」という行為こういがあるから、きることを肯定こうていしてよいという、条件じょうけんつきの肯定こうていでしかない。条件じょうけんつきのせい肯定こうていは、その条件じょうけん反転はんてんしたとき、きることを否定ひていする論理ろんりわってしまう。すなわち、既存きそん理由りゆうづけに反対はんたいし、それとはぎゃく価値かちゆうする理由りゆうづけをもってきたとしても、きることが条件じょうけんつきで肯定こうていされている土俵どひょううえにはわりがない。ひとから称賛しょうさんされることはときに、とてもうれしいことではある。しかし、だからといって称賛しょうさんされることできることが肯定こうていされるというのは、称賛しょうさんがないとき、反転はんてんしてそれはきることを否定ひていするものとなる。さらにそのうえで、きることを無条件むじょうけん肯定こうていすることと、「ひとからみとめられてうれしい」ということとは、かならずしも矛盾むじゅんするわけでもない。
 功利こうり主義しゅぎは、「生命せいめいしつ」の序列じょれつによって、「きるにあたいするかどうか」を峻別しゅんべつし、ころしてもよいいのちがあることを正当せいとうする。それにたいして、「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」は、まずは「生命せいめいしつ」には社会しゃかい構築こうちくてき部分ぶぶんがあることを指摘してきする。つまり、意識いしき有無うむ感覚かんかく有無うむは、社会しゃかい環境かんきょうによっても一定いってい程度ていど振幅しんぷくをもつものであるし、なにゆえに意識いしき感覚かんかく生命せいめい価値かちろんじるときに特権とっけんされるかについては、まさに社会しゃかい構築こうちくてきなのである。そのうえで、「ころしてもよいいのちなどない、けれどもころす。そのことは正当せいとうされない」という意味いみにおいて、ころすことをいわば仕方しかたのない調停ちょうてい妥協だきょうとしてみとめざるをない臨界りんかいてんがある。だが、それは「価値かちがない生命せいめいであるからころしてもよい」のではない。生命せいめいには、うえしるしたような基底きていてきいちかいきりの価値かちはある。そしてそれはどんな生命せいめいにも平等びょうどうあたえられている。その意味いみにおいて、生命せいめいによって価値かちがあるとかないとかいうのは、論理ろんりてきにはおかしいはずである。ころしてもよいからころすのではなく、「ただ」ころす、「たんに」ころ以外いがいなにぶつでもない。なるほど、トリアージのように、救助きゅうじょ優先ゆうせん順位じゅんいをつけなければならない場面ばめんもあるだろう。しかしそれは、かぎられた医療いりょう資源しげん人的じんてき資源しげん生存せいぞん時間じかん勘案かんあんしたうえで、いかに救助きゅうじょ活動かつどう円滑えんかつおこなうかの指針ししんのはずである。救助きゅうじょ優先ゆうせん順位じゅんいをつけることと、瀕死ひんし患者かんじゃ生命せいめい価値かち序列じょれつをつけることとを混乱こんらんしてはならない。「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」はそういうときであっても、ただ淡々たんたん医療いりょう資源しげん人的じんてき資源しげん拡充かくじゅうもとめるだけである。それが拡充かくじゅうされれば、瀕死ひんし状態じょうたいにおける──まだ完全かんぜんにはんではいない──くろタグはもう必要ひつようないかもしれない、わたしたちはそんなことを夢見ゆめみることができる。
 以上いじょうが「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」の概要がいようである。その輪郭りんかくあきらかになったところで、つぎに、「きるにあたいしないせい」という概念がいねんと、せい肯定こうてい否定ひていをめぐるみっつの立場たちばについて考察こうさつしていきたい。

2.なぜ「すべてのせい無条件むじょうけん肯定こうていされる」とえるのか

 1の議論ぎろんあきらかにはしたが、もう一度いちど「なぜ「すべてのせい無条件むじょうけん肯定こうていされる」とえるのか」といういについてかんがえよう。わたしは「もし正義まさよしというものがあるとすれば、それは「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」である」とべた。これは、「なぜ肯定こうていされるのか」といういにはこたえられないことを意味いみする。いいかえれば、わたしはこのいそのものを無意味むいみにするために、「もし……」などとべたのである、と理解りかいすることもできる。
 「なぜ肯定こうていされるのか」については、なにかの理由りゆう根拠こんきょとした基礎きそづけや正当せいとうという手続てつづきによってはこたえることができない、そのようにわたし主張しゅちょうするのである。なぜなら、そのようにこたえることができたとして、その理由りゆうたんしたり反転はんてんした途端とたん、あるいは、その理由りゆうみとめられなければ、きることが肯定こうていされることは論理ろんりてきになくなるからである。「なぜ「すべてのせい無条件むじょうけん肯定こうていされる」とえるのか」といういのまえに、「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」にけてみるのである。だからこそ、「もし……」というようないいぐさをするのである。
 このことは、「すべてのせい無条件むじょうけん肯定こうていされる」ことが正義せいぎであるということをみとめない──すなわち、(2)(3)の立場たちばにたつ──しゃ存在そんざいみとめる。「正義せいぎであることをみとめるかみとめないか」という意味いみにおいて、正義せいぎには臨界りんかいがあることをしめしている。正当せいとうという営為えいい不可能ふかのうであれば、そうならざるをない。ただし、(1)を正義せいぎであるとみとめるものみとめないものあいだには、最終さいしゅうてきには正義せいぎについて共有きょうゆうできることはないことになる。
 (2)を主張しゅちょうするには、きるにあたいするなまとそうでないせいとの境界きょうかいさだめ、それを正当せいとうしなければならない。しかしながら、なにゆえにそのようなただしい境界きょうかい存在そんざいするとえるのか。人間にんげん人間にんげんという分類ぶんるいから、意識いしき有無うむかい有無うむという分類ぶんるいわったとしても、「ただしい境界きょうかいもうけて分類ぶんるいする」という土俵どひょうからはてはいない。他方たほうおおくの場合ばあいきるにあたいしない」とされ、そのせいわらせることを正当せいとうされるような重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいしゃ精神せいしん障害しょうがいしゃも、適切てきせつ支援しえんがあれば快適かいてき生活せいかつすることが可能かのうである。そのことは、すくなくはない自立じりつ生活せいかつ実践じっせんれいからも明白めいはくである。たしかに、かれらは自分じぶん意思いし表現ひょうげんできないかもしれず、ゆえにきたいかどうかすら、支援しえんしゃにも本人ほんにんにもわからないかもしれない。さらにくわえて、ときには「にたい」とうことすらありる。そうであるとしても、まわりがそのことによってかれらをかそうがころそうがどちらでもよい、ということはありない。なにゆえに、意識いしきかい有無うむ特権とっけんされて、それがなければころしてよいという論理ろんりになるのだろうか。それは、意識いしきかいがじゅうぶんにあるもののおごりではないだろうか。なにより、どれほどまわりが負担ふたんであろうとも、「きるにあたいしない」とされるひとにいてほしい、きて存在そんざいしてほしい、とおも気持きもちがひとにはあるのではないか。だとすれば、もうすでに言葉ことば定義ていぎからして「きるにあたいしない」ではない。負担ふたんである気持きもちと、しかしながらそれでもきていてほしいという気持きもちとは両立りょうりつする。なんとなれば、負担ふたんのほうは社会しゃかいてき解決かいけつできる可能かのうせいすらある。
 もっと根源こんげんてきには、わたしたちは「きるにあたいする」からという理由りゆうきているのではないだろう。どんな理由りゆうが、わたしたちをして「きてよい」ものとさせているのか。わたしたちは、たまたまこのせいとおるけ、そしてたまたま現在げんざいまできてきてしまっただけではないのか。その意味いみでは、いかなる生命せいめい──人間にんげんのみならず、動物どうぶつ植物しょくぶつも、きとしけるものすべて──も平等びょうどうなはずである。自己じこ意識いしきがあるから(選好せんこう形成けいせい自己じこ意識いしきがないとできない)、あるいはかい感受かんじゅできるから、「きるにあたいする」というのは、傲慢ごうまんなのである。たしかに、自己じこ意識いしきがあって自分じぶんでなにがしかの判断はんだん可能かのうであるということは、その当人とうにんにとってもよいことかもしれないし、まわりの負担ふたんらすことかもしれない。しかし、それはそれだけのことであるはずだ。負担ふたんだからころしてよい、ころすことを正当せいとうできる、ということにはならない。
 ただ、この立場たちばには「現実げんじつには生命せいめい序列じょれつまってしまっていて、それによってなかまわっている」という反論はんろんもなされよう。そして、その序列じょれつはどうしても意識いしき中心ちゅうしん主義しゅぎかい中心ちゅうしん主義しゅぎにならざるをないのだと。こうした反論はんろんに、いかにこたえるか。
 たしかに、現実げんじつにはそのようなめんはある。しかしながら、ころされていくいのちも、「ころされるべきだから、あるいは、ころされるのに正当せいとうせいがあるから」ころされてよい、というのではないはずである。それは、ころがわ都合つごうによってころしているとしかえまい。しかし、現実げんじつまってしまっているという生命せいめい序列じょれつには、社会しゃかい構築こうちくてきめんがある。もっとえば、ころがわ都合つごうとは、いかに生命せいめい序列じょれつ社会しゃかいてき構築こうちくしていくかの過程かてい結論けつろんにほかならない。それはどこまでいっても、恣意しいてき設定せっていされるものであり、正当せいとうであるから設定せっていされるものではないのだ。(2)の立場たちば正当せいとうしようとするものは、現実げんじつ追認ついにんしているにすぎない。
 わたしたちは生命せいめいころさずにきることは不可能ふかのうである。生命せいめいころすのは、ほかでもない「わたしびるため」である。わたしたちは、自分じぶん都合つごうによって生命せいめいころしているにすぎない。まずはここを直視ちょくししなければならない。わたしびることと生命せいめいころさないことが天秤てんびんにかけられるとき、どうしてこの「わたし」がびることを優先ゆうせんすることを正当せいとうできようか。そのような理屈りくつはすべて、わたし都合つごうによるものではないのか。ここでわたしは、「それはいけない」とっているのではない。また、仕方しかたないとしてゆるされるべきものでもないだろう。ただ、そういうものとしてころし、また、そういうものとしてわたしたちはびてきたし、これからもそうだろうということである。これは、現状げんじょう追認ついにんではけっしてない。現状げんじょうゆるすのではなく、現状げんじょうゆるされないのだ。そういう現状げんじょうなかわたしたちはきざるをないのである。そして、もしも「ゆるし」ということが可能かのうであるとするならば、そのような現状げんじょうゆるされなさをとおしてでしかありない、ということである。そのためには、可能かのうかぎり「わたしびることと生命せいめいころさないことが天秤てんびんにかけられる」という状況じょうきょうそのものをなくしていかなければならない。
 つぎに(3)の主張しゅちょうである。意外いがいかもしれないが、これは(2)より断然だんぜんマシな主張しゅちょうである。「このせいとおるけ、そしてたまたま現在げんざいまできてきてしまった」というてんにおいていかなるなま平等びょうどうであることと、(3)の主張しゅちょうとは論理ろんりてき矛盾むじゅんしない。きることが否定ひていされるとすれば、すべてのせい無条件むじょうけん否定ひていされなければならない。そのうえでなお、わたしはすべてのせい無条件むじょうけんに「肯定こうてい」されるようなみちえがきたいとおもう。なぜか。
 そもそも、生命せいめいきてることというのは、肯定こうていされるべき理由りゆうがあるから肯定こうていされるというるいのものではない。その理由りゆうがなくなってしまえば、きることは否定ひていされる。ゆえに、「なんらかの正当せいとう理由りゆうがあるからきることが肯定こうていされる」という理屈りくつでは、その理由りゆう反転はんてんしたとたんに、きることを否定ひていする理屈りくつになってしまうのである。
 正当せいとうという手法しゅほうには限界げんかいがある。それでは、どのような理屈りくつが「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」を主張しゅちょうしうることになるのか。それは、じっさいのところ可能かのうかどうかはわからない。だから、それが可能かのうであることにわたしたちはけてみるしかない。もしも正義まさよしというものがあるとするならば、それは「すべてのせい無条件むじょうけん肯定こうていするものである」、その正義せいぎけてみる、ということなのである。
 これは、「生命せいめいとうといから」とか、「きることはかけがえのないことだから」というような理屈りくつづけでもない。たしかに、生命せいめいとうといかもしれないし、「わりがかない」という意味いみにおいては、まぎれもなくだれかがきるということは、その当人とうにんにとってはかけがえのないものである。しかし、それを理由りゆうにはできない、ということである。生命せいめいなどかるいものだ、または、かけがえがないからこそなまそのものが負担ふたんである、というように反論はんろんされれば、それは信念しんねん同士どうし決着けっちゃくのつかないあらそいになるだろう。
 わたし主張しゅちょうしたいことは、せいへの肯定こうていてき意味いみづけではない。意味いみづけがどんなものであれ、そういうものとしてなまそのものを肯定こうていする可能かのうせいけるよりない、ということである。価値かちがあるから生命せいめいとうとい、あるいは、生命せいめいそれ自身じしん内在ないざいてき価値かち本源ほんげんてきにある、というようにわなくともよい。そうしたいいかたでは、「それはどうして?」といういに論理ろんりてきこたえることができない。だからこそ、「なまそのものを肯定こうていする可能かのうせい」は、けなのである。そのような可能かのうせいを、だれがどうやって正当せいとうはかることなどできようか。
 しかし、それではなぜ(3)ではなく、(1)への「け」なのか。(3)には、「あらゆる生命せいめいには本質ほんしつてき価値かちなどない」というニヒリズムてき背景はいけいがある。その意味いみでは(1)もまたそうである。ちがうのは、その超克ちょうこく方法ほうほうである。生命せいめいは、ころったりもするし、絶望ぜつぼうかんじるときもある。ころうな、絶望ぜつぼうするなという「説教せっきょう」をれるのではない。わたしたちは、ころわなくてもすむ社会しゃかいや、だれかを絶望ぜつぼうおとしいれることのないような社会しゃかいを、夢想むそうすることはできる。たしかに、ころったり、一方いっぽうてきころされたり、あるいは絶望ぜつぼうのただなかにあるものたちにとっては、そのように夢想むそうすることすら困難こんなんで、かつしんどいことでもある。だからこそ、かれらに「希望きぼうて」などとは絶対ぜったいえない。
 そもそも、未来みらい希望きぼうあたいするから、未来みらいけるというものでもない。未来みらいしんじることができるから、しんじるのではない。きることに希望きぼうてるから、希望きぼうせい肯定こうていするのではない。そのようなすべてのことは、誠実せいじつかんがえるならば、はしてきってわからないというしかない。そのようななかにあって、それでもしんじ、せい肯定こうていするのである。「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」の主張しゅちょうは、正当せいとうできないという意味いみで、いわば宗教しゅうきょうのようなものでもあるとってよいだろう。
 ただし、つぎのようにかんがえてみることはできるのではないか。本稿ほんこうむあなたは、いまいかなる状況じょうきょうであろうと、とにかくきており、本稿ほんこうたいして賛意さんいしめしたり、批判ひはんてき意見いけんったりするだろう。そのようなあなたは、げんに「きている」ということである。さまざまな理由りゆうひんしたり、またにたいとおもったりしていても、とにかく「きている」。仕方しかたなくかもしれないが、とにもかくにもきてしまっている。この事実じじつは、わたしにはとてもおもく、またおおきいものであるとかんじられる。なぜなら、理由りゆうのほうを変更へんこうすれば、ひんしたり、にたいとおも必要ひつようがなくなるかもしれないからである。理由りゆうのほうは、どれほど困難こんなんであっても、また非常ひじょうかくりつひくくても、変更へんこう可能かのうせいがある。だが、いったんんでしまえば、それをすことは不可能ふかのうである。これは、当事とうじしゃの「にたい気持きもち」を否定ひていするわけではない。当事とうじしゃにたくなるのは、自分じぶんのほうを変更へんこうするほうが簡単かんたんであるからにならない。比喩ひゆてきにいえば、自分じぶんのスイッチと社会しゃかいのスイッチのどちらかをさわらなければきていけないとき、自分じぶんのスイッチのほうをさわるほうが簡単かんたんだからそのようにするにすぎないのである。社会しゃかいのスイッチなど、そもそもあるかどうかすらわからない。あったことがわかったとして、どこにあるかわからないし、にいくつかあるかもしれない。スイッチをさわったからといって、確実かくじつ当事とうじしゃかかえる「理由りゆう」がえる保障ほしょうはまったくない。自分じぶんひとりでできることというのは、自分じぶんわらせることぐらいにはない。えやすいから、自分じぶんえようとするだけなのである。
 ただ、これまでの歴史れきししめすように、苦難くなんえつつ、しかしながらびてきたひとたちがいる。また、苦難くなん困難こんなんきざるをないひとたちの苦難くなん困難こんなんすこしでもらそうと、努力どりょくしてきたひとたちがいる。「だから苦難くなんえろ」や、「そのようなひとたちが希望きぼう救世主きゅうせいしゅになってくれるであろう」というようなことをいたいのでは毛頭もうとうない。かえすが、希望きぼうがあるからしんじるのではないのだ。また、苦難くなんえるのは、自分じぶんにできることがそれぐらいしかないから、えているにすぎないのであって、けっしてえるべきであるからえているのではない。現状げんじょうのただなかにあっては、えることぐらいしか自分じぶんには簡単かんたんにしのぐ方法ほうほうがないからそうやってしのいでいるだけなのである。絶望ぜつぼうは、希望きぼうしんじることができないからこそしょうじてくる。ただし、希望きぼう根拠こんきょがないのと同様どうように、絶望ぜつぼうにも根拠こんきょはない。過去かこいることはあっても、それは未来みらいへの絶望ぜつぼう意味いみするものではない。ぎゃくにいえば、どんなに幸福こうふくであったとしても、それは未来みらいへの希望きぼう意味いみするものではないのだ。

 絶望ぜつぼう希望きぼうも、そのような意味いみにおいていたりしんじたりするものであって、けっしてなに根拠こんきょがあるからといって絶望ぜつぼうしたり希望きぼうったりするものではないということである。ただ、わたしすくなくともきているあいだしあわせにきたいとねがい、また、わたしだけではないすべてのせいがそのきているあいだしあわせであれとねがう。だからこそ、希望きぼうたねばならない。すべてのせい無条件むじょうけん肯定こうていする社会しゃかいこそが正義せいぎ社会しゃかいなのだと、まずはあっけらかんにうところからしかはじまらない、そのようにしんじるのだ。

3.きもりさ(ちむぐりさ)の倫理りんり、あるいは、生命せいめいノトウトサというドグマ

 つぎに、「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」というかんがかたを、いまひとつべつ角度かくどから説明せつめいしてみよう。うえ説明せつめいしたとおり、この体系たいけいは「ある境界きょうかいやある行為こういただしいかどうかの判断はんだん基準きじゅん」を、その論拠ろんきょ正当せいとうせいもとめるという営為えいいによってはなされないことによってされたものである。とりわけ、「だれきるにあたいするのか」という、生死せいしかんするメンバーシップの境界きょうかいせんにおいて考察こうさつがなされた。
 なぜメンバーシップだけで通用つうようする「同胞どうほうあい」ではいけないのか。メンバーのそとものをメンバーないくわえて、「同胞どうほう」をやしていけばよいのではないか。ある意味いみ、そのとおりである。しかしながら、文字もじどおり解釈かいしゃくするなら、「同胞どうほう」という概念がいねんはメンバーシップを固定こてい不動ふどうにするものである。そして、そこだけに通用つうようする「倫理りんりてき配慮はいりょ」つまり規範きはん正当せいとうさせてしまう。メンバーがい他者たしゃ放置ほうちすることをよしとしないなら、「同胞どうほう」をやすという、「同胞どうほうあい」それじたいをえた、すくなくともそれとはちが視点してん必要ひつようなのである。いいかえれば、そのような視点してんをもつことによってこそ、「同胞どうほうあい」が芽生めばえてくるともえよう。そしてその視点してんとは、「同胞どうほう」であろうがなかろうが、メンバーであろうがなかろうが、その存在そんざいじたいを肯定こうていするというものである。現実げんじつ社会しゃかいにおいては、メンバーシップをさだめるためにほう制度せいど制定せいていしなければならない。ほうとは、ほうによってまもられるべき存在そんざいとそうではない存在そんざいとを峻別しゅんべつするものであり、そのかぎりにおいてほう救済きゅうさい道具どうぐでもあるが、同時どうじ排除はいじょ道具どうぐでもある。だからこそ、わたし立場たちばにおいては、ほうがすなわち正義せいぎであることはありない。どんなほうも、正義せいぎではない。正義せいぎとは、ほうさだめる境界きょうかいせん正当せいとうせいるがし、再審さいしんす。このように、ほうによる「理性りせいてきな」判断はんだん根底こんていからるがすという意味いみにおいて、正義せいぎはまた狂気きょうきでもある。
 メンバーの「よそもの」をも歓待かんたいするという思想しそうえがくために、ここでは沖縄おきなわ存在そんざいする「きもりさ」、そして「いのちどぅたから」という概念がいねんいにそう。きもりさとは、他者たしゃいたみ、くるしみを自分じぶんのそれとしてともにくるしむところにはっする。たんなる同情どうじょうや憐みのような「相手あいて見下みくだす」感情かんじょうではなく、自分じぶんのはらわた=きもふかきざむものとして、くるしさを共有きょうゆうしようとするものである。
 きもりさは、沖縄おきなわ存在そんざいする郷土きょうどあい、つまり「おな沖縄おきなわじん」という属性ぞくせいをもつことをその要件ようけんとはしない。だれであろうが、他者たしゃせいいたみを自分じぶんのものとしてともにいたみをかんじようとする。他者たしゃの「せい」どころか、死者ししゃをすらみずからのせいへと反芻はんすうしようとする営為えいいである。
 きもりさの経験けいけんは、はらわたがよじれるほどつらいものである。それは「不可能ふかのう経験けいけん」であるからこそくるしいのである。他者たしゃくるしみを本当ほんとうり、共有きょうゆうすることなどできない。わたしたちが可能かのうなこととは、「他者たしゃくるしんでいる」という事実じじつ観察かんさつするということにすぎない。だから、ともすれば「他者たしゃいたみをかちう」ということじたいが、とても不遜ふそん傲慢ごうまんでもありる。そのような可能かのうせいまえたうえで、自分じぶん他者たしゃとともにきようとする、これがきもりさの経験けいけんなのである。
 はいたに健次郎けんじろう太陽たいよう』に、つぎのような場面ばめんがある。沖縄おきなわせん左手ひだりてうしなったろくさん──ろくさんは兵隊へいたいではなく、大工だいくだった。日本にっぽん兵隊へいたいはろくさんたちに集団しゅうだん自決じけつもとめ、手榴弾しゅりゅうだんわたした。その爆発ばくはつによりみんなに、ろくさんは左手ひだりてうしなった──のもとに、ちいさいころ沖縄おきなわから大阪おおさかうつった知念ちねんキヨシ少年しょうねんあらわれた。ほどなく、キヨシ少年しょうねん警察けいさつの「厄介やっかい」になる。ひときずつけたり、いわゆる「非行ひこう少年しょうねん」としてえがかれるキヨシにたいし、警察けいさつ執拗しつよう詰問きつもんする。ろくさんは、「わるいことをしたのなら、知念ちねんくん徹底的てっていてき調しらべればよい」としながら、「わるいことをせざるをなかった理由りゆうも、徹底的てっていてき調しらべてほしい」とう。警察けいさつは、ろくさんのこうした態度たいどたいし、「郷土きょうどあい否定ひていしない」とべている。くわえて、「ほうまえには沖縄おきなわなにもない、平等びょうどうだ」ともべる。
 これにたいし、ろくさんは「ほうまえ平等びょうどうであることを本当ほんとうのぞんでいるのは、沖縄おきなわひとたちだ」とべ、日本にっぽんというくに法体ほうたいけいによって沖縄おきなわかれているにもかかわらず、日本にっぽん法体ほうたいけいによってさばかれようとする、まえのキヨシのうえりかかっている不条理ふじょうり鮮烈せんれつ指弾しだんする。そして、こうしたろくさんの言動げんどうは、けっして「郷土きょうどあい」などという偏狭へんきょうなものではないようにわたしにはうつる。つまり、法体ほうたいけいまもられる内側うちがわにとっては、ほうかれたひとびとが日本にっぽん存在そんざいするということをらない、あるいは、ようとしない。それは、そうせずともほうによってまもられながらきていくことができるからである。すなわち、ろくさんが指摘してきしたことというのは、まさしく〈法外ほうがい〉の「他者たしゃ」との共生きょうせい(の困難こんなん)という主題しゅだいであり、それは「郷土きょうどあい」というメンバーシップないにおける情念じょうねんはなしではないのだ。
 他者たしゃろうとするということは、他者たしゃきてきたあかし、つまり生存せいぞん歴史れきしおうとすることである。他者たしゃとは、いまだぬなにものかのことであるから、その時点じてんにおいては「他者たしゃる」ということ自身じしんが、語義ごぎ矛盾むじゅんなのである。どこまでることができるか、あるいは、そうしたいとなみが不可能ふかのうであるかすらわからない、そういうものとして「他者たしゃろうとする」ということは位置いちづくのである。当然とうぜん自分じぶんにとって都合つごうがよいものかわるいものかすらわからないのである。
 ろくさんは、「日本にっぽんというくにによってさだめられたほう」によってキヨシがさばかれることを否定ひていしていない。それと同時どうじに、そうした法体ほうたいけい超越ちょうえつする視点してん──これこそわたしが「きもりさ」の思想しそうささえるものであると解釈かいしゃくする──を提示ていじしているのである。そしてこのことは、現存げんそんするほうそのものが正当せいとうかどうかということを審問しんもんするものとなる。この場面ばめんは、ろくさんが「郷土きょうどあい」による同情どうじょう、いいかえれば日本にっぽんほう対抗たいこうする沖縄おきなわの「おきて」を提示ていじするから感動かんどうする、のではない。むしろ、そうしたこう対立たいりつてき思考しこうから脱皮だっぴする、メンバーシップという「ほう」の境界きょうかい正当せいとうせいるがすものであるからこそ、それが感銘かんめいぶのではないのか。そして、そうした視点してん正義せいぎ視点してんであると、わたし解釈かいしゃくするのだ。
 さらに、沖縄おきなわには「いのちどぅたから」という思想しそうもある。沖縄おきなわせんて、いのちの大切たいせつさをうったえたものである。謝花じゃはな直美なおみは、「きられるあいだきるべきだ」という言葉ことばにも証言しょうげんは、「ぐんの「玉砕ぎょくさい」という論理ろんりが、「いのち」と「きよう」という言葉ことばふうじられた」(謝花じゃはな 2008: 216)ということをあかるみにす、とべる。またつづけて、つぎのようにべる。

「また大城おおしろは、「いのちどぅたから」という言葉ことばが、戦争せんそう体験たいけんしゃ体験たいけんかたりだすときにもかぎになったとはなす。なな年代ねんだいけんのききとりをおこなったとき戦後せんごねんがたっていても、体験たいけんしゃのこってもうわけないという自責じせきねんから、体験たいけんはなすことができなかったという。「いのちどぅたから」だということ、のこった人々ひとびと沖縄おきなわせんかたいでいくことが、二度にどくに戦争せんそうこさせないためのちからになるのだとつたえると、ひとびとはしんのつかえがとれたようにはなはじめたという」(謝花じゃはな 2008: 216-217)

 わたしは、被害ひがいしゃなんでもかたるべきだとはおもわないし、被害ひがいしゃかたったからといって論理ろんりてきにはそれが戦争せんそうこさせないちからになるかどうかは、はしてきってわからないとしかいようがない。もくすることをのぞむなら、もだしてよい(山口やまぐち 2009)。ただし、そのことと「証言しょうげんしたいなら証言しょうげんしてよい」ということもまた、論理ろんりてき両立りょうりつする。謝花じゃはな指摘してき重要じゅうようなのは、「いのちどぅたから」という思想しそうが、「(自分じぶんが)のこってもうわけない」、すなわち死者ししゃである他者たしゃと「ともにきる」ことのくるしさやいたみをともないながらまれてきたということであろう。いいかえれば、「きもりさ」と「いのちどぅたから」とは、双子ふたご兄弟きょうだいのようなものであると理解りかいできる。それはけっして単純たんじゅんな「いのちの礼賛らいさん」ではない。他者たしゃとともにあろうとすること、他者たしゃとともにあらざるをないこと、これらの困難こんなんのうえにった「それでもきられるあいだきよう」という思想しそうなのである。
 すこしだけべておくべきことがある。いわゆる「選択せんたくてき中絶ちゅうぜつ」や「優生ゆうせいがく優生ゆうせい思想しそう」、つまり、障害しょうがいがあるとわかればその生命せいめいかしてもころしてもどちらでもかまわない、という思想しそうについてである。これらは中核ちゅうかくてきには、「まれてきてほしい人間にんげん生命せいめいと、そうでないものとを区別くべつし、まれてきてほしくない人間にんげん生命せいめい人工じんこうてきまれないようにしてもかまわないとするかんがかた」であるとまとめられる(森岡もりおか 2001: 354)。それでは、なぜ障害しょうがいがあるとわかれば中絶ちゅうぜつしようというかんがかたがあるのか。それは、障害しょうがいをもってまれてくるものわたしたちの社会しゃかい運営うんえいするには不都合ふつごうだからである。すなわち、優生ゆうせいがく底流ていりゅうには、この「わたしたちの都合つごうによって、未来みらい不都合ふつごうろうとすることをあたかも正当せいとう欲望よくぼう」が存在そんざいすることになる。これにどうかっていくかは、むずかしいところである。しかしながら、わたしたちの欲望よくぼう一枚岩いちまいいわではないし、またそうした欲望よくぼうそのものがけっしてぜん否定ひていされるべきだとは、わたしおもわない。森岡もりおかは、優生ゆうせいがく論理ろんり延長えんちょうしていけば、たとえば「裏山うらやまくずれていえ全壊ぜんかいするのをふせぐために、あらかじめ斜面しゃめん補強ほきょう工事こうじをして崖崩がけくずれがおきないようにしておきたいとかんがえる」という「予防よぼうてき無痛むつう」とつながる、とべる(どう: 356)。けれども、直感ちょっかんてきってこれは肯定こうていされてよいのではなかろうか。だとすれば、森岡もりおか一貫いっかんして批判ひはんする「わたしりかかってほしい出来事できごとと、りかかってほしくない出来事できごととを区別くべつし、りかかってほしくない出来事できごときないようにあらかじめ人工じんこうてき細工ざいくをしてもかまわないとするかんがかた」(森岡もりおか 2001: 356)は、優生ゆうせい思想しそうにもその要素ようそがあるが、だからといってそのようなかんがかたそのものを批判ひはんすることには、森岡もりおかとはちがわたし慎重しんちょうである。一方いっぽうでひとはそういうかんがかた批判ひはんてきにとらえ、森岡もりおかう「人工じんこうてき細工ざいく」に抵抗ていこうするようなかんがえもあるだろう。また他方たほうでは、そうしたかんがかたもまた、ひとがよりよくらし、きていくために必要ひつよう場面ばめんがある。たとえば社会しゃかい改良かいりょうはそうしたかんがえのもとですすめられてきたことはいなめない。たしかに、歴史れきし優生ゆうせいがく社会しゃかい改良かいりょうのためにこそ説得せっとくりょくをもって存在そんざいつづけることをおしえる(米本よねもと 2000)。けれども、優生ゆうせいがくは「なにのための社会しゃかい改良かいりょうか」にたいして間違まちがったこたえをしただけではないのか。それはまさに、(1)の立場たちば正義せいぎとするのか、あるいは(2)でかまわないとするのかの分水嶺ぶんすいれいなのである。社会しゃかい改良かいりょうが「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」を正義せいぎとするかんがかた定位ていいするなら、優生ゆうせいがく論理ろんりてき棄却ききゃくされるのである。これによって、「予防よぼう」の意味いみえることができるとわたしかんがえるが、ともあれ、森岡もりおかの「無痛むつう文明ぶんめい」をめぐる議論ぎろんについては、これだけではかたりつくせないので、いずれふかかんがえてみたい。
 本筋ほんすじもどろう。それらをまえたうえで、「生命せいめいとうとさ」こそが基底きていてきにあり、それによって「他者たしゃとともにあろう」とするという理屈りくつだては、間違まちがっている。そのことはすでに説明せつめいしたが、いまひとつの角度かくどからひかりてることにする。
 ベンヤミンによれば、「人間にんげんによる人間にんげん暴力ぼうりょくてき殺害さつがい断罪だんざいを、戒律かいりつから根拠こんきょづけるひとびとは、ただしくない」(Benjamin 1921=1994: 61)。わたしたちは、いまいちこの地点ちてんかえるべきなのである。すなわち、「戒律かいりつからは、行為こういへの判決はんけつてこない」。ころすにせよ、ころさないにせよ、ただそれはたんにころしたりころさないだけなのである。ころされるのは残念ざんねんであり、ころされないのは幸運こううんであった、ただそれだけである。「戒律かいりつ行為こういする個人こじん共同きょうどうたいにとっての判決はんけつ基準きじゅんでもなければ、行為こうい規範きはんでもない」。医療いりょう現場げんばしょうじてくる(とされる)いわゆる「倫理りんり問題もんだいは、患者かんじゃ生命せいめいまもるべく一刻いっこくあらそ状況じょうきょうなかにある。だとしてもベンヤミンのうように「個人こじん共同きょうどうたいは、それ(=戒律かいりつ──引用いんようしゃ註)と孤独こどく対決たいけつせねばならず、非常ひじょうりには、それを度外視どがいしする責任せきにんをもけねばならぬ」。医療いりょう現場げんばは、まさに「非常ひじょう」が「通常つうじょう」であるのが日常にちじょうである。生命せいめい必死ひっしでつなぎ、状態じょうたい改善かいぜんするのが医療いりょう使命しめいであり、戒律かいりつであるとしても、患者かんじゃんでしまうかもしれない。そうした非常時ひじょうじにおいて、どんな規範きはん行為こうい正当せいとうするものではない。
 つぎにベンヤミンは、存在そんざいとたんなる生命せいめいについて、興味深きょうみぶか考察こうさつおこなう。

存在そんざいがたんなる生命せいめい意味いみするにすぎないのなら、(中略ちゅうりゃく存在そんざいのほうがただしい存在そんざいよりもたかくにある、という命題めいだい虚偽きょぎで、下劣げれつだ。けれどもこの命題めいだいは、巨大きょだい真理しんりをもふくんでいる、かりに存在そんざいが(生命せいめいが、というほうがよいが)(中略ちゅうりゃく)「人間にんげん」というかくたる集合しゅうごうたい意味いみするものとするならば。そのときにはこの命題めいだいは、人間にんげん不在ふざいただしい人間にんげんの(むろん、たんなる)到来とうらいよりももっとこわるべきことだ、といおうとしていることになろう。こういうせいがあるから、前記ぜんき命題めいだいにも、もっともらしさがあるわけだ」(Benjamin 1921=1994: 62)

 存在そんざい価値かちとは、存在そんざいそれ自体じたいにあるとはいえない、ということになるだろう。だとしても、存在そんざい価値かちがないとベンヤミンはっているのではない。ここに注意ちゅういしたい。そして、ベンヤミンを敷衍ふえんするならば、存在そんざい価値かちは、むしろなにものにも還元かんげんできず、それ自体じたいとして無条件むじょうけんみとめられ、肯定こうていされるべきなのではないか。
 ベンヤミンはつぎのようにつづける。

人間にんげんというものは、人間にんげんのたんなる生命せいめいとけっして一致いっちするものではないし、人間にんげんのなかのたんなる生命せいめいのみならず、人間にんげん状態じょうたい特性とくせいとをもったなにべつのものとも、さらには、とりかえのきかない肉体にくたいをもった人格じんかくとさえも、一致いっちするものではない。人間にんげんがじつにとうといものだとしても(あるいは、地上ちじょうなま死後しごなまとをつらぬいて人間にんげんのなかに存在そんざいする生命せいめいが、といってもよいが)、それにしても人間にんげん状態じょうたいは、また人間にんげん肉体にくたいてき生命せいめい他人たにんによってきずつけられうる生命せいめいは、じつにけちなものである。こういう生命せいめいは、動物どうぶつ植物しょくぶつ生命せいめいと、本質ほんしつてきにどんなちがいがあるのか? それに、たとえ動植物どうしょくぶつがとうといとしても、たんなる生命せいめいのゆえにとうといとも、生命せいめいにおいてとうといとも、いえはしまい」(Benjamin 1921=1994: 62-63)

 たしかに、「人間にんげんというもの」と「人間にんげんとうとさ」、あるいは「生命せいめい」と「生命せいめいとうとさ」とはちがうものである。しかしながら、「人間にんげんのたんなる生命せいめい」と「人間にんげん状態じょうたい特性とくせい」とは、そう簡単かんたん峻別しゅんべつできるものなのであろうか。むしろ、人間にんげんというものからたんなる生命せいめいだけをすこと、あるいは状態じょうたい特性とくせいだけを列挙れっきょ記述きじゅつすることには困難こんなんがあるのではないか。

「もうひとつかんがえておくべきことは、とうとい、とここでしょうされているものが、古代こだい神話しんわてき思考しこうからすればつみきわめつきのになであるもの、たんなる生命せいめいなのだ、ということである」(Benjamin 1921=1994: 63)

 ベンヤミンはここで生命せいめいとは「つみきわめつきのにな」であるという。たしかにそのとおりである。しかし、「きもりさ」という思想しそうが、「いのちどぅたから」という思想しそうとコインの表裏ひょうり関係かんけいであったように、けっして生命せいめいつみそのものというわけでもない。同様どうように、生命せいめい価値かちすなわちとうとさそのものということでもない。生命せいめいとは、つみになうことによってまさに「きていく」のである。たしかに、死後しご評価ひょうかなどにより生命せいめいなきあとも「生命せいめい価値かち」がのこったりもするが、それはのこったもの視点してんにすぎない。
 ただ、そのことをもって、ベンヤミンが「生命せいめいノトウトサというドグマ」(Benjamin 1921=1994: 63)をかるんじているかといえば、そうではないようにわたしにはおもえる。なぜなら直後ちょくごにおいてベンヤミンはつぎのようにもべているからである。

暴力ぼうりょく批判ひはんろんは、暴力ぼうりょく歴史れきし哲学てつがくである。この歴史れきしの「哲学てつがく」だというわけは、暴力ぼうりょく廃絶はいぜつ理念りねんのみが、そのときどきの暴力ぼうりょくてき事実じじつにたいする批判ひはんてき弁別べんべつてき・かつ決定的けっていてき態度たいど可能かのうにするからだ」(Benjamin 1921=1994: 63)

 わたしもまた、1において「正義せいぎ実行じっこう可能かのうせい」にかんして、同様どうようのことをべた。つまり、上記じょうきのベンヤミンの言明げんめいを、つぎのように解釈かいしゃくしてみるとどうか。すなわち、「生命せいめいノトウトサというドグマのみが、そのときどきの生命せいめいへの暴力ぼうりょくてき介入かいにゅう、あるいは介入かいにゅうにたいする批判ひはんてき弁別べんべつてき・かつ決定的けっていてき態度たいど可能かのうにする」と。医療いりょう現場げんばにおいて現実げんじつ様々さまざま出来事できごとがあったり、技術ぎじゅつの「進歩しんぽ」とともに、ともすれば理念りねんたいして現実げんじつ先行せんこうしてしまうかもしれない。しかしながら、理念りねん現実げんじつ追認ついにんするものであってはならない。もし理念りねんがそうであるとすれば、理念りねん理念りねんたるゆえんはない。そういう意味いみにおいて、「生命せいめいノトウトサというドグマ」という理念りねんは、かかげられつづけねばならないのである。そしてそれは、未来みらいたいするけなのだといいかえてもよいだろう。

おわりに

 本稿ほんこうでは、わたしう「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」の内容ないようくわしく説明せつめいするなかで、生命せいめい価値かち序列じょれつをつけたりするかんがえや、あるいはきることを否定ひていするような、いわばニヒリズムてきかんがえにたいして、どういう立場たちば可能かのうであるかを検討けんとうした。その結果けっか立場たちば(1)?(3)はともに正当せいとう不可能ふかのうなこと、そして、そのなかでしかしなぜ(1)をえらぶのか、について議論ぎろんした。そして、「きもりさ」「いのちどぅたから」の思想しそうと、ベンヤミンの「生命せいめいノトウトサというドグマ」という概念がいねん手掛てがかりに、「なま無条件むじょうけん肯定こうてい」の内容ないようについてべつ角度かくどから説明せつめいこころみた。
 ただやはり、現実げんじつとして希望きぼうったりしんじることが困難こんなんものたいしては、こうしたろんそらるだろう。そのてんについては、今後こんごかんがえていきたい。


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Derrida, Jacques, 1999, Sur parole, instantanes philosophiques, l’Aube.(=はやし好雄よしお森本もりもと和夫かずお本間ほんま邦雄くにおやく,2001,『言葉ことばにのって──哲学てつがくてきスナップショット』,筑摩書房ちくましょぼう.)
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小林こばやし和之かずゆき,2004,『「おろかもの」の正義せいぎろん』,筑摩書房ちくましょぼう
謝花じゃはな直美なおみ,2008,『証言しょうげん 沖縄おきなわ集団しゅうだん自決じけつ」──けいりょうあいだ諸島しょとうなにきたか』,岩波書店いわなみしょてん
森岡もりおか正博まさひろ,2001,『生命せいめいがくなにができるか──脳死のうし・フェミニズム・優生ゆうせい思想しそう』,勁草書房しょぼう
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野崎のさき泰伸やすのぶ,2007,「『なま無条件むじょうけん肯定こうてい』にかんする哲学てつがくてき考察こうさつ──障害しょうがいしゃなまそくして」,大阪府立大学おおさかふりつだいがく博士はかせ学位がくい論文ろんぶん
立岩たていわしん也,2008,『』,筑摩書房ちくましょぼう
Singer, Peter, 1993, Practical Ethics, 2nd. Edition, Cambridge.(=山内やまうち友三郎ともさぶろう塚崎つかさきさとし監訳かんやく,1999,『実践じっせん倫理りんり 新版しんぱん』,昭和堂しょうわどう.)
山口やまぐち真紀まき,2009,「〈自己じこ物語ものがたりろん再考さいこう──アーサー・フランクの議論ぎろん題材だいざいに」,立命館大学りつめいかんだいがく大学院だいがくいん先端せんたん総合そうごう学術がくじゅつ研究けんきゅう『Core Ethics』Vol.5,351-360.
米本よねもと昌平しょうへい松原まつばら洋子ようこ・ぬでじま次郎じろう市野川いちのかわようこう,2000,『優生ゆうせいがく人間にんげん社会しゃかい──生命せいめい科学かがく世紀せいきはどこへかうのか』,講談社こうだんしゃ




UP:20100209 REV:
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