(Translated by https://www.hiragana.jp/)
部落解放運動の過去・現在・未来(5)(インタビュー記録)
部落解放運動の過去・現在・未来(5)――山内政夫氏(柳原銀行記念資料館)に聞く
インタビュー
記録/き
手:
山本 崇記
◇柳原銀行記念資料館
http://suujin.org/yanagihara/
【趣旨】
これは、現在、柳原銀行資料館事務局長を務め、その他様々な地元の住民運動やまちづくりにかかわり続けてきた山内政夫氏に、今後の部落解放運動の展望がどうあるべきかというテーマについて関心に沿いながら行ったインタビュー記録の第5弾である。
【山内政夫氏・略歴】
1950年、京都市東九条生まれ。小学5年生の時から丁稚として働き出す。陶化小学校・陶化中学校卒。17歳のときに自主映画『東九条』の制作に監督として参加。その直後に共産党から除名。工場などで働きながら、地域の青年たちと反差別の運動に取りくむ。30代になってから資格を取り鍼灸師として開業。1984年に部落解放同盟に加入。2003年〜2006年まで部落解放同盟京都市協議会議長を務め、辞任。現在は、柳原銀行記念資料館で地域史(部落史)を丹念に掘り起こしながら展示としても広く発信し、さらに、崇仁・東九条でまちづくりに携わっている。
■はじめに――めまぐるしかったこの一年(2009〜2010年)
<山本>
これまで山内さんに4回にわたって「部落解放運動の過去・現在・未来」ということでインタビューをさせて頂きました。2007年から続けて、今回は5回目ということで、前回も少し時期があったらやりましょうということで終わっていますので、その続編という形で行いたいと思っております。この間の状況、トピックとして大きなものは、やはり「京都市同和行政終結後の行政の在り方総点検委員会」(総点検委員会と略記)の結論が出されまして、それを受けて「ポスト同和行政」というものの可能性を考えていくという議論や運動が各地区で行われている。その中でも山内さんがずっと関わってこられた崇仁と東九条にやはり改めて焦点をあてて、この1年間、非常にめまぐるしかったと思うんですけども、振り返りながら今後のまちづくりや住民運動あるいは行政施策の課題と方向性についてお考えをお聞きしていきたいなというふうに思っております。どうぞよろしくお願いします。
<山内>
はい、わかりました。
<山本>
早速なんですけれども、総点検委員会の中でも唯一事業が終わってない地域として、崇仁地区特に北部第3・4地区の事業をどういうふうに進めていくのかということが非常に大きな課題としてあげられていたと思います。その中で専門家や市民も参加する形で設置された総点検委員会でも報告書の中に触れられていて崇仁地区における改良事業は、2009年9月に京都市の「崇仁地区将来ビジョン検討委員会」(ビジョン検討委員会と略記)というものが具体的に設置され議論が再開されました。★1
2010年3月までに6回の会議を重ねているということで、コンサルも入って有識者も入って「報告書」(素案)を出されました。このビジョン検討委員会の設置に関わる経緯や総点検委員会以降の崇仁地区の雰囲気が気になります。当初はコミュニティセンター(コミセン)が廃止されるというか、京都市の職員が撤退するということで、非常に混乱するんじゃないかということが去年の冬から春にかけて心配されたと思うんですけども、あんまり大きな混乱はなかったというふうにも聞いています。ビジョン検討委員会の設置までの去年の春から夏にかけて崇仁地区ではどういうふうな状況があり、またこのビジョン検討委員会ではどんな議論がなされていたのかというのを聞かせていただきたいと思うんですけども、いかがでしょうか。
<山内>
まず、その前に一言触れておきたいことがあるんですが、この間、京都市の人権文化推進課と一緒になって取組んできた柳原銀行記念資料館特別展第21回の展示(「永久なれ崇仁小学校」)、さらに人権啓発ということで、講演会で喋らせてもらい、そこでもう一度柳原銀行が出きた経過や地域との関わりあいとか学校の関わり合いがかなり頭の中で整理されたんで、特に企業に対する啓発ということで、柳原銀行の活動が単に地区だけをよくするという話ではなくて、やはり市内全体に対する影響を伴う社会事業だったという側面を持っていたということがわかって、かなり頭の中が整理されたということがありました。その辺が今後の運動を考える上でかなり参考になっ。以前にもそういうことに取り組んできた経過はありますけれども、もう一度頭の中を整理することができたということで、人権文化推進課の担当者の方々にはお礼を述べたいとこう思うわけです。
<山本>
つまり今後のまちづくりを考える上でも柳原銀行が取組んできた活動にあらためて参照することで、次の指針の参考にもなるような機会をあらためて与えられたというような形ですかね。はい。ホームページでも読めるようになっているので、リンクしておきたいと思います。★2
<山内>
ぜひ多くの人に読んでもらいたいなと思います。
<山本>
それから、解放出版社から出ている雑誌『部落解放』(→外部リンク)にも近日に山内さんの文章が載るということですので、そちらの方もぜひ読んでいただきたいと思います。
■総点検委員会以降――「ポスト同和行政」の推移
<山内>
その辺の話を前提にするということで特にコミュニティセンターから職員がいなくなるということなんですけども、当初は混乱が起きる。なんせ年度末の3月をもって12人の職員がいなくなるわけだから、常識的に考えてもかなり地域の人は困るとか、多分そういうことが出てくるだろうなと思いました。しかし、自治連合会会長が各団体を集めて、ええか悪いかは別にしても確実にコミセンには京都市の職員がいなくなるだろうから、早いうちに自分たち準備をするようにと呼びかけ、自分たちで方向性を定めて自力でやろうという話があったんでね。そういうことが多分京都市の方にも伝わったんだろうということで、その点が評価されたということもやっぱり事業が継続されて、改良事業の完了と空地の活用のために議論が再開されたのだろうと思います。
もちろんそれだけじゃなくてね、3団体が集まってまちづくりを行政とのパートナーシップを通じて進めて大きな成果を上げたということも、やっぱり京都市長はじめトップの人がそういうまちづくりやりきろうということだったんでしょう。部落解放運動が強いとか弱いとかそういう話しではなくて、そういう運動とは全く違う軸を中心にして進もうとしている。それは崇仁だけの話しじゃなくて、東九条地域を再度活性化することによって部落問題を解決するということが関連している。部落解放運動の普遍性を通じて運動をしていくという崇仁のスタンスでこれでよかったなというふうに思っています。
<山本>
その過程でビジョン検討委員会がなかなか始まらず、多少の遅れもあったという話も聞きおよんでいるのですけども、自治連を中心にしながらまわりで解放団体がそれを支えながら自立した運動をしていくという方向性を、自治連の会長さんがいつも強調されているのが印象的で、行政依存ではなく、あくまでNPO(崇仁まちづくりの会)が中心で、あるいは、崇仁まちづくり推進委員会が中心でやっていくんだという気概を示されていらっしゃると思います。その中でもビジョン検討委員会という流れの中で、どのように進んでいこうというふうにして集っているのかについてお聞きしたいと思います。
<山内>
総点検委員会で、奨学金の問題とか、様々な問題の見直しがされて、普通の市民それから有識者、行政から見てもその見直しは当然起こってくるという必然性の中で、いろんな人がオープンに議論したということで推移しました。しかし崇仁にしてもせっかくこの何年かでやっているコミセンの市職員の配置は間違いないんで、そう考えれば、結果的に混乱しなかったわけだから、結果的にはオーライかなと思っています。ただし、そういう結論に至るまでは混乱したし、奨学金の問題なんかでかなりしんどい思いをした人、これからしんどい思いをする人もある。その問題も抱えながら長期にわたる議論があって、人権文化推進担当もその辺はかなり水面下で努力されたなという感じはあって、混乱はあったけども、結果的に崇仁のまちづくりをもう1回見直そうということで、三村浩史委員長を先頭にして、様々な専門家にも入ってもらい議論しました。
最初は崇仁の現状のおさらいということで、改良事業がどのように推移したのか、併せて人口減少の原因についても示すということもあって、かなり議論しました。ただ、そこから見えてくるのはやっぱり崇仁まちづくり推進委員会があってよかったなということです。これがなければどういうまちになっていたかということは、ちょっと想像がつかない。組織があり、住民が主導権を持ってやったということは、やっぱり大きかったな。改めてこのビジョン検討委員会の議論の際に痛感しました。ビジョン検討委員会には地元から役員が2人ほど入っています。これについてもね、地元では喧々諤々の議論をした結果、やっぱり会長と事務局長を送りだそうということで、ただ行政の方にはこの間の経緯を丁寧に説明をしてもらおうということで、しんどかったけども、崇仁まちづくり推進委員会の原点にかえってね、もう一度、団結することができたという意味では大きかったと思います。
<山本>
総点検委員会のときに崇仁まちづくり推進委員会が会議の場をボイコットしたり、いろいろ批判的な意見書を出したりと、緊張感が高まりました。行政の進め方に対しては結構異議が挙がっており、昨年3月に報告書が出たときはいろいろ大変だったと思うんです。それから、あらためてビジョン検討委員会という土俵にのってみて、地域が団結して、地域が主導権を持って進めていくということに転じれた大きな要因というのはどんなところにあるのでしょうか。
<山内>
厳しい場面やから、考え方の違う団体が集まっているんだから当然意見の違いはあって、抗議もするし、ものを申すけども、地元としては最終的にすることはしましょうと。それを各役員が自覚に基づいてよく考えて旧来の運動のスタイルでこれからのまちづくりに通用するのかどうか、その辺を冷静に考える時間が一方ではあったということが幸いしたのかなと思っています。やっぱり大きいのは、崇仁まちづくり推進委員会が立ちあがるときに、団体の意見を整理して地元の意見を中心にして構築しようとし、この原点にかえってもう1回、議論をするということが大きかった。ただ、行政とのパートナーシップということについては、その内実が本当のパートナーシップではなくて、行政がかなり段取りに動いていた。そういう現実に崇仁まちづくり推進委員会としても直面したことで、より現実的に対応をしようということで、結果論かもしれないけど、やっぱりごく当たり前で自然な結論になったということだと思います。厳しかったけども、運動の考え方にたった利害よりも、地元に住んでいる人の利害に立って、市民の利害に立って、もう一度、崇仁のまちづくりを考えたということでここまでやってきたと、わたしは思っていますね。
■崇仁地区将来ビジョン検討委員会
<山本>
ビジョン検討委員会が9月にできて報告書が今年の3月にできるというのは、かなりのハイスピードで、計6回の議論がありましたが、いい意味でもその期間というのはある程度地域が原点に立ち戻れる機会になったのかなという感じでしょうか。それでは、その6回の会議について、総点検委員会と比較してみて、どんな印象を持たれたでしょうか。
<山内>
総点検委員会とは似て非なるもの。総点検委員会はやっぱり戦略がきちっとあって、学識経験者の 意見を聞くということだけども、シナリオが多分あっただろうと思う。行政側にね。それはやっぱり当然でしょう。京都市内全体のことを考えるわけだから、幅広く議論しなきゃいけない。このままではいかんだろうし、厳しい財政状況の中でやっぱり住宅室もそうだし、人権文化推進課もそうやけど、部落問題に関わった人ばっかりやから、良い悪いの区別は相当にあって、今引いた方が部落の自律につながって、腰がすわっていくみたいな考え方も多分あっただろうし、それは戦略があったと、はっきりとね。
しかし、ビジョン検討委員会はむしろそうはなくて、良いか悪いかについて各委員さんに任せるみたいなところがあってね、かなり話があっちに飛びこっちに飛び、ということがあったのは事実だね。しかし、専門家が関わってんやから、当然やろう。各委員さんも地元にはいろいろ気を使われていたよね、当初は。あまりはっきりものを言われへんこともあったけど、中盤から後半にかけてはね、はっきり地元にものを言うということがあって、その分、京都市としてはかなりしんどかったやろうとは思うけども、しかし、早く改良事業の完了とできた空地について、新しい事業を持ってきて進めるということで、頑張ったのかなとも思います。
あとは買収した土地の活用はなかなか難しいよね。利活用するなら、ここら辺でだいたい市民も利活用できる、そういうものを持ってくるとかいくつか案はあるけどね、それはこれからやね。ただ、第6回が済んだ時点で新しい概念として出てきたのは、「エリアマネージメント」ということ言葉。しかし、よう考えれば、昔から地元の人が工場をつくるとか、そのために土地を売り出すとか、軍用の靴をたくさん販売するとか、銀行を作るとか、大きな倉庫を作るとか、商品館を作るとか、理容院を作るとか、そういうふうにしてやってきたということからいうと、やっぱり冒頭ちょっと話したように明石民蔵の実践なんかにヒントがあるように思う。そんな話が、それがこれから6回目が済んで7回、8回と5月、6月ぐらいに整理がつくやろうけど、ようやく地元の人が力を発揮するような場がきたのかなと思います。ただ、明治の人などはしっかりとお金を持っていた。今の崇仁まちづくり推進委員会は、やっぱりお金はあんまり持ってませんわ。これが大きな違いかな。
<山本>
会議自体はまだ6回で終わりということではなくて、一応7、8回と続くのですね。報告書の完成というか、ビジョン検討委員会の終了はどういうめどで予定されているのでしょうか。
<山内>
8回ぐらいで終わるのかなという感じ。だからあと2回ぐらい。
<山本>
その8回の後は、報告書案がどういうかたちで庁内なり、市議会にあげられていくというふうに考えればよいのでしょうか。
<山内>
そうやね、有識者の人、委員の人が一定の結論を出して、行政がそこでの意見を調整し、そこで練り上げたものを採決してもらうということになるのかなと思うよ。
<山本>
その報告書(素案、2010年4月公開)の評価をしていただいたんですけども、一応報告書のタイトルがタイトルというか、まちづくりのテーマが創造・交流・にぎわいの街・
人と地域をつなぐまちづくりということになっており、4点ですね。先ほど言われたような北部全体を視野に入れた将来ビジョンを元に、多様な住宅供給と最後の改良事業の早期完了、土地区画整備事業との合併施行で10年間ぐらいのスパンで進めていくという骨子になっているようです。総点検委員会でも提起されたような事業計画を試みてもいいんではないかということは、三村さんなんかや何人かの委員さんでそういうことを経験した方々からも提起されていたようですね。
議事録などを拝見すると、崇仁の自治連合会会長もかなり事業形態の在り方に関しては、いろいろ模索してご苦労されてきたということですし、行政の方も財源の問題をしばしば強調はされていますけれども、「まずは夢のある」といったですね、計画を出していこうというような雰囲気の中で、「クリエイティブシティ」みたいな言葉も出てきていました。後で話題になるだろう東九条なんかでも極めて財源の問題が強調され、事業計画を見直すイメージを制約したような印象もあるんですけども、その辺、土地区画整備事業というのは、改良事業という大きな「足かせ」を超えていくものとして現実化味があるのかというのはどれくらい可能性があるものなのでしょうか。ちょっとなかなか想像できないところでもあるんですけども、京都市の方はどういうふうにこれを具体化していく戦略を持とうとしているのか、また、ビジョン検討委員会は助言をしているのか。いかがでしょうか。
<山内>
虫食いになっている土地を1ヶ所に集めるということは、これはどうやっても考えていかなければならないことで、そのたびに京都市も職員の配置をそういうふうにして、その土地区画整備事業の専門のね、職員をおくということをやっている。かなり本気でしているという感じやね。買収をするときもかなり拍車がかかってくるやろうし、ビジョン検討委員会の結果を受けて崇仁まちづくり推進委員会でも議論しているけれども、その土地を何に使うのやという点がまだつめきれてない。それではやっぱりあかん。多分、京都市も悪いけども、結局地元がね、考え方を示していかなあかんのかなということやから、崇仁まちづくり推進委員会の足腰を強化するということにかかっている。
委員会をこっちに持ってきたとしてもそれは周辺の町をひっくるめて、・・・かなりされているんで、そういうことかなと。ただ、総点検委員会で言われたように、どうせなら民間活力導入して、大きなプロジェクトいうことで、京都駅を中心に再開発を考えていく必要があるということがビジョン検討委員会で議論されてきてもね、それを超えることにはまだなっていない。それについては、やっぱりまだこれまでの考え方が行政の中にもあって、そういうハードルは残されたままですわ。そこは具体的に地元も行政も1年前に置かれたハードルを超えていく、これは私もひっくるめてやけど、真剣に考えなあかんということやろうと思っています。
<山本>
今後の合併施行による改良事業も早期完了を10年を前提にするとか、あるいは土地の利活用に関しても20年、30年ぐらいの期間を少しめどにしていくということが書かれて報告書(素案)の中に書かれていて、行政の方も芸術・産業・福祉・文化・環境・都市計画といった多方面にわたる課題に取り組む体制を確立しなきゃいかんという意味では、行政の方も、旧来の責任者がまちづくりの会議に来ているということは、当然各部署から来ていると思うんですけども、簡単に推進体制といっても相当に難しいことが予想されます。旧民生局なんかでも、ある種の調整機関として機能しており、総点検委員会でも「総合行政」として評価されていました。しかし、問題もあったわけで、その点を超えていくような推進体制を、いったいどういうふうに構想するのか。行政にもすごく知恵が求められている部分でもあるし、地元も先手を求められているところもあるのでしょうし、その辺りはいかがでしょうか。
<山内>
一部には同和事業をする中でやられたような総合行政と、そういう推進体制を評価する人もあるけども、そうではなくて、京都駅前に近いというね、この立地条件の中で産業振興のために京都全体を活性化するようなことをするための推進体制みたいな、その辺が非常に勝負となる可能性があるのかなと思っています。その中で地元がどれだけ存在感を出すことができるかが勝負の分かれ目ね。だからやっぱり明石民蔵がやったようにね、地元からお金を集めてそれを基本にしてね、新しい事業を展開するということをなくしては語れんのちゃうかなと思っています。
<山本>
そういう意味では、行政とのパートナーシップを90年代後半から形成してきて、まちづくり計画も作ってという評価が自ずら上は出てくるわけですけれども、さっきの厳しいパートナーシップの現実が行政依存的な体質を超えられているかどうかというのは、まだまだ厳しい部分もあるというようなことが、報告書(素案)の中でも「行政主導型」という言葉で総括されてしまっている点に現れていると思いました。その後に「真」のパートナーシップがあって、その後に住民指導がやってくるというイメージですね。そういう意味では、確かに住民指導であるということが求められている段階なのかなというふうに報告書を読みました。
もう1つお聞きしたいんですけど、いわゆる「クリエイティブシティ」というようなキーワードなんかも出てきて、例えば京都市立芸大のサテライトを崇仁小学校跡に持ってきてみてはどうかというような芸術文化を創造するアーティストたちを集めて創造していくような新しい文化を創造していけるような可能性が歴史的にも京都の駅の中心的な地域の近くということもあって、非常に可能性としてポテンシャル持っているということが書かれています。その中で地元の産業を「環境産業」というようなものにしていく、あるいは「文化産業」というものを充実させていくというようなことが書いてはあるんですけども、やっぱりいろんな地域でも地場産業みたいなものがないとなかなか地域の活力というのは生まれない。その辺の外から入ってくる知恵や活力を生かすということも大事ですが、地域に元々あった皮革産業や製靴業などによって地元の財が蓄えられて、柳原銀行の資金源になったという時代の流れと才覚を見直すのなら、ビジョン検討委員会の報告書(素案)は物足らないのではないでしょうか。
各都市の事例を紹介し、結局は外からの活力を生かしてそれを十分機能させていくような条件をどういうふうに整えていくのかというようなイメージで提案されているようなところがあるんですけども、地場産業というとちょっと堅いい方になるかもしれないんですけど、ある種の経済活動、地域産業ですね。地元の高齢化とも関係したり、いろいろ商店がなかなかたちゆかなくなったりとかいう状況が崇仁でもあると思うのですが、、その辺の資金の作り方、財の成した方をどのように構想されていくのかという話が、ビジョン検討委員会の中では十分にされたりとかはしたのでしょうか。
<山内>
いや、まだそこまではいってないね。
<山本>
なかなか難しいということですね。
<山内>
それはまだこれからの話で、それの仔細をになうべくNPO法人崇仁まちづくりの会がもう少しいろいろ整理してからしないと、そういう話には多分なってこないだろう。地場産業のこともひっくるめて、様々な可能性について今協議をしているんだよ。その中でより鮮明になってきているのは、エリアマネージメント、自分たちがどういう絵を書くかということで、白い大きな紙とマジックペンと線引きが与えられた。それをどこでどういう線を引くかなということだと思っているのね。マジックとはいかんでも線引きだけぐらいだったらできると思っているんだけどね。その線の先には東九条との連携ということもひっくるめて大きな絵を書かなあかんやろということを確認したぐらいかなという感じです。
<山本>
稚松の自治連合会の会長さんも委員となって、積極的に発言されているのが印象的だったのですが、北部地域のエリアマネージメントというと、いわゆる東山区であるとか、下京区が範囲となり、東山区の三十三間堂までのエリア、人の動線ですよね。そういう人の流れを生かせないかという点で北部地区の開発をイメージしています。しかし、もう既に着々と進められ、そして、歴史的により深い関係にあった東九条との関係については、ビジョン検討委員会の中でもそこまで事情も知られていないというか、あんまり注目がされていないというか。北部を中心にするのが大前提ですので、当然なのですが、実は南部にかなりの可能性が出てきはじめているし、「うるおい館」のデイサービスの事業委託を受けているカリタス会は、東九条・崇仁・松原・島原と展開している。また、児童館・保育園での交流も崇仁と東九条ではなされていますので、その点も生かされたらいいのかなというふうに思っているのですが、いかがでしょうか。
<山内>
京都駅を挟んで南北はかなりいろんなことが活発化しているが、東の部分だけがただの空白という状態で、それを超えて東山の方に少しは流れているという状況から、そこをどう埋めるかという話でその辺のエリアについてマネージメントを崇仁の人が計画案の上に立ってマジックと線引きを持ってどういう絵を書くのかなと。大学の誘致もあらゆる可能性があります。それについて地元崇仁の活性化も含めてどうするか。やっぱり軸になるのは一つはやっぱりNPOだし、それから東九条でも地元がまちづくり会社みたいなものを起こして、その辺の行政が絵を書くという話はそんなものなくて、それは飛び越えて、地元同士がね、議論しあう必要があるのかな。それの準備がね、着々としていると。その理念とかね、方向性について京都市も創造・交流・にぎわいのまち、人と地域をつなぐまちづくりということを言っているけど、これは実は東九条のまちづくりの動きからから多分ぱくっているというか、まねしているというかね(笑)。そういうレヴェルのものではあります。
<山本>
なるほど。ある程度東九条のことが頭にあって、崇仁でもということがあるということですね。そういった中で、この報告書にも一ヶ所だけ触れられていたと思うんですけれども、柳原銀行記念資料館の前に国道24号線が通っていますが、そのわきに通りも整備されて、ここを使って新たな取り組みをされようとしているいうふうに聞いているんですけども、それも先ほども、今も話に出た東九条での自主的な取り組みの経験との交流を図りながら、人的にも施設的にも関係を密にしていこうと、山内さんが発案されている計画がされているということを聞いているんですけども、少しその件に関してはどんな準備をされているかお聞きしたいんですけども。
<山内>
崇仁の高齢者対策のネットワークのなかで話し合って、その辺を軸に「楽市楽座」、正式に言うとローマ字で「KYOTO・R24八条坊門楽市楽座」(→外部リンク)を行う。ちょうど、国道の八条のあたりは東九条と崇仁の交流の地点でもあって、それがようやく同和事業の終結で新しいまちづくりの始まりの機運が盛り上がってきて、自然発生的に高齢者ネットワークには以前の会長さんはじめ、東九条の施設である希望の家やうるおい館、ここらがつながって、これを軸に周辺の人にもいろいろ関わってもらって店を出してもらうのを含めて、お祭りをしようということです。ただ、行政に支援してもらうという話じゃなくて、うちにきて主体も立ちあげて今やっているということでね、これから崇仁と東九条のまちづくりの場所、そういうまさにエリアを活用する第一歩ですわ。それは自然発生的に必要性があってそれぞれが主体となって、つながっていく。まとめると、(1)それぞれの人口が減少している。(2)それぞれの地域がまだまちづくりをしようという情熱を持っている。(3)かつて歴史的にみてもそれぞれが一つの地域であるということからすると、必然性を持っているよね。だから、明石民蔵がやったように他の地区との連携、助け合いするのが大事ですね。
そうそういうことなんかでもね、地元からそういう情報発信して崇仁地区だけじゃなくてね、やっぱり周辺の人やいろんな社会的なハンディを抱えている人らとね、手を結びあって、その核みたいになればいいなと。着々とうまくいってますね。
<山本>
じゃこれはもうぜひこうご期待ということで、誰でも参加してほしいということですね。塩小路から京都駅東に歩いていけば5分から10分ぐらいで着くところなので、ここはぜひ、塩小路から崇仁地区が入っていくところで、6月の日にちは決まってましたでしょうか。
<山内>
6月13日です。
<山本>
この日は、柳原銀行記念資料館は開きますか。
<山内>
オープンです。
<山本>
オープンですか。じゃそちらにもぜひご来場いただいてということで、これが崇仁小学校が閉校し、地域のシンボルである小学校でこれまでやっていた春のお祭りなんかもあったと思うんですけども、そういういろんな情勢の変化の中で互いの地域の交流を通してお互いにネットワークを広げていく。情報発信もしていくということの大きな一歩という位置づけがあるという感じでしょうか。
<山内>
はい、そういうことですね。
■コミュニティセンターの転用
<山本>
ありがとうございます。崇仁地区のビジョン検討委員会については、だいたい以上のような感じでお話を聞かせていただいたんですけども、もう1つはコミュニティセンターの転用の問題が総点検委員会で大きな課題として提起されていてました。この1年間では、主に楽只、岡崎、吉祥院、上花田、改進という5地区でコミュニティセンター転用計画の素案が出て、市民意見を募集して地元説明会をするということが行われてきたことは山内さんもよくご存じのことかと思いますので、主に京都市の人権文化が担当して、進めているわけですけれども、意見募集の結果を見ると、417通、513件の意見があったようです。★3
地元ないし市民の意見としてはやはり貸館業務を継続してほしいというような要望であるとか、説明がもう少し丁寧にされるべきではないかとか、今でもサークル等で貸館を使っているのでなくなるとちょっと行き場所がないとか、かつての相談事業をなくすのではなく復活させてほしい、図書館事業を復活させてほしいというような声が多かったように思います。京都市としては、地元にある取り組み、吉祥院であったら六祭念仏であったり、千本であれば人権施設ツラッティであったり、そういうものを生かしながら近隣の施設に大学等のサテライト教室であったり、人権関係の新たな施設として転用していこうという方針が出されはじめていて、他のコミセン関しても今年度でコミセン条例が廃止されるという予定になっていますので、めまぐるしい状況になると思います。崇仁のコミセンに関しても避けられない課題だと思うのですが、山内さんのお考えをお聞かせください。
<山内>
まず、コミセンの問題で問われるのは、運動なり地元が今まで蓄積してきたものがいったい何であったのかということが問われていた。生活相談業務は廃止されたわけだから、しかしかろうじて社会的にしんどい人々のために使っていくということが少し丁寧にあるいは根本的にそういう議論もされる中にあると。やっぱり今から14、15年前に立命館のリム・ボン教授がね、各地区のまちづくりの診断をしたときに、各地区のおかれている状況を詳しく分析し、改めてよい場所に施設があるわけだから、周辺の人とも一緒になって使えるようにしようということになった。各地区ごとに丁寧に触れて、運動に提起してくれた。
その辺を丁寧に運動がもう一度思いだして、各地区での考え方が出てこないといけない。しかし、全然やっている形跡がない。部落解放運動には普遍性があると言われてきた。他の社会的に弱い人、差別された人にとっても重要な問題なんで、その手本みたいなものを作っていこうということだから、部落解放運動も社会的に評価された時代があって、これはあえてそういう時代があったという話なのね。今そうはなってないということがもちろん前提なのね。としたら今まさに各地区のコミセンの中身をめぐってね、そういう方針方向を出していくべき。それは運動にとって全然悪い話じゃなくて、地元の人にとってマイナスな話じゃなくて、それを感情論だけで進めるとますます厳しい場面がこれからくる。むしろ結構なことなんであってね。
<山本>
転用がということでしょうか。
<山内>
そう、転用がね。明石民蔵がやったように転用の中身に関してね、地元なり運動のリーダーシップをとって今の社会的状況でいうと、たとえば「反貧困」とかね、そのような問題があることを自覚してやるということがない以上は、これは負けや。多分、人権文化推進課の方が先手で進めていて、地元からはいろんな意見はあるけど、これから集めようというね。こういう人たちが感情論だけじゃなくて、それも踏まえて、あるいはむしろもっと言うと、崇仁と東九条とが経験したように、地元の運動は社会的にも尊敬される関係を築かないといけない。そうでないと力関係でいうと行政に対して負けやね。そういうことを議論したことをみんな忘れてしまっている。それが、ちょっと不愉快だね。
<山本>
行政依存というように行政から総括されている一方で行政にいろいろなんというのか、責任を取らせるということと、一方で行政が主導しすぎることに対して、地元の説明がやっぱり足りないであるとか、やっぱり地元のニーズをきっちり把握してないということが言われるということなので、だけど行政の方も住民が指導していかない以上は行政がある程度絵を書いて出さざるをえないような局面が当然、京都市の事業であれば、どうしても行政主導になってしまうので、そこに行政の責任なので行政がでばってくることに関しては、なんというか住民の方ものっかってしまっているところに依存というふうに言われてしまうような構造があるような感じがして、いわゆる行政主導と行政依存というものが何か全然あいいれないというわけではないんですけども、違うもののように見えながらも実はこう一種の悪循環となってしまっていて、なかなかそこから双方が抜け出せない。
行政主導ではなく住民主導であり、依存ではなく自立的にものごとを進めていくということだと思うんですけども、なかなかそういうのがコミセンの転用に関しても、行政が主導していかざるをえないような体質があって、住民側がリードできていないという課題が地元に投げかけられているのかなというふうに受け止めたりもしたんですけども、その崇仁では今年コミセンの転用に関しては大きく課題になってくるとは思うんですけども、その辺うるおい館という非常に素晴らしい施設を2007年ですかね、つくって新たな再スタートを切ったと思うんですけども、その直後にコミセン廃止という方向性が総点検委員会に出されて、いわゆる運動の蓄積というのをどう生かすのかというのは特に崇仁であれば本当にいいものを作ったばかりなので問われていると思うんですけども、どのようにに進めていく、あるいは推移していくというふうにお考えでしょうか。
<山内>
4月20日に説明会があって、そういう意味ではむしろ住民なり周囲の意見を聞くというね、「お聞きする」と聞いています。それで今このインタビューを受けている段階ではまだ行われていないんですけども。デイサービスや地域包括支援センターがあって、それが残るだけではなくて、周辺の施設も含めて昼間に利用して、それぞれ個別に応じて支援するということをしているわけだけども、これをどうみるかというのをね、地元からも行政からも議論できておらず、現場ではかなりのことやっているわけです。
<山本>
そうですね、なんかすごく忙しそうに若い人から行政の人も含めてですかね、忙しそうに動いてはるという印象がここに来るとあります。
<山内>
だから崇仁も少子高齢化が進んで、非常に特殊な環境の中であるということだけど、これはかなりうるおいと地域包括によってね、かなり対応できていると。だから生活環境は改善し、旧のコミセンの一般職員じゃ対応できへんことも、専門的に対応する職員や生活相談業務につなげるということもできているし、何よりもデイサービスセンターでね、かなり崇仁の人が来て、そこで昼ご飯食べて風呂入って、楽しくかなりいわゆるかっこつきやけど、「面倒をみる」ことができている。介護保険やけどね。しかしそれはかなり地元のために役に立っていると。これをさらに充実することが求められている。さらにそれは高齢者だけの問題じゃなくて、相談持っている人の対応もできるようなということもひっくるめてね。
それと、崇仁が持っている大きな財産としてはやっぱり歴史。これと柳原銀行があってかなりの資料がある。これを軸に明石民蔵とか櫻田義兵衛など、運動のリーダーが言うているように崇仁にはこういうものがある。こういうものがあるから、おいでませ、おているぐらいで、そのようなエリアマネージメントを行政に対して意見があるということを言うべきだと思う。行政に意見を言うということだけどね、行政にやってくれはなくて、我々がこうするから行政はこうしないと、これを言わないと、究極的にはね、行政も含むその背後にいる委員さんも含む、京都市民も入れてそういう人に対して説得できるものをね、出すべきだと思う。それは別に新しく考えても、部落解放運動の中にずっと入っていくわけだからね、差別の問題を解消するにつけて。それで批判的な意見だから、そこのところをもう1回繰り返せばいいんでね。それはやっぱり今度は丁寧に議論しましょうと。行政に厳しく言ってもこれはなんら進展しない。その主体性がないからね。世間はあまくないから。
<山本>
山内さん自身も崇仁のお年寄りだけではなくて、いわゆる稚松や菊浜など、北部の患者さんというか、高齢者の方に対する治療なんかもされているというふうに聞いているんですけども、崇仁のうるおいのデイサービスの車が、いわゆる崇仁地区だけじゃなくて、いろんなところで走っているのをよく見かけます。ビジョン検討委員会でも崇仁には子どもが少ないということが危惧されていたように思うんですけども、例えば、同じように東九条であるということやカトリックであるということや多文化共生を中心に保育をしているということなどもあって、いろいろやっぱり入園を敬遠する方もまだまだいないわけではないという厳しい状況にあるカトリックの保育園が、職員がいろんなところに入園募集のちらしを配り、100人近い園児たちがあそこの園に集っているようです。それを通じて、また地域に人が入ってきて、そこで暮らすということも出てくると、少子高齢化にとっても大きな突破口になると思うんですけども、そういう高齢者と子どもたちを地域にどんどん引きこんでいく可能性としては、地区を横断していくような取り組みとして既にうるおい館のデイサービスなどで展開しています。
コミセンはデイサービスなんかで活用しているということや地域包括で活用しているということがある一方で、大変充実した設備が十分に活用し切れていないという側面もあると聞いていますが、そういう側面を今後どういうふうに生かしていくような形が考えられるのか、聞かせていただけますでしょうか。
<山内>
少なくとも大学の誘致、それから福祉施設の誘致いうことも含めると、そのような事業ということをするべきだよね。まず一つは歴史の関係でいうともう少し柳原銀行記念資料館にある資料を生かしたい。京都の部落の資料もまだまだばらばらなんでそれをちょうど境地市内の真ん中にあるコミセンに集約するということも考えられる。もう一つはやっぱり、今述べたように大学との関係であって、龍谷大学も近くにあるのだから、もっと連携してみることがあってもいい。障害者の自立の支援事業そういうことも東九条では考えているけど、そういうものがあってもいいやろうしね。だから多文化共生ということを前提にして魅力のあるものにせなあかん。それをうまくコーディネートするということが、地元に求められている。もうちょっと先に進めばね、具体化してくると思いますわ。
■東九条の多文化共生のまちづくり(続)
<山本>
なるほど。ひと・まち交流館がすぐ北にあありますが、いつも稼働率が高くて、本当にいっぱいいっぱいで、そこを利用できなかった人が例えばここのうるおい館を使えるということがわかれば、コミセンの活用につながり、市民活動のセンターのようにもなり得るわけですよね。ひと・まち交流館いつもアクセスが悪くて、行きにくいという人がいるんですけど、それでも本当にいつも満室なんで、そういう意味ではまだまだコミセンとしても、そういう貸し館施設と連携して有効活用していく可能性があるということなんですね。
それでいくつかこれまでの話の中にも出てきた東九条地区でのまちづくりに関してもお話をお聞きしていきたいんですけども、前回のときには生活館といういわゆる部落であれば、コミュニティセンターといわれるような機能を持った施設から市職員が同じように撤退していて、総点検委員会の影響というのは、被差別部落ではない東九条においても非常に大きかった状況があったと思います。ただ、その生活館がどういう事業をしてきたのかということは、総括がない中で何はなくとも職員が撤退し、年度末には廃止されることになっています。その中で東九条に関してもまちづくりの一環として東九条の事業計画の見直しということが進められ、コンサルも入ってかなり密な議論をされてきたというふうに思います。特にこの2009年から2010年にかけてですけども、東九条では具体的にはどういう展開があったのか。そのあたりからお話を聞かせていただきたいのですが、いかがでしょうか。
<山内>
確か前回のインタビューの最後の場面で東九条でのまちづくりの計画がもう少し進めばさらなるインタビューを受けようということで終わりましたね。今からその続きの話をしたいと思います。前回のインタビューが昨年の6月ぐらいかな、そのあたりから東九条のまちづくりの見直し計画の作成を委託されたコンサルが、8月31日に見直し案の第一稿を持ってきた。これが全然話にならない内容で突き返した。さらに8月、9月、10月ぐらいに話をつめようということで、進めてきましたけど、やはり財政的な問題が京都市にはあってね、なかなか事業計画の見直しも空地の活用、土地の買収も暗礁にのりあげてきたという状況でした。しかし、その状況があったにしてもね、いまさらお金なんてないんだからということを前提にすれば、必要ないものは必要ないということで言えば、「東九条多文化共生・地域交流センター」でできることに絞り込んでいく。さらに空地や園の利活用の仕方についても様々な人が入ってくるような交流のための施設ね。それから、特養老人ホーム・デイサービス、それから民間の介護保険の会社、それから公的な機関とあるので、そういう人たちが中心になって医療のネットワークを作るとか、いろいろやれることはある。
例えば、公園をそのような考え方で、知恵を出すためのワークショップをやろうとなっており、園芸療法など、認知症に効果があるとされているようなかたちを地域と医療関係の人というかな、施設関係の人が集まって作れればいいなと考えています。さらに、北部の空地に関しても、地域交流センターと連携するような活用をしていこうと。この3つぐらいに絞りつつ、北側の土地は大学の誘致や定期借地権付分譲マンションの建設、また、住戸の管理など、これからそういうものを中心にして周りの人がいろいろ集まってくるような仕掛けをね、だから崇仁からずっときて急に東九条に変わるという話ではなくて、一体化したような取り組みができればと思っています。
<山本>
崇仁南部と東九条北部は、確かにエリアとしては重なっていますね。もともとは同じ行政区(下京区――1918〜1955年まで)でしたし。
<山内>
そういうことができればいいのかなということで、行政が連れてきたコンサルに早く絵をかけと言ったんだけど、ちょっと言いすぎた側面があってね。
<山本>
い過ぎですか?
<山内>
東九条でもそういう傾向があって、なかなか財政問題があって京都市が身動きできなくて、最初の段階で躓きつつ、一方で働きかけながら、見直し案をまとめてきたということで、年度末を迎えることができた。
<山本>
まさに同じようなペースで崇仁と東九条に関して、まちづくりをめぐる動きが推移してきたんですね。東九条だと、昨年の7月ぐらいに多文化共生の事業提案を地元から、あらけずりであっても出してみようということで、コンサルや行政がアクションを起こす前に提起したこともあったように思いますが、そこでの意図というものはどのようなものであったのでしょうか。
<山内>
生活館がなくなる。それは、やっぱり隣保事業というわけにはいかへんやろうということで、コミセンが消えるのと同じように。ただちょっと違うのは、隣保事業のかなりの部分を「希望の家」がやってきたということがあって、生活館の処遇に関してはかなり他の地区と違うようなことになっていたということがあった。つまり、自分たちでやっていこうという機運があった。多文化共生の地域交流事業についても、自分たちで考えを示すべきやと。かなりつめた議論をして、それをまとめて京都市に提起して、この春の終わりから夏にかけて京都市の方で事業の具体的な中身について議論すると思うけども、それはこちらが出した案に基づいて検討されるというふうに思うね。
<山本>
なるほど。やっぱりハードとソフトが切り分けられてしまうみたいなものは、どこでも事業形態として抱える課題としてあると思うんですけども、多文化共生というのはあり得る方向性だとすると、主にハード面を担当している住宅室ではそのキーワードは、ポスト生活館に関わる問題だということで敬遠していた部分もあったと思うんです。結果的にそれを軸に進めていくんだというところまで、住民側が認めさせたというか、押し切っていった部分というのも非常に大きな成果なのかなと思います。つまりそういう部分でハード・ソフトがきっちり方向性を一致させて進められるということを住民側からかなりプッシュしていたように思いますが、その辺の行政側の対応の変化みたいなものに要因などはあるのでしょうか。
<山内>
京都市もやっぱり限界があって、限界というものをきっとこちらが確認というかはっきり認識して先回りしていろいろ考えだす。それに対してやっぱり京都市がやっぱりやるというふうに持っていく。それは限界があるということをこちらも認識しておかないとできないから、たらんところはこちらがやるということで、行政のなかのある部署と部署をこちら側が結ぶとかね、そのように進めることで、変わったのかもしれないね。
<山本>
見直し案(の案)というものが出てきたわけなんですけど、2月に出てきて地元と少し議論をして3月にまた修正案が出てきたということなんですけども、その中身に対する感想というか、評価というのは現時点ではどんなふうに思ってますでしょうか。
<山内>
外ではいろんなことをね、言っているし、まちづくりの進め方としてはよくやったんとちゃうかな。夜遅くまで東九条担当の人仕事していたという情報も聞いてるからね、置かれている条件の中でやっぱりちゃんとやったんとちゃうのかなと。いろいろそれは評価、批判したらきりがないけれど。あの場面でよくやったんちゃうかな。別にそんな運動が強かったわけでもないし、地元が団結するわけでもないんで、そういう意味でいうとよくまとめてくれたかなと。事業期間も5年間、今のスタイルでまちづくりにかかるのもだいたい5年ぐらいかなということから言ったら、ようやった。ただ、地元が案を進めるにしても、今の地元の運動というか、地元の組織のありようというのはなかなか難しいね。専門的に多面的に、将来を見越して住民の力が問われてくるんだろうね。
■試される住民の力――二つの出来事から
<山本>
その見直し案と同時並行で改良住宅の建て替え工事が本来であれば、新年明けて1月に着工されるはずだったと思うんですね。そこまで持っていくのに去年は大変ご苦労されたと思うんですけども、それが結局2ヶ月間遅れてしまって、年度末にかけてかなり綱引きがあり、工事説明会が3月上旬に生活館で行われたときも、かなりご苦労されたというふうに聞いています。そのような大きな局面をどのようにのりきっていったのかというのも、住民の側がきっちり望んでいることを進めていくんだという気持ちを表現する機会にもなったというふうに聞いています。着工と工事説明会の遅れなどというものが、新年明けていろいろとあったと思うのですが、その点についてお聞かせ頂けますでしょうか。
<山内>
今年の3月は大変やった。2つの出来事どっちもやっぱり部外者の乱入ということで、共通の側面があるんやけど、3月11日の建て替え工事の説明会は、これはやっぱり利権の問題も絡んでいて、「地元」という顔をしながら、行政なり、工事を委託された業者に対するプレッシャーかけようということで、ある団体が大挙して妨害し、着工を阻止するという場面やったね。京都市も行政といいながら、これまた限界がある中でこちらと相談しながら、むしろ行政は行政の立場でやる。住民は住民の立場で全力をあげてやらしてもらう。そういうスタイルで今度の工事説明会の際に、地元住民や我々の建て替えのメンバーで埋め尽くし、段取りを整え、部外者に付け入る余地を与えなかった。これがやっぱり地元に対する評価が、行政からみると大きく変わった瞬間だよね。それは肌で感じますね。これは行政だけやったら、あっという間にわからんことになってしまっていたかもしれない。しかし、一方で行政も頑張った。一緒になってやったことが大きかったと思う。
<山本>
行政の見方が大きく変わったというのは、具体的にはどのように変わったと思われますか。
<山内>
以前やったら崇仁と東九条で全然対応がちゃうわね。しかし、実際にはあんなやって住民のパワーというか、手際のよさ、戦略・戦術を示し、これに対してあらためて東九条の方が長けている面があるということで、これやったら安心して一緒に仕事ができるだろうというふうに変わったんとちゃうかな。それまでどっちかいうと運動的な声が大きかったのが、多文化共生・地域交流事業を進めるうえで住民の力が発揮された場面だったのかなと思う。
<山本>
もう一つ大きな修羅場というか、外部からの介入というか、そういうものがあったということなんですけども。
<山内>
これは3月28か、平和に暮らしている地域住民のところに、突如として、公園の中で集会して、騒ぎ立て、安全を乱したということでね。それが、差別排外主義的な集団だったということなんだけども、ことはそう単純ではなくてね。中身をよっぽど吟味して点検して評価して対策をねらんといけなかった。それは今から20年ぐらい前かな、「崇仁協議会」が民間活力導入、同和地区指定撤廃ということで、地上げや裁判をやった。それは単に荒唐無稽なものではなく、あながち間違った主張ではなかった。なかなか対応が厳しかった。それをずっとひきずっていたということなんですね。
3月11日はまさにそれとの最終対決の場面やったわけ。こちらは、対決し勝ったわけやけど、3月28日を考えればまずそういう問題の捉え方が我々もできていないのかもわからん。単純に差別排外主義ということでかたづけるということでは済まされない要素があり、多くの日本人が共感してしまうようなこともあり得る。そういう出来事を、地元に誤解が生じないように慎重かつ丁寧に伝えていかないといけないということで、悔しさは悔しさ、対応策は対応策を、考えてみて、やっぱりこの二つの出来事は大きかったなと思います。
<山本>
そういう意味では二つの大きな出来事を東九条のなかでのりきったことと、着工が3月18日にようやく始まって、計画の見直しがソフト面、ハード面である程度進み始めているというのが現状なわけですね。2010年度の4月からの議論の論点に関しては、さらにソフト面、多文化共生・地域交流事業の中身を具体化していく過程にいよいよ入っていくわけですけども、そういう二つの大きな出来事を経て、どのように今後の東九条のまちづくりにそのエネルギーが生かされるべきか、あるいはどういうふうにして主体をを形成していけばいいのかというのは、どのようにお考えでしょうか。
<山内>
三つの問題があります。まず、一つはやはり崇仁と歴史的な交流があるわけだから、これはしっかりと深めていく必要がある。二つ目はやっぱりきちっと柳原銀行のように経済的にも自立せなあかんやろう。そういう意味では、部落とちごうて、東九条の方がやりやすい条件を持っている。三つ目は、やっぱり多文化共生なんやから、一つの集団に偏ることなく、進めなあかん。実はこれが一番難しいのかもしれんけどね。この三つを同時に引っ張っていくということが必要かな。
<山本>
改良住宅の建て替えと希望の家、生活館の合築が完成するのは来年ですね。
<山内>
春か夏になるでしょう。
<山本>
夏にかけてですよね。今のところ。
<山内>
だから、それまでの間にどういう運動をするのか。どういう組織をつくるのかということが問われてくると思う。一度は、東九条CANフォーラムのときにいろんなことを経験したわけだから、再度そういうことが議論できる、そういうチャンスはチャンスかな。冷静にそういうことについて考え直す機会にある。
<山本>
それでは、東九条の2010年度の中で一番大きな課題になるのは、多文化共生・地域交流事業を進めていく上での主体をどういうふうに準備しながら、当面の課題を着実に進めながら、さらに、崇仁と連携しながら、ということが大事になってくるということですね。
<山内>
最後に京都市内の部落解放運動の展望やけど、これにも触れないわけにもいかないでしょう。
<山本>
確かに「部落解放運動の過去・現在・未来」がタイトルなんで、最後にお願い致します。
<山内>
状況は厳しいけども、現在は解放運動らしい運動をつくるチャンスでもあるんで、これも繰り返しそういう話しているけれども、組織を大きくするとかではなくて、身の丈にあうそういうものを展開しなければならない。それが一点 。運動がおしなべて対決すべき連中は新しい他にいる新しい排外主義もあって、やっぱりもう少し運動らしい、特に社会正義、世直しのは発想がないといかん。そのためにはもう立てなおす必要がある。そのためには地域の細かくても住民一人でもかまへんからつなげる、つながる必要がある。
やっぱり欠けているのは歴史であり哲学。祇園でちゃらちゃらやっている運動は、だめ。おしなべてもう一度歴史を検証して自分たちが今どの位置に立っていて、これからどう進もうとしているのか。これからもう1回勉強しなおす必要がある。そういう意味で幸いね、崇仁だったら柳原銀行記念資料館があるんで、千本やったらツラッティがあるわけだし、吉祥院にも六斎念仏記念館があって、三条の方も一番古い被差別部落ということで歴史を見直す作業も始めているようだし、改進でも歴史研究は優れている。そういう意味でもう一度、遠回りかもしれんけども、柳原銀行を保存する運動をして、記念館として再構築したように、もう一度京都の部落を歴史的に見直していく必要がある。別にあわてる必要はないんでね。行政のペースがあろうがなかろうが関係ない。そういう感性があれば、微力でもできることはあるので、いろいろこれからも提案していきたいと思っています。部落の若い人たちにもそういう問題提起があったということで、ともに議論したいと思っています。
<山本>
はい、ありがとうございました。また、次回もよろしくお願いします。次回はいつぐらいのタイミングになるでしょうか。ビジョン検討委員会の結末、東九条のソフト面の事業計画の推移次第といったところでしょうか。
<山内>
そうですね。そうすると早くて冬、秋から冬ぐらいですかね。またそのときにはよろしくお願いします。ありがとうございました。
【了】
【註】
★1 「崇仁地区将来ビジョン検討委員会」に関する議事録、報告書(素案)などは、http://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/soshiki/9-6-3-0-0_2.htmlを参照。
★2 同人権啓発資料に関しては、http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000078156.htmlを参照。
★3 コミュニティセンターの転用計画に関しては、他の被差別部落においても始まっており、その第二次意見募集結果も公表されている(崇仁地区を含む)。意見数は141件、意見項目は283件である。担当課である人権文化推進課(京都市)の基本的な考え方としては、貸し館機能の継続と利用料の徴収といった型通りである感が否めず、有効な打開策はまだ見えていない。http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000080898.htmlを参照。
【注記】
本インタビューは、2010年4月15日に行ったものである。ここに記されている内容は山内氏に確認して頂きご了承頂いたうえで、WEBでの公開を行っているものである。また、軽微な字句修正及び補足(括弧)、註は山本が加えた。
*作成:山本 崇記