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近藤 宏 「インターディシプリンな記述において「事実」を論じることについて」
於:立命館大学衣笠キャンパス創思館401
last update:20110105
石原さんは、『近代日本と小笠原諸島――移動民の島々と帝国』を歴史社会学の書物でもあり、民族誌でもある、という位置づけをしています。特に、インタビューなどを通じて小笠原の人々の語りといった、細部の事実を取り上げ、議論をするという点に民族誌や人類学といった学問領域への親近性があるような印象を受けました。私は、人類学に基づいて研究を進めているので、民族誌でもあるという位置づけを手がかりに質問します。
「はじめに」において、本書にとって参照点になる「民族誌」のありかたはレナート・ロサルドによる『文化と真実』における民族誌の議論であるとしています。そこで石原さんは、観察されるものに対する観察するものの立場性について議論を進めています。そのあいだの非対称性を取り上げながら、そのあいだの「政治的」あるいは形式的な力関係に目を向けているかと思います。
『文化と真実』、とりわけ序章においては、政治的あるいは非対称性という形式的な力関係とはやや異なる視点から観察されるものと観察するものの関係もまた記されているようにも思われます。首狩りに関するイロンゴットの語りを、レナート・ロサルドがどのように理解するにいたったのが、非常に印象深く書かれています。よく知られているようにロサルドは妻の死を通じた感情の経験を通して、イロンゴット語りを理解した、と記述し、その感情の経験ゆえにイロンゴットを首狩りへと突き動かすものを説明するために、首狩り「死者の霊」といった超自然的存在や「自分の声明を挙げる」といった社会学的な領域を持ち出すことよりも、近親者の死がもたらす感情の経験と関連付ける記述のほうが、「説得力がある」としています[ロサルド1993:34]。
異なるひとびとの語りやさまざまな観察可能な事実を、どのように理解し、記述するのか、という問題はロサルドに限らず、民族誌にとって根本的な問いでありつづけているのではないでしょうか。ただ、ロサルドの場合に見られるようなカッコつきの経験主義に基づく他者理解だけが唯一の方法ではなかったとは思います。それとは趣の異なる技法については、例えば「フランス人類学の父」とも呼ばれるマルセル・モースが語っていたこともまたよく知られています。モースの場合では、観察者の思考のカテゴリーと、観察されるもの、あるいは、事実を生きている人々の思考あるいは経験のカテゴリーの関係として、異なるひとびとを理解し記述する方法について講義で語っていたとされます。感情の経験と思考のカテゴリーという違いはありますが、いずれにしても民族誌においては、観察可能なさまざまな「事実」、アカデミズムの世界にあらかじめ位置を占めているわけではない「事実」をどのように理解し、記述するのか(モースは「細心な社会学は理解するのであって解釈するのではない」と記していたことを、彼の弟子であるルイ・デュモンは述べています。[デュモン 1993:275])、ということこそが、政治的な関係とは別のやり方で、書く−書かれるという二者のあいだで常に民族誌についてまわる問題だと思います。
観察者と被観察者の関係について、「事実を理解する」という観点からは、石原さんはどのようなお考えをお持ちですか。また、狭義の意味での民族誌にはとどまらない本書のような研究を構成するにあたって、「事実」を議論することにどのような可能性を見ていたのか、ご意見をおねがいいたします。
参考文献
ロサルド、レナート
1998 『文化と真実』 椎名美智 訳、日本エディタースクール出版部。
デュモン、ルイ
1993 「マルセル・モース:生成しつつある科学」、『個人主義論考――近代イデオロギーについての人類学的展望』 渡辺公三・浅野房一 訳、言叢社。
渡辺 公三
2009「マルセル・モースの人類学――再び見出された父」、『西欧の眼』言叢社。
作成:近藤 宏