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)
渡辺 克典
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>
全文
ぜんぶん
掲載
けいさい
>
「
社会
しゃかい
運動
うんどう
において
語
かた
り、
伝
つた
わり、
繋
つな
がること」
渡辺
わたなべ
克典
かつのり
2011/03/11
鶴田
つるた
幸恵
ゆきえ
編
へん
『
報告
ほうこく
書
しょ
社会
しゃかい
運動
うんどう
で
語
かた
ること/
伝
つた
わること/
繋
つな
がること――
関西
かんさい
在日
ざいにち
・
部落
ぶらく
問題
もんだい
にかかわるトランスジェンダー<
土肥
どい
いつき>との
対話
たいわ
』
<
関西
かんさい
の
社会
しゃかい
運動
うんどう
を
考
かんが
えるシンポジウム>
実行
じっこう
委員
いいん
会
かい
,28p. pp. 23-27
[Korean]
本
ほん
シンポジウムの
開催
かいさい
趣旨
しゅし
は、
社会
しゃかい
運動
うんどう
において「
語
かた
る」こと、そしてそれが「
伝
つた
わる」こと、さらに
人
ひと
びとや
組織
そしき
が「
繋
つな
がる」ことでした。この
問
と
いは、
社会
しゃかい
運動
うんどう
を
考
かんが
える
上
うえ
でどのような
意味
いみ
をもつのでしょうか。ここでは、
社会
しゃかい
運動
うんどう
において「
語
かた
る」「
伝
つた
わる」「
繋
つな
がる」ことがもついくつかの
意味
いみ
をとらえた
上
うえ
で、このシンポジウムを
振
ふ
り
返
かえ
ることにしたいと
思
おも
います。なお、
敬称
けいしょう
についてはすべて「
氏
し
」で
統一
とういつ
させていただきました。
1.シンポジウムについて
語
かた
る
前
まえ
に――「
社会
しゃかい
運動
うんどう
」の
位置
いち
づけについて
はじめに、
社会
しゃかい
学
がく
における
社会
しゃかい
運動
うんどう
研究
けんきゅう
から
整理
せいり
してみたいと
思
おも
います。
社会
しゃかい
学
がく
では、
社会
しゃかい
運動
うんどう
は「
社会
しゃかい
変動
へんどう
」の
構成
こうせい
要素
ようそ
としてとらえられることがあります。
社会
しゃかい
変動
へんどう
とは、
簡単
かんたん
に
言
い
ってしまえば、
社会
しゃかい
生活
せいかつ
を
支
ささ
える
制度
せいど
や
組織
そしき
の
仕組
しく
みが
大
おお
きく
変革
へんかく
し、
人
ひと
びとの
価値
かち
観
かん
や
考
かんが
え
方
かた
が
変
か
わっていくことを
指
さ
しています。もちろん、
社会
しゃかい
変動
へんどう
は
社会
しゃかい
運動
うんどう
によってのみ
起
お
こるわけではありません。
自然
しぜん
環境
かんきょう
の
変化
へんか
のような
人間
にんげん
の
意図
いと
を
外
はず
れた
要因
よういん
によって
引
ひ
き
起
お
こされることもあります。
社会
しゃかい
学者
がくしゃ
が
関心
かんしん
をもつのは、それが
人
ひと
びとによって(
人為
じんい
的
てき
・
意図
いと
的
てき
に)
引
ひ
き
起
お
こされる
場合
ばあい
です。
社会
しゃかい
変動
へんどう
は、
政府
せいふ
や
行政
ぎょうせい
機関
きかん
による「
上
うえ
からの
変動
へんどう
」としても
起
お
こりえます。また、
市民
しみん
によって
引
ひ
き
起
お
こされる「
下
した
からの
変動
へんどう
」もあります。
社会
しゃかい
運動
うんどう
は、とくに
後者
こうしゃ
を
引
ひ
き
起
お
こすような
集合
しゅうごう
的
てき
な
活動
かつどう
を
指
さ
す
言葉
ことば
として
用
もち
いられます。
社会
しゃかい
変動
へんどう
の
構成
こうせい
要素
ようそ
として
社会
しゃかい
運動
うんどう
をとらえる
場合
ばあい
、
社会
しゃかい
運動
うんどう
はその
活動
かつどう
内容
ないよう
だけでなく、その
後
ご
の
制度
せいど
変革
へんかく
への
影響
えいきょう
において
分析
ぶんせき
されることになります。このような
分析
ぶんせき
において、
社会
しゃかい
運動
うんどう
研究
けんきゅう
はいくつかの
共通
きょうつう
する
要因
よういん
に
着目
ちゃくもく
してきました。
代表
だいひょう
的
てき
なものは、
変動
へんどう
「
前
まえ
」の
社会
しゃかい
制度
せいど
がうまくいかなくなったときにその
反動
はんどう
として
社会
しゃかい
運動
うんどう
が
起
お
きるととらえるものです。つまり、
変動
へんどう
によって
打
う
ち
立
た
てられる「
新
あたら
しい
体制
たいせい
」に
対
たい
する「
旧
きゅう
体制
たいせい
(アンシャン・レジーム)」の
問題
もんだい
点
てん
に
着目
ちゃくもく
をするものです。
次
つぎ
に、
社会
しゃかい
運動
うんどう
において
主張
しゅちょう
される「
古
ふる
い
体制
たいせい
への
批判
ひはん
」や「
新
あたら
しい
体制
たいせい
の
主張
しゅちょう
」がどのようにおこなわれるのか、といった
点
てん
にも
分析
ぶんせき
が
向
む
けられます。これは、
旧
きゅう
体制
たいせい
にどのような
弊害
へいがい
があり、
新
あたら
しい
体制
たいせい
がそれにどう
取
と
り
組
く
むのかをめぐる
主張
しゅちょう
(
言説
げんせつ
)をめぐる
分析
ぶんせき
です。
最後
さいご
に、
社会
しゃかい
運動
うんどう
をおこなう
集団
しゅうだん
=
組織
そしき
に
着目
ちゃくもく
をして、
運動
うんどう
組織
そしき
を
支
ささ
える
人的
じんてき
・
物的
ぶってき
な
資源
しげん
の
流
なが
れによって
社会
しゃかい
運動
うんどう
を
考
かんが
えるものがあります。これら
3
みっ
つの
分析
ぶんせき
方法
ほうほう
は、(1)
社会
しゃかい
運動
うんどう
を
活性
かっせい
化
か
させる(または
抑圧
よくあつ
する)
経済
けいざい
的
てき
変化
へんか
や
政府
せいふ
内
ない
における
分裂
ぶんれつ
といった
経済
けいざい
・
政治
せいじ
的
てき
な
社会
しゃかい
状況
じょうきょう
を
分析
ぶんせき
する「
政治
せいじ
的
てき
機会
きかい
構造
こうぞう
」、(2)
社会
しゃかい
運動
うんどう
が
掲
かか
げる
目標
もくひょう
や
対抗
たいこう
活動
かつどう
の
対立
たいりつ
軸
じく
をめぐる
枠組
わくぐ
み
形成
けいせい
(フレーミング)
過程
かてい
、(3)
社会
しゃかい
運動
うんどう
の
活動
かつどう
を
支
ささ
える(または
衰退
すいたい
させる)
資源
しげん
の
構造
こうぞう
の
分析
ぶんせき
(
資源
しげん
動員
どういん
)としてモデル
化
か
されます(McAdam, McCarthy & Zald 1996, Tarrow 1998=2006)。このモデルを
念頭
ねんとう
におく
場合
ばあい
、シンポジジウムの「
語
かた
る」「
伝
つた
わる」は(2)のフレーミング
過程
かてい
にかかわる
議論
ぎろん
であり、「
繋
つな
がる」は(3)の
資源
しげん
動員
どういん
に
結
むす
び
付
つ
く
議論
ぎろん
ということが
考
かんが
えられます。
ただし、このようなとらえ
方
かた
のみで
社会
しゃかい
運動
うんどう
を
位置
いち
づけることができるわけでもありません。このようなとらえ
方
かた
のみでは、「
語
かた
る」「
伝
つた
わる」「
繋
つな
がる」はあくまでも
社会
しゃかい
変動
へんどう
をもたらすひとつの
要素
ようそ
としてのみ
抽出
ちゅうしゅつ
されてしまい、「
語
かた
る」
主体
しゅたい
の
不在
ふざい
という
問題
もんだい
が
残
のこ
ってしまいます(
同様
どうよう
の
議論
ぎろん
として、Dubet 1994=2011 など)。これが
本
ほん
シンポジウムの
第
だい
2の
特徴
とくちょう
であるアイデンティティをめぐる
問題
もんだい
です。
社会
しゃかい
運動
うんどう
とアイデンティティを
整理
せいり
するために、20
世紀
せいき
の
社会
しゃかい
運動
うんどう
の
特徴
とくちょう
をおおまかに
振
ふ
り
返
かえ
っておきたいと
思
おも
います。ウォラーステインらは、20
世紀
せいき
の
社会
しゃかい
運動
うんどう
を(1)
労働
ろうどう
運動
うんどう
、(2)
民族
みんぞく
(
国民
こくみん
)
運動
うんどう
、(3)
新
あたら
しい
社会
しゃかい
運動
うんどう
の
3
みっ
つの
側面
そくめん
からとらえています(Arrighi, Hopkins & Wallerstein 1989=1998, Wallerstein 1991=1993)。
労働
ろうどう
運動
うんどう
とは
マルクス主義
まるくすしゅぎ
に
代表
だいひょう
されるような
資本
しほん
家
か
と
労働
ろうどう
者
しゃ
の
対立
たいりつ
を
軸
じく
にした
労働
ろうどう
者
しゃ
による
活動
かつどう
であり、
社会
しゃかい
主義
しゅぎ
・
共産
きょうさん
主義
しゅぎ
運動
うんどう
に
代表
だいひょう
される
活動
かつどう
です。
次
つぎ
に、
民族
みんぞく
運動
うんどう
とは、Nation(
民族
みんぞく
/
国民
こくみん
)の
独立
どくりつ
統治
とうち
を
求
もと
める
活動
かつどう
であり、
国民
こくみん
国家
こっか
(Nation State)
形成
けいせい
に
向
む
けた
国民
こくみん
形成
けいせい
(Nation-building)
運動
うんどう
を
指
さ
しています。これら
2
ふた
つの
活動
かつどう
は20
世紀
せいき
初頭
しょとう
を
起源
きげん
にもつのに
対
たい
して、1960
年代
ねんだい
以降
いこう
(とくに「1968」に
代表
だいひょう
される
時期
じき
)から
着目
ちゃくもく
されるのが「
新
あたら
しい
社会
しゃかい
運動
うんどう
(New Social Movements)」とよばれる
社会
しゃかい
運動
うんどう
です。
新
あたら
しい
社会
しゃかい
運動
うんどう
においては、
女性
じょせい
、
黒人
こくじん
、
障害
しょうがい
者
しゃ
といったこれまでマイノリティとして
抑圧
よくあつ
されてきた
人
ひと
びとがその
主体
しゅたい
を
担
にな
います。このとき
重要
じゅうよう
となるのは、マイノリティとされる
人
ひと
びとは「
自分
じぶん
たちがマイノリティである」ことを
運動
うんどう
の
正当
せいとう
性
せい
に
用
もち
いている
点
てん
にあります。
自分
じぶん
たちが
何者
なにもの
であるかをめぐる「カテゴリー
化
か
」(
自分
じぶん
が
他者
たしゃ
からどのようにカテゴリー
化
か
されるのか、
自分
じぶん
が
自分
じぶん
をどのようにカテゴリー
化
か
するのか)が
政治
せいじ
の
表
おもて
舞台
ぶたい
に
飛
と
び
出
だ
してくることになりました。
自身
じしん
がどのような
存在
そんざい
であるのかをめぐる
同定
どうてい
(=アイデンティティ)が
社会
しゃかい
運動
うんどう
の
課題
かだい
となったのです。
アイデンティティとの
関係
かんけい
において、「
語
かた
り」は
重要
じゅうよう
な
意味
いみ
をもっています。
自身
じしん
が
何者
なにもの
であるかを「
語
かた
る」ことは、
自分
じぶん
自身
じしん
を
振
ふ
り
返
かえ
って(
再帰
さいき
的
てき
に)「
語
かた
る」ことであり、また
他者
たしゃ
にむけて「
語
かた
る」ことでもあります。また、このような「
語
かた
り」は、
個人
こじん
が
孤立
こりつ
した
中
なか
でおこなうものではなく、それぞれの
社会
しゃかい
に
存在
そんざい
するカテゴリー(およびそれに
付随
ふずい
する「
偏見
へんけん
」や「
差別
さべつ
」)を
取
と
り
込
こ
むことでもあります。
人
ひと
びとは、
社会
しゃかい
の
中
なか
で
他者
たしゃ
からカテゴリー
化
か
を
受
う
けるのと
同時
どうじ
に、
社会
しゃかい
の
中
なか
から
自己
じこ
の
位置
いち
づけるのにふさわしい
素材
そざい
を
選
えら
び、
自己
じこ
を「
語
かた
る」のです。アイデンティティを「
語
かた
る」こととは、
自分
じぶん
自身
じしん
を
再帰
さいき
的
てき
に
見直
みなお
すことや、
他者
たしゃ
に「
伝
つた
わる」ように
語
かた
ることでもあります。また、
同定
どうてい
されたアイデンティティにもとづいて、
他者
たしゃ
と「
繋
つな
がる」のです(これらの
議論
ぎろん
については、
片桐
かたぎり
2000,
浅野
あさの
2001,
西原
にしはら
2010 など)。
では、
以上
いじょう
のような
整理
せいり
を
踏
ふ
まえて、(1)フレーミング
過程
かてい
や
資源
しげん
動員
どういん
、(2)アイデンティティの
語
かた
りに
着目
ちゃくもく
をしてシンポジウムを
振
ふ
り
返
かえ
ってみたいと
思
おも
います。
2.シンポジウムで
語
かた
られたこと/
語
かた
られなかったこと
まず、
本
ほん
シンポジウムの
特徴
とくちょう
は<
関西
かんさい
>の
社会
しゃかい
運動
うんどう
に
着目
ちゃくもく
をする
点
てん
にありました。
先
さき
ほどの
社会
しゃかい
運動
うんどう
研究
けんきゅう
の
文脈
ぶんみゃく
でいえば、<
関西
かんさい
>を
位置
いち
づけるのであれば、「<
関西
かんさい
>の
経済
けいざい
・
政治
せいじ
的
てき
な
状況
じょうきょう
」から
位置
いち
づけるのが
政治
せいじ
機会
きかい
構造
こうぞう
論
ろん
となります。しかし、
本
ほん
シンポジウムは「
語
かた
る」「
伝
つた
わる」をテーマにしていたため、このような
経済
けいざい
・
政治
せいじ
的
てき
な
問題
もんだい
関心
かんしん
は
後景
こうけい
に
引
ひ
き、<
関西
かんさい
>はおもに
実践
じっせん
としての「
笑
わら
い」や「
楽
たの
しさ」といった
中
なか
で、<
関東
かんとう
>との
対比
たいひ
の
中
なか
で
言及
げんきゅう
されたのが
三
さん
氏
し
の
共通
きょうつう
した
見解
けんかい
でした。
政治
せいじ
・
経済
けいざい
的
てき
な
要因
よういん
については、セクシュアリティや
障害
しょうがい
といった
問題
もんだい
についての
社会
しゃかい
運動
うんどう
は
国家
こっか
(
福祉
ふくし
国家
こっか
)の
変革
へんかく
を
目指
めざ
すことが
多
おお
く、
地域
ちいき
色
しょく
があらわれにくいといった
点
てん
にも
関係
かんけい
してくることかと
思
おも
います。
逆
ぎゃく
に
言
い
えば、
社会
しゃかい
運動
うんどう
を<
関西
かんさい
>や<
関東
かんとう
>といった
次元
じげん
で
考
かんが
える
際
さい
に、
経済
けいざい
・
政治
せいじ
的
てき
な
側面
そくめん
よりも
人
ひと
びととの
繋
つな
がりを
作
つく
り
出
だ
す
具体
ぐたい
的
てき
なやりとりの
場面
ばめん
(
社会
しゃかい
学
がく
では
相互
そうご
行為
こうい
とよびます)が
焦点
しょうてん
になることが
確認
かくにん
されたともいえるかもしれません。もちろん、この
点
てん
については
今後
こんご
じっくりと
検討
けんとう
されるべきでしょう。
経済
けいざい
・
政治
せいじ
的
てき
な
側面
そくめん
を
後景
こうけい
におきながら、シンポジウムでは「
笑
わら
い」や「
楽
たの
しさ」が<
関西
かんさい
>の
社会
しゃかい
運動
うんどう
の
継続
けいぞく
を
支
ささ
えている
側面
そくめん
が
強調
きょうちょう
されました。この
背景
はいけい
には、セクシュアル・マイノリティであること/
障害
しょうがい
者
しゃ
であることの「しんどさ」があります。セクシュアルな
問題
もんだい
や
障害
しょうがい
をめぐる
問題
もんだい
は、その
原因
げんいん
や
対処
たいしょ
への
責任
せきにん
を
個人
こじん
の
問題
もんだい
としてとらえられやすいという
特徴
とくちょう
があります。こういった
点
てん
から、ある
意味
いみ
での「
戦略
せんりゃく
」
的
てき
なものとしての「
笑
わら
い」や「
楽
たの
しさ」について
議論
ぎろん
がなされました。
先
さき
ほどの
用語
ようご
にい
換
いか
えれば、「
笑
わら
い」や「
楽
たの
しさ」は
人
ひと
びとのつながりを
作
つく
り
出
だ
すような
資源
しげん
をもたらすものでもあり、また
人
ひと
びとの
関心
かんしん
を
引
ひ
きつけるためのフレーミング
過程
かてい
としても
位置
いち
づけられます。<
関西
かんさい
>の
社会
しゃかい
運動
うんどう
をとらえるためには、こうった
視点
してん
が
欠
か
かせないことが
確認
かくにん
されたといえるかもしれません。
しかしながら、シンポジウムでは
戦略
せんりゃく
としての「
笑
わら
い」や「
楽
たの
しさ」がもつ
危険
きけん
性
せい
がもうひとつの
焦点
しょうてん
となりました。この
危険
きけん
性
せい
を
考
かんが
える
上
うえ
で
取
と
り
上
あ
げられたのが、「アイデンティティを
語
かた
ること」がもたらす
問題
もんだい
でした。この
点
てん
については、「
語
かた
る」
主体
しゅたい
と
社会
しゃかい
運動
うんどう
の
両
りょう
側面
そくめん
からの
検討
けんとう
が
必要
ひつよう
になります。
まず、「
語
かた
る」
主体
しゅたい
については、
障害
しょうがい
の
受容
じゅよう
と
解離
かいり
という
側面
そくめん
が
議論
ぎろん
されました。マイノリティにとって、
自身
じしん
のアイデンティティを
形成
けいせい
素材
そざい
には
社会
しゃかい
的
てき
に
否定
ひてい
的
てき
なカテゴリーが
付属
ふぞく
しているため、とくに
社会
しゃかい
運動
うんどう
においては
同
おな
じ
障害
しょうがい
を
受容
じゅよう
しない
人
ひと
びととの
対話
たいわ
において
困難
こんなん
を
抱
かか
えることになります。
上野
うえの
氏
し
は、
今後
こんご
の
障害
しょうがい
者
しゃ
運動
うんどう
の
課題
かだい
として、
障害
しょうがい
受容
じゅよう
の
程度
ていど
がことなる
人
ひと
びとと「
繋
つな
がること」を
課題
かだい
のひとつとして
挙
あ
げていました。また、
岸
きし
氏
し
は、
運動
うんどう
の
実践
じっせん
として「
笑
わら
い」とともにアイデンティティを
語
かた
ることは、マイノリティとしての
苦難
くなん
に
対
たい
するひとつの
対処
たいしょ
戦略
せんりゃく
(=
解離
かいり
)であることを
挙
あ
げました。
受容
じゅよう
と
解離
かいり
というまったく
別
べつ
の
言葉
ことば
を
使
つか
いながら、
両者
りょうしゃ
は
表裏
ひょうり
の
関係
かんけい
にあります。
受容
じゅよう
は
自分
じぶん
の
属性
ぞくせい
を
一度
いちど
取
と
り
外
はず
して(
解離
かいり
して)おこなわれるものであり、また、
解離
かいり
は
一度
いちど
取
と
り
外
はず
した
自分
じぶん
の
属性
ぞくせい
を
再度
さいど
取
と
り
入
い
れる(
受容
じゅよう
する)ための
対処
たいしょ
作業
さぎょう
でもあります。
両者
りょうしゃ
の
見解
けんかい
は、アイデンティティを「
語
かた
る」ことの
実践
じっせん
的
てき
な
課題
かだい
を
異
こと
なる
関係
かんけい
からとらえたものだと
思
おも
われます。
次
つぎ
に、
会場
かいじょう
からの
質疑
しつぎ
とそれへの
応答
おうとう
の
中
なか
で、「
笑
わら
い」とともに
社会
しゃかい
運動
うんどう
を
実践
じっせん
することも
問題
もんだい
点
てん
が
浮
う
かび
上
あ
がりました。
会場
かいじょう
からは、「「
笑
わら
い」を
生
う
み
出
だ
すことを
可能
かのう
にするためには、それを
理解
りかい
する
同一
どういつ
のコミュニティのようなものを
前提
ぜんてい
としているのではないか」「マイノリティが「
笑
わら
い」とともに
社会
しゃかい
運動
うんどう
をおこなうことはマジョリティにとっての
危機
きき
感
かん
を
薄
うす
めるのではないか」といった
問題
もんだい
点
てん
が
挙
あ
げられました。こういった
社会
しゃかい
運動
うんどう
の
戦略
せんりゃく
としての「
笑
わら
い」がもたらす
問題
もんだい
点
てん
は、<
関西
かんさい
>の
社会
しゃかい
運動
うんどう
のもうひとつの
特徴
とくちょう
として
見逃
みのが
すことができない
側面
そくめん
です。というのも、これらの
問題
もんだい
は「
笑
わら
い」とともに
社会
しゃかい
運動
うんどう
をおこなうという
点
てん
だけでなく、
社会
しゃかい
運動
うんどう
とアイデンティティをめぐる
現代
げんだい
的
てき
な
課題
かだい
とも
結
むす
びつきうるからです。
最後
さいご
に、この
点
てん
と
関連
かんれん
する
論点
ろんてん
について「シンポジウムで
語
かた
られなかったこと」として
少
すこ
しだけ
記述
きじゅつ
しておきたいと
思
おも
います。
マイノリティによる
社会
しゃかい
運動
うんどう
にかかわらず、
従来
じゅうらい
の
労働
ろうどう
運動
うんどう
や
民族
みんぞく
運動
うんどう
においても、
社会
しゃかい
運動
うんどう
では
自分
じぶん
たちと
敵対
てきたい
する「やつら(them)」が
設定
せってい
されました。
労働
ろうどう
運動
うんどう
においては「
資本
しほん
家
か
」であり、
民族
みんぞく
運動
うんどう
においては「
異
い
民族
みんぞく
」や「
非国民
ひこくみん
」が「やつら」として
設定
せってい
され、それに
反対
はんたい
する
人
ひと
びとを「われわれ(us)」と
位置
いち
づけて
社会
しゃかい
運動
うんどう
は
推進
すいしん
されてきました。マイノリティによる
社会
しゃかい
運動
うんどう
は(
対義語
たいぎご
である)マジョリティにその
矛先
ほこさき
を
向
む
けます。しかし、マイノリティによる
社会
しゃかい
運動
うんどう
では、「マイノリティ(われわれ)
対
たい
マジョリティ(やつら)」だけでなく、マイノリティ
同士
どうし
の
争
あらそ
いも
生
う
んでいます。
代表
だいひょう
的
てき
なものとして、
女性
じょせい
の
自己
じこ
決定
けってい
権
けん
と
障害
しょうがい
者
しゃ
の
生存
せいぞん
権
けん
の
問題
もんだい
(もちろん、いわゆるプロチョイスとプロライフ(
自己
じこ
決定
けってい
と
生命
せいめい
尊重
そんちょう
)の
問題
もんだい
も
関連
かんれん
しています)を
挙
あ
げることもできます。
「よりよい
社会
しゃかい
」を
目指
めざ
すはずの
社会
しゃかい
運動
うんどう
において、なぜこのようなことが
生
しょう
じてしまうのでしょうか。そのひとつの
理由
りゆう
には、これらの
社会
しゃかい
運動
うんどう
がアイデンティティと
関
かか
わっていることがあります。
労働
ろうどう
運動
うんどう
や
民族
みんぞく
運動
うんどう
において「われわれ」とされる
労働
ろうどう
者
しゃ
や
民族
みんぞく
は、
労働
ろうどう
環境
かんきょう
、
出自
しゅつじ
、
文化
ぶんか
などによって
他律
たりつ
的
てき
に
定
さだ
められる
側面
そくめん
が
強
つよ
いものでした。
職業
しょくぎょう
選択
せんたく
の(
一応
いちおう
の)
自由
じゆう
や
国際
こくさい
移動
いどう
が
容易
ようい
となったことは、
労働
ろうどう
・
民族
みんぞく
運動
うんどう
がこれまでの
勢
いきお
いを
失
うしな
ったひとつの
要因
よういん
でもあるのでしょう(ただし、
近年
きんねん
では
民族
みんぞく
運動
うんどう
のリバイバルも
見
み
られます)。これらと
比較
ひかく
して、「マイノリティである」ことを
支
ささ
える
土台
どだい
は
脆弱
ぜいじゃく
なものとなっています。
労働
ろうどう
運動
うんどう
においては
同一
どういつ
の(
職場
しょくば
で
顔
かお
を
合
あ
わせる)
労働
ろうどう
環境
かんきょう
、
民族
みんぞく
運動
うんどう
においては
防衛
ぼうえい
線
せん
(
戦争
せんそう
国家
こっか
)や
保障
ほしょう
範囲
はんい
(
福祉
ふくし
国家
こっか
)のような
国民
こくみん
国家
こっか
という
土台
どだい
があったのに
対
たい
して、セクシャル・マイノリティや
障害
しょうがい
者
しゃ
は
社会
しゃかい
運動
うんどう
の
基礎
きそ
となる
集団
しゅうだん
形成
けいせい
の
場
ば
が
不足
ふそく
する
人
ひと
びとでもあります。
障害
しょうがい
者
しゃ
運動
うんどう
が、
同
おな
じ
立場
たちば
の
人
ひと
びとが
集
つど
う
施設
しせつ
をひとつの
出発
しゅっぱつ
点
てん
にしているのは
象徴
しょうちょう
的
てき
です。マイノリティとしての
社会
しゃかい
運動
うんどう
は、
同一
どういつ
の
場
ば
におかれたこれまでの「われわれ」にもとづく
社会
しゃかい
運動
うんどう
よりも
範囲
はんい
の
小
ちい
さなアイデンティティを
出発
しゅっぱつ
点
てん
としている、と
表現
ひょうげん
してもよいかもしれません。このときの
範
はん
域
いき
の
設定
せってい
によって、マイノリティ
同士
どうし
の
争
あらそ
いといったことも
生
しょう
じてしまうと
考
かんが
えられます。
以上
いじょう
のような
関心
かんしん
に
取
と
り
組
く
むために、シンポジウムでは
十分
じゅうぶん
に
取
と
り
上
あ
げられなかった
論点
ろんてん
として「
語
かた
る」ことと「
繋
つな
がる」ことを
媒介
ばいかい
する「
伝
つた
わる」ことに
関
かん
する
論点
ろんてん
を
挙
あ
げておきたいと
思
おも
います。マイノリティによる
社会
しゃかい
運動
うんどう
はアイデンティティを「
語
かた
る」ことによって「
繋
つな
がり」、また「
繋
つな
がる」ことを
可能
かのう
にするような「
語
かた
り」が
生
う
み
出
だ
されます。しかし、それらの「
語
かた
り」と「
繋
つな
がり」を
媒介
ばいかい
する「
伝
つた
わる」こととはいったいどのような
事態
じたい
なのでしょうか。
先
さき
ほどの
例
れい
を
念頭
ねんとう
におくならば、
社会
しゃかい
運動
うんどう
は
同
おな
じような
活動
かつどう
間
あいだ
でさえ
衝突
しょうとつ
を
生
う
みかねない
面
めん
ももっています。それにもかかわらず、「
伝
つた
わる」という
事態
じたい
が
生
しょう
じているのです。シンポジウムに
引
ひ
きつけるのならば、<
関西
かんさい
>の
社会
しゃかい
運動
うんどう
らしさとして「
笑
わら
い」が「
笑
わら
い」として
成立
せいりつ
する(
伝
つた
わる)
場面
ばめん
そのものがどのように
作
つく
り
出
だ
されているのかを
考察
こうさつ
してみるのも、
現代
げんだい
社会
しゃかい
における
社会
しゃかい
運動
うんどう
を
考
かんが
えるひとつの
分析
ぶんせき
基軸
きじく
となるのではないでしょうか。
最後
さいご
に。シンポジウムへの
道中
どうちゅう
は
名古屋
なごや
から
関ヶ原
せきがはら
を
超
こ
えて
京都
きょうと
へ、そして
奈良
なら
へという
新幹線
しんかんせん
ルートを
使
つか
いました。
関ヶ原
せきがはら
の
山々
やまやま
を
見
み
ながら、「
山
やま
笑
わら
う」という
表現
ひょうげん
を
思
おも
い
出
だ
しました。「
山
やま
笑
わら
う」とは、
俳句
はいく
の
季語
きご
で「
春
はる
」にあたり、
春
はる
に
草木
くさき
の
若芽
わかめ
が
芽吹
めぶ
く
様子
ようす
を
指
さ
す
言葉
ことば
です。このシンポジウムをきっかけにして、
社会
しゃかい
運動
うんどう
において「
語
かた
る」「
伝
つた
わる」「
繋
つな
がる」をめぐる
議論
ぎろん
がさまざまな
場所
ばしょ
で
芽吹
めぶ
くことを
願
ねが
ってやみません。
◆
関連
かんれん
文献
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太田
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仁
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大村
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書店
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浅野
あさの
智彦
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自己
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物語
ものがたり
論
ろん
的
てき
接近
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家族
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療法
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社会
しゃかい
学
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社会
しゃかい
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自己
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社会
しゃかい
学
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構築
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社会
しゃかい
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社会
しゃかい
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しゃかい
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集合
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社会
しゃかい
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一
いち
九
きゅう
世紀
せいき
パラダイムの
限界
げんかい
』
藤原
ふじわら
書店
しょてん
.)
◆
謝辞
しゃじ
本
ほん
研究
けんきゅう
は
科学
かがく
研究
けんきゅう
費
ひ
補助
ほじょ
金
きん
(
研究
けんきゅう
課題
かだい
番号
ばんごう
:21730410)の
助成
じょせい
を
受
う
けたものである。
UP:20110412 REV: 20150713
◇
全文
ぜんぶん
掲載
けいさい
TOP
HOME (http://www.arsvi.com)
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