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公開インタビュー「人工呼吸器をつけた子の親の会〈バクバクの会〉の成り立ちと現在」
「第二部 バクバクっ子による報告」折田涼さんの発表原稿
公開インタビュー「人工呼吸器をつけた子の親の会〈バクバクの会〉の成り立ちと現在」
「第二部 バクバクっ子による報告」折田涼さんの発表原稿
折田 涼 20110727
last update:20110823
公開インタビュー「人工呼吸器をつけた子の親の会〈バクバクの会〉の成り立ちと現在」
折田涼さんの発表原稿
タイトル「医療的ケアとわたしの暮らし−地域の学校で得たもの−」
ボクは、気管切開で、24時間人工呼吸器をつけて生活をしています。地域の小、中、高校を卒業し、京都の大学を受験しましたが、残念ながら不合格でした。現在は自立生活をしながら、医療的ケアに関しての普及活動をしています。通常のコミュニケーションは、瞼や眉間を動かして合図をおくるという方法をとっています。従って、ボクとの会話はYES、NOで答える質問方式が主になります。
1、学校生活
(1)保育所での取り組み
ボクの両親は、こども同士の関わりの中で、ふつうの生活をさせてやりたいと、保育所への入所を希望し、何度も行政と交渉して、保育所に通えるようになりました。正式入所まで1年半掛かりましたが、医療的ケアも保育の一環として、保母さんと看護師さんが協力し合いながら取り組み、最後の半年は親の付添いもなく通うことが出来ました。ボクにとっても自立の一歩を踏み出した瞬間でもありました。保育所では、いろいろ工夫をしながら、ともだちとたくさん遊び、芋ほりやプールなどなんでも一緒にすることができ、とても楽しかったです。保育所での取り組みは、地域で生きることの大切さを実感することができ、地域の小学校入学へとつながっていきました。
(2)小学校生活と親の付き添い問題
3年間保育所に通った実績から、地域の小学校へ行くことは何の問題もないので、入学を希望しましたが、ここでもまた、呼吸器をつけていることや、医療的ケアが必要であるということで、教育委員会から執拗に養護学校を勧められたり、入学通知を出してもらえなかったりしました。家にやってきては、養護学校を勧める教育委員会の人の話を聞きながら、ボクはともだちと一緒の学校へ行けないのかと、とても暗い気持ちになっていました。けれど、両親は、粘り強く何度も話し合いをして、やっと地域の小学校に入学することができました。ただ、吸引などの医療的ケアを親以外できないとされて、親が付き添いをしないと学校に行けない状況が小学校4年生まで続きました。母にしか吸引してもらえないことで、母が体調を崩すとボクは学校に行けなくなったり、急に吸引が必要になっても、母が駆けつけるまで誰からも吸引してもらえず、死ぬほど苦しい思いをしなければなりませんでした。
親の付き添いは必要でしたが、ともだちや先生方は、ボクもクラスの生徒の一人として接してくれ、様々な創意工夫を凝らしながら学校生活に取り組んでくれたので、ボクは、たくさんのともだちと一緒に遊び、学び、多くの経験、体験をすることができました。
集団登校、遠足、プール、運動会、海水浴ふだんの学校生活のどんな時も、ボクの周りには、ともだちがたくさんいてくれて、何でも一緒に出来るように考え、手伝ってくれたので、呼吸器をつけているから出来ないと思われるようなことも、みんなの手を借りながら、なんでも挑戦してきました。ボクは、ともだちと一緒にいろいろなことが出来ることがとても嬉しく楽しかったし、ともだちも同じ思いであったと思います。なので、学校はとても大好きな場所でした。
こんなこともありました。授業中に呼吸器の回路が外れたことがあります。その時、隣に座っていたともだちが、呼吸器のアラームが鳴るよりも前に、いち早く気付き、回路をつないでくれました。これは、ボクが呼吸器を使って息をしているということをあたりまえのこととして受け止めてくれていたのでしょう。だから、回路が外れたら息ができない、息ができないと苦しいから、すぐ繋がないといけないと自然に理解して行動できたのだと思います。人工呼吸器や医療的ケアを特別視しないで必要だから関わる、そんな当たり前の関係があることで、安全性も確保できていくのだと感じました。
(3)中学校生活と受験
中学校では、親の付き添いもなく、3泊4日の課外活動に参加しました。中学2年生からは、通学もヘルパーさんのサポートでするようになり、より、自立した学校生活を送ることができ、ともだちと励ましあいながら、高校受験にもチャレンジしました。ボクは、鉛筆を持って字を書けないので、受験には様々な配慮が必要でしたが、中学校の先生と一緒に早くから大阪府教育委員会に働きかけて、受験に必要な配慮を準備してもらうことができました。
前期試験は不合格になり、相当落ち込みましたが、後期試験で、池田北高校に合格し、入学を果たすことができました。合格者通知の掲示板に自分の受験番号を見つけた時のことは、今でも鮮明に覚えています。中学校の先生やともだち、ずっと応援してきてくれたたくさんの人が、ボクの高校合格を心から喜んでくれて、本当に嬉しかったです。
(4)普通高校での出会い
高校生活は、電車とバスを乗り継いで、1時間の道のりを、ヘルパーさんのサポートを受けながら通いました。利用する路線バスは、入学当初、ボクが乗れるノンステップバスが1台しかなく、通学に不便をしましたが、卒業する頃には6台に増え、ボクだけではなく、高齢者の方や赤ちゃん連れの方など誰でもが利用しやすくなりました。これは、バス会社が自主的に改善していったものですが、ボクが、毎日利用することで、バス会社の改善意識を促したのではないかと思っています。
高校は、初めて出会う人ばかりで、先生方もクラスメートも最初は戸惑いもあったようですが、一緒に過ごすことで、ここでも、ボクがいることは日常の風景となっていきました。
高校では、飛行機に乗って北海道に修学旅行にも行きました。もちろん親の付き添いはなしです。旅行中のお風呂は、男性の先生も手伝ってくれました。2泊3日の駆け足の修学旅行でしたが、りんご狩りやジャム作り、小樽観光を楽しみました。
2、現在 地域の学校に通って
ボクは、あたりまえの生き方として、地域の保育所、小学校、中学校、高校と通ってきました。呼吸器をつけていても、ストレッチャーに乗っていても、一緒に学び生きることができる学校はとてもステキな学校です。このような学校で学ぶことができ、工夫をし、手助けしてもらいながらも、様々なことにチャレンジできたこと、たくさんの人に出会い、ともだちに恵まれたことは、ボクが、自立生活を送っていくための自信と勇気の元になっていると感じています。
今、最も力を入れているのは、医療的ケアの普及活動です。でも、その合間に映画やショッピングを楽しんだりもしています。もちろん何処へ行くのも公共交通機関を利用しています。
ボクが街に出掛ける事で、呼吸器をつけていても普通に生活できる姿を見せる事ができます。今はまだボクを見てびっくりする人も沢山いますが、いつかそれが当たり前になると良いなぁと思っています。
ボクは地域の学校に通っていたので、街には知り合いがいっぱいいます。普通は同学年の知り合いが多いと思うのですが、ボクの場合、ストレッチャーで目立っていたのか、同学年だけじゃなく、在学中の全ての学年に知り合いが多く、相手から声をかけてきてくれます。
先日もストレッチャーがパンクした時に、近くの自転車屋さんに行ったら、お店の方がボクの事を知っていて、すごく親切に相談に乗ってくれました。
毎朝、朝早くに起きて学校に通うのは大変だったけど、地域の学校に通ったので、何をするにしてもボクの周りには手助けしてくれる知り合いが沢山います。
もっともっと色々な経験をして、様々な所へ行って、沢山の友だちをつくって、呼吸器をつけていても、どんな障害があっても、当たり前に地域の中で生きていける社会をつくっていきたいと思っています。
*作成:八木 慎一