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小林敏昭さんに健全者手足論について聞く
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小林こばやし敏昭としあきさんに健全けんぜんしゃ手足てあしろんについて

2020/10/22 於:ZOOM


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last update:20200813

インタビューについて

きて山口やまぐち和紀かずのり

ほんインタビューは、山口やまぐち卒業そつぎょう研究けんきゅう調査ちょうさとしてったものです。小林こばやし敏昭としあきさんの許可きょかうえほんページに掲載けいさいをしています。

20180227におこなわれた小林こばやし敏昭としあきさんへのインタビューは(ききて立岩たていわしん也)こちら小林こばやしさんのひとこうこちら

インタビュー本文ほんぶん

山口やまぐち:おおまかには小林こばやしさん、ご自身じしん障害しょうがいしゃ健全けんぜんしゃ運動うんどうかかわっていって、混乱こんらんでどういうふうなことがきたというか、どういう状況じょうきょうだったのかかせていただいて。あと、その手足てあしろんについての理解りかいだとか。まず、その小林こばやしさん自身じしんがどういうふう健全けんぜんしゃ運動うんどうかかわっていったのかなというのが。

小林こばやしぼく島根しまねけん田舎いなかそだったんですよ。で、松江まつえ高校こうこうて、大学だいがく大阪おおさかくんですよ。それは1970ねんなんですね。しん左翼さよく運動うんどうとか勉強べんきょうしてたら、当然とうぜんってるとおもうけど、70ねん安保あんぽというかなりおおきな闘争とうそうがある、としなんですよね。ただ60ねん安保あんぽのときとだいぶちがっていて、労働ろうどうしゃひと学生がくせいひと左翼さよくてきなシンパのひとたちがにな運動うんどうだったんですよね。60ねんほどの大衆たいしゅうてき運動うんどうではなかったとぼくおもうんですけど。70ねん、ちょうど大学だいがくはいったときにその闘争とうそうがあって。その10ねん改定かいていとしだったというので。大学だいがくはいってからそういう運動うんどう接点せってんがね。まぁ顔出かおだしたり。そういうことがあってかかわりもっていくんですけどね。
 ただ、そんなにぼく活動かつどうではなくて、はしっこのほうからそういうのをすこ興味きょうみちながら経験けいけんしてったみたいなそういうかんじが70ねんあるんですよね。でまぁ、半分はんぶんノンポリっていうのか、そういう活動かつどうをしながら、半分はんぶんはうーん、なんていうのかな。あのー、法学部ほうがくぶはいったんで弁護士べんごしになるつもりだったんだけど。まぁあのだんだんだん、授業じゅぎょう面白おもしろくなくなってきて、大学だいがくにもだんだんいかなくなって。その政治せいじてき活動かつどうとか、市民しみん運動うんどうたいする興味きょうみのほうがつよくなっていくんですよね。当時とうじは、まだしん左翼さよく運動うんどう残骸ざんがいというか。まぁ69ねん東大とうだい闘争とうそう、えっと、浅間あさま山荘さんそうが71ねんかな。

山口やまぐち:71ねんとか、72ねんくらいだったとおもいます。

小林こばやし:そう。ちょうどそのあいだの、あのーまぁ、一番いちばん先鋭せんえいてきしん左翼さよくひとたちがあのまぁ激化げきかしていったなかで、いわゆる内部ないぶ闘争とうそうでリンチをしてころすみたいな。そういう事件じけんつづくんですね。そういうながれにぶつかって、かなり幻滅げんめつするわけですよね。ぼくは。もともと、そんな中心ちゅうしんてき運動うんどうしてたわけじゃないけど、なに希望きぼうがあるんじゃないかとかおもって。でも、結局けっきょくそういうところきついてしまうんですよね。それでかなり幻滅げんめつしたというところがあるんですよね。でも、幻滅げんめつしたときに、自分じぶんはこれからどうやってきていくんだってかんがえたときに、その方向ほうこうつかりにくいっていう。こうやるべきだってものも、あのね、てこなかった。さっき弁護士べんごしになるつもりだったとかいったけど、法律ほうりつ体系たいけいというのは権力けんりょくしゃとかちからっているひとのために、法的ほうてき体系たいけいとかができてるんだってことをおもはじめてるから。弁護士べんごしにっていうおもいもだんだんうすれてきて。
 やっぱり、しん左翼さよくてき運動うんどうにも幻滅げんめつして。それで、さきえなくなって昼夜ちゅうや逆転ぎゃくてんてき生活せいかつになっちゃったりして。きてるあいだ小説しょうせつんだり、まぁ明治めいじ以降いこう日本にっぽん小説しょうせつとかんで。高橋たかはし和巳かずみとか大江おおえ健三郎けんざぶろうとかそういうのんでいて。新聞しんぶん朝刊ちょうかんんでからる。きてから夕刊ゆうかんむというかんじで。かなりしんどい時期じきがあったんですね。で、そういうときにぼく友人ゆうじんが「こんな面白おもしろ運動うんどうやってるグループがあるから、一回いっかいってみないか」みたいな。それでさそわれていったのが「グループゴリラ」だったんですね。ってるかな。

山口やまぐちぼくはAさんとはもうしゃべっていて。

小林こばやし:あぁそうか。Aさんとはもうしゃべってるんだね。まぁあのそのグループゴリラっていう活動かつどうにまぁ、最初さいしょ興味きょうみ本位ほんい参加さんかしたんだよね。それがきっかけで、そのときはまだあおしばかいとかできてなくて。自立じりつ障害しょうがいしゃ集団しゅうだんグループリボンっていう、あおしばかい前身ぜんしん団体だんたいがあって。そこの事務所じむしょかおして、グループゴリラの若者わかものたちのかい参加さんかをしたんです。

山口やまぐち:それがなんねんくらいですか。

小林こばやし:それが72,3ねんくらいかな。そんなかんじ。当時とうじ大阪おおさかだいはち養護ようご学校がっこうっていうのができるんだっていうのがあって。それの建設けんせつ阻止そしするっていうのをグループゴリラのひとたちがってて。それを文化ぶんか住宅じゅうたくでひそひそはなってるんですよ。なにやら不穏ふおん空気くうきがただよっているというか。で、どうやって阻止そしするんだっていうと、建築けんちくのための足場あしばまれていると。それをよるあいだって、足場あしば破壊はかいしようと。みたいなはなしをしとった。それは大変たいへんなところにきたなぁとおもって。それは結局けっきょく実行じっこううつすことはなかったけど。そういうところではじまって。それからは、まぁあの、まぁ、障害しょうがいったひと介助かいじょしゃがとにかくぜんぜんいないっていう。不足ふそくしている状態じょうたいだから。介護かいごはいってくれっていうのがあって。介助かいじょ要請ようせいがどんどん電話でんわにくるようになって。介護かいご面白おもしろさをっていくんだよね。

山口やまぐち大学だいがくっていうのはどこに進学しんがくされたんですか。

小林こばやし大阪大学おおさかだいがく結局けっきょく卒業そつぎょうせずに中退ちゅうたいしたんだけど。

山口やまぐち:Aさんのはなしだと、74ねん入学にゅうがくされたっていたんですけど、しん左翼さよくのこっててみたいなはなしいたんですけど。小林こばやしさんとおなじように。かなくなって、みたいな。かんじでした。えっと、それで。そのくらいにあおしばかいができて、小林こばやしさんご自身じしんもなんというか、役職やくしょくというかについていくとおもったんですが。

小林こばやし:あぁ、1975ねんくらいかな。大阪おおさかで「AZ福祉ふくし工場こうじょう設立せつりつ準備じゅんび委員いいんかい」というのができるんです。そのときもちろん、あおしばかいはできてるんです。はしてきにいって、運動うんどうだけではえないと。健全けんぜんしゃえないし、障害しょうがいしゃえないと。最初さいしょから一緒いっしょ活動かつどうしようと、それに呼応こおうしてうーん活動かつどうする障害しょうがいしゃっていうのはでてこないわけで。ある程度ていど生活せいかつとか仕事しごととかそういうものをどっかでつくっていく、保障ほしょうしていかないと、運動うんどうひろがりはできないんじゃないかというので。福祉ふくし工場こうじょうつくろうって活動かつどうがあったんです。75ねんくらいだったとおもうんですけど。で、そのときにぼくはその設立せつりつ準備じゅんび委員いいんかい事務じむ局長きょくちょうという役職やくしょくいたんです。
 それからはずっと、もう専従せんじゅうというかたちかかわりをったんだけど。で、これはあとでもうまたはなしるとおもうんだけど、緊急きんきゅうアピールというのが関西かんさいて。そのあとに手足てあしろんの「見解けんかい」が全国ぜんこくあおしばからるんだけれども。たときには、あおしばとかグループゴリラとかの中心ちゅうしん部分ぶぶんにいたのではなくて、その大衆たいしゅう運動うんどう部分ぶぶんっていうかな。市民しみん運動うんどうをつくるっていう部分ぶぶんで、それはもちろんあおしば一部いちぶなんだけど、市民しみん運動うんどうてきいろつよいところにたので若干じゃっかん距離きょりがある。だから、その当時とうじ混乱こんらん状況じょうきょうのなかで、その議論ぎろんをしてあの文章ぶんしょうをまとめていくっていう中心ちゅうしんにはないない。それはあとでるかもわからないけど、だから、関西かんさい緊急きんきゅうアピールがでたときはびっくりしたっていうかな。だからぼくは、よくわかってなかったというか。そういう議論ぎろんがされているっていうことを全然ぜんぜんらなかった。だから、一応いちおう専従せんじゅうしゃとして活動かつどう中心ちゅうしん部分ぶぶんなかにはいたけれど、かく部分ぶぶんではなかったというか微妙びみょうなところなんですよね。だから、Aさんはもうちょっととおくのところにて、専従せんじゅうしゃというのはだから、いくつかのそうがあるんだよね。せん従者じゅうしゃ批判ひはんとかいろいろあったけど。

山口やまぐち:Aさんは、なんか80年代ねんだいくらいまでひもじかったってってました。

小林こばやし:あぁそうそうそう。いまでもぼくとあったらね「小林こばやしさん専従せんじゅうてよかったよね〜」っていうんだけど、そんなことはなくて。専従せんじゅうしゃといってもそんなに豊富ほうふ資金しきんがあったわけじゃないから。障害しょうがいしゃたちが自分じぶんたちの生活せいかつ保護ほごなかから、他人たにん介護かいごりょうてて、それを専従せんじゅうまわすっていう。あと街頭がいとうカンパを毎週まいしゅうやって。いまは、街頭がいとうカンパってあんまりおかねにならないけど。当時とうじは、くるまイスの障害しょうがいしゃえきとかにるとすごい注目ちゅうもくあつめた。いちにちすうじゅうまんとかひゃくまんくらいのおかねあつまったこともある。それだけ社会しゃかいにとって障害しょうがいしゃまちにでるっていうのはすごいインパクトだった。

山口やまぐち:おかねはそんなにあつまるもんですか。イメージ。

小林こばやし:そうそう。当時とうじは、みんなびっくりするもんですから。その寝台しんだいしきのストレッチャーみたいなくるまイスにのっていると。凝視ぎょうしするかそむけるか、おかねくれるかみたいな。そういうかんじでしたね。そうやっておかねあつめたりして。それでなんとか専従せんじゅう捻出ひねりだしてたとか、そういうかんじでしたね。

山口やまぐち:だいたい、イメージきました。ちょっとわすれたんですけど、小林こばやしさんご年齢ねんれいはいくつでしたっけ。

小林こばやし:えっと、69さい

山口やまぐち:あぁAさんのよっじょうきましたから。

小林こばやし:そう。

山口やまぐち:それで、75ねんにAZ福祉ふくし工場こうじょう事務じむ局長きょくちょうになって、そのまま76ねん77ねんとそう、混乱こんらんはいっていくわけですか。その崩壊ほうかい時期じきっていうのは経験けいけんされたとおもうんですけど、

小林こばやし:さっきもはなしたけど、ぼくかく部分ぶぶんたわけじゃなくて、当時とうじかく部分ぶぶんっていうのは、名前なまええば、Kさんとか、これはリボンしゃ中心ちゅうしんなんだけど。これはかれがまぁあおしば運動うんどう関西かんさいひろめた張本人ちょうほんにんですよね。「さようならCP」という映画えいがかかえて関西かんさい各地かくち上映じょうえい運動うんどうっていうのをやって。で、グループゴリラの中心ちゅうしんメンバーと出会であい。そういう活動かつどうをしてきた中心ちゅうしんメンバーがKさん。でグループゴリラっていうのは、77ねん当時とうじは、関西かんさい連合れんごうかいっていうのがあって、そのとき代表だいひょうしているのがHさん。で、もうひとつはあおしばかいの、関西かんさい連合れんごうかいひと、トップのMさん。このさんにんがものすごかくになっていたんですね。緊急きんきゅうアピールについては、その経過けいかくわしくしらなかったんだけど。若干じゃっかん距離きょりがあって、KさんとMさんのりょうでかなりはなしめたようなんですよね。この運動うんどうじょうきょうくないよねと。うーん、その中心ちゅうしんでというか。その活動かつどうをすべきなのに。うーん実体じったいとしてはね。あたまのいい健常けんじょうしゃが、社会しゃかいてき知識ちしきんだ健常けんじょうしゃが、そういう経験けいけんとぼしい障害しょうがいしゃをまぁっていくというか。あの、けなしたり、差別さべつしたりしつつ、運動うんどうをひっぱっていくというようなことが散見さんけんされると。これはなんとかしないといけないということではなしをしたようなんですね。でまぁ、そういうことをたしかにぼくかんじていたんだけど。とく施設しせつから、障害しょうがいしゃ地域ちいきなかもどそうとかね、在宅ざいたく障害しょうがいしゃ自立じりつさせようとかいうことになると、当然とうぜんその、なんていうかな、運動うんどうとしてのというか思想しそうてき側面そくめんよりも、そのひとそとたい、おいしいものたべたいとかっていう欲求よっきゅうのほうがつとおもうんですよね。いままでなんじゅうねんめられて、そととまったく隔離かくりされて、30さい,40さいになるっていう。まぁそういうひとが、あの、おや説得せっとく施設しせつ説得せっとくし、地域ちいきにもどっていく。そうしているうちにあおしば中心ちゅうしんになっていく。
 となると、どうしても、ぼく、ぼくもそうなんだけど。運動うんどうあたまからはいった。そうひとからすると、非常ひじょうに、まぁ評価ひょうかひくいというか。あの、どうしてもしたてしまうっていうんですよね。もちろん、そうなっちゃいけないっていうのは、運動うんどうなか了承りょうしょうしているんだけど。実際じっさいにやってる自分じぶんたちの言動げんどうっていうのが、そういうふうになってしまっているという。まぁぼくもいていたんですよね。ひょうたいしては障害しょうがいしゃ差別さべつをなくそう、らしていこうとかいながら。内部ないぶてきには、そういう差別さべつてきなことが蔓延まんえんしてたっていう。それはたしかなんですよね。それで、緊急きんきゅうアピールっていうのが、77ねんだったかな。全国ぜんこくあおしば見解けんかいが78ねんだったかな。緊急きんきゅうアピールというのが関西かんさいにきたときには、あぁたしかにそうだという感覚かんかくつよかったかな。結局けっきょくあおしば歴史れきしてきなこともしっかり勉強べんきょうしているとおもうんだけど、神奈川かながわまれて、マハラバむら思想しそうてきにはきたえられて、まぁあの親鸞しんらん悪人あくにんせいとか、他力本願たりきほんがんだとかっていう大仏だいぶつさんたちとね、まぁその中心ちゅうしんメンバーと議論ぎろんしたりとかって、七転八倒しちてんはっとうのコミューンというか共同きょうどうたいとかがあって。神奈川かながわあおしばひとたちっていうのは、相当そうとうになんていうのかな、感性かんせいてきすぐれているというのか。うーん、よく勉強べんきょうもしているしね。
 でさらにいうと、差別さべつたいする感覚かんかくするどいし。そういう活動かつどうもできるし、そういうメンバーっていうのが神奈川かながわあおしばですよね。それはいつつの行動こうどう綱領こうりょうなんかをつくった。というメンバー。ところが、その運動うんどうがどんどんどんどんひろがっていくあいだに、70ねん横浜よこはまころしをて、どんどんひろがっていくと。そうすると、そういう障害しょうがいしゃだけじゃなくなっていくわけだよね。さっきった関西かんさいあおしばひとたちっていうのは、一部いちぶをのぞいたら、そういう思想しそうてき感性かんせいてきにもそういう経験けいけんがほとんどない。あの、そういうひとたちが中心ちゅうしんだった。それはようするにあおしば運動うんどう大衆たいしゅうだとぼくおもうんだけど。その大衆たいしゅうというのが、そこまであおしば運動うんどうってきた思想しそうてき核心かくしんてきなものと相容あいいれなくなった。そう理解りかいしているんですよね。
 それが、内部ないぶでもそういう、差別さべつてきな、あの、障害しょうがいしゃ健常けんじょうしゃとの関係かんけいせい、そういうものが蔓延まんえんしていく状況じょうきょうした。だから、一方いっぽうでは、従来じゅうらいあおしば運動うんどう思想しそうせいというのが、大衆たいしゅうするにつれて本当ほんとう変容へんようしていかなければいけない。あのきたえられていくっていうのか、変容へんようしていかなければいけないんだけど、それがかった。もう一方いっぽうでは、だから、あの、そういう、うーん、どういったらいいのか。まぁ、活動かつどうそのもののっているその、限界げんかいっていうのが、関西かんさいで、まぁあのね、発覚はっかくしたっていうか。表面ひょうめんしたというのか。ということがあったんだとおもいますね。いたかたのない事態じたいだとはおもうのね。うーん。ただ、かなりひどい状況じょうきょうがあったということかな、そういうかんじだったんだろうとおもいますね。そういうなかで、手足てあしろんてきたというか。必然ひつぜんせいというのがあるとおもいます。

山口やまぐち:ありがとうございます。なんとなく、こう、大衆たいしゅうというか。障害しょうがいしゃ大衆たいしゅうしていくなかで、しん左翼さよくというのか前衛ぜんえいてきかんがえをもつひとがたくさんはいってきて。

小林こばやしあおしばはそういうことを警戒けいかいしてたのね。しん左翼さよくひとたちがはいってくるっている。東京とうきょう大阪おおさかとかは学生がくせいがたくさんいるんで、介護かいごしゃにひっぱりこみやすいけど、田舎いなか生活せいかつをしようとするとまず介護かいごしゃがいない。てくれるひとは政治せいじてきなところがある。いたら三里塚さんりづかにいた、みたいな。なにこれ?みたいなことが頻繁ひんぱんにあったからね。だからそれはあおしば警戒けいかいしていたし、ぜんさわれん運動うんどうもそういうことあったし。

山口やまぐち手足てあしろんとそのはなし結構けっこうつながるかなとおもうんですけど、Aさんは自分じぶんはいったくらい、74ねんくらいから「手足てあしすけど、あたまさないんだ」みたいなことを、その当時とうじから結構けっこうわれていたというのをおっしゃっていて。そういうはなしとか、手足てあしろんとはわないけれども、なんていんですか、Aさんのはなしでは「はなあおたたかえ」みたいなものをみな一応いちおうしみんでいて、そういう障害しょうがいしゃ運動うんどうくちさないよねみたいな共通きょうつう認識にんしきがあったんだっておっしゃってたんですよね。そこらへんはどうですか。

小林こばやし:うーん、どうだろう。そこらへんは、Aさんとはちが部分ぶぶん色々いろいろあるかもしれないですけど。くちではうんですよ、なにかあるときはばれないまではそとってるとか。それは障害しょうがいしゃ当事とうじしゃせいというのをものすごく大事だいじにしていたから。それはだから、象徴しょうちょうてき手足てあしという言葉ことば表現ひょうげんをしたときに、いろんな誤解ごかいまれてくるんじゃないかなというがするんですよね。花園大学はなぞのだいがく研究けんきゅう紀要きようにもいたとおもうんだけど、うーん、最初さいしょにあったときにその、ゴリラのひとたちとあったときに、だいはち養護ようご学校がっこう阻止そしはなしをしていた。うん、していましたね。そういう前提ぜんていがあるんですよね。そういう、うーん、どこかにあの、介護かいご必要ひつよう障害しょうがいしゃひとがそこにいて、はいじゃあしましょうといって介助かいじょをするわけじゃない、ですよね。あおしばという、それまで日本にっぽんあらわれてこなかった障害しょうがいしゃ運動うんどう、その障害しょうがいしゃ運動うんどうにであって、その趣旨しゅし感動かんどうして、あるいは同調どうちょうして、それで介護かいごはいるっていう。そういうかんじがあって。だから、そういうときの手足てあしというのは、ぼく言葉ことばではたしかにそういったけど、いま時代じだいから当時とうじかえって、手足てあしになりるという手足てあしではいわけ。うーん、それが混同こんどうされているとぼくおもう。
 エピステーメーみたいな、なんていうか、知的ちてき枠組わくぐみっていうのがね。いま障害しょうがいしゃ状況じょうきょうあるいは、福祉ふくしてき状況じょうきょうかんがえて物事ものごとかんがえていくと、当時とうじ健常けんじょうしゃ健全けんぜんしゃ当時とうじったけど、その関係かんけいせいはなかなかえにくいかなと。それは手足てあしという言葉ことばでまたえにくくなったという。当時とうじは「あたまさないけど、手足てあしす」とたしかにってたけど、その前提ぜんていというのがあるからね。運動うんどうてきな、思想しそうてきな。そういうのがあるからね。一緒いっしょに、すすんでいこう、活動かつどうしていこうっていう。大前提だいぜんていとして、それが土台どだいとしてあってそのうえで手足てあしすけどあたまさないといういいかたをした。それはいま枠組わくぐみでの手足てあしろんといういいかたになると、かなりちがうと。うーん、わかるかな。

山口やまぐち自分じぶんなりには頑張がんばって理解りかいしようとおもうんですけど、なんていうか。またAさんのはなしをしてあれだけど、運動うんどう手足てあしになるんだけど、つまり「運動うんどうろんとしての手足てあしろん」はよくわかったし、そこにさないというのは認識にんしきしていて、実際じっさいにどうなったのかというのはあれとしても。その、実際じっさい介助かいじょ関係かんけいではくちさないというのは「そこまでしっかりしてたわけじゃない」というのをおっしゃってたんですけど、そこはどうですか。介助かいじょわれたとおりにやるってかんじだったんですか。

小林こばやし基本きほんはね、本人ほんにん気持きもちをめて、やりたいことをできるようにすると、それが基本きほんだったけどね。でも、たとえば、そとあそびたいとか、彼女かのじょあそびたいとかさ。それはもちろんあってもいいけど、あおしば会議かいぎにはなくてさ、そういうことをやりはじめると、こっちは文句もんくうよね。それは文句もんくというか、まぁ、議論ぎろんをする。まぁ障害しょうがいしゃはなう。そういうことをぼく経験けいけんしているわけだねぇ。だから、生活せいかつというののなかでも、うーん、そうだねぇ、だから、当然とうぜんどう世代せだいわか男女だんじょあつまるわけだから、そういう恋愛れんあいというかあるしね。まぁいろんなあそびもするし、おさけみにくし。そういうなかでは手足てあしなんてことはなくて、だから、グループゴリラっていうのは「自立じりつ障害しょうがいしゃ集団しゅうだん友人ゆうじん組織そしき」っていう、「友人ゆうじん」という言葉ことばってくるという、あたらしい友人ゆうじん関係かんけいみたいなね。そういうところがあったとおもうんだね。運動うんどうについてはくちさないとっても、それは大前提だいぜんていさきにあるからね。差別さべつをなくす、それで差別さべつというのは具体ぐたいてきにはこういうかたちであらわれているから、それをえていく。障害しょうがいしゃ健全けんぜんしゃ関係かんけいをこうえていく。そういう前提ぜんていがあったうえでの運動うんどうにはくちさない。そこをちょっと理解りかいしにくいところだな、とはおもうんだけど。また、Aさんの位置いちとぼくのはちがっているとはおもうしね。

山口やまぐち:そうすると、その。だからその、あおしばかい会議かいぎないで、ここいこーみたいなかんじになったら、「それはどうなんですか」みたいなはなしをすることと、手足てあしろん矛盾むじゅんはしてなくて。

小林こばやし:だから、当時とうじ手足てあしろんじゃなくてね。あたらしい関係かんけいという、健全けんぜんしゃ障害しょうがいしゃの。それをつくっていくという、ぼくはそういうかんじだったけどね。だから、「手足てあしろん」というのはいまでも抵抗ていこうがあるよね。たしかに、当時とうじはそういうことはったけど、それにはちゃんと前提ぜんていがあったうえでのね、そういうのは「あたまさない」とえるだけの信頼しんらい関係かんけいがあったんですよね。だから、そういう、大前提だいぜんていがないかぎりは、たとえばその障害しょうがいしゃ養護ようご学校がっこう推進すいしんのね、あつまりにいくんだとったらね。いやじゃあってくださいとかわないよね。運動うんどうなかでの節度せつどっていうのか、最低限さいていげん信頼しんらい関係かんけいとか、思想しそうてき共有きょうゆうしている部分ぶぶんがあったから、「手足てあしになる」っていうのをえた。信頼しんらい関係かんけいがあったからね。

山口やまぐちぼく当初とうしょおもったことは、セクトてきひとたちがはいってきて、自分じぶんたちの運動うんどうもうとして、それはだめだろうという、あくまでもあおしば方針ほうしん沿ったかたち自分じぶんたちは行動こうどうするんだと意味いみで「あたまさない」という共通きょうつう認識にんしきというルールになっていたのかなとおもったんですけど。そういう空気くうきというか、なんていうんですかね、その70年代ねんだいのその、しん左翼さよくてきななんていうか、前衛ぜんえいてきかんがえっていうのにたいする嫌悪けんおというか、そうかんじのなかでできたとおもうんですけど、どうですか。「あたまはかさない」というはなしが、空気くうきあおしば健全けんぜんしゃ口出くちだしてっていくということにたいする、素朴そぼくなその「だめだよね」っていうのがあったのかなと。それがどういうふうまれたのかなということがになるんですよね。

小林こばやし:うーん。まぁそれはたしかにあったかな。横塚よこつかさんなんかも、そういう、あのー、自分じぶんたちはあの、一番いちばん健常けんじょうしゃがわから利用りようされやすい存在そんざいであるという認識にんしきっていたところはあるからね。だから、あの、そういう、政治せいじてきな、活動かつどうについては警戒けいかいかんというのがものすごくあったよね。だから、思想しそうてきなそういうところでも警戒けいかいかんというのはもちろんあるんだけど。「手足てあしろん」がでるのはあの、混乱こんらんてきたんだと、あおしばのそれまでの思想しそうてき核心かくしんではなかったとふうかんがえているんだけど、政治せいじてきまわしにたいしての警戒けいかいかんっていたというのはあったとおもう。活動かつどう中心ちゅうしん部分ぶぶんも、ぼくらももっていたのね。
 ただ、その、77ねん78ねん混乱こんらん原因げんいんはそれじゃないとおもう。まぁぼくが経験けいけんした関西かんさいではね。その、現場げんば介護かいご現場げんば活動かつどう現場げんばなかで、差別さべつてきなものがひろがっていったことが原因げんいんだとおもっているから、だから、政治せいじてきまわしの問題もんだいではなかったとおもっている。だから、そこで混乱こんらんをもとにてきた「手足てあしろん」というのは、政治せいじてきまわしにたいする警戒けいかいからてくる手足てあしろんとはちがうんですよ。位相いそうちがう。その当時とうじの、実際じっさい状況じょうきょうかえってみるとあきらかにちがうと、そういうことですね。それ以前いぜんに、そのセクトの運動うんどうまれないようにおもっていたというのはもちろんあったけど、78ねん手足てあしろんがでてきたというのは、それが原因げんいんではないとおもう。まった影響えいきょうがないとはわないよ。健全けんぜんしゃたいする警戒けいかいかんというのはあるからね。セクトが現実げんじつからんで混乱こんらんしたわけじゃないけど、もちろんそれがなかったとはおもわないけど。だから、全然ぜんぜんちがうんだとるのはちがうとおもうけれども、あのときの手足てあしろん主要しゅようにはそれじゃなかったと、政治せいじてきまわしにたいするものではなかったと。主要しゅようにはね。

山口やまぐち:えっと、その、無意識むいしきてきな、なんていうか、こう、差別さべつ意識いしきっていうか。そのかかわりのなか表出ひょうしゅつして、しまって。そのかんじというか、それをなんていうかからないけど。セクトうんぬんではなくて、それをなにえばいいのかからないのですけど。なので、ちょっと、そうですね、手足てあしろんというはなしは、そのむずかしくなっちゃったんですけど。手足てあしろんというもの実際じっさいには、どういうふうかたちわれていたんですか。その手足てあしろんという言葉ことばわなかったとおもうんですけど。

小林こばやし:えっとそれは「手足てあしすけど」っていうはなしのほう?

山口やまぐち:いや、えっとその、混乱こんらんの「手足てあしろん」。Aさんは「かすみっていきろ」ってわれてたとかなんとかで。「かすみをくってきろ」っていわれて、そんなこと無理むりだっておもったとかってて。

小林こばやし手足てあしろんがでたとき?

山口やまぐち専従せんじゅうられて、自分じぶんらでかねあつめろとかわれて。そうおもったがゆえに、公的こうてき介助かいじょサービスをつく運動うんどうにシフトしたとおっしゃっていたんですが。小林こばやしさんてきには、混乱こんらんに、そのこう、なんていうか、手足てあしろんてきなことがかたられていたのかっていうのをおしえていただきたい。

小林こばやし:うーん。まぁ、混乱こんらん手足てあしろんてくるながれっていうのは、理解りかいできたんだけど。それはだから、あおしばがそれまで主張しゅちょうしていたこととずれているっていうか。ぼくは。矛盾むじゅんしているっておもったんですよね。それはやっぱりあの、横塚よこつかさんとか、あの、直接ちょくせつぼくはなしをしたことがないんだけど。かれいたほんとかなかで、自己じこ、うーん、自己じこ変革へんかく相互そうご変革へんかく社会しゃかい変革へんかくみたいなことをかなり核心かくしんてき部分ぶぶんっていて。だから、うーん、手足てあしろんてくる、そこまであの、当時とうじ運動うんどうがまぁ、かなりひどい状況じょうきょうにあったということは理解りかいできたし、当時とうじもね。したけれど、それがあおしば本来ほんらい思想しそうであるとはおもわなかった。手足てあしろんというのはだからぼくは、一時いちじてき回避かいひさくっていうか。シェルターにかれらはにゅうろうとした。自分じぶんたちの組織そしきまもるために健全けんぜんしゃ手足てあしてっしさせる、そうしないと崩壊ほうかいすると、そういうまぁ、せっぱつまったところにいたんじゃないかなとは理解りかいしているんだけどね。そういうものとしててきたことは理解りかいできるけど、本来ほんらいあおしば運動うんどう思想しそうてきなものとは相容あいいれないとふうおもっていますけどね。いまでも。

山口やまぐち:それは、そのどういうてん理解りかいできないっていう。一方いっぽうてき健全けんぜんしゃわれっていうのはおかしいとはわかるんですけど。大阪おおさかはそういうなんていうか、神奈川かながわ思想しそうてきなものっていうのは結構けっこうはいってはきていたんですか。

小林こばやし横塚よこつかさんはよく大阪おおさかて、Mさんとかとそういうひとたちと、はなしをしていたし。当然とうぜんあおしば思想しそうてきなものははいってきている。それがかくに、かくひとたちっていうのは、共有きょうゆうしていたとおもうんだけど。関西かんさいというのは、一番いちばん運動うんどうひろがったんですよ。量的りょうてきにね。そのなかで矛盾むじゅんてくるというのがあるんですよね。だから、本来ほんらいはそういうさい重度じゅうどの、そのあおしば一番いちばん重度じゅうどひと障害しょうがいしゃ基点きてんかんがえなければいけないとってたけれども。げんにそういうひとたちが、施設しせつとかいろんなところからてきたときにね。あおしばがそれまで主張しゅちょうしてきたことが、なかなか通用つうようしにくくなってきた。これはさっきった「大衆たいしゅう」との矛盾むじゅんてきた。そうすると、そのなか思想しそうてききたえなおさなればいけない。そうだったんだけど、ぎゃくちぢこまった。自分じぶんたちをまもろうと。ちぢこまって、自分じぶんたちをまもろうとしたのが「手足てあしろん」だと。運動うんどう方向ほうこうせいとしてはぎゃくいたんじゃないかとおもうんですよ。それ以前いぜんにもあおしば横塚よこつか横田よこた思想しそうせいさい確認かくにんしていくというのはやっぱり大変たいへんだったとおもうんですけどね。その、きたえなおすというのは、知的ちてき障害しょうがいしゃとかの運動うんどう精神せいしん障害しょうがいしゃとか、重度じゅうど重複じゅうふく障害しょうがいしゃ問題もんだいあおしばはそういうものをめなかった。やっぱり、感性かんせい思想しそうせいするどひとしかになっていけないという運動うんどうだったんだろうね。それがあおしば魅力みりょくだったとおもうんだけど。その魅力みりょくがあるがゆえに、かべにぶつかって。そのかべこわす、えようとするチャンスが、その77ねん、78ねんだったとおもうんだけど。それができなかった。それはだれのせいでもなかったんだけど、限界げんかいだったと。それでぎゃくに、ちぢこまった。そういうふうに、そのひとつの手段しゅだん手足てあしろん。それをすことによって自分じぶんたちの組織そしきまもろうとしたっていう。それはまぁぼく見方みかたであって、ほかのひとたちはまたべつ見方みかたをするかもしれないけど。それまでのあおしば運動うんどうというのは、ひろがりが78ねんあたりで、あの、全国ぜんこく組織そしきもなくなる。運動うんどうてきには影響えいきょうりょく減退げんたいする団体だんたいになってしまったわけだね。あのときがターニングポイントだったかなとおもいますね。

山口やまぐち組織そしきまもるためにしていて。

小林こばやし組織そしきまもるとぼくは、そうおもっているだけだけどね。

山口やまぐち:その、になるのは介助かいじょはしなきゃいけないじゃないですか。それで、運動うんどうめんで、健全けんぜんしゃてきだとかどうとかって、そういうふううと介助かいじょしゃがいなくなっちゃうじゃないですか。その部分ぶぶんはどのようにしていてたというか。明日あした介助かいじょしゃいなくなっちゃったらもともないじゃないですか。かりに、手足てあしろんったら健全けんぜんしゃはなれるっていう予測よそくはつくじゃないですか。だから、こう覚悟かくごしていったというよりも、ひろがっちゃったとおもうんですが。どうでしょう。

小林こばやし:その手足てあしろんで?

山口やまぐち:その手足てあしろんてきかんがかたにもとづくいろんなことですけど。

小林こばやし関西かんさいでもあおしば関西かんさい連合れんごうかいっていうのがあったけど。大阪おおさかだけはあおしばかい健全けんぜんしゃのこすということにしたんですよね。あおしばかい解散かいさんすると。当時とうじ大阪おおさかあおしば中心ちゅうしんだったとおもうのはOさん。さい重度じゅうど脳性のうせいマヒしゃで、寝返ねがえりもうてない。だから、介助かいじょしゃ一時いちじあいだおきにがえりをさせないといけない。そういうさい重度じゅうど。それでかれは、健全けんぜんしゃ組織そしきをつぶしたらきていけないという自覚じかくがあったから、健全けんぜんしゃ組織そしきのこした。だからAさんたちも、そのグループゴリラものこった。関西かんさいあおしば運動うんどうひろがったときからあったことなんだけど。これは神奈川かながわあおしばかいひとたちのゆたかな感性かんせいとかそういうものが大衆たいしゅうするなかで、そういうものをたないひとはいってくるようになったとったけど、それは関西かんさいでは顕著けんちょで。介助かいじょしゃ日常にちじょうてきりないから、ビラをまいたり、友達ともだち友達ともだち電話でんわをしたりして介助かいじょしゃつのるんだけど。人気にんきのある障害しょうがいしゃとまったく人気にんきのない障害しょうがいしゃがいるわけ、どうしてもね。関西かんさいでもそういう状況じょうきょうがあったから、介助かいじょしゃあつめやすい障害しょうがいしゃと、あつめにくい障害しょうがいしゃがいた。関係かんけいせいのなかであつめていくわけだから。それで魅力みりょくった障害しょうがいしゃきてけるだろうという判断はんだんがあったんでしょうね。関西かんさいのなかでも、介助かいじょしゃあつめやすい障害しょうがいしゃ大丈夫だいじょうぶという判断はんだんがあったんだろうとおもう。そうではない障害しょうがいしゃというのは在宅ざいたくにもどったり、施設しせつにもどったりという状況じょうきょうまれたんですよね。組織そしきをつぶしたことによって。うん。

山口やまぐち手足てあしろんというのはあおしば運動うんどう縮小しゅくしょうさせてしまったということだとおもうんですけど。そのあおしば運動うんどう縮小しゅくしょうさせてしまい、その副次的ふくじてきには、健全けんぜんしゃ運動うんどう分解ぶんかいしてしまったので、こういうぼくみたいなあとからったひとからすると「そんなことわなきゃいいのに」というかんじもするんですけど。それをわないといけないくらいにめられていたということなんですかね。

小林こばやし:そうとうひどい状況じょうきょうだったんだとおもう。運動うんどう内部ないぶでね。

山口やまぐち:あるしゅこう、「えい!」みたいなかんじで、なげやりではないけれども結構けっこうっちゃえ」みたいなかんじで。「手足てあしろん」というものがこう、こうあの、えっと。『あゆみ』じょう、『あゆみ』でなんかこう、養護ようご学校がっこう義務ぎむ闘争とうそう街頭がいとうのあれをやるつもりだったんだけれども、事務じむきょくひとがなにも介助かいじょをしなくて、それで「健全けんぜんしゃてきだ」というようになったといてあったんですよね。

小林こばやし:そのはなしらないけど…。

山口やまぐち:そのはなしはその、なんか、たたいたとかなんとかで、喧嘩けんかしたときにたたいたとかっていう。それでおこったとかいう。

小林こばやし健全けんぜんしゃ暴力ぼうりょくをふるったわけ?

山口やまぐち:そうです。そういうことがいてあったんですけど。

小林こばやし:それはなんねんごろかな。

山口やまぐち:『あゆみ』なんで、そのぱっとせないんですけど。そういてあって、その素朴そぼく感想かんそうというか、その些細ささいはなしだなと。その介助かいじょしゃ怠慢たいまんで「おまえうごけ」とったら喧嘩けんかになって、たたいたみたいな。それで、きゅう健全けんぜんしゃ組織そしきをつぶすんだみたいなことになったらしいんですけど。でも、そのなんていうか、些細ささいかんじというか。あくまでも、そのもともとあった導火どうかせんにこのけんいたみたいな、そういうイメージをけたんですけど。められなくなったみたいな。

小林こばやし:それがきっかけというはなしなのかな。

山口やまぐち:まぁイメージをけたんですけど。

小林こばやし:ぼくなんか関西かんさいにいて、関西かんさい視点してんはなしてるから。それは神奈川かながわはなしでしょ?『あゆみ』だから。

山口やまぐち:はい。関西かんさいの。

小林こばやし:だからあったんでしょうね。そういうことが。そういうかさねで、関西かんさいで「緊急きんきゅうアピール」がるわけですよね。それがをつけて全国ぜんこく波及はきゅうした。それで「手足てあしろん」、その「見解けんかい」がだされて、健全けんぜんしゃ組織そしきをつぶすということになると。だから、そういうことはかさなっていたとおもうね。関西かんさいだけでなく全国ぜんこくてきに。

山口やまぐち:ありがとうございます。あとでじっくり自分じぶんでもかんがえます。あと、ひときたいことがあって。えっと、えーっと、「手足てあしろん」というかその、健全けんぜんしゃがわはあの「あたまさない」みたいないかたをしてて、障害しょうがいしゃのほうの機関きかんとかをむと、一番いちばんはやいので76ねんくらいですか「健全けんぜんしゃ集団しゅうだんあおしば手足てあしとなりきらせる」ためにつくったのにそれがえっと、その「なりきらせるためにつくったんだ」みたいなことがいてあって。『あゆみ』104ばんいてあって、104ばんなんでいてあって、それがたのは1978ねんだとおもうんですけど。そのなかに、えっとだい2かい全国ぜんこく大会たいかいでその時期じきはやっぱり、実際じっさいに78ねん、77ねん以降いこうとかだとおもうんですけど、小林こばやしさんがいているとおり、全国ぜんこくだい3かいから見解けんかいあいだっていうことだとおもうんですけど。えっと、いまきたいのはその、障害しょうがいしゃ運動うんどうひとは「なりきらせる」ってってて、Aさんは「なりきらせる」とかじゃなくて「あたまさない」というはなしでいたのに。その、障害しょうがいしゃ理解りかいでは「なりきらせる」ためにつくったと最初さいしょからってるんだみたいなことをいてあって。それは本当ほんとうにそうなのかというのをきたいんですけど。その「なりきらせる」と「あたまさない」というのはちがうかなと。その最初さいしょから健全けんぜんしゃ集団しゅうだんというものにたいする認識にんしき齟齬そごというものにあったのかなとおもうんですけど。

小林こばやし:ぼくは「手足てあしになりきらせる」というのはあおしばにずっとあったのかはからないんだけど。ぼくもちょっといたようながするんだけど、いつからあったのかからないみたいな。だいたいはばたせてるとおもうんだけど。そういう議論ぎろん関西かんさいではほとんどなかったし。手足てあしになりきらなきゃいけないというかたちで、うーん、その介助かいじょなか原則げんそく確認かくにんするとかね、そんなことはなかったとおもう。ただ、やっぱり差別さべつせい差別さべつしゃ差別さべつしゃという関係かんけいは。
------------------会議かいぎソフトの接続せつぞく不安定ふあんていになる---------------------

山口やまぐち:あ、こえますか?

小林こばやし:あぁまっちゃって。

山口やまぐち:すみません、ぼくのWIFIが不安定ふあんていでした。

小林こばやし:あぁ、つづき。なんだっけ。

山口やまぐち:77ねん7がつ見解けんかいがでていて、その、『あゆみ』じょうでその「もうわせ」が。健全けんぜんしゃ支援しえん行動こうどう委員いいんかいと「手足てあしてっする」というもうわせがあったのが、42、「あゆみ」の42ばんが4月で。そのだからそのあいだでってことをかれているんですけど。それはあきらか、その「もうわせ」を基点きてんにするんであれば、77ねん、78ねんにということになるとおもうんですけど。

小林こばやし:それよりまえに、なりきらせるという議論ぎろんがあったということかな。

山口やまぐち:それはえっと、『あおしば』の104ばんいてあったのは、健全けんぜんしゃ集団しゅうだんは「あおしば手足てあしとしてなりきらせる」という認識にんしきをしていたんだけど、104ばんが78ねんているとおもうんですけど、そういうことがいてあって。Aさんは「手足てあしす」とって、あーえっと「あたまさない」ということをっていて。だからやっぱり「なりきらせる」と「す」では全然ぜんぜんちがはなしだとおもうんですけど。

小林こばやし:あー、そうだよね。こうけだとおもうんだよね。

山口やまぐち:あー。

小林こばやし:あー、そういう「なりきらせる」ということをったときに、健全けんぜんしゃあつまってくるとおもう?

山口やまぐち:(笑)

小林こばやし:いやー、あつまらないとおもうよね。だから、なんていうか。あつまらない。ただ、自分じぶん差別さべつせいかないということを障害しょうがいしゃたちから指摘してきされて、それにいていくということは大事だいじなことだよね。だから、花園大はなぞのだい論文ろんぶんにもいたけれども、障害しょうがいしゃ自身じしん差別さべつせいかかんでいるからね、そこをやっぱり自覚じかくしてたからね。横田よこたさん横塚よこつかさんはね。それはいているし、だから、障害しょうがいしゃ健全けんぜんしゃというのがて、健全けんぜんしゃ障害しょうがいしゃ手足てあしてっするべきだということはなにさないということはかっているとおもう。だから、健全けんぜんしゃとぶつかりあうことで障害しょうがいしゃ自分じぶん自身じしん差別さべつせいくことになるとおもうんだよね。だから、「なりきらせる」ために組織そしきつくったというのはぼく間違まちがっているとおもうんだよね。ちょっとちがうかなとぼくおもうんですよね。

山口やまぐち:ぼくもそういうがして、横塚よこつかさんとか、そういうことわないかなというがしますよね。

小林こばやし:たぶん、こうけだとおもうし。どっかに資料しりょうがあればたいんだけれども、75、6ねんでそういう資料しりょうがあったとか。

山口やまぐちぼくさがしたんですけど、くて。

 

健全けんぜんしゃ手足てあしろんについて

小林こばやし 敏昭としあき 2011/03 可能かのうせいとしてのあおしば運動うんどう――「あおしば健全けんぜんしゃ手足てあしろん批判ひはんをてがかりに」,『人権じんけん教育きょういく研究けんきゅうだい19ごう花園大学はなぞのだいがく人権じんけん教育きょういく研究けんきゅうセンター,pp21-33.

作成さくせい山口やまぐち 和紀かずのり
UP:20210813 
『「健常けんじょう」であることをつめる―いちきゅうなな年代ねんだい障害しょうがい当事とうじしゃ/健全けんぜんしゃ運動うんどうから』 小林こばやし敏昭としあきさんに 緊急きんきゅうアピール 関西かんさいゴリラ連合れんごうかいつどうすべての兄弟きょうだい姉妹しまい 事項じこう
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