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Weber, Max『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
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『プロテスタンティズムの倫理りんり資本しほん主義しゅぎ精神せいしん

Weber, Max 190405 Die protestantische Ethik und der >>Geist<< des Kapitalismus.
=198901 大塚おおつか 久雄ひさお やく岩波いわなみ文庫ぶんこ,412+24p. ISBN:4-00-342093-4800

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last update: 20180223


Weber, Max 190405 Die protestantische Ethik und der >>Geist<< des Kapitalismus. =198901 大塚おおつか 久雄ひさお やく,『プロテスタンティズムの倫理りんり資本しほん主義しゅぎ精神せいしん』,岩波いわなみ文庫ぶんこ,412+24p. ISBN-10: 4003420934 ISBN-13: 978-4003420935 1080+ [amazon][kinokuniya]

内容ないよう言及げんきゅう

・このほん紹介しょうかい作成さくせい:T(立命館大学りつめいかんだいがく政策せいさく科学かがく2回生かいせい

はじめに

このほんは、ドイツの社会しゃかい学者がくしゃマックス・ヴェーバー(ウェーバーとするものもある)が、資本しほん主義しゅぎ成立せいりつと、宗教しゅうきょうのかかわりについて考察こうさつしたものである。原版げんばんは1920ねん刊行かんこうされている。ここで取上とりあげられているのは、資本しほん主義しゅぎ、とりわけ合理ごうり主義しゅぎもとづく近代きんだい資本しほん主義しゅぎが、とく宗教しゅうきょう改革かいかくのプロテスタンティズムのさかんだった地域ちいきにおいてとく発展はってんしているという事実じじつ重視じゅうしし、これらプロテスタンティズムてきおしえと資本しほん主義しゅぎがいかに関連かんれんしているのかを考察こうさつしている。

だい1しょう 問題もんだい

1. 信仰しんこう社会しゃかいそう分化ぶんか

マックス・ヴェーバーは「近代きんだいてき資本しほん所有しょゆう企業きぎょう、または上層じょうそう熟練じゅくれん労働ろうどうしゃそうとく技術ぎじゅつてきあるいは商人しょうにんてき訓練くんれんのもとに教育きょういくされた従業じゅうぎょうしゃたちについてみても、かれらがいちじるしくプロテスタントてき色彩しきさいびている」 というてん注目ちゅうもくする。より実利じつりてき教育きょういくをうける高等こうとう学校がっこう進学しんがくある割合わりあいが、カトリックにくらべてプロテスタントのほう格段かくだんたかく、カトリックのほう資本しほん主義しゅぎてき営利えいりたずさわることがすくないという。マックス・ヴェーバーはこれらの事実じじつは、「故郷こきょう両親りょうしん家庭かてい宗教しゅうきょうてき雰囲気ふんいきによって制約せいやくされた教育きょういく方向ほうこうが、職業しょくぎょう選択せんたくとそのにおける職業しょくぎょうじょう運命うんめい決定けっていしている。」 とかんがえた。
上述じょうじゅつしたようなかんがかたからると、プロテスタンティズムは宗教しゅうきょうてき制約せいやくからはなれ、世俗せぞくしているようにもおもえる。しかし、ルターやカルヴァンを中心ちゅうしんとした宗教しゅうきょう革命かくめいは、教会きょうかい(換言かんげんすれば宗教しゅうきょう)の支配しはい否定ひていしたわけではない。「従来じゅうらいとはべつ形態けいたいでの支配しはいえただけであり、しかも従来じゅうらい形態けいたいによる宗教しゅうきょう支配しはいがきわめてらくな、・(中略ちゅうりゃく)・・おおくの場合ばあいいほとんど形式けいしきぎないものだったのにはんして、あたらしくもたらされたものは、およそかんがえうるかぎり家庭かてい生活せいかつ公的こうてき生活せいかつ全体ぜんたいにわたっておそろしくきびしく、また厄介やっかい規律きりつ要求ようきゅうするものだった」 というてんである。事実じじつ、プロテスタント(とりわけカルヴァン)の現世げんせいてき禁欲きんよくてき生活せいかつは、おおくの市民しみんにとって容易よういれるのが困難こんなんなほどきびしいものであったのである。しかし、事実じじつこれらの禁欲きんよくてきプロテスタンティズム信仰しんこうあつ地域ちいきほど、資本しほん主義しゅぎがより高度こうど発達はったつしていく。ここでマックスヴェーバーは、「相反あいはんするような「禁欲きんよくてき信仰しんこう」と「資本しほん主義しゅぎてき営利えいり活動かつどう」は対立たいりつするものではなくて、むしろぎゃくに、相互そうご内面ないめんてき親和しんわ関係かんけいにあるとかんがえるべきではないか、」 とする。

2. 資本しほん主義しゅぎ精神せいしん

このこうでヴェーバーは資本しほん主義しゅぎてき精神せいしん端的たんてきあらわすものとしてベンジャミン・フランクリンの小話こばなしげる。ここでフランクリンは「時間じかん貨幣かへい」「貨幣かへい増殖ぞうしょくむ」などのいいまわしで、節約せつやく勤勉きんべんく。ヴェーバーはこの「吝嗇りんしょく哲学てつがく」の「信用しんようのできる立派りっぱ人物じんぶつという理想りそう、とりわけ自分じぶん資本しほん増加ぞうかさせることを自己じこ目的もくてきかんがえるのが各人かくじん義務ぎむだという思想しそう」 に注目ちゅうもくする。この説教せっきょう内容ないようは「独自どくじの『倫理りんり』であり、これに違反いはんすることは愚鈍ぐどんというだけでなく、一種いっしゅ義務ぎむ違反いはんとされ」 たのである。この一種いっしゅ原理げんりてき貨幣かへい獲得かくとくのための努力どりょくは、利己りこてき営利えいり享楽きょうらく追求ついきゅうとは一線いっせんかくするものであり、純粋じゅんすい自己じこ目的もくてきとされることにより、「営利えいり人生じんせい目的もくてきとされ、人間にんげん物質ぶっしつてき生活せいかつ欲求よっきゅうたすための手段しゅだんとはかんがえられていない」 というてんがそれまでの、貨幣かへい獲得かくとくという結果けっかのみにおもきをおいているものとはことなっている。ヴェーバーはこれらのかんがえを「近代きんだい資本しほん主義しゅぎのエートス」 とかんがえたのである。さらにこのエートスが社会しゃかいのシステムのなかまれていったことが近代きんだい合理ごうりてき資本しほん主義しゅぎ形成けいせいふか関与かんよしたとして重要じゅうようし、このエートスを「資本しほん主義しゅぎ精神せいしん」と位置付いちづける。

ヴェーバーはこれらエートスの存在そんざいが、それまで存在そんざいしたような貨幣かへい中心ちゅうしんとした経済けいざいてき活動かつどう古代こだい中世ちゅうせいにおける資本しほん主義しゅぎとのおおきなちがいであるとしている。事実じじつ古代こだいバビロニアや中国ちゅうごく、インドなどにおいて貨幣かへい中心ちゅうしんとした経済けいざい体制たいせい存在そんざいしており、そこではさら貪欲どんよくで、徹底的てっていてき貨幣かへい獲得かくとく活動かつどうおこなわれていたことをおもっても、「貨幣かへい獲得かくとくの『衝動しょうどう』の強弱きょうじゃく資本しほん主義しゅぎとそれ以前いぜんがあるわけではない」 。

労働ろうどうたんなる貨幣かへい獲得かくとく活動かつどうとはせず、倫理りんりてき一種いっしゅ義務ぎむとし、労働ろうどうによってかみ栄光えいこうすという資本しほん主義しゅぎてき精神せいしん表出ひょうしゅつさせるには、労働ろうどうそのものにある一定いってい価値かち付加ふかさせる必要ひつようがあった。一種いっしゅ天職てんしょく(Beruf)ともうべき概念がいねん出現しゅつげんはこのようなながれからたとき、当然とうぜん帰結きけつえるのかもしれない。

しかし、これら「資本しほん主義しゅぎてき精神せいしん」を企業きぎょうにとって、現実げんじつ経済けいざい活動かつどう伝統でんとう主義しゅぎてきなものであった。そういった意味いみ資本しほん主義しゅぎてき精神せいしんにとって対抗たいこうすべき最大さいだいてきは「伝統でんとう主義しゅぎ」とでもうものであった。

3. ルッターの天職てんしょく概念がいねん

職業しょくぎょう意味いみするドイツであるBerufは「ある宗教しゅうきょうてきな―かみからあたえられた使命しめい (Aufgabe) という―観念かんねんがともにこめられて」 いるとされる。さらにこれら天職てんしょく思想しそう宗教しゅうきょう改革かいかく産物さんぶつであったとしている。宗教しゅうきょう改革かいかく主要しゅよう人物じんぶつであったルターは「各人かくじん具体ぐたいてき職業しょくぎょうかみみちびきによってあたえられたものであり、この具体ぐたいてき地位ちいたせとうのがかみ特別とくべつ命令めいれいだ」 とかんがえた。この思想しそう資本しほん主義しゅぎてき天職てんしょく概念がいねんむすびつき、資本しほん主義しゅぎ発達はったつおおきく影響えいきょうしたというのである。

しかし、これらおおくの改革かいかくしゃ目的もくてきは、社会しゃかい思想しそう植付うえつけでも社会しゃかい改革かいかくでもなく、純粋じゅんすいたましい救済きゅうさいであったことわすれてはならない。このように当人とうにん意図いとしたレベルとはちが結果けっかすことがあることもわすれてはならないことであろう。

だい2しょう 禁欲きんよくてきプロテスタンティズムの天職てんしょく倫理りんり

1. 世俗せぞくない禁欲きんよく宗教しゅうきょうてきしょ基盤きばん

資本しほん主義しゅぎ精神せいしんにおいてとりわけおおきな影響えいきょうあたえたものとして、当時とうじヨーロッパでもっとすすんだ文明ぶんめいこくであった、オランダ、イギリス、フランスなどにおいて政治せいじてき文化ぶんかてき争点そうてんとなっていたカルヴィニズムがげられる。カルヴィニズムのおしえの特徴とくちょうとしては定説ていせつがある。定説ていせつとは「ひとかみによってまれる以前いぜんからすくわれるものとそうでないものけられており、それはひとがいかなる行動こうどうおこなってもることものがれることもできないものである」とする思想しそうである。カルヴァンは「人間にんげんのためにかみがあるのではなく、かみのために人間にんげん存在そんざいするのであって、あらゆる出来事できごとは−・・・−ひたすらいとたかかみ自己じこさかえはな手段しゅだんそして意味いみつにぎない。」 とし、さらには「(すくわれるものとそうでないもの)をることすら出来できない」 としている。これら現在げんざいわたしたちからると非常ひじょう悲壮ひそうおしえのなかで、人々ひとびとはより一層いっそう内面ないめんてき孤立こりつすすみ、これらの孤立こりつは、個人こじんてき活動かつどうにおいてより合理ごうりてき行為こういすすめることとなり、職業しょくぎょうてき分業ぶんぎょうすすんだとヴェーバーは考察こうさつする。

カルヴァンの定説ていせつ先述せんじゅつしたルターの天職てんしょく概念がいねんは、程度ていどこそあれ、プロテスタンティズムのおおくにられた特徴とくちょうであり、これらふたつがむすびついた結果けっか資本しほん主義しゅぎのエートスの出現しゅつげんおおきな役割やくわりたした。

カルヴィニズムにとり、自分じぶんすくわれているかかのてん内面ないめんにおけるおおきな疑問ぎもんとしてのこることは想像そうぞうかたくない。とりわけこれら内面ないめん苦悩くのううことをおおきなテーマであったまき会派かいはにおいては、「自分じぶんえらばれているのだとあくまでもかんがえる」 ことであり「自己じこ確信かくしんのないことは信仰しんこう不足ふそく結果けっか」 (すくいの確証かくしょう)とし、それらの確信かくしんるためのもっとすぐれた手段しゅだんとしての職業しょくぎょう労働ろうどう推奨すいしょうされた。つまり「職業しょくぎょう労働ろうどうによって、むしろ職業しょくぎょう労働ろうどうによってのみ宗教しゅうきょうじょう疑惑ぎわく追放ついほうされ、すくわれているとの確信かくしんられる」 とした。カルヴァンみずからので「自分じぶんすくいを―正確せいかくにはすくいの確信かくしんを・・・―つくりだす」 のであり、さらにそれらはカトリックでみとめられていたような"善行ぜんこうかさね"によるものではなく、つねかみ栄光えいこうすために、一種いっしゅ人間にんげんてき生活せいかつもとめたのである。その結果けっかとしてカルヴィニズムは個人こじんによる善行ぜんこうかさねをはいし、組織そしきてき合理ごうりてきかみ栄光えいこう体現たいげんもとめるこことなる。

カトリックにいて宗教しゅうきょうてき禁欲きんよく生活せいかつは、修道しゅうどうなどにられるように一種いっしゅ世俗せぞくからはなれた特別とくべつなものであり、「自然しぜんなもの」としての生活せいかつえた善行ぜんこうによってかみすくいをようとするものであった。それがプロテスタンティズムにおいては「「すくいの確証かくしょう」を基盤きばんとし、恩恵おんけい地位ちいえらばれししゃとしての)を保持ほじするために生活せいかつ方法ほうほうてき統御とうぎょし、・・・かみ意思いしにあわせてぜん存在そんざい合理ごうりてき形成けいせいする」 ことをもとめた。これら合理ごうりせい禁欲きんよくてきプロテスタンティズムの転職てんしょく概念がいねんした産物さんぶつであったとることができる。

感想かんそう カルヴィニズムと儒教じゅきょう差異さいせい資本しほん主義しゅぎ

ヴェーバーのろんつと、この"組織そしきてき合理ごうりてき職業しょくぎょう推進すいしん"がとりわけヨーロッパにおいて、資本しほん主義しゅぎ高度こうど発展はってんした要因よういんひとつということが可能かのうであろう。先述せんじゅつしたが、アジアや地域ちいきにおいても資本しほん主義しゅぎてき世界せかい存在そんざいした。たとえばアジアにおいては中国ちゅうごく中心ちゅうしん高度こうど資本しほん主義しゅぎてき経済けいざい社会しゃかい形成けいせいされていた。しかし、アジアおける資本しほん主義しゅぎヨーロッパほどの組織そしきてき合理ごうりてきなものでなかったとかんがえられる。結果けっかとして、その世界せかい経済けいざい牛耳ぎゅうじったヨーロッパてき資本しほん主義しゅぎとはおおきくことなるてんおおい。その原因げんいんとしては、プロテスタンティズムと儒教じゅきょう思想しそうちがいがかんがえられる。儒教じゅきょうてき思想しそうにおいては、人格じんかく理性りせいもとづく一種いっしゅ"どう"思想しそう存在そんざいしていた。換言かんげんすれば、テンニースのうゲマインシャフトてき要素ようそ重視じゅうししたものとることができるのではないだろうか。結果けっかとして、現在げんざい国際こくさいてき批判ひはんされているような家父長制かふちょうせいやイエ社会しゃかい構築こうちくかったとることができる。たいしてプロテスタンティズム、とくにカルヴィニズムは、基本きほんてき他者たしゃたいする信頼しんらい否定ひていしている。それは家族かぞく血縁けつえんというものにかんしても同様どうようである。ヨーロッパがた資本しほん主義しゅぎ特徴とくちょう高度こうど組織そしきされ、合理ごうりてき判断はんだんもとづく功利こうり主義しゅぎにあるとしてみると、ゲセルシャフトてき要素ようそがあるとることもできる。そのてんいて、カルヴィニズムが推進すいしんしたほどの徹底的てっていてき合理ごうり組織そしきこらなかったとることも可能かのうであろう。

ヴェーバーのこの論文ろんぶんが、世界せかいあたえた影響えいきょうおおきかったといわれる。経済けいざい発展はってん宗教しゅうきょうてきエートスをむすびつけた宗教しゅうきょう社会しゃかいがく基本きほんしょともわれているが、自分じぶん自身じしんえてみたとき、発展はってん一種いっしゅ義務ぎむとし、"天職てんしょく"をもとめているのをわたし自身じしんかんじることがおおい。それらのかんがえを自己じこ実現じつげんというかたちわたしくちにするが、成長せいちょうつづけること一種いっしゅ義務ぎむとし、みずからの選択せんたくはばせばめ「存在そんざいすることそのものの価値かち」をおとしめていることがあるのかもしれない。

以上いじょう:T 以下いか立岩たていわ

立岩たていわ しん也 1997 私的してき所有しょゆうろん だい6しょう

立岩たていわ しん也 2001/06/25 「停滞ていたいする資本しほん主義しゅぎのために――の準備じゅんび」,栗原くりはら佐藤さとう小森こもり吉見よしみへん[2001:99-124]→2006 『 』

べるものをみずからがはたらいてなくてはならないなら、わたしたちははたらく。しかし、はたら範囲はんいはその必要ひつようえることがない。[…]しかし、その生産せいさんすることがわたし価値かちにつながっているならば、わたし価値かちたかほうがよいのだから、そのためにその活動かつどうにいそしむことになる。『プロテスタンティズムの倫理りんり資本しほん主義しゅぎ精神せいしん』という高名こうみょうほん記述きじゅつされているのはこの装置そうちひとつである。ウェーバーがしるしたのは、かみさまのためになることをしたから褒美ほうびなにかしてもらえるという関係かんけい――この関係かんけいでは、かせいだぶんべて満足まんぞくしたらおしまいというのとおなじで、かみさまがうことをいてくれたらそれでわりになる――とことなるありかただった。わたしが、自発じはつてきに、生産せいさんすることにおいて、(すくいに予定よていされている)わたし表示ひょうじされるのである。これは定常ていじょう状態じょうたいからの離陸りりく成長せいちょう可能かのうにする。なにかにたいして主体しゅたいになることによって、わたし主体しゅたいであるようになる。このことは同時どうじに、そのわたしがこの仕掛しかけの作用さよう圏内けんないはいってしまっている、これに従属じゅうぞくしているということであり、またなにかにたいして主体しゅたいであることによってのみみずからが主体しゅたいとなれるということによって、つまりそのなにかはみずからの存在そんざい価値かち必要ひつよう条件じょうけんになることによって、じつは、そのわたしはそのなにかにたいしても従属じゅうぞくしているということである。さらにこうした構造こうぞうをもつ仕掛しかけは、プロテスタントの一部いちぶ特殊とくしゅ教義きょうぎにだけあるのではない。」


引用いんよう

世俗せぞくてき職業しょくぎょう内部ないぶにおける義務ぎむ遂行すいこうを、およそ道徳どうとくてき実践じっせんのもちうる最高さいこう内容ないようとして重要じゅうようしたことがそれだ。これこそが、その必然ひつぜん結果けっかとして世俗せぞくてき日常にちじょう労働ろうどう宗教しゅうきょうてき意義いぎみとめる思想しそうみ、そうした意味いみでの天職てんしょく(Beruf)という概念がいねん最初さいしょつくしたのだった。(p. 109)

かみは、各人かくじん生活せいかつじょう地位ちいからしょうじる世俗せぞくないてき義務ぎむ遂行すいこうをすることでよろこぶ。(かみからあたえられた召命)

修道院しゅうどういんられる生活せいかつは、かみとされるためにはまったく価値かちというだけでなく、現世げんせい義務ぎむからのがれようとする利己りこてきあい欠如けつじょ産物さんぶつだ、とルッターはかんがえた。(p. 110)
世俗せぞく職業しょくぎょう生活せいかつにこのような道徳どうとくてき性格せいかくをあたえたということが宗教しゅうきょう改革かいかくの、したがってとくにルッターの業績ぎょうせきのうちで、後代こうだいへの影響えいきょうがもっともおおきかったもののひとつだということは、実際じっさい疑問ぎもん余地よちがなく、もはや常識じょうしきだとってい。(p. 114)
ルッターが本書ほんしょにいう意味いみでの―あるいはまた、そののいかなる意味いみにおいても―「資本しほん主義しゅぎ精神せいしん」 と内面ないめんてき親和しんわ関係かんけいをもっていたなどとうことはもちろんできない。(p. 115)
宗教しゅうきょう改革かいかくのなしえたこと…カトリック教徒きょうと見解けんかいとは対照たいしょうてきに、世俗せぞくない職業しょくぎょうとして編制へんせいされた労働ろうどうたいして道徳どうとくてき重視じゅうし度合どあいや宗教しゅうきょうてき褒賞ほうしょうをいちじるしくつよめた。(p. 117)
ルッターは聖書せいしょからかれ天職てんしょく思想しそうみちびしたとかんがえたが、聖書せいしょはそれ自体じたいとしてると、典拠てんきょとなりうる個所かしょ全体ぜんたいとしてむしろ伝統でんとう主義しゅぎほう有利ゆうりだ。(p. 117)

ルッターの場合ばあい天職てんしょく概念がいねん結局けっきょく伝統でんとう主義しゅぎだっするにいたらなかった。(p. 125)

=トマス・アクイナスりゅう伝統でんとう主義しゅぎだった。=身分みぶん相応そうおう生活せいかつ満足まんぞくせよ。

ルッターおよびルッター教会きょうかい世俗せぞくてき職業しょくぎょうたいする態度たいどからは、天職てんしょく思想しそう直接的ちょくせつてきみちびすことができない。(p. 128? 11-17)
われわれもまず、様々さまざま形態けいたいのプロテスタンティズムのうち、その生活せいかつ実践じっせん宗教しゅうきょうてき出発しゅっぱつてんとの関連かんれんがルッター場合ばあいよりも一層いっそうたしかめやすいものをとって、それを観察かんさつするほうがよいようにおもわれる。(pp. 128-129)
カトリック信徒しんととルッター信徒しんと共通きょうつうするカルヴィニズムへの嫌悪けんおは、カルヴィニズムの倫理りんりてき特性とくせいのうちにもそのふかをもっている。(p. 129)
倫理りんりてき改革かいかく綱領こうりょうなどといったものはけっして中心ちゅうしん問題もんだいとなっていなかった。かれらはけっして「倫理りんりてき文化ぶんか」を目標もくひょうとする団体だんたい創設そうせつしゃでもなかったし、また人道じんどう主義しゅぎてき社会しゃかい改革かいかく運動うんどうやそうした理想りそう文化ぶんか代表だいひょうしゃでもなかった。かれらの生涯しょうがい事業じぎょう中心ちゅうしんたましい救済きゅうさいであり、それ以外いがいにはなかった。(pp. 133-134)
宗教しゅうきょう改革かいかく文化ぶんかてき影響えいきょうおおくが改革かいかくしゃたちの事業じぎょうからしょうじた、予期よきされない、いや全然ぜんぜん意図いとされなかった結果けっかであり、しばしばかれ自身じしん念頭ねんとうにあったものとははるかにかけはなれた、あるいはむしろせい反対はんたいのものだった。(p. 134)

☆ウェーバーのいいたいこと☆
経済けいざい制度せいどとしての資本しほん主義しゅぎ宗教しゅうきょう改革かいかく産物さんぶつということではなく…。

問題もんだいの「精神せいしん」の質的しつてき形成けいせいぜん世界せかいにわたる量的りょうてき拡大かくだいのうえに宗教しゅうきょう影響えいきょうがはたして、また、どの程度ていどあずかってちからがあったかということ、および資本しほん主義しゅぎ基盤きばんとする文化ぶんかのどのような具体ぐたいてき側面そくめんがそうした宗教しゅうきょう影響えいきょう帰着きちゃくするのかということだけなのだ。(pp. 135-136)。
→さしあたっては
特定とくてい形態けいたい宗教しゅうきょうてき信仰しんこう天職てんしょく倫理りんりとのあいだに、はたして、なんらかの「選択せんたくてき親和しんわ関係かんけい」がみとめられるか、またみとめられるとすれば、それはどのてんでか、ということを究明きゅうめいしていくよりほかない。(p. 136)

ウェーバー研究けんきゅうかいでの発言はつげんメモ:

金儲かねもうけは否定ひていてき=カトリック ルッタ=仕事しごと意味いみがある=かみすくわれる

資本しほん主義しゅぎ精神せいしんがなくても資本しほん主義しゅぎがなりたつ。しかし、ウェーバーがいいたいのは、資本しほん主義しゅぎ因果いんが関係かんけいではなく、資本しほん主義しゅぎ精神せいしん萌芽ほうがである。

資本しほん主義しゅぎ精神せいしんとは、おかねりょう増量ぞうりょうさせることによって、個人こじんかみすくわれているという証拠しょうこにするという精神せいしんである。おかねのマネージメントもかみたくされているということである。

世俗せぞくない仕事しごと意義いぎあたえたのがルッター。ルッターのいたテクストに資本しほん主義しゅぎ精神せいしんめるわけではない。

ゾンバルトはウェーバーのかんがえなかった資本しほん主義しゅぎにおける消費しょうひというかんがえだった。ゾンバルトの「貴族きぞくかんする消費しょうひ」のアンチテーゼとしてプロりん提出ていしゅつされた。

ウェーバーがいいたいのは、近代きんだいてき合理ごうり主義しゅぎ変革へんかく文化ぶんかかんしておおきなちからとしてプロりんである。つまり生活せいかつ態度たいど合理ごうりから現世げんせい合理ごうりというながれになった。

ルターとカルヴァン断絶だんぜつというが、連続れんぞくせい本当ほんとうにないのか? 改革かいかくなかでもルーターだけが公認こうにんされた。つまりカルヴァンがスイスからされた。連続れんぞくせいはある。

トマス・ミュンツァーは農民のうみん主義しゅぎひとでそれをルターが否定ひていした。

ルッターは身分みぶん秩序ちつじょ前提ぜんていにしたかみ意志いし。カルヴァンは、金儲かねもうけのチャンスがあるならどんどんもうけなさいというかみ意志いしだった。

◇Weber,Max http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/weber.htm


目次もくじ

訳者やくしゃ序文じょぶん
文庫ぶんこばんへのじょ
著者ちょしゃ序言じょげん

だい1しょう 問題もんだい
 1 信仰しんこう社会しゃかいそう文化ぶんか
 2 資本しほん主義しゅぎの「精神せいしん
 3 ルッターの天職てんしょく観念かんねん研究けんきゅう課題かだい
だい2しょう 禁欲きんよくてきプロテスタンティズムの天職てんしょく倫理りんり
 1 世俗せぞく内的ないてき禁欲きんよく宗教しゅうきょうてきしょ基礎きそ
 2 禁欲きんよく資本しほん主義しゅぎ精神せいしん

訳者やくしゃ解説かいせつ
主要しゅよう索引さくいん

言及げんきゅう



UP: 20040209 REV: 20091019 中田なかた 喜一きいち, 20100912, 20180223
社会しゃかいがく sociology  ◇ほん  ◇身体しんたい×世界せかい関連かんれん書籍しょせき 1980'  ◇2003年度ねんど受講じゅこうしゃ作成さくせいファイル  ◇2003年度ねんど受講じゅこうしゃあてeMAILs 
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