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Weber, Max『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
『プロテスタンティズムの倫理 りんり と資本 しほん 主義 しゅぎ の精神 せいしん 』
Weber, Max 190405 Die protestantische Ethik und der >>Geist<< des Kapitalismus .
=198901 大塚 おおつか 久雄 ひさお 訳 やく ,岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ ,412+24p. ISBN:4-00-342093-4800
last update: 20180223
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Weber, Max 190405
Die protestantische Ethik und der >>Geist<< des Kapitalismus . =198901
大塚 おおつか 久雄 ひさお 訳 やく ,『プロテスタンティズムの
倫理 りんり と
資本 しほん 主義 しゅぎ の
精神 せいしん 』,
岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ ,412+24p. ISBN-10: 4003420934 ISBN-13: 978-4003420935 1080+
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■内容 ないよう ・言及 げんきゅう
・この本 ほん の紹介 しょうかい の作成 さくせい :T(立命館大学 りつめいかんだいがく 政策 せいさく 科学 かがく 部 ぶ 2回生 かいせい )
はじめに
この本 ほん は、ドイツの社会 しゃかい 学者 がくしゃ マックス・ヴェーバー(ウェーバーとするものもある)が、資本 しほん 主義 しゅぎ の成立 せいりつ と、宗教 しゅうきょう のかかわりについて考察 こうさつ したものである。原版 げんばん は1920年 ねん に刊行 かんこう されている。ここで取上 とりあ げられているのは、資本 しほん 主義 しゅぎ 、とりわけ合理 ごうり 主義 しゅぎ に基 もと づく近代 きんだい 資本 しほん 主義 しゅぎ が、特 とく に宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 後 ご のプロテスタンティズムの盛 さか んだった地域 ちいき において特 とく に発展 はってん しているという事実 じじつ を重視 じゅうし し、これらプロテスタンティズム的 てき 教 おし えと資本 しほん 主義 しゅぎ がいかに関連 かんれん しているのかを考察 こうさつ している。
第 だい 1章 しょう 問題 もんだい
1. 信仰 しんこう と社会 しゃかい 層 そう 分化 ぶんか
マックス・ヴェーバーは「近代 きんだい 的 てき 資本 しほん 所有 しょゆう や企業 きぎょう 家 か 、または上層 じょうそう の熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ 層 そう 、特 とく に技術 ぎじゅつ 的 てき あるいは商人 しょうにん 的 てき 訓練 くんれん のもとに教育 きょういく された従業 じゅうぎょう 者 しゃ たちについてみても、彼 かれ らが著 いちじる しくプロテスタント的 てき 色彩 しきさい を帯 お びている」 という点 てん に注目 ちゅうもく する。より実利 じつり 的 てき な教育 きょういく をうける高等 こうとう 学校 がっこう に進学 しんがく ある割合 わりあい が、カトリックに比 くら べてプロテスタントの方 ほう が格段 かくだん に高 たか く、カトリックの方 ほう が資本 しほん 主義 しゅぎ 的 てき な営利 えいり に携 たずさ わることが少 すく ないという。マックス・ヴェーバーはこれらの事実 じじつ は、「故郷 こきょう や両親 りょうしん の家庭 かてい の宗教 しゅうきょう 的 てき 雰囲気 ふんいき によって制約 せいやく された教育 きょういく の方向 ほうこう が、職業 しょくぎょう の選択 せんたく とその後 ご における職業 しょくぎょう 上 じょう の運命 うんめい を決定 けってい している。」 と考 かんが えた。
上述 じょうじゅつ したような考 かんが え方 かた から見 み ると、プロテスタンティズムは宗教 しゅうきょう 的 てき 制約 せいやく から離 はな れ、世俗 せぞく 化 か しているようにも思 おも える。しかし、ルターやカルヴァンを中心 ちゅうしん とした宗教 しゅうきょう 革命 かくめい は、教会 きょうかい (換言 かんげん すれば宗教 しゅうきょう )の支配 しはい を否定 ひてい したわけではない。「従来 じゅうらい とは別 べつ の形態 けいたい での支配 しはい に変 か えただけであり、しかも従来 じゅうらい の形態 けいたい による宗教 しゅうきょう の支配 しはい がきわめて楽 らく な、・(中略 ちゅうりゃく )・・多 おお くの場合 ばあい いほとんど形式 けいしき に過 す ぎないものだったのに反 はん して、新 あたら しくもたらされたものは、およそ考 かんが えうるかぎり家庭 かてい 生活 せいかつ と公的 こうてき 生活 せいかつ の全体 ぜんたい にわたって恐 おそ ろしく厳 きび しく、また厄介 やっかい な規律 きりつ を要求 ようきゅう するものだった」 という点 てん である。事実 じじつ 、プロテスタント(とりわけカルヴァン派 は )の非 ひ 現世 げんせい 的 てき で禁欲 きんよく 的 てき 生活 せいかつ は、多 おお くの市民 しみん にとって容易 ようい に受 う け入 い れるのが困難 こんなん なほど厳 きび しいものであったのである。しかし、事実 じじつ これらの禁欲 きんよく 的 てき プロテスタンティズム信仰 しんこう が厚 あつ い地域 ちいき ほど、資本 しほん 主義 しゅぎ がより高度 こうど に発達 はったつ していく。ここでマックスヴェーバーは、「相反 あいはん するような「禁欲 きんよく 的 てき 信仰 しんこう 」と「資本 しほん 主義 しゅぎ 的 てき 営利 えいり 活動 かつどう 」は対立 たいりつ するものではなくて、むしろ逆 ぎゃく に、相互 そうご に内面 ないめん 的 てき な親和 しんわ 関係 かんけい にあると考 かんが えるべきではないか、」 とする。
2. 資本 しほん 主義 しゅぎ の精神 せいしん
この項 こう でヴェーバーは資本 しほん 主義 しゅぎ 的 てき 精神 せいしん を端的 たんてき に表 あらわ すものとしてベンジャミン・フランクリンの小話 こばなし を挙 あ げる。ここでフランクリンは「時間 じかん は貨幣 かへい 」「貨幣 かへい は増殖 ぞうしょく し子 こ を産 う む」などのい回 いまわ しで、節約 せつやく や勤勉 きんべん を説 と く。ヴェーバーはこの「吝嗇 りんしょく の哲学 てつがく 」の「信用 しんよう のできる立派 りっぱ な人物 じんぶつ という理想 りそう 、とりわけ自分 じぶん の資本 しほん を増加 ぞうか させることを自己 じこ 目的 もくてき と考 かんが えるのが各人 かくじん の義務 ぎむ だという思想 しそう 」 に注目 ちゅうもく する。この説教 せっきょう の内容 ないよう は「独自 どくじ の『倫理 りんり 』であり、これに違反 いはん することは愚鈍 ぐどん というだけでなく、一種 いっしゅ の義務 ぎむ 違反 いはん とされ」 たのである。この一種 いっしゅ 原理 げんり 的 てき な貨幣 かへい 獲得 かくとく のための努力 どりょく は、利己 りこ 的 てき 営利 えいり や享楽 きょうらく の追求 ついきゅう とは一線 いっせん を画 かく するものであり、純粋 じゅんすい に自己 じこ 目的 もくてき とされることにより、「営利 えいり は人生 じんせい の目的 もくてき とされ、人間 にんげん が物質 ぶっしつ 的 てき 生活 せいかつ の欲求 よっきゅう を満 み たすための手段 しゅだん とは考 かんが えられていない」 という点 てん がそれまでの、貨幣 かへい の獲得 かくとく という結果 けっか のみに重 おも きをおいているものとは異 こと なっている。ヴェーバーはこれらの考 かんが えを「近代 きんだい 資本 しほん 主義 しゅぎ のエートス」 と考 かんが えたのである。さらにこのエートスが社会 しゃかい のシステムの中 なか に組 く み込 こ まれていったことが近代 きんだい 合理 ごうり 的 てき 資本 しほん 主義 しゅぎ の形成 けいせい に深 ふか く関与 かんよ したとして重要 じゅうよう 視 し し、このエートスを「資本 しほん 主義 しゅぎ の精神 せいしん 」と位置付 いちづ ける。
ヴェーバーはこれらエートスの存在 そんざい が、それまで存在 そんざい したような貨幣 かへい を中心 ちゅうしん とした経済 けいざい 的 てき な活動 かつどう =古代 こだい 、中世 ちゅうせい における資本 しほん 主義 しゅぎ との大 おお きな違 ちが いであるとしている。事実 じじつ 、古代 こだい バビロニアや中国 ちゅうごく 、インドなどにおいて貨幣 かへい を中心 ちゅうしん とした経済 けいざい 体制 たいせい は存在 そんざい しており、そこでは更 さら に貪欲 どんよく で、徹底的 てっていてき な貨幣 かへい 獲得 かくとく の活動 かつどう が行 おこな われていたことを思 おも っても、「貨幣 かへい 獲得 かくとく の『衝動 しょうどう 』の強弱 きょうじゃく は資本 しほん 主義 しゅぎ とそれ以前 いぜん の差 さ があるわけではない」 。
労働 ろうどう を単 たん なる貨幣 かへい 獲得 かくとく 活動 かつどう とはせず、倫理 りんり 的 てき な一種 いっしゅ の義務 ぎむ とし、労働 ろうどう によって神 かみ の栄光 えいこう を増 ま すという資本 しほん 主義 しゅぎ 的 てき 精神 せいしん を表出 ひょうしゅつ させるには、労働 ろうどう そのものにある一定 いってい の価値 かち を付加 ふか させる必要 ひつよう があった。一種 いっしゅ 天職 てんしょく (Beruf)とも言 い うべき概念 がいねん の出現 しゅつげん はこのような流 なが れから見 み たとき、当然 とうぜん の帰結 きけつ と言 い えるのかもしれない。
しかし、これら「資本 しほん 主義 しゅぎ 的 てき 精神 せいしん 」を持 も つ企業 きぎょう 家 か にとって、現実 げんじつ の経済 けいざい 活動 かつどう は伝統 でんとう 主義 しゅぎ 的 てき なものであった。そういった意味 いみ で資本 しほん 主義 しゅぎ 的 てき 精神 せいしん にとって対抗 たいこう すべき最大 さいだい の敵 てき は「伝統 でんとう 主義 しゅぎ 」とでも言 い うものであった。
3. ルッターの天職 てんしょく 概念 がいねん
職業 しょくぎょう を意味 いみ するドイツ語 ご であるBerufは「ある宗教 しゅうきょう 的 てき な―神 かみ から与 あた えられた使命 しめい (Aufgabe) という―観念 かんねん がともにこめられて」 いるとされる。さらにこれら天職 てんしょく 思想 しそう は宗教 しゅうきょう 改革 かいかく の産物 さんぶつ であったとしている。宗教 しゅうきょう 改革 かいかく の主要 しゅよう な人物 じんぶつ であったルターは「各人 かくじん の具体 ぐたい 的 てき な職業 しょくぎょう は神 かみ の導 みちび きによって与 あた えられたものであり、この具体 ぐたい 的 てき な地位 ちい を満 み たせと言 い うのが神 かみ の特別 とくべつ の命令 めいれい だ」 と考 かんが えた。この思想 しそう が資本 しほん 主義 しゅぎ 的 てき 天職 てんしょく 概念 がいねん に結 むす びつき、資本 しほん 主義 しゅぎ の発達 はったつ に大 おお きく影響 えいきょう したというのである。
しかし、これら多 おお くの改革 かいかく 者 しゃ の目的 もくてき は、社会 しゃかい 思想 しそう の植付 うえつ けでも社会 しゃかい 改革 かいかく でもなく、純粋 じゅんすい に魂 たましい の救済 きゅうさい であった事 こと を忘 わす れてはならない。このように当人 とうにん の意図 いと したレベルとは違 ちが う結果 けっか を生 う み出 だ すことがあることも忘 わす れてはならないことであろう。
第 だい 2章 しょう 禁欲 きんよく 的 てき プロテスタンティズムの天職 てんしょく 倫理 りんり
1. 世俗 せぞく 内 ない 禁欲 きんよく の宗教 しゅうきょう 的 てき 諸 しょ 基盤 きばん
資本 しほん 主義 しゅぎ 精神 せいしん においてとりわけ大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えたものとして、当時 とうじ ヨーロッパで最 もっと も進 すす んだ文明 ぶんめい 国 こく であった、オランダ、イギリス、フランスなどにおいて政治 せいじ 的 てき 、文化 ぶんか 的 てき 争点 そうてん となっていたカルヴィニズムが挙 あ げられる。カルヴィニズムの教 おし えの特徴 とくちょう としては予 よ 定説 ていせつ がある。予 よ 定説 ていせつ とは「人 ひと は神 かみ によって生 う まれる以前 いぜん から救 すく われる者 もの とそうでない者 もの を分 わ けられており、それは人 ひと がいかなる行動 こうどう を行 おこ なっても知 し ることも逃 のが れる事 こと もできないものである」とする思想 しそう である。カルヴァンは「人間 にんげん のために神 かみ があるのではなく、神 かみ のために人間 にんげん が存在 そんざい するのであって、あらゆる出来事 できごと は−・・・−ひたすらいと高 たか き神 かみ の自己 じこ 栄 さかえ 花 はな の手段 しゅだん そして意味 いみ を持 も つに過 す ぎない。」 とし、さらには「(救 すく われるものとそうでないもの)を知 し ることすら出来 でき ない」 としている。これら現在 げんざい の私 わたし たちから見 み ると非常 ひじょう に悲壮 ひそう な教 おし えの中 なか で、人々 ひとびと はより一層 いっそう 内面 ないめん 的 てき 孤立 こりつ 化 か が進 すす み、これらの孤立 こりつ 化 か は、個人 こじん 的 てき 活動 かつどう においてより合理 ごうり 的 てき な行為 こうい を推 お し進 すす めることとなり、職業 しょくぎょう 的 てき 分業 ぶんぎょう が進 すす んだとヴェーバーは考察 こうさつ する。
カルヴァンの予 よ 定説 ていせつ と先述 せんじゅつ したルターの天職 てんしょく 概念 がいねん は、程度 ていど の差 さ こそあれ、プロテスタンティズムの多 おお くに見 み られた特徴 とくちょう であり、これら二 ふた つが結 むす びついた結果 けっか 、資本 しほん 主義 しゅぎ のエートスの出現 しゅつげん に大 おお きな役割 やくわり を果 は たした。
カルヴィニズムにとり、自分 じぶん は救 すく われているか否 ひ かの点 てん が内面 ないめん における大 おお きな疑問 ぎもん として残 のこ ることは想像 そうぞう に難 かた くない。とりわけこれら内面 ないめん の苦悩 くのう に向 む き合 あ うことを大 おお きなテーマであった牧 まき 会派 かいは においては、「自分 じぶん は選 えら ばれているのだとあくまでも考 かんが える」 ことであり「自己 じこ 確信 かくしん のないことは信仰 しんこう の不足 ふそく の結果 けっか 」 (救 すく いの確証 かくしょう )とし、それらの確信 かくしん を得 え るための最 もっと も優 すぐ れた手段 しゅだん としての職業 しょくぎょう 労働 ろうどう が推奨 すいしょう された。つまり「職業 しょくぎょう 労働 ろうどう によって、むしろ職業 しょくぎょう 労働 ろうどう によってのみ宗教 しゅうきょう 上 じょう の疑惑 ぎわく は追放 ついほう され、救 すく われているとの確信 かくしん が得 え られる」 とした。カルヴァン派 は は自 みずか らの手 て で「自分 じぶん の救 すく いを―正確 せいかく には救 すく いの確信 かくしん を・・・―造 つく りだす」 のであり、さらにそれらはカトリックで認 みと められていたような"善行 ぜんこう の積 つ み重 かさ ね"によるものではなく、常 つね に神 かみ の栄光 えいこう を増 ま すために、一種 いっしゅ 非 ひ 人間 にんげん 的 てき な生活 せいかつ を求 もと めたのである。その結果 けっか としてカルヴィニズムは個人 こじん による善行 ぜんこう の積 つ み重 かさ ねを排 はい し、組織 そしき 的 てき で合理 ごうり 的 てき な神 かみ の栄光 えいこう の体現 たいげん 化 か を求 もと めるこことなる。
カトリックに置 お いて宗教 しゅうきょう 的 てき 禁欲 きんよく 生活 せいかつ は、修道 しゅうどう 士 し などに見 み られるように一種 いっしゅ 世俗 せぞく から離 はな れた特別 とくべつ なものであり、「自然 しぜん なもの」としての生活 せいかつ を超 こ えた善行 ぜんこう によって神 かみ の救 すく いを得 え ようとするものであった。それがプロテスタンティズムにおいては「「救 すく いの確証 かくしょう 」を基盤 きばん とし、恩恵 おんけい の地位 ちい (選 えら ばれし者 しゃ としての)を保持 ほじ するために生活 せいかつ を方法 ほうほう 的 てき に統御 とうぎょ し、・・・神 かみ の意思 いし にあわせて全 ぜん 存在 そんざい を合理 ごうり 的 てき に形成 けいせい する」 ことを求 もと めた。これら合理 ごうり 性 せい は禁欲 きんよく 的 てき プロテスタンティズムの転職 てんしょく 概念 がいねん が生 う み出 だ した産物 さんぶつ であったと見 み ることができる。
感想 かんそう カルヴィニズムと儒教 じゅきょう の差異 さい 性 せい と資本 しほん 主義 しゅぎ
ヴェーバーの論 ろん に立 た つと、この"組織 そしき 的 てき で合理 ごうり 的 てき な職業 しょくぎょう の推進 すいしん "がとりわけヨーロッパにおいて、資本 しほん 主義 しゅぎ が高度 こうど に発展 はってん した要因 よういん の一 ひと つということが可能 かのう であろう。先述 せんじゅつ したが、アジアや他 た の地域 ちいき においても資本 しほん 主義 しゅぎ 的 てき な世界 せかい は存在 そんざい した。例 たと えばアジアにおいては中国 ちゅうごく を中心 ちゅうしん に高度 こうど な資本 しほん 主義 しゅぎ 的 てき な経済 けいざい 社会 しゃかい が形成 けいせい されていた。しかし、アジアおける資本 しほん 主義 しゅぎ 派 は ヨーロッパほどの組織 そしき 的 てき で合理 ごうり 的 てき なものでなかったと考 かんが えられる。結果 けっか として、その後 ご の世界 せかい 経済 けいざい を牛耳 ぎゅうじ ったヨーロッパ的 てき 資本 しほん 主義 しゅぎ とは大 おお きく異 こと なる点 てん が多 おお い。その原因 げんいん としては、プロテスタンティズムと儒教 じゅきょう の思想 しそう の違 ちが いが考 かんが えられる。儒教 じゅきょう 的 てき 思想 しそう においては、人格 じんかく や理性 りせい に基 もと づく一種 いっしゅ "道 どう "思想 しそう が存在 そんざい していた。換言 かんげん すれば、テンニースの言 い うゲマインシャフト的 てき な要素 ようそ を重視 じゅうし したものと見 み ることができるのではないだろうか。結果 けっか として、現在 げんざい 国際 こくさい 的 てき に批判 ひはん されているような家父長制 かふちょうせい 度 ど やイエ社会 しゃかい の構築 こうちく に向 む かったと見 み ることができる。対 たい してプロテスタンティズム、特 とく にカルヴィニズムは、基本 きほん 的 てき に他者 たしゃ に対 たい する信頼 しんらい を否定 ひてい している。それは家族 かぞく や血縁 けつえん というものに関 かん しても同様 どうよう である。ヨーロッパ型 がた 資本 しほん 主義 しゅぎ の特徴 とくちょう を高度 こうど に組織 そしき 化 か され、合理 ごうり 的 てき な判断 はんだん に基 もと づく功利 こうり 主義 しゅぎ にあるとしてみると、ゲセルシャフト的 てき な要素 ようそ があると見 み ることもできる。その点 てん に置 お いて、カルヴィニズムが推進 すいしん したほどの徹底的 てっていてき な合理 ごうり 化 か 、組織 そしき 化 か が起 お こらなかったと見 み ることも可能 かのう であろう。
ヴェーバーのこの論文 ろんぶん が、世界 せかい に与 あた えた影響 えいきょう は大 おお きかったといわれる。経済 けいざい の発展 はってん と宗教 しゅうきょう 的 てき エートスを結 むす びつけた宗教 しゅうきょう 社会 しゃかい 学 がく の基本 きほん 書 しょ とも言 い われているが、自分 じぶん 自身 じしん に置 お き換 か えてみたとき、発展 はってん を一種 いっしゅ の義務 ぎむ とし、"天職 てんしょく "を求 もと めているのを私 わたし 自身 じしん に感 かん じることが多 おお い。それらの考 かんが えを自己 じこ 実現 じつげん という形 かたち で私 わたし は良 よ く口 くち にするが、成長 せいちょう し続 つづ ける事 こと を一種 いっしゅ の義務 ぎむ とし、自 みずか らの選択 せんたく の幅 はば を狭 せば め「存在 そんざい することそのものの価値 かち 」を貶 おとし めていることがあるのかもしれない。
以上 いじょう :T 以下 いか :立岩 たていわ
◇立岩 たていわ 真 しん 也 1997 『私的 してき 所有 しょゆう 論 ろん 』 第 だい 6章 しょう
◇立岩 たていわ 真 しん 也 2001/06/25 「停滞 ていたい する資本 しほん 主義 しゅぎ のために――の準備 じゅんび 」,栗原 くりはら ・佐藤 さとう ・小森 こもり ・吉見 よしみ 編 へん [2001:99-124]→2006 『 』
「食 た べるものを自 みずか らが働 はたら いて得 え なくてはならないなら、私 わたし たちは働 はたら く。しかし、働 はたら く範囲 はんい はその必要 ひつよう を越 こ えることがない。[…]しかし、その生産 せいさん することが私 わたし の価値 かち につながっているならば、私 わたし の価値 かち は高 たか い方 ほう がよいのだから、そのためにその活動 かつどう にいそしむことになる。『プロテスタンティズムの倫理 りんり と資本 しほん 主義 しゅぎ の精神 せいしん 』という高名 こうみょう な本 ほん に記述 きじゅつ されているのはこの装置 そうち の一 ひと つである。ウェーバーが記 しる したのは、神 かみ さまのためになることをしたから褒美 ほうび に何 なに かしてもらえるという関係 かんけい ――この関係 かんけい では、稼 かせ いだ分 ぶん 食 た べて満足 まんぞく したらおしまいというのと同 おな じで、神 かみ さまが言 い うことを聞 き いてくれたらそれで終 お わりになる――と異 こと なるあり方 かた だった。私 わたし が、自発 じはつ 的 てき に、生産 せいさん することにおいて、(救 すく いに予定 よてい されている)私 わたし が表示 ひょうじ されるのである。これは定常 ていじょう 状態 じょうたい からの離陸 りりく 、成長 せいちょう を可能 かのう にする。何 なに かに対 たい して主体 しゅたい になることによって、私 わたし が主体 しゅたい であるようになる。このことは同時 どうじ に、その私 わたし がこの仕掛 しか けの作用 さよう 圏内 けんない に入 はい ってしまっている、これに従属 じゅうぞく しているということであり、また何 なに かに対 たい して主体 しゅたい であることによってのみ自 みずか らが主体 しゅたい となれるということによって、つまりその何 なに かは自 みずか らの存在 そんざい の価値 かち の必要 ひつよう 条件 じょうけん になることによって、実 じつ は、その私 わたし はその何 なに かに対 たい しても従属 じゅうぞく しているということである。さらにこうした構造 こうぞう をもつ仕掛 しか けは、プロテスタントの一部 いちぶ の特殊 とくしゅ な教義 きょうぎ にだけあるのではない。」
■引用 いんよう
世俗 せぞく 的 てき 職業 しょくぎょう の内部 ないぶ における義務 ぎむ の遂行 すいこう を、およそ道徳 どうとく 的 てき 実践 じっせん のもちうる最高 さいこう の内容 ないよう として重要 じゅうよう 視 し したことがそれだ。これこそが、その必然 ひつぜん の結果 けっか として世俗 せぞく 的 てき 日常 にちじょう 労働 ろうどう に宗教 しゅうきょう 的 てき 意義 いぎ を認 みと める思想 しそう を生 う み、そうした意味 いみ での天職 てんしょく (Beruf)という概念 がいねん を最初 さいしょ に作 つく り出 だ したのだった。(p. 109)
→神 かみ は、各人 かくじん の生活 せいかつ 上 じょう の地位 ちい から生 しょう じる世俗 せぞく 内 ない 的 てき 義務 ぎむ の遂行 すいこう をすることで喜 よろこ ぶ。(神 かみ から与 あた えられた召命)
修道院 しゅうどういん に見 み られる生活 せいかつ は、神 かみ に義 ぎ とされるためにはまったく無 む 価値 かち というだけでなく、現世 げんせい の義務 ぎむ から逃 のが れようとする利己 りこ 的 てき な愛 あい の欠如 けつじょ の産物 さんぶつ だ、とルッターは考 かんが えた。(p. 110)
世俗 せぞく の職業 しょくぎょう 生活 せいかつ にこのような道徳 どうとく 的 てき 性格 せいかく をあたえたということが宗教 しゅうきょう 改革 かいかく の、したがってとくにルッターの業績 ぎょうせき のうちで、後代 こうだい への影響 えいきょう がもっとも大 おお きかったものの一 ひと つだということは、実際 じっさい 疑問 ぎもん の余地 よち がなく、もはや常識 じょうしき だと言 い って良 よ い。(p. 114)
ルッターが本書 ほんしょ にいう意味 いみ での―あるいはまた、その他 た のいかなる意味 いみ においても―「資本 しほん 主義 しゅぎ 精神 せいしん 」 と内面 ないめん 的 てき に親和 しんわ 関係 かんけい をもっていたなどと言 い うことはもちろんできない。(p. 115)
宗教 しゅうきょう 改革 かいかく のなしえたこと…カトリック教徒 きょうと の見解 けんかい とは対照 たいしょう 的 てき に、世俗 せぞく 内 ない の職業 しょくぎょう として編制 へんせい された労働 ろうどう に対 たい して道徳 どうとく 的 てき 重視 じゅうし の度合 どあ いや宗教 しゅうきょう 的 てき 褒賞 ほうしょう をいちじるしく強 つよ めた。(p. 117)
ルッターは聖書 せいしょ から彼 かれ の天職 てんしょく 思想 しそう を導 みちび き出 だ したと考 かんが えたが、聖書 せいしょ はそれ自体 じたい として見 み ると、典拠 てんきょ となりうる個所 かしょ は全体 ぜんたい としてむしろ伝統 でんとう 主義 しゅぎ の方 ほう に有利 ゆうり だ。(p. 117)
↓
ルッターの場合 ばあい 、天職 てんしょく 概念 がいねん は結局 けっきょく 伝統 でんとう 主義 しゅぎ を脱 だっ するに至 いた らなかった。(p. 125)
=トマス・アクイナス流 りゅう の伝統 でんとう 主義 しゅぎ だった。=身分 みぶん 相応 そうおう の生活 せいかつ に満足 まんぞく せよ。
ルッターおよびルッター派 は 教会 きょうかい の世俗 せぞく 的 てき 職業 しょくぎょう に対 たい する態度 たいど からは、天職 てんしょく の思想 しそう を直接的 ちょくせつてき に導 みちび き出 だ すことができない。(p. 128? 11-17)
われわれもまず、様々 さまざま な形態 けいたい のプロテスタンティズムのうち、その生活 せいかつ 実践 じっせん と宗教 しゅうきょう 的 てき 出発 しゅっぱつ 点 てん との関連 かんれん がルッター派 は の場合 ばあい よりも一層 いっそう 確 たし かめやすいものをとって、それを観察 かんさつ する方 ほう がよいように思 おも われる。(pp. 128-129)
カトリック信徒 しんと とルッター派 は 信徒 しんと に共通 きょうつう するカルヴィニズムへの嫌悪 けんお は、カルヴィニズムの倫理 りんり 的 てき 特性 とくせい のうちにもその深 ふか い根 ね をもっている。(p. 129)
倫理 りんり 的 てき な改革 かいかく 綱領 こうりょう などといったものは決 けっ して中心 ちゅうしん 問題 もんだい となっていなかった。彼 かれ らは決 けっ して「倫理 りんり 的 てき 文化 ぶんか 」を目標 もくひょう とする団体 だんたい の創設 そうせつ 者 しゃ でもなかったし、また人道 じんどう 主義 しゅぎ 的 てき な社会 しゃかい 改革 かいかく 運動 うんどう やそうした理想 りそう 文化 ぶんか の代表 だいひょう 者 しゃ でもなかった。彼 かれ らの生涯 しょうがい と事業 じぎょう の中心 ちゅうしん は魂 たましい の救済 きゅうさい であり、それ以外 いがい にはなかった。(pp. 133-134)
宗教 しゅうきょう 改革 かいかく の文化 ぶんか 的 てき 影響 えいきょう の多 おお くが改革 かいかく 者 しゃ たちの事業 じぎょう から生 しょう じた、予期 よき されない、いや全然 ぜんぜん 意図 いと されなかった結果 けっか であり、しばしば彼 かれ ら自身 じしん の念頭 ねんとう にあったものとは遥 はる かにかけはなれた、あるいはむしろ正 せい 反対 はんたい のものだった。(p. 134)
☆ウェーバーのいいたいこと☆
経済 けいざい 制度 せいど としての資本 しほん 主義 しゅぎ は宗教 しゅうきょう 改革 かいかく の産物 さんぶつ だ ということではなく…。
問題 もんだい の「精神 せいしん 」の質的 しつてき 形成 けいせい と全 ぜん 世界 せかい にわたる量的 りょうてき 拡大 かくだい のうえに宗教 しゅうきょう の影響 えいきょう がはたして、また、どの程度 ていど に与 あずか って力 ちから があったかということ、および資本 しほん 主義 しゅぎ を基盤 きばん とする文化 ぶんか のどのような具体 ぐたい 的 てき 側面 そくめん がそうした宗教 しゅうきょう の影響 えいきょう に帰着 きちゃく するのかということだけなのだ。(pp. 135-136)。
→さしあたっては
特定 とくてい の形態 けいたい の宗教 しゅうきょう 的 てき 信仰 しんこう と天職 てんしょく 倫理 りんり との間 あいだ に、はたして、なんらかの「選択 せんたく 的 てき 親和 しんわ 関係 かんけい 」が認 みと められるか、また認 みと められるとすれば、それはどの点 てん でか、ということを究明 きゅうめい していくよりほかない。(p. 136)
ウェーバー研究 けんきゅう 会 かい での発言 はつげん メモ:
金儲 かねもう けは否定 ひてい 的 てき =カトリック ルッタ=仕事 しごと は意味 いみ がある=神 かみ に救 すく われる
資本 しほん 主義 しゅぎ の精神 せいしん がなくても資本 しほん 主義 しゅぎ がなりたつ。しかし、ウェーバーがいいたいのは、資本 しほん 主義 しゅぎ の因果 いんが 関係 かんけい ではなく、資本 しほん 主義 しゅぎ の精神 せいしん の萌芽 ほうが である。
資本 しほん 主義 しゅぎ の精神 せいしん とは、お金 かね の量 りょう を増量 ぞうりょう させることによって、個人 こじん が神 かみ に救 すく われているという証拠 しょうこ にするという精神 せいしん である。お金 かね のマネージメントも神 かみ に託 たく されているということである。
世俗 せぞく 内 ない の仕事 しごと に意義 いぎ を与 あた えたのがルッター。ルッターの書 か いたテクストに資本 しほん 主義 しゅぎ の精神 せいしん が読 よ み込 こ めるわけではない。
ゾンバルトはウェーバーの考 かんが えなかった資本 しほん 主義 しゅぎ における消費 しょうひ という考 かんが えだった。ゾンバルトの「貴族 きぞく に関 かん する消費 しょうひ 」のアンチテーゼとしてプロ倫 りん は提出 ていしゅつ された。
ウェーバーがいいたいのは、近代 きんだい 的 てき な合理 ごうり 主義 しゅぎ な変革 へんかく の文化 ぶんか に関 かん して大 おお きな力 ちから としてプロ倫 りん である。つまり生活 せいかつ 態度 たいど の合理 ごうり 化 か から現世 げんせい の合理 ごうり 化 か という流 なが れになった。
ルター派 は とカルヴァン派 は の断絶 だんぜつ というが、連続 れんぞく 性 せい は本当 ほんとう にないのか? 改革 かいかく 派 は の中 なか でもルーター派 は だけが公認 こうにん された。つまりカルヴァンがスイスから追 お い出 だ された。連続 れんぞく 性 せい はある。
トマス・ミュンツァーは農民 のうみん 主義 しゅぎ の人 ひと でそれをルターが否定 ひてい した。
ルッターは身分 みぶん 秩序 ちつじょ を前提 ぜんてい にした神 かみ の意志 いし 。カルヴァンは、金儲 かねもう けのチャンスがあるならどんどん儲 もう けなさいという神 かみ の意志 いし だった。
◇Weber,Max http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/weber.htm
■目次 もくじ
訳者 やくしゃ 序文 じょぶん
文庫 ぶんこ 版 ばん への序 じょ
著者 ちょしゃ 序言 じょげん
第 だい 1章 しょう 問題 もんだい
1 信仰 しんこう と社会 しゃかい 層 そう 文化 ぶんか
2 資本 しほん 主義 しゅぎ の「精神 せいしん 」
3 ルッターの天職 てんしょく 観念 かんねん ‐研究 けんきゅう の課題 かだい
第 だい 2章 しょう 禁欲 きんよく 的 てき プロテスタンティズムの天職 てんしょく 倫理 りんり
1 世俗 せぞく 内的 ないてき 禁欲 きんよく の宗教 しゅうきょう 的 てき 諸 しょ 基礎 きそ
2 禁欲 きんよく と資本 しほん 主義 しゅぎ 精神 せいしん
訳者 やくしゃ 解説 かいせつ
主要 しゅよう 索引 さくいん
■言及 げんきゅう