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今野幸生『開放運動の軌跡』
『開放運動の軌跡』
今野 幸生 19800912 精神医療委員会,精神医療ゼミナール1,221p.
■今野 幸生 19800912 『開放運動の軌跡』,精神医療委員会,精神医療ゼミナール1,221p. ※ m. m01n.
■著者
精神医療について著者が語る時、まさにしぼり出すようにコトバを発する。「患者さんはね」という時、彼の顔は苦しみを共有している顔になる。そして自らの看護実践を語る時は、確かな自信と同時に自己自身に問いながら重いコトバを投げかけてくる。本書はそうした著者の10年の軌跡でもある。
現在山形県二本松会山形病院看護士。」
■引用
「十年前、精神病院の開放率が八〇%であるといえば、それはまさに驚異的な数字であっただろう。閉鎖病棟が八〇%で、開放がニ〇%もあるというのがおそらく十年前の実態ではなかったかと思う。推察でいうのは適当ではないのだが、的確な数字を私は知らない。もちろんそれ以前にも開放率の高かった病院はあったろう。
例えば国立肥前療養所は、昭和三十一年に本格的に開放化にふみきった。また信州大学精神科(西丸四方)病棟や佐久総合病院精神科(江口要一)病棟、あるいは厩橋病院の円形病棟(前田忠重)などにみられるように、精神科病棟の開放化に努力された先達のおられたことも知っている。都立松沢病院やあるいは桜ケ丘保養院、また国立武蔵や国立国府台も「開放療法の研究」としてとりくんでいる。
二十年前、昭和三十四年二月に国立精神衛生研究所の岡田敬蔵、国立国府台病院の河村高信、小坂英世の各氏が開放度についての全国調査をしている。それによると閉鎖率が七三・四%、開放率がニ〇・九%となっている。今からちょうど二十年前であるが、そのときですら開放率が二〇・九%もあったというのは驚くほど高い数字である。し<0009<かしこれは報告のなかでも指摘されているように、調査のあり方に偏りがあったことに注意しなければならない。というのは調査の集計結果は全体として官公立、公益、医療法人に偏り、精神病院の多数を占める私立からの回答が非常に少なかったからである。
当時の「開放療法の研究」は主に国公立の病院や療養所によってなされ、民間病院はまだまだ閉鎖が当然のことと考えられていた。考えられていたというよりも、考えるとか考えないというような次元ではなく、精神病院には鍵と鉄格子があるもの、鉄格子と鍵とで閉鎖しておく場听が精神病院なのだと、そのような存在のしかたが当然のものと思われていた。しかし国立肥前療養所をはじめ各地にまかれた開放化の種は確実に芽生えはじめくいたことを忘れてはならない。
昭和五十四年十月、上山病院の開放率は八六%になった。しかしこの八六%という数字に問題がないわけではない。それについては後ほど述べることにして、その前に上山病院について説明しておきたい。
昭和三十一年九月に医療法人二本松会上山病院として開院した。この昭和三十年代のはじめに精神病院が、特に民間精神病院が各地に陸続と開院された事実は周知のことである。精神病院ブームが出現した。これには理由が三点ほどあって、一つは向精神薬の使用によって患者管理が容易になったことである。もう一つは昭和三十一年に国民皆保険制度ができたこと。それと三点目は一三〇万人といわれる精神障害者、そして入院が必要といわれる三十数万人に対して、精神科<0010<ベッドの絶対数の不足(一九六九年ですら二三万二千ベッド)である。
そのような情勢のなかで上山病院は山形病院の分院として発足した。山形病院は大正十一年に二本松医院として創設、大正十三年に山形脳病院と改称、さらに昭和三十二年に山形精神病院、四十二年に医療法人二本松会山形病院と改祢して現在に至っている。このように病院名は改称しても山形病院は長い間、二本松の脳病院と呼ぱれて、東京での「松沢」、京都での「岩倉」のように、精神病院の代名詞として存在してきた。」
■言及
◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon]/[kinokuniya] ※ m.