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Kripke, Saul A.『ウィトゲンシュタインのパラドックス―規則・私的言語・他人の心―』
『ウィトゲンシュタインのパラドックス‐規則 きそく ・私的 してき 言語 げんご ・
他人 たにん の心 しん ‐』
Kripke, Saul A. 1982 Wittgenstein on Rules and Private Language: An
Elementary Exposition , Basil Blackwell
19831025 黒崎 くろさき 宏 ひろし 訳 やく 『ウィトゲンシュタインのパラドックス‐規則 きそく ・私的 してき 言語 げんご ・他人 たにん の心 しん ‐』,産業 さんぎょう 図書 としょ , 300p.
■Kripke, Saul A. 1982 Wittgenstein on Rules and Private Language:
An
Elementary Exposition , Basil Blackwell
=19831025 黒崎 くろさき 宏 ひろし 訳 やく 『ウィトゲンシュタインのパラドックス‐規則 きそく ・私的 してき 言語 げんご ・他人 たにん の心 しん ‐』,産業 さんぎょう 図書 としょ , 300p. ISBN-10:
4782800177
■目次 もくじ
まえがき
一 いち 序章 じょしょう
二 に ウィトゲンシュタインのパラドックス――規則 きそく の問題 もんだい ――
三 さん その解決 かいけつ と「私的 してき 言語 げんご 」論 ろん
四 よん 補遺 ほい ――ウィトゲンシュタインと他人 たにん の心 しん ――
訳者 やくしゃ あとがき
人名 じんめい 索引 さくいん
事項 じこう 索引 さくいん
■引用 いんよう
以上 いじょう のようなわけで、我々 われわれ が問題 もんだい にして来 き た懐疑 かいぎ 論 ろん は、答 こた えられないまま残 のこ っている。即 すなわ ち、何 なん らかの語 かたり で何 なん らかの事 こと を意味 いみ している、といった事 こと はあり得 え ない
のである。語 かたり について我々 われわれ が行 おこな う新 あたら しい状況 じょうきょう での適用 てきよう は、全 すべ て、正当 せいとう 化 か とか根拠 こんきょ があっての事 こと ではなく、暗闇 くらやみ の中 なか における跳躍 ちょうやく なのである。如何 いか なる現在 げんざい の意図 いと
も、我々 われわれ がしようとする如何 いか なる事 こと とも適合 てきごう するように、解釈 かいしゃく され得 え るのであり、したがってここには、適合 てきごう も不適合 ふてきごう も存在 そんざい し得 え ない。(p.108)
ウィトゲンシュタインの主要 しゅよう なる問題 もんだい は、『如何 いか にして我々 われわれ は、私的 してき 言語 げんご −あるいは或 ある る他 ほか の特殊 とくしゅ な形 かたち の言語 げんご −は不可能 ふかのう である、という事 こと を示 しめ し得 え るのか。』と
いう事 こと ではなく、むしろ逆 ぎゃく に、『如何 いか にして我々 われわれ は、(公的 こうてき であれ、私的 してき であれ、あるいは、我々 われわれ の有 ゆう する如何 いか なるものであれ)、そもそも何 なん らかの言語 げんご が可能 かのう
である、という事 こと を示 しめ し得 え るのか。』という事 こと なのである。それは、ある感覚 かんかく を「痛 いた み」を呼 よ ぶ事 こと などは簡単 かんたん だ、ウィトゲンシュタインはそこに困難 こんなん を発明 はつめい しな
くてはならないのだ、という事 こと ではないのである。反対 はんたい に、ウィトゲンシュタインの主要 しゅよう なる問題 もんだい は、彼 かれ は、あらゆる言語 げんご が、そしてあらゆる概念 がいねん 構成 こうせい が、不可 ふか
能 のう である事 こと 、そして実際 じっさい 理解 りかい 不可能 ふかのう であるという事 こと 、を示 しめ してしまったように思 おも われる、という事 こと なのである。(p.122)
ヒュームは彼 かれ の『人間 にんげん 悟性 ごせい 論 ろん (An Enquiry Concerning Human
Understanding)』において、「悟性 ごせい の働 はたら きに関 かん する懐疑 かいぎ 的 てき 疑 うたが い」を展開 てんかい した後 のち に、彼 かれ の「それらの疑 うたが いに関 かん する懐疑 かいぎ 的 てき 解決 かいけつ 」なるものを与 あた えた。
しからば、その「懐疑 かいぎ 的 てき 」解決 かいけつ とは何 なに か。懐疑 かいぎ 的 てき な哲学 てつがく 的 てき 問題 もんだい に対 たい して提供 ていきょう された解決 かいけつ が、よく調 しら べてみたら「懐疑 かいぎ 論 ろん 」には正当 せいとう な根拠 こんきょ がないことがわかった、
という事 こと を示 しめ しているとすれば、あるいは、わかり難 がた い複雑 ふくざつ な議論 ぎろん を経 へ て、懐疑 かいぎ 論 ろん 者 しゃ によって疑 うたが われていたテーゼは正 ただ しい事 こと がわかった、という事 こと を示 しめ している
とすれば、その解答 かいとう を「正面 しょうめん からの解決 かいけつ (straight
solution)」と呼 よ ぼう。デカルトはこの意味 いみ において、彼 かれ 自身 じしん の哲学 てつがく 的 てき 疑 うたが いに対 たい して「正面 しょうめん からの」解決 かいけつ を与 あた えたのである。また、帰納的 きのうてき 推論 すいろん に関 かん する
ア・プリオリな正当 せいとう 化 か とか、一 いち 組 くみ の事象 じしょう の間 あいだ に真 しん に必然 ひつぜん 的 てき な結合 けつごう として因果 いんが 関係 かんけい を分析 ぶんせき する事 こと などは、帰納 きのう に関 かん する、あるいは因果 いんが 関係 かんけい にかんする、ヒュームの
懐疑 かいぎ 的 てき 解決 かいけつ に対 たい する正面 しょうめん からの解決 かいけつ であろう。それに対 たい し、懐疑 かいぎ 的 てき な哲学 てつがく 的 てき 問題 もんだい についての懐疑 かいぎ 的 てき な解決 かいけつ (skeptical
solution)は、懐疑 かいぎ 論 ろん 者 しゃ の否定 ひてい 的 てき 言明 げんめい については正面 しょうめん からは答 こた えられない、ということを認 みと めることで始 はじ まる。しかし、我々 われわれ の通常 つうじょう の実践 じっせん あるいは確信 かくしん
は、正当 せいとう 化 か を必要 ひつよう とするかに見 み えるにもかかわらず、懐疑 かいぎ 論 ろん 者 しゃ によって否定 ひてい された正当 せいとう 化 か は必要 ひつよう としないがゆえに、正当 せいとう 化 か されているのである。そしてまさに、
懐疑 かいぎ 論 ろん 者 しゃ の議論 ぎろん の価値 かち の多 おお くは、彼 かれ が、通常 つうじょう の実践 じっせん は、もしそれがそもそも擁護 ようご されるべきであるとしても、ある仕方 しかた (例 たと えば、正面 しょうめん からの解決 かいけつ を与 あた える、とい
う仕方 しかた )では擁護 ようご され得 え ないのだ、という事 こと を示 しめ したという事実 じじつ に、あるのである。このような懐疑 かいぎ 的 てき 解決 かいけつ はまた―さきに示唆 しさ したように―通常 つうじょう の確信 かくしん について
の懐疑 かいぎ 的 てき 分析 ぶんせき あるいは懐疑 かいぎ 的 てき 説明 せつめい を含 ふく んでおり、それによって、通常 つうじょう の確信 かくしん は形而上学 けいじじょうがく 的 てき 不合理 ふごうり に一見 いっけん 言及 げんきゅう しているかに見 み える事 こと を、論駁 ろんばく しているのである。
(pp.130−131)
UP:20071216 REV:
*
作成 さくせい :
篠木 しのき 涼 すずか
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BOOK