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Foucault, Michel『ミシェル・フーコー思考集成Ⅴ 1974-1975 権力/処罰』
『ミシェル・フーコー思考 しこう 集成 しゅうせい Ⅴ 1974-1975 権力 けんりょく /処罰 しょばつ 』
Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald , Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
=20000325 蓮實 はすみ 重彦 しげひこ ・渡辺 わたなべ 守 まもる 章 あきら 監修 かんしゅう /小林 こばやし 康夫 やすお ・石田 いしだ 英 えい 敬 けい ・松浦 まつうら 寿 ひさし 輝 てる 編 へん 『ミシェル・フーコー思考 しこう 集成 しゅうせい Ⅴ 1974-1975 権力 けんりょく /処罰 しょばつ 』,筑摩書房 ちくましょぼう ,487p.
last update:20100407
■Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald , Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
=20000325 蓮實 はすみ 重彦 しげひこ ・渡辺 わたなべ 守 まもる 章 あきら 監修 かんしゅう /小林 こばやし 康夫 やすお ・石田 いしだ 英 えい 敬 けい ・松浦 まつうら 寿 ひさし 輝 てる 編 へん 『ミシェル・フーコー思考 しこう 集成 しゅうせい Ⅴ 1974-1975 権力 けんりょく /処罰 しょばつ 』,筑摩書房 ちくましょぼう ,487p. ISBN-10:448079025X ISBN-13:978-4480790255 \6195 [amazon] /[kinokuniya] ※
■目次 もくじ
1974
132 人間 にんげん 的 てき 本性 ほんしょう について一 いち 正義 せいぎ 対 たい 権力 けんりょく 石田 いしだ 英 えい 敬 けい ・小野 おの 正嗣 まさつぐ 訳 やく
133 『中国 ちゅうごく の第 だい 二 に の革命 かくめい 』について 嘉 よしみ 戸 と 一 いち 将 しょう 訳 やく
134 『中国 ちゅうごく の第 だい 二 に の革命 かくめい 』について 嘉 よしみ 戸 と 一 いち 将 しょう 訳 やく
135 D・ビザンティオスについて 嘉 よしみ 戸 と 一 いち 将 しょう 訳 やく
136 権力 けんりょく のメカニズムにおける監獄 かんごく と収容 しゅうよう 所 しょ 嘉 よしみ 戸 と 一 いち 将 しょう 訳 やく
137 アッティカ刑務所 けいむしょ について 嘉 よしみ 戸 と 一 いち 将 しょう 訳 やく
138 セクシュアリテと政治 せいじ 嘉 よしみ 戸 と 一 いち 将 しょう 訳 やく
139 真理 しんり と裁判 さいばん 形態 けいたい 西谷 にしたに 修 おさむ 訳 やく
140 反 はん 懐古 かいこ 趣味 しゅみ 高桑 たかくわ 和巳 かずみ 訳 やく
141 狂気 きょうき 、権力 けんりょく の一 いち 問題 もんだい 高桑 たかくわ 和巳 かずみ 訳 やく
142 精神 せいしん 鑑定 かんてい に関 かん する座談 ざだん 会 かい 高桑 たかくわ 和巳 かずみ 訳 やく
143 精神 せいしん 医学 いがく の権力 けんりょく 高桑 たかくわ 和巳 かずみ 訳 やく
1975
144 序文 じょぶん 一 いち B・ジャクスン『彼 かれ らの監獄 かんごく アメリカの囚人 しゅうじん たちによる自伝 じでん 』に寄 よ せる 高桑 たかくわ 和己 かずみ 訳 やく
145 手紙 てがみ 一 いち M・クラヴェルに宛 あ てる 高桑 たかくわ 和己 かずみ 訳 やく
146 狂人 きょうじん の家 いえ 高桑 たかくわ 和巳 かずみ 訳 やく
147 消防 しょうぼう 士 し が裏 うら を明 あ かす 高桑 たかくわ 和巳 かずみ 訳 やく
148 政治 せいじ とは別 べつ の方法 ほうほう による戦争 せんそう の継続 けいぞく である 高桑 たかくわ 和己 かずみ 訳 やく
149 哲学 てつがく 者 しゃ たちは何 なに を夢想 むそう しているのか? 高桑 たかくわ 和己 かずみ 訳 やく
150 フォトジェニックな絵画 かいが 小林 こばやし 康夫 やすお 訳 やく
151 拷問 ごうもん から官房 かんぼう へ 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
152 尋問 じんもん の椅子 いす で 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
153 あるフランス人 じん 哲学 てつがく 者 しゃ の見 み た監獄 かんごく 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
154 エクリチュールの祭典 さいてん 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
155 父 ちち の死 し 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
156 監獄 かんごく についての対談 たいだん 一本 いっぽん とその方法 ほうほう 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
157 権力 けんりょく と身体 しんたい 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
158 マドリード行 い き 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
159 『マルグリット・デュラスについて』 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
160 精神 せいしん 病院 びょういん 、性 せい 、監獄 かんごく 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
161 ラジオスコピー 石田 いしだ 久仁子 くにこ 訳 やく
162 狂人 きょうじん を装 よそお う 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
163 ミシェル・フーコー一 いち 哲学 てつがく 者 しゃ の回答 かいとう 中澤 なかざわ 新一 しんいち 訳 やく
164 サド、性 せい の法務 ほうむ 官 かん 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
165 異常 いじょう 者 しゃ 一 いち コレージュ・ド・フランス一 いち 九 きゅう 七 なな 四 よん ?一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年度 ねんど 講義 こうぎ 要旨 ようし 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
日本語 にほんご 版 ばん 編者 へんしゃ 解説 かいせつ (西谷 にしたに 修 おさむ )
■内容 ないよう
1974
◆132 人間 にんげん 的 てき 本性 ほんしょう について一 いち 正義 せいぎ 対 たい 権力 けんりょく 石田 いしだ 英 えい 敬 けい ・小野 おの 正嗣 まさつぐ 訳 やく
(N・チョムスキー、F・エルダースとの討議 とうぎ 、アイントホーヘン、一 いち 九 きゅう 七 なな 一 いち 年 ねん 九 きゅう 月 がつ 。翻訳 ほんやく A・ラビノヴィッチ)、F・エルダース編 へん 『返 がえ り水 すい -人類 じんるい の基本 きほん 的 てき 関心 かんしん 』ロンドン、スーヴェニア・プレス、135-197ページ(オランダのテレビによる、フランス語 ふらんすご と英語 えいご による討議 とうぎ 。一 いち 九 きゅう 七 なな 一 いち 年 ねん 九 きゅう 月 がつ にアイントホーヘン高等 こうとう 技術 ぎじゅつ 学校 がっこう にて収録 しゅうろく )。
「フーコー一 いち (…)スピノザの言葉 ことば を使 つか ってあなたにお答 こた えしましょう。私 わたし があなたに申 もう し上 あ げたいのは、プロレタリアートは、自分 じぶん たちの闘 たたか いが正 ただ しいと考 かんが えているから支配 しはい 階級 かいきゅう と闘 たたか っているわけではない、ということです。プロレタリアートが支配 しはい 階級 かいきゅう と闘 たたか うのは、歴史 れきし においてはじめて、彼 かれ らが権力 けんりょく を奪取 だっしゅ したいと望 のぞ んだからなのです。そして、支配 しはい 階級 かいきゅう の権力 けんりょく を転覆 てんぷく させたいがゆえに、この闘 たたか いが正 ただ しいのだと考 かんが えるのです。
チョムスキー一 いち 同意 どうい しかねますね。
フーコー一 いち 人 にん は勝 か つために闘 たたか うのであって、それが正当 せいとう だからなのではありません。」(本文 ほんぶん より)
◆133 『中国 ちゅうごく の第 だい 二 に の革命 かくめい 』について 嘉 よしみ 戸 と 一 いち 将 しょう 訳 やく
(K.S・カロールと「リベラシオン」紙 し の記者 きしゃ とのインタビュー)の前半 ぜんはん 。「リベラシオン」紙 し 一 いち 五 ご 七 なな 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 四 よん 年 ねん 一 いち 月 がつ 三 さん 十 じゅう 一 いち 日 にち 、10ページ(K.S・カロール著 ちょ 『中国 ちゅうごく の第 だい 二 に の革命 かくめい 』、パリ、ロベール・ラフォン社 しゃ 、一 いち 九 きゅう 七 なな 三 さん 年刊 ねんかん について)。
「ええ、しかし神聖 しんせい 化 か されている部分 ぶぶん もありますね。毛沢東 もうたくとう と彼 かれ の言 い うことです。あなたの本 ほん によると、彼 かれ は決 けっ して誰 だれ も糾弾 きゅうだん したことがない。彼 かれ はただ単 たん に右派 うは である者 もの と左派 さは である者 もの とを区別 くべつ するための基準 きじゅん を与 あた えたに過 す ぎない。その基準 きじゅん は概 がい して非常 ひじょう に曖昧 あいまい でした。」(本文 ほんぶん より)
◆134 『中国 ちゅうごく の第 だい 二 に の革命 かくめい 』について 嘉 よしみ 戸 と 一 いち 将 しょう 訳 やく
(K.S・カロールと「リベラシオン」紙 し の記者 きしゃ とのインタビュー)の後半 こうはん 。「リベラシオン」紙 し 一 いち 五 ご 八 はち 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 四 よん 年 ねん 二 に 月 がつ 一 いち 日 にち 、10ページ、上記 じょうき 一 いち 三 さん 三 さん 号 ごう 参照 さんしょう (K.S・カロール著 ちょ 『中国 ちゅうごく の第 だい 二 に の革命 かくめい 』、パリ、ロベール・ラフォン社 しゃ 、一 いち 九 きゅう 七 なな 三 さん 年刊 ねんかん について)。
「そこで二 ふた つ質問 しつもん したいのですが、一 ひと つは矛盾 むじゅん の深化 しんか がそれとは別 べつ のもの、つまり分裂 ぶんれつ をもたらすとはどういうことなのか。もう一 ひと つは、イデオロギーが統一 とういつ 性 せい を再 ふたた び確立 かくりつ することができないと気 き づいたのだとしたら、イデオロギーの重要 じゅうよう 性 せい を評価 ひょうか し直 なお さなければならないのか、ということです。」(本文 ほんぶん より)
◆135 D・ビザンティオスについて 嘉 よしみ 戸 と 一 いち 将 しょう 訳 やく
ギャルリー・カール・フランケ、パリ、一 いち 九 きゅう 七 なな 四 よん 年 ねん 二 に 月 がつ 十 じゅう 五 ご 日 にち (D・ビザンティオス《三 さん 十 じゅう 枚 まい のデッサン》の展覧 てんらん 会 かい のプレゼンテーション)。
「全 すべ ての要素 ようそ が肯定 こうてい 的 てき なものになっているこれらの薄暗 うすぐら いデッサン一色 いっしょく のないこれらの絵画 かいが 一 いち の逆説 ぎゃくせつ とは、明暗 めいあん 法 ほう を想 おも わせるものが何 なに もない、ということである。ここでは黒 くろ は夜 よる ではない。黒 くろ は戦闘 せんとう の激 はげ しさである。」(本文 ほんぶん より)
◆136 権力 けんりょく のメカニズムにおける監獄 かんごく と収容 しゅうよう 所 しょ 嘉 よしみ 戸 と 一 いち 将 しょう 訳 やく
M・デラモによるインタビュー。仏 ふつ 訳 やく 、A・ギザルディ。「アヴァンチ」誌 し 、七 なな 八 はち 年 ねん 次 じ -五 ご 三 さん 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 四 よん 年 ねん 三 さん 月 がつ 三 さん 日 にち 。
「プラトンとともにはっきりと確立 かくりつ された形而上学 けいじじょうがく 的 てき 結晶 けっしょう 化 か というかたちをとるこの種 たね の歴史 れきし は、フランスではデリダによって再 ふたた び取 と り上 あ げられてもいますが、私 わたし には嘆 なげ かわしく思 おも われる。嘆 なげ かわしいというのは、ギリシア以降 いこう に、おもしろい事象 じしょう 、興味深 きょうみぶか い事象 じしょう が数多 かずおお く起 お こってきたからで、それで私 わたし 自身 じしん のポレミックな目標 もくひょう の一 ひと つとして近接 きんせつ した時代 じだい の考古学 こうこがく を作 つく り上 あ げてみたいのです。」
「結局 けっきょく 、少々 しょうしょう 単純 たんじゅん なマルクス主義 まるくすしゅぎ で言 い われがちなほど、政治 せいじ 権力 けんりょく はただイデオロギーばかりに作用 さよう するものではない、ということに気 き づきました。政治 せいじ 権力 けんりょく は、イデオロギーや人々 ひとびと の意識 いしき に作用 さよう する以前 いぜん に、人々 ひとびと の身体 しんたい に対 たい してずっとはるかに物理 ぶつり 的 てき に行使 こうし されているのです。」(本文 ほんぶん より)
◆137 アッティカ刑務所 けいむしょ について 嘉 よしみ 戸 と 一 いち 将 しょう 訳 やく
(J.K・サイモンによるインタビュー。仏 ふつ 訳 やく F・デュラン=ボジャール)、「テロス」誌 し 一 いち 九 きゅう 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 四 よん 年 ねん 春季 しゅんき 号 ごう 、154-161ページ(掲載 けいさい されたインタビューは翻訳 ほんやく 〔英語 えいご から仏語 ふつご 〕されたものであり、また一 いち 九 きゅう 七 なな 二 に 年 ねん 四 よん 月 がつ にアッティカ刑務所 けいむしょ を訪問 ほうもん した後 のち でテープに録音 ろくおん された会話 かいわ に基 もと づいて活字 かつじ 化 か された)。
「そこで、問題 もんだい は、資本 しほん 主義 しゅぎ 社会 しゃかい は刑罰 けいばつ システムにどのような役割 やくわり を演 えん じさせているのか、どのような目的 もくてき が追求 ついきゅう されているのか、こうしたあらゆる懲罰 ちょうばつ と排除 はいじょ の手続 てつづ きがどのような効果 こうか を生 う んでいるのか、そうしたことを明 あき らかにすることになります。そうした手続 てつづ きは経済 けいざい プロセスにおいて、どのような位置 いち を占 し めているのか。それらは権力 けんりょく の行使 こうし や維持 いじ において、そのような重要 じゅうよう 性 せい を持 も っているのか。それらは階級 かいきゅう 間 あいだ の紛争 ふんそう において、どのような役割 やくわり を演 えん じているのか。」
「戦時 せんじ 中 ちゅう 、ジュネはラ・サンテ監獄 かんごく の囚人 しゅうじん でした。ある日 ひ 、彼 かれ は判決 はんけつ を受 う けるために裁判所 さいばんしょ に移送 いそう されなければなりませんでした。ところで、当時 とうじ の慣習 かんしゅう では、囚人 しゅうじん 二 に 人 にん を手錠 てじょう でつないで裁判所 さいばんしょ まで連 つ れて行 い っていました。ジュネを別 べつ の拘留 こうりゅう 者 しゃ につなごうとした時 とき 、その拘留 こうりゅう 者 しゃ は尋 たず ねたのです。「俺 おれ とつながれるこいつは何者 なにもの だ」、と。看守 かんしゅ は「泥棒 どろぼう だ」と答 こた えた。すると、その拘留 こうりゅう 者 しゃ が硬直 こうちょく して言 い うには、「お断 ことわ りだ。俺 おれ は政治 せいじ 犯 はん なんだ。共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ なんだ。泥棒 どろぼう とつながれるなんてお断 ことわ りだ」、と。ジュネは、その日 ひ 以来 いらい 、フランスで組織 そしき されたあらゆる形態 けいたい の運動 うんどう や政治 せいじ 行動 こうどう を、単 たん に警戒 けいかい するばかりでなく、軽蔑 けいべつ すらしている……、と私 わたし に打 う ち明 あ けていました。」(本文 ほんぶん より)
◆138 セクシュアリテと政治 せいじ 嘉 よしみ 戸 と 一 いち 将 しょう 訳 やく
「コンバ」誌 し 、九 きゅう 二 に 七 なな 四 よん 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 四 よん 年 ねん 四 よん 月 がつ 二 に 十 じゅう 七 なな -二 に 十 じゅう 八 はち 日 にち 、16ページ(「ルシェルシュ」誌 し 、一 いち 二 に 号 ごう 「同性愛 どうせいあい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん -三 さん 〇億 おく の倒錯 とうさく 者 しゃ たち」、一 いち 九 きゅう 七 なな 三 さん 年 ねん 三 さん 月 がつ 、の起訴 きそ について)。
一 いち 九 きゅう 七 なな 四 よん 年 ねん 五 ご 月 がつ 二 に 十 じゅう 五 ご 日 にち 、アラン・デュピュイ裁判 さいばん 長 ちょう によるパリ軽 けい 罪 ざい 裁判所 さいばんしょ 第 だい 一 いち 七 なな 法廷 ほうてい は、「ルシェルシュ」誌 し の編集 へんしゅう 長 ちょう で、精神 せいしん 分析 ぶんせき 学者 がくしゃ であるフェリックス・ガタリに、「『同性愛 どうせいあい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん -三 さん 〇億 おく の倒錯 とうさく 者 しゃ たち』と題 だい された一 いち 九 きゅう 七 なな 三 さん 年 ねん 三 さん 月 がつ 号 ごう に見出 みいだ される良俗 りょうぞく の侮辱 ぶじょく 」について、有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を宣告 せんこく した。(…)
「この身体 しんたい のための闘争 とうそう がセクシュアリテを政治 せいじ 的 てき な問題 もんだい とするのだ。いわゆる正常 せいじょう な、つまり労働 ろうどう 力 りょく を再 さい 生産 せいさん するセクシュアリテが一 いち そのことから予想 よそう される、他 た のセクシュアリテの拒絶 きょぜつ や、女性 じょせい の隷属 れいぞく など全 すべ てととものに一 いち 規範 きはん 的 てき なものたらんとしていることは、こうした状況 じょうきょう においては明白 めいはく である。そして、身体 しんたい を取 と り戻 もど そうとする政治 せいじ 的 てき な運動 うんどう においては、女性 じょせい 解放 かいほう のための運動 うんどう 同様 どうよう 男性 だんせい あるいは女性 じょせい の同性愛 どうせいあい のための運動 うんどう が見出 みいだ されるのはもっともなことなのである。」(本文 ほんぶん より)
◆139 真理 しんり と裁判 さいばん 形態 けいたい 西谷 にしたに 修 おさむ 訳 やく
J.W・プラド訳 やく 、「PUC通信 つうしん 」、一 いち 六 ろく 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 四 よん 年 ねん 六 ろく 月 がつ 、5-133ページ(M.T・アマラル、R.O・クルツ、C・カッツ、L.G・リマ、R・マシャド、R・ムラロ、H・ペレグリーノ、M.J・ピント、A.R・ド・サンタナとの討論 とうろん )(一 いち 九 きゅう 七 なな 三 さん 年 ねん 五 ご 月 がつ 二 に 十 じゅう 一 いち -二 に 十 じゅう 五 ご 日 にち 、リオ・デ・ジャネイロ・カトリック司教 しきょう 大学 だいがく での講演 こうえん )。
5回 かい の講演 こうえん があり(ⅠからⅤまで)、そして討論 とうろん という流 なが れになっている。
Ⅰ:問題 もんだい 設定 せってい と方法 ほうほう 論 ろん (主 おも にニーチェを参照 さんしょう )
Ⅱ:ギリシア文明 ぶんめい の司法 しほう 決済 けっさい の分析 ぶんせき (『オイディプス』などを参照 さんしょう )
Ⅲ:中世 ちゅうせい における刑事 けいじ 裁判 さいばん の国家 こっか 統合 とうごう のメカニズムとその効果 こうか
Ⅳ:規律 きりつ 社会 しゃかい の形成 けいせい と一望 いちぼう 監視 かんし 装置 そうち の定義 ていぎ
Ⅴ:一望 いちぼう 監視 かんし 装置 そうち から人間 にんげん 科学 かがく とその対象 たいしょう としての人間 にんげん の出現 しゅつげん
「私 わたし のねらいは、社会 しゃかい 的 てき 慣行 かんこう がいかにして知 ち の諸 しょ 領域 りょういき を生 う み出 だ すにいたるのか、それも、新 あたら しい対象 たいしょう や新 あたら しい概念 がいねん 、新 あたら しい技法 ぎほう を出現 しゅつげん させるばかりでなく、主体 しゅたい のまったく新 あたら しい形態 けいたい と認識 にんしき の主体 しゅたい とを誕生 たんじょう させるような知 ち の諸 しょ 領域 りょういき を生 う み出 だ すのか、ということを皆 みな さんに示 しめ すことです。認識 にんしき の主体 しゅたい にはそれ自身 じしん 歴史 れきし があり、主体 しゅたい と客体 かくたい との関係 かんけい にも、もっとはっきり言 い うなら真理 しんり にもまた歴史 れきし があるのです。」(本文 ほんぶん より)
◆140 反 はん 懐古 かいこ 趣味 しゅみ 高桑 たかくわ 和巳 かずみ 訳 やく
(パスカル・ボニツェール、セルジュ・トゥービアナとの対話 たいわ )、「カイエ・デュ・シネマ」誌 し 、二 に 五 ご 一 いち -二 に 五 ご 二 に 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 四 よん 年 ねん 七 なな -八 はち 月 がつ 、6-15ページ。
映画 えいが と「懐古 かいこ 趣味 しゅみ の流行 りゅうこう 」と言 い われている現象 げんしょう についての対話 たいわ 。
「ところが、この民衆 みんしゅう の記憶 きおく の運動 うんどう を堰 せき 止 と めるべく、一連 いちれん の装置 そうち が配備 はいび されました(「民衆 みんしゅう 文学 ぶんがく 」、安物 やすもの 文学 ぶんがく 、いや学校 がっこう 教育 きょういく もです)。この企 くわだ ての収 おさ めた成功 せいこう はかなり大 おお きかったと言 い えます。労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう が自分 じぶん についてもっている歴史 れきし 的 てき な知 ち は縮小 しゅくしょう していくばかりです。(…)ただ、小 ちい さくはなっていくものの、消 き え失 う せはしませんが。」(本文 ほんぶん より)
◆141 狂気 きょうき 、権力 けんりょく の一 いち 問題 もんだい 高桑 たかくわ 和巳 かずみ 訳 やく
(S.H.V・ロドリゲスによるインタヴュー)、「ジョルナル・ド・ブラジル」紙 し 、一 いち 九 きゅう 七 なな 四 よん 年 ねん 十 じゅう 一 いち 月 がつ 十 じゅう 二 に 日 にち 、8ページ。
「今日 きょう では個性 こせい は権力 けんりょく によって完全 かんぜん に制御 せいぎょ されており、我々 われわれ はつまるところ権力 けんりょく によって個性 こせい づけられている、そう私 わたし は思 おも います。い換 いか えれば、個性 こせい 化 か が権力 けんりょく に対抗 たいこう するものであるとは私 わたし はまったく思 おも わない、ということです。その反対 はんたい に、我々 われわれ の個性 こせい 、各自 かくじ の義務 ぎむ 的 てき な同一 どういつ 性 せい は、権力 けんりょく の効果 こうか であり道具 どうぐ なのです。権力 けんりょく が最 もっと も恐 おそ れているのは、集団 しゅうだん の力 ちから 、集団 しゅうだん の暴力 ぼうりょく です。権力 けんりょく は集団 しゅうだん の力 ちから を個性 こせい 化 か という技術 ぎじゅつ で中和 ちゅうわ しようとします。この技術 ぎじゅつ はすでに十 じゅう 七 なな 世紀 せいき 、学校 がっこう における階層 かいそう 化 か を通 つう じて用 もち いられています。」(本文 ほんぶん より)
◆142 精神 せいしん 鑑定 かんてい に関 かん する座談 ざだん 会 かい 高桑 たかくわ 和巳 かずみ 訳 やく
[出席 しゅっせき 者 しゃ :A・ボンパール(精神 せいしん 科 か 医 い 、精神 せいしん 分析 ぶんせき 家 か )、L・コサール(「アクト」誌 し 、弁護士 べんごし )、ディードリクス(精神 せいしん 鑑定 かんてい 家 か )、F・ドムナック(心理 しんり 学者 がくしゃ )、H・デュポン=モノー(「アクト」誌 し 、弁護士 べんごし )、P・ゲイ(精神 せいしん 科 か 医 い )、J・アスーン(「ガルド=フー」誌 し (「闘 たたか う精神 せいしん 患者 かんじゃ の雑誌 ざっし 」)主幹 しゅかん )、J・ラフォン(サン=タンヌ病院 びょういん 医長 いちょう 、精神 せいしん 鑑定 かんてい 家 か )、M・ラヴァル(「アクト」誌 し の同 どう 号 ごう に論文 ろんぶん 「黒 くろ 魔術 まじゅつ と白衣 はくい 」を寄稿 きこう )、H・マス=デサン(弁護士 べんごし )、P・ティルロック(医師 いし 、精神 せいしん 科 か 医 い )]、「アクト」誌 し 、五 ご -六 ろく 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 四 よん 年 ねん 十二月 じゅうにがつ -一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 一 いち 月 がつ 、46-52ページ。
「つまるところ、危険 きけん 性 せい 、処罰 しょばつ を受 う ける能力 のうりょく 、治癒 ちゆ 可能 かのう 性 せい といった観念 かんねん はどこから来 き たものなのでしょうか?これらは、法学 ほうがく にも医学 いがく にもありません。これらは、法的 ほうてき な観念 かんねん でも、精神 せいしん 医学 いがく 的 てき な観念 かんねん でも、医学 いがく 的 てき な観念 かんねん でもなく、規律 きりつ 的 てき な観念 かんねん なのです。学校 がっこう や兵舎 へいしゃ や軽 けい 罪 つみ 犯 はん 刑務所 けいむしょ や工場 こうじょう のあれら些細 ささい な規律 きりつ のすべてが、徐々 じょじょ に膨 ふく れ上 あ がってきているのです。」(本文 ほんぶん より)
◆143 精神 せいしん 医学 いがく の権力 けんりょく 高桑 たかくわ 和巳 かずみ 訳 やく
「コレージュ・ド・フランス年報 ねんぽう 七 なな 四 よん 年度 ねんど 、思考 しこう 諸 しょ 体系 たいけい の歴史 れきし 、一 いち 九 きゅう 七 なな 三 さん -一 いち 九 きゅう 七 なな 四 よん 年 ねん 」一 いち 九 きゅう 七 なな 四 よん 年 ねん 、293-300ページ。
「狂気 きょうき の脱 だつ 医学 いがく 化 か は、反 はん 精神 せいしん 医学 いがく の実践 じっせん における権力 けんりょく の本源 ほんげん 的 てき な問 と いただしと相関 そうかん 的 てき なものである。ここにおいて、反 はん 精神 せいしん 医学 いがく の実践 じっせん が、精神 せいしん 薬学 やくがく と同 どう 程度 ていど に精神 せいしん 分析 ぶんせき を特徴 とくちょう づけていると思 おも われる「脱 だつ 精神 せいしん 医学 いがく 化 か 」に対 たい して示 しめ す対立 たいりつ を測 はか り知 し ることができる。精神 せいしん 薬学 やくがく と精神 せいしん 分析 ぶんせき はともに、むしろ狂気 きょうき の過度 かど の医学 いがく 化 か に属 ぞく している。したがってこの、認識 にんしき という、知 ち としての権力 けんりょく の特異 とくい な形式 けいしき に対 たい する狂気 きょうき のありうべき乗 の り越 こ えの問題 もんだい は開 ひら かれているのだ。」(本文 ほんぶん より)
◆1975
◆144 序文 じょぶん 一 いち B・ジャクスン『彼 かれ らの監獄 かんごく アメリカの囚人 しゅうじん たちによる自伝 じでん 』に寄 よ せる 高桑 たかくわ 和己 かずみ 訳 やく
パリ、プロン社 しゃ 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 、Ⅰ-Ⅵページ。
「我々 われわれ は、自分 じぶん で思 おも っているよりテクサス人 じん なのかもしれない。クロード・モーリアックは言 い っていた。あそこでは政治 せいじ と警察 けいさつ と暗黒 あんこく 街 がい はひとつだ、と。彼 かれ の控 ひか えめな皮肉 ひにく のポイントがその「あそこ」というところにあるのは明 あき らかである。」(本文 ほんぶん より)
◆145 手紙 てがみ 一 いち M・クラヴェルに宛 あ てる 高桑 たかくわ 和己 かずみ 訳 やく
モーリス・クラヴェル『私 わたし の思 おも うこと』、パリ、グラッセ、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 、138-139ページ。
一 いち 九 きゅう 六 ろく 七 なな 年 ねん 十 じゅう 一 いち 月 がつ 、モーリス・クラヴェルは『言葉 ことば と物 もの 』を、『純粋 じゅんすい 理性 りせい 批判 ひはん 』に等価 とうか なものとして称賛 しょうさん する。しかしフーコーは本当 ほんとう にカントのように、知 ち を制限 せいげん して信仰 しんこう に場 ば を明 あ け渡 わた すことを望 のぞ んだのか?最初 さいしょ の三 さん 五 ご 〇ページの批判 ひはん 的 てき な解体 かいたい は、方 かた と欲望 よくぼう と死 し の前 まえ 、第 だい 一 いち 〇章 しょう で止 と まっているのではないというわけか?(…)クラヴェルは『私 わたし の思 おも うこと』で、実 じつ はこの断言 だんげん はフーコーへの質問 しつもん であったと述 の べている。そこで、彼 かれ は自分 じぶん の本 ほん にフーコーの回答 かいとう を載 の せいている。
「いずれにせよ、これまでしばしばされてきたように「いったいあなたはどこから話 はな しているのですか?」と聞 き かれれば、今 いま なら私 わたし はこう言 い います。私 わたし は今 こん 自分 じぶん が黙 だま りこんでいるこの地点 ちてん から、つまり、クラヴェルがあれほど重要 じゅうよう なことを語 かた った日 ひ に、ことのついでに私 わたし のために語 かた ってくれたあの地点 ちてん から語 かた ってきたのだ、と。」(本文 ほんぶん より)
◆146 狂人 きょうじん の家 いえ 高桑 たかくわ 和巳 かずみ 訳 やく
フランコ・バザリア、フランカ・バザリア=オンガロ『平和 へいわ の犯罪 はんざい 』、トリノ、エイナウディ、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 、151-169ページ(このテクストは、コレージュ・ド・フランスでの一 いち 九 きゅう 七 なな 四 よん 年 ねん 講義 こうぎ の梗概 こうがい にいくつかの発展 はってん を付加 ふか して再 さい 録 ろく したものである。n°143を見 み よ)。
「試練 しれん としての真理 しんり から認証 にんしょう としての真理 しんり への移行 いこう はおそらく、真理 しんり の歴史 れきし における最 さい 重要 じゅうよう の過程 かてい の一 ひと つだろう。さらに言 い えば、「移行 いこう 」というのも適切 てきせつ な語 かたり ではない。というのも、ここで問題 もんだい になっているのは、互 たが いに対立 たいりつ する、一方 いっぽう が他方 たほう を打 う ち負 ま かす、互 たが いに異質 いしつ な二 ふた つの形式 けいしき ではないからだ。」(本文 ほんぶん より)
◆147 消防 しょうぼう 士 し が裏 うら を明 あ かす 高桑 たかくわ 和巳 かずみ 訳 やく
「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌 し 、五 ご 三 さん 一 いち 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 一 いち 月 がつ 十 じゅう 三 さん -十 じゅう 九 きゅう 日 にち 、56-57ページ(ジャン=ジャック・リュブリナ『消防 しょうぼう 士 し 地獄 じごく 』パリ、シロス、一 いち 九 きゅう 七 なな 四 よん 年 ねん 、の書評 しょひょう )。
「人 ひと は消防 しょうぼう 士 し に何 なに をしてくれと「頼 たの む」のではない。ただ呼 よ びつけるのだ。消防 しょうぼう 士 し は言説 げんせつ なしに介入 かいにゅう する。彼 かれ は死者 ししゃ を「現場 げんば で」捉 とら える。彼 かれ は物事 ものごと を、敢 あ えて言 い えば、熱 あつ いうちに掴 つか むのだ。消防 しょうぼう 士 し という職 しょく は素晴 すば らしい監視 かんし 所 しょ である。街 まち について、地区 ちく 、住民 じゅうみん 、慣習 かんしゅう 、規則 きそく 、混乱 こんらん について、消防 しょうぼう 士 し は驚異 きょうい 的 てき な知 ち を蓄積 ちくせき している。」(本文 ほんぶん より)
◆148 政治 せいじ とは別 べつ の方法 ほうほう による戦争 せんそう の継続 けいぞく である 高桑 たかくわ 和己 かずみ 訳 やく
(ベルナール=アンリ・レヴィとの対話 たいわ )、「ランプレヴュ」誌 し 、一 いち 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 一 いち 月 がつ 二 に 十 じゅう 七 なな 日 にち 、16ページ。
「一 いち 危機 きき 、というのは考 かんが えさせられる語 かたり ですか?
一 いち その語 かたり は、知識 ちしき 人 じん たちが自分 じぶん たちの現在 げんざい を掴 つか んだりそこに攀 よ じ登 のぼ ったりすることができずにいる、その無能力 むのうりょく を示 しめ す言葉 ことば でしかありません。それだけのことです。
一 いち これはあなたを不安 ふあん にする語 かたり ではありませんか?
一 いち 全然 ぜんぜん !依然 いぜん としてこの語 かたり を使 つか っている人 ひと たちがいるということには笑 わら わされます。(…)」(本文 ほんぶん より)
◆149 哲学 てつがく 者 しゃ たちは何 なに を夢想 むそう しているのか? 高桑 たかくわ 和己 かずみ 訳 やく
(E・ロソウスキとの対話 たいわ )、「ランプレヴュ」誌 し 、二 に 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 一 いち 月 がつ 二 に 十 じゅう 八 はち 日 にち 、13ページ。
「「ル・モンド」の記事 きじ は、情報 じょうほう は常 つね にきちんとしていますが、二 に 箇月 かげつ 先 さき に書 か かれても四 よん 年 ねん 後 ご に書 か かれてもよさそうな記事 きじ です。」(本文 ほんぶん より)
◆150 フォトジェニックな絵画 かいが 小林 こばやし 康夫 やすお 訳 やく
『欲望 よくぼう はそこらじゅうにある一 いち フロマンジェ』、パリ、ギャルリー・ジャンヌ・ビュシェ、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 二 に 月 がつ 、1-11ページ。
「アングルの言葉 ことば だが、「要約 ようやく してしまえば、写真 しゃしん は、一 いち 続 つづ きの手 て の操作 そうさ になることを考慮 こうりょ すると……」。ならば、もしこの一 いち 続 つづ きの操作 そうさ を、またそれと併 あわ せて絵画 かいが が要約 ようやく されるような一 いち 続 つづ きの手 て の操作 そうさ というものを考 かんが えてみるとしたらどうだろう?つまり二 ふた つの操作 そうさ の系列 けいれつ を突 つ き合 あ わせてみたら?それらを交互 こうご に用 もち い、また重 かさ ね合 あ わせ、一方 いっぽう によって他方 たほう を消 け したり、強調 きょうちょう したりしたらどうだろう?」(本文 ほんぶん より)
◆151 拷問 ごうもん から官房 かんぼう へ 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
(R=P・ドロワとの対談 たいだん )「ル・モンド」紙 し 、九 きゅう 三 さん 六 ろく 三 さん 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 二 に 月 がつ 二 に 十 じゅう 一 いち 日 にち 、16ページ(「監獄 かんごく と処罰 しょばつ 」の発刊 はっかん によせて)。
「一 いち (…)極言 きょくげん すれば、法 ほう とはある種 しゅ の行為 こうい を阻止 そし するためではなく、法 ほう そのものの網 あみ をかいくぐる方法 ほうほう を区分 くぶん するために作 つく られている、とも言 い えます。
一 いち 例 たと えば?
一 いち 麻薬 まやく 取 と り締 し まり法 ほう がそうです。アメリカ・トルコ間 あいだ の軍事 ぐんじ 基地 きち 協定 きょうてい (これはある点 てん で阿片 あへん の栽培 さいばい 許可 きょか と関係 かんけい しています)から、サン・タンドレ・デ・ザール通 どお りでの警察 けいさつ の警戒 けいかい 網 もう に至 いた るまで、麻薬 まやく 密売 みつばい はチェス盤 ばん のような駆 か け引 ひ きの場 ば で、つまり取 と り締 し まりのある升目 ますめ と無 な い升目 ますめ 、禁止 きんし の升目 ますめ と黙認 もくにん の升目 ますめ 、或 ある る者 もの には許可 きょか され或 ある る者 もの には禁 きん じられた升目 ますめ があるような場 ば で行 おこな われています。危険 きけん な升目 ますめ にいつも置 お かれるのは下 した っぱの歩 ふ だけ。巨利 きょり は大手 おおて を振 ふ ってまかり通 とお るわけです。」(本文 ほんぶん より)
◆152 尋問 じんもん の椅子 いす で 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
(J=L・エジーヌとの対談 たいだん )、「レ・ヌーヴェル・リテレール」紙 し 、二 に 四 よん 七 なな 七 なな 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 三 さん 月 がつ 十 じゅう 七 なな -二 に 十 じゅう 三 さん 日 にち 、3ページ。
「確 たし かに政治 せいじ 的 てき グループは昔 むかし からこの体制 たいせい 側 がわ による丸 まる め込 こ みと言 い う悪夢 あくむ にとり憑 つ かれてきた。言 い った事 こと はすべて、それがまさに告発 こくはつ しようとしている寄稿 きこう の内 うち に組 く み込 こ まれてしまうんじゃないか?でも、私 わたし は逆 ぎゃく に是非 ぜひ ともそうあるべきだと思 おも っているんです。言説 げんせつ が丸 まる め込 こ まれ得 え るというのは、それが本質 ほんしつ 的 てき に無効 むこう だということじゃなくて、ある闘争 とうそう のプロセスに組 く み込 こ まれるということですよ。」(本文 ほんぶん より)
◆153 あるフランス人 じん 哲学 てつがく 者 しゃ の見 み た監獄 かんごく 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
(F・シアンナとの対談 たいだん 、仏 ふつ 訳 やく A・ギッザルディ)、「エウロペオ」誌 し 、一 いち 五 ご 一 いち 五 ご 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 四 よん 月 がつ 三 さん 日 にち 、63-65ページ。
「権力 けんりょく 側 がわ の新 あら たな理想 りそう となったのは、刑罰 けいばつ 制度 せいど の行 い き届 とど いた都市 とし としての「ペストに冒 おか された都市 とし 」でした。ペストのあるところには検疫 けんえき 体制 たいせい が敷 し かれる。一人 ひとり 残 のこ らず統制 とうせい され、マークされ、閉 と じ込 こ められ、規制 きせい に従 したが わせられる。共同 きょうどう 体 たい の生活 せいかつ と安全 あんぜん を守 まも るため、許可 きょか なく出歩 である く者 もの は誰 だれ かれを問 と わず殺 ころ してかまわない。(…)技術 ぎじゅつ 的 てき な面 めん でそういった要請 ようせい にこたえる建築 けんちく 構造 こうぞう を提供 ていきょう したのが、一 いち 七 なな 九 きゅう 一 いち 年 ねん に出版 しゅっぱん されたベンサムの「パノプティコン」でした。」(本文 ほんぶん より)
◆154 エクリチュールの祭典 さいてん 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
(J・アルミラ、J・ル・マルシャンとの対談 たいだん )、「ル・コティディヤン・ドゥ・パリ」紙 し 、三 さん 二 に 八 はち 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 四 よん 月 がつ 二 に 十 じゅう 五 ご 日 にち 、13ページ(アルミラ著 ちょ 、『ノークラチスへの旅 たび 』、パリ、ガリマール出版 しゅっぱん 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 、をめぐっての座談 ざだん 会 かい )。
「この小説 しょうせつ で気 き に入 い ったのは、作家 さっか 風 ふう の美文 びぶん を敢 あ えて書 か き連 つら ねるときでさえ、作者 さくしゃ がエクリチュールの中 なか に淡々 たんたん と生 い きている点 てん です、フローベールとその「ボヴァリー夫人 ふじん 」を引 ひ き合 あ いに出 だ している箇所 かしょ も、恐 おそ らくこうした意味合 いみあ いを持 も つんでしょう。これぞまさしく文学 ぶんがく の祭典 さいてん 、いや、文豪 ぶんごう たちのカーニバルですよ。」(本文 ほんぶん より)
◆155 父 ちち の死 し 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
(P・デー、P・ギャヴィ、J・ランシエール、I・ヤナカキスとの対談 たいだん )、「リベラシオン」紙 し 、四 よん 二 に 一 いち 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 四 よん 月 がつ 三 さん 十 じゅう 日 にち 、10-11ページ。
「諸 しょ 制度 せいど の綿密 めんみつ な分析 ぶんせき をふまえた歴史 れきし 学 がく としての「共産 きょうさん 主義 しゅぎ 学 がく 」とでも呼 よ べる学問 がくもん があってしかるべきなんだ。言 い ってみればマルクス理論 りろん もそういうところから科学 かがく として、教義 きょうぎ として発展 はってん したわけだが、今 いま のところまだこの「共産 きょうさん 主義 しゅぎ 学 がく 」は未知 みち なる領域 りょういき でしかない。」(本文 ほんぶん より)
◆156 監獄 かんごく についての対談 たいだん 一本 いっぽん とその方法 ほうほう 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
(J=J・ブロシエとの対談 たいだん )、「マガジーヌ・リテレール」誌 し 、一 いち 〇一 いち 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 六 ろく 月 がつ 、27-33ページ。
「ところが資本 しほん 化 か が進 すす み、原料 げんりょう や機器 きき や工作 こうさく 機械 きかい といった形 かたち で投資 とうし した富 とみ を庶民 しょみん 階級 かいきゅう の手 て に委 ゆだ ねた時点 じてん から、この富 とみ を絶対 ぜったい に保護 ほご する必要 ひつよう が生 しょう じてきた、つまり工業 こうぎょう 社会 しゃかい では、富 とみ はその所有 しょゆう 者 しゃ の手元 てもと にあるわけではなく、実際 じっさい にそれを活用 かつよう して利潤 りじゅん を引 ひ き出 だ してくれる者 もの の手 て に直接 ちょくせつ 委 ゆだ ねられていることが必要 ひつよう 不可欠 ふかけつ だからです。この富 とみ をどうやって守 まも るかといえば、もちろん厳格 げんかく な道徳 どうとく によってでしょう。(…)人民 じんみん をどうしても品行 ひんこう 方正 ほうせい な輩 やから に仕立 したて てあげなければならない。それには彼 かれ らを犯罪 はんざい 者 しゃ と区別 くべつ する、逆 ぎゃく に言 い えば犯罪 はんざい 者 しゃ グループを明確 めいかく に分離 ぶんり して、それが金持 かねも ちだけでなく貧乏人 びんぼうにん にとっても非常 ひじょう に危険 きけん であり、悪 あく という悪 あく に染 そ まった禍 わざわい いの元凶 げんきょう だということを示 しめ す必要 ひつよう があったわけです。」(本文 ほんぶん より)
◆157 権力 けんりょく と身体 しんたい 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
「ケル・コール?」誌 し 第 だい 二 に 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 九 きゅう -十 じゅう 月 がつ 、2-5ページ、(一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 六 ろく 月 がつ の対談 たいだん )。
「大 おお いなる幻想 げんそう は、思 おも うに、意志 いし の普遍 ふへん 性 せい によって社会 しゃかい 体 たい が成 な り立 た っているという考 かんが えでしょうね。ところが実際 じっさい に社会 しゃかい 体 たい を出現 しゅつげん させるのはコンセンサスではなく、各 かく 個人 こじん のまさに身体 しんたい そのものに及 およ ぼされる権力 けんりょく の有形 ゆうけい 性 せい なんです。」
「一 いち 身体 しんたい の政治 せいじ に携 たずさ わる人 ひと たちの活動 かつどう を統括 とうかつ しているのは何者 なにもの なんでしょう?
一 いち それは極 きわ めて複雑 ふくざつ な総合 そうごう 体 たい なんですよ。その全体 ぜんたい を誰 だれ かが構想 こうそう したなんて代物 しろもの じゃありません。それよりむしろ、その役割 やくわり 配分 はいぶん 、機構 きこう 、相互 そうご 統制 とうせい 、調整 ちょうせい などがどうしてこれほど巧緻 こうち なものになっているかを考 かんが えてみることが必要 ひつよう です。(…)だから、これら一切 いっさい をつかさどった計画 けいかく なんぞを探 さぐ ってみてもしょうがないんで、重要 じゅうよう なのは、戦略 せんりゃく という観点 かんてん からそれら一 ひと つ一 ひと つの木片 もくへん がどのように配置 はいち されたかを見極 みきわ めることでしょうね。」(本文 ほんぶん より)
◆158 マドリード行 い き 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
(P・ブノワが収録 しゅうろく した談話 だんわ 内容 ないよう )、「リベラシオン」紙 し 、三 さん 五 ご 八 はち 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 九 きゅう 月 がつ 二 に 十 じゅう 四 よん 日 にち 、7ページ。
一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 九 きゅう 月 がつ 二 に 二 に 日 にち 、コスタ=ガヴラス、レジス・ドゥブレ、ミシェル・フーコー、ジャン・ラクテュール、神父 しんぷ ロードゥーズ師 し 、クロード・モーリヤック、イヴ・モンタンの各氏 かくし は、フランコ政権 せいけん の特別 とくべつ 法廷 ほうてい が最近 さいきん 下 くだ した妊 にん 婦 ふ 二 に 人 にん を含 ふく む計 けい 十 じゅう 一 いち 名 めい の政治 せいじ 活動 かつどう 家 か に対 たい する鉄 てつ の首枷 くびかせ による絞首刑 こうしゅけい 判決 はんけつ に抗議 こうぎ する旨 むね の記者 きしゃ 会見 かいけん を終 お えた直後 ちょくご 、マドリードからの強制 きょうせい 退去 たいきょ を命 めい じられた。(…)下記 かき の談話 だんわ は、一 いち 行 ぎょう の帰国 きこく 時 じ にロワシー空港 くうこう で行 おこな われた記者 きしゃ 会見 かいけん の折 おり に収録 しゅうろく されたものである。
「我々 われわれ が向 む こうで見 み たものは、人 ひと がよく勝手 かって な意味 いみ で「そりゃファシズムだ」などと言 い っているのとは桁違 けたちが いのものでした。我々 われわれ が実際 じっさい に目 め にしたのは、極 きわ めて洗練 せんれん されかつ極 きわ めて暴力 ぼうりょく 的 てき な卓越 たくえつ したファシズムの姿 すがた でした。」(本文 ほんぶん より)
◆159 『マルグリット・デュラスについて』 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
(H・シクススとの対談 たいだん )、「カイエ・ルノー=バロー」、八 はち 九 きゅう 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 十 じゅう 月 がつ 、8-22ページ。
「デュラスのことを話 はな すのかと思 おも うと、今朝 けさ からずっと落 お ち着 つ かない気分 きぶん だったんだよね。これまで読 よ んだ本 ほん や映画 えいが から受 う けた印象 いんしょう は、昔 むかし も今 いま も変 か わらずにすごく強烈 きょうれつ に心 しん に残 のこ ってるんだ。作品 さくひん を読 よ んだのはもう随分 ずいぶん 前 まえ のことなのに、ありありと心 しん に焼 や きついている。ところがいざこうして話 はなし をする段 だん になると、そういったものが全 すべ てどこかに消 き え去 さ ってしまうような気 き がするんだ。」(本文 ほんぶん より)
◆160 精神 せいしん 病院 びょういん 、性 せい 、監獄 かんごく 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
(M・アルメイダ、R・クナイデルマン、M・フェルマン、R・モレノ、M・タファレル=フェルマンとの対談 たいだん 。サン・パウロでの対談 たいだん 内容 ないよう をC・ボジュンガが収録 しゅうろく したもので、仏語 ふつご 訳 やく は、P.W・プラドJr)、「レヴィスタ・ヴェルスス」誌 し 、第 だい 一 いち 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 十 じゅう 月 がつ 、30-33ページ(当時 とうじ 、フーコーはサン・パウロ大学 だいがく で「精神 せいしん 医学 いがく 的 てき 解釈 かいしゃく と反 はん 精神 せいしん 医学 いがく 」と題 だい する一連 いちれん の講義 こうぎ を行 おこな っていた)。
「一 いち 個別 こべつ 的 てき な闘 たたか いと全般 ぜんぱん 的 てき な闘 たたか いという二 ふた つの闘 たたか いを、どう両立 りょうりつ させていくことができるとお考 かんが えですか?
一 いち そこが難 むずか しいところです。もし個別 こべつ 的 てき な闘 たたか いがカモフラージュされてしまうと、そこに出現 しゅつげん するのは社会 しゃかい 主義 しゅぎ 社会 しゃかい 特有 とくゆう の権力 けんりょく システム一 いち 官僚 かんりょう 主義 しゅぎ 、階級 かいきゅう 制 せい 、独裁 どくさい 主義 しゅぎ 、伝統 でんとう 的 てき な家族 かぞく 構造 こうぞう など一 いち への転換 てんかん でしょう。スターリニズムがまさにそれでした。」
「一 いち 知識 ちしき 人 じん の役割 やくわり が限 かぎ られてしまったということは、まさに全体 ぜんたい 的 てき な哲学 てつがく 的 てき 展望 てんぼう の危機 きき と結 むす び付 つ いているとは言 い えないでしょうか?実 じつ は付随 ふずい 的 てき な状況 じょうきょう だ、と。
一 いち 私 わたし は総論 そうろん の欠如 けつじょ はなにも欠陥 けっかん だと言 い ったんではなく、一 ひと つの闘 たたか いの成果 せいか として語 かた ったつもりです。要 よう するに、我々 われわれ は総括 そうかつ とか全体 ぜんたい 性 せい といったものからも解放 かいほう されるべきだということです。」(本文 ほんぶん より)
◆161 ラジオスコピー 石田 いしだ 久仁子 くにこ 訳 やく
(ラジオ番組 ばんぐみ 、ジャック・シャンセルとの対談 たいだん 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 三 さん 月 がつ 十 じゅう 日 にち 放送 ほうそう )
「一 いち フーコーさんは教職 きょうしょく に就 つ いておられる。
一 いち 教師 きょうし ですが、最低限 さいていげん の教師 きょうし です、ご存 ぞん じのように、私 わたし は教 おし えていますが、講義 こうぎ していますが、その場所 ばしょ が……
一 いち きわめて特殊 とくしゅ な場所 ばしょ 。
一 いち ええ、きわめて特殊 とくしゅ な、まさに教育 きょういく することを目的 もくてき とはしていない機関 きかん ですから。
一 いち コレージュ・ド・フランスですね。
一 いち はい。ここが私 わたし によっていいのは、教 おし えているという印象 いんしょう 、つまり受講 じゅこう 者 しゃ に対 たい し力 ちから 関係 かんけい を行使 こうし しているという印象 いんしょう を持 も たないことです。」
「一 いち お子 こ さんがおありだったとして、もし娘 むすめ さんか息子 むすこ さんが傷 きず つけられたり、殺 ころ されたとしたら、フーコーさんはそれに対 たい しどんな反応 はんのう を示 しめ されるでしょうか?この本 ほん をお書 が きになりながら、そういうことをお考 かんが えになりましたか?きわめて重要 じゅうよう なことだと思 おも いますが。
一 いち ええ、そのことを考 かんが えたとは言 い えませんが……」(本文 ほんぶん より)
◆162 狂人 きょうじん を装 よそお う 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
「ル・モンド」紙 し 、九 きゅう 五 ご 五 ご 九 きゅう 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 十 じゅう 月 がつ 十 じゅう 六 ろく 日 にち 、17ページ(ルネ・フェレ監督 かんとく 一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 制作 せいさく の映画 えいが 「ポールの物語 ものがたり 」について)。
「謝肉祭 しゃにくさい の日 ひ 、狂人 きょうじん たちは仮装 かそう をし、仮面 かめん を被 こうむ って街頭 がいとう にくりだす。戸惑 とまど いと多少 たしょう 怯 おび えの入 い り交 ま じった野次馬 やじうま たちの好奇 こうき の目 め 。狂人 きょうじん たちに外出 がいしゅつ が許 ゆる される唯一 ゆいいつ の日 ひ 、それはふざけて、狂人 きょうじん さながら浮 う かれ騒 さわ ぐための機会 きかい でもあった。その祭 まつ りをルネ・フェレはこの実験 じっけん 的 てき 作品 さくひん の中 なか でみごとに裏返 うらがえ した。狂人 きょうじん でない人間 にんげん を狂気 きょうき の檻 おり に入 い れ、なるがままに任 まか せろ、事 こと の成 な り行 ゆ きと幽閉 ゆうへい の必然 ひつぜん の流 なが れに思 おも いっきり身 み を委 ゆだ ねて狂人 きょうじん を装 よそお え、と命 めい じた。するとそこから、硬直 こうちょく したようなあの反復 はんぷく 的 てき で儀礼 ぎれい 的 てき な狂気 きょうき の姿 すがた がまさに現実 げんじつ となって生 う まれ出 で たのだ。この世 よ で最 もっと も厳格 げんかく な規律 きりつ に支配 しはい されるあの狂気 きょうき の姿 すがた が。」(本文 ほんぶん より)
◆163 ミシェル・フーコー一 いち 哲学 てつがく 者 しゃ の回答 かいとう 中澤 なかざわ 新一 しんいち 訳 やく
(C・ボジュンガ、R・ロボとの対談 たいだん 、P.W・プラドJr仏語 ふつご 訳 やく )、「ジョルナル・ダ・タルデ」紙 し 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 十 じゅう 一 いち 月 がつ 一 いち 日 にち 、12-13ページ。
「一 いち 第 だい 三 さん 世界 せかい の国々 くにぐに がこうした緊急 きんきゅう の課題 かだい 一 いち 国家 こっか 独立 どくりつ や脱 だつ ・低 てい 開発 かいはつ に向 む けての闘 たたか い一 いち を優先 ゆうせん させること自体 じたい 、「小 ちい さな権力 けんりょく 」(学校 がっこう 、精神 せいしん 病院 びょういん 、監獄 かんごく )や他 た の漠 ばく たる支配 しはい 形態 けいたい (白人 はくじん 対 たい 黒人 こくじん 、男性 だんせい 対 たい 女性 じょせい )に対 たい する闘 たたか いの芽 め を摘 つ んでしまうことにはならないのでしょうか?それともそれら二 ふた つの闘 たたか いは並行 へいこう して進 すす められ得 え るものなんでしょうか?
一 いち 我々 われわれ が頭 あたま を悩 なや ましているのもその問題 もんだい なんです。それら様々 さまざま のタイプの問題 もんだい を重要 じゅうよう 性 せい という点 てん から格付 かくづ けできるものかどうか?後先 あとさき の順 じゅん をつけられるものかどうか?まあ結局 けっきょく は堂々巡 どうどうめぐ りになってしまいます。仮 かり に従来 じゅうらい の大 だい 闘争 とうそう 一 いち 国家 こっか 独立 どくりつ 、圧制 あっせい 反対 はんたい など一 いち を犠牲 ぎせい にする形 かたち で、社会 しゃかい 体 たい の末端 まったん 組織 そしき の次元 じげん での闘 たたか いを優先 ゆうせん させた場合 ばあい 、ともすればそれは「牽制 けんせい 」工作 こうさく になってしまいかねない。逆 ぎゃく に、そういう問題 もんだい を棚上 たなあ げにした場合 ばあい 、最 もっと も急進 きゅうしん 的 てき なグループ内部 ないぶ においてさえ、旧態 きゅうたい 依然 いぜん とした階級 かいきゅう 、権威 けんい 、従属 じゅうぞく 、支配 しはい の関係 かんけい がそのまま踏襲 とうしゅう されるはめになりかねない。これは我々 われわれ の世代 せだい に課 か された大 だい 問題 もんだい ですよ。」(本文 ほんぶん より)
◆164 サド、性 せい の法務 ほうむ 官 かん 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
(G・デュポンとの対談 たいだん )、「シネマトグラフ」誌 し 、一 いち 六 ろく 号 ごう 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 十二月 じゅうにがつ -一 いち 九 きゅう 七 なな 六 ろく 年 ねん 一 いち 月 がつ 、3-5ページ。
「そんなもの、つまりサドのエロチシズムなんかからはもう卒業 そつぎょう すべきだと言 い いたいんです。身体 しんたい やその構成 こうせい 要素 ようそ 、その表面 ひょうめん や体積 たいせき や厚 あつ みから、規律 きりつ とは無縁 むえん のエロチシズムを創造 そうぞう することが必要 ひつよう なんです。偶然 ぐうぜん の出会 であ いとか下心 したごころ なしの快楽 かいらく を伴 ともな った、今 いま にも蒸散 じょうさん して消 き えかねないような身体 しんたい のエロチシズムをね。」(本文 ほんぶん より)
◆165 異常 いじょう 者 しゃ 一 いち コレージュ・ド・フランス一 いち 九 きゅう 七 なな 四 よん -一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年度 ねんど 講義 こうぎ 要旨 ようし 中澤 なかざわ 信一 しんいち 訳 やく
「コレージュ・ド・フランス年鑑 ねんかん 」、七 なな 五 ご 年度 ねんど 版 ばん 、「思考 しこう システムの歴史 れきし 」講座 こうざ 、一 いち 九 きゅう 七 なな 四 よん -一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年度 ねんど 、一 いち 九 きゅう 七 なな 五 ご 年 ねん 、335-339ページ。
「しかし、これらの学問 がくもん (発生 はっせい 学 がく 、精神 せいしん 生理学 せいりがく 、性 せい の理論 りろん )がいくら三 さん 者 しゃ 三 さん 様 よう であるからといって、その特殊 とくしゅ 性 せい を半 なか ば帳消 ちょうけ しにしてしまうような三 みっ つの重要 じゅうよう な事項 じこう が存在 そんざい したことを忘 わす れてはなるまい。一 ひと つは「変質 へんしつ 」の一般 いっぱん 論 ろん の成立 せいりつ であり、モレルの論文 ろんぶん (一 いち 八 はち 五 ご 七 なな 年 ねん )によって打 う ち出 だ されたこの理論 りろん が、その後 ご 一 いち 世紀 せいき 半 はん にもわたり、異常 いじょう 者 しゃ の判定 はんてい 、分類 ぶんるい 、処置 しょち など一切 いっさい の方法 ほうほう に対 たい する理論 りろん 的 てき 基盤 きばん となったばかりか、その社会 しゃかい 的 てき および倫理 りんり 的 てき 正当 せいとう 性 せい の根拠 こんきょ でもあり続 つづ けたこと。第 だい 二 に は、新 あら たに配備 はいび された複雑 ふくざつ な制度 せいど 網 もう であり、医学 いがく と司法 しほう との境目 さかいめ に位置 いち するそれが、一方 いっぽう では異常 いじょう 者 しゃ の「受 う け入 い れ」機構 きこう としての役割 やくわり を果 は たしながらも、他方 たほう で社会 しゃかい の「防衛 ぼうえい 」のための道具 どうぐ ともなってきたこと。第 だい 三 さん は、最 もっと も遅 おく れて歴史 れきし に登場 とうじょう した異常 いじょう のタイプ(子供 こども の性 せい の問題 もんだい )が他 た の二 ふた つを徐々 じょじょ に包含 ほうがん していった動 うご きであり、二 に 十 じゅう 世紀 せいき においてはそれがあらゆる異常 いじょう を説明 せつめい するための最 もっと も強力 きょうりょく な原理 げんり となるに至 いた ったことである。」(本文 ほんぶん より)
■引用 いんよう
■書評 しょひょう ・紹介 しょうかい
■言及 げんきゅう
*作成 さくせい :橋口 はしぐち 昌治 しょうじ