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中井久夫『関与と観察』
『関与と観察』
中井 久夫 20051124 みすず書房,333p.
last update:20110301
■中井 久夫 20051124 『関与と観察』,みすず書房,333p. ISBN-10:4622071754 ISBN-13: 978-4622071754 2730 [amazon]/[kinokuniya] ※ m.
■内容
「この私の第5エッセイ集『関与と観察』の特色は、第一に戦争に関するものを収めたことであり、第二に私が1963‐4年に書いた若書きが挿入されたことであり、第三は甲南大学在任中に職場から与えられたテーマについての文章を入れたことであり、第四は、長文の解説的書評を収めたことである。第五は、2003年秋から2004年の正月にかけて、親友を続けざまという感じでなくしたことがあって、その祭文あるいは追悼文を収めたことである」(「あとがき」より)
精神科医・中井久夫が、現代の混迷する状況をあざやかに腑分けし、世界と日本が陥ってしまった病巣、そのすべての源である「人類最大の災害」戦争に正面から向かい合った問題作。人はなぜ傷つけあい、血を流さなければならないのか。そのなかで粘り強く平和を希求し、それを実現していくような方法は、果たして存在しているのか。精神医学ばかりでなく、軍事関係それ自体にも深く切り込み、さらには文学、歴史学などあらゆる人文諸科学の叡智を結集して導き出された答えがここにある
中井久夫
なかい・ひさお
1934年奈良県に生れる。京都大学医学部卒業。現在神戸大学名誉教授。精神科医。著書『中井久夫著作集――精神医学の経験』全6巻別巻2(岩崎学術出版社、1984-91)『分裂病と人類』(東京大学出版会)『記憶の肖像』(1992)『家族の深淵』(1995)『アリアドネからの糸』(1997)『最終講義――分裂病私見』(1998)『西欧精神医学背景史』(1999)『清陰星雨』(2002)『徴候・記憶・外傷』(2004)『時のしずく』(2005、以上みすず書房)ほか。共編著『1995年1月・神戸』(1995)『昨日のごとく』(1996、共にみすず書房)。訳書にエレンベルガー『無意識の発見』上下(共訳、弘文堂、1980)のほか、みすず書房からはサリヴァン『現代精神医学の概念』『精神医学の臨床研究』『精神医学的面接』『精神医学は対人関係論である』『分裂病は人間的過程である』、ハーマン『心的外傷と回復』、バリント『一次愛と精神分析技法』(共訳)、ヤング『PTSDの医療人類学』(共訳)、『エランベルジェ著作集』(全3巻)、パトナム『解離』、カーディナー『戦争ストレスと神経症』(共訳)さらに『現代ギリシャ詩選』『カヴァフィス全詩集』『リッツォス詩集 括弧』、ヴァレリー『若きパルク/魅惑』などが刊行されている。※ここに掲載する略歴は本書刊行時のものです。
■目次
I
精神医学および犯罪学から見た戦争と平和
日本社会における外傷性ストレス――こころのケアセンター開所式講演
II
精神分裂病の名称変更
今にして戦争と平和
ポスト高齢化社会はどうなるのか
平成一四年を送る
イラク戦争開戦に思う
イラク戦争終了に思う
グローバリズムの果て
癌治療の場を垣間見る
中東で繰り返される日中戦争
日本の占領とイラクの占領
日露戦争を眺めなおす
二〇〇四年の歳末に思う
仕掛けられた憎悪の火種
日本人の“人間の条件”は
二〇〇五年九月一一日以後
III
現代社会に生きること
現代における生きがい
IV
日本の家族――その近代と前近代
生活空間と精神健康
V
土居健郎選集解説
霜山先生のお弟子さんたち
ロナルド・D・レイン『ひき裂かれた自己』
河音能平君の少年時代
村澤貞夫を送る 2004年1月7日
VI
須賀敦子さんの訳詩について
「その地」を訪れざる記
石川九楊『日本書史』を読む
あとがき
初出一覧
■引用
「精神分裂病という名称は不適当であるから改めると、ずいぶん前に精神神経学会で決議されていたが、ようやく「統合失調症」に決まった。正式に決まるのは、今年八月に横浜で開催される世界精神医学会の場であるが、くつがえることはまずあるまい。
名称変更は患者会、家族会主導といってよい。最後に残った候補三つについて、昨年一○月、家族会は一ページ大の新聞広告を打ち、その可否とよい別案とを公衆に問うた。その三つとは「スキゾフレニア」「クレペリン・ブロイラー症候群」「統合失調症」である。「スキゾフレニァ」は欧米で使っている名に「右へならえ」である。専門家向きだが普通の人には呪文であろう。これを直訳して「精神分裂病」としていたのである。
クレペリンとブロイラーは、この概念を抽出した二人の精神科医の名である。名を使うのは「ハンセン氏病」と同じ流儀であるが、食用鶏飼育業の協会から反対があったそうだ。結局「統合失調症」が選ばれた。精神医学の教科書から法律まで直してゆくことになるが、学界も司法界も戸惑っているようだ。しかし、私はこの変更は多くの点で進歩であると積極的に支持する。<42<
「統合失調」とは知情意のまとまりのバランスが崩れると解してよかろう。では躁病、麓病、神経症も精神のまとまりのバランスが崩れていないかといわれそうだ。しかし「不安」は不安神経症に限られているか。そんなことはない。病名は何か一つの特徴を使うしかない。見当外れと偏見とは当然避ける。「精神分裂病」は見当外れで偏見助長性があったが、その前の「早発性痴呆」よりはましだった。元来「分裂」は連想障害を指していた。古い心理学が思考過程とは連想だと考えていたからだ。ユニークな精神科医・神田橋條治氏が、すでに三○年前、精神を無理に統一しようとして失調するから「精神分裂病」でなく「精神統一病」だと言っていたのは偉い。
*
名前が変われば注目点が変わる。従来のように幻聴や妄想でなく、今後は思考や感情や意志のまとまり具合やバランスに注目点が移るだろう。その失調は発病過程の初期に起こる。早期の気づきと早期治療とにつながるだろう。回復過程の目安としても幻覚妄想よりよい。幻覚や妄想は本人の達成度の評価にも努力目標にもできない。それどころか、幻覚や妄想は意識するとかえって長引く。医師や看護師も、幻覚妄想の消滅よりも知情意のまとまりとバランスに注目するほうが、よい治療とケアができそうである。<43<
五○年前には何年も病棟の一隅に突っ立っていたり、奇妙な姿勢のまま不動の人が多かった。入院治療が主で外来治療は従だった。それに、この病は心の傷を特に受けやすい状態にする。さまざまな心の傷が病いをどれだけこじらせていただろうか。
新しい名称は治るという含みを持っている。楽観主義的である。楽観主義的な医師のほうが悲観主義的な医師よりも治療率が高いことが証明きれている。世間の見方も変わってくるだろう。名称変更がどれだけの力を持っかの実験である。ぜひ成功させたい。
しかし、すでに重症のままに多年を送った人の人生は帰ってこない。せめて生活の質の改善に努めたい。また、この病に伴う深い恐怖と長引く場合の、心の萎縮を軽視してはなるまい。楽観主義は現実的な楽観主義であってはじめて生きるものだ。
(二〇〇二年三月二六日)
オイゲン・ブロイラーが生きていたら、「統合失調症」に賛成するだろう。彼の弟子がまとめたブロイラーの基本障害である四つのAすなわちAmbivalenz(両価性)は対立する概念の、一段階高いレベルにおけ<44<る統合の失調であり、Assoziationslockerung(連合弛緩)は概念から概念への(主として論理的な)「わたり」を行うのに必要な統合の失調を、Affektstorung(感情障害)は要するに感情の統合の失調を、そして自閉(Autismus)は精神心理的地平を縮小することによって統合をとりもどそうと試みて少なくとも当面は不成功に終わっていることをそれぞれ含意しているからである。ブロイラーがこのように命名しなかったのは、よいギリシャ語を思いつかなかったという単純な理由もあるのかもしれない。「統合失調症」を試みにギリシャ語にもとずく術語に直せば、syntagmataxisiaかasyntagmatismusとなるであろう。dyssyntagmatismusのほうがよいかもしれない。「統合失調症」は「スキゾフレニア」の新訳であるということになっているが無理がある。back translation(逆翻訳)を行えばこうだと言い添えるほうが(一時は変なギリシャ語
だとジョークの種になるかもしれないが)結局は日本術語の先進性を示すことになると思うが、どうであろうか。(pp42-5)
ロナルド・D・レイン『ひき裂かれた自己』
1
またしても、レインについて書けというお鉢がまわってきた。これで三度目である。第一回は、レインがコート・ダジュールのサントロペでテニス中に急死した一九八九年夏であって、まだそのころまであったのかと今は驚かれる『朝日ジャーナル』の求めに応じて書いた「追悼文」であった。この時すでに、私がレインの追悼文を書くということ自体が徴候的なことであった。つい十数年前、レインが飛ぶように売れた、その時代の訳者・紹介者が現存しておられた(る) のに、その方々はもはや書くことを好まれないらしかった。
そして、レインの自叙伝『わが半生』が岩波書店の同時代ライブラリーに収められた時に、この追悼文をもとにして解説を書く羽目になった。やはり、他に書く人がいないのであった。このように、『ひき裂かれた自己』の解説の依頼は、何度断っても私のところに戻ってくるのであった。最後には、私の若い友人が私の病いを慮って、『わが半生』の解説をリライトして私の名で出します<244<ということになりかけた。しかし、いくら病いの身であっても、ゴースト・ライターに頼むのは、私の痩せ我慢が許さない。
フランス語でrevenant(戻ってくるもの)とは「お化け」のことである。時あたかも、二○○○年八月一五日、二○世紀最後のお盆である(原稿執筆時)。セイロンや日本で座禅したレインであるが、きっとレインは成仏していなくて、どうしてだろうか、ゴースト・ライター志望者の郵便によって私のところに戻ってきた。レインが死後一○年以上、成仏できないのは、それだけの理由があるのであろう。ゴースト(幽霊)をゴースト・ライターが書いたとなればシャレにもならない。私はレインのゴーストの供養のために『ひき裂かれた自己』について書くことを引き受けた。これで彼が成仏するとは思わないが、この一文に施餓鬼ほどの力があることを望むものである。
なぜレインは成仏しないのであろうか。レインが成仏していないとはどういうことであろうか。
一つには、レィンによって精神医学に志した世代の精神科医の魂が成仏していないのであろう。精神科闘争、研究の否定、反精神医学、ベトナム反戦などなどの後、一九八○年に米国でDSM‐Ⅲが公刊されると、この黒船によって、日本の精神医学はがらりと変わった。本質的にクレペリン精神医学によって立ち、クルト・シュナイダーK.schneiderの操作主義とエルンスト・クレッチマーE.Kretschmerの多次元診断によって補強されたDSM体系は、日本の精神医学の風土を変えた。一九七○年代にレイン、クーパーなどによって精神科医になった人々は、これに対抗する精神医学を持っていなかった。しかし、それについて私は何を言うつもりもない。<246<
あるいは、レインによって精神医学に志した世代の精神科医に治療された患者とその家族たちが成仏していないのかもしれない。精神医療を抑圧の手段あるいは端的に存在しないといい、精神科患者への差別を糾弾し、精神病院を廃止するのが最良の手段であるということはやさしい。しかし、精神科患者は、差別されたくも、拘禁されたくもないが、また、保護され、治療され、患者でなくなりたいのである。
「闘う医師」たちが精神科患者を先頭に立てて闘っていた時、私はかって学生時代にみた、在日朝鮮人を先頭に立てて警官隊と衝突していた日本人デモ隊の姿と重ね合わせてしまう。もういちいち挙げるには及ぶまい。レインのレの字も学会で聴かれなくなってから二〇年、なおレインの『ひき裂かれた自己』が売れ、私などにレインについて書くように求められるのは、生物学的精神医学の進歩にもかかわらず、明証(エピデンス)にもとづく精神医学の唱導にもかかわらず、治療におけるアルゴリズムの普及運動にもかかわらず、精神医療自体がまだ成仏していないのであろう。い換えれば、レインは否認されたけれども、現在の精神医学は、レインの批判に事実で以て十分応えていないということなのであろう。
実際に、精神医学が首尾よくそのような色のバラになるかどうかは私の予見能力を越えているけれども、私のところなどに出る気の弱い幽霊レインのために、この幽霊の通った跡を辿って現在までの精神医学を見直してみよう。せめて、彼を正しく位置づける努力によって鎮魂を図ろう。エルシノーア城における亡霊以上のことをレインの幽霊は頼むまい。第一、私はハムレットではない。<246<
まず、『ひき裂かれた自己』とはどのような本であったか。この問いにいくぶんなりとも答えるためには二〇世紀初頭から当時までの英国精神医学を念頭に置かなければならない。
この時期における英国精神医学の衰微は、ヒューリングズ・ジャクソンJ.H.Jackson、ヘンリー・ヘッドH.Headをはじめとする英国神経学の隆盛と比べてあまりに対照的である。英国神経学は英国の経験論的実証主義の精華である。二〇世紀初期、精神医学と神経学との距離は、今よりももっと近いと感じられていた。英国精神医学の当時の衰微が自他ともに自覚されなかったのは、まずはそのためである。
しかし、欠陥の一つは英国の医学教育制度にあった。英国の医学制度は、精神医学を大学から排除していた。特にイングランドにおいては、ケンブリッジ、オックスフォードの二大大学医学部は何と一九七〇年代まで精神医学科を欠いていた。
一つには、ドイツのクレペリーンE.Kraepelin、スイスのブロイラーE.bleulerの精神医学体系が、「統合失調症」の導入によって、旧来の(一九世紀フランスの)体系を刷新したのが、第一次大戦前夜であり、その普及は大戦中であったこともあるであろう。英国はドイツと死闘を続けていた。スイスは敵国でなかったが、ブロイラーはドイツ語で著述していた。
一九世紀後半の欧米の大不況によって、精神医療は安価な精神病院中心の医療となり、きわめて<247<閉鎖的な精神病院は退院率を急激に低下きせ、生涯退院率を一〇パーセント以下、かっての数分の一とした。ここで統合失調症は患者集団の中から「析出」し、精神病理学者がその予後の悪さを精密に理論づけ、合理化した。
英国においては、さらにベンサムJ.Benthamらの社会進化論にもとづいて、優勝劣敗による淘汰の法則が社会を進歩させるとされた。精神病患者は淘汰されるべきものであり、社会は彼らから守られるべきものであった(もっとも、英国の精神病院における患者の処遇は、階級によって大いに異なった)。英国において精神医学は、伝統的に、宗教的マイノリティ、特に長老教会に拠るスコットランド(レインはスコットランド人で長老教会の家庭に育った)およびフレンド協会(いわゆるクエーカー教徒)の担うものであった。産業革命による都市生活が精神病の増加に貢献しているとするクエーカー教徒たちが自ら作ったヨーク退息所で始めたモーラル・トリートメント(人間的―または社会的―治療)は、一九世紀前半におけるフランス、米国、ドイツの精神病院の治療原理となった。
しかしまた、英国の精神病院は、その帝国主義の全時代を通じて、軍事との関係が深い。ナポレオン戦争の時期を通じて、歴史を誇る(と同時に悪名高い)ロンドンのべドラム病院は英国海軍専用の精神病院となっていた。ナポレオン戦争の三〇年間を通じて、軍艦の乗組員を強制徴募すなわち無理無体な青年拉致によって調達してきた英国海軍は水兵反乱に悩まされるが、反乱者は容赦なく帆桁に吊るされた。このような過酷な軍隊生活が反乱者だけでなく、多数の精神病患者をも生んだのであろう。
英国は、第一次大戦において、再び、大量の精神神経症兵士に悩むことになる。これに対する英国軍医部の「治療」は威圧・脅迫・虐待によるタカ派的なものであった。
また、戦勝国の不況、失業は、敗戦国よりも強力な欲求不満を誘導する。ドイツが悪性インフレーションから立ち直って、復興景気、賠償景気に沸いていた時、英国は国家の基盤を揺るがすほどの炭鉱夫の大争議に直面していた。
英国において欧州精神医学からの立ち遅れが徐々に意識されたのは、一九三〇年代である。長引く不況が、精神病問題を深刻にきせたのかもしれない。イングランドにおいても、スコットランドにおいても、ナチス政権を嫌って亡命してきたドイツ人教授によってドイツ精神医学のもとに再建が図られた。マイャー=グロースw.Mayer-Grossの『精神医学教科書』は、英国経験論で消化されたドイツ精神医学の精髄であって、名教科書とうたわれ、旧ソ連はロシア語に訳して大学の教科書に用いた。
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レインの『ひき裂かれた自己』の社会的背景は、精神病院の劣悪化、英国精神医学の停滞、英国軍医部精神医学のタカ派的伝統、第一次大戦後の不況による欲求不満と戦争神経症的雰囲気である。レインの民族的背景は、スコットランド・カルヴィニストの倫理であり、また三〇〇年前のカロー<250<デンの戦いにおける敗北以来、イングランドの「対抗文化」となって、イングランドを凌駕しようとしつつ、常にイングランドに寄与してきたスコットランドの歴史である。その中でフロイディズムの受容も行われていった。後の治療共同体もスコットランドの伝統に立つものである。
さらに個人的背景がある。一九二七年にスコットランドに生まれ、思春期に父の鬱病発症に際会し、グラスゴウ大学医学部に入学して、手術を残酷と見る。スイス在住のヤスパースK.Jaspersのもとに留学しようとする試みは、当時の英国におけるドイツ語圏精神医学の威信を示す(ヤスパースはマックス・ウェーバーを経由してカルヴィニズムに親近的であった)。この留学が成功していたらどうなったであろうか。
次に、第二次大戦の軍医となって、患者に語りかけることを禁じるような英国軍医部の精神医学を味わう。この「ネグレクトによる治療」は、第一次大戦における高電圧弱電力の口腔への圧抵、絶対暗室への拘禁などの戦争神経症者に対するタカ派的治療の伝統に立つものである。
ところが、第二次大戦によって、英国軍事精神医学を経験した応召精神科医師の中に大きな変化が生じた。実際、英国にとって国力を傾けた総力戦であった第二次大戦においてほとんどの精神科医が軍医あるいは軍事精神病院医となっている。レインもその経験者であるが、早くも一九五〇年代に、マックスウェル・ジョーンズM.Jpnesは、戦時下の戦争神経症の治療、戦後の英国兵元捕虜治療の経験から「治療共同体」を創設し、実践していた。これはレインの実験病棟よりも早く、かつ永続性のあるものだった。徹底的個人主義を建前とする英国であるが、その反面、ヨーク退息<250<所以来の伝統、広くは理想的共同体を構想した生活協同組合の始祖ロバート・オウエンR.Owen以来の伝統もある。
英国は、戦時中に、画期的な国民保健制度を発足させた。それはGP(一般開業医)と専門病院の二本建てであって、GPはおのれの限界を越えた疾病を専門病院に紹介し、他方、専門病院はGP経由でなければ患者を受け付けず、また回復すればGPに戻すという制度である。これは初期から、特に精神医学に関しては、専門病院からただちに一般医であるGPに一民すところに無理があった。治療共同体が創設されたのは、この空隙を埋める緊急の実際的必要があってのことでもある。
また、英米圏は戦後になって、大陸の精神医学に目を開き始めた。ヤスパースの『精神病理学総論』、ブロイラーの『精神分裂病(統合失調症)』が翻訳され、さらに北欧諸国の文献をも含む大陸精神医学の文献集が出版された。米国はもちろん、英国においても、大陸からの亡命精神科医を含む力動精神医学が台頭し、英国では対象関係論学派が形成された。しかし、英国精神医学のエスタブリッシュメントは、米国のようにヤワではなく、マイャー=グロースの弟子たちを中心として正統精神医学を維持し、生物学的精神医学と社会精神医学とを発展させた。
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当時二〇代であったレインは「遅れてきた青年」であるが、英国には珍らしく、大陸の思想、哲学、精神医学をよく勉強している精神科医であった。知的公衆のための「ペリカン」叢書は岩波新<251<書のモデルとなったものであるが、発行元のワイデンフェルド.アンド・ニコルソンという出版社が、若きレインを起用して『ひき裂かれた自己』を書かせた。これは大当たりだった。
叢書の性質上、この本に新しいものはない。しかし、統合失調症患者は、今日考えられないほど重症不治の疾患とされ、その内面の理解はできないものとされており、医学教育もそのようになされていた。大陸精神医学、アメリカ精神医学、実存哲学、現象学、分裂気質論(ドイツ・チュービンゲン学派―主流のハイデルベルク学派に対する対抗精神医学―から取った)、対人関係論(彼はサリヴァンを多く取り込んでいる)、さらに家族精神医学を集約し、インパクトの強い文章で書いたこの本は、単に出版社の期待に十二分に応えただけでなく、私より一つ下の世代に属する多くの精神科医に開眼的体験を与えた。
仮にレインがスコットランド人的上昇志向に支えられて本書の執筆を開始したとしても、本書に新しいものがないとしても、彼は、見事に、それまで潜在し、散在していた諸傾向を総合して、毒性の強い殺し文句によって、精神医学エスタブリッシュメントを攻撃し、精神医療の雰囲気を変えた。フーコーM.Foucaultとともに彼は一つの大転回を作るきっかけとなった。
患者ははじめてその「弁護士」を得た。いわく、社会の抑圧によって「ニセ」自己を形成し、病者の道に入る。また統合失調症は資本主義社会の無意識の共謀による。さらに患者は家族のスケープゴートである。しかし、統合失調症はより積極的な生への旅路でもあるとし、医療者と患者との区別を撤廃し、共生する住居を設立した。時代はあたかも、精神病院から進行性麻痒が消滅しつつ<252<あり、統合失調症患者が入院患者の多数派となりつつあって、その患者も、今よりもずっと若い患者の率が多かった時期である。レインの主張は時代に逢った。
レインのその後の生涯は幸福ではなかった。出版社はまだ執筆していない著作の印税としてポンド札を彼の前に積み上げ、できるが早いか生煮えの原稿を持ち去ったと聞いた。悪意のこもったこの噂の真偽はともかく、レィンが、大多数の患者を置き去りにしてスターになったのは不幸であった。そもそも精神科医はスターになるべきではない。彼は東京の下水のドブネズミとして死にたいと語ったこともあり(これはつげ義春の絵を連想させる)、しばしばセイロンと日本で座禅し、テニス中の心臓死に終わった。サリヴァンと異なって「真の自己」と「ニセ自己」とを区別した彼は、おのずと求道者たらざるを得なかったであろう。
レインの初期の影響は、精神科医の罪悪感を刺激したことであった。それは、一九六八年の世界同時的学生反乱と同じ背景を持つ。わが国では、原題Divided selfが「分割された自己」でなく、「ひき裂かれた自己」と強調して訳されたために、そのインパクトは強烈であり、精神科医たちは一時、精神科医であること自体が「うしろめたい」存在であると公言するに至った。
その世代が五〇歳代になっている現在から振り返ってみると、レインの主張は、うすまって(より現実的な形で)精神医学全体に広がっていると私は思う。その点ではレインは安心して瞑目してよいであろう。『わが半生』の解説で私はそのように記した。しかし、レインがそれによって成仏しなかったとすれば、どういうことであろうか。たしかに、「自己がバラバラになっている」とか<253<「自己の死」とか、軽々しく言ってよいものだろうか。レインは問題の重大さを強調するあまり、患者を絶望させ、また深刻好きの精神科医を悪く刺激したところはないだろうか。レインの亡霊は、それを匡したいのであろうか。
もう一つ、この本が、結果的に、一九七〇年以後の一般的他罰性強調の社会的雰囲気を精神医学に取り込む助けになったことは単純に功と言えない。精神疾患を自らの欠陥とするそれ以前の精神医学よりも、他の(家族の、社会の)せいにすることは、病者の気持ちを一時軽くするであろう。そもそも病気でないとする、病気の否認はさらに肩の荷を軽くするかもしれない。しかし、この軽快は一時的なものであり、現実の苦悩を取り去らない(現在のトピックである、心的外傷は米国にその徴候を見るように単純他罰性への傾向を潜在させている。私たちは一九七〇年より少し賢くなっているであろうか)。
私たちはただ、現実原則にのっとって一歩一歩前進するほかはないのである。
しかし、精神科患者は、ともすれば、忘れられがちな存在である。他から見れば忘れたい存在であり、社会経済的には手抜きにされやすい存在である。私たちが油断すれば精神医療は必ず空洞化する。なるほど、生物学的には精神医学は隆盛に向かうであろう。しかし、生物学的精神医学が主流となった時に精神科医を志す医師のタイプは、変わってくるであろう。患者は生物学的に治療されて、治ればよし、治らなければ「それはお気の毒」となるかもしれない。あるいは、精神医療は、心理士やナースや作業療法士の手に移り、精神科医は、診断し、処方し、診断書を書き、保険会社員に「指導」される存在として片隅に追いやられるかもしれない。この傾向は、すでに世界各地で<0254<見られていると思う。しかし、天の下に新しいものはそれほどない。それは、一九世紀末精神医療の、より洗練された繰り返しである。そうなれば五〇年後、一〇〇年後に新しいレインの出現が待たれる事態となるかもしれない。レィンが容易に成仏しないのはそのためかもしれない。」(中井[2005:245-255])
なるほど、生物学的には精神医学は隆盛に向かうであろう。しかし、生物学的精神医学が主流となった時に精神科医を志す医師のタイプは、変わってくるであろう。患者は生物学的に治療されて、治ればよし、治らなければ「それはお気の毒」となるかもしれない。あるいは、精神医療は、心理士やナースや作業療法士の手に移り、精神科医は、診断し、処方し、診断書を書き、保険会社員に「指導」される存在として片隅に追いやられるかもしれない。この傾向は、すでに世界各地で<0254<見られていると思う。しかし、天の下に新しいものはそれほどない。それは、一九世紀末精神医療の、より洗練された繰り返しである。そうなれば五〇年後、一〇〇年後に新しいレインの出現が待たれる事態となるかもしれない。レィンが容易に成仏しないのはそのためかもしれない。」(中井[2005:245-255])
■書評・紹介
■言及
*作成:三野 宏治