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高橋隆雄・八幡英幸編『自己決定論のゆくえ――哲学・法学・医学の現場から』
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自己じこ決定けっていろんのゆくえ――哲学てつがく法学ほうがく医学いがく現場げんばから』



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高橋たかはし 隆雄たかお八幡はちまん 英幸ひでゆき へん 20080501 『自己じこ決定けっていろんのゆくえ――哲学てつがく法学ほうがく医学いがく現場げんばから』,九州大学きゅうしゅうだいがく出版しゅっぱんかい熊本大学くまもとだいがく生命せいめい倫理りんり論集ろんしゅう2,311p. ISBN−10:4873789702 ISBN−13:9784873789705 [amazon][kinokuniya] ※ be. sd.

ない よう

  ほんシリーズだいかん日本にっぽん生命せいめい倫理りんり回顧かいこ展望てんぼう―』では、これまでの日本にっぽんにおける生命せいめい倫理りんり議論ぎろん活動かつどう総括そうかつてきかえるとともに、今後こんご展望てんぼう提示ていじした。だいかんであるほんまきは、現場げんばからの生命せいめい倫理りんり哲学てつがく倫理りんりがくとの接点せってん種々しゅじゅ仕方しかたさぐることをこころみている。
  これまでの研究けんきゅうかいやシンポジウムでは、医療いりょう現場げんば生命せいめい科学かがく研究けんきゅうでの具体ぐたいてき問題もんだいしゅとしてろんじられてきたが、ひとわたり議論ぎろんわると、たいていはつぎのような、これまで哲学てつがくんできた根本こんぽんてきいかけがなされることになる。ほんまきでは、「自由じゆうとはいったいどういうことか」、「本来ほんらいあるべき自律じりつ自己じこ決定けっていとはどのようなものか」、「なぜひと生命せいめい尊重そんちょうされるべきなのか」、「そもそも権利けんり根拠こんきょはどこにあるのか」、「ひとにとって利益りえきとはどういうものか」、「しん幸福こうふくとはどのようなことか」という根本こんぽんてきいかけのなかから「自己じこ決定けってい」に焦点しょうてんてている。その理由りゆうは、倫理りんりがく法学ほうがくにおけるその概念がいねん登場とうじょう比較的ひかくてき最近さいきんであるにもかかわらず、自由じゆう意思いし理性りせい欲求よっきゅう行為こういといった哲学てつがくてき由緒ゆいしょある問題もんだいとのつながりがふかてんにある。
  あつかわれた具体ぐたいてきテーマは、自己じこ決定けってい行為こうい選択せんたく自己じこ決定けっていにおける理性りせい感情かんじょうけとしての自己じこ決定けってい、カントにおける自律じりつ生命せいめい倫理りんり原理げんり、また、自己じこ決定けってい概念がいねん西欧せいおう哲学てつがく史上しじょう系譜けいふやアメリカでの生命せいめい倫理りんりにおける登場とうじょう仕方しかた、ドイツでの自己じこ決定けってい位置いち、さらに、法的ほうてき観点かんてんからの自己じこ決定けっていけん問題もんだい、プライバシーの問題もんだい医療いりょうにおける自己じこ決定けってい概念がいねん、そして、医師いし看護かんごしょくといった専門せんもんしょく自律じりつという視点してんからの自己じこ決定けっていとうである。
 つぎ

だいしょう 自己じこ決定けってい行為こうい選択せんたく不合理ふごうりおろかさ・よわさと自己じこ決定けってい
だいしょう 「自己じこ決定けってい」の系譜けいふ展開てんかい
だいしょう 道徳どうとく法則ほうそく自律じりつ自己じこ決定けってい―カントと生命せいめい倫理りんりがく、そのへだたりから―
だいしょう 自己じこ決定けっていけん自律じりつてき行為こうい多様たようせい
だいしょう けとしての自己じこ決定けってい
だいしょう 医療いりょうにおける自己じこ決定けっていろん盲点もうてん精神せいしん医療いりょうのなかで―
だいしょう 法的ほうてき観点かんてんからた、自己じこ決定けってい
だいしょう プライバシーと自己じこ決定けってい―ヒトはい試料しりょう法的ほうてき地位ちいがかりに―
だいしょう 医療いりょう現場げんば自己じこ決定けってい実現じつげんするために必要ひつような10のとく
だい10しょう Self‐determination and informed choice
   [しょうやく自己じこ決定けっていとインフォームド・チョイス 
だい11しょう 専門せんもんしょく自律じりつせい医師いしとその専門せんもんしょく集団しゅうだん関係かんけいについて―
だい12しょう 看護かんごという組織そしきにおける自律じりつ患者かんじゃ看護かんごにとっての自律じりつとは―
だい13しょう アメリカ生命せいめい倫理りんりにおける自己じこ決定けってい概念がいねん系譜けいふ人格じんかく尊重そんちょう自律じりつ、プライバシーの権利けんり
だい14しょう ドイツの医療いりょう倫理りんり自己じこ決定けってい―ドイツにおける臨死りんし介助かいじょ議論ぎろん中心ちゅうしんに―



だいしょう岡部おかべ つとむ論考ろんこう自己じこ決定けってい行為こうい選択せんたく」では、行為こういかんして、そうすると自分じぶんめて、自発じはつてきにそうしたのであっても、本当ほんとう意味いみでそれを選択せんたくしたとはえない場合ばあいがあることはあきらかであるようにおもわれると主張しゅちょうする。そうだとすると、意味いみとく限定げんていしないで普通ふつうわれる「自己じこ決定けってい」と「行為こうい選択せんたく」のあいだには、よくると、はっきりとした亀裂きれつはしっているのがかるのだが、日常にちじょうあわただしさのなかでは、我々われわれはそのことを問題もんだいにしないですましている、あるいはそのことに気付きづかないりをしている、ということなのかもしれない。しかし、その亀裂きれつには、哲学てつがくてき問題もんだいにすべきてんがあるようにおもわれるのであるが、本稿ほんこうでは、その亀裂きれつなに意味いみするのかをあきらかにするこころみがおこなわれている。

だいしょう小柳こやなぎ正弘まさひろ論考ろんこう「『自己じこ決定けってい』の系譜けいふ展開てんかい」は、思想しそうをいくらかさかのぼって、自己じこ決定けっていというかんがえかたが、自由じゆうのありようをめぐる問題もんだい対立たいりつにどのようなかたちで原理げんりてきつうそこしているのかということを、いくつかの自己じこ決定けってい図式ずしきをふまえて探索たんさくするとともに、こんにちの自己じこ決定けってい現状げんじょう瞥見べっけんすることで、「自己じこ決定けってい」の系譜けいふ展開てんかい素描そびょうしようとするものである。

生命せいめい倫理りんりがくたいするカントの影響えいきょう指摘してきするのはそうむずかしいことではない。げんに、成立せいりつ生命せいめい倫理りんりがく文献ぶんけんにはカント倫理りんりがく解説かいせつがしばしば登場とうじょうする。しかし、その思想しそうのすべてががれたわけではなく、生命せいめい倫理りんりがくによるカント受容じゅよう選択せんたくてき限定げんていてきであり、またそれゆえ意味いみ変容へんようをともなっている。このことを典型てんけいてきしめすのが、いわゆる生命せいめい倫理りんり原則げんそくひとつである自律じりつ尊重そんちょう原則げんそくである。この原則げんそくにはよくカントの影響えいきょうられるとわれるが、カントにおいて根本こんぽんてきには道徳どうとく法則ほうそくへの尊敬そんけい意味いみしていた自律じりつは、個人こじん自己じこ決定けってい意味いみするものへとおおきく変容へんようしている。だいしょう八幡やはた英幸ひでゆき論考ろんこう道徳どうとく法則ほうそく自律じりつ自己じこ決定けってい」は、このような変容へんようなに起因きいんし、なに意味いみするかについて考察こうさつしている。まず、『道徳どうとく形而上学けいじじょうがく基礎きそづけ』を参照さんしょうすることにより、カント倫理りんりがく基本きほん構造こうぞうさえ、つぎに、成立せいりつ生命せいめい倫理りんりがくがそこからなにれ、なにれなかったかを検討けんとうしている。そして、なぜそのような取捨選択しゅしゃせんたくおこなわれたのか、その背景はいけいにはなにがあるのかについても考察こうさつしている。

だいしょうしんはら幸弘ゆきひろ論考ろんこう自己じこ決定けっていけん自律じりつてき行為こうい多様たようせい」では、ひとくちに自律じりつてき行為こういといっても、多種たしゅ多様たよう行為こういふくまれるとしたうえで、なぜ、自律じりつてき行為こういには、このように様々さまざまなタイプのものが存在そんざいするのか、また、それらはどのように関係かんけいしあい、どのようにひとつのかさのもとにおさまっているのかについて検討けんとうしている。そして、我々われわれ意思いし決定けっていシステムには、ふたつのことなる種類しゅるいのシステムがあり、それらのはたらかたやそれらの相互そうご作用さようのありかたによってさまざまなタイプの自律じりつてき行為こういまれることについてろんじている。

だいしょう高橋たかはし隆雄たかお論考ろんこうけとしての自己じこ決定けってい」では、自己じこ決定けっていということを、確実かくじつ状況じょうきょうでの決定けってい一種いっしゅけとしてとらえるとともに、手続てつづきてき正義せいぎという概念がいねん媒介ばいかいとして、医療いりょう現場げんばでの自己じこ決定けってい、さらには終末しゅうまつにおける自己じこ決定けってい条件じょうけん特徴とくちょうについて、従来じゅうらいとはすこことなる視点してんから考察こうさつしている。

だいしょう北村きたむら俊則としのり北村きたむら總子ふさこ論考ろんこう医療いりょうにおける自己じこ決定けっていろん盲点もうてん」では、精神せいしん医療いりょうにおける強制きょうせい入院にゅういん制度せいどとその概念的がいねんてき理論りろんてき背景はいけいについてろんじたうえで、精神せいしん医療いりょうなか発生はっせいする判断はんだん能力のうりょく評価ひょうかとそれにつづ決定けっていされる治療ちりょう強制きょうせいのような通常つうじょう理論りろん構成こうせいでは矛盾むじゅんしょうじる事例じれい提示ていじしながら、患者かんじゃ自己じこ決定けってい理論りろんについて再考さいこうこころみている。

だいしょう稲葉いなば一人ひとり論考ろんこう法的ほうてき観点かんてんからた、自己じこ決定けってい」では、自己じこ決定けっていという、一見いっけん自明じめいなことが、ほう世界せかいでは自明じめいでないことがあり、そのことをいくつかの分節ぶんせつした論点ろんてん検討けんとうすることであきらかにし、さらに、わがくににおける自己じこ決定けってい脆弱ぜいじゃくせいあきらかにすべく考察こうさつしている。

だいしょう奥田おくだ純一郎じゅんいちろう 論考ろんこう「プライバシーと自己じこ決定けってい」は、ヒトはい試料しりょう研究けんきゅうもちいることが倫理りんりてき許容きょようされるかかをじく自己じこ決定けっていけんという理念りねん、とりわけ「プライバシー」概念がいねん自己じこ決定けっていけん関係かんけいがいかなるものであるかを考察こうさつしている。本書ほんしょ自己じこ決定けっていけんのゆくえ』全体ぜんたいにおけるテーマたる自己じこ決定けっていという理念りねんと、類似るいじ近接きんせつ混同こんどうされる概念がいねんとしてのプライバシーは、いかなる関係かんけいつかという問題もんだいは、こと生命せいめい倫理りんりはなれた一般いっぱんろんとしてもろんじうる。そのアプローチの仕方しかたは、歴史れきしてき考察こうさつ哲学てつがくてき考察こうさつによっても可能かのうであるし、その示唆しさするところはおおきい。しかし、本稿ほんこうは、このふたつの概念がいねん相克そうこくする局面きょくめんとして、ヒトはい利用りようした研究けんきゅう可否かひをめぐる議論ぎろん舞台ぶたい考察こうさつこころみている。まずはじめに、ヒトはい試料しりょうもちいた研究けんきゅう促進そくしん規制きせいする要因よういんとして、プライバシーないし自己じこ決定けっていけんがいかなるはたらきをするかを確認かくにんし、そのもとでプライバシーと自己じこ決定けってい意義いぎ役割やくわり射程しゃていさい検討けんとうして、そのヒトはい試料しりょう問題もんだいへの合意ごういあきらかにしている。

だいしょう浅井あさい あつし論考ろんこう医療いりょう現場げんば自己じこ決定けってい実現じつげんするために必要ひつような10のとく」では、医療いりょう現場げんばにおける自己じこ決定けってい是非ぜひ問題もんだいてんではなく、いかにしたら医療いりょう現場げんば自己じこ決定けってい実現じつげんすることができるかについてとくという観点かんてんからろんじている。すべての現代げんだい憲法けんぽうに「まんにん平等びょうどうつくられた」のような意味いみふか言明げんめいられる。よきなま追求ついきゅうはすべてのひとのぞみうる目的もくてきであり、前記ぜんき言明げんめいはすべてのひと平等びょうどうによきなま達成たっせい選択せんたくしうることを含意がんいしている。自己じこ決定けってい個人こじん共同きょうどうたい国家こっか適用てきようできるが、個人こじんについては憲法けんぽうのっとって世界中せかいじゅうれられた市民しみん平等びょうどうのうちにふくまれている。

だい10しょうのダリル・メイサー論考ろんこう自己じこ決定けっていとインフォームド・チョイス」は、社会しゃかいてき正義せいぎにではなく、いかにして自分じぶん決定けってい選択せんたくおこなうべきかに焦点しょうてんをあてて考察こうさつしている。

だい11しょう田中たなか朋弘ともひろ論考ろんこう専門せんもんしょく自律じりつせい」の目的もくてきは、比較的ひかくてき最近さいきんしょうじたみっつの事例じれい参照さんしょうしながら、医師いしとその専門せんもんしょく集団しゅうだんとの関係かんけいについて検討けんとうすることにある。そしてそのためのくちを、医師いし自律じりつせいもとめて考察こうさつすすめている。生命せいめい倫理りんりがくで「自律じりつせい」が問題もんだいにされる場合ばあい医師いしのパターナリズムと患者かんじゃ自己じこ決定けっていけんという文脈ぶんみゃくから、患者かんじゃ自律じりつせいがまずかんがえられる。そこでは、患者かんじゃ自分じぶん自分じぶんのことを決定けっていする自由じゆう考察こうさつ対象たいしょうとなる。他方たほう医師いし自律じりつせいとは、(1)医師いし治療ちりょう方針ほうしんなどを選択せんたくする自由じゆう、(2)法律ほうりつ道徳どうとく集団しゅうだんてき自主じしゅ規制きせいしたが規範きはんてき態度たいど、として理解りかいできる。(1)の意味いみでの医師いし自律じりつせいは、他人たにんのことを自分じぶん決定けっていする自由じゆうであり、自分じぶんのことを自分じぶん決定けっていする患者かんじゃ自律じりつせいとはことなる。このような意味いみでの医師いし自律じりつせいみとめられるのは、治療ちりょう判断はんだんのレベルによって強弱きょうじゃくはあるが、医師いし職務しょくむ専門せんもんしょくとしての裁量さいりょうけんみとめられていることによる。(2)の意味いみでの自律じりつせいは、規範きはんてき態度たいど自分じぶんをコントロールすることができるという道徳どうとくてき自発じはつせい意味いみしている。本稿ほんこうでは、具体ぐたいてき問題もんだいぐんなかからかびがる問題もんだいげ、医師いし自律じりつせいとそれをささえる専門せんもんしょく集団しゅうだんとの関係かんけいについて考察こうさつするためのがかりをさぐっている。

だい12しょう森田もりた敏子としこ前田まえだひとみ・岩本いわもとテルヨ論考ろんこう看護かんごという組織そしきにおける自律じりつ」では、看護かんごしゃ自律じりつ焦点しょうてんをあて、歴史れきしてき省察せいさつくわえながら、過去かこにおいて看護かんごしゃ組織そしきとして自律じりつすることがなかったかげ部分ぶぶん概観がいかんすることでいましめとし、今日きょう看護かんご教育きょういく課題かだいについて言及げんきゅうして改善かいぜんてんいだそうとしている。そして、看護かんごしゃ患者かんじゃ権利けんり擁護ようごしゃとして機能きのうし、患者かんじゃ支援しえんしゃることができるのかについて展望てんぼうする。そこで、つぎに「看護かんごという組織そしきにおける自律じりつ看護かんご自律じりつ阻害そがいしてきたもの―」についてろんじ、さらに「看護かんごがく教育きょういくにおける自律じりつ看護かんご専門せんもん職業しょくぎょうじんとしての教育きょういく倫理りんり―」について検討けんとうし、最後さいごに、「看護かんごという組織そしき自律じりつへの模索もさく―アドボカシーはあたらしい看護かんご役割やくわりるか―」についてろんじている。

だい13しょう香川かがわともあきら論考ろんこう「アメリカ生命せいめい倫理りんりにおける自己じこ決定けってい概念がいねん系譜けいふ」では、おもにバイオエシックスが成立せいりつし、展開てんかいされてくる初期しょき段階だんかいしぼり、「自律じりつ」、「自己じこ決定けってい」、さらには「プライバシー権利けんり」といった概念がいねんがどのようなかたちかたられるようになったのかについて考察こうさつし、バイオエシックスの中心ちゅうしん概念がいねんがもつハプニングせい問題もんだいてんあきらかにしようとしている。

だい14しょうのトビアス・バウアー論考ろんこう「ドイツの医療いりょう倫理りんり自己じこ決定けってい」においては以下いかのような考察こうさつがなされている。そもそも、現在げんざいはげしく議論ぎろんされている自己じこ決定けってい概念がいねん重要じゅうよう役割やくわりはたしているもうひとつの話題わだいとしては、終末しゅうまつにおける医療いりょう倫理りんりをめぐるしょ問題もんだいがある。そこで議論ぎろんされている問題もんだい範囲はんいは、延命えんめい治療ちりょう中止ちゅうし可否かひから、要求ようきゅうによる殺人さつじん許容きょようせいにまでおよんでおり、人間にんげん自身じしんをどの程度ていどまで、かつ、どの方法ほうほうをもってのままにできるか、また、他人たにんにその執行しっこうをどのようにして要求ようきゅうできるか、さらには、本人ほんにん判断はんだんできなくなった場合ばあいそなえて、自身じしん終末しゅうまつにおける延命えんめい治療ちりょうなどにたいする意思いし事前じぜん表明ひょうめいするリビング・ウイルなどの拘束こうそくりょくおよび効力こうりょく範囲はんいという問題もんだい、つまり終末しゅうまつにおける自己じこ決定けってい問題もんだいがその中心ちゅうしんとなっている。このような問題もんだいをめぐる人間にんげん終末しゅうまつたいする自己じこ決定けっていについてのドイツの論議ろんぎなかでは、臨死りんし介助かいじょもっとはげしい議論ぎろんんでいる問題もんだいえる。ナチスによる障害しょうがいしゃ安楽あんらく政策せいさく悲惨ひさん経験けいけんをしてきたドイツでは、臨死りんし介助かいじょ許容きょようせいについて議論ぎろんすること自体じたいが1990年代ねんだいまでタブーされ、これについて議論ぎろんするだけでも警戒けいかいしんいだかれた。つまり、上述じょうじゅつのような過去かこきずっているために、臨死りんし介助かいじょかんして議論ぎろんすること自体じたいながあいだ封印ふういんされてきたのである。しかし、1990年代ねんだいなかばからは、オランダ、およびそののベルギーにおける積極せっきょくてき臨死りんし介助かいじょ法制ほうせい契機けいきになり、ドイツにおいても臨死りんし介助かいじょかんしてさかんに議論ぎろんされるようになった。付言ふげんすれば、現在げんざいのドイツにおける臨死りんし介助かいじょ論議ろんぎがアメリカや欧州おうしゅう諸国しょこくことなるのは、その歴史れきしてき背景はいけいキリスト教きりすときょうしょ教会きょうかい、および神学しんがくかいのこの問題もんだいたいする積極せっきょくてきみのためだけでなく、ドイツが自己じこ決定けっていかんして独特どくとくなコンセプトをゆうしているからであると本稿ほんこうく。相対そうたいする意見いけんはげしく衝突しょうとつしている現在げんざいのドイツの臨死りんし介助かいじょ論議ろんぎでは、「自己じこ決定けってい限度げんどことなるにもかかわらず、自己じこ決定けってい尊重そんちょうすることが中心ちゅうしんてき根拠こんきょ」であるため、本稿ほんこうは、現在げんざいのドイツの臨死りんし介助かいじょ論議ろんぎ自己じこ決定けってい視点してんから検討けんとうすることによって、ドイツにおける自己じこ決定けってい視点してんから検討けんとうすることによって、ドイツにおける自己じこ決定けっていのありかたについていち考察こうさつくわえるものである。そのため本稿ほんこうでは、まず、つね臨死りんし介助かいじょ論議ろんぎ背景はいけいにあるドイツの憲法けんぽう相当そうとうする基本きほんほうにおける自己じこ決定けっていけんのありかた検討けんとうしたのち、それにもとづいて、臨死りんし介助かいじょしょ形式けいしき自己じこ決定けってい視点してんから考察こうさつしている。



自己じこ決定けってい行為こうい選択せんたく 岡部おかべつとむ ちょ 3-21
自己じこ決定けってい」の系譜けいふ展開てんかい 小柳こやなぎ正弘まさひろ ちょ 22-42
八幡はちまん 英幸ひでゆき  20080501 「道徳どうとく法則ほうそく自律じりつ自己じこ決定けってい――カントと生命せいめい倫理りんりがく、そのへだたりから」,高橋たかはし八幡やはたへん[2008:43-39]
自己じこ決定けっていけん自律じりつてき行為こうい多様たようせい しんじはら幸弘ゆきひろ ちょ 63-84
けとしての自己じこ決定けってい 高橋たかはし隆雄たかお ちょ 85-107
医療いりょうにおける自己じこ決定けっていろん盲点もうてん 北村きたむら俊則としのり ちょ 108-122
法的ほうてき観点かんてんからた,自己じこ決定けってい 稲葉いなば一人かずと ちょ 125-157
プライバシーと自己じこ決定けってい 奥田おくだ 純一郎じゅんいちろうちょ 158-176
医療いりょう現場げんば自己じこ決定けってい実現じつげんするために必要ひつような10のとく 浅井あさい あつし ちょ 179-193
Self‐determination and informed choice Darryl Macer ちょ 194-206
自己じこ決定けっていとインフォームド・チョイス 加藤かとう佐和さわ やく 207-210
専門せんもんしょく自律じりつせい 田中たなか朋弘ともひろ ちょ 213-235
看護かんごという組織そしきにおける自律じりつ 森田もりた敏子としこ ほかちょ 236-265
アメリカ生命せいめい倫理りんりにおける自己じこ決定けってい概念がいねん系譜けいふ 香川かがわあきら ちょ 269-291
ドイツの医療いりょう倫理りんり自己じこ決定けってい トビアス・バウアー ちょ 292-311

言及げんきゅう

立岩たていわ しん也 2013 私的してき所有しょゆうろん だいはん生活せいかつ書院しょいん文庫ぶんこばん

立岩たていわ しん也 2009 ただせい筑摩書房ちくましょぼう 文献ぶんけんひょう
 「〇〇はちねん出版しゅっぱんされた自己じこ決定けっていについての論集ろんしゅうとして、八幡はちまん英幸ひでゆき道徳どうとく法則ほうそく自律じりつ自己じこ決定けってい――カントと生命せいめい倫理りんりがく、そのへだたりから」とう収録しゅうろくする高橋たかはし八幡やはたへん[2008]。」(立岩たていわ[2009])


作成さくせい中村なかむら聡志さとし
UP:20080810 REV:20130222
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