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Scheffler, Samuel Equality and Tradition : Questions of Value in Moral and Political Theory
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Equality and Tradition : Questions of Value in Moral and Political Theory

Scheffler, Samuel  201007 Oxford University Press,352p.

last update:20100820

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■Scheffler, Samuel 201007 Equality and Tradition : Questions of Value in Moral and Political Theory,Oxford University Press,352p. ISBN-10: 9780195396294 ISBN-13: 978-01953962940745634869 [amazon][kinokuniya]

内容ないよう

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This collection of essays by noted philosopher Samuel Scheffler combines discussion of abstract questions in moral and political theory with attention to the normative dimension of current social and political controversies. In addition to chapters on more abstract issues such as the nature of human valuing, the role of partiality in ethics, and the significance of the distinction between doing and allowing, the volume also includes essays on immigration, terrorism, toleration, political equality, and the normative significance of tradition. Uniting the essays is a shared preoccupation with questions about human value and values. The volume opens with an essay that considers the general question of what it is to value something - as opposed, say, to wanting it, wanting to want it, or thinking that it is valuable. Other essays explore particular values, such as equality, whose meaning and content are contested. Still others consider the tensions that arise, both within and among individuals, in consequence of the diversity of human values. One of the overarching aims of the book is to illuminate the different ways in which liberal political theory attempts to resolve conflicts of both of these kinds.

目次もくじ

Baker&Taylor Table of Contents:
Introduction           3 (12)
 Part I Individuals
  1 Valuing          15 (26)
  2 Morality and Reasonable Partiality  41 (35)
  3 Doing and Allowing          76 (31)
 Part II Institutions
  4 The Division of Moral Labor: Egalitarian Liberalism as Moral Pluralism  107(22)
  5 Is the Basic Structure Basic?    129(31)
  6 Cosmopolitanism, Justice, and Institutions  160(15)
 Part III Society
  7 What Is Egalitarianism?      175(33)
8 Choice, Circumstance, and the Value of Equality  208(28)
  9 Is Terrorism Morally Distinctive?   236(20)
  10 Immigration and the Significance of Culture  256(31)
  11 The Normativity of Tradition      287(25)
  12 The Good of Toleration         312(25)
 Index                    337


だい7しょう "What is Egalitarianism?"のまとめ
初出しょしゅつは、Philosophy & Public Affairs Volume 31, Number 1, Winter 2003, pp. 5-39) ページすうはPDFダウンロードばんによる。

※ 要旨ようしうん平等びょうどう主義しゅぎは、@選択せんたく状況じょうきょう区別くべつ哲学てつがくてき困難こんなんせい、A不利益ふりえき分配ぶんぱいあたいするものだ(状況じょうきょういるものだ)という証明しょうめい不利益ふりえきこうむひといること(スティグマ)において問題もんだいがある、と批判ひはんされる。この批判ひはん前提ぜんていは、平等びょうどうろんは、よりひろく「ひとしい配慮はいりょ」あるいは「平等びょうどうしゃとしての尊重そんちょう」という政治せいじ社会しゃかいてきな「平等びょうどう」の理念りねん基礎きそづけられるべきだ、という認識にんしきである。シェフラーは(アンダーソンやウルフとともに)「うん責任せきにん」ないし「状況じょうきょう選択せんたく」の区別くべつもとづく分配ぶんぱいてき平等びょうどうろんは、この理念りねん実現じつげんする方法ほうほうとして適切てきせつではないとする。最後さいごに、「ひとしい配慮はいりょ」にもとづくとされるドゥオーキンの議論ぎろんについて、その「国家こっか中心ちゅうしんてき」(コーエン)な議論ぎろん枠組わくぐみは、中央ちゅうおう集権しゅうけんてき行政ぎょうせい管理かんり主体しゅたい公務員こうむいん)が人々ひとびと被治者ひちしゃ)を客体かくたいとして位置いちづけて配慮はいりょする「慈善じぜんちた統治とうちしゃ(benevolent tyranny)」モデルであり、そのてんで「平等びょうどうしゃたちの社会しゃかい」という理念りねんとは合致がっちしないと批判ひはんされる。



正義せいぎろん以降いこう分配ぶんぱいてき正義せいぎ理論りろん重要じゅうようなもののひとつが「うん平等びょうどうろん」とばれる理論りろんである。

「そのかくになるかんがかたは、人々ひとびと享受きょうじゅする利益りえきかんする不平等ふびょうどうは、もしそれが人々ひとびと自発じはつてきった選択せんたく由来ゆらいするものであれば受容じゅよう可能かのうだが、人々ひとびと状況じょうきょうのもつ選択せんたくされない特徴とくちょう由来ゆらいする不平等ふびょうどう不正ふせいだ、というものである」(5)

これまでの政治せいじ道徳どうとくかんがかたでは、人種じんしゅ宗教しゅうきょう性別せいべつ民族みんぞくなど、本人ほんにん選択せんたくできないモノを理由りゆうにした差別さべつ不正ふせいだ、というものだった(以上いじょう:5)。だが、これまでのかんがかたは、ひとしい才能さいのう(talent)を人々ひとびとは、〔差別さべつはいして〕ひとしく評価ひょうか(qualify)されるべきだという議論ぎろんだった。それにたいして、「うん平等びょうどう主義しゅぎ」はこうしたかんがかたえて、才能さいのう能力のうりょく(ability)のちがいによる分配ぶんぱいてき不平等ふびょうどう否定ひていする。
 では、選択せんたく由来ゆらいする不平等ふびょうどう許容きょよう可能かのうせいはどうか。うん平等びょうどう主義しゅぎはこれは許容きょよう可能かのうだとう。しかし、従来じゅうらい政治せいじ道徳どうとくは、人々ひとびと選択せんたく由来ゆらいする追加ついかてき所得しょとくさい分配ぶんぱいのための徴税ちょうぜい対象たいしょうにならないとはわない。
 うん平等びょうどう主義しゅぎは、従来じゅうらい政治せいじ道徳どうとくたいして、才能さいのう能力のうりょく由来ゆらいする不平等ふびょうどうみとめないてんつよ主張しゅちょうだが、他方たほう選択せんたく由来ゆらいする所得しょとくについてはみとめるてんよわい。(以上いじょう:6)
 うん平等びょうどう主義しゅぎはしばしば、ロールズの議論ぎろん拡張かくちょう一般いっぱんした理論りろんとして提示ていじされている。だが、うん平等びょうどう主義しゅぎはロールズからの支持しじをほとんどられないだろう。(以上いじょう:7) 以下いか、Tではうん平等びょうどう主義しゅぎ基礎きそをロールズの議論ぎろんくような政治せいじ哲学てつがく近年きんねん歴史れきし要約ようやくし、Uではうん平等びょうどう主義しゅぎのもっともらしさに疑問ぎもんげかける。そこでいかなる分配ぶんぱいてき平等びょうどう主義しゅぎも、それが説得せっとくてきたらんとするならば、道徳どうとくてき価値かちあるいは規範きはんてき理念りねんとしてのより一般いっぱんてき平等びょうどう概念がいねん根差ねざしてているべきだということをろんずる。Vでは、ロールズにたちかえり、それがうん平等びょうどうろん支持しじしていないことをあきらかにし、Wでうん平等びょうどう主義しゅぎ原理げんりが、よりひろ平等びょうどう概念がいねんささえられうることをしめそうとおもう。

T

ロールズはうん平等びょうどう主義しゅぎ基礎きそとされている。キムリッカがべるように、たしかにロールズは、意欲いよく反映はんえいしやすく(ambition sensitive)資質ししつ反映はんえいしにくい(endowment insensitive)理論りろんみだすという動機どうきをもっていた。(以上いじょう:8)  だが、キムリッカもべるように、ロールズはその議論ぎろん十全じゅうぜん仕方しかた展開てんかいしてはいない。選択せんたく状況じょうきょう区別くべつにロールズはうったえるが、かれ格差かくさ原理げんりはこの区別くべつ侵犯しんぱんする。それにたいして、ドゥオーキンはこの区別くべつけいれ、格差かくさ原理げんりとはべつ分配ぶんぱい図式ずしきほうが、この区別くべつをよりよく実現じつげんするとかんがえた。
 ロールズの著作ちょさくには、うん平等びょうどう主義しゅぎ根拠こんきょとして引用いんようされるふたつの側面そくめんがある。ひとつは、形式けいしきてき機会きかい平等びょうどう背景はいけいにして自由じゆう市場いちば経済けいざい支持しじするレッセフェールは人々ひとびと自然しぜん属性ぞくせい社会しゃかいてきポジションに影響えいきょうけているが、それらは「道徳どうとくてき観点かんてんからみて恣意しいてきだ」という議論ぎろんである。そして我々われわれはその影響えいきょうをなくす努力どりょくをすべきだとろんじられている。とはいえ、それは、ロールズの正義せいぎのconceptionを論証ろんしょうする要素ようそとしては考慮こうりょされていない。むしろロールズ自身じしんの「公式こうしき」の議論ぎろん原初げんしょ状態じょうたいにおける選択せんたくというものだ。それにたいして、うん平等びょうどう主義しゅぎは、この「非公式ひこうしき」の議論ぎろん主要しゅよう定式ていしきとして引用いんようする。
ロールズをうん平等びょうどう主義しゅぎ引用いんようするだい側面そくめんは、ロールズが、個人こじんあいだ比較ひかく適切てきせつ基礎きそとして社会しゃかいてき基本きほんざい擁護ようごするさいに、責任せきにん概念がいねんうったえる傾向けいこうをもつというてんである。(以上いじょう:9)
基本きほんざいたいする批判ひはんしゃは、おな基本きほんざいからことなる選好せんこう嗜好しこう人々ひとびとことなる効用こうようないし厚生こうせいるという理由りゆうで、基本きほんざい比較ひかく基礎きそにならないと指摘してきする。それにたいしてロールズは、目的もくてき選好せんこう個々人ここじん責任せきにんがある、とう。安価あんか嗜好しこうひとすくなくしかもたないのは公正こうせいではない。この議論ぎろん選択せんたく責任せきにんとして、うん平等びょうどう主義しゅぎ論拠ろんきょとして引用いんようされている。
 とはいえ、キムリッカは、ふたつの重要じゅうようてんから、ロールズとうん平等びょうどう主義しゅぎ整合せいごうしないという。だいいちに、格差かくさ原理げんり特別とくべつ医療いりょうニーズを人々ひとびと特別とくべつ供給きょうきゅうはしない。一人ひとり健康けんこうでもう一人ひとり病気びょうきだとしても格差かくさ原理げんり二人ふたりおなじようにあつかう。(以上いじょう:10) だいに、格差かくさ原理げんりたと自己じこ決定けってい結果けっかだとしても、最悪さいあくひと地位ちい最善さいぜんのものにしようとする原理げんりである。
これらのてんについて、ロールズはみずからのうん平等びょうどう主義しゅぎ不十分ふじゅうぶんにしか展開てんかいしていないだけなのだ、という解釈かいしゃくもある。だがそれはただしくない。ロールズの議論ぎろん選択せんたく状況じょうきょう区別くべつとく重視じゅうししていない。(以上いじょう:11) それにたいして、たとえばアーヌソンは、みずからのうん平等びょうどう主義しゅぎをロールズとドゥオーキンに由来ゆらいするものとしている。このてんはWまで先送さきおくりしておくが、いずれにしても、いくつかのてんで、ロールズはうん平等びょうどう主義しゅぎよりも魅力みりょくてきである。とはいえ、このてんをみるまえに、次節じせつでは、うん平等びょうどう主義しゅぎ立場たちばたいしてわたし留保りゅうほあたえる理由りゆう説明せつめいしておこう。(以上いじょう:12)

U

うん平等びょうどう主義しゅぎろんしゃアーヌソンは、ふたつの緊密きんみつ関係かんけいしたいを検討けんとうしている。だいいちに、なに平等びょうどうするのかといういである。これが平等びょうどう指標しひょう(metric)についてのいとされ、厚生こうせい資源しげん等々とうとうがあげられている。だいに、どのような不利益ふりえき平等びょうどうした補償ほしょうあたいするのか、といういである。それには身体しんたい障害しょうがい医療いりょうニーズ等々とうとうがある。
これらのいにたいする最善さいぜんこたえをめぐってははげしい議論ぎろんがあるが、うん平等びょうどう主義しゅぎのさまざまなバージョンが実践じっせんてきにどうちがうのかはよくからない。うん平等びょうどう主義しゅぎ不平等ふびょうどう主義しゅぎとのあいだにおおきなちがいがあることはうたがいないが、とはいえ、その道徳どうとくてき核心かくしんはそれほどあきらかではない(以上いじょう:13)
20世紀せいき最後さいごじゅう年間ねんかんにおけるうん平等びょうどう主義しゅぎ登場とうじょうは、アメリカやのリベラルな社会しゃかいにおける所得しょとくとみ不平等ふびょうどういちじるしい拡大かくだいいちにしている。それはプライバタイゼーションと市場いちばへの依存いぞん上昇じょうしょうによって特徴とくちょうづけられる。とはいえ、うん平等びょうどう主義しゅぎと、それらの議論ぎろんこった現実げんじつ社会しゃかいにおける分配ぶんぱい実践じっせんとのあいだにはするどいズレがある。(以上いじょう:14)
もちろん、規範きはんてき概念がいねんとしての正義せいぎと、それが実際じっさい実践じっせんされるとのズレはいつもある。とはいえ、うん平等びょうどう主義しゅぎ理論りろん現在げんざい政治せいじてき実践じっせんのあいだのするど対照たいしょうは、うん平等びょうどう主義しゅぎ理念りねん核心かくしんたいする道徳どうとくてき擁護ようご可能かのうせい根本こんぽんてきいをげかけている。  べつ仕方しかたでアプローチしてみよう。ここでポイントは、うん平等びょうどう主義しゅぎしゃたちの論争ろんそうと、功利こうり主義しゅぎ内部ないぶ論争ろんそうとの並行へいこうせいである。ロールズをうん平等びょうどう主義しゅぎしゃ先駆せんくとして解釈かいしゃくする論者ろんしゃは、かれ議論ぎろんは、厚生こうせい平等びょうどう擁護ようごしゃ反対はんたいして資源しげん平等びょうどうろん擁護ようごする議論ぎろんだとみなしている。しかし、ロールズの基本きほんざい擁護ようごろんは、功利こうり主義しゅぎ反対はんたいする議論ぎろんであり、厚生こうせい平等びょうどうたいする反対はんたいろんではない。つまり、厚生こうせい最大さいだいたいする反論はんろんであって、その平等びょうどうたいする反論はんろんではない。現在げんざい功利こうり主義しゅぎにとって効用こうようないし厚生こうせい概念がいねんふたつの役割やくわりたしている。だいいちに、それは、しん価値かちのあるモノあるいはぜんという意味いみをもつ。だいに、個人こじん福祉ふくし評価ひょうかもちいられる適切てきせつ尺度しゃくどとしてあつかわれている。これらは、効用こうようしょ個人こじん福祉ふくし尺度しゃくどとする功利こうり主義しゅぎてきぜん理論りろんでは連関れんかんしている。そしてこれらと、だいさん主張しゅちょう全体ぜんたい効用こうよう最大さいだいただしいという主張しゅちょうとはべつである。
 ロールズは、功利こうり主義しゅぎのもつこれらみっつの特徴とくちょう区別くべつ同時どうじに、これらみっつの特徴とくちょう関係かんけいせい敏感びんかんである。ロールズは、ぜん理論りろんとしての功利こうり主義しゅぎ一元論いちげんろんてきだとして否定ひていし、より多元的たげんてき福祉ふくし尺度しゃくどとして基本きほんざい導入どうにゅうする。また、最大さいだい概念がいねん拒否きょひして、正義せいぎ要求ようきゅうするのはきょうはたらけ公正こうせい枠組わくぐみの確立かくりつだとろんずる。(以上いじょう:15)
 厚生こうせい集計しゅうけい最大さいだいする立場たちばから、厚生こうせいのレベルの平等びょうどうへと立場たちば移行いこうすると、最大さいだいろんたいする反論はんろん変換へんかんされる。功利こうり主義しゅぎはしばしば「功利こうりせいのモンスター」の可能かのうせいなやまされてきたが、功利こうり主義しゅぎうん平等びょうどう主義しゅぎ厚生こうせい主義しゅぎてきバージョンにわると、功利こうりせいのモンスター問題もんだい高価こうか嗜好しこう問題もんだいによってえられることになる。このふたつの反論はんろん関係かんけい観点かんてんから、批判ひはんしゃみちび結論けつろん比較ひかくすることは有益ゆうえきだろう。またそれは、功利こうり主義しゅぎうん平等びょうどう主義しゅぎむすきをみるじょうでも有用ゆうようだろう。だが、うん平等びょうどう主義しゅぎ論者ろんしゃおおくは功利こうり主義しゅぎ擁護ようごしゃがそうするほどに、みずからの立場たちば擁護ようごするための議論ぎろん十分じゅうぶん展開てんかいしていない。(以上いじょう:16)
 たとえば、厚生こうせい主義しゅぎ資源しげん主義しゅぎかをめぐるうん平等びょうどう主義しゅぎ論争ろんそうは、厚生こうせい主義しゅぎぜん適切てきせつ理論りろんであるかかといういと、平等びょうどう主義しゅぎ平等びょうどう目指めざすべき厚生こうせいが、個人こじんぜんそのものであるのかあるいは個人こじんぜん達成たっせいする手段しゅだんであるのかといういを、明確めいかく区別くべつしていない。そして、正義せいぎが【なにものか】の平等びょうどう分配ぶんぱい要求ようきゅうするという理念りねんは、しばしば単純たんじゅん議論ぎろん出発しゅっぱつてんだとみなされている。
 わたし見方みかたでは、このうん平等びょうどう主義しゅぎ立場たちばにはおおくの根拠こんきょから疑問ぎもん余地よちがある。もっとも明白めいはく問題もんだいは、選択せんたく環境かんきょう区別くべつにこの立場たちばいているおもみづけについてである。(以上いじょう:17)
 選択せんたく選択せんたくできないものとのコントラストはれがたい。ひと社会しゃかいのなかできているし、自発じはつてき選択せんたくなるものも社会しゃかいてき文脈ぶんみゃくによって影響えいきょうされている。また、自由じゆう意思いし決定けっていろんをめぐる形而上学けいじじょうがくてき難問なんもんがある。
 また、一方いっぽう我々われわれには、不利益ふりえきになるかもしれないような選択せんたくてき属性ぞくせいっているが、他者たしゃたいしてその補償ほしょうもとめないものがある。他方たほう緊急きんきゅう医療いりょうニーズについてはたとかれ自身じしんのハイリスク行動こうどう結果けっかだったとしても、ニーズに配慮はいりょすべきでないとはおもわれない。(以上いじょう:18)
ここからぎゃくにみると、うん平等びょうどう主義しゅぎ形而上学けいじじょうがくてきなリバタリアニズムのいち形態けいたい依拠いきょしていることがかる。
 この問題もんだいたいして、うん平等びょうどう主義しゅぎべつのところにせんくことで対処たいしょしようとする。たとえばドゥオーキンは「普通ふつう人々ひとびと倫理りんりてき経験けいけん」に依拠いきょしてせんこうとしている。(以上いじょう:19)ドゥオーキンは高価こうか嗜好しこうについて通常つうじょう補償ほしょう要求ようきゅうできないとべる。ラコウスキーも立場たちばをとっており、たとえそのひと選好せんこう選択せんたくしなかったとしても、それをつよめたりよわめたりするような選択せんたく可能かのうだとしている。
 しかし、さらなる問題もんだいがある。このような線引せんひきをすると、才能さいのう選択せんたくサイドに位置いちづけられることになるからである。ひと才能さいのうそのもの選択せんたくしていないが、それをばし発展はってんさせるかどうかを選択せんたくしている。おおくの人々ひとびとは、その才能さいのうたいして「間接かんせつてき責任せきにん(consequentia responsibility)」がある、と期待きたいされることになってしまう(以上いじょう:20)
 さらに、うん平等びょうどうろんは、「過酷かこく不運ふうん」の分配ぶんぱいたいする効果こうか除去じょきょしようとするが、個人こじん不利益ふりえきのどこが本人ほんにん意思いしによってもたらされ、どの部分ぶぶん選択せんたくしていない才能さいのう環境かんきょうによるものかをることはできない。そのためアンダーソンやウルフが指摘してきするように、うん平等びょうどう主義しゅぎしゃは、人々ひとびと正当せいとう補償ほしょう要求ようきゅうできるかかを内省ないせいするよう人々ひとびとあおることになる。
 こうした理論りろんわたしたちになじみふか平等びょうどう価値かちについての理解りかいからかけはなれているとおもえる。その理解りかいによれば、「平等びょうどうは、より一般いっぱんてき理解りかいされているように、まずなによりも分配ぶんぱいかんする理念りねんではないし、その目的もくてき不運ふうん補償ほしょうではない。そうではなく、人々ひとびとたがいに対等たいとう地位ちいにあるような関係かんけいせいべる道徳どうとくてき理念りねんである。」(以上いじょう:21)
 「平等びょうどう要求ようきゅうするのは、人間にんげん関係かんけいはすべてのひとせいひとしく重要じゅうようだという想定そうていもとづいてみちびかれるべきだということであり、すべての社会しゃかい成員せいいんひとしい地位ちいっていることである。アンダーソンが主張しゅちょうするように、この理念りねんひとつのバージョンを擁護ようごすることで、平等びょうどうは、うん対立たいりつするのではなく、抑圧よくあつ社会しゃかいてき地位ちいのヒエラルキーの継承けいしょう、カーストせい階級かいきゅう特権とっけん、リジッドな階層かいそう民主みんしゅ主義しゅぎてき権力けんりょく分配ぶんぱい等々とうとう対立たいりつする」。これを、平等びょうどうの「社会しゃかいてきかつ政治せいじてき理念りねん」とぼう。これには分配ぶんぱいたいする含意がんいもある。(以上いじょう:22)
 平等びょうどう主義しゅぎてき分配ぶんぱい規範きはんかんするいが、よりおおきな平等びょうどう理解りかいによって主導しゅどうされるべきだという事実じじつ銘記めいきするならば、うん平等びょうどう主義しゅぎ説得せっとくりょく限定げんていてきなものだとおもえる。平等びょうどう社会しゃかいてきかつ政治せいじてき理念りねん過酷かこくうん影響えいきょう人間にんげん関係かんけいから一掃いっそうしようというような野心やしん支持しじしない。アンダーソンがうように、分配ぶんぱいかんするいが重要じゅうようなのは、あるしゅ分配ぶんぱい体制たいせい(distributive arrangements)が上記じょうき社会しゃかいてきかつ政治せいじてき価値かち相容あいいれないからである。

 「たとえ基本きほんてきニーズが充足じゅうそくされたとしても、人々ひとびともっとのぞ目的もくてき追求ついきゅうするために入手にゅうしゅできるようなしょ資源しげん完全かんぜん市場いちばちからゆだねられているならば、それを平等びょうどうしゃ社会しゃかいかんがえることはできない。平等びょうどう社会しゃかいてきかつ政治せいじてき理念りねん受容じゅようする人々ひとびとは、人々ひとびと収入しゅうにゅうとみ分有ぶんゆうかんする極端きょくたんはばける切実せつじつ理由りゆうをもつだろうし、人々ひとびと自然しぜんてきかつ社会しゃかいてき状況じょうきょうにおける差異さい経済けいざいてき不平等ふびょうどうへと翻訳ほんやくするような制度せいど反対はんたいする理由りゆうをもつ。」(以上いじょう:23)
 社会しゃかいてきかつ政治せいじてき理念りねんは、うん平等びょうどう主義しゅぎよりも収入しゅうにゅうとみ不平等ふびょうどうおおかれすくなかれ許容きょようするシステムを支持しじすることになるかもしれない。しかしいずれにしても、その動機どうきうん平等びょうどう主義しゅぎとはことなる。(以上いじょう:24)

V ⇒ ロールズの議論ぎろんうん平等びょうどう主義しゅぎ議論ぎろん対比たいひ。ロールズはうん平等びょうどう主義しゅぎ根拠こんきょにならない、という方向ほうこうせいろん展開てんかいされる。ロールズは「社会しゃかいてき責任せきにん分担ぶんたん」についてはべたが、それはうん平等びょうどう主義しゅぎ議論ぎろんとはことなる。(24-31)

W 

うん平等びょうどう主義しゅぎは、平等びょうどう分配ぶんぱいされるべきなんらかの通貨つうか(currency)があるという前提ぜんていからはじめて、それがなにでありうるかを探求たんきゅうする方向ほうこうせいすすむ。すでにろんじてきたようにそれは間違まちがった方向ほうこうせいである。どんな形態けいたい分配ぶんぱいてき平等びょうどう主義しゅぎであれ、なんらかの、道徳どうとくてき価値かちないし規範きはんてき理念りねんとしてより一般いっぱんてき平等びょうどう概念がいねんむすけられているべきである。このてんうん平等びょうどう主義しゅぎ限定げんていてき主張しゅちょうしかしていないとおもえる。
とはいえ、これはうん平等びょうどう主義しゅぎにとって不当ふとう評価ひょうかかもしれない。(以上いじょう:31)うん平等びょうどう主義しゅぎもまた、よりひろ平等びょうどう概念がいねん由来ゆらいしているのだ、という反論はんろんがありうる。
だが、うん平等びょうどう主義しゅぎ自発じはつてき選択せんたく結果けっかとして他人たにんより状況じょうきょうわるくなる人々ひとびとがいたとしてもそれは公正こうせいではないとしんじている。うん平等びょうどう主義しゅぎろんずるような直観ちょっかんをほとんどの人々ひとびとゆうしているかどうかはけっしてあきらかではない。うん平等びょうどう主義しゅぎ主張しゅちょうのような感覚かんかくはたしかにあるが、この立場たちばはより広範こうはん主張しゅちょう展開てんかいしている以上いじょう、さらに自己じこ弁護べんご必要ひつようとしている。(以上いじょう:32)
人々ひとびと選択せんたく社会しゃかいてき文脈ぶんみゃく制度せいどてき背景はいけいおおきく依存いぞんしている。(33)
選択せんたく反映はんえいしやすく(choice-sensitibity)資質ししつ反映はんえいしにくい(endowment-insensitivity)という区別くべつも、それ自体じたいとしては道徳どうとくてき説得せっとくてきだとはおもえない。 ドゥオーキンはうん平等びょうどう主義しゅぎ原理げんりを、よりひろ平等びょうどう理念りねんによって基礎きそづけようとしている。だがかれ理念りねんは、わたしろんじてきたような社会しゃかいてきかつ政治せいじてき平等びょうどう理念りねんとはことなる。ドゥオーキンは平等びょうどうしゃとして人々ひとびとぐうすることは、かれらにひとしい配慮はいりょをもってぐうすることだとっている。だが、この平等びょうどう配慮はいりょという理念りねんは、本当ほんとううん平等びょうどう主義しゅぎ原理げんり支持しじするかどうかはからない。コーエンはドゥオーキンの議論ぎろんについて、「国家こっか厳密げんみつ分配ぶんぱいてき平等びょうどう規範きはん追求ついきゅうするのを断固だんこ拒否きょひするようであるとき、この事実じじつから、この国家こっか被治者ひちしゃ平等びょうどう敬意けいい配慮はいりょをもってぐうしていないとえるかどうかは、あまりあきらかではない」と指摘してきしている(訳書やくしょ『あなたが平等びょうどう主義しゅぎしゃなら……』pp. 294-5)。アンダーソンはさらに、うん平等びょうどう主義しゅぎは「平等びょうどう主義しゅぎ理論りろんこたえるべきもっとも根本こんぽんてきなテスト、すなわちその原理げんりがすべての市民しみんたいするひとしい尊重そんちょう配慮はいりょ表現ひょうげんしているかどうかというテスト」にこたそこねているとろんじている。(以上いじょう:34-35)
ドゥオーキンは自分じぶんとみを、各々おのおのちがったニーズ、野望やぼう嗜好しこうをもつ子供こどもたちのあいだでどのように遺贈いぞうするかをめるおとこ事例じれいげている。そしてそのアナロジーとして、「通常つうじょう政治せいじてき文脈ぶんみゃく」でしょうずる問題もんだい、つまり「公務員こうむいん」が市民しみん資源しげん分配ぶんぱいする方法ほうほうをめぐる問題もんだい議論ぎろん移行いこうさせる。ここで、ドゥオーキンの遺言ゆいごんしゃ遺産いさん相続そうぞくしゃモデルは非対称ひたいしょうてきなモデルであることに注意ちゅういすべきである。一方いっぽう利益りえき分配ぶんぱいし、一方いっぽうはそれをるだけである。これを経済けいざいてき分配ぶんぱい問題もんだい適用てきようすると、人々ひとびと一種いっしゅ中央ちゅうおう集権しゅうけんされた主体しゅたいによって処遇しょぐうされる客体かくたいとして表象ひょうしょうされる。この主体しゅたいのアイデンティティについて重要じゅうよういがしょうずるだろう。それは公務員こうむいん集団しゅうだんなのか、社会しゃかい共同きょうどうたい全体ぜんたいなのか、と。いずれにしろ、遺言ゆいごんしゃ遺産いさん相続そうぞくぞくしゃモデルは、平等びょうどうしゃたちの関係かんけいせい描写びょうしゃしていない。独裁どくさいてき政府せいふはドゥオーキンのいう意味いみで、しょ個人こじん平等びょうどうしゃとしてあつか経済けいざいシステムを強制きょうせいするかもしれない(以上いじょう:35) しかしそれは、社会しゃかい平等びょうどう主義しゅぎてき政治せいじ共同きょうどうたいにはしない。ドゥオーキンの議論ぎろんは、比較的ひかくてき強力きょうりょく人々ひとびと比較的ひかくてきよわ人々ひとびとに、資源しげん分配ぶんぱいする方法ほうほう選択せんたくするような社会しゃかいてきヒエラルキーに対応たいおうする。それを政治せいじ権力けんりょく分配ぶんぱい問題もんだい適用てきようできるだろうか。できないだろう。(以上いじょう:36)ドゥオーキンの議論ぎろん要点ようてんは、結局けっきょくのところ、かれ自身じしんうように「慈悲じひふか統治とうちしゃ(benevolent tyranny)」モデルだということになる。
 ドゥオーキンの議論ぎろん表象ひょうしょうしているのは、平等びょうどうの「行政ぎょうせい管理かんりてき概念がいねん」とでもびうるようなものだ。「だが、ひとしい配慮はいりょという抽象ちゅうしょうてき原理げんりもっともうまく管理かんり操作そうさするための方法ほうほうをめぐるいから開始かいしするような平等びょうどう主義しゅぎは、平等びょうどうしゃのあいだの関係かんけいせいとはどのようなものかといういから出発しゅっぱつし、どのような社会しゃかいてきかつ政治せいじてき制度せいど平等びょうどうしゃたちの社会しゃかいにとって適切てきせつなものなのか、という方向ほうこうすす平等びょうどう主義しゅぎとは、するど対照たいしょうをなす」(37)


◇ だい8しょう結論けつろん引用いんよう

責任せきにんもとづく平等びょうどう概念がいねんは、つぎのようないにむ。人々ひとびとは、みずからの選択せんたくのコストをどの程度ていどまでうことを要求ようきゅうされるべきであり、その報酬ほうしゅうることをどの程度ていどまでみとめられるべきか。人々ひとびと選択せんたくてき個人こじんてき性格せいかくたいして、どの程度ていど補償ほしょうされるべきであり、そこから利益りえきることをどの程度ていど抑制よくせいされるべきか。人々ひとびと価値かち選好せんこう才能さいのうそして性格せいかくてき特徴とくちょうは、分配ぶんぱい目的もくてきのために、かれらの選択せんたくいち側面そくめんとしてあつかわれるべきなのか、あるいは選択せんたくてき状況じょうきょうひとつにかぞれられるべきなのか。だが、これらのいはすべて、我々われわれとも生活せいかつしたいとおもうような関係かんけいせいかかわっている。これらのいは、わたしたちが他者たしゃ共有きょうゆうできることをのぞ負担ふたん性質せいしつと、他者たしゃわたしたちと共有きょうゆうしようとする負担ふたん性質せいしつかんするいである。それはつまり、わたしたちが自分じぶん自身じしんのために保持ほじできることをのぞ利益りえき程度ていどと、他者たしゃかれ自身じしんのために保持ほじしようとする利益りえき程度ていどかんするいである。」(231)

⇒ それにたいする解答かいとうは、平等びょうどうしゃたちの社会しゃかいとはどのようなものであるべきか、といういへのこた次第しだいまる。

社会しゃかいてきかつ政治せいじてき価値かちとしての平等びょうどう表現ひょうげんするのは、人間にんげん関係かんけいせいはいかにしてみちびかれるべきかにかんするひとつの理念りねんである。この理念りねんは、分配ぶんぱいてき含意がんいをもっており、分配ぶんぱいてき正義せいぎかんする平等びょうどう主義しゅぎてき概念がいねんされているのは、これらの含意がんいおおむしめすことである。しかし一般いっぱんに、責任せきにんもとづく平等びょうどう主義しゅぎてき正義せいぎ概念がいねん追求ついきゅうする哲学てつがくしゃは、かれらの役割やくわりがこのてんにあるとはかんがえていない。かれらは正義せいぎかんする主張しゅちょう基礎きそを、平等びょうどう理念りねんのなかに探求たんきゅうしようとはしない。そうであるかぎり、かれらは、なぜ平等びょうどうわたしたちにとって問題もんだいになるのかにかんする理由りゆうかかわりをもたない。」(232)

書評しょひょう紹介しょうかい



作成さくせい堀田ほった 義太郎よしたろう
UP: 20100821 REV:
自由じゆう自由じゆう主義しゅぎ リベラリズム  ◇身体しんたい×世界せかい関連かんれん書籍しょせき  ◇BOOK
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