(Translated by
https://www.hiragana.jp/
)
橋口昌治「事件と言説:若者・教育・労働… 18世紀」
HOME
>
事件
じけん
と
言説
げんせつ
:
若者
わかもの
・
教育
きょういく
・
労働
ろうどう
… 18
世紀
せいき
18
世紀
せいき
19
世紀
せいき
1901-1930
1931-1950
1951-1970
1971-1990
1991-
製作
せいさく
:
橋口
はしぐち
昌治
しょうじ
* 2004.09-
*
橋口
はしぐち
昌治
しょうじ
(はしぐち・しょうじ)
立命館大学
りつめいかんだいがく
大学院
だいがくいん
先端
せんたん
総合
そうごう
学術
がくじゅつ
研究
けんきゅう
科
か
(2003.4
入学
にゅうがく
)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/g/hs01.htm
※
大学院
だいがくいん
のHPに
移
うつ
す
予定
よてい
ですが、とりあえずここに
置
お
きます。
これから
編集
へんしゅう
などして
見
み
やすくします。(
立岩
たていわ
)
1753
年
ねん
安藤
あんどう
昌益
しょうえき
『
自然
しぜん
真
ま
営道』
1758
年
ねん
フランソワ・ケネー『
経済
けいざい
表
ひょう
』(Tableau economique)
1763
年
ねん
ルイ-ポール・アベイユ『
穀物
こくもつ
通商
つうしょう
の
本性
ほんしょう
に
関
かん
する
一
いち
卸売
おろしうり
商
しょう
の
書簡
しょかん
』
「そして
最後
さいご
に、
一
いち
七
なな
六
ろく
三
さん
年
ねん
五
ご
月
がつ
の
勅
みことのり
令
れい
と
一
いち
七
なな
六
ろく
四
よん
年
ねん
八
はち
月
がつ
の
勅
みことのり
令
れい
が
来
く
る。この
二
ふた
つの
勅
みことのり
令
れい
によって、いくつかの
制限
せいげん
はあるにせよ
穀物
こくもつ
取引
とりひき
のほぼ
全面
ぜんめん
的
てき
な
自由
じゆう
が
打
う
ち
立
た
てられた。つまり、
重
じゅう
農
のう
主義
しゅぎ
者
しゃ
の
勝利
しょうり
です。のみならずこれは、この
主張
しゅちょう
を(グールネーの
弟子
でし
たちといった
直接
ちょくせつ
の
重
じゅう
農
のう
主義
しゅぎ
者
しゃ
ではないが)
支持
しじ
した
人々
ひとびと
の
勝利
しょうり
でもあった。つまり、
一
いち
七
なな
六
ろく
四
よん
年
ねん
といえば
穀物
こくもつ
の
自由
じゆう
です。ところが
不幸
ふこう
なことに、
勅
みことのり
令
れい
が
出
だ
されたのは[
一
いち
七
なな
]
六
ろく
四
よん
年
ねん
八
はち
月
がつ
です。[
一
いち
七
なな
]
六
ろく
四
よん
年
ねん
九
きゅう
月
がつ
、
同
おな
じ
年
ねん
の
数
すう
週間
しゅうかん
後
ご
ですが、ギュイエンヌでの
不作
ふさく
によって
価格
かかく
が
天文学
てんもんがく
的
てき
な
速度
そくど
で
上昇
じょうしょう
してしまいました。ここですでに、
穀物
こくもつ
の
自由
じゆう
を
撤回
てっかい
しなければ ならないのではないかという
問
と
いが
立
た
ちはじめる。というわけで
第
だい
三
さん
の
議論
ぎろん
が
起
お
こります。
今度
こんど
は
重
じゅう
農
のう
主義
しゅぎ
者
しゃ
が
守勢
しゅせい
にまわった
議論
ぎろん
です。
重
じゅう
農
のう
主義
しゅぎ
者
しゃ
たち(
加
くわ
え て、
重
じゅう
農
のう
主義
しゅぎ
者
しゃ
ではないが
同
おな
じ
原則
げんそく
を
支持
しじ
する
者
もの
たち)はここで、
一
いち
七
なな
六
ろく
四
よん
年
ねん
の
時点
じてん
ではほぼ
完全
かんぜん
に
認知
にんち
させていたあの
自由
じゆう
をあらためて
擁護
ようご
することを
余儀
よぎ
な くされた。
つまり、
一
いち
七
なな
六
ろく
四
よん
年
ねん
前後
ぜんこう
には
大量
たいりょう
のテクスト・
企画
きかく
・
計画
けいかく
・
説明
せつめい
が
見
み
られるのです。
私
わたし
はただ[そのなかでも]
最
もっと
も
図式
ずしき
的
てき
で
明白
めいはく
なものを
参照
さんしょう
しようと
思
おも
いま す。これはそもそも
大変
たいへん
な
重要
じゅうよう
性
せい
をもつテクストでもある。それは
一
いち
七
なな
六
ろく
三
さん
年
ねん
のテクストで、『
穀物
こくもつ
通商
つうしょう
の
本性
ほんしょう
に
関
かん
する
一
いち
卸売
おろしうり
商
しょう
の
書簡
しょかん
』といいます。ルイ- ポール・アベイユという
人物
じんぶつ
によって
書
か
かれたものです。このアベイユはそのテクストの
及
およ
ぼした
影響
えいきょう
によっても、またグールネーの
弟子
でし
として
重
じゅう
農
のう
主義
しゅぎ
の
立場
たちば
の
大半
たいはん
をまとめてみせていることからも
重要
じゅうよう
です。つまり、
彼
かれ
はこの
時代
じだい
の
経済
けいざい
思想
しそう
における
一
いち
[
種
たね
]の
蝶番
ちょうつがい
のような
位置
いち
を
代表
だいひょう
しているということで す。」(ミシェル・フーコー『
安全
あんぜん
・
領土
りょうど
・
人口
じんこう
』p.44)
「(…)
食糧難
しょくりょうなん
という
出来事
できごと
はこのようにして
二分
にぶん
される。
災禍
さいか
としての
食糧難
しょくりょうなん
は
消滅
しょうめつ
しますが、
諸
しょ
個人
こじん
を
死
し
なせる
食糧
しょくりょう
不足
ふそく
のほうは
消滅
しょうめつ
しない。のみ ならず、それは
消滅
しょうめつ
してはならない。
つまり、ここには
二
ふた
つの
水準
すいじゅん
の
現象
げんしょう
があります。それは
集団
しゅうだん
的
てき
水準
すいじゅん
と
個人
こじん
的
てき
水準
すいじゅん
のことではありません。というのもつまるところ、この
不足
ふそく
によって
死
し
ぬ――
死
し
なないにしても
苦
くる
しむ――のはただ
一人
ひとり
の
個人
こじん
だというわけではないからです。
多
おお
くの
個人
こじん
が
苦
くる
しむ。おこなわれるのはまったく
根本
こんぽん
的
てき
な
分断
ぶんだん
です。その
分断
ぶんだん
の
一方
いっぽう
には、
統治
とうち
の
政治
せいじ
経済
けいざい
学
がく
的
てき
活動
かつどう
にとって
適切
てきせつ
とされる
水準
すいじゅん
がある。
人口
じんこう
という
水準
すいじゅん
です。そして
分断
ぶんだん
の
反対
はんたい
側
がわ
にあるのは
多
おお
くの
個人
こじん
、
個人
こじん
の
群
む
れという
水準
すいじゅん
です。こちら
側
がわ
は
適切
てきせつ
とはされない。いやむしろ、ある
条件
じょうけん
を
充
み
たすときにのみ
適切
てきせつ
とされる。しかるべく
管理
かんり
・
維持
いじ
・
助成
じょせい
されたそれが、
人口
じんこう
という
適切
てきせつ
な
側
がわ
の
水準
すいじゅん
で
獲得
かくとく
が
欲
ほっ
される
当
とう
のものを
可能
かのう
にするかぎりでのみ、
適切
てきせつ
とされる。
個人
こじん
の
群
む
れはもはや
適切
てきせつ
ではない。それに
対
たい
して
人口
じんこう
は
適切
てきせつ
である。
王国
おうこく
の
臣民
しんみん
全
ぜん
体
からだ
・
住民
じゅうみん
全体
ぜんたい
の
内部
ないぶ
に
設
もう
けられるこの
分断
ぶんだん
は
現実
げんじつ
の
分断
ぶんだん
ではありません。
現実
げんじつ
に
一方
いっぽう
がこちらにあり、
他方
たほう
があちらにあるというわけではない。そうではなく、
権力
けんりょく
知
ち
の
内部
ないぶ
自体
じたい
(テクノロジーと
経済
けいざい
的
てき
管理
かんり
の
内部
ないぶ
自体
じたい
)において、
人口
じんこう
という
適切
てきせつ
な
水準
すいじゅん
と、
適切
てきせつ
でない
水準
すいじゅん
(さらには
単
たん
に
道具
どうぐ
としての
水準
すいじゅん
)のあいだで の
切断
せつだん
がおこなわれるということです。
最終
さいしゅう
的
てき
目標
もくひょう
は
人口
じんこう
となります。
人口
じんこう
は
目標
もくひょう
として
適切
てきせつ
であり、それに
対
たい
して
諸
しょ
個人
こじん
、
一連
いちれん
の
個人
こじん
、
諸
しょ
個人
こじん
のグループ、
個
こ
人
じん
の
群
む
れのほうは、
目標
もくひょう
として
適切
てきせつ
ではないということになる。
後者
こうしゃ
はただ、
人口
じんこう
の
水準
すいじゅん
において
何
なに
かを
獲得
かくとく
するための
道具
どうぐ
・
中継
なかつ
ぎ・
条件
じょうけん
としてのみ
適切
てきせつ
であ るにすぎない。」(ミシェル・フーコー『
安全
あんぜん
・
領土
りょうど
・
人口
じんこう
』p.51-52)
「
人々
ひとびと
がそのようなことを
受
う
け
容
い
れず、
穀物
こくもつ
の
備蓄
びちく
に
飛
と
びかかり、
対価
たいか
を
払
はら
うこともなくこれを
手
て
に
入
い
れる。また、
非合理
ひごうり
的
てき
で
計算
けいさん
違
ちが
いの
穀物
こくもつ
の
売
う
り
渋
しぶ
りをする
人々
ひとびと
がいる。そのように
想定
そうてい
すると、すべてが
止
と
まってしまう。したがって、
反乱
はんらん
が
起
お
こったり
専有
せんゆう
が
起
お
こったりする。あるいは
専有
せんゆう
と
反乱
はんらん
が
同時
どうじ
に
起
おこり
こる。ここでアベイユは
次
つぎ
のように
言
い
います。このようなことは、これらの
人
ひと
が
現実
げんじつ
には
人口
じんこう
には
属
ぞく
していないという
証拠
しょうこ
である。では、
彼
かれ
らは
何
なに
なのか?そ う、
彼
かれ
らは
人口
じんこう
ではなく
人民
じんみん
なのだ。
人民
じんみん
とは、
人口
じんこう
を
対象
たいしょう
としてなされるこの
管理
かんり
に
対
たい
して、
人口
じんこう
という
水準
すいじゅん
自体
じたい
において、あたかも
自分
じぶん
が
人口
じんこう
というこの
集
しゅう
団
だん
的
てき
対象
たいしょう
・
集団
しゅうだん
的
てき
主体
しゅたい
の
一部
いちぶ
ではないかのように
振
ふ
る
舞
ま
う
者
もの
のこと、
自分
じぶん
がその
外部
がいぶ
に
身
み
を
置
お
いているかのように
振
ふ
る
舞
ま
う
者
もの
のことである。したがって
彼
かれ
らこ そ、
自分
じぶん
が
人口
じんこう
であることを
拒否
きょひ
する
人民
じんみん
として、システムを
狂
くる
わせる
者
しゃ
たちなのだ。」(ミシェル・フーコー『
安全
あんぜん
・
領土
りょうど
・
人口
じんこう
』p.53)
1776
年
ねん
連合
れんごう
13
州
しゅう
による
全会
ぜんかい
一致
いっち
の
宣言
せんげん
(
通称
つうしょう
アメリカ
独立
どくりつ
宣言
せんげん
)を
採択
さいたく
「アメリカの
舞台
ぶたい
に
見
み
られなかったのは、
貧困
ひんこん
(ポヴァティ)というよりはむしろ
不幸
ふこう
(ミゼリー)と
欠乏
けつぼう
(ウォント)であった。というのは「
富者
ふしゃ
と
貧民
ひんみん
、
勤勉
きんべん
な
人
ひと
と
怠惰
たいだ
な
人
ひと
、
知識
ちしき
のある
人
ひと
と
無知
むち
な
人
ひと
のあいだの
争
あらそ
い」はやはりアメリカの
舞台
ぶたい
でも
非常
ひじょう
に
多
おお
く
見
み
られ、
建国
けんこく
者
しゃ
たちの
心
しん
にかかっていたからであ る。
彼
かれ
らは
自分
じぶん
たちの
国
くに
が
豊
ゆた
かであったにもかかわらず、このような
区別
くべつ
は「
宇宙
うちゅう
と
同
おな
じくらい
古
ふる
くからあり、
地球
ちきゅう
と
同
おな
じくらい
広大
こうだい
であり」、
永遠
えいえん
であると
信
しんじ
じていた。しかし、アメリカでは
勤勉
きんべん
な
人
ひと
も
貧
まず
しかったが、みじめ(ミゼラブル)ではなかった。イギリスとヨーロッパ
大陸
たいりく
からきた
旅行
りょこう
者
しゃ
たちは「
一
いち
二
に
〇〇マ イルを
行
い
くあいだ、
私
わたし
は
物乞
ものご
いする
人間
にんげん
に
一人
ひとり
として
出会
であ
わなかった」(アンドルー・バーナビー)ということを
等
ひと
しく
認
みと
め、
等
ひと
しく
驚嘆
きょうたん
している。したがって
彼
かれ
らは
欠乏
けつぼう
によっては
動
うご
かされず、
革命
かくめい
は
彼
かれ
らによって
覆
くつがえ
されなかった。
彼
かれ
らが
提出
ていしゅつ
した
問題
もんだい
は
社会
しゃかい
的
てき
問題
もんだい
ではなく
政治
せいじ
的
てき
問題
もんだい
であり、それは
社会
しゃかい
の
秩序
ちつじょ
ではな く
統治
とうち
の
形態
けいたい
と
関連
かんれん
していた。(…)
代表
だいひょう
制
せい
は、たんに「
自己
じこ
保存
ほぞん
」あるいは
自己
じこ
利益
りえき
の
問題
もんだい
にすぎず、
勤労
きんろう
者
しゃ
の
生活
せいかつ
を
守
まも
り、それを
政府
せいふ
の
側
がわ
からの
侵害
しんがい
にたい して
保護
ほご
するのに
必要
ひつよう
なものであるにすぎない。この
本質
ほんしつ
的
てき
にネガティヴな
防衛
ぼうえい
は、
政治
せいじ
敵
てき
領域
りょういき
を
多
おお
くの
人
ひと
たちに
開放
かいほう
するものではけっしてない。そしてそれ は、ジョン・アダムズによれば「
自己
じこ
保存
ほぞん
についで
永遠
えいえん
に
人間
にんげん
的
てき
活動
かつどう
の
偉大
いだい
な
源泉
げんせん
である
卓越
たくえつ
への
情熱
じょうねつ
(パッション・フォア・ディスティンクション)」―― 「
同等
どうとう
になりたい、あるいは、
似
に
たものになりたいというだけでなく
人
ひと
より
抜
ぬ
きんでたいという
欲求
よっきゅう
」――を
人
ひと
びとのうちにかきたてるものでもない。そこでそ の
自己
じこ
保存
ほぞん
が
確保
かくほ
されてしまえば、
貧民
ひんみん
は、その
生活
せいかつ
に
重要
じゅうよう
な
意味
いみ
が
与
あた
えられず、
卓越
たくえつ
の
光輝
ひかりかがや
く
公的
こうてき
領域
りょういき
からは
排除
はいじょ
されたままの
状態
じょうたい
に
立
た
たされることになる。
彼
かれ
らは、
行
い
くところ
必
かなら
ず
暗黒
あんこく
(ダークネス)のなかに
立
た
ちすくむ。ジョン・アダムズはこの
状態
じょうたい
を
次
つぎ
のようにのべている。「
貧
まず
しい
人
ひと
の
良心
りょうしん
は
曇
くも
りがないのに、
彼
かれ
は
辱
はずかしめ
しめを
受
う
けている。……
彼
かれ
は
自分
じぶん
が
他
た
の
人
ひと
びとの
視野
しや
の
外
そと
にあると
感
かん
じ、
暗闇
くらやみ
のなかを
手
て
さぐりで
歩
ある
く。
人
ひと
は
彼
かれ
に
目
め
もとめない。
彼
かれ
は
気
き
づかれないままに よろめき、さまよう。
教会
きょうかい
や
市場
いちば
のような
人混
ひとご
みの
中
なか
にいても……
彼
かれ
はまるで
屋根裏
やねうら
か
地下
ちか
室
しつ
のなかにでもいるように
無名
むめい
状態
じょうたい
(オブスキュリティ) 〔obscurityは
仲間
なかま
たる
人
ひと
びとに
認知
にんち
されていない
状態
じょうたい
を
意味
いみ
し、この
文脈
ぶんみゃく
における
目立
めだ
った
卓越
たくえつ
の
状態
じょうたい
distinctionの
反対
はんたい
語
ご
である――
訳
わけ
者
しゃ
〕にある。
彼
かれ
は
異議
いぎ
を
唱
とな
えられたり、とがめられたり、
非難
ひなん
されたりしない。
彼
かれ
はただ
気
き
づかれないのである。……
完全
かんぜん
に
無視
むし
され、しかもそのことに
自分
じぶん
も
気
き
づいているということは
耐
た
え
切
き
れないことである。もしロビンソン・クルーソーがその
島
しま
にアレクサンドリアの
図書館
としょかん
を
持
も
っていたとしても、
再
ふたた
び
人間
にんげん
の
顔
かお
を
見
み
ることはできないということが
確実
かくじつ
であったとしたら、
彼
かれ
は
書物
しょもつ
を
開
ひら
いてみる
気
き
になっただろうか?」(ハンナ・アレント『
革命
かくめい
について』p.103- 105)
アダム・スミス『
諸
しょ
国民
こくみん
の
富
とみ
』(『
国富
こくふ
論
ろん
』)
「
職人
しょくにん
たちの
団結
だんけつ
についてはしばしば
耳
みみ
にするが、
親方
おやかた
たちの
団結
だんけつ
についてはめったに
耳
みみ
にしないといわれてきた。しかし、だからといって、
親方
おやかた
は めったに
団結
だんけつ
しないなどと
思
おも
う
人
ひと
がいるなら、それはこの
問題
もんだい
についてはもちろん、
世間
せけん
についても
無知
むち
な
人
ひと
である。
親方
おやかた
たちは、いつどこでも、
一種
いっしゅ
の
暗黙
あんもく
の、しかし
恒常
こうじょう
的
てき
かつ
一様
いちよう
の
団結
だんけつ
を
結
むす
んで、
労働
ろうどう
の
賃金
ちんぎん
を
実際
じっさい
の
率
りつ
以上
いじょう
に
上昇
じょうしょう
させまいとしている。この
団結
だんけつ
をやぶることは、どこでも、きわめて
不人気
ふにんき
な
行為
こうい
であり、
親方
おやかた
が
近隣
きんりん
や
同輩
どうはい
のあいだで
一種
いっしゅ
の
非難
ひなん
のまとになることである。たしかに、われわれはこのような
団結
だんけつ
をめったに
耳
みみ
にしないが、それというのも、だ れもが
耳
みみ
にしないほどそれが
通常
つうじょう
の、ものごとの
自然
しぜん
の
状態
じょうたい
といっていいものだからである。(…)しかしこのような
団結
だんけつ
はしばしば、
職人
しょくにん
たちの、これとは
反
はん
対
たい
の
防衛
ぼうえい
的
てき
な
団結
だんけつ
の
抵抗
ていこう
を
受
う
ける。
彼
かれ
らもまた、この
種
たね
の
挑発
ちょうはつ
がまったくなくても、
自分
じぶん
たちの
労働
ろうどう
の
価格
かかく
を
引
ひ
き
上
あ
げるために、
自発
じはつ
的
てき
に
団結
だんけつ
することがある。
彼
かれ
らの
通常
つうじょう
の
主張
しゅちょう
は、あるときには、
食料
しょくりょう
品
ひん
の
価格
かかく
が
高
たか
いということであり、あるときには、
親方
おやかた
たちが
自分
じぶん
たちの
仕事
しごと
によって
大
おお
きな
利潤
りじゅん
をあげているという ことである。だが
彼
かれ
らの
団結
だんけつ
は、
攻撃
こうげき
的
てき
なものであれ
防衛
ぼうえい
的
てき
なものであれ、つねにいくらでも
耳
みみ
にはいる。
争点
そうてん
をすみやかに
解決
かいけつ
するために、
彼
かれ
らはつねにやか ましくさわぎたてるという
方法
ほうほう
に
訴
うった
え、ときにはもっともショッキングな
暴力
ぼうりょく
や
乱暴
らんぼう
に
訴
うった
えることもある。
彼
かれ
らは
必死
ひっし
なのであり、そして
必死
ひっし
の
人
ひと
びとの
愚
おろ
かさ や
無謀
むぼう
さをもって
行動
こうどう
する。
彼
かれ
らは
飢
う
えるか、さもなければ
親方
おやかた
たちを
脅
おど
かしてただちに
自分
じぶん
たちの
要求
ようきゅう
を
受
う
けいれさせるかしなければならないからである。こ ういうばあい、
親方
おやかた
たちは
相手
あいて
側
がわ
にたいしてこれにおとらずさわぎたて、
官憲
かんけん
の
援助
えんじょ
と、
使用人
しようにん
や
労働
ろうどう
者
しゃ
ややとい
職人
しょくにん
の
団結
だんけつ
をあれほどきびしく
禁止
きんし
する
法律
ほうりつ
の、
厳格
げんかく
な
施行
しこう
を
声
こえ
高
たか
く
求
もと
めてやまない。したがって
職人
しょくにん
たちがこういう
騒然
そうぜん
とした
団結
だんけつ
の
暴力
ぼうりょく
から
何
なん
らかの
利益
りえき
を
引
ひ
き
出
だ
すことはまれであり、こういう
団結
だんけつ
は、
一部
いちぶ
は
官憲
かんけん
の
干渉
かんしょう
のため、
一部
いちぶ
は
親方
おやかた
たちの
頑強
がんきょう
さがまさっているため、
一部
いちぶ
は
職人
しょくにん
たちの
大
だい
部分
ぶぶん
が
当面
とうめん
の
生計
せいけい
のために
屈服
くっぷく
する
必要
ひつよう
にせまられているた め、
一般
いっぱん
に
首謀
しゅぼう
者
しゃ
の
処罰
しょばつ
か
破滅
はめつ
という
結末
けつまつ
にしかならないのである。」(『
国富
こくふ
論
ろん
1』
岩波
いわなみ
文庫
ぶんこ
、p.122-123)
「
次
つぎ
の
五
いつ
つが、
私
わたし
の
観察
かんさつ
しえたかぎり、ある
職業
しょくぎょう
で
金銭
きんせん
上
じょう
の
利得
りとく
が
小
ちい
さいのを
補
おぎな
い、ほかの
職業
しょくぎょう
で
利得
りとく
が
大
おお
きいのを
相殺
そうさい
する、
主
おも
な
事情
じじょう
である。すなわ ち、
第
だい
一
いち
に、
職業
しょくぎょう
そのものの
快
かい
・
不快
ふかい
、
第
だい
二
に
に、
職業
しょくぎょう
の
習得
しゅうとく
が
容易
ようい
で
安
やす
あがりか
困難
こんなん
で
高
たか
くつくか、
第
だい
三
さん
に、
職業
しょくぎょう
における
雇用
こよう
の
安定
あんてい
・
不安定
ふあんてい
、
第
だい
四
よん
に、
職業
しょくぎょう
に たずさわる
人
ひと
びとへの
信頼
しんらい
の
大小
だいしょう
、そして
第
だい
五
ご
に、
職業
しょくぎょう
における
成功
せいこう
の
見込
みこ
みの
有無
うむ
である。」(p.177)
「
労働
ろうどう
のうちである
種類
しゅるい
のものは、それが
投下
とうか
された
対象
たいしょう
の
価値
かち
を
増加
ぞうか
させるが、もう
一
ひと
つ
別
べつ
の
種類
しゅるい
の
労働
ろうどう
があって、それはそのような
効果
こうか
をもたな い。
前者
ぜんしゃ
は、
価値
かち
を
生産
せいさん
するのだから、
生産
せいさん
的
てき
と
呼
よ
び、
後者
こうしゃ
は
不
ふ
生産
せいさん
的
てき
と
呼
よ
んでいいだろう。こうして
製造
せいぞう
工
こう
の
労働
ろうどう
は、
一般
いっぱん
に、
彼
かれ
が
加工
かこう
する
材料
ざいりょう
の
価値
かち
にたい して、
彼
かれ
自身
じしん
の
生活
せいかつ
費
ひ
の
価値
かち
と
彼
かれ
の
雇主
やといぬし
の
利潤
りじゅん
の
価値
かち
をつけ
加
くわ
える。これに
反
はん
して、
家事
かじ
使用人
しようにん
の
労働
ろうどう
はなんの
価値
かち
もつけ
加
くわ
えない。(…)
反対
はんたい
に
家事
かじ
使用人
しようにん
の
労働
ろうどう
は、どんな
特定
とくてい
の
対象
たいしょう
または
販売
はんばい
できる
商品
しょうひん
にも
固定
こてい
され
実現
じつげん
されることがない。
彼
かれ
の
仕事
しごと
は、
一般
いっぱん
に、
遂行
すいこう
されたその
瞬間
しゅんかん
に
消滅
しょうめつ
し、あとになってそれと ひきかえに
等量
とうりょう
の
仕事
しごと
を
入手
にゅうしゅ
できる
痕跡
こんせき
または
価値
かち
を、あとに
残
のこ
すことはめったにない。
社会
しゃかい
のもっとも
尊敬
そんけい
すべき
階層
かいそう
のうちのある
人
ひと
びとの
労働
ろうどう
は、
家事
かじ
使用人
しようにん
の
労働
ろうどう
と
同
おな
じようになんの
価値
かち
も
生産
せいさん
せず、その
労働
ろうどう
がすんだのちも
存続
そんぞく
してあとで それとひきかえに
等量
とうりょう
の
労働
ろうどう
を
入手
にゅうしゅ
できるような、
持続
じぞく
的
てき
な
対象
たいしょう
または
販売
はんばい
できる
商品
しょうひん
に
固定
こてい
または
実現
じつげん
されることがない。たとえば
主権
しゅけん
者
しゃ
は、
彼
かれ
のもとにつか えるすべての
司法
しほう
および
軍事
ぐんじ
官僚
かんりょう
、
全
ぜん
陸海
りくかい
軍
ぐん
とともに、
不
ふ
生産
せいさん
的
てき
労働
ろうどう
者
しゃ
である。(…)
同
おな
じ
部類
ぶるい
にいれられるべきものに、もっとも
厳粛
げんしゅく
でもっとも
重要
じゅうよう
な
専門
せんもん
職
しょく
のうちのいくつかと、もっとも
軽薄
けいはく
な
専門
せんもん
職
しょく
のうちのいくつかがあって、
教会
きょうかい
人
じん
、
法律
ほうりつ
家
か
、
医師
いし
、あらゆる
種類
しゅるい
の
文筆
ぶんぴつ
家
か
と、
俳優
はいゆう
、
道化師
どうけし
、
音楽家
おんがくか
、オペラ
歌
か
手
しゅ
、オペラ・ダンサーなどがそうである。これらのうちでもっとも
卑
いや
しい
者
もの
の
労働
ろうどう
でも、ある
価値
かち
をもっていて、それは
他
た
のあらゆる
種類
しゅるい
の
労働
ろうどう
の
価値
かち
を
規制
きせい
す るのとまったく
同一
どういつ
の
原理
げんり
によって
規制
きせい
されるし、またそれらのもののうちでもっとも
高尚
こうしょう
でもっとも
有用
ゆうよう
な
者
もの
の
労働
ろうどう
でも、あとで
等量
とうりょう
の
労働
ろうどう
を
購買
こうばい
または
入手
にゅうしゅ
しうるようなものを
何
なに
も
生産
せいさん
しない。
俳優
はいゆう
の
朗読
ろうどく
や
演説
えんぜつ
家
か
の
熱弁
ねつべん
や
音楽家
おんがくか
の
楽曲
がっきょく
のように、
彼
かれ
らすべての
仕事
しごと
は、
生産
せいさん
されたまさにその
瞬間
しゅんかん
に
消滅
しょうめつ
する。」 (『
国富
こくふ
論
ろん
2』
岩波
いわなみ
文庫
ぶんこ
、p.109-111)
上田
うえだ
秋成
あきなり
『
雨月物語
うげつものがたり
』
1777
年
ねん
フランス、
書籍
しょせき
商
しょう
の「
特権
とっけん
認可
にんか
状
じょう
」に
関
かん
する
国王
こくおう
顧問
こもん
会議
かいぎ
裁決
さいけつ
「(…)
出版
しゅっぱん
業
ぎょう
は
必
かなら
ずしも
安易
あんい
な
事業
じぎょう
ではなかった。
印刷
いんさつ
のための
機械
きかい
や
活字
かつじ
をそろえるためには
多額
たがく
の
資金
しきん
が
必要
ひつよう
であったし、
印刷
いんさつ
した
書物
しょもつ
を
完売
かんばい
し て
投資
とうし
資金
しきん
を
回収
かいしゅう
するためには、
長
なが
い
年月
としつき
が
必要
ひつよう
であった。しかも、
売
う
れ
行
ゆ
きのよい
本
ほん
はすぐに
海賊版
かいぞくばん
が
印刷
いんさつ
され、
安
やす
い
値段
ねだん
で
市場
いちば
に
出回
でまわ
り、
印刷
いんさつ
業者
ぎょうしゃ
と
書籍
しょせき
商
しょう
を
苦
くる
しめた。
印刷
いんさつ
業者
ぎょうしゃ
と
書籍
しょせき
商
しょう
は、
海賊版
かいぞくばん
に
対抗
たいこう
するために、
独占
どくせん
的
てき
な
営業
えいぎょう
権
けん
を
保証
ほしょう
してもらおうとして、「
特権
とっけん
認可
にんか
状
じょう
」の
交付
こうふ
を
国王
こくおう
に
要求
ようきゅう
するようになっ た。
当初
とうしょ
、
印刷
いんさつ
業者
ぎょうしゃ
と
書籍
しょせき
商
しょう
は、
特権
とっけん
認可
にんか
状
じょう
によって
著作
ちょさく
物
ぶつ
に
関
かん
して
何
なん
らかの
権利
けんり
を
主張
しゅちょう
したわけではなかった。ただ、
海賊版
かいぞくばん
業者
ぎょうしゃ
や
競争
きょうそう
相手
あいて
に
対
たい
して
自衛
じえい
する ために、
国王
こくおう
の
庇護
ひご
が
必要
ひつよう
だったのである。
高等法院
こうとうほういん
次席
じせき
検事
けんじ
のアントワーヌ・ルイ・セギュイエは、1777
年
ねん
の
国王
こくおう
顧問
こもん
会議
かいぎ
の
裁定
さいてい
に
関
かん
する
報告
ほうこく
書
しょ
の
中
なか
で、
書籍
しょせき
商
しょう
が
特権
とっけん
認可
にんか
状
じょう
を
必要
ひつよう
とするに
至
いた
った
事情
じじょう
を
次
つぎ
のように
述
の
べている。15
世紀
せいき
末
まつ
までは、
印刷物
いんさつぶつ
の
数
かず
はそれほど
多
おお
くなかったので、
書籍
しょせき
商
しょう
が
競合
きょうごう
しても
致命
ちめい
的
てき
な
損害
そんがい
をもたらすほどではなかった。しかし、
印刷
いんさつ
業者
ぎょうしゃ
が
増
ふ
えるにつれて、
書籍
しょせき
商
しょう
は
著作
ちょさく
物
ぶつ
を
選択
せんたく
せざるを
得
え
なくなった。
技術
ぎじゅつ
の
進歩
しんぽ
とともに、
偽造
ぎぞう
がはびこ り、
出版
しゅっぱん
物
ぶつ
の
競合
きょうごう
によって、
売
う
り
上
あ
げに
影響
えいきょう
が
生
しょう
じてきた。
有名
ゆうめい
な
印刷
いんさつ
業者
ぎょうしゃ
であっても、
経営
けいえい
が
苦
くる
しくなって、
倒産
とうさん
するものも
多
おお
かった。ついには、16
世紀
せいき
の
初
はじ
めには、
多額
たがく
の
投資
とうし
をして
印刷
いんさつ
業
ぎょう
を
始
はじ
めようとするものはなくなってしまった。
早急
そうきゅう
な
救済
きゅうさい
策
さく
を
講
こう
じる
必要
ひつよう
があった。
書籍
しょせき
業
ぎょう
の
衰退
すいたい
を
防
ふせ
ぐためには、
国王
こくおう
に援
助
すけ
を
求
もと
めざるを
得
え
なかった。
国王
こくおう
に
特定
とくてい
の
書物
しょもつ
について
印刷
いんさつ
許可
きょか
を
申請
しんせい
し、
他
た
のものに
印刷
いんさつ
を
禁止
きんし
することを
要請
ようせい
するようになったのはこのためである。
1777
年
ねん
の
裁定
さいてい
は、
著作
ちょさく
者
しゃ
と
書籍
しょせき
商
しょう
とのこれまでの
力
ちから
関係
かんけい
を
根底
こんてい
からくつがえすものであった。この
裁定
さいてい
によって、
著作
ちょさく
者
しゃ
は
永久
えいきゅう
的
てき
な
特権
とっけん
認可
にんか
状
じょう
を
与
あた
えられ たが、
一方
いっぽう
、
書籍
しょせき
商
しょう
の
特権
とっけん
認可
にんか
状
じょう
には10
年間
ねんかん
の
期限
きげん
が
付
つ
けられ、しかも、4
分
ぶん
の1
以上
いじょう
の
増補
ぞうほ
がなされていない
限
かぎ
り
更新
こうしん
は
認
みと
められなくなった。
特権
とっけん
認可
にんか
状
じょう
を
得
え
た
著作
ちょさく
者
しゃ
は
自分
じぶん
の
書物
しょもつ
を
販売
はんばい
することができるようになった。そして、
書籍
しょせき
商
しょう
に
特権
とっけん
認可
にんか
状
じょう
を
譲渡
じょうと
しない
限
かぎ
り、その
権利
けんり
を
永久
えいきゅう
享受
きょうじゅ
することができるように なった。また、この
裁定
さいてい
によって、
地方
ちほう
の
書籍
しょせき
商
しょう
も
書物
しょもつ
を
印刷
いんさつ
する
権利
けんり
が
認
みと
められるようになった。この
裁定
さいてい
によってパリの
書籍
しょせき
商
しょう
と
地方
ちほう
の
書籍
しょせき
商
しょう
との
間
あいだ
の
対立
たいりつ
は
表面
ひょうめん
的
てき
には
一応
いちおう
終止符
しゅうしふ
が
打
う
たれた。しかし、
両者
りょうしゃ
の
確執
かくしつ
は、フランス
革命
かくめい
によってパリの
書籍
しょせき
商
しょう
の
特権
とっけん
認可
にんか
状
じょう
が
廃止
はいし
されるまで
続
つづ
くことになる。1777
年
ねん
の
裁定
さいてい
によって、
書籍
しょせき
商
しょう
のいらだちは
一段
いちだん
と
強
つよ
くなっていった。しかし、
著作
ちょさく
者
しゃ
たちは、この
裁定
さいてい
が
書籍
しょせき
商
しょう
の
束縛
そくばく
から
著作
ちょさく
者
しゃ
を
解放
かいほう
するものであることについて
十
じゅう
分
ふん
に
認識
にんしき
していたとは
言
い
えない。
著作
ちょさく
者
しゃ
が
書籍
しょせき
商
しょう
に
特権
とっけん
認可
にんか
状
じょう
を
譲渡
じょうと
することを
拒否
きょひ
すれば、
書籍
しょせき
商
しょう
たちは
改
あらた
めて
著作
ちょさく
者
しゃ
と
交渉
こうしょう
せざるを
得
え
なかったと
思
おも
われる が、
現実
げんじつ
はそうではなかった。
著作
ちょさく
者
しゃ
が
世
よ
に
出
で
るためには
書籍
しょせき
商
しょう
が
必要
ひつよう
であったが、
書籍
しょせき
商
しょう
は
代
か
わりの
著作
ちょさく
者
しゃ
はいくらでも
見付
みつ
けることができたからである。
書
しょ
籍
せき
商
しょう
たちは、1777
年
ねん
の
裁定
さいてい
に
抵抗
ていこう
して
様々
さまざま
な
試
こころ
みを
繰
く
り
返
かえ
した。」(
藤原
ふじわら
博彦
ひろひこ
「フランスにおける
著作
ちょさく
権
けん
についての
考
かんが
え
方
かた
の
変遷
へんせん
」『
知
ち
財
ざい
研
けん
紀要
きよう
』 2005、p.112-113)
1778
年
ねん
ヴォルテール
没
ぼつ
「「あなたはさぞかし
広
ひろ
い
立派
りっぱ
な
土地
とち
をお
持
も
ちなんでしょうね。」とカンディードはこのトルコ
人
じん
にいった。
「たった
二
に
十
じゅう
アルパンなんで。」とトルコ
人
じん
は
答
こた
えた。「それを
倅
せがれ
たちといっしょにつくっております。
働
はたら
けば、わしらは
三
みっ
つの
大
おお
きな
不幸
ふこう
から
遠
とお
ざかる。
退屈
たいくつ
と
不身持
ふみもち
と
貧乏
びんぼう
、この
三
みっ
つですじゃ。」」(『カンディード』p.170)
「「わたしは
自分
じぶん
の
畑
はたけ
を
耕
たがや
すべきことも
知
し
っています。」とカンディードはいった。
「いかにもそのとおり。」とパングロスはいった。「というのは、
人間
にんげん
がエデンの
園
えん
におかれたのは
働
はたら
いてこれを
耕
たがや
さんためであった。これすなわち、
人
ひと
は
休息
きゅうそく
のために
生
う
まれたるにはあらず、という
証拠
しょうこ
だ。」
「
理屈
りくつ
ぬきで
働
はたら
きましょう。」とマルチンがいった。「
人生
じんせい
を
耐
た
え
得
え
られるものにする
途
と
は、ただこれ
一
ひと
つです。」(『カンディード』p.171-172)
ルソー
没
ぼつ
「
要
よう
するに、
僕
ぼく
は
地上
ちじょう
でただの
一人
ひとり
きりになってしまった。もはや、
兄弟
きょうだい
もなければ
隣人
りんじん
もなく、
友人
ゆうじん
もなければ
社会
しゃかい
もなく、ただ
自分
じぶん
一
いち
個
こ
あるのみ だ。およそ
人間
にんげん
のうちで
最
もっと
も
社交
しゃこう
的
てき
であり、
最
もっと
も
人
ひと
なつこい
男
おとこ
が、
全員
ぜんいん
一致
いっち
で
仲間
なかま
はずれにされたのである。どういう
苦
くる
しめ
方
かた
が
僕
ぼく
の
敏感
びんかん
な
魂
たましい
に
最
もっと
も
残酷
ざんこく
である かと、
彼
かれ
らはその
憎悪
ぞうお
の
極
きょく
をつくして
考
かんが
えめぐらしたのだ。」(『
孤独
こどく
な
散歩
さんぽ
者
しゃ
の
夢想
むそう
』p.7)
キャプテン・クック、ハワイ
諸島
しょとう
「
発見
はっけん
」
1779
年
ねん
平賀
ひらが
源内
げんない
没
ぼつ
(1780
年
ねん
という
説
せつ
も)
イギリス、コールブルックデール
橋
きょう
完成
かんせい
(
世界
せかい
初
はつ
の
鉄橋
てっきょう
)
1780
年
ねん
南町
みなみまち
奉行
ぶぎょう
所
しょ
が
深川
ふかがわ
茂森
しげもり
町
まち
に「
無宿
むしゅく
養育
よういく
所
しょ
」
設置
せっち
(1786
年
ねん
廃止
はいし
)
フランス『
百科全書
ひゃっかぜんしょ
』
全
ぜん
38
巻
かん
完結
かんけつ
1781
年
ねん
エマヌエル・カント『
純粋
じゅんすい
理性
りせい
批判
ひはん
』
ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ(トゥパク・アマル2
世
せい
)
没
ぼつ
1782
年
ねん
ルソー『
告白
こくはく
』
第
だい
一部
いちぶ
刊行
かんこう
「(…)
世界
せかい
を
自己
じこ
と
自己
じこ
ならざるものとに
分割
ぶんかつ
して、
自己
じこ
のほうを
受容
じゅよう
し
賛美
さんび
することは、
現実
げんじつ
から
想像
そうぞう
上
じょう
のものへのルソーの
脱出
だっしゅつ
・
飛翔
ひしょう
の、さらに もう
一
ひと
つの
実例
じつれい
であるとは、
本当
ほんとう
にありうることである。そうなると、
自己
じこ
は
盲目的
もうもくてき
崇拝
すうはい
の
対象
たいしょう
となるのだ、
存在
そんざい
してほしい
欲望
よくぼう
の
客体
かくたい
なのだ。
しかしながら、ルソーの
自伝
じでん
的
てき
で
告白
こくはく
的
てき
な
著作
ちょさく
(oeure)の、まさに
大
おお
いなる
反語
はんご
(アイロニー)の
一
ひと
つは、
著作
ちょさく
〔「いとなみ」でもある〕の
中心
ちゅうしん
戦略
せんりゃく
、 すなわち、
自己
じこ
を
自己
じこ
ならざるものから
分離
ぶんり
すること、および、その
結果
けっか
起
お
こるその
自己
じこ
の
探求
たんきゅう
と
賛美
さんび
が
最後
さいご
には
否定
ひてい
されるという
事態
じたい
である。ルソーの
固体
こたい
化
か
された
自己
じこ
は、
結局
けっきょく
は、
役立
やくだ
たずだと
分
わ
かり、そのために
必然
ひつぜん
的
てき
に
起
お
こる
喪失
そうしつ
は、その
自己
じこ
が
生
う
み
出
だ
す
代償
だいしょう
的
てき
な
満足
まんぞく
に
結局
けっきょく
のところまさり、そしてルソーは、
自
じ
分
ぶん
の
告白
こくはく
的
てき
な
数々
かずかず
の
著作
ちょさく
がむりやり
定
さだ
めようと
努
つと
める、
自己
じこ
の
境界
きょうかい
そのものを
最後
さいご
には
無
む
に
帰
き
す――もしくは
無
む
に
帰
かえ
したいと
思
おも
う――のである。」『
自己
じこ
のテク ノロジー』p.181)
1783
年
ねん
浅間
あさま
山大
やまだい
噴火
ふんか
アメリカ
独立
どくりつ
戦争
せんそう
終結
しゅうけつ
1784
年
ねん
エマヌエル・カント「
啓蒙
けいもう
とは
何
なに
か」
「
自分
じぶん
自身
じしん
がすでに
啓蒙
けいもう
されているからこそ
徒
いたず
らに
影
かげ
におびえる
必要
ひつよう
のないような
君主
くんしゅ
、しかしまたそれと
同時
どうじ
に、
訓練
くんれん
の
行
い
き
届
とど
いた
多数
たすう
の
将兵
しょうへい
から
成
なり
る
軍
ぐん
を
擁
よう
して、
国家
こっか
の
安寧
あんねい
を
保証
ほしょう
できるような
君主
くんしゅ
にして
初
はじ
めて、「
君達
きみたち
はいくらでも、また
何
なに
ごとについても
意
い
のままに
議論
ぎろん
せよ、ただし
服従
ふくじゅう
せよ!」と
言明
げんめい
し
得
え
るのである、――
実際
じっさい
かかる
大胆
だいたん
な
発言
はつげん
は、
共和
きょうわ
国
こく
といえども敢てし
得
え
ないであろう。」(『
啓蒙
けいもう
とは
何
なに
か』
岩波
いわなみ
文庫
ぶんこ
、p.18-19)
カント「
世界
せかい
公民
こうみん
的
てき
見地
けんち
における
一般
いっぱん
紙
し
の
構想
こうそう
」
「(…)
人間
にんげん
は、
相
あい
集
あつ
まって
社会
しゃかい
を
組織
そしき
しようとする
傾向
けいこう
をもっている、
彼
かれ
はこのような
状態
じょうたい
においていっそう
人間
にんげん
としての
自覚
じかく
をもつようになるから である、
換言
かんげん
すれば、
彼
かれ
の
自然
しぜん
的
てき
素質
そしつ
の
発展
はってん
をみずからのうちに
感知
かんち
するのである。ところがまた
人間
にんげん
は、
仲間
なかま
を
離
はな
れて
自分
じぶん
一
いち
人
にん
になろう(
孤立
こりつ
しよう)とする
強
つよ
い
傾向
けいこう
をも
具
そな
えている、
彼
かれ
は
自分
じぶん
のうちに、
社交
しゃこう
的
てき
性質
せいしつ
と
同時
どうじ
に、
一切
いっさい
を
自分
じぶん
の
意
い
のままに
処理
しょり
しようとする
非
ひ
社交
しゃこう
的
てき
性向
せいこう
をも
見出
みいだ
すからである。そこで
彼
かれ
は、
到
いた
る
処
しょ
で
他者
たしゃ
の
抵抗
ていこう
に
出会
であ
うことを
予期
よき
する、
自分
じぶん
のほうでも
他人
たにん
に
抵抗
ていこう
しようとする
傾向
けいこう
が
自分
じぶん
自身
じしん
にあることをよく
承知
しょうち
しているからである。ところで この
抵抗
ていこう
こそ、
人間
にんげん
がほんらい
具
そな
えている
一切
いっさい
の
力
ちから
を
覚醒
かくせい
させ、
彼
かれ
を
促
うなが
して
怠惰
たいだ
の
性癖
せいへき
を
克服
こくふく
させ、また
名誉
めいよ
欲
よく
や
支配
しはい
欲
よく
、
或
ある
いは
所有
しょゆう
欲
よく
に
駆
か
られて、
人間
にんげん
仲間
なかま
――
彼
かれ
がこの
人達
ひとたち
をどうにも
我慢
がまん
できないとしながらも、さりとて
彼等
かれら
からすっかり
離
はな
れることもできないような
仲間
なかま
――のあいだにひとかどの
地位
ちい
を
獲得
かくとく
させ るのである。そして
未開
みかい
状態
じょうたい
から
脱出
だっしゅつ
して
文化
ぶんか
へ
向
むこ
う
紛
まが
うかたなき
第一歩
だいいっぽ
はここに
始
はじ
まるのである、なお
文化
ぶんか
は、もともと
人間
にんげん
の
社会
しゃかい
的
てき
価値
かち
にもとづいて
成立
せいりつ
す るところの
状態
じょうたい
にほかならない。(…)とは
言
い
えかかる
非
ひ
社交
しゃこう
的
てき
性質
せいしつ
がなかったなら、
人間
にんげん
はいつまでも
淳朴
じゅんぼく
な
牧羊
ぼくよう
生活
せいかつ
を
営
いとな
み、なるほど
仲間
なかま
うちの
和合
わごう
、つつ ましい
満足
まんぞく
、
人々
ひとびと
相互
そうご
の
愛
あい
は
全
まっと
うせられるであろうが、しかし
彼等
かれら
の
一切
いっさい
の
才能
さいのう
は
永久
えいきゅう
に
埋没
まいぼつ
せられるであろう、そして
人間
にんげん
は、
彼等
かれら
の
牧
まき
する
羊
ひつじ
さながらに
善良
ぜんりょう
であるにせよ、しかし
彼等
かれら
が
自分
じぶん
達
たち
に
存在
そんざい
に
与
あた
えるところの
価値
かち
は、この
家畜
かちく
がもつところの
価値
かち
以上
いじょう
のものではあるまい。(…)」(『
啓蒙
けいもう
とは
何
なに
か』
岩波
いわなみ
文
ぶん
庫
こ
、p.30-31)
1785
年
ねん
イギリスの
日刊
にっかん
紙
し
、The Times
創刊
そうかん
(
世界
せかい
最古
さいこ
の
日刊
にっかん
紙
し
)
1786
年
ねん
タウンゼンド『
救貧
きゅうひん
法論
ほうろん
』
「アダム・スミスからタウンゼンドへの
時代
じだい
の
雰囲気
ふんいき
の
変化
へんか
は、
実
じつ
にめざましいものであった。スミスは、トマス・モアやマキャヴェリ、ルターやカル ヴィンといった
国家
こっか
の
創案
そうあん
者
しゃ
たちとともに
始
はじ
まった
時代
じだい
の
終焉
しゅうえん
を
画
かく
したのにたいし、タウンゼンドは
一
いち
九
きゅう
世紀
せいき
の
人間
にんげん
であって、リカードやヘーゲルが
各々
おのおの
の
対極
たいきょく
的
てき
角度
かくど
から
国家
こっか
の
法
ほう
に
従属
じゅうぞく
することなく、
逆
ぎゃく
に
国家
こっか
をみずからの
法則
ほうそく
に
従
したが
わせるような
社会
しゃかい
の
存在
そんざい
を
発見
はっけん
した
時代
じだい
の
人
ひと
であった。」(ポラニー『
大
だい
転換
てんかん
』 p.151)
1787
年
ねん
ベンサム、
円形
えんけい
監獄
かんごく
・パノプティコンを
考案
こうあん
(1794
年
ねん
に
議会
ぎかい
で
採用
さいよう
の
決定
けってい
がなされるも
実現
じつげん
せず)
「
社会
しゃかい
改革
かいかく
者
しゃ
のうちで
最
もっと
も
実
み
を
結
むす
んだ
人物
じんぶつ
ジェレミー・ベンサムが、
貧民
ひんみん
を
大
だい
規模
きぼ
に
使
つか
って、
彼
かれ
よりさらに
発明
はつめい
の
才
ざい
ある
弟
おとうと
のサミュエルのつくった
機械
きかい
を
運転
うんてん
して
木材
もくざい
や
金属
きんぞく
の
加工
かこう
をさせる
計画
けいかく
を
立案
りつあん
したのは、それからちょうど
一
いち
世紀
せいき
後
ご
のことであった。サー・レスリー・スティーブンは、「ベンサムは
弟
おとうと
と
一
いち
緒
いとぐち
になって
蒸気
じょうき
エンジンを
探
さが
しもとめていた。そして
今
いま
や、
蒸気
じょうき
の
代
かわ
りに
囚人
しゅうじん
を
雇
やと
うことを
思
おも
いついたのだ」といっている。これは
一
いち
七
なな
九
きゅう
四
よん
年
ねん
のことであった。 ジェレミー・ベンサムの
円形
えんけい
監獄
かんごく
(パノプティコン)の
計画
けいかく
は、
監獄
かんごく
を
安上
やすあが
りで
効果
こうか
的
てき
に
監
かん
視
し
できるように
工夫
くふう
されていたが、その
計画
けいかく
は
二
に
年
ねん
も
前
まえ
から
存在
そんざい
して おり、
彼
かれ
は
今
いま
やそれを
自分
じぶん
の
囚人
しゅうじん
経営
けいえい
工場
こうじょう
に
適用
てきよう
することを
決意
けつい
したのだ。そして
貧民
ひんみん
が
囚人
しゅうじん
にとって
代
か
わるはずであった。(…)これによると
二
に
五
ご
〇を
下
くだ
らな い
工場
こうじょう
が
設立
せつりつ
され、そこに
約
やく
五
ご
〇
万
まん
人
にん
が
収容
しゅうよう
されることになっていた。その
計画
けいかく
にはさまざまの
範疇
はんちゅう
の
失業
しつぎょう
者
しゃ
について
詳細
しょうさい
な
分析
ぶんせき
が
付
ふ
せられていたが、その
分析
ぶんせき
においてベンサムは、この
領域
りょういき
での
他
ほか
の
研究
けんきゅう
者
しゃ
の
成果
せいか
に
比
ひ
して
一
いち
世紀
せいき
以上
いじょう
も
先
さき
んじていた。
彼
かれ
の
分類
ぶんるい
好
す
きな
精神
せいしん
はその
最善
さいぜん
の
場合
ばあい
には
現実
げんじつ
への
適応
てきおう
能力
のうりょく
を
示
しめ
しえ たのである。
近年
きんねん
になってあらわれた「
行
い
き
場
ば
のない
職人
しょくにん
」は、「
偶発
ぐうはつ
的
てき
不況
ふきょう
」ゆえに
雇用
こよう
先
さき
を
見
み
つけだすことのできない
者
もの
とは
区別
くべつ
されていた。つまり、
季
き
節
ぶし
労働
ろうどう
者
しゃ
の「
周期
しゅうき
的
てき
不振
ふしん
」は「
免職
めんしょく
された
職人
しょくにん
」とは
区別
くべつ
されていたのだ。そのような
職人
しょくにん
とは、たとえば「
機械
きかい
の
導入
どうにゅう
によってはじき
出
だ
さ」れた
者
もの
、あるいは もっと
近代
きんだい
的
てき
な
言葉
ことば
でいえば、
技術
ぎじゅつ
的
てき
失業
しつぎょう
者
しゃ
のことであった。このグループは、ベンサムの
時代
じだい
に
対
たい
仏
ふつ
戦争
せんそう
によって
目立
めだ
つようになったもう
一
ひと
つの
近代
きんだい
的
てき
範疇
はんちゅう
、 すなわち「
除隊
じょたい
職人
しょくにん
」から
構成
こうせい
されていた。しかしながら
最
もっと
も
重要
じゅうよう
な
範疇
はんちゅう
は
上述
じょうじゅつ
の「
偶発
ぐうはつ
的
てき
不況
ふきょう
」による
失業
しつぎょう
者
しゃ
であった。それには「
流行
りゅうこう
に
左右
さゆう
される」
仕事
しごと
を している
職人
しょくにん
や
工芸
こうげい
家
か
ばかりでなく、それよりはるかに
重要
じゅうよう
な「
全般
ぜんぱん
的
てき
工業
こうぎょう
不
ふ
況
きょう
が
発生
はっせい
したばあいの
失業
しつぎょう
者
しゃ
グループが
含
ふく
まれていた。ベンサムの
計画
けいかく
は、
失業
しつぎょう
者
しゃ
を
大
だい
規模
きぼ
なスケールで
商品
しょうひん
化
か
することを
通
とお
して
景気
けいき
の
循環
じゅんかん
を
平準
へいじゅん
化
か
するものにほかならなかったのだ。」(ポラニー『
大
だい
転換
てんかん
』p.143-145)
「
密集
みっしゅう
せる
多人数
たにんずう
、
多種
たしゅ
多様
たよう
な
交換
こうかん
の
場
ば
、
互
たが
いに
依存
いぞん
し
共同
きょうどう
するさまざまな
個人
こじん
、
集団
しゅうだん
的
てき
な
効果
こうか
たる、こうした
群集
ぐんしゅう
が
解消
かいしょう
されて、そのかわりに、
区分
くぶん
された
個々人
ここじん
の
集
あつ
まり〔という
新
あたら
しい
施設
しせつ
〕の
効果
こうか
が
生
しょう
じるわけである。
看守
かんしゅ
の
観点
かんてん
に
立
た
てば、そうした
群衆
ぐんしゅう
にかわって、
計算
けいさん
調査
ちょうさ
が
可能
かのう
で
取
と
り
締
し
まりやすい
多
た
様
さま
性
せい
が
現
あら
われ、
閉
と
じ
込
こ
められる
者
もの
の
観点
かんてん
に
立
た
てば、
隔離
かくり
され
見
み
つめられる
孤立
こりつ
性
せい
が
現
あら
われるのだ。
その
点
てん
から
生
しょう
じるのが〈
一望
いちぼう
監視
かんし
装置
そうち
〉(パノプティック)の
主要
しゅよう
な
効果
こうか
である。つまり、
権力
けんりょく
の
自動的
じどうてき
な
作用
さよう
を
確保
かくほ
する
可視
かし
性
せい
への
永続
えいぞく
的
てき
な
自覚
じかく
状態
じょうたい
を、閉 じ
込
こ
められる
者
もの
にうえつけること。(…)」(フーコー『
監獄
かんごく
の
誕生
たんじょう
』p.203*)
*Foucault, Michel 1975
Surveiller et punir: Naissance de la prison
, Gallimard=1977
田村
たむら
俶訳、『
監獄
かんごく
の
誕生
たんじょう
──
監
かん
視
し
と
処罰
しょばつ
』,
新潮社
しんちょうしゃ
4430 ※
cf.Foucault, Michel:
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/foucault.htm
「パノプティコンのプロジェクトが
素描
そびょう
されていた
時代
じだい
、
労働
ろうどう
者
しゃ
不足
ふそく
は、
社会
しゃかい
的
てき
な
発展
はってん
を
拒
こば
んでいる
主要
しゅよう
な
障害
しょうがい
として
広
ひろ
く
認識
にんしき
されていた。
初期
しょき
の
企業
きぎょう
家
か
たちは、
労働
ろうどう
者
しゃ
になりうる
人々
ひとびと
が
工場
こうじょう
労働
ろうどう
のリズムに
抵抗
ていこう
を
感
かん
じて
身
み
をゆだねたがらないということを
嘆
なげ
いていたのだ。このような
状況
じょうきょう
下
か
で「
矯正
きょうせい
」が
意味
いみ
し たのは、そのような
抵抗
ていこう
を
克服
こくふく
し、
工場
こうじょう
労働
ろうどう
に
身
み
をゆだねることをもっともらしく
見
み
せることだった。
要約
ようやく
すれば、その
他
た
の
直接的
ちょくせつてき
な
目的
もくてき
が
何
なに
であれ、パノプティコン
的
てき
な
形態
けいたい
をもつあらゆる
監禁
かんきん
施設
しせつ
は、
何
なに
よりもまず、
規律
きりつ
訓練
くんれん
の
工場
こうじょう
だったのであり、もっと
正確
せいかく
に
言
い
えば、
訓練
くんれん
された
労働
ろうどう
者
しゃ
を
生産
せいさん
する
工場
こうじょう
だった。しかも、それらの
監禁
かんきん
施設
しせつ
は、
多
おお
くの
場合
ばあい
、
最終
さいしゅう
的
てき
な
課題
かだい
に
対
たい
するてっとりばやい
解決
かいけつ
法
ほう
でもあった。 つまり、
収容
しゅうよう
者
しゃ
たちをすぐに
働
はたら
かせたのである。
特
とく
に、「
自由
じゆう
な
労働
ろうどう
者
しゃ
たち」が
最
もっと
も
嫌悪
けんお
し、どんなにその
報酬
ほうしゅう
が
魅力
みりょく
的
てき
であったとしても
自分
じぶん
の
意思
いし
ではとうて いやりたがらないような
仕事
しごと
をやらせたのだ。
表向
おもてむ
きに
宣言
せんげん
された
長期
ちょうき
的
てき
な
目的
もくてき
が
何
なに
であれ、
大
だい
部分
ぶぶん
のパノプティコン
的
てき
施設
しせつ
は、
直
ただ
ちに
収容
しゅうよう
作業
さぎょう
施設
しせつ
(ワーク・ ハウス)だったのである。」(ジグムント・バウマン/
福本
ふくもと
圭介
けいすけ
訳
やく
「
法
ほう
と
秩序
ちつじょ
の
社会
しゃかい
的
てき
効用
こうよう
」『
現代
げんだい
思想
しそう
』2001,29−7,p.89-90)
1789
年
ねん
ベンサム『
道徳
どうとく
および
立法
りっぽう
の
諸
しょ
原理
げんり
序説
じょせつ
』
ルソー『
告白
こくはく
』
第
だい
二
に
部
ぶ
刊行
かんこう
「
私
わたし
に
対
たい
して
多
おお
くの
矛盾
むじゅん
を
非難
ひなん
する
人
ひと
たちは、ここでもまた、きっと
一
ひと
つの
矛盾
むじゅん
を
非難
ひなん
するだろう。
私
わたし
は、
人
ひと
の
集
あつ
まりでの
無為
むい
は、その
集
あつ
まりを
耐
た
えが たいものにするといった。ところがいまは、もっぱら
無為
むい
にふけるために
孤独
こどく
を
求
もと
めているのだ。けれども
私
わたし
は、そんな
人間
にんげん
なのだ。そこに
矛盾
むじゅん
があるとして も、それは
自然
しぜん
のせいであって、
私
わたし
のせいではない。しかもほんのわずかな
矛盾
むじゅん
しかないので、まさにそれだからこそ
私
わたし
はつねに
私
わたし
なのだ。
人
ひと
の
集
あつ
まりでの
無為
むい
は、
止
や
むを
得
え
ないものであるから、うんざりする。
孤独
こどく
の
無為
むい
は、
自由
じゆう
で
意志
いし
にもとづくものであるから、
魅力
みりょく
的
てき
である。(…)
私
わたし
の
好
この
む
無為
むい
とは、まったくなにもせずに
腕
うで
をこまねいてじっとしたままで、
動
うご
かないばかりか、なにも
考
かんが
えないでいるのらくら
者
しゃ
の
無為
むい
ではない。それはた えず
動
うご
きながらなにもしない
子供
こども
の
無為
むい
であると
同時
どうじ
に、
腕
うで
は
休
やす
めながらもとりとめのないことを
言
い
っている
老
お
いぼれの
無為
むい
でもある。
私
わたし
はたわいもないことを しようと
専念
せんねん
し、
数
すう
多
おお
くのことをはじめて、そのどれ
一
ひと
つもしとげず、
思
おも
いつくままに
行
い
ったり
来
き
たりし、たえず
計画
けいかく
を
変更
へんこう
し、
蠅
はえ
の
一挙一動
いっきょいちどう
を
見守
みまも
り、
岩
いわ
を ひっくり
返
かえ
しては、その
下
した
に
何
なに
があるかを
見
み
たいと
思
おも
い、
十
じゅう
年
ねん
仕事
しごと
を
熱中
ねっちゅう
して
企
くわだ
てたかと
思
おも
うと、
十
じゅう
分
ふん
後
ご
には
惜
お
しげもなくそれを
棄
す
て、
要
よう
するに
一
いち
日
にち
中
ちゅう
順序
じゅんじょ
もな く
無駄
むだ
に
過
す
ごして、なにごとにつけてもそのときの
気紛
きまぐ
れに
従
したが
う。そういったことが
好
す
きなのだ。」(『ルソー
全集
ぜんしゅう
』
第
だい
二
に
巻
かん
、p.271-272)
1790
年
ねん
「
石川
いしかわ
島
とう
人足
ひとあし
寄場
よせば
」
設置
せっち
「
人足
ひとあし
寄場
よせば
は、
寛政
かんせい
二
に
年
ねん
(
一
いち
七
なな
九
きゅう
〇)
二
に
月
がつ
、
時
とき
の
執政
しっせい
松平
まつだいら
定信
さだのぶ
によって、
江戸
えど
の
隅田川
すみだがわ
の
河口
かこう
、
石川
いしかわ
島
とう
と
佃
つくだ
島
とう
のあいだにあった
葭原
よしはら
湿原
しつげん
を
埋
う
め
立
た
てて
建
けん
設
しつらえ
された。
その
建設
けんせつ
と
管理
かんり
運営
うんえい
の
責任
せきにん
を
最初
さいしょ
に
任
まか
せられたのは、
当時
とうじ
、
幕府
ばくふ
の
火付
ひつき
盗賊
とうぞく
改
あらため
役
やく
であった
長谷川
はせがわ
平蔵
へいぞう
宣
せん
以であった。
研究
けんきゅう
者
しゃ
の
間
あいだ
で
人足
ひとあし
寄場
よせば
に
対
たい
する
評価
ひょうか
が
高
たか
い だけに、
設立
せつりつ
の
発想
はっそう
が
一体
いったい
誰
だれ
によって
生
う
み
出
だ
されたかについて
関心
かんしん
が
集
あつ
まり、
神宮
じんぐう
文庫
ぶんこ
蔵
ぞう
の「
寛政
かんせい
元
もと
酉
とり
年寄
としより
場
じょう
起立
きりつ
」に
載
の
る
長谷川
はせがわ
平蔵
へいぞう
の
建議
けんぎ
書
しょ
などをめぐり、
精
せい
緻な
分析
ぶんせき
が
試
こころ
みられた。
おおかたの
研究
けんきゅう
結果
けっか
によれば、
人足
ひとあし
寄場
よせば
の
設置
せっち
は、
無宿
むしゅく
浮浪
ふろう
の
増大
ぞうだい
に
悩
なや
む
定信
さだのぶ
が、すでに
前年
ぜんねん
のうちから
諮問
しもん
するところであった。
当時
とうじ
すでに
定信
さだのぶ
の
念頭
ねんとう
に は、
無宿
むしゅく
浮浪
ふろう
を
収容
しゅうよう
する
施設
しせつ
再建
さいけん
の
構想
こうそう
があり、かつて
享
とおる
保
ほ
期
き
に
評定
ひょうじょう
所
しょ
の
協議
きょうぎ
にかかったこともある
新規
しんき
溜
ため
の
建設
けんせつ
案
あん
や
安永
やすなが
期
き
に
南
みなみ
町奉行
まちぶぎょう
の
牧野
まきの
成
しげる
賢
けん
によって
一
いち
度
ど
試
こころ
みられながら、
逃亡
とうぼう
者
しゃ
を
多
おお
く
出
だ
して
結局
けっきょく
失敗
しっぱい
に
終
お
わっていた
無宿
むしゅく
養育
よういく
所
しょ
などが
検討
けんとう
材料
ざいりょう
としてあった、といわれている。」(
阿部
あべ
昭
あきら
『
江戸
えど
のアウトロー』 p.171)
「
刑法
けいほう
学者
がくしゃ
団
だん
藤
ふじ
重光
しげみつ
氏
し
は、
前述
ぜんじゅつ
の『
人足
ひとあし
寄場
よせば
史
し
』に
寄
よ
せた
論文
ろんぶん
「
人足
ひとあし
寄場
よせば
の
性格
せいかく
と
特長
とくちょう
」において、この
申
さる
渡
わたり
書
しょ
の
内容
ないよう
を
重視
じゅうし
しつつ、
人足
ひとあし
寄場
よせば
の
性格
せいかく
に ついて
分析
ぶんせき
され、
次
つぎ
のような
見解
けんかい
を
示
しめ
された。
第
だい
一
いち
に、
収容
しゅうよう
者
しゃ
には「
重
おも
き
御
ご
仕置
しおき
」や「
佐渡
さど
送
おく
り」という
心理
しんり
的
てき
圧力
あつりょく
をかけながら、
反
はん
社会
しゃかい
的
てき
・
非
ひ
社会
しゃかい
的
てき
な
者
もの
を
再
さい
社会
しゃかい
化
か
・
社会
しゃかい
復帰
ふっき
させる
矯正
きょうせい
的
てき
な
要素
ようそ
が
濃厚
のうこう
にみとめられること。
第
だい
二
に
に、
本業
ほんぎょう
に
立
た
ち
返
かえ
ろうとする
者
もの
には
土地
とち
や
店
みせ
を
持
も
たせるほか、
種々
しゅじゅ
手当
てあ
てするなど
積極
せっきょく
的
てき
な
福祉
ふくし
措置
そち
も
見
み
えるが、その
前提
ぜんてい
に
不定期
ふていき
拘禁
こうきん
的
てき
な
厳
きび
しい
矯正
きょうせい
措
置
おけ
があること。
第
だい
三
さん
に、
犯罪
はんざい
者
しゃ
に
対
たい
する
刑罰
けいばつ
でないことが
原則
げんそく
とされており、
無罪
むざい
の
無宿
むしゅく
などの
収容
しゅうよう
は
犯罪
はんざい
を
前提
ぜんてい
とはしない「
広義
こうぎ
の
保安
ほあん
処分
しょぶん
」とするのが
妥当
だとう
。
という
評価
ひょうか
である。
団
だん
藤
ふじ
氏
し
の
人足
ひとあし
寄場
よせば
に
下
くだ
した
評価
ひょうか
は、
少
すく
なくとも
当初
とうしょ
の
人足
ひとあし
寄場
よせば
には、「
反
はん
社会
しゃかい
的
てき
傾向
けいこう
を
持
も
つ
無罪
むざい
の
無宿
むしゅく
を、
矯正
きょうせい
授産
じゅさん
し
社会
しゃかい
復帰
ふっき
させる
保安
ほあん
処分
しょぶん
施設
しせつ
」としての
性格
せいかく
が
濃厚
のうこう
である、とするものであった。そして、この
評価
ひょうか
については、
人足
ひとあし
寄場
よせば
顕彰
けんしょう
会
かい
代表
だいひょう
の
瀧川
たきがわ
氏
し
も「
人足
ひとあし
寄場
よせば
の
性
せい
格
かく
づけとして
最
もっと
も
当
とう
を
得
え
たものと
思
おも
う」 と
賛意
さんい
を
示
しめ
し、これが
同
どう
会
かい
に
集
つど
う
行刑
ぎょうけい
史
し
・
法制
ほうせい
史
し
の
権威
けんい
たちの
人足
ひとあし
寄場
よせば
評価
ひょうか
の
基礎
きそ
的
てき
トーンをなしているといってよい。
だが、『
人足
ひとあし
寄場
よせば
史
し
』に
寄
よ
せられた
論文
ろんぶん
のなかには、それだけでは
割
わ
り
切
き
れぬ
問題
もんだい
が
残
のこ
ることに、あえて
視線
しせん
をなげかけようとしたものもある。
たとえば
荒井
あらい
貢
みつぐ
次郎
じろう
氏
し
の「
人足
ひとあし
寄場
よせば
と
民衆
みんしゅう
」もその
一
ひと
つである。
氏
し
は「
教育
きょういく
刑
けい
と
勤労
きんろう
尊重
そんちょう
の
理念
りねん
は、かつて
石川
いしかわ
島
とう
人足
ひとあし
寄場
よせば
のうちに、ひそかに
種子
しゅし
が
蒔
ま
かれて いたことを
信
しん
じて
疑
うたが
わない」としながらも、「だが、しかし、
文政
ぶんせい
五
ご
年
ねん
(
一
いち
八
はち
二
に
二
に
)から
天保
てんぽう
一
いち
一
いち
年
ねん
(
一
いち
八
はち
四
よん
〇)までの
一
いち
八
はち
年間
ねんかん
に
八丈島
はちじょうじま
の
流人
るにん
の
数
かず
は、
二
に
六
ろく
〇
人
にん
と
記録
きろく
されている。このうち
人足
ひとあし
寄場
よせば
逃
に
げ
出
だ
しが
一
いち
二
に
人
にん
いる」という
文章
ぶんしょう
をもって
論文
ろんぶん
をしめくくっている。」(p.177-178)
「
寄場
よせば
人足
ひとあし
のなかには、ここから
社会
しゃかい
復帰
ふっき
のチャンスを
得
え
た
者
もの
も
少
すく
なからずいたのであって、そのことの
意味
いみ
することは
軽
かる
くはない。
しかし、
各種
かくしゅ
の
手当
てあ
てを
受
う
け、
心学
しんがく
の
教諭
きょうゆ
を
与
あた
えられ、「
復帰
ふっき
」してゆく
社会
しゃかい
は、
無宿
むしゅく
が
一
いち
度
ど
は
逃亡
とうぼう
してきた
社会
しゃかい
であった。その
社会
しゃかい
はといえば、
状況
じょうきょう
は
以前
いぜん
とほとんど
変
か
わっていないとすれば、この「
社会
しゃかい
復帰
ふっき
」とは、どのような
意味
いみ
をもつのだろうか。それを
考
かんが
えれば、「
復帰
ふっき
」の
意味
いみ
には、
複雑
ふくざつ
なものがあると
思
おもえ
わざるをえない。
人足
ひとあし
寄場
よせば
の
制度
せいど
が、
保安
ほあん
処分
しょぶん
や
自由
じゆう
刑
けい
制
せい
の
源流
げんりゅう
であるとして、
行刑
ぎょうけい
史上
しじょう
の
評価
ひょうか
を
高
たか
くすることはともかくとして、
一
いち
度
ど
は
幕
まく
藩
はん
制
せい
社会
しゃかい
から
離脱
りだつ
を
試
こころ
みた
無宿
むしゅく
たち が
求
もと
めてやまなかったものが、
当時
とうじ
の
社会
しゃかい
における
百姓
ひゃくしょう
身分
みぶん
への「
復帰
ふっき
」によって、
充分
じゅうぶん
にしかも
最善
さいぜん
のかたちで
充足
じゅうそく
されたのかどうか、それへの
回答
かいとう
はいまだ
留保
りゅうほ
したい
気持
きも
ちにかられるのである。」(p.185)
本
ほん
居
きょ
宣長
のりなが
『
古事記
こじき
伝
でん
』
刊行
かんこう
始
はじ
まる(〜1822
年
ねん
、
起稿
きこう
1764
年
ねん
、
脱
だつ
稿
こう
1798
年
ねん
)
イマヌエル・カント『
判断
はんだん
力
りょく
批判
ひはん
』
第
だい
一
いち
版
はん
出版
しゅっぱん
バーク『フランス
革命
かくめい
の
省察
せいさつ
』
「
敢
あ
えて
言
い
うならば、
水平
すいへい
化
か
を
試
こころ
みる
人間
にんげん
は
決
けっ
して
平等
びょうどう
を
生
う
み
出
だ
さない。
市民
しみん
の
多様
たよう
な
階層
かいそう
から
成
な
り
立
た
つ
社会
しゃかい
では、
必
かなら
ずや
一部
いちぶ
の
人々
ひとびと
が
高
たか
い
地位
ちい
を
占
し
め るはずであり、
従
したが
って、
水平
すいへい
化
か
する
人間
にんげん
は
事物
じぶつ
の
自然
しぜん
的
てき
秩序
ちつじょ
を
改変
かいへん
し
歪曲
わいきょく
するだけである。」(
岩波
いわなみ
文庫
ぶんこ
版
ばん
(
上
うえ
) p.92)
アメリカで
世界
せかい
初
はつ
の
国勢調査
こくせいちょうさ
「
アメリカ合衆国
あめりかがっしゅうこく
、ピッツバーグの
博物館
はくぶつかん
には、
新設
しんせつ
されたネイティブ・アメリカンの
展示
てんじ
場
じょう
がある。このビデオの
中
なか
で、ある
女性
じょせい
が「
私
わたし
たちインディ アンはこれまでいろいろな
形
かたち
で
白人
はくじん
に
殺
ころ
されてきた。ある
時
とき
は
銃
じゅう
で、ある
時
とき
は
病気
びょうき
で。しかしセンサスによって
皆殺
みなごろ
しにされた」と
一人
ひとり
語
かた
りのように
語
かた
っていた のが
印象
いんしょう
的
てき
であった。それは
初期
しょき
の
国勢調査
こくせいちょうさ
では、
課税
かぜい
されていないインディアンは
国勢調査
こくせいちょうさ
人口
じんこう
にされなかったことを
意味
いみ
している。
換言
かんげん
すれば、
当時
とうじ
のアメ リカにインディアンは
存在
そんざい
しなかったことになる。
別
べつ
立
だ
ての
調査
ちょうさ
票
ひょう
を
使
つか
って、
保留
ほりゅう
地
ち
のインディアン
人口
じんこう
について
初
はじ
めての
調査
ちょうさ
が
行
おこな
われたのは1900
年
ねん
であっ た。」(
青柳
あおやぎ
真智子
まちこ
編
へん
『
国勢調査
こくせいちょうさ
の
文化
ぶんか
人類
じんるい
学
がく
』p.11)
1791
年
ねん
混浴
こんよく
禁止
きんし
令
れい
「
構造
こうぞう
化
か
された
体系
たいけい
が、
本来
ほんらい
、
矛盾
むじゅん
・
対立
たいりつ
の
関係
かんけい
を
内在
ないざい
する
支配
しはい
の
体系
たいけい
であることを
繰返
くりかえ
すまでもないものとするなら、
構造
こうぞう
化
か
の
未
み
成立
せいりつ
な
状態
じょうたい
は、
矛
ほこ
盾
たて
・
対立
たいりつ
の
関係
かんけい
を
容易
ようい
に
運動
うんどう
に
転化
てんか
せしめる
状況
じょうきょう
であることも
明
あき
らかである。
細民
さいみん
層
そう
の
貨幣
かへい
である
銭
ぜに
の
金
かね
銀貨
ぎんか
に
対
たい
する
価値
かち
の
低下
ていか
によつて
増幅
ぞうふく
された
日常
にちじょう
生活
せいかつ
物
ぶつ
資
し
の
小売
こうり
価格
かかく
の
急激
きゅうげき
な
騰貴
とうき
に
基
もとづ
く
生活
せいかつ
難
なん
という
起爆
きばく
材
ざい
が、まず
場末
ばすえ
町
まち
細民
さいみん
層
そう
を
蜂起
ほうき
させ、それが
一応
いちおう
構造
こうぞう
化
か
されていた
中心
ちゅうしん
部
ぶ
細民
さいみん
層
そう
の
広範
こうはん
な
運動
うんどう
を
誘発
ゆうはつ
させた。
江戸
えど
大
だい
打
だ
毀の
経過
けいか
の
示
しめ
すものが、そこに
存
そん
するとみるのである。
それ
故
ゆえ
にこそ、
打
だ
毀後の
江戸
えど
町
まち
政
せい
の
力点
りきてん
のひとつは、
場末
ばすえ
町
まち
の
構造
こうぞう
化
か
に
据
す
えられたのであつたと
思
おも
う。
男女
だんじょ
混浴
こんよく
禁止
きんし
令
れい
は、
湯屋
ゆや
組合
くみあい
の
番組
ばんぐみ
制
せい
への
組織
そしき
化
か
を
町民
ちょうみん
一般
いっぱん
の
反対
はんたい
にも
拘
かかわ
らず
強行
きょうこう
しようとする
権力
けんりょく
側
がわ
の
意図
いと
につらなるものであつたことを
思
おも
い
起
おこ
すならば、それは
単
たん
なる
風俗
ふうぞく
矯正
きょうせい
を
目的
もくてき
としたものではなく、
場末
ばすえ
町
まち
対策
たいさく
の
一環
いっかん
であつたと
解
かい
すべきであると
筆者
ひっしゃ
は
考
かんが
えるのであり、そこには
構造
こうぞう
化
か
されていた
筈
はず
の
中心
ちゅうしん
街
がい
細民
さいみん
層
そう
の
蜂起
ほうき
に
表
おもて
われている
在来
ざいらい
の
体系
たいけい
的
てき
秩序
ちつじょ
の
大
おお
きな
揺
ゆら
らぎと
共
とも
に、
近世
きんせい
都市
とし
の
歴史
れきし
に
一
いち
時期
じき
を
画
かく
する
天明
てんめい
江戸
えど
大
だい
打
だ
毀の
意味
いみ
と、
事態
じたい
を
収拾
しゅうしゅう
しようと
計
はか
る
権力
けんりょく
側
がわ
の
政策
せいさく
意図
いと
の
方向
ほうこう
を
理解
りかい
するための、ひとつの
手掛
てがか
りが
含
ふく
まれていると
思
おも
うのである。」(
中井
なかい
信彦
のぶひこ
「
寛政
かんせい
の
混浴
こんよく
禁止
きんし
令
れい
をめぐって」『
史学
しがく
』p.128-129)
モーツアルト『
魔
ま
笛
ふえ
』『レクイエム』
1792
年
ねん
コンドルセ「
公
おおやけ
教育
きょういく
の
全般
ぜんぱん
的
てき
組織
そしき
についての
報告
ほうこく
と
法案
ほうあん
」
「
教育
きょういく
の
目的
もくてき
諸君
しょくん
、
人類
じんるい
に
属
ぞく
するすべての
個人
こじん
に、みずからの
欲求
よっきゅう
を
満
み
たし、
幸福
こうふく
を
保証
ほしょう
し、
権利
けんり
を
認識
にんしき
して
行使
こうし
し、
義務
ぎむ
を
理解
りかい
して
履行
りこう
する
手段
しゅだん
を
提供
ていきょう
すること。
各人
かくじん
がその
生業
せいぎょう
を
完成
かんせい
し、
各人
かくじん
が
就
つ
く
権利
けんり
のある
社会
しゃかい
的
てき
職務
しょくむ
の
遂行
すいこう
を
可能
かのう
にし、
自然
しぜん
から
受
う
け
取
と
った
才能
さいのう
を
完全
かんぜん
に
開花
かいか
させ、そのことによって
市民
しみん
間
あいだ
の
事実
じじつ
上
じょう
の
平等
びょうどう
を
確立
かくりつ
し、
法
ほう
によって
認
みと
められた
政治
せいじ
的
てき
平等
びょうどう
を
現実
げんじつ
のものにする
方策
ほうさく
を
保証
ほしょう
すること。
これらのことが
国民
こくみん
教育
きょういく
の
第
だい
一
いち
の
目的
もくてき
でなければならない。そしてこの
観点
かんてん
からすれば、
国民
こくみん
の
教育
きょういく
は
公権力
こうけんりょく
にとって
当然
とうぜん
の
義務
ぎむ
である。」(コンドルセ
他
た
著
ちょ
『フランス
革命
かくめい
期
き
の
公
おおやけ
教育
きょういく
論
ろん
』p.11)
ラボー・サン=テチエンヌ「
国民
こくみん
教育
きょういく
案
あん
」
「
国民
こくみん
教育
きょういく
は
心
しん
を
鍛
きた
えなければならない。
公
おおやけ
教育
きょういく
は
知識
ちしき
を
与
あた
え、
国民
こくみん
教育
きょういく
は
美徳
びとく
を
与
あた
えなければならない。
前者
ぜんしゃ
は
社会
しゃかい
の
輝
かがや
きをなし、
後者
こうしゃ
は
社会
しゃかい
の
内実
ないじつ
と
力
ちから
をなすであるだろう。
公
おおやけ
教育
きょういく
には、リセやコレージュやアカデミーや
書物
しょもつ
や
計算
けいさん
の
道具
どうぐ
や
方法
ほうほう
が
必要
ひつよう
であり、
壁
かべ
のなかに
閉
と
じこもって
行
おこ
なわれる。
国民
こくみん
教育
きょういく
には、
円形
えんけい
競技
きょうぎ
場
じょう
や
体育館
たいいくかん
や
武具
ぶぐ
や
公開
こうかい
競技
きょうぎ
や
国民
こくみん
の
祭典
さいてん
が
必要
ひつよう
であり、
年齢
ねんれい
や
性別
せいべつ
にかかわらない
友愛
ゆうあい
の
競技
きょうぎ
会
かい
、
威厳
いげん
に
満
み
ちた
甘美
かんび
な
人間
にんげん
社会
しゃかい
の
結集
けっしゅう
のスペク タクルが
必要
ひつよう
である。
国民
こくみん
教育
きょういく
は
広
ひろ
い
空間
くうかん
と
野外
やがい
で
行
おこ
なわれる
自然
しぜん
のスペクタクルを
要求
ようきゅう
するのである。
国民
こくみん
教育
きょういく
は
全員
ぜんいん
に
必要
ひつよう
な
栄養
えいよう
物
ぶつ
であり、
公
おおやけ
教育
きょういく
は
若干
じゃっかん
の
人々
ひとびと
の
分
わ
け
前
まえ
である。
両者
りょうしゃ
は
姉妹
しまい
だが、
国民
こくみん
教育
きょういく
が
姉
あね
である。それどころか、
国民
こくみん
教育
きょういく
は
全
ぜん
市民
しみん
の
共通
きょうつう
の
母
はは
である。
国民
こくみん
教育
きょういく
は、
全
ぜん
市民
しみん
に
同
おな
じ
乳
ちち
を
与
あた
え、
彼
かれ
らを
兄弟
きょうだい
として
育
そだ
て
扱
あつか
い、
共通
きょうつう
の
心
しん
遣
づか
いによって、このように
育
そだ
てられた
人民
じんみん
を
他
た
のすべての
人民
じんみん
から
分
わ
かつ、たがいに
似通
にかよ
った
家族
かぞく
的
てき
雰囲気
ふんいき
を
彼
かれ
らに
与
あた
えるのであ る。したがって、
国民
こくみん
教育
きょういく
の
全
ぜん
原則
げんそく
は
揺
ゆ
りかごの
段階
だんかい
から、さらに
誕生
たんじょう
の
前
まえ
から
人間
にんげん
をとらえることにある。
生
う
まれる
前
まえ
からというのは、
子供
こども
は
生
う
まれる
前
まえ
から
祖国
そこく
に
属
ぞく
しているからである。
国民
こくみん
教育
きょういく
はすべての
人間
にんげん
をずっととらえつづけるのであり、したがって
国民
こくみん
教育
きょういく
は、
子供
こども
のためというのではなくて
人生
じんせい
全体
ぜんたい
のた めの
制度
せいど
なのである。」(コンドルセ
他
た
著
ちょ
『フランス
革命
かくめい
期
き
の
公
おおやけ
教育
きょういく
論
ろん
』p.158-159)
ロシア
使節
しせつ
ラクスマンが、
漂流
ひょうりゅう
民
みん
大黒屋
だいこくや
幸
こう
(
光
ひかり
)
太夫
たゆう
を
移送
いそう
し
根室
ねむろ
に
来航
らいこう
。
通商
つうしょう
を
求
もと
める
1793
年
ねん
喜多川
きたがわ
歌麿
うたまろ
『
寛政
かんせい
三
さん
美人
びじん
』
ル
る
ー
ブル美術館
ぶるびじゅつかん
開館
かいかん
フランス、
旧
きゅう
制度
せいど
の
特権
とっけん
的
てき
団体
だんたい
としてパリ
大学
だいがく
を
廃止
はいし
ルペルティエ「
国民
こくみん
教育
きょういく
案
あん
」
「
体力
たいりょく
と
健康
けんこう
につづいて、
公立
こうりつ
学寮
がくりょう
が
全員
ぜんいん
に
与
あた
えるべき
計
はか
り
知
し
れない
利益
りえき
がある。
私
わたし
が
言
い
いたいのは
労働
ろうどう
の
習慣
しゅうかん
である。
ここではあれこれの
産業
さんぎょう
については
何
なに
もふれない。しかし
一般
いっぱん
に、
骨
ほね
の
折
お
れる
仕事
しごと
に
取
と
り
組
く
む
勇気
ゆうき
、それを
実行
じっこう
する
活動
かつどう
、それをつづける
粘
ねば
り
強
づよ
さ、
達成
たっせい
する
根気
こんき
、これらこそ
勤勉
きんべん
な
人間
にんげん
の
特徴
とくちょう
だと
考
かんが
えている。
このような
人間
にんげん
を
育
そだ
てたまえ。そうすれば、
共和
きょうわ
国
こく
はまもなく
壮健
そうけん
な
要素
ようそ
で
形作
かたちづく
られ、
農業
のうぎょう
と
産業
さんぎょう
の
生産
せいさん
物
ぶつ
は
倍加
ばいか
するであろう。
このような
人間
にんげん
を
育
そだ
てたまえ。そうすれば、ほとんどすべての
犯罪
はんざい
は
消滅
しょうめつ
するだろう。このような
人間
にんげん
を
育
そだ
てたまえ。そうすれば、
貧困
ひんこん
の
忌
い
まわしい
光景
こうけい
が
諸
しょ
君
きみ
の
目
め
を
悲
かな
しませることはもはやなくなるであろう。
諸君
しょくん
の
若
わか
い
生徒
せいと
たちの
心
しん
のなかに、このような
好
この
み、
欲求
よっきゅう
、
労働
ろうどう
の
習慣
しゅうかん
を
作
つく
り
出
だ
したまえ。そうすれば、
彼
かれ
らの
生活
せいかつ
は
保障
ほしょう
され、
彼
かれ
らは
自分
じぶん
自身
じしん
にしか
依存
いぞん
し なくなるであろう。」(コンドルセ
他
た
著
ちょ
『フランス
革命
かくめい
期
き
の
公
おおやけ
教育
きょういく
論
ろん
』p.188-189)
ロム「
共和
きょうわ
暦
れき
についての
報告
ほうこく
」
「
市民
しみん
諸君
しょくん
、
私
わたし
は、
公
おおやけ
教育
きょういく
委員
いいん
会
かい
の
名
な
において、
諸君
しょくん
が
委員
いいん
会
かい
に
求
もと
めた
共和
きょうわ
暦
れき
にかんする
審議
しんぎ
の
結果
けっか
を
提案
ていあん
し、
諸君
しょくん
の
審議
しんぎ
にゆだねよう。
諸君
しょくん
は、
技術
ぎじゅつ
と
人間
にんげん
の
精神
せいしん
の
進歩
しんぽ
にとってもっとも
重要
じゅうよう
で、
革命
かくめい
期
き
にしか
成功
せいこう
しない
仕事
しごと
の
一
ひと
つを
企
くわだ
てた。すなわち、たえず
商業
しょうぎょう
と
産業
さんぎょう
を
阻害
そがい
してきた
度量衡
どりょうこう
の
多様
たよう
性
せい
、
一貫
いっかん
性
せい
の
欠如
けつじょ
、
不正確
ふせいかく
さを
解消
かいしょう
し、
地球
ちきゅう
の
尺度
しゃくど
そのものにもとづいた、
単一
たんいつ
で
不変
ふへん
の
新
あたら
しい
尺度
しゃくど
のタイプを
採用
さいよう
することである。
技術
ぎじゅつ
と
歴史
れきし
にとって、
時間
じかん
は
一
ひと
つの
要素
ようそ
ないし
道具
どうぐ
であり、
技術
ぎじゅつ
と
歴史
れきし
は、また、
時間
じかん
の
新
あたら
しい
尺度
しゃくど
、すなわち、
信
しん
じやすい
人々
ひとびと
と
迷信
めいしん
に
満
み
ちた
因習
いんしゅう
によって
同
おな
じように
無知
むち
の
時代
じだい
から
現代
げんだい
まで
伝
つた
えられてきた
誤謬
ごびゅう
から
解放
かいほう
された
時間
じかん
の
新
あたら
しい
尺度
しゃくど
を、
諸君
しょくん
に
求
もと
めている。」(コンドルセ
他
た
著
ちょ
『フランス
革命
かくめい
期
き
の
公
おおやけ
教育
きょういく
論
ろん
』p.239-240)
1794
年
ねん
東洲斎写楽
とうしゅうさいしゃらく
『
市川
いちかわ
鰕
えび
蔵
ぞう
』
テルミドールのクーデター、ロベスピエールやサン・ジュスト
処刑
しょけい
「この
近代
きんだい
的
てき
イメージにぴったりするリアリティは、
十
じゅう
九
きゅう
世紀
せいき
以来
いらい
われわれが
社会
しゃかい
問題
もんだい
と
呼
よ
ぶようになっているもの、もっとも
端
はし
的
てき
に
貧困
ひんこん
の
存在
そんざい
と
呼
よ
ん でいるものである。
貧困
ひんこん
と
剥奪
はくだつ
以上
いじょう
のものである。すなわち、それは
絶
た
えざる
欠乏
けつぼう
の
状態
じょうたい
であり、
痛
いた
ましくも
悲惨
ひさん
な
状態
じょうたい
であって、それが
恥
は
ずべきなのは、
人間
にんげん
を
非
ひ
人間
にんげん
化
か
してしまう
力
ちから
をもっているからである。
貧困
ひんこん
が
卑
いや
しむべきものであるのは、それが
人間
にんげん
を
肉体
にくたい
の
絶対
ぜったい
的
てき
命令
めいれい
のもとに、すなわち、すべての
人
ひと
が
別
べつ
に
考
かんがえ
えなくても
自分
じぶん
のもっとも
直接的
ちょくせつてき
な
経験
けいけん
から
知
し
っている
必然
ひつぜん
性
せい
(ネセシティ)の
絶対
ぜったい
命令
めいれい
のもとに、おくからである。
群衆
ぐんしゅう
がフランス
革命
かくめい
の
援助
えんじょ
に
殺到
さっとう
し、それ を
鼓舞
こぶ
し、
前進
ぜんしん
させ、そして
最後
さいご
にはそれを
滅亡
めつぼう
に
追
お
いこんだのも、この
必然
ひつぜん
性
せい
〔
貧窮
ひんきゅう
〕が
彼
かれ
らを
支配
しはい
したからであった。
彼
かれ
らは
貧民
ひんみん
の
群集
ぐんしゅう
だったからである。
彼
かれ
らが
政治
せいじ
の
舞台
ぶたい
にあらわれたとき、
必然
ひつぜん
性
せい
〔
貧窮
ひんきゅう
〕は
彼
かれ
らとともにあらわれた。そして、その
結果
けっか
、
旧
きゅう
制度
せいど
の
権力
けんりょく
は
無力
むりょく
となり、
他方
たほう
新
あたら
しい
共和
きょうわ
国
こく
は
死産
しざん
し た。
自由
じゆう
は
必然
ひつぜん
性
せい
〔
貧窮
ひんきゅう
〕に、すなわち、
生命
せいめい
過程
かてい
そのものの
切迫
せっぱく
に
身
み
を
委
ゆだ
ねなければならなかったのである。ロベスピエールは「
生命
せいめい
を
維持
いじ
するのに
必要
ひつよう
なも のはすべて
公共
こうきょう
の
財産
ざいさん
でなければならない。
剰余
じょうよ
だけが
私的
してき
な
財産
ざいさん
として
認
みと
められる」と
述
の
べた。(…)
最後
さいご
にいたってロベスピエールは(その
最後
さいご
の
演説
えんぜつ
のな かで)
予言
よげん
のかたちで
定式
ていしき
化
か
したように、
何
なに
が
起
おこ
ったのかはっきりと
気
き
づいた。
彼
かれ
はこう
述
の
べたのである。「
人類
じんるい
史
し
のなかでわれわれが
自由
じゆう
を
創設
そうせつ
する
瞬間
しゅんかん
を
逸
いっ
してしまった
以上
いじょう
、われわれは
滅
ほろ
びるだろう。」「
歴史
れきし
的
てき
瞬間
しゅんかん
」を
逸
いっ
するほど
彼
かれ
らを
長
なが
いあいだ
悩
なや
ませてきたのは
国王
こくおう
や
暴君
ぼうくん
の
陰謀
いんぼう
ではなく、それよりはるかに
強力
きょうりょく
な
必然
ひつぜん
性
せい
〔
貧窮
ひんきゅう
〕の
陰謀
いんぼう
であった。この
間
あいだ
に
革命
かくめい
はその
方向
ほうこう
を
変
か
え、もはや
自由
じゆう
が
革命
かくめい
の
目的
もくてき
ではなくなっていた。すなわち、
革命
かくめい
はその
目的
もくてき
を
人民
じんみん
の
幸福
こうふく
におくようになっていたのである。」(ハンナ・アレント『
革命
かくめい
について』p.90-92)
フランス、エコール・ポリテクニーク
創設
そうせつ
「まずわれわれは
一
いち
九
きゅう
七
なな
四
よん
年
ねん
という
創設
そうせつ
の
年代
ねんだい
に
注目
ちゅうもく
する
必要
ひつよう
がある。まさにフランス
革命
かくめい
のさなかである。
当時
とうじ
のフランスはヨーロッパ
諸国
しょこく
と
戦
たたか
って いた。
隣国
りんごく
との
戦争
せんそう
に
勝利
しょうり
するためには、
優
すぐ
れた
高級
こうきゅう
技術
ぎじゅつ
将校
しょうこう
が
欠
か
かせなかった。その
当時
とうじ
、フランスにも
中世
ちゅうせい
に
起源
きげん
を
持
も
つ
大学
だいがく
はあった。しかし、ドイツの
章
しょう
でも
触
ふ
れたように、
当時
とうじ
の
大学
だいがく
はすでに
教育
きょういく
活動
かつどう
、
研究
けんきゅう
活動
かつどう
が
低下
ていか
し、
人材
じんざい
育成
いくせい
の
責任
せきにん
を
果
は
たせる
状態
じょうたい
ではなかった。だからナポレオンは
大学
だいがく
を
廃止
はいし
してしまっ た。その
後
ご
、フランスは
一
いち
八
はち
九
きゅう
六
ろく
年
ねん
まで、
大学
だいがく
不在
ふざい
の
時代
じだい
に
入
はい
る。(…)
こうした
空白
くうはく
状態
じょうたい
を
埋
う
めるために
登場
とうじょう
したのがエコール・ポリテクニークである。はじめは、
革命
かくめい
、それに
引
ひ
き
続
つづ
く
混乱
こんらん
期
き
の
人材
じんざい
不足
ふそく
に
応
おう
じるための
臨時
りんじ
的
てき
な
養成
ようせい
所
しょ
であったが、それだけでは
終
お
わらなかった。
大学
だいがく
が
消滅
しょうめつ
した
後
のち
のフランスにとっては、
理工
りこう
系
けい
の
理論
りろん
と
技術
ぎじゅつ
を
教育
きょういく
する
唯一
ゆいいつ
の
高等
こうとう
教育
きょういく
機関
きかん
となった。 (…)
この
学校
がっこう
は
日本語
にほんご
に
翻訳
ほんやく
される
時
とき
「
陸軍
りくぐん
理工
りこう
科
か
学校
がっこう
」と
訳
やく
されることがあるが、その
理由
りゆう
は、
文部省
もんぶしょう
所管
しょかん
ではなく、
国防省
こくぼうしょう
の
所管
しょかん
であるためである。
名称
めいしょう
か ら、その
卒業生
そつぎょうせい
が
軍務
ぐんむ
に
就
つ
くものと
思
おも
われがちだが、
現在
げんざい
では
軍務
ぐんむ
に
就
つ
くものは
一
いち
割
わり
以下
いか
でしかない。しかし
入学
にゅうがく
すると、まず
一
いち
年間
ねんかん
は
軍務
ぐんむ
に
就
つ
き、
二
に
年
ねん
目
め
から
教育
きょういく
が
始
はじ
まる。つまり
三
さん
年間
ねんかん
の
教育
きょういく
課程
かてい
だが、
実質
じっしつ
的
てき
には
二
に
年間
ねんかん
しかないので、
卒業
そつぎょう
後
ご
、さらにほかのグランゼコールに
進学
しんがく
するものが
多
おお
い。」(
潮
しお
木守
こもり
一
いち
『
世
よ
界
かい
の
大学
だいがく
危機
きき
』p.124-125)
1795
年
ねん
スピーナムランド
法
ほう
制定
せいてい
「イギリスでは、
労働
ろうどう
に
先
さき
んじて、
土地
とち
と
貨幣
かへい
が
流動
りゅうどう
化
か
された。
労働
ろうどう
についてはその
物理
ぶつり
的
てき
移動
いどう
にたいする
厳
きび
しい
法的
ほうてき
制限
せいげん
によって、
全国
ぜんこく
的
てき
な
労働
ろうどう
市場
いちば
の
形成
けいせい
が
妨
さまた
げられていた。というのは、
労働
ろうどう
者
しゃ
は、
事実
じじつ
上
じょう
、
教区
きょうく
に
拘束
こうそく
されていたからである。
一
いち
六
ろく
六
ろく
二
に
年
ねん
の
定住
ていじゅう
法
ほう
は、いわゆる
教区
きょうく
農奴
のうど
制
せい
の
規則
きそく
を
定
さだ
めていた が、それは
一
いち
七
なな
九
きゅう
五
ご
年
ねん
にいたりようやく
緩和
かんわ
された。この
緩和
かんわ
措置
そち
は、もしも
同年
どうねん
にスピーナムランド
法
ほう
もしくは「
給付
きゅうふ
金
きん
制度
せいど
」が
導入
どうにゅう
されなかったとすれば
全
ぜん
国
くに
的
てき
な
労働
ろうどう
市場
いちば
の
確立
かくりつ
を
可能
かのう
にしていたことであろう。このスピーナムランド
法
ほう
の
意図
いと
するところとは
逆
ぎゃく
であった。すなわち、それはテューダー
朝
あさ
やステュアー ト
朝
あさ
から
継承
けいしょう
されてきた
温情
おんじょう
主義
しゅぎ
的
てき
な
労働
ろうどう
組織
そしき
のシステムを
強力
きょうりょく
に
補完
ほかん
するものであった。
一
いち
七
なな
九
きゅう
五
ご
年
ねん
五
ご
月
がつ
六
ろく
日
にち
――
当時
とうじ
は、
大変
たいへん
な
不
ふ
況
きょう
の
時期
じき
であった――に、 ニューベリーに
近
ちか
いスピーナムランドのペリカン
館
かん
に
会
かい
したバークシャーの
治安
ちあん
判事
はんじ
たちは、
賃金
ちんぎん
扶助
ふじょ
の
額
がく
はパンの
価格
かかく
に
応
おう
じて
決
き
められるべきであり、した がって
貧民
ひんみん
の
個々
ここ
の
所得
しょとく
に
関係
かんけい
なく
最低
さいてい
所得
しょとく
が
保証
ほしょう
されるべきだと
決定
けってい
した。(…)なるほど、
賃金
ちんぎん
システムがスピーナムランドで
認
みと
められたような「
生存
せいぞん
権
けん
」 の
撤廃
てっぱい
を
絶対
ぜったい
に
必要
ひつよう
としているということは
何
なに
にもまして
自明
じめい
なことであった。
新
あたら
しい、
経済
けいざい
人
じん
の
体制
たいせい
の
下
した
では、
何
なん
の
労働
ろうどう
もせずに
生計
せいけい
を
立
た
てられるものとすれ ば
誰
だれ
も
賃金
ちんぎん
のために
働
はたら
きはしないであろうから。」(ポラニー『
大
だい
転換
てんかん
』p.104-105)
メ
め
ー
トル法
とるほう
制定
せいてい
1798
年
ねん
マルサス『
人口
じんこう
論
ろん
』
「
貧
まず
しい
労働
ろうどう
者
しゃ
の
安楽
あんらく
が、
労働
ろうどう
の
維持
いじ
に
予定
よてい
されている
基金
ききん
の
増大
ぞうだい
に
依存
いぞん
するものであり、そして、この
増大
ぞうだい
の
運動
うんどう
にきわめて
正確
せいかく
に
比例
ひれい
することは、 ほとんどあるいはまったく、うたがいの
存在
そんざい
しえないことである。このような
増大
ぞうだい
がひきおこす
労働
ろうどう
需要
じゅよう
は、
市場
いちば
での
競争
きょうそう
をつくりだすことによって、
必然
ひつぜん
的
てき
に
労働
ろうどう
の
価値
かち
を
騰貴
とうき
させるにちがいないし、また
必要
ひつよう
な
数
かず
の
追加
ついか
労働
ろうどう
者
しゃ
が
成長
せいちょう
するまで、
増大
ぞうだい
した
基金
ききん
は、
増大
ぞうだい
する
前
まえ
と
同
おな
じ
人数
にんずう
に
分配
ぶんぱい
され、したがってすべての
労働
ろうどう
者
しゃ
が
比較的
ひかくてき
安楽
あんらく
に
生活
せいかつ
するであろう。しかしおそくら、アダム・スミス
博士
はかせ
は、
社会
しゃかい
の
収入
しゅうにゅう
あるいは
資材
しざい
のすべての
増大
ぞうだい
がこれら
基金
ききん
の
増加
ぞうか
であると
考
かんが
えて いることで、まちがっている。このような
剰余
じょうよ
の
資材
しざい
あるいは
収入
しゅうにゅう
は
実際
じっさい
つねに、それを
所有
しょゆう
する
個人
こじん
によって、もっとおおくの
労働
ろうどう
を
維持
いじ
できる
追加
ついか
基金
ききん
と
考
こう
えられるであろうが、しかしそれは、
社会
しゃかい
の
資材
しざい
あるいは
収入
しゅうにゅう
の
増大
ぞうだい
の
全部
ぜんぶ
、あるいはすくなくとも
大
だい
部分
ぶぶん
がそれに
比例
ひれい
した
量
りょう
の
食料
しょくりょう
にかえられないかぎり、
追
つい
加
か
労働
ろうどう
者
しゃ
数
すう
の
維持
いじ
のための
真実
しんじつ
かつ
有効
ゆうこう
な
基金
ききん
ではないであろうし、またそれは、その
増加
ぞうか
が
労働
ろうどう
の
生産
せいさん
物
ぶつ
からだけ
生
しょう
じたのであって、
土地
とち
の
生産
せいさん
物
ぶつ
から
生
しょう
じた のではないばあいには、
食料
しょくりょう
にかえられるものではないであろう。このばあい、
社会
しゃかい
の
資材
しざい
が
雇用
こよう
しうる
労働
ろうどう
者
しゃ
の
数
かず
と
土地
とち
が
扶養
ふよう
しうるその
数
かず
との
区別
くべつ
が、
生
しょう
じ るであろう。」(
角川
かどかわ
文庫
ぶんこ
版
ばん
p.177-178)
「この
国
くに
の
対外
たいがい
ならびに
対内
たいない
取引
とりひき
はたしかに、
前
ぜん
世紀
せいき
に
急速
きゅうそく
に
増大
ぞうだい
した。ヨーロッパ
市場
いちば
において、その
土地
とち
と
労働
ろうどう
との
年々
ねんねん
の
生産
せいさん
物
ぶつ
の
交換
こうかん
価値
かち
は、う たがいもなくひじょうにおおきく
増大
ぞうだい
した。しかし、
検討
けんとう
してみると、その
増大
ぞうだい
はおもに
労働
ろうどう
の
生産
せいさん
物
ぶつ
についてであって、
土地
とち
の
生産
せいさん
物
ぶつ
ではなく、したがって
国
くに
民
みん
の
富
とみ
ははやい
速度
そくど
で
増大
ぞうだい
してきたけれども、
労働
ろうどう
の
維持
いじ
のための
有効
ゆうこう
な
基金
ききん
ははきわめてゆっくりとしか
増大
ぞうだい
せず、そしてその
結果
けっか
は、
予期
よき
されるとおりのも のであることが、わかるであろう。
国民
こくみん
の
富
とみ
の
増大
ぞうだい
は、
貧
まず
しい
労働
ろうどう
者
しゃ
の
状態
じょうたい
を
改善
かいぜん
する
傾向
けいこう
をほとんど、あるいはまったくもたない。かれらは、
生活
せいかつ
必需
ひつじゅ
品
ひん
と
便
びん
宜
よろし
品
ひん
にたいする
支配
しはい
権
けん
を
増大
ぞうだい
させていないと、わたくしは
信
しん
じる。そして、かれらのうち、(
名誉
めいよ
)
革命
かくめい
の
時期
じき
よりはるかにおおくの
部分
ぶぶん
が、
製造
せいぞう
工業
こうぎょう
に
雇用
こよう
さ れて、
密閉
みっぺい
した
不健全
ふけんぜん
な
部屋
へや
にむらがっている。」(p.180-181)
1799
年
ねん
ブリュメールのクーデター。ナポレオンが
総裁
そうさい
政府
せいふ
を
倒
たお
し、
執政
しっせい
政府
せいふ
を
樹立
じゅりつ
「われわれは、
一
いち
七
なな
八
はち
九
きゅう
年
ねん
以後
いご
、フランスの
政治
せいじ
構造
こうぞう
全体
ぜんたい
をその
基盤
きばん
から
頂点
ちょうてん
にいたるまで、
完全
かんぜん
に
変
か
えてしまった
革命
かくめい
をいくつか
見
み
てきている。その ほとんどはまったく
突然
とつぜん
に
勃発
ぼっぱつ
し、
暴力
ぼうりょく
によって
遂行
すいこう
され、
現行
げんこう
の
法律
ほうりつ
を
公然
こうぜん
と
犯
おか
していた。ところが、これらの
革命
かくめい
がもたらした
混乱
こんらん
は
決
けっ
して
長続
ながつづ
きしなかっ たし、
全国
ぜんこく
に
波及
はきゅう
することもなかった。
大
だい
多数
たすう
の
国民
こくみん
は、
革命
かくめい
に
心
こころ
動
うご
かされることがほとんどなく、
時
とき
にはそれが
革命
かくめい
だということに
気
き
づくことさえないほど だった。 それは、
一
いち
七
なな
八
はち
九
きゅう
年
ねん
以降
いこう
、
政治
せいじ
制度
せいど
の
度重
たびかさ
なる
崩壊
ほうかい
のただ
中
なか
にあっても、
行政
ぎょうせい
制度
せいど
がずっと
破壊
はかい
されずにいたからである。
国王
こくおう
個人
こじん
と
中央
ちゅうおう
権力
けんりょく
の
諸
しょ
形式
けいしき
は
変
へん
わったが、
公的
こうてき
なものの
日々
ひび
の
流
なが
れは、
中断
ちゅうだん
することも
混乱
こんらん
することもなかった。
各人
かくじん
は、とくに
自分
じぶん
と
関係
かんけい
のある
些事
さじ
については、
熟知
じゅくち
した
規則
きそく
と
慣例
かんれい
にずっ と
従
したが
っていた。(…)
最初
さいしょ
は
国王
こくおう
の
名
な
において、
次
つぎ
は
共和
きょうわ
制
せい
の
名
な
において、
最後
さいご
には
皇帝
こうてい
の
名
な
において、
裁判
さいばん
と
行政
ぎょうせい
を
行
おこな
ったのは
従来
じゅうらい
と
同
おな
じ
役人
やくにん
だった。
運命
うんめい
は
自
みずか
らの
車輪
しゃりん
で
従来
じゅうらい
と
同
おな
じ
回転
かいてん
をしていたから、
同
おな
じ
役人
やくにん
が、
国王
こくおう
のために、
共和
きょうわ
制
せい
のために、
皇帝
こうてい
のためにといった
具合
ぐあい
に、
同
おな
じ
回転
かいてん
で、しかも
同
おな
じやり
方
かた
で、
行政
ぎょうせい
と
裁判
さいばん
をそのたびごとに
再開
さいかい
していた。というのも、
役人
やくにん
にとって
支配
しはい
者
しゃ
の
名前
なまえ
などどうでもよかったからである。
役人
やくにん
の
本務
ほんむ
は、
市民
しみん
であることよりも、 よき
行政
ぎょうせい
官
かん
、よき
裁判官
さいばんかん
であることだった。だから、
最初
さいしょ
の
震動
しんどう
が
過
す
ぎ
去
さ
ってしまえば、
国中
くになか
どこも、そして
何
なに
も
揺
ゆ
れ
動
うご
かなかったかのように
感
かん
じられた。」 (アレクシス・ド・トクヴィル『
旧
きゅう
体制
たいせい
と
大
だい
革命
かくめい
』、p.397-398)
1800
年
ねん
オーウェン、「ニューラナーク
撚糸
ねんし
会社
かいしゃ
」
設立
せつりつ
「オウエンが
近代
きんだい
的
てき
労務
ろうむ
管理
かんり
制度
せいど
の
先駆
せんく
者
しゃ
と
言
い
われるゆえんは、
彼
かれ
の
方法
ほうほう
、つまり「
人間
にんげん
性
せい
に
関
かん
する
知識
ちしき
」を
意識
いしき
的
てき
に
適用
てきよう
した
点
てん
である。(…)
(…)
オウエンは、
賞罰
しょうばつ
など、
外
そと
から
加
くわ
えられる
力
ちから
によって、
人間
にんげん
を
操
あやつ
ることを
適切
てきせつ
なものとは
考
かんが
えなかった。
内
うち
発
はつ
的
てき
に
労働
ろうどう
意欲
いよく
を
引
ひ
きだすことが
環境
かんきょう
決定
けってい
論
ろん
の
眼目
がんもく
である。
日報
にっぽう
制
せい
も「サイレント・モニター
制
せい
」も、ともに
工場
こうじょう
の
動態
どうたい
を
数量
すうりょう
的
てき
に
把握
はあく
できるようにした
点
てん
で
合理
ごうり
的
てき
な
管理
かんり
方法
ほうほう
であった。また、
労働
ろうどう
の
評価
ひょうか
は
現場
げんば
の
管理
かんり
者
しゃ
が
一方
いっぽう
的
てき
に
下
くだ
すのではなく、
労働
ろうどう
者
しゃ
がその
判断
はんだん
に
不満
ふまん
である
場合
ばあい
には、
上級
じょうきゅう
の
管理
かんり
者
しゃ
に
不服
ふふく
を
申
もう
し
立
た
てる
権利
けんり
を
認
みと
めていた。
双方向
そうほうこう
の
対話
たいわ
が
成
な
りたつ
余
よ
地
ち
を
残
のこ
すことによって、
納得
なっとく
のいく
公正
こうせい
な
評価
ひょうか
となるシステムを
構築
こうちく
しようと
心
こころ
がけていた。
一種
いっしゅ
の「
不服
ふふく
審判
しんぱん
」
制度
せいど
の
先駆
せんく
となる
発想
はっそう
である。」(
土方
ひじかた
直史
なおふみ
『ロバート・オウエン』p.28-29)
「
労働
ろうどう
意欲
いよく
が
内
うち
発
はつ
的
てき
に
引
ひ
きだすためには、
経営
けいえい
者
しゃ
側
がわ
の
意図
いと
が、
労働
ろうどう
者
しゃ
に
素直
すなお
に
理解
りかい
され、
両者
りょうしゃ
の
間
あいだ
に
信頼
しんらい
関係
かんけい
が
築
きず
かれなければ
効果
こうか
的
てき
ではない。
次
つぎ
の
二
に
つの
方策
ほうさく
が
有効
ゆうこう
であった。
一
ひと
つは、
工場
こうじょう
の
売店
ばいてん
では、
全
ぜん
商品
しょうひん
を
原価
げんか
で
販売
はんばい
するという
方針
ほうしん
がとられた。
当時
とうじ
、
雇用
こよう
主
ぬし
は
賃金
ちんぎん
の
一部
いちぶ
を
現物
げんぶつ
で
支給
しきゅう
することが
一般
いっぱん
的
てき
であった。その
場合
ばあい
、しばしば
高
たか
い
価格
かかく
がつけられたり、
粗悪
そあく
品
ひん
が
支給
しきゅう
されることがあった。
良質
りょうしつ
な
商品
しょうひん
が
公正
こうせい
な
価格
かかく
で
供給
きょうきゅう
されれば、
販売
はんばい
者
しゃ
たる
雇用
こよう
主
ぬし
への
信
しん
頼
よりゆき
を
高
たか
めることは
言
い
うまでもない。「
公正
こうせい
な
取引
とりひき
」が
日常
にちじょう
生活
せいかつ
のなかで
実感
じっかん
されるというメリットがあった。
もう
一
ひと
つは、
人間
にんげん
の
性格
せいかく
そのものを
教育
きょういく
によって
変
か
えて、
永続
えいぞく
的
てき
に
労働
ろうどう
意欲
いよく
を
向上
こうじょう
させる
企画
きかく
であった。そのために、
工場
こうじょう
の
敷地
しきち
内
ない
に
学校
がっこう
を
設立
せつりつ
するとの
計画
けいかく
が
構想
こうそう
された。(…)」(p.30)
伊能
いのう
忠敬
ちゅうけい
、
蝦夷
えぞ
を
測量
そくりょう
ワシントンD.C.に
遷都
せんと
UP:20040907 REV:20050523 20090214
◇
労働
ろうどう
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/w001.htm
TOP
HOME (http://www.arsvi.com)
◇