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橋口昌治「事件と言説:若者・教育・労働… 18世紀」
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事件じけん言説げんせつ若者わかもの教育きょういく労働ろうどう… 18世紀せいき

18世紀せいき 19世紀せいき 1901-1930 1931-1950 1951-1970 1971-1990 1991-

製作せいさく橋口はしぐち昌治しょうじ* 2004.09-


 *橋口はしぐち昌治しょうじ(はしぐち・しょうじ) 立命館大学りつめいかんだいがく大学院だいがくいん先端せんたん総合そうごう学術がくじゅつ研究けんきゅう(2003.4入学にゅうがく
  http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/g/hs01.htm

 ※大学院だいがくいんのHPにうつ予定よていですが、とりあえずここにきます。
  これから編集へんしゅうなどしてやすくします。(立岩たていわ


1753ねん
    安藤あんどう昌益しょうえき自然しぜん営道』

1758ねん
    フランソワ・ケネー『経済けいざいひょう』(Tableau economique)

1763ねん
    ルイ-ポール・アベイユ『穀物こくもつ通商つうしょう本性ほんしょうかんするいち卸売おろしうりしょう書簡しょかん
    「そして最後さいごに、いちななろくさんねんがつみことのりれいいちななろくよんねんはちがつみことのりれいる。このふたつのみことのりれいによって、いくつかの制限せいげんはあるにせよ穀物こくもつ取引とりひきのほぼ全面ぜんめんてき自由じゆうてられた。つまり、じゅうのう主義しゅぎしゃ勝利しょうりです。のみならずこれは、この主張しゅちょうを(グールネーの弟子でしたちといった直接ちょくせつじゅうのう主義しゅぎしゃではないが)支持しじ した人々ひとびと勝利しょうりでもあった。つまり、いちななろくよんねんといえば穀物こくもつ自由じゆうです。ところが不幸ふこうなことに、みことのりれいされたのは[いちなな]ろくよんねんはちがつです。[いちなな]ろくよん ねんきゅうがつおなねんすう週間しゅうかんですが、ギュイエンヌでの不作ふさくによって価格かかく天文学てんもんがくてき速度そくど上昇じょうしょうしてしまいました。ここですでに、穀物こくもつ自由じゆう撤回てっかいしなければ ならないのではないかといういがちはじめる。というわけでだいさん議論ぎろんこります。今度こんどじゅうのう主義しゅぎしゃ守勢しゅせいにまわった議論ぎろんです。じゅうのう主義しゅぎしゃたち(くわえ て、じゅうのう主義しゅぎしゃではないがおな原則げんそく支持しじするものたち)はここで、いちななろくよんねん時点じてんではほぼ完全かんぜん認知にんちさせていたあの自由じゆうをあらためて擁護ようごすることを余儀よぎな くされた。
 つまり、いちななろくよんねん前後ぜんこうには大量たいりょうのテクスト・企画きかく計画けいかく説明せつめいられるのです。わたしはただ[そのなかでも]もっと図式ずしきてき明白めいはくなものを参照さんしょうしようとおもいま す。これはそもそも大変たいへん重要じゅうようせいをもつテクストでもある。それはいちななろくさんねんのテクストで、『穀物こくもつ通商つうしょう本性ほんしょうかんするいち卸売おろしうりしょう書簡しょかん』といいます。ルイ- ポール・アベイユという人物じんぶつによってかれたものです。このアベイユはそのテクストのおよぼした影響えいきょうによっても、またグールネーの弟子でしとしてじゅうのう主義しゅぎ立場たちば大半たいはんをまとめてみせていることからも重要じゅうようです。つまり、かれはこの時代じだい経済けいざい思想しそうにおけるいち[たね]の蝶番ちょうつがいのような位置いち代表だいひょうしているということで す。」(ミシェル・フーコー『安全あんぜん領土りょうど人口じんこう』p.44)

    「(…)食糧難しょくりょうなんという出来事できごとはこのようにして二分にぶんされる。災禍さいかとしての食糧難しょくりょうなん消滅しょうめつしますが、しょ個人こじんなせる食糧しょくりょう不足ふそくのほうは消滅しょうめつしない。のみ ならず、それは消滅しょうめつしてはならない。
 つまり、ここにはふたつの水準すいじゅん現象げんしょうがあります。それは集団しゅうだんてき水準すいじゅん個人こじんてき水準すいじゅんのことではありません。というのもつまるところ、この不足ふそくによってぬ―― なないにしてもくるしむ――のはただ一人ひとり個人こじんだというわけではないからです。おおくの個人こじんくるしむ。おこなわれるのはまったく根本こんぽんてき分断ぶんだんです。その分断ぶんだん一方いっぽうには、統治とうち政治せいじ経済けいざいがくてき活動かつどうにとって適切てきせつとされる水準すいじゅんがある。人口じんこうという水準すいじゅんです。そして分断ぶんだん反対はんたいがわにあるのはおおくの個人こじん個人こじんれという水準すいじゅん です。こちらがわ適切てきせつとはされない。いやむしろ、ある条件じょうけんたすときにのみ適切てきせつとされる。しかるべく管理かんり維持いじ助成じょせいされたそれが、人口じんこうという適切てきせつがわ水準すいじゅん獲得かくとくほっされるとうのものを可能かのうにするかぎりでのみ、適切てきせつとされる。個人こじんれはもはや適切てきせつではない。それにたいして人口じんこう適切てきせつである。王国おうこく臣民しんみんぜん からだ住民じゅうみん全体ぜんたい内部ないぶもうけられるこの分断ぶんだん現実げんじつ分断ぶんだんではありません。現実げんじつ一方いっぽうがこちらにあり、他方たほうがあちらにあるというわけではない。そうではなく、 権力けんりょく内部ないぶ自体じたい(テクノロジーと経済けいざいてき管理かんり内部ないぶ自体じたい)において、人口じんこうという適切てきせつ水準すいじゅんと、適切てきせつでない水準すいじゅん(さらにはたん道具どうぐとしての水準すいじゅん)のあいだで の切断せつだんがおこなわれるということです。最終さいしゅうてき目標もくひょう人口じんこうとなります。人口じんこう目標もくひょうとして適切てきせつであり、それにたいしてしょ個人こじん一連いちれん個人こじんしょ個人こじんのグループ、 じんれのほうは、目標もくひょうとして適切てきせつではないということになる。後者こうしゃはただ、人口じんこう水準すいじゅんにおいてなにかを獲得かくとくするための道具どうぐ中継なかつぎ・条件じょうけんとしてのみ適切てきせつであ るにすぎない。」(ミシェル・フーコー『安全あんぜん領土りょうど人口じんこう』p.51-52)

    「人々ひとびとがそのようなことをれず、穀物こくもつ備蓄びちくびかかり、対価たいかはらうこともなくこれをれる。また、非合理ひごうりてき計算けいさんちがいの穀物こくもつしぶ りをする人々ひとびとがいる。そのように想定そうていすると、すべてがまってしまう。したがって、反乱はんらんこったり専有せんゆうこったりする。あるいは専有せんゆう反乱はんらん同時どうじおこり こる。ここでアベイユはつぎのようにいます。このようなことは、これらのひと現実げんじつには人口じんこうにはぞくしていないという証拠しょうこである。では、かれらはなになのか?そ う、かれらは人口じんこうではなく人民じんみんなのだ。人民じんみんとは、人口じんこう対象たいしょうとしてなされるこの管理かんりたいして、人口じんこうという水準すいじゅん自体じたいにおいて、あたかも自分じぶん人口じんこうというこのしゅう だんてき対象たいしょう集団しゅうだんてき主体しゅたい一部いちぶではないかのようにもののこと、自分じぶんがその外部がいぶいているかのようにもののことである。したがってかれらこ そ、自分じぶん人口じんこうであることを拒否きょひする人民じんみんとして、システムをくるわせるしゃたちなのだ。」(ミシェル・フーコー『安全あんぜん領土りょうど人口じんこう』p.53)

1776ねん
    連合れんごう13しゅうによる全会ぜんかい一致いっち宣言せんげん通称つうしょうアメリカ独立どくりつ宣言せんげん)を採択さいたく
    「アメリカの舞台ぶたいられなかったのは、貧困ひんこん(ポヴァティ)というよりはむしろ不幸ふこう(ミゼリー)と欠乏けつぼう(ウォント)であった。というのは「富者ふしゃ貧民ひんみん勤勉きんべんひと怠惰たいだひと知識ちしきのあるひと無知むちひとのあいだのあらそい」はやはりアメリカの舞台ぶたいでも非常ひじょうおおられ、建国けんこくしゃたちのしんにかかっていたからであ る。かれらは自分じぶんたちのくにゆたかであったにもかかわらず、このような区別くべつは「宇宙うちゅうおなじくらいふるくからあり、地球ちきゅうおなじくらい広大こうだいであり」、永遠えいえんであるとしんじ じていた。しかし、アメリカでは勤勉きんべんひとまずしかったが、みじめ(ミゼラブル)ではなかった。イギリスとヨーロッパ大陸たいりくからきた旅行りょこうしゃたちは「いち〇〇マ イルをくあいだ、わたし物乞ものごいする人間にんげん一人ひとりとして出会であわなかった」(アンドルー・バーナビー)ということをひとしくみとめ、ひとしく驚嘆きょうたんしている。したがって かれらは欠乏けつぼうによってはうごかされず、革命かくめいかれらによってくつがえされなかった。かれらが提出ていしゅつした問題もんだい社会しゃかいてき問題もんだいではなく政治せいじてき問題もんだいであり、それは社会しゃかい秩序ちつじょではな く統治とうち形態けいたい関連かんれんしていた。(…)代表だいひょうせいは、たんに「自己じこ保存ほぞん」あるいは自己じこ利益りえき問題もんだいにすぎず、勤労きんろうしゃ生活せいかつまもり、それを政府せいふがわからの侵害しんがいにたい して保護ほごするのに必要ひつようなものであるにすぎない。この本質ほんしつてきにネガティヴな防衛ぼうえいは、政治せいじてき領域りょういきおおくのひとたちに開放かいほうするものではけっしてない。そしてそれ は、ジョン・アダムズによれば「自己じこ保存ほぞんについで永遠えいえん人間にんげんてき活動かつどう偉大いだい源泉げんせんである卓越たくえつへの情熱じょうねつ(パッション・フォア・ディスティンクション)」―― 「同等どうとうになりたい、あるいは、たものになりたいというだけでなくひとよりきんでたいという欲求よっきゅう」――をひとびとのうちにかきたてるものでもない。そこでそ の自己じこ保存ほぞん確保かくほされてしまえば、貧民ひんみんは、その生活せいかつ重要じゅうよう意味いみあたえられず、卓越たくえつ光輝ひかりかがや公的こうてき領域りょういきからは排除はいじょされたままの状態じょうたいたされることになる。 かれらは、くところかなら暗黒あんこく(ダークネス)のなかにちすくむ。ジョン・アダムズはこの状態じょうたいつぎのようにのべている。「まずしいひと良心りょうしんくもりがないのに、 かれはずかしめしめをけている。……かれ自分じぶんひとびとの視野しやそとにあるとかんじ、暗闇くらやみのなかをさぐりであるく。ひとかれもとめない。かれづかれないままに よろめき、さまよう。教会きょうかい市場いちばのような人混ひとごみのなかにいても……かれはまるで屋根裏やねうら地下ちかしつのなかにでもいるように無名むめい状態じょうたい(オブスキュリティ) 〔obscurityは仲間なかまたるひとびとに認知にんちされていない状態じょうたい意味いみし、この文脈ぶんみゃくにおける目立めだった卓越たくえつ状態じょうたいdistinctionの反対はんたいである――わけ しゃ〕にある。かれ異議いぎとなえられたり、とがめられたり、非難ひなんされたりしない。かれはただづかれないのである。……完全かんぜん無視むしされ、しかもそのことに自分じぶんづいているということはれないことである。もしロビンソン・クルーソーがそのしまにアレクサンドリアの図書館としょかんっていたとしても、ふたた人間にんげんかおることはできないということが確実かくじつであったとしたら、かれ書物しょもつひらいてみるになっただろうか?」(ハンナ・アレント『革命かくめいについて』p.103- 105)

    アダム・スミス『しょ国民こくみんとみ』(『国富こくふろん』)
    「職人しょくにんたちの団結だんけつについてはしばしばみみにするが、親方おやかたたちの団結だんけつについてはめったにみみにしないといわれてきた。しかし、だからといって、親方おやかたは めったに団結だんけつしないなどとおもひとがいるなら、それはこの問題もんだいについてはもちろん、世間せけんについても無知むちひとである。親方おやかたたちは、いつどこでも、一種いっしゅ暗黙あんもく の、しかし恒常こうじょうてきかつ一様いちよう団結だんけつむすんで、労働ろうどう賃金ちんぎん実際じっさいりつ以上いじょう上昇じょうしょうさせまいとしている。この団結だんけつをやぶることは、どこでも、きわめて不人気ふにんき行為こうい であり、親方おやかた近隣きんりん同輩どうはいのあいだで一種いっしゅ非難ひなんのまとになることである。たしかに、われわれはこのような団結だんけつをめったにみみにしないが、それというのも、だ れもがみみにしないほどそれが通常つうじょうの、ものごとの自然しぜん状態じょうたいといっていいものだからである。(…)しかしこのような団結だんけつはしばしば、職人しょくにんたちの、これとははん たい防衛ぼうえいてき団結だんけつ抵抗ていこうける。かれらもまた、このたね挑発ちょうはつがまったくなくても、自分じぶんたちの労働ろうどう価格かかくげるために、自発じはつてき団結だんけつすることがある。 かれらの通常つうじょう主張しゅちょうは、あるときには、食料しょくりょうひん価格かかくたかいということであり、あるときには、親方おやかたたちが自分じぶんたちの仕事しごとによっておおきな利潤りじゅんをあげているという ことである。だがかれらの団結だんけつは、攻撃こうげきてきなものであれ防衛ぼうえいてきなものであれ、つねにいくらでもみみにはいる。争点そうてんをすみやかに解決かいけつするために、かれらはつねにやか ましくさわぎたてるという方法ほうほううったえ、ときにはもっともショッキングな暴力ぼうりょく乱暴らんぼううったえることもある。かれらは必死ひっしなのであり、そして必死ひっしひとびとのおろかさ や無謀むぼうさをもって行動こうどうする。かれらはえるか、さもなければ親方おやかたたちをおどかしてただちに自分じぶんたちの要求ようきゅうけいれさせるかしなければならないからである。こ ういうばあい、親方おやかたたちは相手あいてがわにたいしてこれにおとらずさわぎたて、官憲かんけん援助えんじょと、使用人しようにん労働ろうどうしゃややとい職人しょくにん団結だんけつをあれほどきびしく禁止きんしする法律ほうりつ の、厳格げんかく施行しこうこえたかもとめてやまない。したがって職人しょくにんたちがこういう騒然そうぜんとした団結だんけつ暴力ぼうりょくからなんらかの利益りえきすことはまれであり、こういう団結だんけつ は、一部いちぶ官憲かんけん干渉かんしょうのため、一部いちぶ親方おやかたたちの頑強がんきょうさがまさっているため、一部いちぶ職人しょくにんたちのだい部分ぶぶん当面とうめん生計せいけいのために屈服くっぷくする必要ひつようにせまられているた め、一般いっぱん首謀しゅぼうしゃ処罰しょばつ破滅はめつという結末けつまつにしかならないのである。」(『国富こくふろん1』岩波いわなみ文庫ぶんこ、p.122-123)

    「つぎいつつが、わたし観察かんさつしえたかぎり、ある職業しょくぎょう金銭きんせんじょう利得りとくちいさいのをおぎない、ほかの職業しょくぎょう利得りとくおおきいのを相殺そうさいする、おも事情じじょうである。すなわ ち、だいいちに、職業しょくぎょうそのもののかい不快ふかいだいに、職業しょくぎょう習得しゅうとく容易よういやすあがりか困難こんなんたかくつくか、だいさんに、職業しょくぎょうにおける雇用こよう安定あんてい不安定ふあんていだいよんに、職業しょくぎょうに たずさわるひとびとへの信頼しんらい大小だいしょう、そしてだいに、職業しょくぎょうにおける成功せいこう見込みこみの有無うむである。」(p.177)

    「労働ろうどうのうちである種類しゅるいのものは、それが投下とうかされた対象たいしょう価値かち増加ぞうかさせるが、もうひとべつ種類しゅるい労働ろうどうがあって、それはそのような効果こうかをもたな い。前者ぜんしゃは、価値かち生産せいさんするのだから、生産せいさんてきび、後者こうしゃ生産せいさんてきんでいいだろう。こうして製造せいぞうこう労働ろうどうは、一般いっぱんに、かれ加工かこうする材料ざいりょう価値かちにたい して、かれ自身じしん生活せいかつ価値かちかれ雇主やといぬし利潤りじゅん価値かちをつけくわえる。これにはんして、家事かじ使用人しようにん労働ろうどうはなんの価値かちもつけくわえない。(…)反対はんたい家事かじ使用人しようにん労働ろうどうは、どんな特定とくてい対象たいしょうまたは販売はんばいできる商品しょうひんにも固定こていされ実現じつげんされることがない。かれ仕事しごとは、一般いっぱんに、遂行すいこうされたその瞬間しゅんかん消滅しょうめつし、あとになってそれと ひきかえに等量とうりょう仕事しごと入手にゅうしゅできる痕跡こんせきまたは価値かちを、あとにのこすことはめったにない。
 社会しゃかいのもっとも尊敬そんけいすべき階層かいそうのうちのあるひとびとの労働ろうどうは、家事かじ使用人しようにん労働ろうどうおなじようになんの価値かち生産せいさんせず、その労働ろうどうがすんだのちも存続そんぞくしてあとで それとひきかえに等量とうりょう労働ろうどう入手にゅうしゅできるような、持続じぞくてき対象たいしょうまたは販売はんばいできる商品しょうひん固定こていまたは実現じつげんされることがない。たとえば主権しゅけんしゃは、かれのもとにつか えるすべての司法しほうおよび軍事ぐんじ官僚かんりょうぜん陸海りくかいぐんとともに、生産せいさんてき労働ろうどうしゃである。(…)おな部類ぶるいにいれられるべきものに、もっとも厳粛げんしゅくでもっとも重要じゅうよう専門せんもんしょく のうちのいくつかと、もっとも軽薄けいはく専門せんもんしょくのうちのいくつかがあって、教会きょうかいじん法律ほうりつ医師いし、あらゆる種類しゅるい文筆ぶんぴつと、俳優はいゆう道化師どうけし音楽家おんがくか、オペラ しゅ、オペラ・ダンサーなどがそうである。これらのうちでもっともいやしいもの労働ろうどうでも、ある価値かちをもっていて、それはのあらゆる種類しゅるい労働ろうどう価値かち規制きせいす るのとまったく同一どういつ原理げんりによって規制きせいされるし、またそれらのもののうちでもっとも高尚こうしょうでもっとも有用ゆうようもの労働ろうどうでも、あとで等量とうりょう労働ろうどう購買こうばいまたは入手にゅうしゅ しうるようなものをなに生産せいさんしない。俳優はいゆう朗読ろうどく演説えんぜつ熱弁ねつべん音楽家おんがくか楽曲がっきょくのように、かれらすべての仕事しごとは、生産せいさんされたまさにその瞬間しゅんかん消滅しょうめつする。」 (『国富こくふろん2』岩波いわなみ文庫ぶんこ、p.109-111)

    上田うえだ秋成あきなり雨月物語うげつものがたり

1777ねん
    フランス、書籍しょせきしょうの「特権とっけん認可にんかじょう」にかんする国王こくおう顧問こもん会議かいぎ裁決さいけつ
    「(…)出版しゅっぱんぎょうかならずしも安易あんい事業じぎょうではなかった。印刷いんさつのための機械きかい活字かつじをそろえるためには多額たがく資金しきん必要ひつようであったし、印刷いんさつした書物しょもつ完売かんばいし て投資とうし資金しきん回収かいしゅうするためには、なが年月としつき必要ひつようであった。しかも、きのよいほんはすぐに海賊版かいぞくばん印刷いんさつされ、やす値段ねだん市場いちば出回でまわり、印刷いんさつ業者ぎょうしゃ書籍しょせきしょうくるしめた。印刷いんさつ業者ぎょうしゃ書籍しょせきしょうは、海賊版かいぞくばん対抗たいこうするために、独占どくせんてき営業えいぎょうけん保証ほしょうしてもらおうとして、「特権とっけん認可にんかじょう」の交付こうふ国王こくおう要求ようきゅうするようになっ た。当初とうしょ印刷いんさつ業者ぎょうしゃ書籍しょせきしょうは、特権とっけん認可にんかじょうによって著作ちょさくぶつかんしてなんらかの権利けんり主張しゅちょうしたわけではなかった。ただ、海賊版かいぞくばん業者ぎょうしゃ競争きょうそう相手あいてたいして自衛じえいする ために、国王こくおう庇護ひご必要ひつようだったのである。高等法院こうとうほういん次席じせき検事けんじのアントワーヌ・ルイ・セギュイエは、1777ねん国王こくおう顧問こもん会議かいぎ裁定さいていかんする報告ほうこくしょなかで、 書籍しょせきしょう特権とっけん認可にんかじょう必要ひつようとするにいたった事情じじょうつぎのようにべている。15世紀せいきまつまでは、印刷物いんさつぶつかずはそれほどおおくなかったので、書籍しょせきしょう競合きょうごうしても致命ちめい てき損害そんがいをもたらすほどではなかった。しかし、印刷いんさつ業者ぎょうしゃえるにつれて、書籍しょせきしょう著作ちょさくぶつ選択せんたくせざるをなくなった。技術ぎじゅつ進歩しんぽとともに、偽造ぎぞうがはびこ り、出版しゅっぱんぶつ競合きょうごうによって、げに影響えいきょうしょうじてきた。有名ゆうめい印刷いんさつ業者ぎょうしゃであっても、経営けいえいくるしくなって、倒産とうさんするものもおおかった。ついには、16世紀せいきはじめには、多額たがく投資とうしをして印刷いんさつぎょうはじめようとするものはなくなってしまった。早急そうきゅう救済きゅうさいさくこうじる必要ひつようがあった。書籍しょせきぎょう衰退すいたいふせぐためには、国王こくおうに援 すけもとめざるをなかった。国王こくおう特定とくてい書物しょもつについて印刷いんさつ許可きょか申請しんせいし、のものに印刷いんさつ禁止きんしすることを要請ようせいするようになったのはこのためである。
 1777ねん裁定さいていは、著作ちょさくしゃ書籍しょせきしょうとのこれまでのちから関係かんけい根底こんていからくつがえすものであった。この裁定さいていによって、著作ちょさくしゃ永久えいきゅうてき特権とっけん認可にんかじょうあたえられ たが、一方いっぽう書籍しょせきしょう特権とっけん認可にんかじょうには10年間ねんかん期限きげんけられ、しかも、4ぶんの1以上いじょう増補ぞうほがなされていないかぎ更新こうしんみとめられなくなった。特権とっけん認可にんかじょう著作ちょさくしゃ自分じぶん書物しょもつ販売はんばいすることができるようになった。そして、書籍しょせきしょう特権とっけん認可にんかじょう譲渡じょうとしないかぎり、その権利けんり永久えいきゅう享受きょうじゅすることができるように なった。また、この裁定さいていによって、地方ちほう書籍しょせきしょう書物しょもつ印刷いんさつする権利けんりみとめられるようになった。この裁定さいていによってパリの書籍しょせきしょう地方ちほう書籍しょせきしょうとのあいだ対立たいりつ表面ひょうめんてきには一応いちおう終止符しゅうしふたれた。しかし、両者りょうしゃ確執かくしつは、フランス革命かくめいによってパリの書籍しょせきしょう特権とっけん認可にんかじょう廃止はいしされるまでつづくことになる。1777ねん裁定さいていによって、書籍しょせきしょうのいらだちは一段いちだんつよくなっていった。しかし、著作ちょさくしゃたちは、この裁定さいてい書籍しょせきしょう束縛そくばくから著作ちょさくしゃ解放かいほうするものであることについてじゅう ふん認識にんしきしていたとはえない。著作ちょさくしゃ書籍しょせきしょう特権とっけん認可にんかじょう譲渡じょうとすることを拒否きょひすれば、書籍しょせきしょうたちはあらためて著作ちょさくしゃ交渉こうしょうせざるをなかったとおもわれる が、現実げんじつはそうではなかった。著作ちょさくしゃるためには書籍しょせきしょう必要ひつようであったが、書籍しょせきしょうわりの著作ちょさくしゃはいくらでも見付みつけることができたからである。しょ せきしょうたちは、1777ねん裁定さいてい抵抗ていこうして様々さまざまこころみをかえした。」(藤原ふじわら博彦ひろひこ「フランスにおける著作ちょさくけんについてのかんがかた変遷へんせん」『ざいけん紀要きよう』 2005、p.112-113)

1778ねん
    ヴォルテールぼつ
    「「あなたはさぞかしひろ立派りっぱ土地とちをおちなんでしょうね。」とカンディードはこのトルコじんにいった。
「たったじゅうアルパンなんで。」とトルコじんこたえた。「それをせがれたちといっしょにつくっております。はたらけば、わしらはみっつのおおきな不幸ふこうからとおざかる。退屈たいくつ不身持ふみもち貧乏びんぼう、このみっつですじゃ。」」(『カンディード』p.170)

    「「わたしは自分じぶんはたけたがやすべきこともっています。」とカンディードはいった。
「いかにもそのとおり。」とパングロスはいった。「というのは、人間にんげんがエデンのえんにおかれたのははたらいてこれをたがやさんためであった。これすなわち、ひと休息きゅうそく のためにまれたるにはあらず、という証拠しょうこだ。」
 「理屈りくつぬきではたらきましょう。」とマルチンがいった。「人生じんせいられるものにするは、ただこれひとつです。」(『カンディード』p.171-172)

    ルソーぼつ
    「ようするに、ぼく地上ちじょうでただの一人ひとりきりになってしまった。もはや、兄弟きょうだいもなければ隣人りんじんもなく、友人ゆうじんもなければ社会しゃかいもなく、ただ自分じぶんいちあるのみ だ。およそ人間にんげんのうちでもっと社交しゃこうてきであり、もっとひとなつこいおとこが、全員ぜんいん一致いっち仲間なかまはずれにされたのである。どういうくるしめかたぼく敏感びんかんたましいもっと残酷ざんこくである かと、かれらはその憎悪ぞうおきょくをつくしてかんがえめぐらしたのだ。」(『孤独こどく散歩さんぽしゃ夢想むそう』p.7)

    キャプテン・クック、ハワイ諸島しょとう発見はっけん

1779ねん
    平賀ひらが源内げんないぼつ(1780ねんというせつも)

    イギリス、コールブルックデールきょう完成かんせい世界せかいはつ鉄橋てっきょう

1780ねん
    南町みなみまち奉行ぶぎょうしょ深川ふかがわ茂森しげもりまちに「無宿むしゅく養育よういくしょ設置せっち(1786ねん廃止はいし

    フランス『百科全書ひゃっかぜんしょぜん38かん完結かんけつ

1781ねん
    エマヌエル・カント『純粋じゅんすい理性りせい批判ひはん

    ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ(トゥパク・アマル2せいぼつ

1782ねん
    ルソー『告白こくはくだい一部いちぶ刊行かんこう
    「(…)世界せかい自己じこ自己じこならざるものとに分割ぶんかつして、自己じこのほうを受容じゅよう賛美さんびすることは、現実げんじつから想像そうぞうじょうのものへのルソーの脱出だっしゅつ飛翔ひしょうの、さらに もうひとつの実例じつれいであるとは、本当ほんとうにありうることである。そうなると、自己じこ盲目的もうもくてき崇拝すうはい対象たいしょうとなるのだ、存在そんざいしてほしい欲望よくぼう客体かくたいなのだ。
 しかしながら、ルソーの自伝じでんてき告白こくはくてき著作ちょさく(oeure)の、まさにおおいなる反語はんご(アイロニー)のひとつは、著作ちょさく〔「いとなみ」でもある〕の中心ちゅうしん戦略せんりゃく、 すなわち、自己じこ自己じこならざるものから分離ぶんりすること、および、その結果けっかこるその自己じこ探求たんきゅう賛美さんび最後さいごには否定ひていされるという事態じたいである。ルソーの固体こたい された自己じこは、結局けっきょくは、役立やくだたずだとかり、そのために必然ひつぜんてきこる喪失そうしつは、その自己じこ代償だいしょうてき満足まんぞく結局けっきょくのところまさり、そしてルソーは、 ぶん告白こくはくてき数々かずかず著作ちょさくがむりやりさだめようとつとめる、自己じこ境界きょうかいそのものを最後さいごにはす――もしくはかえしたいとおもう――のである。」『自己じこのテク ノロジー』p.181)

1783ねん
    浅間あさま山大やまだい噴火ふんか

    アメリカ独立どくりつ戦争せんそう終結しゅうけつ

1784ねん
    エマヌエル・カント「啓蒙けいもうとはなにか」
    「自分じぶん自身じしんがすでに啓蒙けいもうされているからこそいたずらにかげにおびえる必要ひつようのないような君主くんしゅ、しかしまたそれと同時どうじに、訓練くんれんとどいた多数たすう将兵しょうへいからなりぐんようして、国家こっか安寧あんねい保証ほしょうできるような君主くんしゅにしてはじめて、「君達きみたちはいくらでも、またなにごとについてものままに議論ぎろんせよ、ただし服従ふくじゅうせよ!」と言明げんめいるのである、――実際じっさいかかる大胆だいたん発言はつげんは、共和きょうわこくといえども敢てしないであろう。」(『啓蒙けいもうとはなにか』岩波いわなみ文庫ぶんこ、p.18-19)

    カント「世界せかい公民こうみんてき見地けんちにおける一般いっぱん構想こうそう
    「(…)人間にんげんは、あいあつまって社会しゃかい組織そしきしようとする傾向けいこうをもっている、かれはこのような状態じょうたいにおいていっそう人間にんげんとしての自覚じかくをもつようになるから である、換言かんげんすれば、かれ自然しぜんてき素質そしつ発展はってんをみずからのうちに感知かんちするのである。ところがまた人間にんげんは、仲間なかまはなれて自分じぶんいちにんになろう(孤立こりつしよう)とする つよ傾向けいこうをもそなえている、かれ自分じぶんのうちに、社交しゃこうてき性質せいしつ同時どうじに、一切いっさい自分じぶんのままに処理しょりしようとする社交しゃこうてき性向せいこうをも見出みいだすからである。そこでかれ は、いたしょ他者たしゃ抵抗ていこう出会であうことを予期よきする、自分じぶんのほうでも他人たにん抵抗ていこうしようとする傾向けいこう自分じぶん自身じしんにあることをよく承知しょうちしているからである。ところで この抵抗ていこうこそ、人間にんげんがほんらいそなえている一切いっさいちから覚醒かくせいさせ、かれうながして怠惰たいだ性癖せいへき克服こくふくさせ、また名誉めいよよく支配しはいよくあるいは所有しょゆうよくられて、人間にんげん仲間なかま ――かれがこの人達ひとたちをどうにも我慢がまんできないとしながらも、さりとて彼等かれらからすっかりはなれることもできないような仲間なかま――のあいだにひとかどの地位ちい獲得かくとくさせ るのである。そして未開みかい状態じょうたいから脱出だっしゅつして文化ぶんかむこまがうかたなき第一歩だいいっぽはここにはじまるのである、なお文化ぶんかは、もともと人間にんげん社会しゃかいてき価値かちにもとづいて成立せいりつす るところの状態じょうたいにほかならない。(…)とはえかかる社交しゃこうてき性質せいしつがなかったなら、人間にんげんはいつまでも淳朴じゅんぼく牧羊ぼくよう生活せいかついとなみ、なるほど仲間なかまうちの和合わごう、つつ ましい満足まんぞく人々ひとびと相互そうごあいまっとうせられるであろうが、しかし彼等かれら一切いっさい才能さいのう永久えいきゅう埋没まいぼつせられるであろう、そして人間にんげんは、彼等かれらまきするひつじさながらに善良ぜんりょう であるにせよ、しかし彼等かれら自分じぶんたち存在そんざいあたえるところの価値かちは、この家畜かちくがもつところの価値かち以上いじょうのものではあるまい。(…)」(『啓蒙けいもうとはなにか』岩波いわなみぶん 、p.30-31)

1785ねん
    イギリスの日刊にっかん、The Times創刊そうかん世界せかい最古さいこ日刊にっかん

1786ねん
    タウンゼンド『救貧きゅうひん法論ほうろん
    「アダム・スミスからタウンゼンドへの時代じだい雰囲気ふんいき変化へんかは、じつにめざましいものであった。スミスは、トマス・モアやマキャヴェリ、ルターやカル ヴィンといった国家こっか創案そうあんしゃたちとともにはじまった時代じだい終焉しゅうえんかくしたのにたいし、タウンゼンドはいちきゅう世紀せいき人間にんげんであって、リカードやヘーゲルが各々おのおの対極たいきょく てき角度かくどから国家こっかほう従属じゅうぞくすることなく、ぎゃく国家こっかをみずからの法則ほうそくしたがわせるような社会しゃかい存在そんざい発見はっけんした時代じだいひとであった。」(ポラニー『だい転換てんかん』 p.151)

1787ねん
    ベンサム、円形えんけい監獄かんごく・パノプティコンを考案こうあん(1794ねん議会ぎかい採用さいよう決定けっていがなされるも実現じつげんせず)
    「社会しゃかい改革かいかくしゃのうちでもっとむすんだ人物じんぶつジェレミー・ベンサムが、貧民ひんみんだい規模きぼ使つかって、かれよりさらに発明はつめいざいあるおとうとのサミュエルのつくった機械きかい運転うんてんして木材もくざい金属きんぞく加工かこうをさせる計画けいかく立案りつあんしたのは、それからちょうどいち世紀せいきのことであった。サー・レスリー・スティーブンは、「ベンサムはおとうといち いとぐちになって蒸気じょうきエンジンをさがしもとめていた。そしていまや、蒸気じょうきかわりに囚人しゅうじんやとうことをおもいついたのだ」といっている。これはいちななきゅうよんねんのことであった。 ジェレミー・ベンサムの円形えんけい監獄かんごく(パノプティコン)の計画けいかくは、監獄かんごく安上やすあがりで効果こうかてきかんできるように工夫くふうされていたが、その計画けいかくねんまえから存在そんざいして おり、かれいまやそれを自分じぶん囚人しゅうじん経営けいえい工場こうじょう適用てきようすることを決意けついしたのだ。そして貧民ひんみん囚人しゅうじんにとってわるはずであった。(…)これによると〇をくだらな い工場こうじょう設立せつりつされ、そこにやくまんにん収容しゅうようされることになっていた。その計画けいかくにはさまざまの範疇はんちゅう失業しつぎょうしゃについて詳細しょうさい分析ぶんせきせられていたが、その分析ぶんせき においてベンサムは、この領域りょういきでのほか研究けんきゅうしゃ成果せいかしていち世紀せいき以上いじょうさきんじていた。かれ分類ぶんるいきな精神せいしんはその最善さいぜん場合ばあいには現実げんじつへの適応てきおう能力のうりょくしめしえ たのである。近年きんねんになってあらわれた「のない職人しょくにん」は、「偶発ぐうはつてき不況ふきょう」ゆえに雇用こようさきつけだすことのできないものとは区別くべつされていた。つまり、ぶし 労働ろうどうしゃの「周期しゅうきてき不振ふしん」は「免職めんしょくされた職人しょくにん」とは区別くべつされていたのだ。そのような職人しょくにんとは、たとえば「機械きかい導入どうにゅうによってはじきさ」れたもの、あるいは もっと近代きんだいてき言葉ことばでいえば、技術ぎじゅつてき失業しつぎょうしゃのことであった。このグループは、ベンサムの時代じだいたいふつ戦争せんそうによって目立めだつようになったもうひとつの近代きんだいてき範疇はんちゅう、 すなわち「除隊じょたい職人しょくにん」から構成こうせいされていた。しかしながらもっと重要じゅうよう範疇はんちゅう上述じょうじゅつの「偶発ぐうはつてき不況ふきょう」による失業しつぎょうしゃであった。それには「流行りゅうこう左右さゆうされる」仕事しごとを している職人しょくにん工芸こうげいばかりでなく、それよりはるかに重要じゅうような「全般ぜんぱんてき工業こうぎょうきょう発生はっせいしたばあいの失業しつぎょうしゃグループがふくまれていた。ベンサムの計画けいかくは、失業しつぎょうしゃだい規模きぼなスケールで商品しょうひんすることをとおして景気けいき循環じゅんかん平準へいじゅんするものにほかならなかったのだ。」(ポラニー『だい転換てんかん』p.143-145)

    「密集みっしゅうせる多人数たにんずう多種たしゅ多様たよう交換こうかんたがいに依存いぞん共同きょうどうするさまざまな個人こじん集団しゅうだんてき効果こうかたる、こうした群集ぐんしゅう解消かいしょうされて、そのかわりに、区分くぶん された個々人ここじんあつまり〔というあたらしい施設しせつ〕の効果こうかしょうじるわけである。看守かんしゅ観点かんてんてば、そうした群衆ぐんしゅうにかわって、計算けいさん調査ちょうさ可能かのうまりやすい さませいあらわれ、められるもの観点かんてんてば、隔離かくりされつめられる孤立こりつせいあらわれるのだ。
 そのてんからしょうじるのが〈一望いちぼう監視かんし装置そうち〉(パノプティック)の主要しゅよう効果こうかである。つまり、権力けんりょく自動的じどうてき作用さよう確保かくほする可視かしせいへの永続えいぞくてき自覚じかく状態じょうたいを、閉 じめられるものにうえつけること。(…)」(フーコー『監獄かんごく誕生たんじょう』p.203*)
 *Foucault, Michel 1975 Surveiller et punir: Naissance de la prison, Gallimard=1977 田村たむら俶訳、『監獄かんごく誕生たんじょう──かん処罰しょばつ』, 新潮社しんちょうしゃ 4430 ※
  cf.Foucault, Michel:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/foucault.htm

    「パノプティコンのプロジェクトが素描そびょうされていた時代じだい労働ろうどうしゃ不足ふそくは、社会しゃかいてき発展はってんこばんでいる主要しゅよう障害しょうがいとしてひろ認識にんしきされていた。初期しょき企業きぎょう たちは、労働ろうどうしゃになりうる人々ひとびと工場こうじょう労働ろうどうのリズムに抵抗ていこうかんじてをゆだねたがらないということをなげいていたのだ。このような状況じょうきょうで「矯正きょうせい」が意味いみし たのは、そのような抵抗ていこう克服こくふくし、工場こうじょう労働ろうどうをゆだねることをもっともらしくせることだった。
 要約ようやくすれば、その直接的ちょくせつてき目的もくてきなにであれ、パノプティコンてき形態けいたいをもつあらゆる監禁かんきん施設しせつは、なによりもまず、規律きりつ訓練くんれん工場こうじょうだったのであり、もっと 正確せいかくえば、訓練くんれんされた労働ろうどうしゃ生産せいさんする工場こうじょうだった。しかも、それらの監禁かんきん施設しせつは、おおくの場合ばあい最終さいしゅうてき課題かだいたいするてっとりばやい解決かいけつほうでもあった。 つまり、収容しゅうようしゃたちをすぐにはたらかせたのである。とくに、「自由じゆう労働ろうどうしゃたち」がもっと嫌悪けんおし、どんなにその報酬ほうしゅう魅力みりょくてきであったとしても自分じぶん意思いしではとうて いやりたがらないような仕事しごとをやらせたのだ。表向おもてむきに宣言せんげんされた長期ちょうきてき目的もくてきなにであれ、だい部分ぶぶんのパノプティコンてき施設しせつは、ただちに収容しゅうよう作業さぎょう施設しせつ(ワーク・ ハウス)だったのである。」(ジグムント・バウマン/福本ふくもと圭介けいすけやくほう秩序ちつじょ社会しゃかいてき効用こうよう」『現代げんだい思想しそう』2001,29−7,p.89-90)

1789ねん
    ベンサム『道徳どうとくおよび立法りっぽうしょ原理げんり序説じょせつ

    ルソー『告白こくはくだい刊行かんこう
    「わたしたいしておおくの矛盾むじゅん非難ひなんするひとたちは、ここでもまた、きっとひとつの矛盾むじゅん非難ひなんするだろう。わたしは、ひとあつまりでの無為むいは、そのあつまりをえが たいものにするといった。ところがいまは、もっぱら無為むいにふけるために孤独こどくもとめているのだ。けれどもわたしは、そんな人間にんげんなのだ。そこに矛盾むじゅんがあるとして も、それは自然しぜんのせいであって、わたしのせいではない。しかもほんのわずかな矛盾むじゅんしかないので、まさにそれだからこそわたしはつねにわたしなのだ。ひとあつまりでの無為むい は、むをないものであるから、うんざりする。孤独こどく無為むいは、自由じゆう意志いしにもとづくものであるから、魅力みりょくてきである。(…)
 わたしこの無為むいとは、まったくなにもせずにうでをこまねいてじっとしたままで、うごかないばかりか、なにもかんがえないでいるのらくらしゃ無為むいではない。それはた えずうごきながらなにもしない子供こども無為むいであると同時どうじに、うでやすめながらもとりとめのないことをっているいぼれの無為むいでもある。わたしはたわいもないことを しようと専念せんねんし、すうおおくのことをはじめて、そのどれひとつもしとげず、おもいつくままにったりたりし、たえず計画けいかく変更へんこうし、はえ一挙一動いっきょいちどう見守みまもり、いわを ひっくりかえしては、そのしたなにがあるかをたいとおもい、じゅうねん仕事しごと熱中ねっちゅうしてくわだてたかとおもうと、じゅうふんにはしげもなくそれをて、ようするにいちにちちゅう順序じゅんじょもな く無駄むだごして、なにごとにつけてもそのときの気紛きまぐれにしたがう。そういったことがきなのだ。」(『ルソー全集ぜんしゅうだいかん、p.271-272)

1790ねん
    「石川いしかわとう人足ひとあし寄場よせば設置せっち
    「人足ひとあし寄場よせばは、寛政かんせいねんいちななきゅう〇)がつとき執政しっせい松平まつだいら定信さだのぶによって、江戸えど隅田川すみだがわ河口かこう石川いしかわとうつくだとうのあいだにあった葭原よしはら湿原しつげんててけん しつらえされた。
 その建設けんせつ管理かんり運営うんえい責任せきにん最初さいしょまかせられたのは、当時とうじ幕府ばくふ火付ひつき盗賊とうぞくあらためやくであった長谷川はせがわ平蔵へいぞうせん以であった。研究けんきゅうしゃあいだ人足ひとあし寄場よせばたいする評価ひょうかたかい だけに、設立せつりつ発想はっそう一体いったいだれによってされたかについて関心かんしんあつまり、神宮じんぐう文庫ぶんこぞうの「寛政かんせいもととり年寄としよりじょう起立きりつ」に長谷川はせがわ平蔵へいぞう建議けんぎしょなどをめぐり、せい 緻な分析ぶんせきこころみられた。
 おおかたの研究けんきゅう結果けっかによれば、人足ひとあし寄場よせば設置せっちは、無宿むしゅく浮浪ふろう増大ぞうだいなや定信さだのぶが、すでに前年ぜんねんのうちから諮問しもんするところであった。当時とうじすでに定信さだのぶ念頭ねんとうに は、無宿むしゅく浮浪ふろう収容しゅうようする施設しせつ再建さいけん構想こうそうがあり、かつてとおる評定ひょうじょうしょ協議きょうぎにかかったこともある新規しんきため建設けんせつあん安永やすながみなみ町奉行まちぶぎょう牧野まきのしげるけんによっていち こころみられながら、逃亡とうぼうしゃおおして結局けっきょく失敗しっぱいわっていた無宿むしゅく養育よういくしょなどが検討けんとう材料ざいりょうとしてあった、といわれている。」(阿部あべあきら江戸えどのアウトロー』 p.171)

    「刑法けいほう学者がくしゃだんふじ重光しげみつは、前述ぜんじゅつの『人足ひとあし寄場よせば』にせた論文ろんぶん人足ひとあし寄場よせば性格せいかく特長とくちょう」において、このさるわたりしょ内容ないよう重視じゅうししつつ、人足ひとあし寄場よせば性格せいかくに ついて分析ぶんせきされ、つぎのような見解けんかいしめされた。
 だいいちに、収容しゅうようしゃには「おも仕置しおき」や「佐渡さどおくり」という心理しんりてき圧力あつりょくをかけながら、はん社会しゃかいてき社会しゃかいてきものさい社会しゃかい社会しゃかい復帰ふっきさせる矯正きょうせいてき要素ようそ濃厚のうこう にみとめられること。
 だいに、本業ほんぎょうかえろうとするものには土地とちみせたせるほか、種々しゅじゅ手当てあてするなど積極せっきょくてき福祉ふくし措置そちえるが、その前提ぜんてい不定期ふていき拘禁こうきんてききびしい矯正きょうせいおけがあること。
 だいさんに、犯罪はんざいしゃたいする刑罰けいばつでないことが原則げんそくとされており、無罪むざい無宿むしゅくなどの収容しゅうよう犯罪はんざい前提ぜんていとはしない「広義こうぎ保安ほあん処分しょぶん」とするのが妥当だとう
 という評価ひょうかである。
 だんふじ人足ひとあし寄場よせばくだした評価ひょうかは、すくなくとも当初とうしょ人足ひとあし寄場よせばには、「はん社会しゃかいてき傾向けいこう無罪むざい無宿むしゅくを、矯正きょうせい授産じゅさん社会しゃかい復帰ふっきさせる保安ほあん処分しょぶん施設しせつ」としての 性格せいかく濃厚のうこうである、とするものであった。そして、この評価ひょうかについては、人足ひとあし寄場よせば顕彰けんしょうかい代表だいひょう瀧川たきがわも「人足ひとあし寄場よせばせいかくづけとしてもっととうたものとおもう」 と賛意さんいしめし、これがどうかいつど行刑ぎょうけい法制ほうせい権威けんいたちの人足ひとあし寄場よせば評価ひょうか基礎きそてきトーンをなしているといってよい。
 だが、『人足ひとあし寄場よせば』にせられた論文ろんぶんのなかには、それだけではれぬ問題もんだいのこることに、あえて視線しせんをなげかけようとしたものもある。
 たとえば荒井あらいみつぐ次郎じろうの「人足ひとあし寄場よせば民衆みんしゅう」もそのひとつである。は「教育きょういくけい勤労きんろう尊重そんちょう理念りねんは、かつて石川いしかわとう人足ひとあし寄場よせばのうちに、ひそかに種子しゅしかれて いたことをしんじてうたがわない」としながらも、「だが、しかし、文政ぶんせいねんいちはち)から天保てんぽういちいちねんいちはちよん〇)までのいちはち年間ねんかん八丈島はちじょうじま流人るにんかずは、ろくにん記録きろくされている。このうち人足ひとあし寄場よせばしがいちにんいる」という文章ぶんしょうをもって論文ろんぶんをしめくくっている。」(p.177-178)

   「寄場よせば人足ひとあしのなかには、ここから社会しゃかい復帰ふっきのチャンスをものすくなからずいたのであって、そのことの意味いみすることはかるくはない。
 しかし、各種かくしゅ手当てあてをけ、心学しんがく教諭きょうゆあたえられ、「復帰ふっき」してゆく社会しゃかいは、無宿むしゅくいち逃亡とうぼうしてきた社会しゃかいであった。その社会しゃかいはといえば、状況じょうきょう以前いぜん とほとんどわっていないとすれば、この「社会しゃかい復帰ふっき」とは、どのような意味いみをもつのだろうか。それをかんがえれば、「復帰ふっき」の意味いみには、複雑ふくざつなものがあるとおもえ わざるをえない。
 人足ひとあし寄場よせば制度せいどが、保安ほあん処分しょぶん自由じゆうけいせい源流げんりゅうであるとして、行刑ぎょうけい史上しじょう評価ひょうかたかくすることはともかくとして、いちまくはんせい社会しゃかいから離脱りだつこころみた無宿むしゅくたち がもとめてやまなかったものが、当時とうじ社会しゃかいにおける百姓ひゃくしょう身分みぶんへの「復帰ふっき」によって、充分じゅうぶんにしかも最善さいぜんのかたちで充足じゅうそくされたのかどうか、それへの回答かいとうはいまだ 留保りゅうほしたい気持きもちにかられるのである。」(p.185)

    ほんきょ宣長のりなが古事記こじきでん刊行かんこうはじまる(〜1822ねん起稿きこう1764ねんだつ稿こう1798ねん
    イマヌエル・カント『判断はんだんりょく批判ひはんだいいちはん出版しゅっぱん

    バーク『フランス革命かくめい省察せいさつ
    「えてうならば、水平すいへいこころみる人間にんげんけっして平等びょうどうさない。市民しみん多様たよう階層かいそうから社会しゃかいでは、かならずや一部いちぶ人々ひとびとたか地位ちいめ るはずであり、したがって、水平すいへいする人間にんげん事物じぶつ自然しぜんてき秩序ちつじょ改変かいへん歪曲わいきょくするだけである。」(岩波いわなみ文庫ぶんこばん(うえ) p.92)

    アメリカで世界せかいはつ国勢調査こくせいちょうさ
    「アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく、ピッツバーグの博物館はくぶつかんには、新設しんせつされたネイティブ・アメリカンの展示てんじじょうがある。このビデオのなかで、ある女性じょせいが「わたしたちインディ アンはこれまでいろいろなかたち白人はくじんころされてきた。あるときじゅうで、あるとき病気びょうきで。しかしセンサスによって皆殺みなごろしにされた」と一人ひとりかたりのようにかたっていた のが印象いんしょうてきであった。それは初期しょき国勢調査こくせいちょうさでは、課税かぜいされていないインディアンは国勢調査こくせいちょうさ人口じんこうにされなかったことを意味いみしている。換言かんげんすれば、当時とうじのアメ リカにインディアンは存在そんざいしなかったことになる。べつての調査ちょうさひょう使つかって、保留ほりゅうのインディアン人口じんこうについてはじめての調査ちょうさおこなわれたのは1900ねんであっ た。」(青柳あおやぎ真智子まちこへん国勢調査こくせいちょうさ文化ぶんか人類じんるいがく』p.11)

1791ねん
    混浴こんよく禁止きんしれい
    「構造こうぞうされた体系たいけいが、本来ほんらい矛盾むじゅん対立たいりつ関係かんけい内在ないざいする支配しはい体系たいけいであることを繰返くりかえすまでもないものとするなら、構造こうぞう成立せいりつ状態じょうたいは、ほこ たて対立たいりつ関係かんけい容易ようい運動うんどう転化てんかせしめる状況じょうきょうであることもあきらかである。細民さいみんそう貨幣かへいであるぜにかね銀貨ぎんかたいする価値かち低下ていかによつて増幅ぞうふくされた日常にちじょう生活せいかつぶつ 小売こうり価格かかく急激きゅうげき騰貴とうきもとづ生活せいかつなんという起爆きばくざいが、まず場末ばすえまち細民さいみんそう蜂起ほうきさせ、それが一応いちおう構造こうぞうされていた中心ちゅうしん細民さいみんそう広範こうはん運動うんどう誘発ゆうはつさせた。 江戸えどだい毀の経過けいかしめすものが、そこにそんするとみるのである。
 それゆえにこそ、毀後の江戸えどまちせい力点りきてんのひとつは、場末ばすえまち構造こうぞうえられたのであつたとおもう。男女だんじょ混浴こんよく禁止きんしれいは、湯屋ゆや組合くみあい番組ばんぐみせいへの組織そしき町民ちょうみん 一般いっぱん反対はんたいにもかかわらず強行きょうこうしようとする権力けんりょくがわ意図いとにつらなるものであつたことをおもおこすならば、それはたんなる風俗ふうぞく矯正きょうせい目的もくてきとしたものではなく、場末ばすえまち 対策たいさく一環いっかんであつたとかいすべきであると筆者ひっしゃかんがえるのであり、そこには構造こうぞうされていたはず中心ちゅうしんがい細民さいみんそう蜂起ほうきおもてわれている在来ざいらい体系たいけいてき秩序ちつじょおおきなゆら らぎとともに、近世きんせい都市とし歴史れきしいち時期じきかくする天明てんめい江戸えどだい毀の意味いみと、事態じたい収拾しゅうしゅうしようとはか権力けんりょくがわ政策せいさく意図いと方向ほうこう理解りかいするための、ひとつの手掛てがかりが ふくまれているとおもうのである。」(中井なかい信彦のぶひこ寛政かんせい混浴こんよく禁止きんしれいをめぐって」『史学しがく』p.128-129)

    モーツアルト『ふえ』『レクイエム』

1792ねん
    コンドルセ「おおやけ教育きょういく全般ぜんぱんてき組織そしきについての報告ほうこく法案ほうあん
    「教育きょういく目的もくてき
 諸君しょくん
 人類じんるいぞくするすべての個人こじんに、みずからの欲求よっきゅうたし、幸福こうふく保証ほしょうし、権利けんり認識にんしきして行使こうしし、義務ぎむ理解りかいして履行りこうする手段しゅだん提供ていきょうすること。  各人かくじんがその生業せいぎょう完成かんせいし、各人かくじん権利けんりのある社会しゃかいてき職務しょくむ遂行すいこう可能かのうにし、自然しぜんからった才能さいのう完全かんぜん開花かいかさせ、そのことによって市民しみんあいだ事実じじつじょう平等びょうどう確立かくりつし、ほうによってみとめられた政治せいじてき平等びょうどう現実げんじつのものにする方策ほうさく保証ほしょうすること。
 これらのことが国民こくみん教育きょういくだいいち目的もくてきでなければならない。そしてこの観点かんてんからすれば、国民こくみん教育きょういく公権力こうけんりょくにとって当然とうぜん義務ぎむである。」(コンドルセちょ 『フランス革命かくめいおおやけ教育きょういくろん』p.11)

    ラボー・サン=テチエンヌ「国民こくみん教育きょういくあん
    「国民こくみん教育きょういくしんきたえなければならない。おおやけ教育きょういく知識ちしきあたえ、国民こくみん教育きょういく美徳びとくあたえなければならない。前者ぜんしゃ社会しゃかいかがやきをなし、後者こうしゃ社会しゃかい内実ないじつちからをなすであるだろう。おおやけ教育きょういくには、リセやコレージュやアカデミーや書物しょもつ計算けいさん道具どうぐ方法ほうほう必要ひつようであり、かべのなかにじこもっておこなわれる。国民こくみん教育きょういく には、円形えんけい競技きょうぎじょう体育館たいいくかん武具ぶぐ公開こうかい競技きょうぎ国民こくみん祭典さいてん必要ひつようであり、年齢ねんれい性別せいべつにかかわらない友愛ゆうあい競技きょうぎかい威厳いげんちた甘美かんび人間にんげん社会しゃかい結集けっしゅうのスペク タクルが必要ひつようである。国民こくみん教育きょういくひろ空間くうかん野外やがいおこなわれる自然しぜんのスペクタクルを要求ようきゅうするのである。国民こくみん教育きょういく全員ぜんいん必要ひつよう栄養えいようぶつであり、おおやけ教育きょういく若干じゃっかん人々ひとびとまえである。両者りょうしゃ姉妹しまいだが、国民こくみん教育きょういくあねである。それどころか、国民こくみん教育きょういくぜん市民しみん共通きょうつうははである。国民こくみん教育きょういくは、ぜん市民しみんおなちちあたえ、かれらを 兄弟きょうだいとしてそだあつかい、共通きょうつうしんづかいによって、このようにそだてられた人民じんみんのすべての人民じんみんからかつ、たがいに似通にかよった家族かぞくてき雰囲気ふんいきかれらにあたえるのであ る。したがって、国民こくみん教育きょういくぜん原則げんそくりかごの段階だんかいから、さらに誕生たんじょうまえから人間にんげんをとらえることにある。まれるまえからというのは、子供こどもまれるまえから 祖国そこくぞくしているからである。国民こくみん教育きょういくはすべての人間にんげんをずっととらえつづけるのであり、したがって国民こくみん教育きょういくは、子供こどものためというのではなくて人生じんせい全体ぜんたいのた めの制度せいどなのである。」(コンドルセちょ『フランス革命かくめいおおやけ教育きょういくろん』p.158-159)

    ロシア使節しせつラクスマンが、漂流ひょうりゅうみん大黒屋だいこくやこうひかり太夫たゆう移送いそう根室ねむろ来航らいこう通商つうしょうもとめる

1793ねん
    喜多川きたがわ歌麿うたまろ寛政かんせいさん美人びじん
    
    ブル美術館ぶるびじゅつかん開館かいかん
    フランス、きゅう制度せいど特権とっけんてき団体だんたいとしてパリ大学だいがく廃止はいし

    ルペルティエ「国民こくみん教育きょういくあん
    「体力たいりょく健康けんこうにつづいて、公立こうりつ学寮がくりょう全員ぜんいんあたえるべきはかれない利益りえきがある。わたしいたいのは労働ろうどう習慣しゅうかんである。
 ここではあれこれの産業さんぎょうについてはなにもふれない。しかし一般いっぱんに、ほねれる仕事しごと勇気ゆうき、それを実行じっこうする活動かつどう、それをつづけるねばづよさ、達成たっせいする 根気こんき、これらこそ勤勉きんべん人間にんげん特徴とくちょうだとかんがえている。
 このような人間にんげんそだてたまえ。そうすれば、共和きょうわこくはまもなく壮健そうけん要素ようそ形作かたちづくられ、農業のうぎょう産業さんぎょう生産せいさんぶつ倍加ばいかするであろう。
 このような人間にんげんそだてたまえ。そうすれば、ほとんどすべての犯罪はんざい消滅しょうめつするだろう。このような人間にんげんそだてたまえ。そうすれば、貧困ひんこんまわしい光景こうけいしょ きみかなしませることはもはやなくなるであろう。
 諸君しょくんわか生徒せいとたちのしんのなかに、このようなこのみ、欲求よっきゅう労働ろうどう習慣しゅうかんつくしたまえ。そうすれば、かれらの生活せいかつ保障ほしょうされ、かれらは自分じぶん自身じしんにしか依存いぞんし なくなるであろう。」(コンドルセちょ『フランス革命かくめいおおやけ教育きょういくろん』p.188-189)

    ロム「共和きょうわれきについての報告ほうこく
    「市民しみん諸君しょくん
 わたしは、おおやけ教育きょういく委員いいんかいにおいて、諸君しょくん委員いいんかいもとめた共和きょうわれきにかんする審議しんぎ結果けっか提案ていあんし、諸君しょくん審議しんぎにゆだねよう。
 諸君しょくんは、技術ぎじゅつ人間にんげん精神せいしん進歩しんぽにとってもっとも重要じゅうようで、革命かくめいにしか成功せいこうしない仕事しごとひとつをくわだてた。すなわち、たえず商業しょうぎょう産業さんぎょう阻害そがいしてきた度量衡どりょうこう多様たようせい一貫いっかんせい欠如けつじょ不正確ふせいかくさを解消かいしょうし、地球ちきゅう尺度しゃくどそのものにもとづいた、単一たんいつ不変ふへんあたらしい尺度しゃくどのタイプを採用さいようすることである。
 技術ぎじゅつ歴史れきしにとって、時間じかんひとつの要素ようそないし道具どうぐであり、技術ぎじゅつ歴史れきしは、また、時間じかんあたらしい尺度しゃくど、すなわち、しんじやすい人々ひとびと迷信めいしんちた因習いんしゅうによって おなじように無知むち時代じだいから現代げんだいまでつたえられてきた誤謬ごびゅうから解放かいほうされた時間じかんあたらしい尺度しゃくどを、諸君しょくんもとめている。」(コンドルセちょ『フランス革命かくめいおおやけ教育きょういく ろん』p.239-240)

1794ねん
    東洲斎写楽とうしゅうさいしゃらく市川いちかわえびぞう

    テルミドールのクーデター、ロベスピエールやサン・ジュスト処刑しょけい
    「この近代きんだいてきイメージにぴったりするリアリティは、じゅうきゅう世紀せいき以来いらいわれわれが社会しゃかい問題もんだいぶようになっているもの、もっともはしてき貧困ひんこん存在そんざいん でいるものである。貧困ひんこん剥奪はくだつ以上いじょうのものである。すなわち、それはえざる欠乏けつぼう状態じょうたいであり、いたましくも悲惨ひさん状態じょうたいであって、それがずべきなのは、人間にんげん人間にんげんしてしまうちからをもっているからである。貧困ひんこんいやしむべきものであるのは、それが人間にんげん肉体にくたい絶対ぜったいてき命令めいれいのもとに、すなわち、すべてのひとべつかんがえ えなくても自分じぶんのもっとも直接的ちょくせつてき経験けいけんからっている必然ひつぜんせい(ネセシティ)の絶対ぜったい命令めいれいのもとに、おくからである。群衆ぐんしゅうがフランス革命かくめい援助えんじょ殺到さっとうし、それ を鼓舞こぶし、前進ぜんしんさせ、そして最後さいごにはそれを滅亡めつぼういこんだのも、この必然ひつぜんせい貧窮ひんきゅう〕がかれらを支配しはいしたからであった。かれらは貧民ひんみん群集ぐんしゅうだったからである。 かれらが政治せいじ舞台ぶたいにあらわれたとき、必然ひつぜんせい貧窮ひんきゅう〕はかれらとともにあらわれた。そして、その結果けっかきゅう制度せいど権力けんりょく無力むりょくとなり、他方たほうあたらしい共和きょうわこく死産しざんし た。自由じゆう必然ひつぜんせい貧窮ひんきゅう〕に、すなわち、生命せいめい過程かていそのものの切迫せっぱくゆだねなければならなかったのである。ロベスピエールは「生命せいめい維持いじするのに必要ひつようなも のはすべて公共こうきょう財産ざいさんでなければならない。剰余じょうよだけが私的してき財産ざいさんとしてみとめられる」とべた。(…)最後さいごにいたってロベスピエールは(その最後さいご演説えんぜつのな かで)予言よげんのかたちで定式ていしきしたように、なにおこったのかはっきりとづいた。かれはこうべたのである。「人類じんるいのなかでわれわれが自由じゆう創設そうせつする瞬間しゅんかんいっ してしまった以上いじょう、われわれはほろびるだろう。」「歴史れきしてき瞬間しゅんかん」をいっするほどかれらをながいあいだなやませてきたのは国王こくおう暴君ぼうくん陰謀いんぼうではなく、それよりはるかに 強力きょうりょく必然ひつぜんせい貧窮ひんきゅう〕の陰謀いんぼうであった。このあいだ革命かくめいはその方向ほうこうえ、もはや自由じゆう革命かくめい目的もくてきではなくなっていた。すなわち、革命かくめいはその目的もくてき人民じんみん幸福こうふく におくようになっていたのである。」(ハンナ・アレント『革命かくめいについて』p.90-92)

    フランス、エコール・ポリテクニーク創設そうせつ
    「まずわれわれはいちきゅうななよんねんという創設そうせつ年代ねんだい注目ちゅうもくする必要ひつようがある。まさにフランス革命かくめいのさなかである。当時とうじのフランスはヨーロッパ諸国しょこくたたかって いた。隣国りんごくとの戦争せんそう勝利しょうりするためには、すぐれた高級こうきゅう技術ぎじゅつ将校しょうこうかせなかった。その当時とうじ、フランスにも中世ちゅうせい起源きげん大学だいがくはあった。しかし、ドイツのしょう でもれたように、当時とうじ大学だいがくはすでに教育きょういく活動かつどう研究けんきゅう活動かつどう低下ていかし、人材じんざい育成いくせい責任せきにんたせる状態じょうたいではなかった。だからナポレオンは大学だいがく廃止はいししてしまっ た。その、フランスはいちはちきゅうろくねんまで、大学だいがく不在ふざい時代じだいはいる。(…)
 こうした空白くうはく状態じょうたいめるために登場とうじょうしたのがエコール・ポリテクニークである。はじめは、革命かくめい、それにつづ混乱こんらん人材じんざい不足ふそくおうじるための臨時りんじてき養成ようせいしょであったが、それだけではわらなかった。大学だいがく消滅しょうめつしたのちのフランスにとっては、理工りこうけい理論りろん技術ぎじゅつ教育きょういくする唯一ゆいいつ高等こうとう教育きょういく機関きかんとなった。 (…)
 この学校がっこう日本語にほんご翻訳ほんやくされるとき陸軍りくぐん理工りこう学校がっこう」とやくされることがあるが、その理由りゆうは、文部省もんぶしょう所管しょかんではなく、国防省こくぼうしょう所管しょかんであるためである。名称めいしょうか ら、その卒業生そつぎょうせい軍務ぐんむくものとおもわれがちだが、現在げんざいでは軍務ぐんむくものはいちわり以下いかでしかない。しかし入学にゅうがくすると、まずいち年間ねんかん軍務ぐんむき、ねんから 教育きょういくはじまる。つまりさん年間ねんかん教育きょういく課程かていだが、実質じっしつてきには年間ねんかんしかないので、卒業そつぎょう、さらにほかのグランゼコールに進学しんがくするものがおおい。」(しお木守こもりいち かい大学だいがく危機きき』p.124-125)

1795ねん
    スピーナムランドほう制定せいてい
    「イギリスでは、労働ろうどうさきんじて、土地とち貨幣かへい流動りゅうどうされた。労働ろうどうについてはその物理ぶつりてき移動いどうにたいするきびしい法的ほうてき制限せいげんによって、全国ぜんこくてき労働ろうどう市場いちば形成けいせいさまたげられていた。というのは、労働ろうどうしゃは、事実じじつじょう教区きょうく拘束こうそくされていたからである。いちろくろくねん定住ていじゅうほうは、いわゆる教区きょうく農奴のうどせい規則きそくさだめていた が、それはいちななきゅうねんにいたりようやく緩和かんわされた。この緩和かんわ措置そちは、もしも同年どうねんにスピーナムランドほうもしくは「給付きゅうふきん制度せいど」が導入どうにゅうされなかったとすればぜん くにてき労働ろうどう市場いちば確立かくりつ可能かのうにしていたことであろう。このスピーナムランドほう意図いとするところとはぎゃくであった。すなわち、それはテューダーあさやステュアー トあさから継承けいしょうされてきた温情おんじょう主義しゅぎてき労働ろうどう組織そしきのシステムを強力きょうりょく補完ほかんするものであった。いちななきゅうねんがつろくにち――当時とうじは、大変たいへんきょう時期じきであった――に、 ニューベリーにちかいスピーナムランドのペリカンかんかいしたバークシャーの治安ちあん判事はんじたちは、賃金ちんぎん扶助ふじょがくはパンの価格かかくおうじてめられるべきであり、した がって貧民ひんみん個々ここ所得しょとく関係かんけいなく最低さいてい所得しょとく保証ほしょうされるべきだと決定けっていした。(…)なるほど、賃金ちんぎんシステムがスピーナムランドでみとめられたような「生存せいぞんけん」 の撤廃てっぱい絶対ぜったい必要ひつようとしているということはなににもまして自明じめいなことであった。あたらしい、経済けいざいじん体制たいせいしたでは、なん労働ろうどうもせずに生計せいけいてられるものとすれ ばだれ賃金ちんぎんのためにはたらきはしないであろうから。」(ポラニー『だい転換てんかん』p.104-105)

    トル法とるほう制定せいてい

1798ねん
    マルサス『人口じんこうろん
    「まずしい労働ろうどうしゃ安楽あんらくが、労働ろうどう維持いじ予定よていされている基金ききん増大ぞうだい依存いぞんするものであり、そして、この増大ぞうだい運動うんどうにきわめて正確せいかく比例ひれいすることは、 ほとんどあるいはまったく、うたがいの存在そんざいしえないことである。このような増大ぞうだいがひきおこす労働ろうどう需要じゅようは、市場いちばでの競争きょうそうをつくりだすことによって、必然ひつぜんてき労働ろうどう価値かち騰貴とうきさせるにちがいないし、また必要ひつようかず追加ついか労働ろうどうしゃ成長せいちょうするまで、増大ぞうだいした基金ききんは、増大ぞうだいするまえおな人数にんずう分配ぶんぱいされ、したがってすべての 労働ろうどうしゃ比較的ひかくてき安楽あんらく生活せいかつするであろう。しかしおそくら、アダム・スミス博士はかせは、社会しゃかい収入しゅうにゅうあるいは資材しざいのすべての増大ぞうだいがこれら基金ききん増加ぞうかであるとかんがえて いることで、まちがっている。このような剰余じょうよ資材しざいあるいは収入しゅうにゅう実際じっさいつねに、それを所有しょゆうする個人こじんによって、もっとおおくの労働ろうどう維持いじできる追加ついか基金ききんこう えられるであろうが、しかしそれは、社会しゃかい資材しざいあるいは収入しゅうにゅう増大ぞうだい全部ぜんぶ、あるいはすくなくともだい部分ぶぶんがそれに比例ひれいしたりょう食料しょくりょうにかえられないかぎり、つい 労働ろうどうしゃすう維持いじのための真実しんじつかつ有効ゆうこう基金ききんではないであろうし、またそれは、その増加ぞうか労働ろうどう生産せいさんぶつからだけしょうじたのであって、土地とち生産せいさんぶつからしょうじた のではないばあいには、食料しょくりょうにかえられるものではないであろう。このばあい、社会しゃかい資材しざい雇用こようしうる労働ろうどうしゃかず土地とち扶養ふようしうるそのかずとの区別くべつが、しょうじ るであろう。」(角川かどかわ文庫ぶんこばん p.177-178)

    「このくに対外たいがいならびに対内たいない取引とりひきはたしかに、ぜん世紀せいき急速きゅうそく増大ぞうだいした。ヨーロッパ市場いちばにおいて、その土地とち労働ろうどうとの年々ねんねん生産せいさんぶつ交換こうかん価値かちは、う たがいもなくひじょうにおおきく増大ぞうだいした。しかし、検討けんとうしてみると、その増大ぞうだいはおもに労働ろうどう生産せいさんぶつについてであって、土地とち生産せいさんぶつではなく、したがってくに みんとみははやい速度そくど増大ぞうだいしてきたけれども、労働ろうどう維持いじのための有効ゆうこう基金ききんははきわめてゆっくりとしか増大ぞうだいせず、そしてその結果けっかは、予期よきされるとおりのも のであることが、わかるであろう。国民こくみんとみ増大ぞうだいは、まずしい労働ろうどうしゃ状態じょうたい改善かいぜんする傾向けいこうをほとんど、あるいはまったくもたない。かれらは、生活せいかつ必需ひつじゅひん便びん よろしひんにたいする支配しはいけん増大ぞうだいさせていないと、わたくしはしんじる。そして、かれらのうち、(名誉めいよ革命かくめい時期じきよりはるかにおおくの部分ぶぶんが、製造せいぞう工業こうぎょう雇用こようさ れて、密閉みっぺいした不健全ふけんぜん部屋へやにむらがっている。」(p.180-181)

1799ねん
    ブリュメールのクーデター。ナポレオンが総裁そうさい政府せいふたおし、執政しっせい政府せいふ樹立じゅりつ
    「われわれは、いちななはちきゅうねん以後いご、フランスの政治せいじ構造こうぞう全体ぜんたいをその基盤きばんから頂点ちょうてんにいたるまで、完全かんぜんえてしまった革命かくめいをいくつかてきている。その ほとんどはまったく突然とつぜん勃発ぼっぱつし、暴力ぼうりょくによって遂行すいこうされ、現行げんこう法律ほうりつ公然こうぜんおかしていた。ところが、これらの革命かくめいがもたらした混乱こんらんけっして長続ながつづきしなかっ たし、全国ぜんこく波及はきゅうすることもなかった。だい多数たすう国民こくみんは、革命かくめいこころうごかされることがほとんどなく、ときにはそれが革命かくめいだということにづくことさえないほど だった。  それは、いちななはちきゅうねん以降いこう政治せいじ制度せいど度重たびかさなる崩壊ほうかいのただなかにあっても、行政ぎょうせい制度せいどがずっと破壊はかいされずにいたからである。国王こくおう個人こじん中央ちゅうおう権力けんりょくしょ形式けいしきへん わったが、公的こうてきなものの日々ひびながれは、中断ちゅうだんすることも混乱こんらんすることもなかった。各人かくじんは、とくに自分じぶん関係かんけいのある些事さじについては、熟知じゅくちした規則きそく慣例かんれいにずっ としたがっていた。(…)最初さいしょ国王こくおうにおいて、つぎ共和きょうわせいにおいて、最後さいごには皇帝こうていにおいて、裁判さいばん行政ぎょうせいおこなったのは従来じゅうらいおな役人やくにんだった。運命うんめいみずからの車輪しゃりん従来じゅうらいおな回転かいてんをしていたから、おな役人やくにんが、国王こくおうのために、共和きょうわせいのために、皇帝こうていのためにといった具合ぐあいに、おな回転かいてんで、しかもおなじやりかたで、 行政ぎょうせい裁判さいばんをそのたびごとに再開さいかいしていた。というのも、役人やくにんにとって支配しはいしゃ名前なまえなどどうでもよかったからである。役人やくにん本務ほんむは、市民しみんであることよりも、 よき行政ぎょうせいかん、よき裁判官さいばんかんであることだった。だから、最初さいしょ震動しんどうってしまえば、国中くになかどこも、そしてなにうごかなかったかのようにかんじられた。」 (アレクシス・ド・トクヴィル『きゅう体制たいせいだい革命かくめい』、p.397-398)

1800ねん
    オーウェン、「ニューラナーク撚糸ねんし会社かいしゃ設立せつりつ
    「オウエンが近代きんだいてき労務ろうむ管理かんり制度せいど先駆せんくしゃわれるゆえんは、かれ方法ほうほう、つまり「人間にんげんせいかんする知識ちしき」を意識いしきてき適用てきようしたてんである。(…)
(…)
 オウエンは、賞罰しょうばつなど、そとからくわえられるちからによって、人間にんげんあやつることを適切てきせつなものとはかんがえなかった。うちはつてき労働ろうどう意欲いよくきだすことが環境かんきょう決定けっていろん眼目がんもく である。日報にっぽうせいも「サイレント・モニターせい」も、ともに工場こうじょう動態どうたい数量すうりょうてき把握はあくできるようにしたてん合理ごうりてき管理かんり方法ほうほうであった。また、労働ろうどう評価ひょうか現場げんば管理かんりしゃ一方いっぽうてきくだすのではなく、労働ろうどうしゃがその判断はんだん不満ふまんである場合ばあいには、上級じょうきゅう管理かんりしゃ不服ふふくもうてる権利けんりみとめていた。双方向そうほうこう対話たいわりたつ のこすことによって、納得なっとくのいく公正こうせい評価ひょうかとなるシステムを構築こうちくしようとこころがけていた。一種いっしゅの「不服ふふく審判しんぱん制度せいど先駆せんくとなる発想はっそうである。」(土方ひじかた直史なおふみ 『ロバート・オウエン』p.28-29)

    「労働ろうどう意欲いよくうちはつてききだすためには、経営けいえいしゃがわ意図いとが、労働ろうどうしゃ素直すなお理解りかいされ、両者りょうしゃあいだ信頼しんらい関係かんけいきずかれなければ効果こうかてきではない。つぎ つの方策ほうさく有効ゆうこうであった。ひとつは、工場こうじょう売店ばいてんでは、ぜん商品しょうひん原価げんか販売はんばいするという方針ほうしんがとられた。当時とうじ雇用こようぬし賃金ちんぎん一部いちぶ現物げんぶつ支給しきゅうすることが一般いっぱんてき であった。その場合ばあい、しばしばたか価格かかくがつけられたり、粗悪そあくひん支給しきゅうされることがあった。良質りょうしつ商品しょうひん公正こうせい価格かかく供給きょうきゅうされれば、販売はんばいしゃたる雇用こようぬしへのしん よりゆきたかめることはうまでもない。「公正こうせい取引とりひき」が日常にちじょう生活せいかつのなかで実感じっかんされるというメリットがあった。
 もうひとつは、人間にんげん性格せいかくそのものを教育きょういくによってえて、永続えいぞくてき労働ろうどう意欲いよく向上こうじょうさせる企画きかくであった。そのために、工場こうじょう敷地しきちない学校がっこう設立せつりつするとの計画けいかく構想こうそうされた。(…)」(p.30)

    伊能いのう忠敬ちゅうけい蝦夷えぞ測量そくりょう

    ワシントンD.C.に遷都せんと


UP:20040907 REV:20050523 20090214
労働ろうどう http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/w001.htm
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