(Translated by https://www.hiragana.jp/)
人間中心主義|anthropocentrism
HOME >

人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ|anthropocentrism

anthropocentrism English


立岩たていわ しん也 2009/03/25 ただせい筑摩書房ちくましょぼう,\2940

だいしょう 人命じんめい特別とくべつわず/

1 あたらしいことはふるいこととおなじだからゆるされるというせつ
 1 伝統でんとう破壊はかいしゃというやく
 2 すでになされているからよいというはなし
2 αあるふぁ意識いしき理性りせい
 1 αあるふぁ意識いしき理性りせい
 2 それはだつ人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎてきだつたね差別さべつてき倫理りんりではない
 3 それはひと生命せいめい特別とくべつわない
 4 ただそれが大切たいせつだとっているがその理由りゆう不明ふめいである
2 関係かんけいから
 1 〈だれか〉へのびかけ
 2 関係かんけい主義しゅぎ困難こんなん
 3 かつておやなどというものはなかったかのように
4 べつ境界きょうかいβべーた世界せかい内部ないぶ
 1 世界せかい内部ないぶ
 2 人間にんげん動物どうぶつ
 3 復唱ふくしょう

立岩たていわしん私的してき所有しょゆうろんだいしょうちゅう6(pp.165-166)

 「人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ」は「環境かんきょう倫理りんりがく」でろんじられる。環境かんきょうかんしてろんずるなかで「人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ」に言及げんきゅうしているものとして、村上むらかみやすしあきら[1984:340]、[1992:60]、森岡もりおか正博まさひろ[1988:63-80]、佐倉さくらみつる[1992:36]、等々とうとう

人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎAは、生存せいぞんのための資源しげんという視点してんから自然しぜんたいする。「道具どうぐ主義しゅぎてき人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ」(渡辺わたなべあきらしん[1994])とんでもよい。だから自然しぜん改変かいへんする。しかし、生存せいぞんのために自然しぜんを(一定いっていのレベルに)保存ほぞんすることも必要ひつようだということにもなる。この意味いみで「人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎてき自然しぜん保護ほご環境かんきょう保護ほごがありうるし、実際じっさいある(村上むらかみ[1984][1992]とう、この当然とうぜんのことを指摘してきするひとはいくらでもいる)。」(立岩たていわ[1997])

引用いんよう
人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ理解りかいはさまざまだろうが、普通ふつう解釈かいしゃくでは、人間にんげん健康けんこう生命せいめい追求ついきゅうがその中核ちゅうかくにおかれている。環境かんきょう主義しゅぎ公害こうがい反対はんたい運動うんどうも、おおくの場合ばあい、その目標もくひょう依然いぜんとして人間にんげん健康けんこう生命せいめいにおかれ、たい自然しぜんてき意味いみで、はっきりと人間にんげん中心ちゅうしんてきanthropocentricな姿勢しせいをとっている。」(村上むらかみやすしあきら[1992:60])

 すくなくともある部分ぶぶんについては徹底的てっていてき人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎてきかんがえていったほうがよく、この場合ばあいには、問題もんだい不十分ふじゅうぶんにしか人間にんげん中心ちゅうしんてきでないことにある。

引用いんよう
公害こうがいは、経済けいざいてき配慮はいりょ過剰かじょう問題もんだいなのではなくて、その不足ふそくつまり効率こうりつ問題もんだいなのであるが、ただそのさい効率こうりつが、個々人ここじん合理ごうりてき行動こうどうによっては達成たっせいできないのである。」(嶋津しまづ[1991:66])

「これにたいしてここでべたのは、自然しぜんることを価値かちとする人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎBである。そしてわたしたちあきらかにAとBとを同時どうじもとめている。両者りょうしゃ要求ようきゅうすることは対立たいりつしうる。どちらを優先ゆうせんさせ、どのあたりで調停ちょうていするか。「なんとかやっていける範囲はんいにとどめる」というぐらいのことはえたとしても、これでまりという決定的けっていてきかいはない。」(立岩たていわ[1997])

人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎに「人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ」「だっ人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ」が対置たいちされ、自然しぜんさかい動物どうぶつ植物しょくぶつ・…)に「内在ないざいてき価値かち」「固有こゆう価値かち」(inherent values)があるといった主張しゅちょうがある。べたことはこれとどう対立たいりつするのか、あるいはしないのか。まず、その自然しぜんがなければ、かんじたり価値かちみとめることはありえない。その意味いみ自然しぜん独立どくりつしたものとしてあり、自然しぜん(を構成こうせいする個々ここのもの)に固有こゆう価値かち内在ないざいてき価値かちがあるというる。だが他方たほう価値かちみとめている(それにもとづいてなにかをおこなうこともある)のはだれかとかれれば、わたしだとうしかない。そのかぎりでは「人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ」と「固有こゆう価値かち」の主張しゅちょう対立たいりつせず、いまべた(不可避ふかひな、うまでもない)人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎのこる――人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎZ。
 C「(固有こゆう価値かちはあるが)人間にんげんにとって価値かちなあるいは有害ゆうがい自然しぜん」を想定そうていしうるか。想定そうていできるなら、人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎZのもとにAとBとCがあることになるか。AにたいしてCは対置たいちされうる――利用りようできない、きていくうえ脅威きょういとなる自然しぜん。ただBの場合ばあいには、わたしいたる)でないものがあること自体じたい価値かち見出みいだされるのだから、CはBにふくまれる(BのなかのCがAと対立たいりつする)。
 「自分じぶん自身じしんにとっての他者たしゃとしての自然しぜんを、人間にんげんもとめているのだ。自然しぜんときにそのうつくしさをもって人間にんげん魅了みりょうしてくるし、とき猛威もういをもっておそいかかってくる。人間にんげん関与かんよとはかかわらぬところで現前げんぜんし、それ自体じたい活動かつどうし、それ自身じしん本質ほんしつをもつ、そのようなものとして自然しぜん経験けいけんすることを人間にんげんほっしているのだ。」(丸山まるやま徳次とくじ[1995:274]、 丸山まるやま[1994]、池田いけだ清彦きよひこ[1992]も参照さんしょうのこと)
 さらに、以上いじょうにも関連かんれんし、自然しぜん価値かちおもけをめぐ議論ぎろんがある。感覚かんかく存在そんざい根拠こんきょとする(「感覚かんかく主義しゅぎ」sentientism)シンガーとう動物どうぶつ解放かいほうろん(cf.だいしょうちゅう08、平石ひらいし隆敏たかとし[1994]、鬼頭おにがしら[1995])があり、「生命せいめい主体しゅたい」であるものに権利けんりがあるとする立場たちばがある(Reagan[1974][1993]とう、cf.Feinberg[1974][1980b]、飯田いいだわたる[1995])。他方たほうに、ゆう機体きたい生態せいたいけい、エコシステムとう全体ぜんたいとしてみることが大切たいせつだとする主張しゅちょうがある。前者ぜんしゃ後者こうしゃ対立たいりつ構成こうせいするとされ、前者ぜんしゃ後者こうしゃからその個別こべつ主義しゅぎ批判ひはんされ、後者こうしゃ前者ぜんしゃから(とかぎらないが)その「全体ぜんたい主義しゅぎ」が批判ひはんされる。後者こうしゃについて「有機ゆうきたい」と「共同きょうどうたい」を区別くべつし、「共同きょうどうたいせつ個々ここ自然しぜんぶつ固有こゆう価値かちみとめるものだといった主張しゅちょうもある(Katz[1985])。
 これらは、なにによりおおくの価値かちみとめるのか(あるいは価値かち序列じょれつ自体じたい否定ひていすべきか)という議論ぎろんであり、うまでもなく、いずれも人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎZのなかにある。そして、Aの立場たちばから、生態せいたいけい全体ぜんたい大切たいせつだといった主張しゅちょうもあるが、みずからからの「ちかさ」という契機けいきることができないならBのなかにも序列じょれつ存在そんざいしうる――これとおなじものではないが、人間にんげんによりたものに価値かちあたえるのもまた「人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ」とぶことができよう。現存げんそんする人間にんげんだけでなく未来みらい人間にんげんのこともかんがえようという「世代せだいあいだ倫理りんり」の議論ぎろんがある。(「よわ人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ」の主張しゅちょうとしてNorton[1984]、「人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ」「人間にんげん主義しゅぎ」について渡辺わたなべ[1994]、谷本たにもと光男みつお[1995]、「内在ないざいてき価値かち批判ひはんとして浜野はまの研三けんぞう[1994]、ネスらの「ディープ・エコロジー」の紹介しょうかいとして菊地きくちめぐみぜん[1994]、森岡もりおか[1995b]、「全体ぜんたいろん」についての検討けんとうとして菊地きくち[1995]。「世代せだいあいだ倫理りんり」について高橋たかはし久一郎ひさいちろう[1994]、谷本たにもと[1994]。Stone[1972=1990]とう自然しぜんもの)の「権利けんり」という主張しゅちょう検討けんとう批判ひはんとして大澤おおさわ真幸まさき[1990→1991]、池田いけだ[1990b→1996a:90]、ひとし)。自然しぜんぶつの「権利けんり」についてだけ付言ふげんしておく。このかたりにどのような意味いみあたえるかによる。たとえば権利けんり主体しゅたい選択せんたく応答おうとう能力のうりょくもとめるなら、自然しぜんぶつ権利けんりといういいかたあやまっている。たが、こうした資格しかく必須ひっすとしないなら、自然しぜんぶつ権利けんりという発想はっそう特段とくだん奇異きいではない。また、それが、わたしではない(わたし自由じゆうにすべきでない)ものがあることをおうとしているのだとはえる。ただ以上いじょうは、権利けんりかたり使用しよう適切てきせつだと主張しゅちょうするものではない。かえすが、権利けんり付与ふよおこなうのはわたしたちであり、このことを曖昧あいまいにする効果こうかがあるならこのかたりもちいることは適切てきせつではない。以上いじょう、よりくわしくはhp環境かんきょう倫理りんり。」(立岩たていわ[1997])

 森岡もりおか正博まさひろ[1988]のう「環境かんきょう倫理りんりがく」と「生命せいめいけん倫理りんりがく」も、以上いじょう言葉ことばもちかたでは、十分じゅうぶんに「人間にんげん中心ちゅうしんてき」である。森岡もりおか定義ていぎする「人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ」は「生命せいめいけんが(1)最高さいこうきとし(2)最高さいこうのこかくりつたかいようにせよ」という「生命せいめいえん原理げんり」と、「他者たしゃ自分じぶん自身じしん理想りそう状態じょうたい最高さいこう接近せっきんするようにせよ」という「他者たしゃ原理げんり」([森岡もりおか[1988:69])――ここで他者たしゃとは「「わたし」にとっての「あなた」に理論りろんじょうなり存在そんざい」であり、他者たしゃ概念がいねんは「生物せいぶつがくてきヒトの境界きょうかいえて、ヒト以外いがい生命せいめいにまで、うすめられながら拡散かくさんしていく」(森岡もりおか[1988:63],「理論りろんじょうなりる」に傍点ぼうてん)とされる――のふたつの行為こうい原理げんり衝突しょうとつした場合ばあいに「つね他者たしゃ原理げんり優先ゆうせんする立場たちば人間にんげんのことのみを第一義だいいちぎかんがえる…立場たちば」であり、「人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ」は「他者たしゃ原理げんり優先ゆうせんさせるだけでなく、あるケースにおいては双方そうほう原理げんり妥協だきょうさせ、またあるとき他者たしゃ原理げんりよりも生命せいめいけん原理げんり優先ゆうせんする立場たちば」(森岡もりおか[1988:80])である。もちろんここで、森岡もりおかは「生命せいめいけん倫理りんりがくといえども、「わたしたち」人間にんげん生命せいめいけんのことについて(1)判断はんだんし、「わたしたち」人間にんげんが(2)行為こういするしかないというてんで、それは「人間にんげん」のわくないにとどまっている」(森岡もりおか[1988:80],「判断はんだん」と「行為こうい」に傍点ぼうてん)ことを指摘してきしている。

 「よわ人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ」についてNorton[1984]。飯田いいだわたる[1995]、菊地きくちめぐみぜん[1995]、丸山まるやま徳次とくじ[1994][1995]、高橋たかはし久一郎ひさいちろう[1995]、谷本たにもと光男みつお[1995]、ひとし丸山まるやま見解けんかい丸山まるやま[1995:274])が本文ほんぶんべたことにちかい。佐倉さくらみつる[1992:36]

* Singer, Peter
* Kuhse, Helga


REV:20090902
生命せいめい倫理りんり  ◇環境かんきょう保護ほご保全ほぜん問題もんだい
TOP HOME (http://www.arsvi.com)