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「死刑執行人」――日本(江戸時代)
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死刑しけい執行しっこうじん」――日本にっぽん江戸えど時代じだい


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last update: 20160526


だれが「死刑しけい執行しっこうじん」となるか?
 江戸えど時代じだい後期こうき町奉行まちぶぎょう同心どうしんうち当番とうばんかたわか同心どうしん士族しぞく)、山田やまだあさみぎ衛門えもん浪人ろうにん)、「非人ひにん
ちゅう地方ちほうによってことなる)

関連かんれん言及げんきゅう引用いんよう(年代ねんだいじゅん

石井いしい 良助りょうすけ 19640225 江戸えど刑罰けいばつ中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ,202p.

本書ほんしょ江戸えど時代じだい、ことに幕府ばくふ刑罰けいばつ牢屋ろうやおよび人足ひとあし寄場よせばについて叙述じょじゅつしたものである。
 ここで注意ちゅういしておかなければならないことは、江戸えど時代じだい刑罰けいばつ牢屋ろうやとの関係かんけい現代げんだいのそれとはことなることである。現代げんだいでは、裁判さいばんによってある犯罪はんざいじんたいするけい確定かくていし、そのけい懲役ちょうえきまたは禁錮きんこ場合ばあいに、けい執行しっこう刑務所けいむしょでなされることになっている。すなわち、刑務所けいむしょけい執行しっこうであるから、牢屋ろうやのことを刑罰けいばつ一部いちぶとしてべることは適当てきとうである。
 ところが、江戸えど時代じだい牢屋ろうや未決みけつ拘禁こうきんおけしょであって、原則げんそくとしてけい執行しっこうじょうではない。刑罰けいばつ宣告せんこくされるまえの被疑ひぎしゃ収容しゅうようするところである。
 したがって、江戸えど時代じだいかんしては、刑罰けいばつした牢屋ろうやふくませることは、理論りろんてきには適当てきとうとはいえないが、現代げんだい読者どくしゃ刑罰けいばつといえば当然とうぜん牢屋ろうやのことをおもいうかべるだろうから、簡明かんめいほっして、本書ほんしょ題名だいめいは『江戸えど刑罰けいばつ』とした。
中略ちゅうりゃく
 本書ほんしょはこのように、江戸えど時代じだい刑罰けいばつないし行刑ぎょうけい一般いっぱん予防よぼうより特別とくべつ予防よぼう懲戒ちょうかいより懲役ちょうえきへ)への発展はってんという過程かていにおいてとらえつつ、どう時代じだい刑罰けいばつ牢屋ろうやおよび人足ひとあし寄場よせばについてべたものである」(pp.-)

"牢屋ろうや"のはたらき

 現代げんだいでは、刑法けいほう規定きていされたしゅけい懲役ちょうえき禁錮きんこ罰金ばっきん拘留こうりゅうおよび科料かりょうのうち、もっとも主要しゅようなものは、刑務所けいむしょにとじこめる懲役ちょうえき禁錮きんこであろう。死刑しけいもあるが、殺人さつじんたいしても、よほどの兇悪きょうあくはんでないとせられない。罰金ばっきんかずにおいてもっともおおいにちがいないが、交通こうつうはんなどにられるように、刑罰けいばつとしての意識いしきはそれほどつよくないようにおもわれる。
 これにたいして、江戸えど幕府ばくふほうにおける主要しゅよう刑罰けいばつは、死刑しけい(ことに死罪しざい下手人げしゅにん)と追放ついほうけいであったといえよう。このほか、敲と入墨いれずみひろおこなわれたが、これらはぬすみおよび博奕ばくえきたいする特別とくべつ>19>ともしょうすべきものであった。
 しかし、牢屋ろうやにとじこめることを内容ないようとする懲役ちょうえき禁錮きんこにあたるものはなかった。全然ぜんぜんなかったわけではなく、のちれるように、えいろう過怠かたいろうという刑罰けいばつもあったが、刑罰けいばつ体系たいけいうえからいえば例外れいがいてきなもので、『じょうしょ下巻げかんだいさんじょうの「仕置しおき仕形しかたこと」にも、りょう刑罰けいばつっていない。
 それでは、江戸えど時代じだい牢屋ろうやなにのためにあったかといえば、それは未決みけつ拘禁こうきんしょであって、刑罰けいばつとして入牢にゅうろうさせるのではなかった。あるものがある犯罪はんざい嫌疑けんぎしゃとして逮捕たいほされたとき、奉行ぶぎょうしょでは簡単かんたん取調とりしらべをして、有罪ゆうざい嫌疑けんぎがあれば、まずこれを入牢にゅうろうさせて、それから「吟味ぎんみ」にりかかったのである。もっとも、未決みけつものをすべて入牢にゅうろうさせたわけではない。けいざいものは、宿やどあずか町村ちょうそんあずかなどにするが、比較的ひかくてきつみおももの入牢にゅうろうさせた。したがって、江戸えど時代じだい牢屋ろうや重罪じゅうざい未決監みけつかんともぶべきであろうか」(pp.19-20)

「しかし、近代きんだいてき自由じゆうけいてきなものを江戸えど牢屋ろうやもとめることはできない。近代きんだいてき自由じゆうけいは、犯人はんにん自由じゆううばうとともに、一定いってい労役ろうえきすることによって、出獄しゅつごく生業せいぎょうにつく準備じゅんびをさせ、これを改善かいぜんしようとするものであるが、江戸えど牢屋ろうやにはまったくこういう制度せいどはなかったのである。
 近代きんだいてき自由じゆうけいせいにあたるものは、寛政かんせい年間ねんかんに、老中ろうじゅう松平まつだいら定信さだのぶによって江戸えど石川いしかわとうもうけられた人足ひとあし寄場よせばであろう。しかし、幕府ばくふ以外いがいてんずれば、しょはんでは、すでにこれ以前いぜんに、近代きんだいてき自由じゆうけいにあたる徒刑とけいせいもうけているところがすくなくない。その比較的ひかくてきはやいものといわれる熊本くまもとはん徒刑とけいじょうのごときは、すでにたかられきねんいちなな)にもうけられている。『公事こうじかたじょうしょ制定せいていのわずかじゅうさんねんあとである」(p21)

以上いじょうべたところを総括そうかつすると、江戸えど時代じだい刑罰けいばつないし刑罰けいばつ思想しそうは、ひろしねんいちななよん)、『公事こうじかたじょうしょ』の制定せいていさかいとしておおきく変化へんかしていることがわかる。
 だいいちに、この前後ぜんごにおいて、刑罰けいばつ残酷ざんこくさにおいて程度ていどがある。このまえまではきびしく、こののちでは緩和かんわされている。だいに、この以前いぜんでは、刑罰けいばつはもっぱら犯罪はんざい事実じじつ問題もんだいにして、懲をしゅたる目的もくてきとしてせられたが、この以後いごは、犯人はんにんつみというものを問題もんだいにするようになり、犯人はんにん改悛かいしゅんさせることに主眼しゅがんがおかれるようになった。だいさんに、罪人ざいにんろうにとじこめるとともに、これを改善かいぜんし、労役ろうえきをおして、ろう生業せいぎょうせしめようとする徒刑とけいせい発達はったつした。このだいさん思想しそうだい思想しそううえにおいてのみまれることができたのである」(p22)

死刑しけいとしてはのこ挽がもっともおもく、みぎじゅんかるくなり、下手人げしゅにん一番いちばんかるいことになる。しかし、のこくことは形式けいしきだけで、実際じっさいはあとではりつけになるのだから、のこ挽ははりつけ附加ふかけいともられる。獄門ごくもん死罪しざいになったものくびさらすものであるから、晒首さらしくび自体じたい死罪しざい附加ふかけいともられる。死罪しざい下手人げしゅにんとのべつも、下手人げしゅにん家屋かおくじき家財かざい没収ぼっしゅう(およびよう)が附加ふかけいとしてくわわったものが死罪しざいである、とられないわけではない。こういうふうかんがえると、江戸えど時代じだい庶民しょみん死刑しけいはつぎのように整理せいりできるであろう。
 基本形きほんけい はりつけ  ざい 下手人げしゅにん
      ↓      ↓
 変形へんけい  のこ挽     死罪しざい
              ↓
              獄門ごくもん
 もっとも、江戸えど時代じだいでは、のこ挽、獄門ごくもん死罪しざいは、ふつうそれぞれ独立どくりつ刑罰けいばつとしてかんがえられていたのである」(p29)

首切くびきやくまち同心どうしんやくである。揚屋あげやれられているものはどうしてもまち同心どうしんらなければならないが、平素へいそりなれていないので、ことのほかへただったという。科人とがにん苦痛くつうこたえかねて、身体しんたいをそらすことがある。手伝てつだえ人足ひとあしもこまって、こういうとき科人とがにん両足りょうあしをひき、せてくびった。
 しかしたくみなものもいた。後藤ごとうぼうという同心どうしん打首うちくび妙手みょうしゅであって、つよふしなどは片手かたてかさたずさえ、直立ちょくりつのまま、"小刀こがたないちあたままえび"衣服いふくかたなあめれないで、さんよんにんくび瞬時しゅんじにしてってしまったという。
 くびせつなあさみぎ衛門えもんあさみぎ衛門えもんともく)として有名ゆうめい山田やまだちょうみぎ衛門えもんは、かたなさま御用ごようをするのが本職ほんしょくであって、罪人ざいにんくびやくではないが、くびやくつとめることもある。しかし、これはまち同心どうしんよりとくにたのんだ場合ばあいである。ひろしねんいちはちよん)、町奉行まちぶぎょう跡部あとべ能登のともりから、やくかた盗賊とうぞくあらため)への回答かいとうに、
 死罪しざい其外仕置しおきしゃくびやくぐみ同心どうしんしょうつとむこうゆう山田やまだちょうみぎ衛門えもんとうハ、さま御用ごようにて罷出まかりでこうにて、みぎ>39>御用ごようこれぶし罷出まかりで死刑しけいこれしゃゆうこうハゞ、其場にり、同心どうしんかわしょうつとむこうゆう云々うんぬん
 とある。
 くびやくかたなとぎだいとしてきむ二分にぶん奉行ぶぎょうしょよりもらう。もしあさみぎ衛門えもんくびらせるときは、同人どうじんから若干じゃっかんれいける。これは、あさみぎ衛門えもんたのまれた新刀しんとうくびって刀剣とうけんためしきょうするので、たのしゅから謝礼しゃれいをもらうからである」(pp.39-40)

切腹せっぷくについては、『じょうしょ』には規定きていしていないが、やはり士分しぶん以上いじょうけいである。赤穂あこう義士ぎし場合ばあいには御預おあづけの大名だいみょう屋敷やしきおこなわれたが、牢屋ろうやないおこなわれたこともある。いずれも検使けんししてかんさせた。
 にわちゅうすなをしき、そのうええんなしのたたみじょうをしいて処刑しょけいじょうとする。ろうないではあげ座敷ざしきまえにわもちいる。ほん介錯かいしゃくじんいちにん、添介錯かいしゃくじんにんはいずれも町方まちかた同心どうしんである。ほん介錯かいしゃくじんがその姓名せいめいべて一礼いちれいし、かたないて科人とがにん背後はいごにいる。添介錯かいしゃくじん科人とがにんたすけてころもをぬがせ、合図あいずせきをすると、牢屋ろうや同心どうしん木刀ぼくとうせた三方さんぽうってきて、科人とがにんせきよりさんしゃくほどはなれたところにおき、添介錯かいしゃくじん科人とがにんにこれをいただくようにもうわたす。科人とがにんばしてろうとするときに、ほん介錯かいしゃくじん背後はいごからくびを刎ねる。
 添介錯かいしゃくじんくびかかげて、みぎでたぶさをり、ひだりしたえて、みぎひざをついて検使けんしの>43>かた横顔よこがおける。検使けんし目付めつけなんもり見届みとどけたむね御徒おかち目付めつけがいう。そこで、くび死体したいえる。下男げなん死骸しがい薄縁うすべりをかけて、かたわらにせる。検使けんし以下いか退席たいせきし、評定ひょうじょうしょおもむき、無事ぶじすんだむね報告ほうこくするのである。
 以上いじょうろうないでの切腹せっぷく場合ばあいであるが、浅野内匠頭あさのたくみのかみ田村たむらてい切腹せっぷくした場合ばあいには、大名だいみょうであるから大目おおめづけ検使けんしき、御徒おかち目付めつけ介錯かいしゃくしている」(pp.43-44)

本書ほんしょ牢役人ろうやくにんというのは、牢屋ろうや監理かんりのためにおかれた幕府ばくふ役人やくにんのことである。このほか、かく監房かんぼうには、名主なぬしその囚人しゅうじん自治じちてき役人やくにんがおかれているが、かれらは、当時とうじろうない役人やくにんとか役人やくにんしゅうじんとかばれている。
 小伝馬こでんままち牢屋ろうや町奉行まちぶぎょう支配しはいぞくしたが、町奉行まちぶぎょうしたにあって牢屋ろうや管理かんりするのは、しゅうごくしょうする役人やくにんである。しゅうごくぞく牢屋ろうや奉行ぶぎょうともばれ、石出いしで代々だいだい世襲せしゅうして石出いしで帯刀たいとういでいた。ろう屋敷やしきない拝領はいりょう屋敷やしきみ、ろう屋敷やしきのことをいちさい管理かんりするが、浅草あさくさ品川しながわりょうため管理かんりしない。しゅうごく与力よりき格式かくしきで、町奉行まちぶぎょう支配しはいぞくし、やくだかさんひゃくひょうである。不祥ふしょう役人やくにんとして登城とじょうゆるされず、旗本はたもと交際こうさいもしない。その縁組えんぐみ武士ぶしもとめがたく、代々だいだいむら名主なぬしなどとむすんだという。
 しゅうごくしたには同心どうしん下男げなんがいた。同心どうしんかずふるよんにんであったが、座敷ざしきができたときにじゅうにんとなり、百姓ひゃくしょうろう新設しんせつのときはちにん増員ぞういんし、慶応けいおう元年がんねんいちはちろく揚屋あげや増設ぞうせつさいななじゅうろくにん増員ぞういんされた。同心どうしんはその勤務きんむによって、かぎやく小頭こがしら世話せわやくやくものしょしょつめすうやくたいらばんもの書役かきやくまかないやく勘定かんじょうやく牢番ろうばんなどにかれている。かぎやくにんで、よんひょうよんにん扶持ふちであるが、その同心どうしんじゅうひょうにん扶持ふちもらっているのがおおい。いちひょうこめさんしょうで、一人ひとり扶持ふちこめいちにちごう>105>のわりきゅうせられる。
 かぎやくかぎばんともいう。諸口しょくちかぎ保管ほかんし、囚人しゅうじん出入でいりにかんするいちさいの事務じむあつかう。小頭こがしらそうろう番人ばんにん小頭こがしらにんいる。小頭こがしらはそのほか、囚人しゅうじん護送ごそう警固けいごにんにあたる。やくろうとえ、敲のやくをするほか、遠島えんとう入墨いれずみ死刑しけい執行しっこうなどをてのひらる。すうやくは敲のかずかぞえるやくであるが、やくなかよりつとめることもある。たいらばんろうないではひら当番とうばんばれ囚人しゅうじん呼出よびだしのときの護送ごそう警固けいごつとめ、小頭こがしら世話せわやくとともにした当番とうばんしょそうろう当番とうばんしょ)にめる。
中略ちゅうりゃく
 下男げなんろうない張番はりばん門番もんばん炊事すいじ運搬うんぱんその雑務ざつむ従事じゅうじし、給料きゅうりょうはふつういちりょうふん一人ひとり扶持ふちで、そのほかいちにちよんぶん味噌みそだいきゅうせられる。人数にんずうははじめさんじゅうにんで、安永やすながよんねん百姓ひゃくしょうろうができたときにさんじゅうはちにん慶応けいおう元年がんねん揚屋あげやけんぞうのときによんじゅうはちにんとなった。だきいれ御家人ごけにんであるから、しょくはなれると御家人ごけにん身分みぶんうしなう」(pp.105-106)

江戸えど時代じだい刑法けいほう基本きほんてきなものは、
 『日本にっぽん近世きんせい行刑ぎょうけい稿こうじょう 日本にっぽん刑務けいむ協会きょうかい昭和しょうわじゅうはちねん
である。だいじゅうろくしょう「敲」以下いか、「入墨いれずみ」「遠島えんとう」「過怠かたいろう」「えいろう」「死刑しけい」のかくしょうがこれにあてられている。江戸えど幕府ばくふけい中心ちゅうしんとしているが、すべてのけいしゅ網羅もうらしているわけではない。しかし、史料しりょう掲載けいさいしてあって、有益ゆうえきである」(p200)

正木まさき あきら 19680720 現代げんだい恥辱ちじょく――わたくしの死刑しけい廃止はいしろん矯正きょうせい協会きょうかい,385p.

むかし徳川とくがわ家康いえやすくびあさみぎ衛門えもん制度せいどもうけた。くびあさみぎ衛門えもんは、家康いえやすからその子々孫々ししそんそんいたるまで罪人ざいにん首斬くびきりをその世襲せしゅう職業しょくぎょうとしてみとめられた。しかし、家康いえやすあさみぎ衛門えもん武士ぶしとしてみとめることはなかった。格式かくしきいちまんせき相当そうとうするといわれたあさみぎ衛門えもんになぜ家康いえやす武士ぶしたるの資格しかくあたえなかったかということがいろいろに想像そうぞうされるけれども、結局けっきょくはその職業しょくぎょう武士ぶしという幕府ばくふ一役ひとやくじん職業しょくぎょうにふさわしくからぬという理念りねんうえったものとおもわれる」(p35)
→(補足ほそく櫻井さくらい悟史さとし事実じじつ誤認ごにんである。初代しょだい山田やまだあさみぎ衛門えもん山田やまださだたけは1657ねんまれで、このときすでに家康いえやすぼっしている(氏家うじいえ1999:217)。また、山田やまだあさみぎ衛門えもん本職ほんしょくようり(ためしぎり)であり、首斬くびきりではない。

「かように、戦争せんそう放棄ほうきしてしまい、国家こっか人間にんげん戦争せんそういやることをやめてしまったことは、結局けっきょく、その国家こっか国民こくみん生命せいめいおもさをみとめたことであるから、国民こくみんみずからもまた自己じこ生命せいめい尊重そんちょうしなければならないことになったのである。自分じぶんいのち他人たにんいのちもみな大切たいせつにしなければいけない。人殺ひとごろしはおろか、自殺じさつ犯罪はんざいであるという倫理りんり昂揚こうようしていく国民こくみん教育きょういく大地だいちつくげられたわけである。
 ところが、このあたらしい国民こくみん倫理りんり思想しそううえりのこされ解決かいけつのままである問題もんだいがある。それがすなわち死刑しけいである。死刑しけい極悪ごくあく犯人はんにん膺懲ようちょうする唯一ゆいいつ手段しゅだんであると大昔おおむかしからかんがえられ、そのかんがえがしみこんでいるから容易ようい解決かいけつのできないことは当然とうぜんであるが、しかし、死刑しけい実体じったいは、>70>国家こっか権力けんりょくをもって人殺ひとごろしをすることである。死刑しけい執行しっこうする矯正きょうせいかんはその犯人はんにんから個人こじんてき被害ひがいをうけているものではない。その矯正きょうせいかんはただ国家こっか命令めいれいもとづいて殺人さつじんをするのであるが、命令めいれいによってひところすことにおいては、戦争せんそうなんことなるところがないのである。国家こっかいちめんにおいて戦争せんそう放棄ほうきしながら、他面ためんにおいて権力けんりょくころせみとめる矛盾むじゅんおかすと同時どうじに、またいちめん国民こくみん生命せいめいとうとさを教育きょういくしながらみずからは法律ほうりつ殺人さつじんおこなうというギャップをえておこなっているのである。あたらしい国家こっかはそんなギャップのある刑罰けいばつ、いいかえれば、そんな迷信めいしんてき刑罰けいばつ維持いじするよりも、もっと有効ゆうこう合理ごうりてき刑罰けいばつ乃至ないし制裁せいさい移行いこうして犯罪はんざい防波堤ぼうはていとすることが賢明けんめいであるという反省はんせいおこなわれるようになったのである。(中略ちゅうりゃく
 今日きょう世界せかいじんはかように死刑しけい問題もんだい反省はんせいしている。矯正きょうせいかん国家こっかから死刑しけい執行しっこう批判ひはん命令めいれいされ、そして殺人さつじんごうたっているのである。その矯正きょうせいかんという名前なまえ自体じたいしめしているように、矯正きょうせいかんとは本来ほんらい囚人しゅうじん矯正きょうせいしこれを人間にんげん復帰ふっきせしめることがその職務しょくむであるにかかわらず、その教育きょういくかん素顔すがお人間にんげんころさなければならないということに反省はんせいでありるならば、矯正きょうせいかんということはのみで徳川とくがわ時代じだい牢番ろうばん地位ちいにあまんじているというそしりをけてもやむをまい。徳川とくがわ時代じだい死刑しけいは、武士ぶしたいするけい場合ばあいのぞいては非人ひにんだにものけがれあたまだん左衛門さえもん指揮しきに>71>よっておこなったものであるが、徳川とくがわ時代じだいでさえ死刑しけい執行しっこう常人じょうじんおこなうものにずとされていたものを、今日きょう反省はんせいのままそのことにたることは、まったく、矯正きょうせいかんとして、立場たちばはぶけりみないことにもなるとおもわれる。制度せいどのあるかぎり、命令めいれいによって執行しっこうはしなければならないとしても、ふか反省はんせいけっしておこたるべきではない」(pp.70-72)
補足ほそく櫻井さくらい悟史さとし)→徳川とくがわ時代じだいくだりは、事実じじつ誤認ごにんである。死罪しざい下手人げしゅにん庶民しょみんせられた死刑しけいであるが、町奉行まちぶぎょう同心どうしんうち当番とうばんわか同心どうしん、あるいは浪人ろうにん山田やまだあさみぎ衛門えもんがこれを執行しっこうした(財団ざいだん法人ほうじん刑務けいむ協会きょうかいへん うえ1943:660)。

「しかし、徳川とくがわ時代じだい死刑しけいと雖も非常ひじょう残酷ざんこく末期まっきちかづくにつれて、残虐ざんぎゃくけい追加ついかされていった。徳川とくがわもちいた死刑しけいつぎのとおりであった。

 1、下手人げしゅにん 被害ひがいしゃのためにするけいである。だから被害ひがいしゃ罪人ざいにんしたしてころさせもする。
 2、死罪しざい けいとも吻刑ともいわれる。いよいよ執行しっこうするときはろう証文しょうもんをもって言渡いいわたし、ちょくち>76>に非人ひにん大勢おおぜいにてりかこみ死罪しざいきりじょうにつれてって、手伝てつだえ人足ひとあし囚人しゅうじんおさえをるをやくくびおとすのである。この場合ばあい死刑しけい執行しっこうじんはみな非人ひにんである。日本にっぽん死刑しけい執行しっこうじん地位ちいがいかに賤しいものとされていたかがおわかりであろう。
 3、獄門ごくもん 獄門ごくもんとは、うまくらうえこもいちまいかけ死刑しけいしゅうせ、うま非人ひにん左右さゆうからなわをとってうごかぬように牢獄ろうごくうらからて、先払さきばらい非人ひにんにんのぼりち捨札かわどもろくにん非人ひにん、鎗ほん、挿道ものがつきい、わりのものいずれもけがれあたまやからたにものはちにんにてそれぞれ分担ぶんたんよんにん非人ひにん囚人しゅうじんにつきい、宰領さいりょうけがれあたまだん左衛門さえもんやからたにものにん宰領さいりょう小屋こやあたま非人ひにんにんにて行列ぎょうれつつくさだめられたる道筋みちすじを引廻しごくかえごくない打首うちくびにする。
 4、はりつけ つみ十文字じゅうもんじにくくりつけて、左右さゆうりょうはしよりやりすうさんすじつきさし、最後さいご左右さゆうより咽喉いんこうにとどめをさしてころす。この執行しっこうをするものあたま非人ひにんだん左衛門さえもん指揮しきにより人数にんずうめいおこなう。
 5、ぎゃくはりつけ 罪人ざいにんをさかさまにつみにくくりつけてころ方法ほうほう
 6、みずはりつけ これは寛永かんえい年間ねんかん吉利支丹きりしたん征伐せいばつのためにもちいた磔刑たっけいで、寛永かんえいいちななねん品川しながわみずさいなな余人よにんぎゃくはりつけとし、満潮まんちょうのたびごと一時いちじてき窒息ちっそくさせ、はち日間にちかんにてころした刑罰けいばつ執行しっこうじん非人ひにん
 7、ざい これは小塚原こづかはらすずもりまたは犯罪はんざいおこなったけいで、罪人ざいにんうま町中まちなかひきまわし、ばくをとかないでそのままつみにくくりつけ、かやたきぎ四面しめんかさねそのうえにたばねざるちがやらしをつけてころす。所要しょようたきぎいちちがやなな〇〇大縄おおなわ中縄なかなわしがらみ佐野さのたきぎななもちいる。執行しっこうじん非人ひにん
 8、のこ挽 罪人ざいにん土中どちゅうにうづめ、くびし、罪人ざいにんりょうかたり、そのたけのこにぬりつけ、道行みちゆひとにてのぞむものあればくことをゆるす死刑しけい方法ほうほう執行しっこうじん非人ひにん

 このように、武家ぶけ時代じだい死刑しけい残虐ざんぎゃくきわまりのないものであったが、これらの執行しっこう武士ぶしにやら>77>さなかったこと、そして、その執行しっこうじん非人ひにんたにものという特殊とくしゅ階級かいきゅうしゃがあてられたというところに、武士ぶしそのものですら死刑しけい執行しっこうをさけたということを考証こうしょうすることができるのである。わたくしは、この徳川とくがわ時代じだい死刑しけいかんする執行しっこうじん問題もんだいが、今日きょう行政ぎょうせい制度せいどじょうすこしも考慮こうりょれられていないのではなかろうかとのうたぐつのである。そして、わたくしは、そういう歴史れきしてき刑罰けいばつ執行しっこうじょう地位ちいを、今日きょう矯正きょうせいかんすこしも反省はんせいすることなくけついで、しかも、死刑しけいがなければ国家こっか社会しゃかい犯罪はんざいなみたかまるであろうとかんがえるものがあるとすれば、わがくに刑罰けいばつ思想しそうは、徳川とくがわ時代ときよ以上いじょうのものではないし、行刑ぎょうけい文化ぶんかなどということは一場いちじょうゆめぎないとおもう」(pp.76-78)
補足ほそく櫻井さくらい悟史さとし)→おおくの事実じじつ誤認ごにんがある。下手人げしゅにん死罪しざい執行しっこうしたのは、町奉行まちぶぎょう同心どうしんうち当番とうばんわか同心どうしん、あるいは浪人ろうにん山田やまだあさみぎ衛門えもんである。死罪しざいが、「けいとも吻刑ともいわれる」とかれているが、けいまさしくは斬罪ざんざい)は「御家人ごけにん以上いじょうものにして火付ひつき盗賊とうぞくひところせとう武士ぶしどうにあるまじき重罪じゅうざいおかせるものまた國事犯こくじはんごときをしょし」(財団ざいだん法人ほうじん刑務けいむ協会きょうかいへん うえ:746)とあるとおり、士族しぞくされた死罪しざいであり、明確めいかく使つかけられていた。また、斬罪ざんざい方法ほうほう箇所かしょには「此のときすでくび討町同心どうしんつみしゅう左側ひだりがわざいつてくびつ。非人ひにんただちにこれひろえあらい檢使けんし及徒目付めつけしめす」(財団ざいだん法人ほうじん刑務けいむ協会きょうかいへん うえ:746)とあり、非人ひにんが「死刑しけい執行しっこうじん」ではないこともてとれる。獄門ごくもんも「檢使けんし與力よりきとうだしやくより斬首きりくびいたるまでの手續てつづきほぼ死罪しざい場合ばあい同様どうようであつた」(財団ざいだん法人ほうじん刑務けいむ協会きょうかいへん うえ:686)とあるので、「死刑しけい執行しっこうじん」は町奉行まちぶぎょう同心どうしんうち当番とうばんわか同心どうしん、あるいは浪人ろうにん山田やまだあさみぎ衛門えもんであるとかんがえる。のこ挽は、「道行みちゆひとにてのぞむものあればくことをゆるす」と正木まさき自身じしんいているとおり、「死刑しけい執行しっこうじん」になるようのぞまれたのは、町人ちょうにんである。以上いじょうのことから、「このように、武家ぶけ時代じだい死刑しけい残虐ざんぎゃくきわまりのないものであったが、これらの執行しっこう武士ぶしにやらさなかったこと、そして、その執行しっこうじん非人ひにんたにものという特殊とくしゅ階級かいきゅうしゃがあてられたというところに、武士ぶしそのものですら死刑しけい執行しっこうをさけたということを考証こうしょうすることができるのである」というくだりは、考証こうしょうできていないといえる。

矯正きょうせいかん牢番ろうばんではない。矯正きょうせいかん教育きょういくしゃである。教育きょういくしゃたるために死刑しけい制度せいど反省はんせいを……」(p84)

森川もりかわ 哲郎てつろう 1970 日本にっぽん死刑しけい――生埋いきうめ・あぶり・はりつけ獄門ごくもん絞首刑こうしゅけい…』日本文芸社にほんぶんげいしゃ,237p.

「こうして、ひろしねんいちななよん)『公事こうじかたじょうしょ』が登場とうじょうする。かくはん当然とうぜんこの刑罰けいばつ体系たいけいにならうようになっていった。死刑しけい制度せいども、その種類しゅるいもそれまでは無数むすうのものがみだれて、統一とういつがなかったが、これによってつぎはち種類しゅるい整理せいりされた。>120>
 いち死罪しざい庶民しょみんたいする斬首ざんしゅけいである。これには付加ふかけいとして、闕所およまわけいくわえられる。また、その屍体したいためりにきょうされることもあった。闕所とは財産ざいさん没収ぼっしゅうし、所払ところばらいとするけいである。
 ニ、下手人げしゅにん=やはり庶民しょみんたいする斬首ざんしゅけいだが、付加ふかけいためりもくわえられていない。
 さん斬罪ざんざい武士ぶしたいする斬首ざんしゅけいである。もちろんこの場合ばあい死体したいためりはなかった。
 よん切腹せっぷく武士ぶしたいする死刑しけいで、斬罪ざんざいよりはつみ一等いっとうかるいものとした。武士ぶし面目めんぼくたもってねるつみとしたのである。
 獄門ごくもん
 ろくはりつけ
 ななざいあぶり
 はちのこ
 鎌倉かまくら室町むろまち法定ほうてい死刑しけいよりはかずおおい。しかし、戦国せんごく安土あづち桃山ももやまにおける、ありとあらゆる残忍ざんにんけい混乱こんらんぶりを、このようなかたち一応いちおう整理せいりしたものとかんがえてよいだろう。
 だが実際じっさいには、この法定ほうていどおりの死刑しけいまもられたわけではなく、かくはんともぜん時代じだいからの伝統でんとうをつぎ、それぞれにかなりひどいむごけいおこなっていた。
 また、幕府ばくふも、謀反むほんじんやみずからの体制たいせいこのもしくない囚人しゅうじん処刑しょけいするときは、このはち種類しゅるいけつ>121>してこだわらなかったようである」(pp.120-122)

死刑しけい種類しゅるいはち種類しゅるいであったが、また、徳川とくがわただしほう死刑しけいななしゅともいった。下手人げしゅにん死罪しざいざいふくろうしめせはりつけのこ挽のななしゅである。これは切腹せっぷくべつにしている。切腹せっぷく一段いちだんたかいところにおいてかんがえたのであろう。
 このうち、は、浅草あさくさもしくは、品川しながわ刑場けいじょうにおいてくびった。死罪しざい下手人げしゅにんろう屋敷やしきった」(p123)

首斬くびきやく専門せんもんしょく
 首斬くびきやくは、まち同心どうしん、それも比較的ひかくてきわか人間にんげんやくであった。といっても平常へいじょうその訓練くんれんをしているわけではなく、うでものは、あまりいなかったらしい。
 そのため囚人しゅうじんが、くびをちぢめたりすると、もとがくるって、処置しょちこまることが、しばしばあっ>125>たといわれている。
 が、なかにはうでものもいた。首斬くびき役人やくにんとして、その妙手みょうしゅ後世こうせいまでうたわれた後藤ごとうぼうという同心どうしんなどは、つよに、左手ひだりてかさをさし、直立ちょくりつのまま片手かたてかたなをふるい、一時いちじさんよんにんくび瞬時しゅんじとした。しかもかたな衣服いふくあめのしずくひとつかけなかったという。
 首斬くびきやくは(まさしくはくびやくんだ)、このたびごとに、かたなとぎだいとして、奉行ぶぎょうしょからかねふんわたされた。
 大名だいみょう屋敷やしきなどで切腹せっぷくする武士ぶしときは、そのはんうでものりすぐられたようだ。また本人ほんにん希望きぼうする介錯かいしゃくじんをつける場合ばあいもあった。したがって失敗しっぱいすくない。それでも赤穂あこう浪士ろうし武林たけばやし唯七ただしち切腹せっぷくのときのように、仕損しそんじている場合ばあいもある。(中略ちゅうりゃく)>126>
 くびるというのは、当然とうぜんのことながら非常ひじょうむずかしい作業さぎょうといわれている。外国がいこくでも失敗しっぱいおおいために、いろいろとくふうしたあげく考案こうあんされたのが、ギロチン(断頭だんとうだい)である」(pp.125-127)

死刑しけい執行しっこうしゃ私生活しせいかつ
 江戸えど時代じだい斬首ざんしゅけいはなしになると、かなら登場とうじょうするのが首斬くびきあさみぎ衛門えもんという人物じんぶつだ。この山田やまだあさみぎ衛門えもんっからのくび役人やくにんではない。かれ職業しょくぎょうは、かたなためし御用ごようである。つまり、ためりをけるやくである。それだけにうでった。(中略ちゅうりゃく)>127>>128>
 このように、あさみぎ衛門えもん仕事しごとは、ためりが本業ほんぎょうであった。だが、ときには、罪人ざいにん首斬くびきやくつとめることもあった。これはまち同心どうしんからたのまれた場合ばあいかぎった。もちろんたのしゅからあさみぎ衛門えもん礼金れいきんわたる」(pp.127-129)

つなふち けんじょう 197210 『』,河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ,330p.→19751125(文庫ぶんこばん) 文春ぶんしゅん文庫ぶんこ,414p.

あさみぎ衛門えもんのばあい、もっと人道的じんどうてき斬首ざんしゅ方法ほうほうとはどういうことか。いうまでもなく、けいしゃになんらの苦痛くつうもあたえず、一瞬いっしゅんのうちに正確せいかくにそのくびとすことである。けいしゃ苦痛くつう最小限さいしょうげんにとどめるためにギロチンが採用さいようされたように、あさみぎ衛門えもん要求ようきゅうされることは自分じぶん精密せいみつ機械きかいになることであった。もちろん人間にんげん機械きかいになることは人間にんげんであることを否定ひていする行為こういである。至難しなんわざといってよい、それをあえて家職かしょくとしてになったところに、山田やまだなる存在そんざい不可思議ふかしぎさ、ユニークさがある。
 また人間にんげんたんなる機械きかいによって斬首ざんしゅされることは、おそらく当時とうじ武士ぶし美学びがくとして絶対ぜったい許容きょようできないところであったはずだ。したがって自分じぶん無限むげん機械きかい接近せっきんしつつもけっして機械きかいとはなりおおせないところに、あさみぎ衛門えもんのプライドとすくいがあったであろう。こういうきびしい倫理りんりをつねに自己じこ強制きょうせいしつづけざるをえない職業しょくぎょうをもって世襲せしゅうとし、連綿れんめんななだいもつづいたという事例じれいが、はたして人間にんげん歴史れきしに、山田やまだ以外いがい存在そんざいするのであろうか」(p14)

現在げんざい山田やまだ系譜けいふについてはほぼせつあり、ひとつは浪人ろうにんせつ、もうひとつはいわゆる〈賎民せんみんせつであるが、この碑文ひぶんせつはいうまでもなく山田やまだ浪人ろうにんせつっている。『明治めいじひゃく』のよしあきら回顧かいこだんその援用えんようしてもうすこ敷衍ふえんするならば――
 山田やまだはもとろくまごおう清和せいわ天皇てんのうだいろく皇子おうじさだじゅん親王しんのう王子おうじである)源経基みなもとのつねもと子孫しそんで、はじめてあさみぎ衛門えもん名乗なのったのはさだである。さだたけははじめ徳川とくがわこしぶつ奉行ぶぎょう支配しはい山野やまの衛門えもんじょう永久えいきゅうについて居合いあいじゅつまなび、そのみょうきわめた。よしあきら回顧かいこだんによれば、さだたけは「武道ぶどうだい熱心ねっしんで、とりわけすえぶつためしりの名人めいじんであり」、「徳川とくがわ御佩刀みはかしためし用役ようえきをつとめて、かの赤穂あこう義士ぎし不破ふわ数右衛門かずえもん正種まさたね堀部ほりべ安兵衛やすべえ武庸たけつねなぞとは武道ぶどう親友しんゆう」だったが、「そのころ奉行ぶぎょうしょに『くびどうしん』というものがあり」、「山田やまだ死屍ししためすなら、いっそしゅもやってもらいたいというようなはなして、ついに兼務けんむのようなかたちになってしまったのが、そもそも首斬くびきりのはじめ」であるという。
 不破ふわ数右衛門かずえもんとか堀部ほりべ安兵衛やすべえ親交しんこうがあったかどうか、真偽しんぎのほどはたしかめえないが、篠田しのだこう>55>みやつこななせい吉利よしとし後妻ごさいもとでんとのあいだうまれたむすめいさから聴取ちょうしゅしたと推定すいていされる聞書ききがきによると、吉利よしとし堀部ほりべ安兵衛やすべえ剣道けんどういでいたので、安兵衛やすべえつくった煙草たばこれがのこっていたとい、さらに吉利よしとし泉岳寺せんがくじには毎月まいつきまいりして安兵衛やすべえはか香華こうげやさなかったとべているのをみると、山田やまだ家伝かでんとしてそういう関係かんけい代々だいだいがれていたのかもしれない。
 またよしあきらげんでは、徳川とくがわ御佩刀みはかしためし用役ようえきをつとめ、かたわらしゅどうしん代役だいやくねたのは初代しょだいさだときとなっており、祥雲寺しょううんじ碑文ひぶんによればせいきちだいとなっているが、これは後者こうしゃただしいようである。
 なお、この碑文ひぶんにある〈たぶさづか〉というのは、ろくせいよしあきらがわがにかけた死罪しざいじん菩提ぼだいとむらうため、かれらのたぶさ(もとどり・たぶさ)をってそのだいせきのなかにおさめた供養くようとうをいい(毛塚けづかともいう)、はじめ浄福寺じょうふくじにあったが、浄福寺じょうふくじ廃寺はいじとなったため、そのおやてらである祥雲寺しょううんじうつされたものである。そのさい祥雲寺しょううんじにはたいせき背後はいごにあるぶたって、そこからあなれるようになっていたという。参考さんこうまでに碑銘ひめいかかげておく。(中略ちゅうりゃく)>56>
 正面しょうめん南無阿弥陀仏なむあみだぶつ〉のした文章ぶんしょうは〈ぼさつしょうりょうのつきはひっきょうくうにあそび/しゅじょうのこころみずきよければぼだいのかげはなかにげんず〉、左側ひだりがわめんは「めいいわく、生死せいし海中かいちゅう無頼ぶらいきゃくながれにただよなみかよっていく沈淪ちんりんせばまた靡心でん、じゅうかいただしちりめず、と」でもむのであろうか。(中略ちゅうりゃく
 つぎ山田やまだ賎民せんみんせつ基礎きそとなっているのは「たま左衛門さえもん由緒ゆいしょしょ」とか「たま左衛門さえもんしょじょう」といったちょう吏(けがれあたまだん左衛門さえもんから江戸えどまち奉行ぶぎょうしょ提出ていしゅつされた報告ほうこくしょである。これらの報告ほうこく書中しょちゅうに、たま左衛門さえもんの「組頭くみがしらいちしょあずかあたま)」とか「手代てだい」の一人ひとりとして〈あさみぎ衛門えもん〉なる人物じんぶつてくる。この〈あさみぎ衛門えもん〉こそ山田やまだあさみぎ衛門えもんだ、というのである。とすると、あさみぎ衛門えもんたま左衛門さえもんおなじく〈社会しゃかいがい社会しゃかい〉の人間にんげん、つまり〈賎民せんみん〉であったともかんがえられるのである。
 〈社会しゃかいがい社会しゃかい〉の人間にんげんを〈けがれ非人ひにん〉という呼称こしょうでいわれもなく賎民せんみんしたのは、不条理ふじょうりきわまるものではあるが江戸えど時代じだいまでのわがくに政治せいじてき社会しゃかいてき現実げんじつであった。とくに徳川とくがわ幕府ばくふはこれらの〈賎民せんみん〉を封建ほうけん支配しはいにおける身分みぶんてき分割ぶんかつ統治とうち道具どうぐとして、懐柔かいじゅう弾圧だんあつ使つかけによってじゅうふん利用りようした。
 徳川とくがわ家康いえやす江戸えどはいるにあたり、鎌倉かまくら幕府ばくふ開設かいせつのさい、関東かんとうちょう吏の首領しゅりょうとして配下はいかじゅうはちすわちょう吏・座頭ざがしらまい々。猿楽さるがく陰陽いんようかべぬり土偶どぐうさく土鍋どなべいたものもある〉・鋳物師いもじつじくら猿曳さるひき鉢叩はちたたきつる餌指えさしともあり〉・石切いしきり土器どき放下ほうか笠縫かさぬい渡守わたしもり山守やまもり青屋あおやつぼりつふでゆいぼく関守せきもりかね獅子ししまいみのさくみのさくともあり〉・傀儡かいらい傾城けいせい)を統一とういつし、天下てんかの丐頭(乞食こじき棟梁とうりょう)たることを頼朝よりともからめいぜられたと自称じしょうする旧家きゅうかだん左衛門さえもん江戸えどきたなあたま任命にんめいした。その幕府ばくふは〈賎民せんみん〉にたいしてはけがれあたまのもとにいわゆるきたな仕置しおきほうみとめてある程度ていど自治じちおこなわしめるとともに、ひろしゃ御用ごよう牢屋ろうやばん・斃馬取片付とりかたづけぼう人足ひとあし仕置しおきじんあらため囚人しゅうじんよう諸色しょしき買上かいあげなどの行刑ぎょうけい制度せいど末端まったんてき役割やくわりをになわせた。「たま左衛門さえもん由緒ゆいしょしょ」に「仕置しおきものやくさらしものはりつけざい獄門ごくもんのこ文字もじ耳鼻じびそぎ切支丹きりしたんつりもんとう御座ぎょざこう」とあり、慶安けいあんらん丸橋まるはし忠弥ちゅうや品川しながわすずもり)ではりつけにされたとき刑場けいじょう監督かんとくをしたのはたま左衛門さえもんである。
 山田やまだをこのたま左衛門さえもん支配しはいにある〈賎民せんみん〉のだしであるとかんがえることは十分じゅうぶんのあるところである。たとえば大阪おおさか落城らくじょうののち、家康いえやす豊臣とよとみ秀頼ひでより幼児ようじ国松くにまつ京都きょうと六条ろくじょう河原かわら処刑しょけいしたが、そのとき斬罪ざんざいやくめいぜられたのは〈青屋あおや〉とばれるけがれであり、これは中世ちゅうせいまつ以来いらいけがれ非人ひにん職種しょくしゅひとつに皮剥かわはぎけがれ処理しょり、あるいはろう屋敷やしき刑場けいじょう管理かんりといった仕事しごとがあったからである。したがってあさみぎ衛門えもんけがれあたまだん左衛門さえもん支配しはい組頭くみがしらあるいは手代てだいとして斬罪ざんざいやく責任せきにんしゃ地位ちいたもち、奉行ぶぎょうしょへの出仕しゅっしには羽織はおり帯刀たいとうみとめられていたともかんがえられるのである。
 以上いじょうせつについて略述りゃくじゅつしたが、前者ぜんしゃ浪人ろうにんせつについては、これらのほとんどが山田やまだがわ発言はつげんもとづいたものであり、客観きゃっかんせいとぼしいことはみとめざるをえない。しかし、後者こうしゃの〈賎民せんみんせつも>58>まだ十分じゅうぶん説得せっとくせいちえないうらみがある。なぜならば、そもそもくびやくというのは徳川とくがわ幕府ばくふ行刑ぎょうけい制度せいどじょうおおやけの役職やくしょくであり、町奉行まちぶぎょうしょおよび火付ひつき盗賊とうぞくあらため同心どうしんおこな仕事しごとであって(これを〈くびどうしん〉という)、山田やまだあさみぎ衛門えもん正業せいぎょうではない。むしろ八丁堀はっちょうぼり与力よりきおよび同心どうしんこそ、かつては〈賎民せんみんあつかいさるべき集団しゅうだん出身しゅっしんであり、たまたま徳川とくがわ幕府ばくふ行刑ぎょうけい制度せいど執行しっこうする地位ちいったゆえに表面ひょうめんてきには社会しゃかいてき蔑視べっしけずにすんだのではあるまいか。〈不浄役人ふじょうやくにん〉という言葉ことばはそういう文脈ぶんみゃくかんがえるべきものではあるまいか。
 『明治めいじひゃく所収しょしゅうの「首斬くびきあさみぎ衛門えもん」のなかで、よしあきらが「山田やまだ家業かぎょう家業かぎょうでしたから世間せけん誤解ごかいおおい」とか、徳川とくがわ御佩刀みはかしためし用役ようえき本業ほんぎょう首斬くびきりは「兼務けんむ」だと力説りきせつしている主意しゅいは、自分じぶんいえたま左衛門さえもんのような〈賎民せんみん〉ではないことを社会しゃかいてきみとめてほしいという願望がんぼうのあらわれであろう。
 前述ぜんじゅつした幕末ばくまつ吟味ぎんみかた与力よりき佐久間さくまちょうけいの『江戸えどまち奉行ぶぎょう事蹟じせき問答もんどう』には「山田やまだあさみぎ衛門えもんこうじまちじゅうして町奉行まちぶぎょう支配しはい浪人ろうにんなり。徳川とくがわ刀剣とうけんるいさま御用ごようしょうつとむこう職分しょくぶんにて、罪人ざいにんくびやくにはこれこう」とあり、よしあきらげんうらきしている。
 山田やまだ系譜けいふ関係かんけい資料しりょうもっと確実かくじつなもののひとつは、きゅうこうじまち区役所くやくしょ除籍じょせき簿だいじゅうはちごうにあった山田やまだ戸籍こせきであろう。これは明治めいじねんさんがつはちにち全国ぜんこく一斉いっせい実施じっしされたいわゆるみずのえさる戸籍こせきからはじまったものである。ただし、この除籍じょせき簿そのものはだい世界せかい大戦たいせん戦災せんさいい、現在げんざい千代田ちよだ区役所くやくしょには存在そんざいしない。
 この戸籍こせきによれば、戸籍こせきあたま筆頭ひっとうじんの「東京とうきょうしゅうごくかけやく 山田やまだよしゆたか」の身分みぶんは「平民へいみん」となって>59>いる。この〈平民へいみん〉という身分みぶんは、みずのえさる戸籍こせき作製さくせい前年ぜんねん明治めいじよんねんはちがつじゅうはちにち太政官だじょうかん布告ふこくをもって〈けがれ非人ひにん〉のしょうはいし、これら〈賎民せんみん〉をあらたに〈平民へいみん〉にくわえた結果けっかとしての〈平民へいみん〉ではなく(もっとも幕府ばくふ瓦解がかい直前ちょくぜん慶応けいおうよんねんいちがつ幕府ばくふは〈賎民せんみん懐柔かいじゅうさくとしてたま左衛門さえもん身分みぶんたいらじん引上ひきあげ、よくがつ、さらにたま左衛門さえもん直属ちょくぞく手下てしたろくじゅうにんにも身分みぶん還元かんげんみとめてはいるが)、明治めいじねん十二月じゅうにがつにちろくせいによる身分みぶん制度せいどさい編成へんせい結果けっかによる〈平民へいみん〉であるとかんがえられる。
 明治めいじねんきゅう大名だいみょう公卿くぎょう華族かぞくきゅう藩士はんし平侍ひらざむらい以上いじょう士族しぞくぶことになり、奉行ぶぎょうしょ与力よりき士族しぞくぞくし、同心どうしん農工のうこうしょう平民へいみん士族しぞくとの中間ちゅうかんにあたるそつぞくれられたが、山田やまだ旧幕きゅうばく時代じだいから身分みぶん浪人ろうにんだったので、帯刀たいとうはしていたが〈平民へいみん〉にれられたのであろう。
 さらにどう戸籍こせきによると、戸主こしゅよしゆたかつまかつは深津ふかづけん士族しぞく出身しゅっしんであり、「ちち隠居いんきょ山田やまだ和水わすい」(ななせい吉利よしとし)のつまよしゆたかの「継母けいぼそで」がきゅう幕臣ばくしん出身しゅっしんとなっている事実じじつ重大じゅうだいである。なぜならば、当時とうじの〈賎民せんみん〉には〈つうこんどうきん〉というかたいタブーがあったのであるから、もし山田やまだが〈賎民せんみん〉であったとするなら、こんな結婚けっこん不可能ふかのうだったはずである。そうすれば、山田やまだ賎民せんみんせつはそのまま肯定こうていするわけにはゆかず、浪人ろうにんせつらざるをえないこととなる」(pp.55-60)

「いうまでもないことだが、家職かしょくこころみがたなぎょうとしているのは、ためしりによる刀剣とうけん鑑定かんていりょうがその報酬ほうしゅうとしてはいることを予定よていしているのである。初代しょだいさだであった山野やまのみぎ衛門えもん永久えいきゅう時代じだいいちくちにつきじゅうりょうぐらいとっていたという。当時とうじ米価べいかをだいたいいちせきりょうかんがえると、鑑定かんていりょう相当そうとう高額こうがくであったことがわかる。これを現代げんだい通貨つうか換算かんさんすることは専門せんもんてきにはいろいろとむずかしい問題もんだいがあるであろうが、かりに米価べいかいちしょうさんひゃくえんとしてみると、いちせきりょうからいちりょういちまんせんえんとはじきされる。しかし米価べいか物価ぶっか、あるいは生活せいかつ感覚かんかくとの比較ひかく考慮こうりょしなければならぬとすれば、だいたいいちりょう生活せいかつ感覚かんかくにおけるおもみは現在げんざいまんえんくらいに相当そうとうするであろう>175>か。学者がくしゃによってはいちりょうさんまんえん概算がいさんするひともある。
 徳川とくがわ初期しょきでこうであるが、、末期まっきになって小判こばん価値かち下落げらくしたとしても、ななだいにわたって〈将軍家しょうぐんけ御佩刀みはかしためし御用ごよう〉をつとめた〈山田やまだあさみぎ衛門えもん〉の鑑定かんていしょのランクはおそらく山野やまのみぎ衛門えもんのそれとはくらべものにならなかったであろうから、〈あさみぎ衛門えもん〉の鑑定かんていりょう一口ひとくちさんじゅうまんえん以上いじょう相場そうばはあったのではないかとかんがえられる」(pp.175-176)

よしあきらたちは、きょうここにわざわざされたのが、この〈しぼはしら〉の実験じっけん参観さんかんするためだときいて、唖然あぜんとした。ついで憤然ふんぜんとした。
 「われわれが〈首吊くびつり〉をてどんな御利益ごりやくがあるというのか」
 とざいきち憤慨ふんがいすると、
 「われわれの修行しゅぎょう嘲笑ちょうしょうするつもりなのか」
 とよしあきら怒鳴どなった。
 すくなくともこれは〈〉にくらべて、表面ひょうめんはいかにも文明開化ぶんめいかいか産物さんぶつにみえるが、はたしてどうか。じつはかえって囚人しゅうじんくるしめるものではないのか。〈斬首ざんしゅ〉という処刑しょけいほうは、むかしらず、現在げんざい西洋せいようでは、フランスのギロチンのように、たとえその制度せいど採用さいようしていても、それは機械きかいにさせていて、人間にんげんらしているところはない、だからそれを見倣みならわねば西洋せいようおくれる>207>というが、結局けっきょくそれは日本人にっぽんじんほどの斬首ざんしゅ技術ぎじゅつながじた人間にんげんがいないからではないのか。またもしこのしぼはしら実験じっけん成功せいこうしたとすれば、政府せいふ将来しょうらい、われわれが生涯しょうがいをかけて錬磨れんましてきた〈〉という死刑しけいほう廃止はいしにもちこむ下心したごころがあるのかもしれない。もしそうだとすれば、われわれをびつけてこれをせるというのは、侮辱ぶじょくはなはだしい」(pp.207-208)

「いよいよ〈しぼはしら〉の実験じっけんはじめられた。
 一人ひとり柔術じゅうじゅつらしい、身体しんたいのがっしりした、総髪そうはつ髭面ひげづらおとこ稽古けいこをつけて、門弟もんていよんめい引連ひきつれてあらわれた。よしあきらはたとおった顔見知かおみしりの牢番ろうばんにきくと、神田かんだたま道場どうじょうひらいているいそまた衛門えもんという柔術じゅうじゅつ先生せんせいで、天神てんじんあげりゅう達人たつじんとのことであった。
 いそ先生せんせい門弟もんていたちとエイッ、エイッと気合きあいをかけながら準備じゅんび体操たいそうをしたのち、「それでは」と>210>いってみずかしぼはしらまえの蹈板にのぼった。そしてなわ咽喉いんこうにかけると、牢番ろうばんはしら背面はいめんにあるしぼなわはしてつたまきだいかかおもりをひっかけた。ぐっとおもみをかんじたらしいいそ先生せんせいは、くびをニ、さんって位置いちただしてから、おおきくいきひと吸込すいこみ、
 「よし」
 とさけんだ。あしもとでっていた牢番ろうばんが蹈板をさっとはずすと、さき牢番ろうばんがこんどはしょうかかおもりかぎをひっかけた。
 いそ先生せんせい身体しんたいちゅういた。顔面がんめん紅潮こうちょうし、先生せんせい両手りょうて咽喉いんこうのところへってこうとしたが、それはなかばでとまって、やがてダラリとぶらがった。かたちからけて、全身ぜんしんがぐったりとした。すると門弟もんていたちがわっとって、先生せんせいあしげ、くびからなわをはずした。
 地面じめんよこたえられたいそ先生せんせいはなをフガフガらしながら全身ぜんしんを顫わせていた。門弟もんてい一人ひとり上半身じょうはんしんおこし、ひざ背中せなかててかつれた。先生せんせい痙攣けいれんがとまって正気しょうきづいた。瞬時しゅんじぼんやりとあたりを見廻みまわしていた先生せんせいは、ふとわれにかえって、
 「フーム、これなら大丈夫だいじょうぶだ、どんなものでもきかえりはしない」
 と、しぼはしら見上みあげながらった
 よしあきらはあやうくわらすところであった。よしゆたかたちも苦笑にがわらいをうかべていた。いそ先生せんせい生真面目きまじめさを嘲笑ちょうしょうする気持きもちはなかった。だが、とにかく滑稽こっけいかんじだった。
 はしら背面はいめんかかおもりをかけていた牢番ろうばんが、なにか製作せいさくしゃ大工だいくにささやいた。すると大工だいくいそ先生せんせいとなにか打合うちあわせ、やがていそ先生せんせいがもう一度いちどしぼはしらちかづいてった。ふたたび実験じっけんこころみるらしか>210>った。じゅう貫目かんめだいかかおもりではおもすぎて取扱とりあつかいに不便ふべんなので、じゅうさん貫目かんめのものにえてみてはどうかということらしかった。
 よしゆたかいちぎょう全部ぜんぶずにしゅうごくた。
 「馬鹿馬鹿ばかばかしい」
 とざいきち地面じめんつばいた。みなげるようにわらった。
 「ほんとうに、新年しんねん早々はやばやとんだ眼福がんぷくをえたというもんだ」
 とよしあきらがいうと、またみなたかわらった。
 家路いえじをたどりながら、はじめのうちはだれかが一言ひとことしゃべるとみな大笑おおわらいをしていたが、そのうちにだんだんみなかお不機嫌ふきげん表情ひょうじょうかんできた。そして沈黙ちんもく支配しはいする時間じかんおおくなった。ざいきちだけが、やたらに路上ろじょうつばいていた。
 「あんな玩具おもちゃみたいな器械きかいとおれたちの修行しゅぎょうとをばかりにかけられるなんて。おれはもうやくという仕事しごとがいやになった」
 と、よしゆたかがぽつりとったが、だれももうそれにおうじるものはなかった」(pp.209-211)
当時とうじ司法省しほうしょうは「しぼ英国えいこくけいげん模造もぞうシ其絞ばしらゆう所以ゆえん器械きかいほどこせようごく簡便かんべんこと罪人ざいにんだんいのちそくやましニシテさい苦悩くのうしょう実験じっけんじょう其效しょう」と自負じふしている。
 この司法省しほうしょう自負じふこそ山田やまだにとっては最大さいだい致命傷ちめいしょうともなるべきものであった。簡便かんべん器械きかい囚人しゅうじん苦痛くつうもっとすくなくし、確実かくじつ絶命ぜつめいさせられうるなら、斬首ざんしゅという執行しっこうほう存続そんぞくについては一考いっこう>237>をようするとなることは、自然しぜん帰趨きすうであろう。この〈しぼ〉の出現しゅつげんはやがて山田やまだからその家業かぎょううばうこととなる」(p238)

はら たねあきら佐竹さたけ たけし 解題かいだい 19820301 江戸えど時代じだい――犯罪はんざい刑罰けいばつ事例じれいしゅう柏書房かしわしょぼう,516p+508p.

けいざい詳説しょうせつ佐久間さくまちょうたかし
みぎりょうれば、ひかなわ非人ひにん大勢おおぜいにて取圍とりかこみ、やく添ひろうまえとおり、刑場けいじょういたる。これれをせつじょうといふ。檢使けんし其外やく々は、うめもんよりだしただちに刑場けいじょうのぞむ。(目付めつけ立會たちあいのものは、目付めつけ小人こども目付めつけやくあり。)
 けいじんろうまえ通行つうこうするときかくろうない名主なぬしだい戸前とまえこうち、名残なごりしょうして、あいべつかたりうんふ。一種いっしゅの>97>習慣しゅうかんあり。(しゅうごくうんべし)
 きりじょう入口いりくちにて、囚人しゅうじん目隠めかくしをなさしめ、(半紙はんしおりこまかきわらなわにて、あたまのちにてむすぶ)やくよんにん白衣はくい羽織はおりだつけん先行せんこうし、囚人しゅうじん非人ひにんさんにん白衣はくいなわのまゝにかれづる。鎰役、(羽織はおりはかま脇差わきざし囚人しゅうじんとえひ、こたえて、ただちにきりじょうえ、むしろうえちゃくせしめ、手傳てつだえ人足ひとあし、>98>所持しょじ小刀こがたなにて、きりなわゆいより、えりほうのぼり、のどなわ着服ちゃくふく引下ひきさげ、りょうかたを袒にし、をそへ、くびまえさせ、くび討役(町奉行まちぶぎょう同心どうしんこれれをつ。みぎきりじょうは、地面じめんへこめ、うえむしろく、うちくびりて、死骸しがいは、手傳てつだえ人足ひとあし兩足りょうあしき、を凹内におとすなり。くび討役は町奉行まちぶぎょう同心どうしんうち當番とうばんわか同心どうしんなり。(羽織はおり白衣はくい帯刀たいとうおわれば、添役手桶ておけみずかたなそそぎ、あらいひ、かみにてぬぐえひ(かみ半紙はんしおり手桶ておけけある)さやにおさむるなり。
 いんいわく、くび討役同心どうしん相対そうたいにて、さま御用ごようつとむる、こうじまち平河ひらかわまち浪人ろうにん山田やまだちょうみぎ衛門えもんこれれをすことあるは、檢使けんし其外やく々も、黙許もっきょせしなり。
 くびやくへは、かたなとぎだいとしてかねふんかけしょきんうちかけしょきんとはかけしょ公賣こうばいせし、金子かねこ奉行ぶぎょうしょ保管ほかんせしもの)にて、奉行ぶぎょうよりこれれをきゅうす。あさみぎ衛門えもんたしむるは、同人どうじんよりかね若干じゃっかんれいを、却て受くるなり。所以ゆえんは、あさみぎ衛門えもんさま御用ごようつとむゆえに、所々ところどころより、たのまれたる新刀しんとうもって、該首をち、刀劍とうけんためしきょうするがなり。世俗せぞくこれらず。くびあさみぎ衛門えもんとまで、綽名すれども、實際じっさいらざるものだんなり」(pp.97-99)

布施ふせ 弥平やへい 19830820 修訂しゅうてい 日本にっぽん死刑しけいいわお南堂みなみどう書店しょてん,730p.+5p.

江戸えど幕府ばくふは、あずまあきら神君しんくん以来いらいほうへんズべからずとすることをもって、れいきゅうかくとしてかたくなまでに墨守ぼくしゅしてきたが、時勢じせい推移すいい対応たいおうしたことはまた当然とうぜんである。これを刑罰けいばつ関係かんけいてもあるいあらため、あるい追加ついかするなどのことが、しばしばおこなわれたのである。戦国せんごくふうえやらないまくはつ元和げんな偃武をうたう時代じだい顕著けんちょあいことは、みずかざい様相ようそうえ、ばち次第しだい戦国せんごく残虐ざんぎゃくけい姿すがたすことになった。
 (中略ちゅうりゃく
 裁判さいばんには、将軍しょうぐん直裁ちょくさいばんかけよんかけさんかけきり裁判さいばんべつがあり、法廷ほうてい江戸城えどじょう大広間おおひろま評定ひょうじょうしょ役宅やくたく私宅したくなどさまざまである」(p329)

江戸えど幕府ばくふおい執行しっこうする死刑しけいは、まくはつける残虐ざんぎゃくきわまるものは、次第しだいはいされたといってもはりつけざい獄門ごくもん死罪しざい下手人げしゅにん斬罪ざんざい切腹せっぷくななつがあり、そのなかでも、のこ挽、さらし、引まわしなどが附加ふかするものとしからざるものがあり、じついちさんとうおおきにたっするのである。
 江戸えど時代じだいにはのうこうしょう身分みぶん階級かいきゅう制度せいどきびしく、武士ぶしたいする死刑しけいと、のうこうしょうすなわ庶民しょみんたいする刑罰けいばつとは、みずかがあり武士ぶしにも目見まみ以上いじょう以下いか陪臣ばいしん浪人ろうにんがある。おおまかにえば斬罪ざんざい切腹せっぷく武士ぶしくわえる死刑しけいであるが、厳密げんみつえばこれは目見まみ以上いじょう武士ぶしくわえる死刑しけいであり、間々ままこれにのっとらないれいもあり、武士ぶしでも庶民しょみんけいである死罪しざいしょせられることさえあった。これは評定ひょうじょうしょ裁決さいけつによるもので定式ていしきがないのである。僧侶そうりょてらのものと所化しょけそうべつがあったが、刑罰けいばつじょう庶民しょみんあつかいをけていた。ざい放火ほうかはんたいする死刑しけいであるが、江戸えど幕府ばくふ>366>のはじごろかならずしも放火ほうかはんかぎったものではなかった。たとえばキリスト教徒きりすときょうとくわえた、あぶりもある。ざい放火ほうかはん執行しっこうされるようになったのはなんごろからかはあきらかでないが、慶長けいちょうじゅうよんいちろくきゅうねん駿府すんぷ本丸ほんまる女房にょうぼうきょく放火ほうかした下女げじょにんが、あぶりになってころされ(慶長けいちょう日記にっき)たとあるところから、応報おうほうとして放火ほうかしたので火焙ひあぶりという観念かんねんふるくから存在そんざいしていたのであろう。これがざい放火ほうかはん限定げんていされるようになったものであろう」(pp.366-367)

つぎ死刑しけいには公示こうじうえ処刑しょけいするものと、しからざるものがある。たとえばはりつけざい斬罪ざんざい前者ぜんしゃであって切腹せっぷく死罪しざい下手人げしゅにん後者こうしゃである。獄門ごくもんけいしゃ処刑しょけい梟首きょうしゅして公衆こうしゅうしめすものである」(p367)

つぎはりつけざいけいしゃ下賎げせんものによって落命らくめいするのであるが、斬罪ざんざい死罪しざい下手人げしゅにんなどは下級かきゅう武士ぶし同心どうしんまた山田やまだあさみぎ衛門えもんによって刎首されるのである。すなわ直接ちょくせつ何人なんにんによって刎首されるかは死刑しけい軽重けいちょう作用さようするのである。切腹せっぷくさいして介錯かいしゃくじんうことがあるのは、のある武士ぶしに刎首されることが、名誉めいよであるということからである」(p367)

「もともと斬罪ざんざい目見まみ以上いじょう武士ぶしくわえるものであることは>369>

 斬罪ざんざい目見まみ以上いじょうあずかうえさき切腹せっぷくこれしょ切腹せっぷくおもあが座敷ざしきものにて、其以ニ而候とく死罪しざいおおせづけほど悪事あくじゆう目見まみ以上いじょうじゅう御方おかたニ而も切腹せっぷくなんおおせづけざいゆうふし如此おおせづけこうごとこう評定ひょうじょうしょニ而、三御奉行大目付御目付御立合、老中ろうじゅうおもむきかかさるわたりしょうずみこうじょう品川しながわ浅草あさくさ両所りょうしょ置場おきば連行れんこう切腹せっぷくときなぞらえ麻上あさがみ下着したぎため致、はりつけざい見物けんぶつとおじんこうしょニ而御目付めつけ検使けんしうえ町組まちくみ同心どうしんくび討可さる哉之ごとひゃく箇条かじょう調書ちょうしょ内々うちうちへん

とあることによってあきらかである。なおじょうしょひゃく箇条かじょう仕置しおき仕形しかたこと

 従前じゅうぜんこれれい
 いち斬罪ざんざい
 於浅そう品川しながわ両所りょうしょこれない町奉行まちぶぎょう同心どうしんこれ検視けんし御徒おかち目付めつけまち与力よりき
 ただしかけしょみぎ同断どうだん

とあり、斬罪ざんざいしょせられらものの田畑たはたいえ屋敷やしきいえざい没収ぼっしゅうすべきことをさだめている。またけいざいだい秘録ひろくにも

 一於評定所申渡、上下じょうげ儘羽がひ○にいたかごちょく浅草あさくさ仕置しおき場所ばしょこうれ、かくれこれしみなわニ而しばこうはねがひ○の儘、町方まちかた同心どうしんくびを討
 ただし検使けんし御徒おかち目付めつけ町方まちかた与力よりきなみ同心どうしん小人こども目付めつけやめえつこうごと

とある。斬罪ざんざい執行しっこうほう江戸えど時代じだいつうじて変化へんかはなく、つみしゅう評定ひょうじょうしょおい斬罪ざんざいしょせらるべきむね言渡いいわたし上下じょうげ姿すがたけるや、じかはねがひじめにしばられて、評定ひょうじょうしょより品川しながわ浅草あさくさいずれかの刑場けいじょうまでかごせておくられ、そこで衆人しゅうじん環視かんしのうちに、奉行ぶぎょうしょ同心どうしん斬首ざんしゅされるのである。目付めつけというのは平素へいそ旗本はたもと御家人ごけにん非違ひい糾弾きゅうだんするやくで、評定ひょうじょうしょ定式ていしきには立会たちあうことは、さん奉行ぶぎょうおなじであるが、公事こうじ吟味ぎんみ傍聴ぼうちょうするだけであり、評決ひょうけつくわわるものではな>370>い。なお大目おおめづけ大名だいみょう糾弾きゅうだんするものであるが、この大目おおめづけ目付めつけとは独立どくりつした機関きかんであった。目付めつけした小人こども目付めつけ徒士かち目付めつけがあるが、一人ひとり目付めつけ徒士かち目付めつけ何人なんにんまで使つかえるかは規定きていしていない。小人こども目付めつけ目付めつけ指揮しきしたがって姿すがたえて探索たんさくする所謂いわゆる隠密おんみつ仕事しごとをするものである。また目付めつけ非違ひいについては互弾とするのである」(p369-371)
→(補足ほそく櫻井さくらい悟史さとしかけしょとは、闕所のことである。闕所とは、ほんけい軽重けいちょうにより動産どうさん不動産ふどうさん没収ぼっしゅうすることをさだめた刑罰けいばつである。

死刑しけいひとつとしての切腹せっぷく武士ぶしたいするものであり、死刑しけいしゅうとしての武士ぶしに、みずか屠腹とふくめいずるものであり、けい吏のによって落命らくめいする斬罪ざんざいよりもかるいものとされている。その目的もくてき武士ぶしとしての面目めんぼくたもたしめることにあり、律令りつりょう制度せいどにおける以上いじょうゆうしゃたいしては、自尽じじんおこなわせるものとぶんまわしいちにするものである」(p371)

江戸えど時代じだい幕府ばくふ執行しっこうする庶民しょみん死刑しけいのうちでもっとおもいものははりつけである。かる身分みぶんものによっていたらしむるのがい公衆こうしゅう監視かんしうら死刑しけい執行しっこうするのである。獄門ごくもん死罪しざい下手人げしゅにんいずれもくびきり同心どうしんあさみぎ衛門えもんあさみぎ衛門えもん)のによってろうないおい死刑しけい執行しっこうするものである。このなか獄門ごくもんった囚人しゅうじんくび公衆こうしゅう面前めんぜんふくろうすのであってはりつけぐものとされ、死罪しざいようしものにきょうせられることがあるので、下手人げしゅにんよりもおもいものである。下手人げしゅにんかい死人しにん)は死刑しけいのうちでもっとかるいもので、さまぶつきょうされることなく没収ぼっしゅうという附加ふかけいもない」(p377)

獄門ごくもんろう屋敷やしきおいくびを刎ね、そのくびたわられて二人ふたりかついでふくろうじょうはこび、獄門ごくもんだいふくろうすものである。そのふくろう場所ばしょは、じょうしょひゃく箇条かじょう仕置しおきかたこれ

 従前じゅうぜんこれれい
 いち獄門ごくもん>385>
 於浅そう品川しながわ獄門ごくもんかかる、在方ざいかた悪事あくじ致候しょ江差えさしのここうゆう、引廻捨札番人ばんにんみぎ同断どうだん
 ただしろうないにおゐてくびを刎欠しょみぎ同断どうだん

 とあり、江戸えどおいては浅草あさくさ小塚原こづかはら品川しながわりんもりのニ個所かしょであった。また地方ちほうではおっと々の場所ばしょふくろうすものである。寛文ひろふみじゅういちろくなな〇)ねんがつさんにち上総かずさこく青木あおきむら百姓ひゃくしょう孫衛まごえもん善太郎ぜんたろう三十郎さんじゅうろうさんにん芝浦しばうらかもったつみにより、つくだとう梟首きょうしゅ、またとおるねんがつじゅうきゅうにちには、品川しながわひょう中川なかがわしりとりったつみにより、せい兵衛ひょうえばんまちさん丁目ちょうめんでいたのであるが、本所ほんじょさん横堀よこぼり梟首きょうしゅされたことが、いずれも仕置しおきさい記帳きちょうえている。このように江戸えど近辺きんぺんのものであっても犯行はんこうちかくのところに獄門ごくもんけることがあったのである」(pp.385-386)

獄門ごくもんはりつけニつゞきこう仕置しおきにてはりつけ同様どうようけいゆう哉、ゆう江戸えどちゅう引廻しハ牢屋ろうや裏門うらもん小船こぶねまち小田原おだわら河岸かわぎし日本橋にほんばし四日市よっかいち江戸えどきょう牢屋ろうやかえ死罪しざい相成あいな哉之ごと
 ただし浅草あさくさ品川しながわ両所りょうしょうちニ而獄もんだいくびけいかけおけ、捨札をだて番人ばんにん附置ふちこう仕置しおき牢屋ろうやニ而死ざいニいたしくびけい両所りょうしょのここうごとゆう哉尤かけしょみぎ同断どうだんひゃく箇条かじょう調書ちょうしょ

とあるように獄門ごくもんはりつけ死刑しけいで、その手続てつづきは>386>

 一死いっしざい仕置しおきつうくびやくくび討候とくバ、非人ひにんちょくくび引揚、手桶ておけみずニ而洗ひ、けん而手とう致置こうたわらいれ獄門ごくもん検使けんし町方まちかた年寄としより同心どうしん双方そうほうにんみぎくび請取うけとりさきこうのぼり捨札道具どうぐ、其跡くびにゅうこうたわら非人ひにん両人りょうにんニ而差ひ、みぎ使つかい同心どうしん差添さしぞえ浅草あさくさ品川しながわ仕置しおきじょうやめこし獄門ごくもんかけ
 ただし引廻しこれこうとくのぼりこれけいざいだい秘録ひろく

とある」(pp.386-387)

死罪しざい町人ちょうにん百姓ひゃくしょうくわえる斬首ざんしゅけいで、下手人げしゅにんよりも一等いっとうおもいものである。これには引まわしの附加ふかするものとしからざるものとあり、引まわしの附加ふかするものは、おな死罪しざいでもおも死刑しけいである。またけいしゃ所有しょゆうする田畑たはたいえ屋敷やしき家財かざいすべ没収ぼっしゅうされ、死骸しがいようぶつきょうされるのである。じょうしょひゃく箇条かじょう仕置しおき仕方しかたこと

 どう従前じゅうぜんれい
 一死いっしざい
 くびを刎、死骸しがい取捨しゅしゃさましものに申付もうしつけ
 ただしかけしょみぎ同断どうだん

さだめている。さまぶつについては>390>

 死罪しざいさるわたりこうじょうろう屋敷やしきニおゐてりょう町組まちくみ同心どうしんくびを刎、死骸しがい取捨しゅしゃ相成あいなみぎ死罪しざい相成あいな科人とがにんこれない、からだに入墨いれずみ出来物できぶつあときれいなりものゆうふし町奉行まちぶぎょうしょさるじょうかたな脇差わきざし長刀ちょうとうとうさま御用ごようおおせづけこうとくみぎしなこしぶつ奉行ぶぎょうしょ役人やくにん罷出まかりでみぎしな長持ながもちじんニ而同しん添諸じんはらえろう屋敷やしきやめえつ粧町藁谷わらがい居候いそうろう浪人ろうにんあさみぎ衛門えもんこしぶつ奉行ぶぎょう引渡、あさ上下じょうげニ而罷ろう屋敷やしき仕置しおきじょうニ而首討落ししょうずみこうじょうさまものじょう罷出まかりであさみぎ衛門えもんさまやくしょうつとむさる哉之ごとひゃく箇条かじょう調書ちょうしょ内々うちうちへん

とある。これによれば、くびるのが同心どうしんあさみぎ衛門えもん将軍しょうぐん刀剣とうけんあじためすことのようにべてあるが、のちいたって同心どうしんかわってあさみぎ衛門えもん斬首ざんしゅし、一般いっぱん武士ぶし>391>よりゆきによって刀剣とうけんあじためしたようである。死骸しがい癩病らいびょうとか腫物しゅもつがあるような場合ばあいには神聖しんせいかたなもっることをけることは当然とうぜんであり、入墨いれずみほどこされた前科ぜんかしゃ死骸しがいを、ためしぶつきょうしないことはかたなけがれであるとのかんがかたからであろう。これは将軍しょうぐんかたなためときだけのものか、一般いっぱん武士ぶしかたなためすときもおなじであったのかはあきらかでない。なおさまぶつにならないものにこのそとあがいれのものと下手人げしゅにんしょせられたものと女囚じょしゅうがある。
 なおあさみぎ衛門えもんについて、横瀬夜雨よこせやう

 こうじまち紀尾井町きおいちょうろく番地ばんちうらちょう>392>永井ながい喜一きいちかたかいろくじょうあいだ借受かりうむでいる母子ぼしよんにんいち家族かぞくがある。はは山田やまだおかつ(ななじゅうさい)其子をあさみぎ衛門えもんじゅうさんさい又次郎またじろうよんじゅうななさい)、元三郎もとさぶろうよんじゅういちさい)といふ。
 くびあさみぎ衛門えもんうたわれたためし御用ごよう山田やまだあさみぎ衛門えもんきゅうだい主人しゅじんである。山田やまだ祖先そせんといふは、しろぐみろくぽうぐみなどゝしょうして侠名をった旗本奴はたもとやっこ居合いあい師匠ししょうであった。居合いあいみょうところから幕府ばくふ刀剣とうけんため御用ごよう仰付おおせつけられ、のちくびどうしんといふつみしゅう斬首ざんしゅ役人やくにんあたまになった。なな代目だいめ鼠小僧次郎吉ねずみこぞうじろきちった。はち代目だいめ橋本はしもと左内さないよりゆき三樹みき三郎さぶろうらの勤王きんのうった。毒婦どくふ高橋たかはしでんもまたこのはち代目だいめにかゝった。あさみぎ衛門えもんいえこうじまち平河ひらかわまちにあった。土蔵どぞうさんむねもある立派りっぱやしきんでゐた(太政官だじょうかん時代じだい)。

つたえている。あさみぎ衛門えもんつみしゅうくびり、あるい将軍しょうぐんかたなためせば手当てあてるし、新刀しんとうだめしの依頼人いらいにんからも手数料てすうりょうられるので、自然しぜんゆたかになり豪奢ごうしゃくらしができたようである。それがきゅう代目だいめいたって零落れいらくしたということである」(pp.390-393)

下手人げしゅにんかい死人しにんともき、けいしゃくびることについては死罪しざいおなじであるが、死罪しざいおこなわれるようしものにきょうされることなく、死骸しがい小塚原こづかはら回向えこういんりょうめる(けいざいだい秘録ひろく)のであり、死罪しざいよりもかる死刑しけいとされていた。
中略ちゅうりゃく
 ひゃく箇条かじょう調書ちょうしょ

 下手人げしゅにん町人ちょうにん百姓等互格之ものをころせこうぶし仕置しおきにて而人をころせこうもの遺恨いこんを以之あずか喧嘩けんか口論こうろんとうニ而腹りつ儘>395>ころせ自害じがい致とおもこう而もおくれこうあずかなにレニもひところせこうじょうハ其身もしょうはて賤之しゃはい死後しごぜん其可死期しき不死ふしづけしたがえ公儀こうぎころせのここうすじにてゆう哉ニづけかけしょニも及牢にてくび取捨しゅしゃしょうなりまでじょう死骸しがいもらえそうあずかねがいこうころ下賎げせんものとしてうえたるひところせこうハ其趣意しゅいニより切捨きりすて死罪しざい相成あいなゆう哉之ごと
 ただしとどけなから、公儀こうぎたいこう而之ごとニハぜんひところせ其身存命ぞんめいこれ下手人げしゅにんさまものニも不破ふわおおせづけ哉之ごと

とある。
 なおようしものにならないことは、じょうしょひゃく箇条かじょう仕置しおき仕方しかたことなか

 従前じゅうぜんこれれい
 いち下手人げしゅにん くびを刎死骸しがい取捨しゅしゃ
 ただしようしものにはさるづけ

明記めいきされているところのものである」(pp.395-396)

しょはん死刑しけい
 江戸えど時代じだいには全国ぜんこくさんせんまんせきのうちよんぶんさんさんひゃく諸侯しょこうしょうせられた大名だいみょう支配しはいしていた。したいちまんせきからうえひゃくまんせきまで領地りょうち広狭こうきょう様々さまざまであるが、幕府ばくふはこれにある程度ていど自治じちゆるした。これは経費けいひ節約せつやく見地けんちからであることはしゅ目的もくてきであるけれども、完全かんぜん自治じちゆるしたものではなく、老中ろうじゅう大目おおめづけなどによる監督かんとくしたに、中央ちゅうおう集権しゅうけんをはかる施策しさくほどこされていた。大綱たいこう幕府ばくふ政策せいさくじゅんずるものとするため武家ぶけしょ法度はっとまもらせ、領地りょうち没収ぼっしゅう手段しゅだん幕府ばくふ統制とうせい強化きょうかはかった。まくはつから慶安けいあん事件じけん慶安けいあんよんいちろくいちねん〕までのやくじゅうねんあいだにはおびただしいじょふうおこなわれたことは周知しゅうちとおりであるが、そのじょふう激減げきげんするが大名だいみょうにとってじょふう一大いちだい脅威きょういであったのである。したがって幕府ばくふ方針ほうしんいちじるしい差違さいある政策せいさくをとることができなかった。
 はんりょうないにもおなじような犯罪はんざいおこなわれるので、大小だいしょういかなるはんといえどもはんないばつ必要ひつようくべからざるものがある。したがってはん自身じしんおい刑罰けいばつくわえ、これを自分じぶん仕置しおきしょうした。したがってかくはん刑事けいじ判例はんれいのようなものがあり、幕府ばくふ方針ほうしんである、あずまあきら神君しんくん以来いらいほうへんずべからずとすることをむねとし、前例ぜんれいしたがうことをどこのはんでも重視じゅうししたのである。前例ぜんれいしたがうことはことにあたる吏員りいん批難ひなんびることはすくないので、調法ちょうほうなものである。このてんからても、れい>483>しゅうのような記録きろくがどのはんにもあったものであろう。また幕府ばくふおいて、公事こうじかたじょうしょ編纂へんさんして、成文せいぶん法典ほうてんができて以来いらいいくつかのはんおいても成文せいぶんけいてんまれた。それにはじょうしょひゃく箇条かじょうじゅんじたもの、あきらりつ規範きはんとしたもの、あるいはこの両者りょうしゃ斟酌しんしゃくしたものなどのべつがあるが、秘密ひみつほう主義しゅぎった、いくつかの成文せいぶんけいてんがあらわれた。しかしこのような成文せいぶんけいてん判例はんれいしゅうなどは明治めいじまでのこされたものはきわめてすくない。

 司法省しほうしょう布達ふたつ明治めいじはちねんいちがつななにちたちだいいちごうかく府県ふけん
 従前じゅうぜんかくはんだておけこうぶし徳川とくがわ刑法けいほうそと其藩ヨリようらいこう習慣しゅうかん法律ほうりつある法律ほうりつるいシタル罰則ばっそく并ニばつれい存在そんざい居候いそうろうぶん本年ほんねんさんがつまでニ其府けん於テ取調とりしらべ一本いっぽんツゝとうしょう差出さしでさるこうじょう此旨しょうたちこうごと法規ほうき分類ぶんるい大全たいぜんだいいちへん刑法けいほうもん

という布達ふたつ司法省しほうしょうからかく府県ふけんしているが、あるいはこれは刑法けいほう制定せいてい参考さんこうにする意図いとのものであったかもれないが、はたしてこの布達ふたつこたえた府県ふけんがどれだけあったであろうか。現存げんそんするはん成文せいぶん法典ほうてん判例はんれいしゅうのこっているのはほとんさんひゃくねんちかくの江戸えど幕府ばくふ時代じだい終始しゅうししてどういち地方ちほうはんたもったのがほとんどであり、うたてふうてんふうかさねたはんにはほとん例外れいがいなく佚失している。また明治維新めいじいしん混乱こんらんなかにあって佚失したものもおおいものとおもわれる。ここにしょはんける死刑しけいあきらかになしないものがある。はんおさむちゅうどれだけのひと様々さまざま死刑しけいくわえられたか、はからえることはまった不可能ふかのうである。近時きんじいたこうにも地方ちほう刊行かんこうさかんになり、文献ぶんけん古文書こもんじょ発掘はっくつ数多かずおおくなった。しかしそれでもまだしょはん死刑しけいについての闡明せんめいすべくもなく、本書ほんしょなどはきゅううしいちもうにすらたっしないことを残念ざんねんおもうものである。
 かくはんにはその大小だいしょうわずほこ伝統でんとう誇示こじし、はん外国がいこくする傾向けいこうゆうし、こと徳川とくがわよりもふるくから勢力せいりょくのあった戦国せんごく大名だいみょうながれをはん、また織田おだ豊臣とよとみ時代じだい徳川とくがわかたならべていた外様とざま大名だいみょうなどは、内心ないしん徳川とくがわ幕府ばくふ下風かふうつをいさぎよよしとせず大藩たいはん意識いしきち、外面がいめん問題もんだい惹起じゃっきしない程度ていど施策しさく幕府ばくふのそれとことにして無言むごん抵抗ていこうためし>484>みたはんもないわけではない。ここにはんによっては幕府ばくふ刑罰けいばつことなった刑罰けいばつもちいているものもある。それがしょはん死刑しけいかんがえるうえ複雑ふくざつさをすものである」(pp.483-485)

大久保おおくぼ 治男はるお 19850501 大江戸おおえど刑事けいじろく六法ろっぽう出版しゅっぱんしゃ,290p.

江戸えど刑罰けいばつ死刑しけい生命せいめいけい)にも量的りょうてきもうけて下手人げしゅにん死罪しざいはりつけざいのこ挽とろく種類しゅるいにした。処刑しょけい方法ほうほう残虐ざんぎゃくなほど重刑じゅうけいとしたのである。らしてき威嚇いかくてき一般いっぱん予防よぼうてき効果こうか刑事けいじ政策せいさくてきにも重視じゅうしされたのであろうか。
 下手人げしゅにん
 『下手人げしゅにん』とは斬首ざんしゅけいのことである。くだしてひところで「かい死人しにん」ともいう。
 死罪しざい刑場けいじょうを「きりじょう」という。処刑しょけい打首うちくびは、下手人げしゅにん昼間ひるま死罪しざい夜間やかんおこなわれる。囚人しゅうじん牢屋ろうやからし、牢屋ろうやあらため番所ばんしょえ、かかしょ役人やくにんならび、本人ほんにんであることを確認かくにん検使けんし宣告せんこくぶんかせてから斬首ざんしゅじょうへとす。
 くち目隠めかくしをする。半紙はんしりをほそわらなわあたまのちむすぶ。
 やくよんにん先行せんこうし、囚人しゅうじんなわのまま、非人ひにんさんにんおさえつけられてかれる。囚人しゅうじんきりじょうまえむしろうえひざをまくってすわらされる。非人ひにん囚人しゅうじんかたけてあるなわり(くびるという)くびげてはだをぬがせりょうかたをあらわにして、かおをあげてくびばさせる。このくのを合図あいずくびやくは「まだあいだがあるぞ」といながら一気いっきくびおとす。非人ひにんはもうくびのない死体したいかかこみ>74>んで、それをもみながらはやせつじょうまえだまりにながそうとする。
 くびやく当番とうばん同心どうしんあたる。さまりの御用ごようつとめる山田やまだあさみぎ衛門えもん首切くびきりの名人めいじんなにはなしをしているうちに、囚人しゅうじん苦痛くつうなくくびかわいちまいのこしてられた。人々ひとびとは「ひとあさみぎ衛門えもん」とった。下手へた同心どうしんられるとかたなかたあたまあたったり一気いっきられず囚人しゅうじんあばまわるほどの苦痛くつうであった」(pp.74-75)

菊田きくた 幸一こういち 19880915 死刑しけい――その虚構きょこう不条理ふじょうりさんいち書房しょぼう,260p.

「わがくにでも武家ぶけ時代じだい死刑しけい執行しっこう武士ぶしにやらせないで非人ひにんだにものという、特殊とくしゅ階級かいきゅうそうがあてられていた」(p102)
→(補足ほそく:櫻井さくらい悟史さとし事実じじつ誤認ごにんである。すくなくとも、江戸えど時代じだい公事こうじかたじょうしょでは、士族しぞく下手人げしゅにん死罪しざい獄門ごくもん切腹せっぷく斬罪ざんざい執行しっこうになうようさだめられており、「非人ひにん」ははりつけざい執行しっこうだけになっていた。
参考さんこう
布施ふせ弥平やへい, 1983, 『修訂しゅうてい 日本にっぽん死刑しけい』, いわお南堂みなみどう書店しょてん
財団ざいだん法人ほうじん刑務けいむ協会きょうかいへん, [1943]1974, 『日本にっぽん近世きんせい行刑ぎょうけい稿こう うえした』, 矯正きょうせい協会きょうかい

氏家うじいえ 幹人みきひと 19990921 大江戸おおえど死体したいこう――ひとあさみぎ衛門えもん時代じだい平凡社へいぼんしゃ新書しんしょ,227p.

現代げんだい感覚かんかくでは残酷ざんこくそのものにおもえるためりですが、すくなくとも江戸えど初期しょきまでの武士ぶし世界せかいでは、それは至極しごくまっとうな行為こういとみなされていました。>68>
 いいえ、「まっとうな」どころか、ためりはおおくの見物人けんぶつにん見学けんがくしゃったほうが妥当だとうかもしれません)をあつめ、人々ひとびと喝采かっさいびることさえめずらしくありませんでした。たとえば随筆ずいひつ異説いせつまちまち』には、本多ほんだだい内記ないきという武士ぶしの、こんなエピソードが紹介しょうかいされています」(pp.68-69)

このんでためりをおこなった武士ぶしなかには、それがなか専業せんぎょうのようになったひともいました。『きのえよう軍艦ぐんかん』に登場とうじょうする今福いまふくきよし閑もその一人ひとりきよし閑はわかころからためりめの名人めいじんえ、ために武田たけださむらいしゅは、ためりの必要ひつようがあるとだれもがかれたのんだということです」(p77)

次第しだいたかまる忌避きひ感情かんじょう
 戦国せんごくから江戸えど初期しょきにかけて、武芸ぶげい錬磨れんま刀剣とうけん品質ひんしつ検査けんさのため、大名だいみょうたちですらみずかおこなっていたためり。それが次第しだい特定とくていの「芸者げいしゃ」のおこなわれるように変化へんかした背景はいけいには、武芸ぶげい個別こべつ専門せんもんという傾向けいこうもさることながら、やはりためりにたいする忌避きひ感情かんじょうふかまりを指摘してきしなければならないでしょう」(p80)

「そもそも山田やまだあさみぎ衛門えもんだけが将軍家しょうぐんけためり(さま御用ごよう)をいちけるようになったのはなぜか。山田やまだあさみぎ衛門えもんにおける特権とっけん獲得かくとくみちをふりかえるとき、それはおおくの競争きょうそう相手あいて蹴落けおとして栄光えいこうというより、ライバルたちが次第しだい姿すがたしていった結果けっかぎなかったことがわかります。あさみぎ衛門えもんは、のこったのではなく、のこったのです」(p96)

るいまれためりの名手めいしゅ山野やまのかんじゅうろう同様どうよう鵜飼うかいためりをねて罪人ざいにん処刑しょけいやくたしていたようで、元禄げんろくねんさま御用ごよう拝命はいめいしてからきゅう年間ねんかんじつせんひゃくにん罪人ざいにんためりしたとか」(p101)

「そしてあさみぎ衛門えもんだけがのこった
 そのは、やはり山野さんやりゅうまなんだ根津ねづかわ三郎兵衛さぶろべえ松本まつもと長太ちょうたおっと倉持くらもちあん左衛門さえもんそして山田やまだあさみぎ衛門えもんさま御用ごようつとめています。(中略ちゅうりゃく)>102>
 とおるねんがつにち御用ごようしゅつとめたのは、戸田とだ山城やましろまもる忠真ただざね宇都宮うつのみや城主じょうしゅ)の家来けらい(つまり陪臣ばいしん)の倉持くらもちあん左衛門さえもんと、浪人ろうにん山田やまだあさみぎ衛門えもん二人ふたり場所ばしょ伝馬てんままちろう屋敷やしきで、おなねん山田やまだ倉持くらもちのコンビはろくがつにちなながつじゅうにちにもさま御用ごようしゅつとめています」(pp.102-103)

もとぶん元年がんねんいちななさんろくきゅうがつじゅうななにち倉持くらもちあん左衛門さえもん幕府ばくふとどけられ、とうとうさま御用ごようしゅ山田やまだあさみぎ衛門えもんだけになってしまいました。“そして一人ひとりになった”というわけです。同年どうねんじゅうがつじゅうにちあさみぎ衛門えもんは、いま状態じょうたいでは自分じぶん病気びょうきになったおり御用ごようつかえるので、せがれ源蔵げんぞうにもさま御用ごよう経験けいけんませたいとうかが山田やまだあさみぎ衛門えもんが“いえげい”として将軍家しょうぐんけさま御用ごよう独占どくせんする体制たいせい確立かくりつしたのです」(p104)

死亡しぼう老衰ろうすい、そしてためりという仕事しごとそのものにたいする罪悪ざいあくかん宗教しゅうきょうてきのようなもの)にうながされ強力きょうりょくなライバルが一人ひとりまた一人ひとり舞台ぶたいっていった結果けっか成立せいりつしたひとり(首斬くびきり)あさみぎ衛門えもんいえ――。だからこそ、このいえたいするさまざまな怪談かいだんされ、あさみぎ衛門えもんけがれあたまだん左衛門さえもん手下てしたであるといった誤解ごかいまれたのでしょう。
 もちろん代々だいだいあさみぎ衛門えもんたちも、罪人ざいにんくびったり処刑しょけいかばねきざむような家業かぎょうにあるしゅの“けがれ”をかんじないではいられませんでした。
 宝永ほうえい元年がんねんいちななよんよんがつ神君しんくん家康いえやすおおやけ命日めいにちおこなわれる日光にっこう祭礼さいれいたって、幕府ばくふはあらかじめつつしむべき“けがれ”の数々かずかずげていますが(『ぶんくさむら』)、そこでも「ためしこうがたな脇差わきざし」(ためりをしたかたな脇差わきざし)はさんじゅうにちなければ“けがれ”が付着ふちゃくしているので神事しんじには携帯けいたいできないと明記めいきされていました。ためりした刀剣とうけんたいしてすらこうなのですから、ましてや職業しょくぎょうてきしゅともなれば、その“けがれ”もすくなからずまれたはず。
 おおくのひと処刑しょけい手掛てがけ、死体したいためりした払拭ふっしょくするべく、あさみぎ衛門えもんも、山野やまのかんじゅうろう鵜飼うかい十郎じゅうろうみぎ衛門えもん同様どうよう死人しにん供養くよう慈悲じひ心掛こころがけました」(p.105)

ためり、ひとりというぬぐいがたいけがれの印象いんしょうとは裏腹うらはらに、あさみぎ衛門えもん刀剣とうけんかいにおけるゆるぎない名士めいしとして、刀剣とうけんあいするおおくの人々ひとびと尊重そんちょうされていたのでした。
 けがれとほまれ――。山田やまだあさみぎ衛門えもんにまつわるこの二律背反にりつはいはんせいが、武士ぶしどうという言葉ことばかざられたとはいえ、権力けんりょくがつまるところ人殺ひとごろしを本領ほんりょうとする武士ぶしによって掌握しょうあくされていた時代じだい由来ゆらいにしていたことは、いうまでもありません」(p115)

「「浪人ろうにん」という曖昧あいまい身分みぶん将軍家しょうぐんけさま御用ごよう代々だいだいつとめるのみならず、依頼いらいがあれば大名だいみょうにもひとりの人材じんざい派遣はけんをしていた山田やまだあさあさみぎ衛門えもん、しかもかれ弟子でしたちは、それぞれことなるはん所属しょぞくしていたのです」(p211)

大越おおこし 義久よしひさ 20080530 刑罰けいばつろん序説じょせつ有斐閣ゆうひかく,184p.

武家ぶけほう時代じだい後期こうき
 江戸えど時代じだい刑罰けいばつは、「武士ぶしたいする刑罰けいばつ」と「庶民しょみんたいする刑罰けいばつ」の2本立ほんだてであった。
 武士ぶしたいする刑罰けいばつ
 武士ぶしたいする刑罰けいばつは、主君しゅくん家臣かしん関係かんけいもとづく懲戒ちょうかいであった。
 「厳重げんじゅう注意ちゅうい」としてはしかがあり、「停職ていしょく謹慎きんしん」としては、遠慮えんりょ>38>(もんじていえにこもること、やくについているもの一時いちじ役所やくしょ出所しゅっしょめられること)、押込おしこめ一定いってい期間きかん閉居へいきょさせ出入でいりをさせないこと)、逼塞ひっそくもんざして白昼はくちゅう出入でいりをゆるさないこと。30にちか50にち)、閉門へいもん(100にちもんじて召使めしつかいの出入でいりさえもゆるさなかったもの)、蟄居ちっきょ一室いっしつじこめて謹慎きんしんさせるもの。閉門へいもんよりおもい。終身しゅうしん蟄居ちっきょさせることをえい蟄居ちっきょという)があり、「懲戒ちょうかい免職めんしょく財産ざいさんけい」としては、こう召上、扶助ふじょ召放(いえろくげること)、改易かいえきいえろく没収ぼっしゅうし、平民へいみんとしたこと)があり、「追放ついほうけい」としては、追放ついほうながあずか無期むき他家たけ禁錮きんこすること)、遠島えんとうがあり、「生命せいめいけい」としては、切腹せっぷく斬罪ざんざいがあった。
 これらは、江戸えど時代じだいつうじて、本質ほんしつてき変化へんかはなかった。
 庶民しょみんたいする刑罰けいばつ
 徳川とくがわ吉宗よしむね(1684〜1751。とおるもと〔1716〕ねんに8だい将軍しょうぐんになる)は、武士ぶしたいする刑罰けいばつ体系たいけい修正しゅうせい補充ほじゅうし、庶民しょみんたいする刑罰けいばつ体系たいけいつくげた。ひろし2(1742)ねんじょうしょひゃく箇条かじょうが、それである。「よらしむべし、しらしむべからず」との統治とうち理念りねんから、公表こうひょうきんじられていた。全国ぜんこく領主りょうしゅもとで、土地とち定住ていじゅうさせられ生産せいさんたずさわっている庶民しょみん対象たいしょうとし、刑罰けいばつによって庶民しょみんうしなわれることを防止ぼうししようとしたのである。
 せいけいは、「生命せいめいけい」、「追放ついほうけい」、「敲刑」であり、入墨いれずみけいぞくけいの1つであった。
 @「生命せいめいけい」としては、のこ挽(たけのこくびいたのちはりつけころせする。しゅころせたいして)、はりつけはりつけにしてやりころせする。おもころせおやころせ師匠ししょうころせ主人しゅじん傷害しょうがいなどにたいして)、獄門ごくもん斬首ざんしゅしたのちにそのくびさらす。追剥おいはぎ主人しゅじんつま密通みっつうしたおとこ毒薬どくやくうり関所せきしょをよけて山越やまごえしたものにせばかります製造せいぞうしゃなどにたいして)、ざいころす。火付ひつけにたいして)、死罪しざい斬首ざんしゅいえ家財かざい没収ぼっしゅう〔+引廻〕。10りょう以上いじょうぬすみ、他人たにんつまとの密通みっつう男女だんじょとも〕、利欲りよくにかかわる殺人さつじんなどにたいして)、下手人げしゅにん斬首ざんしゅ喧嘩けんか口論こうろんによる殺人さつじんなどにいたいし>39>て。下手人げしゅにんとは、元来がんらいくだしてころしたものという意味いみであるが、くだしてころしたもの死刑しけいしょせられるさだめだったので、自然しぜん死刑しけい意味いみもちいられるようになったとされている〔石井いしい江戸えど刑罰けいばつ』30ぺーじ〕)が、存在そんざいした。
 A「追放ついほうけい」としては、遠島えんとう女犯にょぼんてらそうよぎってひところしたもの受不ほどこせるいほうをすすめるものなどにたいして。江戸えど伊豆いず七島ななしま京都きょうと大阪おおさか西国さいこく中国ちゅうごく壱岐いき隠岐おき天草てんぐさ薩摩さつま五島ごしま庶のべつなく、動産どうさん不動産ふどうさんども没収ぼっしゅうする)、じゅう追放ついほう関所せきしょしのとおったものおんな得心とくしんがないのにして不義ふぎしたものなどにたいして)、ちゅう追放ついほう主人しゅじんむすめ密通みっつうしたものくちとめ番所ばんしょおんなれてしのとおったものなどにたいして)、けい追放ついほう縁談えんだんまったおんな不義ふぎしたおとこ帯刀たいとうした百姓ひゃくしょう町人ちょうにんなどにたいして)、江戸えどはらいさけきょうひと手傷てきずわせた武家ぶけ家来けらい追放ついほうしゃかくしたものなどにたいして)、おいいん寺院じいんしなうれわたり証文しょうもん借金しゃっきんをしたそうなどにたいして)があった。
 B「敲刑」は、みみり、はなそぎのにくけい不可ふかとして、それにわるべきけいとしてつくられたものである。男子だんしのみのけいであり、軽重けいちょうがあった。敲はむち50(かるぬすみ、湯屋ゆやでの衣類いるい着替きがえ、ぬすめぶつりながらあずかることなどにたいして)、じゅう敲はむち100.
 Cぞくけいとしては、入墨いれずみ(いったん敲になったうえでのかるぬすみなどにたいして)、さらしほんけいまえ1にち引廻し、けい3にち刑場けいじょうさらす。僧侶そうりょ場合ばあいには、市上しじょうかかわばくし、3にちしゅさらす)、非人ひにん手下てした身分みぶん非人ひにんえられる。三笠みかさひろい〔賭博とばく一種いっしゅ〕、抜無つきとみくじにたもの〕のさつり、下女げじょ相対そうたいしてのこった主人しゅじんなどにたいして)、闕所(動産どうさん不動産ふどうさん没収ぼっしゅう)があった。
 Dうるうけいとしては、手鎖てじょう両手りょうて手錠てじょうをかける。30にち、50にち、100にち寺社じしゃしなれた俗人ぞくじんおっとのないおんな密通みっつうしてさそしたものなどに>40>たいして)、過料かりょうぜに3かん以上いじょう5かん以下いかぜに10かん財産ざいさん相応そうおう田畑たはた永代えいたいうりしたものひろものしてうったないものなどにたいして)、閉戸(門戸もんことざ営業えいぎょう停止ていしさせる。20日はつか、30にち、100にち)が、存在そんざいした」(pp.38-41)

江戸えど時代じだい牢屋ろうや
 江戸えど時代じだい牢屋ろうや存在そんざいしたが、現在げんざい刑務所けいむしょとはことなるものであった。たとえば、小伝馬こでんままちろう屋敷やしきは、「ろう屋敷やしき」(2677つぼあまり、表口おもてぐち52あいだあまり、奥行おくゆき50あいだ)であり、しゅうごく牢屋ろうや奉行ぶぎょう石出いしで帯刀たいとう徳川とくがわさんだい将軍しょうぐん抜擢ばってき牢屋ろうや奉行ぶぎょうやくうけたまわり、>42>小伝馬こでんままちろう屋敷やしき平面へいめんちゅう)『古事ふるごとるいえん』より。(省略しょうりゃく)>43>17だいおよぶ。与力よりき格式かくしき町奉行まちぶぎょう支配しはいにあり、やくだかは300ひょうである)の「役宅やくたく」、牢役人ろうやくにん同心どうしん定員ていいんは58めい)の「執務しつむしつ」、「獄舎ごくしゃ」、「刑場けいじょう」からっていた。
 獄舎ごくしゃには、「あげ座敷ざしき」、「揚屋あげや」、「大牢たいろう」、「あいだろう」、「百姓ひゃくしょうろう」がもうけられていた。大名だいみょうや500せき以上いじょう直参じきさんろう屋敷やしきには収容しゅうようされないが、武士ぶし僧侶そうりょ格式かくしきにより、あげ座敷ざしき揚屋あげや収容しゅうようされる。庶民しょみんは、狭義きょうぎろうである、大牢たいろうあいだろう百姓ひゃくしょうろう収容しゅうようされる。女性じょせいぶんへだたするが、雑居ざっきょ拘禁こうきんであり、作業さぎょうせられることはなかった(U‐2)。そこでは、おおやけのものではないが、役付やくづき囚人しゅうじん(12にん)とひらめ囚人しゅうじんから牢名主ろうなぬしせいかれていた(ろうんでくると、「さくつくる」という私刑しけいおこなわれていた)。
 牢屋ろうや機能きのうには、以下いかの4つがあった。
 @刑事けいじ裁判さいばん取調とりしらべちゅうもの収容しゅうようする未決みけつ拘留こうりゅう場所ばしょとしてもちいられた。拷問ごうもんも、ここでおこなわれた。もっとも、すべてのもの拷問ごうもんにかけられたわけではない。拷問ごうもんにかけられたのは、犯行はんこう証拠しょうこがあるにもかかわらず自白じはくしないもの、ならびに共犯きょうはんしゃ自白じはくしているにもかかわらず自白じはくしないものである。拷問ごうもん方法ほうほうとしては、むちいしかかえ海老えびせめつりせめの4つが有名ゆうめいである。さらに、拷問ごうもんにかけることができる犯罪はんざいは、限定げんていされていた。とおる7(1722)ねんに、人殺ひとごろし、火付ひつけ、盗賊とうぞくさだまり、もとぶん5(1741)ねんに、関所破せきしょやぶり、はかりごとしょ文書ぶんしょ偽造ぎぞうざいのこと)、はかりごとばん印章いんしょう偽造ぎぞうざいのこと)がくわえられた。それ以外いがいもの拷問ごうもんにかける場合ばあいには、奉行ぶぎょうしゅ評議ひょうぎうえさるじょうしなければならなかった。
 A有罪ゆうざい判決はんけつけたものけい執行しっこうまで拘置こうちする場所ばしょとして使用しようされた。
 Bながろう(無期むき禁錮きんこけい旧主きゅうしゅかたきしたもの女犯にょぼんそうなどにせられ>44>た、過怠かたいろう(30にちか50にち禁錮きんこけい。敲刑のかわけいとしての入牢にゅうろう)という刑罰けいばつ執行しっこうする場所ばしょとして使つかわれた。しかし、これは例外れいがいてき使用しよう方法ほうほうであった。
 C刑場けいじょう私刑しけい入墨いれずみけい執行しっこう)でもあった。敲刑は牢屋ろうや門前もんぜん執行しっこうされた。なお、私刑しけい刑場けいじょうを「きりじょう」という(ぞくに「土壇場どたんば」ともいう。ニッチモ、サッチモいかなくなったことを「土壇場どたんば」とうのは、ここからきている)。首切くびきやくまち同心どうしんやくであるが、まち同心どうしんたのんだ場合ばあいには、かたなのおためし御用ごよう本職ほんしょくであった山田やまだちょうみぎ衛門えもんくびせつなあさみぎ衛門えもん)が、首切くびきやくつとめた」(pp.42-45)

作成さくせい担当たんとうしゃ櫻井さくらい 悟史さとし 追加ついかしゃ
UP:20080918 REV:20080922, 0923, 0925, 20160526
犯罪はんざい/刑罰けいばつ  ◇死刑しけい執行しっこうじん
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