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視労協編『障害の地平』No.92
last update: 20210528
■全文
表紙
SSK増刊ー障害者開放運動の理論的・実践的飛躍のためにー
子宮から墓場までノーマライゼーション!
ー視労協ー
障害の地平No.92
障害者にとっても働きやすい職場を!
視覚障害者労働問題協議会
一九七一年六月十七日第三種郵便物許可(毎月六回 五の日・0の日発行)
一九九七年九月十二日発行SSK増刊通巻一一〇七号
目次
視労協的気分
ー夏バテの日々ー 的野 碩郎…1
職場報告 江見 栄一…4
私、「未来の教師」をめざしています 大里 暁子…7
仕事をしてみて 池田 健太…11
視労協夏のレクリエーションの感想 以久井 正己…13
「海水浴の感想」 和久田 篤信…15
ハリ・マッサージユニオン10年の歩み 宮 昭夫…17
視覚障害者と公園 宮 昭夫…22
編集後記
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視労協的気分
「夏ばての日々」
的野碩郎
(1)
あはき(按摩・マッサージ・指圧、はり、きゅう)で開業して、あと2ヶ月程で丸3年になる。思いおこせば、病院マッサージ23年の流れは実に気楽で暖かいものであった。病院ごと新しい経営者に売られてそしてリストラで首になってしまった。過去、僕の就職捜しは不運に付きまとわれ、内定していたいくつかのチャンスも壊れていってしまった。人生そのものがそう考えれば運がなかったといえるかもしれない。
運不運というのは僕のごまかしかもしれない。節目節目でいってみれば責任を逃れてきたのかもしれない。それがずうっと付きまとって今日があるのかもしれない。親しい人にいわせれば「自立」していないということらしい。
生まれながら障害を持っていた僕を教師である父は1回も人前にさらすことをしなかった。たった1回、夜に親戚のうちに花火を見に連れていかれたことを鮮明に覚えている。花火の美しさよりそのうちで飲んだ、おばさんが差し出した、1杯の牛乳をよく覚えている。
父の同僚や教え子が我が家に訪ねてきた時も、別の部屋に隠れてひっそりと時間の過ぎてゆくのをただぼんやりと待っていたのである。僕のアルバムには生まれて盲学校に入るまでの写真が1枚もない。両親に問い質したこともないが、この幼い日々が後々爆発となって表れるのである。
盲学校は暖かく(?)過ごしやすく(?)楽しい(?)毎日だった。二十歳くらいの上級生から縦割りに部屋のメンバーが組まれていて、お八つや洋服なども厚生省管轄の寮(施設)では近くのアメリカ軍や皇室の慰問によって配給となっていた。その時はとてもおいしいもので、とても暖かいものだった。けっして、日の丸君が代がなんだとか安保がなんだとかではなかった。
父は兄と僕を東京の国立の盲学校へ入れてその上に敷設してある教員養成部へといかせたいという思いをもっていて兄も僕もそのレールに乗るべく中学部より東京へといくことになる。
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東京には学帽、学生服、ズック、外套といういでたちで17時間の夜行寝台で行くのだが、やっぱり行くさきは盲学校の寮生活である。この寮生活は中学部高等部さらには、高等部専攻化と東京でも8年も続くのである。ところが、隔離された盲学校や寮生活は僕にはけっこう楽しいものであった。東京という都会での経験は田舎での12年の閉鎖された心を変えた。いや、変えたように思えた。演劇や詩を書くこと。デモや歌声や赤十字活動。ありとあらゆる右も左もいっしょくたに青春へと突き進んだ。やがて戯曲化を目指して大学へ、そして中退。就職捜し、23年間の病院づとめ。
(2)
開業3年。一定の落ち着きを持つ時期といわれる。いまだにくちコミと「治療室通信」で看板はない。朝から夜までのんべんだらりと夏ばての日々を送る。治療師として資質向上を計り業界のレベルアップをというところからも程遠く、とりあえず生活費家賃代、そして酒代。そんな僕がえらそうに後輩の40人を前にして講演。「未来をみすえて今をもっと大事に、もっと経験を」とほざく。これは間違いなく夏ばての症状だ。その夏ばての症状はまだ他にもある。障害者運動の中で僕はなにをしてきたのだろうか。あいかわらず視労協の存続問題がささやかれている中、事務局長を引き受けて半年が過ぎた。独自の課題といえばまちづくりに関してだけ。会員も僕同様夏ばての日々を送っているに違いない。定例会にしろ遊びにしろ障害者共通の集会や行動にしろ、いつものメンバーだけ。もはや夏ばてを解消する薬、つまり、エネルギーや思想や興味や差別にたいする怒りは、ぬるま湯の生活や目先の忙しさや楽しさに負けて、一向に効力を現さない。
それでも追われるように視労協は続く。続かなければならない。古いものも新しいものもいっしょくたにして進まなければならない。個別課題も作れないまま、あはき問題に力を注ぐことのできないままそれでも進まなければならない。一方では、障害者共通の課題がいくつもあって、人権獲得の闘い、公的介護のこと、障害者の政治参加の問題などなど。あれもこれも適当すぎて僕は遂に夏ばてとなった。勿論だれかに「助けて」と叫んで手を借りようとは思わないが、どこかに12歳までのおりこうちゃんがいて自立もできず責任も取れずにいる。
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(3)
通行人 「ここかい?めずらし屋というのは。」
おやっさん 「へい!ここがめずらし屋です。今日はちょっと変わった品物が手に入ってますよ。まずはこの束になって積んであるやつで、障害者差別っていう代物で」
通行人 「やたら量があるしこんなにぶかっこうじゃあ使い物にもならないじゃないか」
おやっさん 「そんなこたあありませんよ。これでけっこう世の中にゃあ出回っているんで。流行っていうんじゃないんですが根強くはやっていて」
通行人 「わ分かった。それよりそっちにある蝶蝶は初もんだなあ」
おやっさん 「へい!さすがお目が高い。こいつはその道の人には好まれるんですが嫌いな人にはさんざんでしてね、カゲキハっていう蝶で」
通行人 「おやっさんあいかわらず義眼や義足を集めて売っているんだなあ」
おやっさん 「反戦平和の御守りってやつはいつの時代でもそれなりに売れるんですよ」
通行人 「そこにある剣は?」
おやっさん 「こいつはちょっと値がはるんで買っていく人がいないんでいつもお飾りですよ。人権という名は付いているんですが」
通行人 「そこにごろっと置いてある品物は?」
おやっさん 「いやこれわ買わない方がいい。なにせのびきっちゃっているし見栄えもよくないし、ほとんど使い物にならないんですよ。秋の初めに出回る夏ばてっていうやつで」
(暗点。後、舞台古道具屋)
かみさん 「おまえさん夏ばてだからといって毎日ごろごろしていないで掘り出し物でも捜しにいっておくれよ」
(4)
50歳という年齢がどんなもがきかたをするのか僕自身とても興味あるところである。多分やり直しはなん回と繰り返すことはできないだろう。ちょっと遅い自立になるかもしれない。
夏ばて防止の民間療法を募集!
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職場報告
都立多摩精神保健福祉センター
江見栄一(多摩総合精神保健福祉センター分会書記長)
私は昨年の4月より東京都の職員として働いています。そして現在、東京都多摩市にある「都立多摩精神保健福祉センター」に勤めています。
このセンターは精神障害者の社会復帰を目的に設立されたものです。精神障害者は今まで病院に入院という形で閉じ込められ、そこで何年にもわたって生活していくのが普通でした(時にはそこで一生を終える人もあります)。それをこのセンターでは「地域に帰そう」と言う理念のもと、社会復帰の訓練を行っているのです。
このセンターの施設の仕組みとしては直接処遇、つまり精神障害者と直接関わるところが大きく分けて2ヵ所有ります。通所と入所と呼ばれている部分です。このうち入所はホステルと病室があり、病院を退院してもアパートなど借りられない、詳しく言えば、精神障害者であるが故に貸してもらえない人たちが住まいを探す間ここに入って日常生活訓練などを受けているのです。
もう一方の通所は生活訓練科として作業訓練係とデイケア係に分かれています。ここはその名の通り、精神障害者がそれぞれの自宅からこのセンターに通って来て訓練を受けるのです。このうち作業訓練とは、就職や作業所へ行きたいと考えている人たちがそれらに慣れておく意味からも、きちんと時間を守りながら木工やワープロ・製パン・喫茶などを実際に体験し、社会に出ていく準備をするのです。一方デイケア係では社会に出て暮らしてはいるものの、対人関係つまり家族や隣人・友達などとのコミュニケーションを取るのが難しい人たちを、プログラムの中で一緒に楽しみながら解消・克
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服して行くのが目的なのです。
このように直接処遇の分野が2部門有り、それを取り巻く形で間接処遇の分野が置かれています。そして私が居るのがこの分野に属する広報援助課相談係です。この係の仕事は先に述べた入所や通所の利用についての申し込みを受けたり、一般都民の心の悩みについて幅広く相談を電話や面接などで受けるのが主な仕事なのです。主な相談の内容としては精神病に関するものはもちろんのことながら、福祉制度に関する相談や近所づきあいの悩みから夫婦関係のことなど多枝にわたっています。だから相談係の仕事に携わっている職員は精神病に関する知識だけではなく、一般教養や雑学的な物まで要求されるのです。また最近の傾向としては電話相談が多く、1件あたりの相談時間も長く、そして複雑で困難な事例が増えているのです。複雑かつスピード化されている現代社会を反映しているのでしょう。私達の想像を超える相談が寄せられるなど、日本社会の持つ精神的貧困性、つまり経済大国でありながら心の豊かさを感じる事のできない人たちが多く存在している事を証明しています。
では次に私の仕事の事を紹介します。先に述べたような仕事に携わっている事もあり、私は電話にかじりついていることが多くなります。そしてそれらの電話の内容を記録として残しておかねばならず、パソコンの前に座っている時間もまた多いのです。特に後者の記録については、不便で、点字を文字として来た私にとって漢字文化になかなかなじめずとまどっています。またそれに追い打ちをかけるように、役所にはそれぞれ業務によって決められた「書式」と言う物があり、それに合わせて記録を作成しなければ業績として一切認めてもらえないのです。しかし視覚障害者がパソコンで「書式」に合わせて墨字を書くと言う事にも限界があり、細かな所までは出来ないのです。そのことでは大変苦労しています。またもう一方の読む(情報を得る)と言うこと、つまり激しく動いている精神保
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健福祉の動向を把握しておくために、いろいろな回覧物が回ってきます。これらについては同じ係の仲間に朗読してもらったり、後でボランティアにカセットに吹き込んでもらうなど自分で工夫してやらねばなりません。しかし、「必要即応」という原則が有るように、今来た情報をすぐに頭に入れておかなければならないのが相談係なのです。かといって同じ係の者は忙しく、あまり時間がとれない時もあるのです。ですからやはり後で持ち帰り、ボランティアに朗読をお願いすると言うことになるのです。しかしそれではその時必要な情報と言う物が私が、知り得た時にはもう遅すぎると言う事態にもなりかねません。視覚障害者は、こういう所から情報障害者とも言われるのでしょう。これらを総合して考えたとき、やはり東京都においても、「ワークアシスタント制度(職場介助者)」が必要だと痛感させられます。
さてそのような問題はあるものの、人間関係という面では係の仲間同士うまくいっていて、みんないろいろと私にアドバイスしてくれます。だから職場に行くのも楽しくなって来ています。視覚障害者が働く上で職場の同僚との関係がうまくいくかどうかと言う事が職務遂行上一番重要な事だと思うのですが、そう言う意味で私は恵まれているように思います。
いろいろと思いついたままを書いて来ましたが、私の職場は東京都における新しい福祉の分野であり、まだまだ暗中模索の部分が多々有ります。だからそこで働く職員も毎日の業務にはかり知れないストレスを感じながら手探りで新しい福祉の構築に取り組んでいるのです。
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私、「未来の教師」を目指しています
大里暁子
1「お久しぶりです」
前回「障害の地平」に原稿を書いたのが、たぶん5年くらい前だったと思います。書いた本人も忘れているくらいだから、その時の原稿を読まなかった人のために、もう一度自己招介をしたいと思います。現在、東京都の品川区の小学校で障害児学級の担任をしています。障害は視覚障害一級で全盲(5年前は視野が少しありました)、それと腎不全のため週三回の人工透析を受けています(これも一種一級で、現在も通院中です)。それと昨年11月に脳硬塞を起し、現在少し後遺症が残っています。
1989年(略して89年)12月から休職に入り、91年10月現任校に復職しました。休職する時の診断書が、腎機能の悪化だけだったので、復職は本人の心の葛藤は別として、割とスムーズに行きました(しかし、これが後で都教委から「詐欺」扱いをされました。)
2「心の葛藤」と復職してから
視覚障害と人工透析の二重ハンディを抱えながら小学校で働こうなんて、今考えてもムチャだったとおもいます。でも、その時はいろいろ考えて、できる所までチャレンジという気持ちだったように思います。ところが、戻ってみるともうたいへん!!
91年度は過員(学級もしくは専科を持たないで、その学校の話合いで割と自由に仕事ができる状態)で過ごし、できる仕事を探し、悪戦苦闘の毎日(これは、今も変わりませんが・・・)。でも、都教委は、そういう状態を許さず、「今の制度では、一人で担任もしくは専科をできない者は教師と認められない。」という理由で、92年度は休職もしく
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は「要配慮教員」の二者選択をせまったのです。わたしたち(視労協や私を応援してくれる人々)は、過員のままで仕事を続けさせて欲しいと交渉しましたが、92年度からは「要配慮教員」にされてしまいました。
3「要配慮教員」とそれからの脱出
要配慮教員とは、「配慮を要する教員に関する要網」(91年度から実施され、97年に「要配慮」から「指導力不足」と改められました)で、主に精神疾患を有する教師に3年という期限を決めて研修を課し、回復する見込みのないものは、分限免職でクビにするというひどい制度です。しかも回復等、有えない障害者を当てはめるなんて、まるでクビを目的にしているような制度でした。
92年度(要配慮教員1年目)は、ほったらかし。いろんな人の協力でなんとか「図書」の時間に童話の読み聞かせ等を担当させてもらったり、低学年の「音楽」の時間の手伝い等をしていました。93年度(2年目)は、都教委から研修を強要されました。(障害者への「要配慮教員」制度の適用は、あくまでも運用であると言いながら、指導力不足という観点から)。わたしたちは、通級学級の担任を望み、勤務校の変更を願い出ましたが、都教委、区教委は「品川区内に受け入れ校がない」という理由で「校内での研修を」と言い、3年生の「音楽」を学年について、1年間研修(わたしたちは、これを「研修」とは言わず、あくまでも「勤務」と考えていました)。いよいよ3年目の94年度は、わたしたちの方からは「低学年の音楽専科」を希望しましたが、都教委から「大里の場合は、出口が必要」と言い、「長く努められる道を探し、そのための研修を」という課題を突き付けられました。そこでわたしの希望としては「低学年の音楽専科」の設置を要求し、その年、音楽専科の受持ちが学級数減少のため3年まで下がったので、音楽専科付で3年生の音楽専科を担当させてもらいました。
94年度は、それまでに上回る都教委交渉を繰り返し、95年度に向
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けてがんばりました。都教委も区教委も授業見学を何回も行い、1.普通学級では児童の確認が出来ない。2.障害児学級ならば教員の数が多い。3.大里が休職まで障害児学級の担任をしていたからという理由で、今の仕事につきました。この結論が出て、それを受け入れるにはいろいろ話合い、たくさん悩み、今でも果して良かったのか、疑問です。でも、話し合う中で、今、一緒に担任を組んでいる人が、「大里さんが障害児学級の担任をやれるかどうか、大里さんと一緒にやる覚悟が出来たよ。」と言ってくれたのが、とても大きな要因だったように思います。
4「やっと 正教員になれたけれど・・・」
94年度の交渉で、もし、95年度が障害児学級の担任ならばという事で、次の要望を出しました。1.ワークアシスタントを付けて欲しい。(事務処理や授業準備の補助、授業中の児童の確認等のため)2.時間軽減(人工透析を受けているので30時間近い授業時数はとても無理)3.授業準備のため、勤務時間内に教材研究の時間が欲しい。これに対して都教委は、「ワークアシスタントは、現在 制度がないので付けられないが、一人で100%できない分嘱託・講師で、常時人的配置をする。時間数に関しては話合いでうまくやってくれ。」とのことで、嘱託が一人、講師が14時間付きました。ところが、戻ってみると、嘱託は学級付で、講師の申請も理由が児童のため(児童は変わらないのに、障害が重くなったので人手がいると言う理由で)となっていました。そして その時の嘱託や講師は正しい説明を受けてなく(後で校長に追及したところ、「本当の事を言ったら成り手がない。」と言われました)、「私は教師で、児童のためなら何でもやるが、大里さんのアシストはやれません。」(講師の言葉)とまで言われてしまいました。嘱託も「大里さんが一人立ちするまで」と言われたとのこと。この「一人立ち」というのはどういうことなのでしょうか?こんな訳で95年度は都教委のいい加減さと学級内の人間関係の複雑さに振り回された1年で
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した。96年度は、始まる早々97年度の児童数が二人に減る事が予想され、児童数が二人でも担任は二人にするように都教委へ交渉しました(現行制度では児童数が3人で、担任が2人)。2月末に都教委から「担任は一人、大里は移動カードを出さなくていい」とのことでしたが、3月に入って児童が一人増えたので話しがややこしくなったのです。正式な教員に戻れましたが、時既に遅く、嘱託無しで97年度がスタートしました。講師14時間(第2・第4週は、月・水・金で、第1・第3・第5週は、月・金・土)だけでなんとか動いています。嘱託や講師がいない日は教材研究と称して休息の時間がとれないのです。都教委交渉の結果、2学期に入ってやっと講師6時間が追加されましたがまだまだ問題は山積みです。
5「署名運動」と都議会の文教委員会の主旨採択
私たち 障害を持ちながら教壇に立ち続けると言うのは並み大抵のことではありません(大変なのは教師だけではないと思いますが・・・)。交渉の中で「前例がない」「制度がない」と繰り返し逃げられて苦労しています。そこで、5年前に障害(ハンディ)を物的、人的に補う制度の確立を目指して、署名運動を繰り広げました。全国規模で約6万もの署名を集め、東京都議会と文部省に提出しました。それが、97年3月に文教委員会で「1.ワークアシスタントの設置2.障害に応じた勤務軽減3.障害に応じた施設の設置、補助機器の導入4.移動時に置ける障害の配慮5.勤務時間内の通院の確保)の中の1を除く4項目だけ主旨採択されました。この4項目は都教委交渉ですでに認めさせたものを追認したようなものです。残るものは、1のワークアシスタントで都教委は「辞書に載っていない」「教育委員会だけでは決められない」などと言う当事者を無視した理由で採択が先伸ばしされました。
今の制度では私たちが教師と認められないと言うならば、「未来の教師」を目指し、未来を障害者にとっても住みやすい社会にするためにもう少し頑張ろうと思います。新たな署名活動にご協力を!!
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仕事をしてみて
池田 健太
医者から、「網膜色素変性症」という目の病気であると言われました。眼力は余り気にはならなかったのですが、外に居る事が多い仕事だったので、不安になり盲学校に入りました。『盲』という世界も、『あん摩や鍼』という世界も全く知りませんでした。
一年生の時から進路で、講師の先生の話や体験をいろいろ聞くことができました。もともと不器用だったので、なかなかあん摩や鍼が上手になりませんでした。
一年の夏に治療院と病院を見に行きました。治療院の感想は、一日に数人しか来なくて、暇なときには実技訓練ができる。病院の感想は、物理機器が主で、あん摩を行うことがほとんどない。という対称的なイメージから、治療院を進路先に選びました。なぜなら、まだまだ実技に不安をもっていたので、治療院に就職して実技の向上をはかりたいと考えていたからです。
しかし、三年になって進路を治療院と考えていましたが、進路の先生から「治療院の就職先は来ていないが病院ならあるぞ」と言われました。三学期になり「病院の求人ならある」と言われ、治療院がないのならと考えて見に行きました。
今までの病院のイメージとは異なっていました。職場で生き生きと働く姿や職場の環境がとても良かったです。また、私の持っている不安などを取り除くような話が聞けたので、ここなら何とかなりそうに思い病院に決めました。
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実際に働いてみて、まだ二ヵ月足らずしか経っていませんが、周囲の人から聞いた話によると、障害者は、他に比べ賃金が安いらしいのです。気付いた点としては、計算上では、週四十時間勤務なのですが、週休一日なので少しつらいです。
企業については、マッサージ師などの障害者を雇うのを減らす傾向にあるようですが、企業側の少しの努力で視覚障害者も十分に働けると思いますし、我々も最大限の努力をする必要があると思います。
プロフィール
昭和44年10月7日生まれ、大学卒業後一年間働いた後、東京都立文京盲学校に入学、 現在病院に勤務。
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視労協夏のレクリエーションの感想
以久井正巳
僕は視労協の夏のレクリエーションの参加は初めてである。そのためどんな感触かは解らないので期待と不安が若干あった。というのは初対面の人には(昔ほどではないが)人見知りをする方だからである。特に年頃の女性にはよけいである。
そんな訳で阪急電車や新幹線を使って伊豆熱川へ出て来た。熱海からは伊豆急で行くとのこと。旅館に着き、海で泳いだりするうちに参加者は皆視労協大会で出会った人で、初対面の人もそんなに緊張せずなじめる雰囲気だったのでほっとした。海の天候は外が快晴であるにもかかわらず荒れていて、「これは泳ぐどころではない」というのが正直なところだった。だから入っている時間より上がっている時間の方が多い。そうこうしているうち時間が経ち、夜のひとときになった。
食事は普段独身生活のせいで出来合いの物を食べているだけあって、手作りの味を味わった気がした。そして夜の交流会も盛りだくさんで特に傑作だった事はしりとり歌合戦である。頭のコンピュータではインプットされているが、画面に映し出されないといった感じである。これは自己紹介の質問コーナーにもいえる事である。しかし他のゲームではちゃんと画面に映る訳である。こういう時に普段の性格が出て、宮さんや的野さんのパワーに負けてしまう。そういった具合に1日がすぎた。
旅館の感じとしては、これだけ安料金で快適に宿泊できる所は少ない。そういう意味ではGoodである。次の日のプログラムはプール兼温泉での自由行動であった。屋外プールに屋外温泉は開放的であるがそれと同時に日焼けが気になった。特に日光の直撃を受ける所だったので、帰って「会社の人に見られるのも恥ずかしい」という気もあったが、海と違って十分
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泳げるコンディションだったので、「後の事は気にせず」といった感じで過ごすことができた。
そんなこんなで昼になった。これではおみやげを買う時間がないんじゃないかと心配したが、そんな心配はなく近くにお土産屋さんも有れば参加者の中に若い人もいたので、選ぶのには苦労しなかった。旅行で何が困るかといえば、やはりお土産選びで、特に団体にあげる物は悩む。
こうして二日間のスケジュールを振り返って、全体としては充実したプログラムで、視労協らしい、もっと言えば障害者らしい旅行だといえると思う。一般に旅行というのは今までの経験では観光や視察、いってみれば見るのが主である。しかし我々はそういった事より、手で触れ実際に体験する方がよい。今回の旅行はそんな感じだと思う。また日程的には修学旅行のような詰まったスケジュールでなく余裕を持って行動ができたのではないかと思う。
参加者は全弱のバランスや誘導体制、コミュニケーションの方もとりあえずうまくいって、安全で、雰囲気的にもリフレッシュした状態で旅行ができた。僕の会社は休みも少なく定休日以外は連休といったまとめて休みを取る機会が少ない。だからたまには環境を変えないと心身共に疲れる。こういう機会を利用し、どんどん世間の空気を吸っていきたいと思う。
視労協事務局をはじめとして今回のレクリエーションの準備をして下さったみなさん、お疲れさまでした。この頃AOKのワープロを使用するようになってから手書きがおっくうになり文章が一段と苦手になったため読みづらい点はすみません。これからの目標としては是非AOKワープロをマスターしたうえで点訳印刷によるレポート提出もできるようにしたい。
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「海水浴の感想」
和久田篤信
私は今年初めて視労協が主催する夏の一泊二日の海水浴に参加した地方会員(京都)の鍼灸マッサージ師の和久田篤信と申します。大変楽しい日々を過ごす事ができ、役員のみなさまには深く感謝いたします。例年なら3月に行われる視労協大会でしか本部会員のみなさんとそして会員のみなさんと会う事ができず、お互いの事を深く話す所までできていないように思います。しかし、このようなレクリエイションをかねて会員同士の親睦を深められたように感じられ、良かったと思いました。
さて、私がこの7月20日(日)・21日(月)に一泊二日の伊豆熱川での海水浴で、印象に残っている事などお話しします。三日前までは雨が降っており梅雨明けが心配していましたが、その心配も嘘のように雲一つ無い絶好の海水浴日和になり、これも日頃の会員の行いが良いのでしょう。我々京都組は新幹線に乗り熱海駅で東京の会員と合流して、伊豆熱川まで行きました。現地に午後3時頃に到着して、ホテルに入り、さっそく水着に着替えて海へ行き夕方5時頃まで海水浴を楽しみました。そこでは海に入る人と、砂浜で遊ぶ者とに分かれました。私は2年ぶりに海に入り塩水の感触を楽しんでました。みんな浮き袋やビーチボウルを持って沖の方まで行って潜ったり、泳ぎに熱中していました。砂浜では、砂を掘るとあついお湯がわき出ている所が有り、大変びっくりしました。その砂を体にかけたりして砂風呂の気分を味わっていました。時間が来たので海からあがりその足でホテルの温泉へつかり、夕食を食べ、懇親会へと進んで行きました。そのころから私の体は普段の運動不足がたたり先ほどの海水浴の疲れがどっと出てきました。しかし、懇親会が始まりしばらくすると先ほどの疲れはどこかに飛んで言ってしまいました。懇親会は楽しく、午前1時
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頃まで花が咲いていました。私はその後部屋に帰りしばらく友人と話し込んでいましたが、知らぬ間に眠りの世界へと入っていました。明くる日友人からいびきが大きくてなかなか眠れなかったとおしかりがあった。8時から食堂で朝食を取り、9時30分にはホテルを出て、きのうの海水浴場の近くのプールへ行きました。そこの水は海水を引き込まれていてしょっぱくて異様な感じがしました。けれども一般のプールと比べて体が良く浮き、泳ぎやすく、2時間ほど遊んでいました。最後に海を見渡せる露天風呂に入り、昼真っから贅沢気分を味わう事ができました。そして、昼食は駅前のお寿司屋さんで握りセットを食べ、午後2時前の伊豆熱川発熱海行きに乗り、海を後に家路に向かいました。帰りの車中では行きと違い、みんな疲れていたようで寝ておられる方が多かった。京都組は熱海駅で東京の会員のみなさんと別れました。熱海駅では新幹線との連絡時間がほとんどなかったので、ゆっくりと東京の会員のみなさんと挨拶ができなかった事が残念だった。
最後に、この旅行で一番感じた事は、会員のみなさんと会えて親睦を深められた事だった。私は京都に住んでいるためこのように視労協の活動にしょっちゅう参加する事ができません。だから、会員一人一人がどんな感じの人物かがあまりわかっていなかったため、レクリエイションをかねた旅行に参加して、昼間は羽目を外して遊び、夜の懇親会ではまじめに近況報告をしたり、軽いゲームなどをして、だんだん打ち解けられ、以前より少しわかって来たように思われます。今後もこのような企画を年2、3回ほどあれば視労協の活動に参加し易くなるように思います。
役員のみなさん本当に楽しい日々を過ごさせていただきありがとうございました。今後ともみなさん、よろしく御願い申し上げます。
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障害者生産協同組合はり・マッサージユニオン
10年の歩み
1.私たちが目指したもの
障害者生産協同組合はり・マッサージユニオンは、1987年6月14日、視覚障害者労働問題協議会(視労協)や、労働組合東京ユニオンの仲間たちを中心にその第一歩を踏み出しました。
私たちが目指したものは、協同の力で視覚障害者の雇用の場を作りだすと共に過労やストレスにさらされている労働者や市民に安い治療の機会を作りだすことでした。
多くの視覚障害者にとって、鍼灸マッサージの仕事は今でもほとんど唯一の仕事ですが、現実には、目の見える人達のこの業界への進出が激しく、過酷な競争の中で自立していくことはなかなか厳しい状況です。
その厳しい状況を協同経営と協同組合による患者のネットワークとで乗り越えようというのが私たちの発想でした。
具体的には、一口1万円以上を出資した者によって協同組合をつくり、治療室を運営する。その際、実際に治療にあたるのは視覚障害者の治療師を原則とし、他の組合員は、一般より安い料金で治療を受けることができるというものです。
働く者のユニオンと、生活協同組合的要素をドッキングさせた形だと言えるかもしれません。
初年度に協同組合に加入した者107人、出資金総額440万円といったスタートでした。
2.厳しい立ち上がり
渋谷治療センターのオープンとマッサージユニオンの試みとは、新聞・テレビ
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週刊誌等いくつかのメディアによって報道され、我々のスタートは順調なように見えました。しかし、現実は、それほど甘くはありません。
渋谷の治療室には月70人程度の患者がありましたが、なお採算ラインには届かず、たのみにしていた労働現場への出張は月平均20人程度にとどまっていました。
労働現場への出張治療というのは、マッサージユニオン設立の当初大いに期待でき、また、意味のある取組として位置づけられていたのですが、厳しい労務管理の中で働く労働者の状況にマッチした的確な取組ができなかったこともあり、思うような成果をあげることができませんでした。
社会党本部、全逓会館、自治労本部といった比較的自由のきくと思われた現場等でも、忙しさや治療師の方のやりくりの問題等もあり、十分な拡大はできませんでした。
そうした中運転資金が底をつき、営業開始から何ヵ月もしないうちに、治療師や事務職員の自発的な賃金カットや仲間からの一時借入を余儀なくされるなど厳しい状況が続きました。
しかし、2年目を迎えるころから、本格的に雇用助成金を活用するなど多くの皆さんに支えられながら何とか最初の危機を乗り越えることができました。
3.第二店舗 光が丘治療院のオープン
89年から90年にかけてマッサージユニオンには大きな動きがありました。事務局長が専従を離れざるを得なかったことや堀理事長が社会党比例区から参議院に当選するなど、いろんな意味で変化が激しく、必ずしも十分な体制とは言えない中、第2店舗を開設する決断をしたことです。
当時、渋谷治療センターは、治療師二人体制がある程度軌道にのりかけ、治療収入だけによる黒字確保にはあと一歩届かなかったものの、本格的に活用を開始した雇用助成金を加えれば、手持ち資金は急激に回復しており、最初に集めた出
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資金440万円を越えるところまできていました。
やっと固まりかけた基礎を、ここでより確実なものにすることは大事なことですが、視覚障害者に少しでも多くの働く場を作り出すという組合結成の目的からみて、貴重な出資金を寄せられた仲間たちの期待に応えるためにも、私たちは第二店舗の開設という選択をあえて決断しました。
こうして、1990年6月、第二店舗「光が丘治療院」が、練馬区旭町に開店しました。幸い、光が丘治療院は治療師の頑張りと都内でも有数のマンモス団地に隣接するという立地条件もあって、最初から予想以上の成績をあげることができました。
また、治療室の2階部分を地域に開かれたフリースペースとして位置づけるなど、地域密着型の新しい治療室の可能性に、私たちも希望をふくらますことができました。
その後も光が丘治療院は、順調に実績を延ばし92年秋には治療師3人体制を実現するところまでこぎつけました。
4.長期低迷と、そこからの脱却を目指す取り組み
一時採算ラインに近づく方向にあった渋谷治療センターは、91年後半、治療師の交代がスムーズにいかなかったことなどをきっかけに急激に落ち込み、92年、93年、94年も、その傾向を変えることはできませんでした。
原因としては、事務局機能の弱体化による営業宣伝活動の停滞(看板が壊れたままだった時期もあった)、この業界を取り巻く厳しい状況といった外的な要因の他に、治療師の側にもマンネリ化による積極性の不足があったといえます。
例えば、渋谷の治療室は労働組合の事務所に同居しているという特殊な形態をとっていますが、そのことは、一見手狭で雑然としているといったハンディを持つ一方、多くの労働者や市民と日々日常的に交流の機会を持つことができ、それを営業活動に結びつけるチャンスにも恵まれているはずです。しかし、そうした
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利点を生かす努力が足りなかったかもしれません。
また、順調に実績を延ばしていた光が丘治療院にも、93年に入り陰りが見えはじめ、治療収入も減少して、わずかながらとはいえ赤字へと移行してしまいました。
営業収支の大幅な赤字を雇用助成金でかろうじて補うという望ましくない状況が定着し、展望の開けない状況がしばらく続きました。
そうした状態を打破するため、93年から94年にかけて拡大理事会や理事会の集中討議などでいくつかの打開策を決定しました。
治療費の値上げ、賞与のカット、治療師の賃金に一部歩合制を導入する、など治療師一人一人にとって痛みを伴う厳しい決定でした。特に歩合制の導入については、営業開始以来一貫して同一賃金の原則を貫いてきただけに、考えも一入でしたが、そのこと自体、背水の陣で取り組む治療師と理事会の決意を示していました。
5.再建の手がかりから新たな飛躍へ
こうした対策と地道なチラシまき等営業宣伝活動の強化によって、95年度は患者数、治療収入共に前年に比べ大幅に改善し、96年度もややその伸び率は落ちたものの2年続いて患者数、治療収入共に増加傾向を続けています。
治療師の賃金についても、治療収入の増加に伴う歩合給の増加により、賞与を含めた以前の年収までもう少しというところまで回復してきています。
しかし、これはまだ言わば再建の手がかりをつかんだと言えるに過ぎません。単に2つの治療室の経営が何とか維持できただけで、私たちの理想が実現する訳ではないのですから。
率直に言って、この10年間、多くの皆さんのご支援をいただきながら、私たちが成しえたことは、何とかマッサージユニオンの灯を消さずに頑張り抜いてき
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ただけだと言えるかもしれません。
同じように障害者の働く場を作りだす試みであっても、協同作業所などの場合と違い、私たちの場合は、あくまで営業活動として成りたなければはじまりません。
視覚障害者の治療師のネットワークをつくること、治療師と患者、障害者と健常者の新しいネットワークをつくるといった私たちの理想を実現するためにも、まず営業活動を軌道に乗せなければ話にならないのです。
現実には、私たちは今や業界の8割近くを占める目の見える同業者たちとたたかわなければなりません。カイロプラクティックや整体、気功等新手の類似業者とも太刀打ちしなければなりません。更には、我々よりはるかに有利な条件で保険が取り扱え、安い治療費で患者を引きつける接骨院とも張り合わなければならないのです。
こうした状況に打ち勝っていくことは、それ自体並み大抵のことではありません。ともすれば、厳しい営業活動の中で理想が遠のき、そのことによって、逆に営業に対する意欲や努力が鈍ってしまうという悪循環と停滞に陥ることもあります。
しかし、私たちは、多くの皆さんの物心両面の支援に支えられ、組合結成当時の理想を糧として、何とかこの10年を乗り切ってきました。再建の手がかりも見えて来ました。10年の記念すべき節目を契機に、初心に立ち返って治療に対する情熱と人と人との新たなつながりを信じて、新たな一歩を踏み出したいと思います。
治療師と患者として、或いは協同組合の仲間として、人間同士として、今後とも多くの皆さんとのつながりを大切にし、頑張っていくつもりです。
多くの皆さんのご支援ご協力、叱咤激励をよろしくお願いします。
共に頑張りましょう。
1997年6月28日
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視覚障害者と公園
宮昭夫
「人はなんのために公園に行くのか?」
「公園におけるバリアフリーの実現にむけて」をテーマに、5月25日私達は日比谷公園を点検して歩いた。当然のことながらたくさんのバリアが存在し、それについて様々な要望がだされた。思い付くままにいくつか上げればこんなふうだ。入り口がよく分からない、案内板(地図)がない、トイレや水飲場やベンチなどの位置が分からない、段差の前に警告ブロックがない、分岐点での誘導がない、道に木の枝が垂れ下がっていて危ないなど、いずれも歩行の安全と円滑さを考えるかぎり当然の要望といえるものだった。
しかし、視労協の8月の定例会でこの問題が取り上げられた時には、いくつか別の角度からの意見がだされた。公園は道路とは違うのだから土のむき出しになったでこぼこ道があってもいいし上から枝の垂れ下がった歩きにくい道があってもいいではないか、過剰な誘導ブロックや音声案内は公園の雰囲気を壊すものではないかといった主旨の意見だ。
公園になにをしに行くか(あるいは、なにを期待して行くか)は人によって違うだろう。散歩、デート、小鳥や植物など自然との触れ合い、カップルの観察等それは興味と必要に応じて色々だろう。視覚障害者にとっても公園は安全であればいいというだけのものではないはずだ。だが、それにしてもやはり安全は必要だ(よね)。
「駅と公園」
公園にも安全性が大事であることはいうまでもないことではあるが、それはしかし駅のホームの上などと比べれば明らかに意味合いが違うことも事実だろう。駅のホームの上ではなにはさておいても、安全が第1に議論の余地なく要求されている。駅にくつろぎや安らぎを求めにでかける人はあまりいないだろう。まあ中には石川啄木のように「ふるさとのなまりなつかしひとごみのなかにそをききにゆく」という人もあるだろうし、私の経験からしても、既にデートの約束をすっぽかされた事は明白になりつつもなお、ホームのべンチに座って入っては出てゆく電車の流れをぼんやりと意識しつつ煙草
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をふかす時の気分などは捨て難い「味わい」がないことはない。しかし、そんな事は一般化できる事でも、する必要のある事でもない。駅にとってはあいかわらず安全が第1の目標である。なにしろホームから転落すればかなり高い確率で死の危険にさらされるのだから、誘導や警告のサインは(それが正しくて合理的なものである限り)過剰という事はないだろう。
では、公園には果たしてそれに匹敵するような危険があるだろうか?まず思いうかぶのは池だが大概は浅い。直ぐ様命の危険がありそうな池はない(ことはないかもしれないが)私は知らない。まあ井の頭公園の池などは多少やばそうな気がする。しかし、コンクリートの縁がなくて多少深そうな池というものは大抵落ちる前に下り坂になっているものだし、なんとなくしめっぽくもなってくるものだ。たとえ池におっこちなくても花壇におっこちたり、警告ブロックのない階段を踏み外したりすれば運がわるければ骨折くらいはするかもしれない。やはりできる限り誘導や警告のサインは必要だということになるだろうか?たとえ差し迫った危険はなくても公園の中でも迷わないに越したことはない。
「必要は『不要』や『不快』の上に立つ」
数は少ないけれど普通の道路や駅構内でも点字ブロックは必要ないという人もいる。しかし、単独歩行にとってはブロックは絶対に必要だという人の方が遙に多い。実際にブロックがなければ不安でとても歩けないという人もいる。なくてもいいという主張は残念ながら論理的に弱い。あっては不快だという主張でさえそれがなければ重大な不利益や危険にさらされる人がある限り主流にはなれない。多分なってはいけないのかもしれない。周りの環境からみて黄色の点字ブロックは不調和で趣味がわるいといって不快に思う人がいるとしても、それが黄色であることによって恩恵を受けている人がいるならそれは我慢すべきだと日頃我々は主張している。
「必要性のチェックは必要?」
一人でも必要とする人がある限りそれは必要なのだというのが障害者運動を進めるうえでは忘れてはならない立場だ。だが、必要性にも「程度」というものがあるのではないか。それがないと生きていけないような不可欠なものか、論理的にはあった方がよいという程度のものなのか考えることは少な
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くとも実際的には必要になる。平たくいえば、一人で公園に行く視覚障害者がどれだけいるだろうかということを考えてみることは全く無意味なことではない。私自身のことをいえば、一人で行ったことのある公園というのは(団地の近くの児童公園を除けば)井の頭公園くらいのような気がする。以前井の頭公園駅の近くに自宅があり三鷹駅の近くに治療室があった時、公園の中を通っていくのが近道でもあり雰囲気もよかったので、毎日のように細長い公園いっぱいを使って通勤していたことがあった。そういう訳で公園の中についてもかなり知っていたので、たまには一人で行くこともあった。もし公園に安らぎや寛ぎを求めていくとすれば、初めての公園に私達が一人で行くことは多分安らぎや寛ぎはもたらされないだろう。単独歩行をしている視覚障害者は静かな住宅地を歩いているときでも心拍数が2倍にもなっていると、先日の歩行訓練士の村上さんの講演でも紹介されていた。勿論視覚障害者同士のカップルという場合もある。その場合は不安を相殺してくれる「安らぎ」のようなものがあるかもしれない。
「視覚障害者と情報選択」
私は公園には情報がいらないなどというつもりは毛頭ない。日比谷公園の点検の前、触地図をみることができたが、それは安心感も与えるし実際にも役にたつ(説明があればなおいい)。入り口や出口それに多分トイレの位置もかなり重要だ。ベンチでおいしいビールも飲みたいしね。一般の利用者や、過剰な情報は雰囲気を壊すと感じる視覚障害者との関係を考えても、小型の発信機だか受信機だかを使って必要な人にだけ情報が提供されるシステムがいい。できれば携帯電話にその機能が組込まれると便利だと思う。なるべくいろんなもの持ちたくないから。だれにも迷惑にならず公園の意味にもぴったりの簡単な表示、草や木の名前はぜひ点字で書いて欲しい。
(付記) 例によって締め切りぎりぎりに書いたから大事なことを落としている。補足や反論を。
裏表紙の裏
※ 東京・府中の市民有志による取り組みから。
「こころでみる美術展」
テーマ 「僕達、私達の作ったもの」(全国盲学校生の造形作品から)
開催期間 1997年10月10日(祝)〜19日(日)
会場 府中グリーンプラザ分館1回ギャラリー(京王線府中駅下車1分)TEL0423ー40ー0211
開催時間 平日AM10〜PM8、土日祝日AM10〜PM6
入場料 大人300円 小・中学生と障害者・つきそい者100円
博物館や美術館がどのようなものであれば、全ての人にとって身近に感じられるものとなるのでしょうか?いっしょに考えてみませんか?感心のある方ぜひ、無関係だと思っている方もちょっと触りにきてみませんか!
(編集後記)
日に日に年老いていく視労協ですが、若い人達にも原稿を寄せてもらって今回も「障害の地平」を発行することができました。
障害者が働くためには、職種に応じて色々な補助機器や制度による確実な保障が必要となりますね。それと同じぐらい、もしかしたらそれ以上に大事なのは、健常者も障害者も高齢者も働く全ての人達が同じ人間として、いっしょに働くのだという意識を高めていくことではないでしょうか。職場の上司や同僚との気持ちのちぐはぐはどんなに有能な補助機器が供えられていても働きにくいものですよね。その辺をいつも心に止めながら運動を組み立てていきたいものですね。それは、根強い差別意識との闘いということになりますね。(森)
裏表紙(奥付)
1997年9月21日
定価200円
編集人 視覚障害者労働問題協議会
〒239 横須賀市長沢115 グリーンハイツ2ー7ー405
奥山 幸博気付
発行人 身体障害者団体定期刊行物協会
世田谷区砧6 〜26〜21
視覚障害者労働問題協議会
■引用
■書評・紹介
■言及
*作成:仲尾 謙二