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視労協編『障害の地平』No.93
last update: 20210528
■全文
表紙
SSKー障害者開放運動の理論的・実践的飛躍のためにー
子宮から墓場までノーマライゼーション!
−視労協―
障害の地平 No.93
視労協の解散を提起します
視覚障害者労働問題協議会
一九七一年六月十七日第三種郵便物許可(毎月六回 五の日・0の日発行)
一九九七年十二月五日発行SSK通巻一二四一号
目次
・視労協解散についての提起 視労協事務局…1
・視労協存続に関する提起 森登美江…3
・視労協的気分ー政策研究集会を終えて 奥山博幸…6
・選ぶ権利 斉藤昌久…9
・三療日記B 的野碩郎…12
・落ちないホームヘの道のり 宮昭夫…15
・都交通局による「巣鴨駅の試験に関する調査結果」…18
・優しい町づくりに(株)アイタッチ 本間丈雄…20
・当事者の使える機器の開発を待つ 上園和隆…21
・ヘルスキーパー制度化への道 神崎好喜…22
・書評「今どきしょうがい児の母親物語」 梅林和夫…24
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「視労協解散提起について」
視労協事務局
視覚障害者労働問題協議会(視労協)は、結成22周年をこの10月22日で迎えました。発足当初の、まさしく労働問題という課題にふさわしい、公務員採用の点字受験達成に向けた運動から、教員採用の点字受験、そして、その枠は三寮(あんま・マッサージ・指圧、はり、きゅう)関係の病院解雇撤回や、サウナ解雇撤回と広がっていきました。当時の学生運動の盛り上がりとも合わさって、視労協の会員の増加や運動の勢いは目を見張るものがあったと思います。大学門戸開放運動においては、全国的な展開をも生み出すことにもなりました。
少数ながら「盲界」をあっと言わせる「障害者解放運動」という信念がそれぞれの会員にあったと思います。しかも会員それぞれが自らの思いで活動に参加し、生き生きとしていたと思います。
視労協運動の頂点と言うべき筑波技術短大設立反対運動や、晴眼者養成の早稲田しんきゅう学校への反対運動は、今でも耳に残る視労協の歴史の1ページであることは言うまでもありません。
こういった歴史をふまえながら今日をむかえるのですが、ここ10年に関して「解散」という言葉がささやかれ、活動そのものが停滞していったといわざるを得ません。例えば雇用を扱う団体がいくつか誕生してきましたし、会員がいわゆる青春時代から、職場や家庭、地域といった所で安定した位置にはまってしまったことも、その一つの要因になると思います。
といった視労協の経過がある中で、今年9月、10月、11月の定例会において、「解散」か「継続」かということが討論されました。定例会といっても、6、7人の事務局員がそのまま出席しているという現実をもっていて、活発な討論には至りません。また、「視労協通信」紙上で経過の説明や会員からの意見等の呼びかけもしましたが、全くと言っていいほど反応がありませんでした。こういった状況をふまえても視労協再生には程遠いものがあると思います。
再度簡単に経過を報告し、事務局からの解散提起とさせていただきます。なお、手続きとしては年度末の総会にはかり、決定することになります。
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〜経過〜
1.
8月の定例会において、下半期の活動をどうするかにあたって提起をして形を作ってみても、参加する人や担い手がいないことが話され、その討論の中から「解散」が出されました。勿論、残してほしいという人もいましたが、残してほしいというお願い調では、視労協は動かないとの反論もあって、9月へ持ち越し、同時に通信をもって会員に問うということが確認されました。
2.
9、10月の定例会においても、活発な意見交換はなされず、解散賛成側と、残してほしいという存続側とに分かれたままとなり、最終結論を11月の定例会で行うことを確認しました。
3.
11月の定例会でも2つの対立した意見はありましたが、だらだらとこのまま続けることを避け、解散を決定し、機関紙『障害の地平』誌上に事務局提案するということが決まりました。
〜主な解散理由〜
1.
事務局を担う人がいないこと。
2.
まちづくりという活動以外に独自課題をもって(例えば三療)、活動することがなかなかむずかしい。
3.
会員それぞれが生きる場を持っていて、視労協という名のもとに結集することが不可能になってきていること。
4.
視労協の独自性が持てなくなり、その視労壇の役目が終わったと思えること。
以上の経過と理由にもとづいて、事務的作業も含めて動いていくことになりました。総会の日程等は追って通信でご連絡させていただきますが、多くの会員の参加を得るために年度末のスケジュールに加えて、是非活発な審議をよろしくお願いします。
p3
視労協存続に関する提起
森登美江
1この間の経過
視労協では、秋になると年度末の交流大会の準備に入ります。私が会員になったのは9年前の秋でした。その時は「暫定視労協」という形で存続問題が論議されていました。そして、次の年の春から「再生視労協」として活動が続くことになりました。それから8年、秋から冬にかけての重い議題として毎年必ず解散か存続かが問われてきました。年を重ねるに連れて深刻な課題になっていったと思われます。
今年も9月10月11月と定例会の主要な議題に取り上げられました。その中では「担い手がいるなら続けてもいい」「解散はしない方がいい」といった消極的存続の声もありましたが、独自の課題もなく、積極的に労働問題に取り組んでいる訳でもないところからこの名称を引きずる意味も全くないのではないか、現在それぞれがかかわっている活動を自由に発展させていくことが有意義なのではないか、極一部の限られた人数での活動の限界などが指摘され、解散を支持する意見が主流となりました。定例会といっても事務局に一人二人の会員が増える程度という寂しい状況の続く中で、通信をもって会員の意見を問うこともしましたが、残念ながら反応が得られませんでした。「いつものことだ」と慣れてしまって重要視されなかったのか、通信が読まれなかったのか、いずれにしても事務局としては結論を出さなければなりませんでした。そして、事務局からの解散提起ということになった訳です。
私自身も事務局の一人として解散を支持してきました。私の中での一番の理由はなにを問いかけても会員からの反応がない
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こと、参加のないことでした。解散を最初に主張した私ですが、いつも迷いがありました。ほんとうの意味でのまちづくりを考える集まりを作りたいという思いの中でも、これまでの活動で出会った仲間をどのようにすれば大事にできるかと考え続けました。そして、会員の反応がないという理由で解散しかないと主張していた私自身、視労協を作る立場でなにもしてこなかったことに気がついたのです。11月の定例会で機関誌に「解散提起」を載せるという確認をしたにもかかわらず、12月の事務局会議において再度この問題を討議して欲しいと提案しました。しかし、既に決定したことであり、事務局としては認められないという結論でした。但し、事務局を離れて個人としての意見を機関誌に載せる機会をいただきました。事務局に混乱を招いてしまったことをこの誌面をお借りしてお詫び申し上げます。
2存続を提起する理由
前にも書いたように私自身視労協会員としての責任をもって、中心を担って視労協の活動を進めていこうと決意しました。担い手としての意見は聞かれなかったにしても、存続を望む声があったことは事実です。様々な立場の人達が参加しやすいあるいは、興味を持てるような活動の在り方、進め方を探りながら前進することで、これまでとは違う視労協に生まれかわることができると考えます。解散はいつでもできます。一人の個人がやっていきたい、やりたくないというようなことで運動団体が存在したり、解散に踏み切ったりするものではないのかもしれませんが、続けようという会員が存在する限りは続けてもいいのではないでしょうか。存続を望む声があるのは確かなのですから。
3これからの視労協をどう作っていくのか
p5
発足当初から20年余を経過した現在、障害者の活動の在り方も、世の中の状況も大きく変わってきました。そのような変化を把握しながら、私達はなにができるのか、なにをすべきなのかを見極めていかなければなりません。
他の団体の動きも情報として取り入れながら、まず、視覚障害者としての独自の課題に絞り込むことが今は大事だと思われます。会員一人一人が活動内容を把握できるように、だれもが話しやすい会議にします。会議や行動への参加の方法も、できるだけそれぞれの事情に合わせて動けるように考えたいと思います。
具体的には、まちづくりの輪を広げていくための主軸づくり、三療をはじめ障害者が働きやすい職場づくり、交流を深まながらの仲間づくり。これらを基本に組み立てていくのがよいのではないかと考えています。
存続提起にしては頼りないと思われるかもしれません。それでも、解散か存続かという重大な問題をもう一度みなさん一人一人に問いたいと思います。視労協の歴史に捕らわれる必要はないと思いますが、その22年の歩みと向き合ってみ眉ことも大事な時のような気がします。そして、その積み重ねの上に私達がなにを重ね合わせることができるかを考えてみませんか?障害者運動を担っている人からいわせれば、私の提起などは提起ではないかもしれません。それでも、私は視労協を新しく生まれ変わらせたいと思っています。ぜひ、みなさんのご意見をください。お待ちしています。
もっと具体的な方針をここに書くべきだったでしょうか。
p6
視労協的気分
政策研究集会を終えて
奥山幸博
第3回障害者政策研究全国集会が12月6口(土)、7日(日)の2日間、東京において開催された。1日目の全体会は御茶ノ水の全電通会館ホール、2日目の分科会は代々木のオリンピック記念青少年センターを会場に行われた。今回も障害当事者を中心に全国各地から400名が参加。視労協からも10名が参加し、「交通・まちづくり分科会」では駅ホームからの転落事故の実態と再発防止に向けた整備のあり方についてレポート報告を行った。
集会テーマは「もっと自由にもっとあたりまえに地域の中で〜変えよう障害者政策、私たちの提言で〜」。6日の午前中は主催者、来賓(東京都福祉局障害福祉部長、連合中央・市民ボランティア局長)の挨拶に続いて基調の提起(実行委員会の事務局メンバーである奥山が担当)。内容としては、研究集会の経過、政治、経済状況、障害者関連施策の動向、1999年を中心とした今後のとりくむべき課題などについて提起した。
午後からの記念講演は、テーマ「障害者権利法制の確立をめざして〜戦後50年の障害者施策を検証し新たなパラダイムを構築するために〜」、講師は願正短期大学の杉本章さん。福祉、医療関係も含めて、この社会の様々な分野での不正、腐敗が明らかになってきており、為政者の側もまた新たなパラダイムを模索せざるを得ない状況になっていると指摘。この間の障害者運動について次の様に述べている。「自らの生きる権利の主張とともに、人が人として人らしく生きられる社会の実現のために苦闘が重ねられてきた。しかし相対的には社会のマイノリティ集団である障害者が、その力量と社会環境のゆえにこれまでの苦闘が報いられていないことも否定しえない現実である」。テーマにもあるように戦後50年を4期に分け、それぞれの時代特徴的な施策と、それに対峙してきた障害者運動の姿を重ねるとゆう興味深いお話しがされた。T期945年〜1959年(社会福祉の定礎期」)、U
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期は1960年〜1973年(社会福祉の拡大期)、V期は1974年〜1990年(社会福祉の転型期)、W期は1991年〜(地域福祉型、自治型社会福祉への展開期)としている。(この区分は古川孝順著「戦後福祉改革」による)。この話しの中で、「厚生白書」にみられる国の「障害者観」が大変印象的だったのでいくつか紹介してみる。
1951年版厚生白書(はじめて刊行されたもの)。「身体障害は人間をおそう不幸の中でもきわめて深刻なものの一つである。それは、人間の各種の能力の欠損をもたらすものであって、特に人間の労働能力を奪うことによって生活を破錠に陥れることが多い。のみならず、それは本人の心理にも一般世人の心理にも強く影響して、身体障害者は正常な人間会関係を建設することが困難になり、社会生活から隔離されるおそれがなしとしない」、「精神に障害があれば、現代の複雑な社会生活に適応しえないのみならず、人生の落伍者として取り残され、その妻子家族を不幸に陥れ、悲嘆にくれさせることとなる。またそれがこうずれば、社会の安寧に危害を及ぼすことにもなるであろう。(以下略)」。次に1966年版。「これらの精神薄弱者は、現在の医学ではほとんど治療が不可能であるが、しかし、精神薄弱者本人の不幸はもちろん、その家族のこうむる苦痛にはきわめて深刻なものがあるし、優生学的見地からみても、いたずらに放置することは好ましくない。しかも、一部の精神薄弱者は治安上からみても危険な存在であり、また売春婦女子などの相当数は精神薄弱者であって、社会秩序を守る上でも何らかの措置を必要とする。しかも、医学的に治療がほとんど不可能の状態にあるといっても、早期に発見、教育あるいは補導が行われさえずれば社会的適応性は相当程度まで持ちうるものである」。
これらは少なくとも戦後のものである。こうした障害者観に基づいて障害者施策は進められてきたのである。90年代後半の今日の状況はどうであろうか。障害者基本法が制定され、プランも示された。ノーマライゼーションが強調されている。しかし、現実はどうであろうか。国の、社会の、そして人々の障害者観、意識は本当に変ったのであろうか。全く変化していないとは思わないが、根っこの所で変っていない、そんな思いも抱かざるを得ない差別や権利侵害があまりにも多い。時間の関係で杉本さんのお話しも十分に聞くことができなかったが、今後の施策のあり方、「パラダイム」を検討していく上で、杉本さんから提供された年表なども参考にしながら継続した議論ができればと思う。
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講演の後は、2日目に行われる分科会について、担当者からの問題提起を行った。
今年の分科会は次の5つ。「自立支援」、「教育」、「労働」、「交通・まちづくり」、「権利擁護」。私は「教育」に録音担当として参加。'79養護学校義務化から18年を経過した「障害児教育」の現状と今後の闘いについて討論された。詳細な報告は省略するが、一言で言えば「個別闘争と共に法律・制度の変革を」ということになるだろう。「原則分離・特例統合」の壁を破っていくためには制度の根幹である学校教育法などの改正が不可欠である。ここでもまた、教育における新たなパラダイムが求められている。
集会全体を通して強く感じたことは、政策研究・提言活動のキーワードは、古くて新しい「差別禁止と権利確立」ということになるのではないかということであった。
視労協は今回・解散を提起している。私個人としてはこのことを積極的な意味合いで受けとめ、今後とも多くの障害を持つ仲間とともに政策研究集会をはじめとする様々な運動に関わっていきたいと考えている。
p9
「選ぶ権利」
選択する自由が少ない日本の社会と学校
視覚・聴覚障害 斎藤昌久(私立高校教員)
昨日、障害者政策研究全国集会の教育分科会に出席して帰ったばかりで、私自身の中で人権感覚がかなりホットに燃えていて、今まで考えてきたことを何かの機会に出さなければならないと思っていた問題でもあるので、ここにかなり整理の出来ていない形になるかもしれないが、書きたいと思います。
私は、小学校の時から度のつよい近視の眼鏡をかけていました。それでも矯正視力は0.3がせいぜいで、教室の一番前の席でも黒板の字が見えませんでした。小学校3年の終わりの時にクラス替えがあり、それまで3年間習っていた担任ではなく、新しく赴任してきた女教諭のクラスに変わりましたが、前の担任が私の弱視を心配し、交渉してくれたお陰で4年間同じ先生に習うことが出来たのですが、このとき幼いながら、どうして自分が先生を選べないのだろうかと疑問を持った覚えがあります。
中学校は4年間担任をしてくださった先生の勧めで私立学校に進みました。以来、高校、大学、教員としての仕事も私立学校を一貫して選んできたので今でも役所の人間は余り好きではありません。
本題に戻りますが、政策研究集会で問題になったのは、障害児が普通学級になかなか行かせてもらえない。たとえ教育委員会が母親の要求を認めて普通学級に通うことを「承認」したとしても、母親が一緒に学校に行くか介助者を常時つけるなどの条件をのまなければ受け人れようとしない。これは憲法の「教育の機会均等」の精神に違反するばかりか、憲法を形骸化し、国民を侮辱する行為であると思います。
青木優氏は「障碍を生きる意味」(岩波書店)の中で「幼児集団の中に障碍を負う子供たちが『そこにいる』ということがどれほど大事なことなのかは、子どもだち自身が私
p10
たち教持つ育に責任を者に繰り返し教えてくれた。」と述べて子供たちの豊かな発想で「共に遊び、学ぶ」事例を紹介し、インタグレーション(統合)の教育のすばらしさを紹介しています。
障害児とその子の親が、他人と違っている「人間」を特殊教育に行かせる以外に道はないと初めから諦めなければならないような社会、ある特定の道を押しつける今の日本の社会は、いわゆる「健常者」にも個人の生き方を押しつけて恥じない社会といえるだろう。特に学校は、どんな子どもにとっても「選ぶ権利」行使できない、窮屈で生きにくい社会といえるだろう。
昨年8月私たちは「ノーマライゼーション教育ネットワーク」を発足させたが、ここに集う教師たちは障害を持ちながら教壇に立ち続けたいと願って、様々な運動や戦いを続けて生き残ってきた人たちです。しかし、新入会員の中には、障害児と同様に、その障碍を理由に自分の働く学校を選べない人も多くいます。残念なのは教師としての権利、子どもに責任を持つことを教師の権利として教育委員会に訴える人が少ないことです。私自身も3年前から「教壇復帰」を教師の基本的権利として職場の同僚に訴え始めたばかりですが、日本の学校、社会の壁は厚く立ちふさがっています。
私たち、障害を持つ教師が教育現場で働く場合、障害の種別に応じた人的、物的補助を必要とします。視覚障害を持つ教師であれば、音声ワープロ、点字プリンター、拡大読書器などの教科書読みとり器具や教科書のテープ化をしてくれるボランティアや勤務軽減のための人的配置も要求しなければなりません。そうした条件整備がなければやっていけないことを「教師に不適格」な資質として退職するように管理職から強要された先生が多数います。学校教育の国際化が云々されて7,8年たちますが、その面前にあった「国連障害者の10年」はどこか遠くに置いてけぼりにされて、教育現場は、共生の場になっていません。教育現場がいかに共生の場になりえていないかを示す会話を紹介します。
A:数学科のD先生、生徒が騒がしくて授業が成立していないって?」
B:自信がないんだよ、授業に。よく答えを間違えるって、生徒は言ってるらしい。
A:困っているのは彼ばかりでないでしょう。担任と相談したのかな。
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B:みんな忙しくて、かまってられないからね。Aさん、健常者のDさんだつてそうなんだから、この前のAさんの授業だって私とC先生が見ていなかったら、授業が成立していたかどうか分かりませんよ。(校正者注:「Aさん、健常者〜分かりませんよ」下線)
もう一つよく聞かれる会話例。
A:最近長い時間教材研究していると目が疲れて、頭痛がしてね。
B:視覚障害者なのだから、あまり目が疲れるほど仕事やってはいけないよ。
A:拡大文字でも読むのに時間がかかるんですよ。だから、組合で分会決議をして「時間減」などの障害保障を校長に要求してほしい。
B:それは無理だね。みんなも同じ要求もっているんだよ。君だけ障害保障という理由で時間減なんてできないよ。そんな要求すると、孤立するよ。(校正者注:「みんなも同じ要求〜孤立するよ」下線)障害保障なんて今の学校財政の中でできっこないだろう?
前の会話では、障害者をいつもひとつの仮定や条件をつけて見ていること。自分をも含めて同僚を教師集団の一員として見ていないこと。後の会話で分かることは、障害者の要求が、みんなの要求と同じと認識していながら、障害保障としての障害者の要求は認めていないという点で差別的です。
私が上のような会話例を出したのは、初めに述べた障害児やその子の親たちが、彼らの行く学校を選べない、行政側や学校側が選ばせない、受け入れようとしないことと関係があるのです。日本の学校教育が憲法、教育基本法や障害者基本法に「謳われている」人間の尊厳を現実の世界の中で検証することなく、障害者を常に特定の条件や仮定の中で規制してきたのです。一方、日本の一般社会も行政側のこうした姿勢に対して批判力を育成してきたとは言えません。私たちは、欧米、アジア諸国が日本の規制緩和を要求していることに対して、それが勝手ない分と見る前に、私たちも歴史的に「規制」を基盤とした学校教育の中で、「選ぶ権利」を奪われてきたのだということを再認識しなければならいと思いました。
「政策研究全国集会」の論議を聞いて整理のつかない内に、思いつくままに述べて来ましたが、「選ぶ」こと、また他の人たちの違った選択を受け入れることの大切さを今後も自分自身の中で反芻し、訴えていきたいと思います。
p12
三療日記(3)
的野碩郎
病院の合理化にあって首になって、三療での開業に踏み切ってからまる3年の月日が過ぎてしまった。友人の、やっぱり開業している彼が「3年の辛抱」ということをいってくれた事が励みになって、やっとここまできた。
地域でのビラまきは各家々に1回と駅で2度程まいただけで、くちコミに全面的に頼って今日まできた。最初から看板をださずに治療室をやってきた割りには、くちコミの成果は偉大なものがある。特別特徴的な、個性的な治療方法や専門分野はないが、「治療室通信」を患者や友人、知人に出し続け、治療室のことや地域のことや僕の生き様を伝えることが少しは力になってくれたのであろう。バックナンバー18、となってその発送作業が大変になっているのは嬉しい悲鳴かもしれない。
もう1つ、3年間治療費をサービス期間として定料金にしてきたことが、それなりの患者数を維持するものになったに違いない。しかし、定料金にしたことが治療室の収入にどうはねかえってくるか、さらには、ある程度の収入のために働くとしたら僕の体力との勝負にもなる。安ければくるという発想は論理がなりたたないこともある。高い方が信用が持てるという論理も片方にある。そういう観点からいえば、僕の患者は子育てを終えた主婦やパートや小銭を持つ女性が多いことがうなずける。僕の中には、治療費は国が国民の医療として全額負担すべきと思っている。ということは、保険の対象になるべきということである。
開業当初はもっと勉強をしようという思いが強くあったのだが、患者が定着してくるにしたがって、その気持ちが薄れてし
p13
まっているのに気がつく。新しい患者を獲得するには新天地のビラまきも必要だが、やはり得意とする治療を増やしていく必要もある。くちコミの強さはこんな病気が治ったということが伝わることにある。今のところ特別へまをした覚えはないが(僕の知らない所ではぼろくそだったりして)勉強をするに越したことはない。それで自信過剰や天狗にはなりたくないが。
治療室で生きるということを障害者の生き様を地域に押し出すというテーマもかかえてきたつもりだが、このテーマはなかなか難しい。ビラをまくことも患者や友人と、地域感謝祭として無料マッサージ体験や点字紹介をドッキングさせてイベントを組んだり、健康についての勉強会を治療室で開いたり、とあの手この手とやってみるのだが、治療を受けるだけの患者と治療を行なう先生という関係性はなかなか破れない。しかし、「治療室通信」に対する興味は色々あって、たとえば、同封の同文の点字のことや障害者問題を内容として取り上げていることや僕自身の生き様を書いていることなどに興味や反応があったことはこのテーマをもっともっと押し出していく、あきらめないでいく必要があることをうかがわせる。それにしても、地域の中で障害者として生きるということはなかなか難しいものだ。
もう1つ、僕が努力していないこともあるが、他の三療師とのつながりがまるっきりこの3年間の中では持てなかったということが気になる。近所の不動産屋には整体の開業や美容マッサージの開設のための部屋捜しがけっこうあるという話を最近聞いた。看板を出していないので、この辺が彼らにとっていいポイントになっているのかもしれない。そのためか20〜30M裏に整体が看板を出した。視覚障害の同業者とつながっていれば、情報交換や地域戦略もそれなりにできてくるだろうが、
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ほんとに残念ながらつながっていない。できれば交流や情報交換を含む視覚障害者三療関係ネットワークを作れればと思う。技術向上を建て前とした集まりはあるようだが、障害者の生き様を視点としての集まりはないと思う。勿論、障害者差別に対する怒りもかかえた集まりである。
思いつくままに3年間の開業を振り返ってみた。一人職場の孤立感は相変わらずあるが、慣れの中で麻痺してきている自分に再度鞭を打ちたい。
最後に、三療日記になるかどうか分からないが、多分、僕達開業の人達と関係のある2つの事柄。1つは老人医療保険、もう1つは介護保険のこと。原稿に字数制限があるので、簡単に触れておく。前者は病院での支払額1020円が500円が4回で薬や検査はそれにプラスとなりました。僕達開業者にとって若干のプラスに、つまり、病院へ行くことより同じ金を払うなら治療室へとはならないだろうか。毎回なん百円を取る接骨院に通う人もいるようだ。なぜか接骨院の方がレベルが上にみられている。後者の介護保険ではまだまだ整備しなければならないことだらけなのに、見切り発車してしまった。それに、高齢者で障害者に対する重大問題は置き去りとなっている。この分野へ治療室のつながりはリハビリという名で訪問する看護婦やヘルパーに変わっていることも考えなければならない。またの機会に触れたいと思うが、用注意の2点だと思う。
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落ちないホームヘの道程
宮昭夫
「『落ちる』と「ぶつかる』」
「落ちる」と「ぶつかる」は一人で歩く視覚障害者にとって、主要な2つの恐怖ではないだろうか?「ぶつかる」の中で最悪なのは多分動いている車だろう。そして、「落ちる」の中で最悪なのがおそらくホームからの転落だ。
我々が日頃頼りにしている「白い」杖は前方の道路や物を確認することのできる大切な道具だ。しかし、それだけではない。動いている車にとって白杖は「若葉マーク」よりも「紅葉マーク」よりも強い法的強制力を伴う注意信号なのだ。
だが、この白杖も一旦ホームから線路へ転落した場合にはなんの力にもなってくれない。とにかくホームから落ちてはいけないのだ。
「点字ブロックの可能性と限界」
そうした我々に「強い味方」として登場したのが「点字ブロック」である。点字ブロックとは、ホームの端から80cm前後内側に足先や杖で確認できるブロックを敷くことによって、視覚障害者のホームからの転落を防止しようとするものだ。70年代から80年代にかけてホームから転落した二人の視覚障害者が正に身をもって(一人は死亡、一人は重傷)国鉄の責任を問う裁判を起こすことによって(裁判自体は最終的な勝利は勝ちとれなかったが)点字ブロックは急速に駅ホームを中心に普及していった。現在ではホームの端の「警告ブロック」だけではなく、階段やエスカレーター、改札口などへ導く「誘導ブ
p16
ロック」も増えて、点字ブロックの情報としての可能性は大きく広がろうとしている。
「それでも事故が減らないのはなぜ?」
94年12月から96年2月までの1年3ケ月余りの間に、関西地区だけでも近鉄、大阪市営地下鉄・JR東海道線などで7件の転落事故があり、内3人が死亡している。その他にも東海道線小田原駅での転落事故など、事故は一向に減る様子がない。私の個人的な印象ではむしろ前よりも増えているような気がする。少なくとも「点字毎日」の紙上でみる限りそんな気がする。なぜだろう。点字ブロックは役にたないのだろうか?私にはそんなことをいう根拠も勇気もない。単独歩行をする視覚障害者が増えたのだろうか?歩行訓練に問題があるのだろうか?今のところなんともいえない。多分いくつかの原因が重なっているのだろう。
「誘導と警告のはざま」
私自身はそうした原因の1つに「警告ブロック」と「誘導ブロック」の誤認というのがあるのではないかと思っている。以前はホーム上でブロックをみつければ、それは即ちホームの端の「警告ブロック」だった。しかし、今では前にも触れたように階段やエスカレーターや改札口などへ「誘導」するブロックも同時に存在する。確かにそれによって情報量は増えた。しかし、それは錯覚する可能性も増えたという事でもある。私は「誘導ブロックは必要ない」とはいわないが、少なくともホームの上ではできるだけ少ない方がいいと思っている。階段に落
p17
ちるよりは線路に落ちる方が明らかに危険なのだから。問題は警告ブロックと誘導ブロックが瞬時に区別できるものである必要があるということだ。
「より完全なホーム柵を設置させるために」
私自身はこれまで4回ホームから転落したことがある。点字ブロックは改良し、正しく敷かなければならない。しかし、それでもなお転落事故の可能性はかなり残る。だから、私達の要求は最終的にはホームドアやホーム柵、つまり、落ちないホームだということになる。なお、実験や試みの段階ではあるが、ホーム柵が実用化に向かって僅かながら動きだしている。東急池上線をはじめ、都営地下鉄三田線でも4月から8月にかけて3つの駅で実験が行なわれた。来年1月には運輸省がJRの技術研究所を使って、車椅子使用者と視覚障害者を対象とする実験をしようとしている。不完全なホーム柵は新たな危険を作りかねない。みんなでチェックし、よりよい落ちないホームを目指していこう。
p18
針マッサージユニオン 宮様
拝啓
日頃より都営交通をご利用いただき誠にありがとうございます。
お問い合わせのありました「巣鴨駅の試験に関する調査結果」についてご報告させていただきます。
1.試験データの広報について
試験のデータは、検対するためのものであるので広報活動を行うことは考えておりませんが、お問い合わせがあれば、お答えできる範囲で回答させていただきます。
2.「データがよければ設置するのか」「採用する場合にはどのような方法で設置するのか」との問い合わせについて
プラットホームの曲がっている駅では、柵の設置によってプラットホーム上の視界が悪くなるので、安全確認が難しくなり、監視カメラも多くの台数が必要となることが分かりました。東京都交通局としては、このような結果を総合的に検討し、引き続き、安全性の高い方策を検討しているところです。
また、この柵等は、一つの路線のなかのシステムとして検討しておりますので、採用する場合は、全駅に設置するべきものと考えております。
3.アンケート結果
別紙のとおりです。
4.調査実施駅
巣鴨駅のほか、神保町駅と白山駅において、柵を設置し調査を行いました。
都営交通についてご意見がございましたら、是非お寄せくださいますようお願いいたします。
今後も、都営交通にご支援、ご愛顧を賜りますようお願いいたします。
敬具
平成9年10月22日
東京都交通局経営企画室
技術計画担当課長付
技術開発担当係長
加納卓夫
総務部お客様サービス課
サービス推進係長
石井正
p19
お客様アンケートの結果
(巣鴨駅試験お客様アンケート集計) (校正者注:以下、表を文章にて記す)
問1 柵の高さについて、どのように思われますか。
1.高いほうがよい(ラッシュ時)11、(閑散時)2、(合計)13、(割合)7%
2.低いほうがよい(ラッシュ時)11、(閑散時)16、(合計)27、(割合)15%
3.ちょうどよい(ラッシュ時)69、(閑散時)76、(合計)145、(割合)78%
(合計)185
問2 柵と柵との間隔について、どのように思いましたか。
1.狭いほうがよい(ラッシュ時)25、(閑散時)40、(合計)65、(割合)35%
2.広いほうがよい(ラッシュ時)12、(閑散時)8、(合計)20、(割合)11%
3.ちょうどよい(ラッシュ時)25、(閑散時)46、(合計)100、(割合)54%
(合計)185
問3 柵の設置位置について、どのように思われますか
1.列車に近いほうがよい(ラッシュ時)18、(閑散時)9、(合計)27、(割合)14%
2.列車からはなしたほうがよい(ラッシュ時)16、(閑散時)19、(合計)35、(割合)19%
3.ちょうどよい(ラッシュ時)59、(閑散時)67、(合計)126、(割合)67%
(合計)188
問4 柵よりも、前に出たお客様に危険をお知らせするための警報音を出していますが、この音をお聞きになったことがありますか。
1.ある(ラッシュ時)18、(閑散時)13、(合計)31、(割合)16%
2.ない(ラッシュ時)78、(閑散時)83、(合計)161、(割合)84%
(合計)192
「ある」とお答えになった方にお聞きします。この「ピ、ピ、ピ」という警報音を聞いたとき、どのように思われますか
1.音が小さい(ラッシュ時)2、(閑散時)1、(合計)3
2.音が大きい(ラッシュ時)1、(閑散時)4、(合計)5
3.音の大きさはちょうどよい(ラッシュ時)8、(閑散時)7、(合計)15
4.危険を知らせるための音だと思った(ラッシュ時)8、(閑散時)4、(合計)12、
5.何のための音かわからなかった(ラッシュ時)4、(閑散時)2、(合計)6
問5 この柵について、どのようにお感じになりましたか
1.安全性増(ラッシュ時)44、(閑散時)52、(合計)96、(割合)49%
2.邪魔だ(ラッシュ時)14、(閑散時)9、(合計)23、(割合)12%
3.通行しにくい(ラッシュ時)11、(閑散時)8、(合計)19、(割合)10%
4.何とも思わない(ラッシュ時)37、(閑散時)20、(合計)57、(割合)29%
(合計)195
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やさしいまちづくりのアイ・タッチ
大手銀行・証券会社の倒産等、大変厳しい年も、あわただしい年の瀬をむかえましたが、いかがお過ごしですか。
さて近年、福祉的配慮が一段と高まり、各種障害のある人・高齢者・子ども等すべての人が、基本的人権を尊重され、自由に行動し社会参加のできる「やさしいまちづくり」を目的に、全国各地で次々と条例が制定されています。例えば、東京都は平成7年3月に、大阪府は平成4年10月に条例が制定されました。
福祉のまちづくりは、東京都の方針どうり、国民の参加と協力を基本に、国民・行政・事業者が共通の認識の下に、各々の立場から協働して推進すること、単に物的な環境の整備にとどまらず、事業者の提供するサービスや国民相互のふれ合いや、やさしさ、さらに関連する各種の施策の連携等により、総合的に推進することが重要です。
そこで弊社は、その事業者の役割を十分に理解し、視覚障害の分野で、視覚障害者の方や各団体のご意見・ご要望を参考に、自由で安全快適な生活環境の整備を目指し、総合的に取り組む為に、今年10月、触知図案内板・手摺の点字案内を中心に、新会社を設立致しました。
そして弊社の願いは、障害のある人もない人も、高齢者も若者も、また大人も子どもも、多様の個性をもつ一人ひとりが、自らの人生を選び取り、それぞれの生活を尊重しながら、心優しく、豊かに、相互に支え合っていける社会をつくることであり、東京都をはじめとしたこの2ヶ月の営業活動で「本当に役立ち、喜んで頂ける物づくり」の為には、残念ながら現状では、視覚障害者の皆様方と行政とのパイプ役が必要と痛感しましたので、少しでもお役に立ちたいと考えています。
最後に、「やさしいまちづくり」を推進する大事な時期だと考えますので、皆様方と一緒に、真剣に精一杯努力していきたいと思いますので「アイ・タッチ」を、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
株式会社 アイ・タッチ 代表取締役 本間 丈雄
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当事者の使える機器の開発を待つ
上薗和隆
私が歩行の際、もっとも恐怖を感じることの一つは、下向きの段差である。先日「5センチ以上段差があれば振動する杖が開発された」というニュースを聞いた。疑いつつも「やったあ!」と胸踊る思いで広島にあるアエラクリエイトに電話したところ、担当者が東京にきているとのことで、現物を見ることができた。
この杖の新しい機能は三つある。一つ目は現在広島市や三原市でしか機能しないが、この杖を持った人が近づくと備え付けのセンサーが働き音声案内をする。二つ目は点字ブロックに「反射体」が埋め込んであり、この上に杖をかざすと振動がなくなるため、杖を地面につくことなく左右に振りながら簡単にブロックの上を歩ける。
三つ目は、「段差がわかる」ということ。これはてっきり、段差に1メートルぐらい近づくと振動するのだろうと決め込んでいたが、そうではなくて、杖の先端と床面との距離が5センチ以上になると振動するというもの。ふつう白状は周囲の床をつきながら歩くものなので、私は「これじゃあ従来のものでも同じようなものだ、何の意味もない」と思った。しかし開発者は「階段の縁をさわり損なっても、この杖は振動で知らせるから安全」と主張する。いろいろ説明してもらったがどのようなメリットがあるのかわからない。さらに説明を促すと、「モーワットセンサー(別な機能をもつものであり、使っている人はかなり少ないと思われる)よりはいいですよ」という。
「広島県内や東京でも何人かに使ってもらい、歩行訓練士からの好評も得ている」「広島ではテレビでも取り上げられた」「1回の充電で5時間使えるバッテリーつき」「年末には7万円で売り出したい。有効性には自信がある」「厚生省の日常生活用具の指定も取るつもりである」などと話していた。
私とは違った歩き方をする人にとって有用な杖であるかも知れないので、「大勢の人に試してもらいたい」と話したら、「後で送る」とのことだったが3週間以上たった今でも送られてきていない。
あのまま売り出されるのだろうか?「段差がわかる」といううたい文句を信じた視覚障害者が高価な杖を買わされるのではないか。本当に安全なものであれば私もぜひ使いたいと思うが、この杖は価格が高価すぎる割には安全を確保できるかどうかが疑わしい。
それにしてもいろんな開発がなされているのだが、なぜ、その過程でもっと当事者の意見を取り入れようとしないのか、残念である。企業だけが利益をあげるような名ばかりの福祉機器の開発・販売はやめてほしいものだ。紙面の都合で書ききれないが、この1年ばかりの間に、他にも2、3そのようなことは聞いているのである。
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ヘルスキーパー制度化への道
ヘルスキーパーの制度化を求める連絡会
(略称:制度化連)事務局長神崎好喜
制度化連は、ヘルスキーパーの求人減少、身分不安定、業務未確立等の課題解決を目指して1996年6月に発足した。活動の柱は、ヘルスキーパーの雇用拡大と労働衛生への位置付けである。とはいえ、発足時には労働省の姿勢やヘルスキーパーの実態すらも不明確だったため、活動の見通しも立てにくい状況にあった。
ただ、いかなる制度化を求めるにせよ欠かせないのがヘルスキーパーの定義だ。そこで、我々は半年以上をかけて以下の定義をまとめた。
『ヘルスキーパーとは、「あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律」に定めるあん摩マッサージ指圧師の資格を有する者(その資格以外に、はり師またはきゅう師あるいはその双方の資格を有する者を含む。)であって、その資格により業務として行うことのできるあん摩・マッサージ・指圧(はり師にあってははり、きゅう師にあってはきゅうを含む。)及びそれらに併用する各種物理療法により、労働者等に対し、主として労働に起因して発生した心身の疲労や不定愁訴を改善することにより、労働者等の健康の保持・増進に寄与するとともに、職業性疾病や労働災害の発生防止の一翼を担い、もって労働衛生の向上に貢献することを目的に、原則として業務の対象者である労働者等を雇用している企業(官公庁を含む。以下同じ。)と同一の企業に雇用されている者をいう。』
この定義に至るまでには、まずメンタルヘルスをどう扱うかが議論された。あはきの特性から会話による心理的ケアがなされているのは事実だが、はたして定義に取り込めるのか、医師や産業カウンセラーとの関係は整理できるのか等の意見が出され、結局定義には含めないこととした。「労働者」という文言にも、「組合」のイメージが強い、企業の役員や派遣社員は対象にしないのか等の意見が出され、最終的には労働安全衛生法に従い「労働者」の文言は用いつつ、併せて「等」の文字を加え、総会における事務局長見解として企業の役
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員や派遣社員も含むことを表明することとした。ヘルスキーパーの雇用主についても、対象者である労働者を雇用している者と限定していいのか、特例子会社のように双方の雇用主が異なったらどうするのか等の意見が出され、当面は「原則として」の文言を加えて雇用主の範囲を広くとらえることとした。
一方、労働省労働衛生課との交渉では制度化への道程が容易でないことが浮彫りとなった。同課は、「労働衛生行政は、労働者自らの健康保持・増進を支える兼査や指導のスタッフと施設の充実を図るものであり、直接労働者に施術するヘルスキーパーは含まれない。」とのスタンスを取っている。そのため、労働衛生分野におけるヘルスキーパーの有用性を明らかにする目的の研究すらできないというのだ。
我々としても、現行のままでの難しさはわかっている。しかし、こうした研究を通してヘルスキーパーの有用性を明らかにすることが企業を説得する材料となり、またヘルスキーパー自身に業務の重要性を理解してもらえる道でもあるのだ。そこで、医学的要素を含むこの難題をオブラートに包み、視覚障害者の雇用促進策として実施するよう労働省障害者雇用対策課に投げかけた。
当初同課は、必ずしもいい返事はしなかった。しかし最近になって、医学的部分は別として「日障協の調査研究でヘルスキーパーを扱うよう調整する。」という返事に変わってきた。我々は、こうした微妙な変化に注目している。
と同時に、行政が行わないなら自ら調査研究に着手する準備も始めている。その一つが、制度化連の団体会員である理教連学術部の協力を得て進めた三菱財団への研究助成申請だ。この申請は残念ながら認められなかったが、社員が記入する調査表を通してヘルスキーパー業務の有用性を明らかにしようとするもので、今後も申請する予定である。また、労働省でも全く把握できていないエルスキーパーの全数調査も試みている。これは理教連進路対作部が実施主体となり、全国の盲学校等を通して現在エルスキーパーとして勤務している卒業生全員を対象に、雇用形態等をアンケート形式で調査しようとするもので、各校・各ヘルスキーパーの協力が得られれば、名実ともに初のヘルスキーパー皆調査となる。非公式ながら、労働省からも期待されているのだ。
制度化連発足から1年半、未だ具体的成果はない。しかし、課題解決へ向けた実感が徐々に出始めた。「制度化した時に視覚障害者が廃除されないか。」という不安も、制度化に近付くに連れ身近になるだろう。我々は、ヘルスキーパーを「輝く星」にすべく関係者の智恵を集めて取り組みたいと思っている。
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書評
『今どきしょうがい児の母親物語』
ぽれぽれくらぶ著・ふどう社刊
1987年8月に、「障害児保育の充実をすすめる会」として発足した会が、「ぽれぽれくらぶ」の前身である。主に仙台市を中心に活動している。「障害児保育の充実」ということからもわかるように会員は若い母親が中心である。
なぜ、この本を取り上げたかというと、まさに「今どき」の人たちだからである。年齢的にも若いということもあるが(当時で20歳代、現在でも30歳代である)、発想が、まさに「今どき」なのである。
たとえば障害児のために一生けんめい教育や療育に頑張る母親に対して、「なんで、自閉症だからって、そこまでやらなくちゃいけないの?それで犠牲にしたものは、ないの。なんだい、なんだい、 『私は一生けんめいやった母親よ』って言いたいだけじゃないか!『一生けんめいやった母親よって言いたいんでしょう?』(すごく意地悪な言葉だ)、『一生けんめいやった母親よって言いたいんでしょう?』(何回でも言ってやる)」とか、「若いお姉ちゃん(保母さん)は、(障害児を持ったお母さんが)美容院に行ってきても、『私たちは一日必死てみているのに』とブーとむくれるのだ。・・やっぱり女はおしゃれだ…じゃない。余裕なのだ。(そして、やっぱりおしゃれなのだ)」とか。
本のなかみに関しては読んでいただくとして、私が、なぜこのグループに興味をもったのかは、このグループに属する?らしい若き母親花ちが・知的障害者の親の全国組織である「全日本育成会」の全国大会の組織分科会の助言者として登場し、他の発言者が「組織の停滞のなかでどのように組織を活性化していくか」という発言をするなかで、「高齢化した役員は辞めればよい、世代交代できないような組織はつぶれてもぜんぜんかまわない」と発言し、会場を騒然とさせたり、またその「全日本育成会」の機関紙にそれらの人の刺激的な文章(障害児を持った親は自分の子供の事だけを考えるのでは無く、障害者がより良く生きられる社会作りのために活動しようという施設職員や親の会の役員に対して、そのような親のあり方を揶揄する)が度々登場するからである。
つまり、旧来の親の会の活動が、このグループのような発想(組織維持のためのための組織や硬直化した価値観の否定)を既に必要としているのである。その彼女らも、すでに、場所によっては中堅的存在として紹介される。
(梅林和夫)
裏表紙の裏
編集後記
今回の機関誌の事務局の提起の重さは、ややもすれば忘れがちの、自分たちがどう生きているのか、障害者としてなにをしようとしているのかということを再度突き付けられることにもなったと思います。今はそんな捕らえ方は流行らないという人もいるかもしれません。でも、現実的に「解散」という提起がされた訳ですから、会員のみなさんには、ぜひお考えをお聞かせいただきたいと思います。視労協が今後どういう形になったとしても、この問いかけが無意味なことにならないことを信じます。
あちらこちらで風邪をひいた話がでていますが、くれぐれも注意し、元気のでる「明日」を創造したいものですね。
裏表紙(奥付)
1997年12月14日
定価200円
編集人 視覚障害者労働問題協議会
〒239横須賀市長沢115グリーンハイツ2ー7ー405
奥山幸博気付
発行人 身体障害者団体定期刊行物協会
世田谷区砧6〜26〜21
視覚障害者労働問題協議会
一九七一年六月十七日第三種郵便物許可(毎月六回 五の日・0の日発行)
一九九七年十二月五日発行SSK通巻一一四一号
■引用
■書評・紹介
■言及
*作成:仲尾 謙二