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立岩真也「ピア・カウンセラーという資格があってよいとしたら、それはどうしてか」
ピア・カウンセラーという資格があってよいとしたら、それはどうしてか
立岩 真也 1997.06.07
『
全国自立生活センター
協議会協議員総会資料集』
[Korean]
他のことだったら何か言えることもあるでしょうけれど、私はピア・カウンセリングについて語るのに適した人ではありません。ヒューマンケア協会発行の『自立生活への鍵――ピア・カウンセリングの研究』(1992年)の編集を担当し、関連文献を紹介したり、調査結果を少しまとめたりはしましたが、ピア・カウンセリングの当事者であったことはないし、個人的な才能・資質の問題としても、カウンセリングする、カウンセリングを受ける、両方に適した人間ではないと思います。
こういう人が、それでも何か書く、しゃべるとしたら、なんだろう。「外枠」と言ったらいいのか、「かたち」と言ったらいいのか、少し述べることにします。ピア・カウンセリングは、堅苦しい「枠」や「資格」みたいなものから最も遠く離れているものではないか。このことを否定しません。しかし、以下に述べることは、ピア・カウンセリングを裏切るものではないはずだとも、私は考えています。ご存知のように、「市町村障害者生活支援事業」※に規定される事業の4番目がピア・カウンセリングです。このことも念頭に置きながらの話になります。
どういう人がピア・カウンセラーなのか、またある特定のAさんはその基準を満たすピア・カウンセラーと言えるのかどうか。こういう基準、基準を満たしているかどうかの認定、こういうものがある程度必要な場合があります。もちろん、一人一人のクライエントがこの人からカウンセリング受けても仕方がないよとカウンセリングの前からはっきり分かるなら、何も心配することはなくクライエントの評価に任せればよいのですが、これはなかなか難しい。「ヤブ医者」かどうか、顔を見ただけではわからないのと同じです。カウンセリングを提供する側の皆さんからみても、この人はピア・カウンセラーといっても名ばかりだ、そんな人にピア・カウンセラーを名乗られたらこっちが困る、結局自分達の信用を落とすということだってあるでしょう。また直接クライエントを介することなく、例えばある行政機関なりがカウンセリングの任にあたる人を一人選ぼうなどというような場合にも、どうやってその人を決めるかという問題がでてきます。
ではどうするか。社会福祉士みたいに受験勉強をして、マークシートの試験を受けて国が資格を認定するなんてのは、ピア・カウンセリングの性格にそぐわない。とすると考えられるのは、JILならJILが、ピア・カウンセラーとは何をする(何ができる、何をしてはならない)人のことであると定義し、さらに個々の人を、これまでの実績等(他に何が条件になるだろう?)の評価により、(例えばしかじかの分野に熟達した)ピア・カウンセラーとして認定するといったやり方です。
ただここで注意すべき点があります。「自分達だけで認定なんかして、結局自分達の利害を守るためにやっているんだ、仕事を独占したがっているんだ」、というような批判をされないことが大切です。上で医者の例を出しましたが、例えば、ある地域の開業医の数を実質上制限するとか、意味もなく難しい試験で医者の総数を制限し供給を抑えて医者の収入を一定以上に保とうとするとか、こういうことに医師会が絡んでいるなら、医師会は結局自分達の(既得)権益だけを守ろうとしているのだと批判されても仕方がない。漢方医が明治期の医療制度確立の過程で医療の世界から締め出されたことを思い出してみてもいいでしょう。供給サイドの都合で資格(化)が使われ、結局利用者の利益にならないというようなことを繰り返してはならないのです。悪い意味で使われる時の「ギルド」(同業者組合)になってはならないのです。もちろん、そんなことを皆さんは望んでいないでしょうが、これは誤解を生じさせやすい微妙な問題です。ちょっとやり方、い方を間違えれば、誤解が生じます。誤解を生じさせるようなことがあってはならないのです。
だから、クライエントのためにカウンセラーがあるのだということを明確にし、そしてクライエントの必要に応えるためには一定の基準があった方がよく(これを「消費者保護」と捉えることもできるでしょう)、カウンセラーはこれこれの条件を満たしていることが望ましいと私達は考える、その方向を自分達は追求していくのだということをはっきりさせ、宣言することです。そして実際にその基準がクライエントのためのものであることです。こうした中には、クライエントのプライバシーの遵守等、倫理規定のようなものが含まれるでしょうし、その規定に違反した場合の規定も含まれるべきでしょう。
そして次に、個々の人について、この人はカウンセラーとして適格であると私達は認める、さらに、この人はどういう分野が特に得意で、どのくらいの経験、実績がある人であるということを私達は保証するといったこともやっていってよいかもしれません。他の団体なら団体が言うピア・カウンセリング、あるいはある個人が自らピア・カウンセラーと称すること、これらについてとやかくは言わないけれども(だって、本当にピア・カウンセラーとして適している人である可能性があることは否定できないのですから)、少なくとも私達は、JILとしてこういう内部基準を設定するし、またこういう人だったら責任をもって推薦できる、だからもしどこかの機関でピア・カウンセリングをする人を募集するような場合には、私達の基準を考慮してもらいたいし、私達の推薦する人を検討してもらいたい。こんな感じでどうでしょうか。そして、本当にクライエントのためになる仕事ができるか、これで評価されること。そういう仕事が(より)できるために、研修や討議なんかを積極的にやっていくこと、JILのピア・カウンセラーはやっぱりひとあじ違うわ、ということを実績で証していくことだと思います。
では、どういう具合に基準・規定…を作っていくか。まずは、「綱領」的なもの、「倫理規定」的なものから作っていくのかなと思います。他のいくつかの資格職等の規定も参考にしてよいと思います(もちろんまねする必要のないところはまねする必要はありません)。そして、研修や討議のプログラム(集中講座的なものよりもう少し「仕事」としてピア・カウンセリングをやることを意識したもの)を整備していくこと、そして/あるいは、他の自立生活センターでの研修・修業が容易にできるようにすること。そして、これこれの研修を受けたとか、実際にカウンセリングをどの程度やってきたかを、認証というのか何とかいうのか、する。「1級カウンセラー」とか、「特級カウンセラー」とかいったランク付けは、やるにしても慎重に検討してからの方がよいのではと思います。こういう研修や討議のシステムをもっているんだ、よいカウンセリングを提供できようにがんばっているんだということをアピールすることが先のように思います。
以上に関連して、ピア・カウンセリング、ピア・カウンセラーをどの辺で捉えるか。どちらかというと、日本でのピア・カウンセリングは「感情の解放」というところに力点を置いてきたのではないかと思います。これは疑いなく重要だと思います、いろんな機関誌に寄せられている感想の文章などを読んでもそれは明らかのようです。ただ、上記した『自立生活への鍵』という報告書をまとめる時にも思ったことですが、ピア・カウンセリング自体は、米国でも割合広い意味で用いられているようです。ピアであることにより体験を共有し、共感できること、なによりクライエントの話をよく話を聞くこと、(クライエントが見出した)目標に対して適切な援助を提供できること、…。私が思うことが絶対正しいという確信をもって言うわけではありませんが、私としては、ピア・カウンセリング、ピア・カウンセラー自体は、これくらいの、割合広い意味でまず規定しておいてよいのではないかと思います。そして、どういうところに力点を置くのかは、個々人、あるいはピア・カウンセラーの中のいくつかの特色あるグループによって異なる、といった感じにしておいてもよいのではないだろうかと思います。いわゆる心理学の?ウンセリングのことについて私はほとんど知りませんが、例えばフロイト派の精神分析(日本じゃ流行らないみたいですが)があり、ユング派があり、はたまた森田療法というのがあったり、いろいろあって、かなり各々の「哲学」は違う。として、精神分析の専門家でありその筋の認定を受けるのとは別に、同時に、より広い「心理療法」の資格があるとしましょう(ただ「臨床心理士」の資格化にあたってはいろいろ問題があったわけで、その資格付与のあり方がよいと言っているわけではありません)。ピア・カウンセリングは後者の、より広い方でよいと私は思うのです。その中のどういう「哲学」、どういう「人間観」をとるか、これは最終的にはクライエントに決めてもらっていい。ただもちろん、どんなに広くとったって、前提になる「価値観」がまったくなくなるということはないはずで、何かしらの大きな「ポリシー」というか「コンセプト」というかは共有されるのでしょうが、例えば人間の心理に関する理解の仕方はそんなに特定のものでなくてよいと思うのです。いかがなものでしょうか。
それから、「市町村障害者生活支援事業」の依託を受けることを考えると、「情報に強い」ことはセールス・ポイントになるかもしれません。この事業で人件費として出るのは――実際には、その運用は「柔軟に」行うにしても――まず常勤一名分です。少なくともこの人については、お客さんのいろいろな要望に応えるためにも、制度的なことや何かにもある程度通じていた方がよいかもしれません。個々別々のことにそんなに詳しくなくてよいから、誰が詳しいのかを把握していて、適切に話をそこにもっていくことができるとよいと思います。ここら辺も、ピア・カウンセラーの人材養成にあたって留意しておいた方がよい点であるように思います。
以上述べたこと以外に、ピア・カウンセリングの「効果」をどうはかるか、アピールするかという問題もあることはあります。けれども、既にこの「事業」の中に組み込まれている以上ピア・カウンセリングの必要性(効果)自体は認められているという前提で考えてよいのだとして、これについての検討はここでは省きました。以上では、とにかく誰かがやるべきピア・カウンセリングを、実際に誰が担うのか、それが皆さんであると言えるためにはどのようにその条件を整備していくとよいのか、このことについて少し考えてみました。
※2月の「所長セミナー」(愛知県豊田市)のシンポジウムで私がお話ししたこと+αを整理し、「「市町村障害者生活支援事業」を請け負う」と題する文章にしたものが『ノーマライゼーション研究年報』(ノーマライゼーション研究会、06-324-1133、fax320-6068)に掲載されます。よろしかったら御覧ください。
■言及
◆立岩 真也 2015/02/01 「精神医療現代史へ・追記11――連載 108」,『現代思想』43-(2015-2):8-19