(Translated by https://www.hiragana.jp/)
立岩真也「少子高齢化は「大変」か」他
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少子しょうし高齢こうれいは「大変たいへん」か」

立岩たていわ しん 2007

高等こうとう学校がっこう しん現代げんだい社会しゃかい改訂かいていばん
清水しみず書院しょいん
http://www.shimizushoin.co.jp
http://www.shimizushoin.co.jp/19kaitei/ge022.html

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このコラムの解説かいせつ/◇人口じんこう少子化しょうしか高齢こうれい

       ■少子しょうし高齢こうれいは「大変たいへん」か
       ■政治せいじなにをやるべきか
       ■なにを、どう配分はいぶんするか
       ■世界せかい世界せかいすくえるか

       *だい出版しゅっぱんしゃがつけたものです。

 
 
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 ■少子しょうし高齢こうれいは「大変たいへん」か解説かいせつ

 出生しゅっしょうりつ低下ていかして大変たいへんだ、高齢こうれいすすんで大変たいへんだ、だから出生しゅっしょうりつげなければとよくわれる。だいいちに、大変たいへんだというのは本当ほんとうか。だいに、このことでさわぐのはよいことか。
 だいてんから。どもをそだてるのはたのしいことだが大変たいへんなことでもある。そこを社会しゃかい手伝てつだっておや負担ふたんらすのはよいことだ。けれど、それが人間にんげんかずやすためということになると、畜産ちくさんはなしでもしているのかとおもえてしまう。そして、ここではようするにはたらやすことがめざされているのだが、まれるひとみながはたらになるわけではない。そのひとたちはづらいとおもう。またはたらくのをもうえたひとづらいことになる。また、どもをもちたくないひともいるし、もてないひともいる。そうしたひと居心地いごこちがわるくなる。こうしたことをかんがえると、じんがいないからひとやせといういいかた上品じょうひんではない。
 しかしだいいちてんがある。つまり実際じっさい大変たいへんなら、下品げひんになるのも仕方しかたがないかもしれない。では、実際じっさい大変たいへんなのか。まず、地球ちきゅうてき規模きぼではむしろ人口じんこう増加ぞうかほう心配しんぱいされている。他方たほう、この日本にっぽんというくにには人口じんこう減少げんしょう心配しんぱいするひとがいるのだ。まず、この両者りょうしゃはつじつまがわないのではないか。人口じんこう増加ぞうかは「途上とじょうこく」の問題もんだいで、日本にっぽんべつだろうか。だが、もし環境かんきょうのことが問題もんだいであるのなら、「先進せんしんこく日本にっぽん国民こくみん一人ひとりあた消費しょうひりょう排出はいしゅつりょうすくないくにひとくらべるとなんじゅうばいにもなる。また、人口じんこう密度みつどたか日本にっぽんでも過密かみつ地域ちいきかぎったことだとはいえ、土地とち価格かかくたかさ、住宅じゅうたくせまさ、一人ひとりあたりの公園こうえんとう面積めんせきせまさ、交通こうつう渋滞じゅうたい通勤つうきん地獄じごく等々とうとうむずかしい問題もんだいおおくは人間にんげんかずかかわる。もちろんわざとひとかずらす必要ひつようはないし、どもがたくさんほしいひとはそうしたらよいだろう。しかしすくないならすくないなりによいこともある。
 高齢こうれいしゃ割合わりあいたかくなっているのは事実じじつで、これからもっとたかくなるのも確実かくじつではある。けれども、これから高齢こうれいしゃ割合わりあいがずっとたかくなっていくというのは誤解ごかいだ。だい世界せかい大戦たいせん終戦しゅうせんの1945ねん以降いこう、1950年代ねんだいはじめまでにまれたいわゆる「団塊だんかい世代せだい」、「ベビーブーム」のときまれたひとたちはかずおおく、その高齢こうれいしゃになるひと自体じたいっていって、高齢こうれいしゃ割合わりあいはほぼ一定いっていく。いま高齢こうれい歴史れきしじょうただ1かいだけこることなのだ。だから、これから50ねんくらいのあいだをなんとかって、うまいやりかたつけてしまえばのちはなんとでもなるはずなのである。
 たしかに人々ひとびとらすためにははたらかなければならないし、その人手ひとで必要ひつようである。それについてはまず、高齢こうれいしゃすなわちはたらかないひとたすけを必要ひつようとするひとではない、という反論はんろんがある。この反論はんろんただしい。しかしみながみないつまでもはたらつづけようという社会しゃかいもすこし窮屈きゅうくつだ。そして年齢ねんれいたかくなれば、介護かいごなどを必要ひつようとするひと割合わりあいえるのも当然とうぜんだ。だからたしかに、高齢こうれいしゃでないひとたちが高齢こうれいしゃふくめた社会しゃかいささえなければならない。このことはみとめよう。だがそれがそんなに大変たいへんなことなのか。それに平然へいぜん対処たいしょできる社会しゃかいつくれないほどにわたしたちおろかなのか。
 生産せいさんせいひく時代じだいひとささえる負担ふたんとそうでない時代じだい負担ふたんとはおなじでない。以前いぜんなら何人なんにんぶんもの労働ろうどう生産せいさんされていたものが、いまは1にんですんでしまい、むしろじんあまってしまっているのが現実げんじつである。失業しつぎょう景気けいきがよくてもしょうずる。もちろんそのひとのやる問題もんだいでもない。そして専業せんぎょう主婦しゅふなど、失業しつぎょうしゃとして計算けいさんされないひとにも、そとはたらけるひとがたくさんいる。はたらけてはたらきたいひと十分じゅうぶんにこの社会しゃかい活用かつようしていない。だから、はたらひとりない、これからりなくなるというなどというはなしほうを、本当ほんとうなのかとうたがったらよい。税金ぜいきんえることを心配しんぱいするひともいる。しかし、たとえば介護かいごといういままでただでなされていた仕事しごとはそのままで、それに税金ぜいきん使つかっておかねすことにしても、はらひともいるがひともいるというだけで、全体ぜんたいとしての損失そんしつはない。するとなぜ少子しょうし高齢こうれいさわいでいるのかのほう不思議ふしぎおもえてくる。


 
 
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 ■政治せいじなにをやるべきか →解説かいせつ

 大人おとなたちから、若者わかもの政治せいじ関心かんしんがないこまったものだと、いつの時代じだいも、われてきた。しかしどうだろう。政治せいじきなひとには攻撃こうげきてきひとおおいかもしれない。また、みずからの利益りえきやすために政治せいじかかわるひともたくさんいそうだ。それらはよいことではないかもしれない。また緊急きんきゅう対応たいおうしなけばならない出来事できごとや、「つよ指導しどうりょく」が必要ひつよう事態じたいもないほうがよいようにおもえる。本来ほんらいなら政治せいじがすることがすくなく、政治せいじ関心かんしんであれたほうのぞましいかもしれないのだ。
 しかし、いろいろなことがこってしまうこの社会しゃかいでは、おおくのひと関心かんしんだと、こまったふうに政治せいじ関心かんしんをもつひとたちばかりが政治せいじうごかすことになってしまい、結果けっかとしてのぞましい方向ほうこうかない。とすると、そんなに気力きりょくもないのに、仕方しかたなく政治せいじ関心かんしんをもたないとまずい。そこがむずかしいところだ。
 ただ、政治せいじきな人人ひとびとたちとはべつに、さめたところから、政治せいじについてかんがえることは、仕方しかたなく必要ひつようというだけでなくおもしろいことでもあるとおもう。教科書きょうかしょには政府せいふおこなっていること、おこなうことになっていることがたくさんかれているが、それはそれとして、政治せいじなにをし、なにをしないのがよいのか、かんがえてみたらよい。なんでも民間みんかんでとひとたちが刑罰けいばつきびしくするのには賛成さんせいだったり、自由じゆう貿易ぼうえき賛成さんせいひとたちがひと国境こっきょうえてやってることには反対はんたいだったりする。わけがわからないから、かんがえてみるのである。
 経済けいざいがくでは、市場いちば経済けいざいがうまくいかないところ、市場いちばにまかせないほうがよい場合ばあい政治せいじ登場とうじょうするというふうにう。そのようなすじかんがえてもわるくはないのだが、もっと単純たんじゅんかんがえてみてもよい。政治せいじめることがそれ以外いがいまることとちが一番いちばんおおきなことは、政治せいじには強制きょうせいがあるということだろう。税金ぜいきんはらいたくなくてもはらうものだ。はらわなければ脱税だつぜいばっせられる。だから、わたしたちは政府せいふなにをさせるかをかんがえるなら、ひと強制きょうせいしてでもすべきことはなにかとかんがえたほうがよい。たとえば税金ぜいきん様々さまざま施設しせつつくっている。それはたぶんわるいことではないが、ほかにくらべてよいかどうかはわからない。また道路どうろも、かつて本当ほんとうみちがなかったころはともかくいまどきの道路どうろはどうしてもいるというようなものではない。反対はんたいというほどではないにしても、賛成さんせいでないのに使つかわれるのはよくないというのも、もっともなかんがえかもしれない。むしろ、ほしいひとたちがみなでおかねあつめてつくったり維持いじしたらどうだろう。
 しかしそれでは、おかねのないひとはおかねせないし、使つかえないではないか。この指摘してき一理いちりある。これは大切たいせつなところだ。一人ひとりひとりがらせるための条件じょうけん社会しゃかい用意よういするべきだとしよう。それは善意ぜんいによって用意よういされるのでなく、義務ぎむとしてなされるべきことだとしよう。つまり、負担ふたんしたくないひと負担ふたんすべきこと、強制きょうせいされてよいことだとしよう。するとそれは政治せいじがきちんとやるべきことだということになる。
 そうすることにして、その結果けっか一人ひとりひとりはだいたいおなじだけのおかねをもっているとしよう。さらにもっときちんとすじとおったあんかんがえるなら、身体しんたいとう状態じょうたいのためにひとより余計よけいにかかってしまう部分ぶぶんはそれにわせてやし、ほぼおな程度ていどらしが可能かのうになるだけもっているとしよう。すると、格差かくさ問題もんだいはなくなったので、今度こんど各自かくじがそのおかねって、なにかをつくりたいひとつくればよい、ということですむようにおもえる。道路どうろのように一人ひとりひとりから料金りょうきんるのがむずかしいものは政府せいふでというかんがかたもあるが、技術ぎじゅつ発達はったつしているし、おかね個別こべつ徴収ちょうしゅう可能かのう場合ばあいもあるかもしれない。
 このようにかんがえれば、政府せいふはおかねけることにてっするというやりかたもありそうだ。おおきな政府せいふ効率こうりつがわるいといってよく批判ひはんされるが、このあんでは政府せいふという組織そしき自体じたいはあまりおおきくならないから、その批判ひはんかない。たしかにこれは極端きょくたんあんだ。しかしあんとしてはありうる。つぎにその弱点じゃくてんかんがえればよい。むろんかんがかたもあるだろうから、それをかんがえたらよい。


 
 
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 ■なにを、どう配分はいぶんするか →解説かいせつ

 教科書きょうかしょにはおぼえきれないほどたくさんのことがいてある。いてあることをみなっているのは社会しゃかい先生せんせいぐらいだ。そして、教科書きょうかしょひとも、おしえるひとも、試験しけんをするがわも、議員ぎいん定数ていすうだとか法律ほうりつ正式せいしき名称めいしょうだとか、すべてを記憶きおくする必要ひつようがないことはわかっている。(もしかするとらないのかもしれない。それはさすがにまずいから、わかってもらう必要ひつようはある。)
 けれどもおぼえさせられる。試験しけんるからだ。なぜるのか、さなければよいのではないか。そのとおりだ。だがわりにどうしたらよいのだろう。これがけっこうむずかしい。たとえば大学だいがく入試にゅうし人物じんぶつえらんでほしいとひともいる。しかし立派りっぱ人物じんぶつでなければ大学だいがくれないというのもおかしなはなしではないか。もっと論理ろんりりょくなどをためすような問題もんだいがよい。これはただしい。しかしなかなかむずかしい。問題もんだいつくがわにも論理ろんりりょくがなければならない。こうしてえらほうもなかなかむずかしいのである。
 さてつぎに、なぜ学校がっこうくかとえば、勉強べんきょうがしたいというよりは、仕事しごとくのに有利ゆうりだとおもっているからだ。しかし「実社会じっしゃかい」ではやくにたない知識ちしき有無うむひとえらぶというのも不思議ふしぎなことではないか。今度こんどえらがわってかんがえてみよう。なに基準きじゅんしてえらんでよいか、じつはそのひとたちもわからない。しかし無理むりしてもえらばなければならないときがかりがなにもなく、また学力がくりょく仕事しごと能力のうりょくとまったく無関係むかんけいでないとすると、にないからこれを使つかうことになる。
 これらはみなよい方法ほうほうではないが、使つかってしまう。するとわたしたちの社会しゃかいのようになる。いろいろこまかに改善かいぜんのしようはあるはずだが、なかなかむずかしい。むしろ、もっと基本きほんてきなところをかんがなおしたほうがよいのではないか。もとにあるのはなにか。できないとそんをする、できるととくをする。こういう仕組しくみが基本きほんにある。できて、その能力のうりょくなにかをしたひとが、その結果けっかれる。そんなきまりがこの社会しゃかいにはある。それはたりまえではないか。しかし、自然しぜんなことのようにおもえるかもしれないが、かんがえてみると、そうではない。ずっとそんなきまりで社会しゃかいをやっているから、それで当然とうぜんだとおもわれている。それはただしいのか、とかんがえると、意外いがいにその理由りゆうつからないがことがわかる。身分みぶんによる差別さべつはよくない、とみなおもう。しかし能力のうりょくによる差別さべつはよいか、とかんがえるとそれがよい理由りゆうも、じつはないのではないか。
 そんなことはない、苦労くろうしたらむくわれるのはよいことではないか。しかし、苦労くろうする・しないとできる・できないとは、無関係むかんけいではないが、それほどつよ関係かんけいもない。おなじだけ苦労くろうしてもうまくいくにんとそうでないひとはいる。このことはみとめざるをえない。努力どりょく苦労くろうおうじてられるというきまりと、げんいま社会しゃかいにあるきまりとはべつのものなのだ。苦労くろうにはむくいてもよいだろう。また、ひとはよりおおくもらえないとよりおおはたらかないということもあるかもしれない。とすると、ある程度ていどはたらきにおうじてたくさんあげることはみとめてもよいが、いまよりずっときていくうえでの有利ゆうり不利ふりすくなくしてもよいのではないか。
 できるようになればはたらこうがあるとわれる。しかし定員ていいんまっていて、それよりひとおおいなら、定員ていいんがいになるひとかならずいる。たりまえだ。するとどうするか。しょくがなくともらしていけるようにするというのが一案いちあん。これでもよいはずだとべた。もうひとつ、一人ひとりたりの仕事しごとすくなくして、仕事しごとをするひとおおくする。このふたつは同時どうじ両方りょうほう使つかえる。
 それでは社会しゃかい発展はってんがなくなるというひともいる。しかしあたらしいものはその社会しゃかいでもまれるだろう。また、ただのりょうとしての発展はってん成長せいちょうなら、もうかなりのところまでいっている、すくなくとも無理むりしてまですることではないとえるだろう。そのほうが、もっといてかんがえたり、勉強べんきょうしたり、らしたりすることができるようになるだろう。しかし国際こくさい競争きょうそうがあるとう。そのとおり、たしかにある。ならばつぎに、仕方しかたがないとかんがえるか、それともそこをなんとかする方法ほうほうはないかとかんがえるかである。


 
 
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 ■世界せかい世界せかいすくえるか →解説かいせつ

 世界せかいおおきな格差かくさがあって、ひろがっている。そのままでよいとひとはそうはいない。援助えんじょなどしたほうがよい。たぶんそうだ。それで募金ぼきんをしましょうということになったりする。もちろん募金ぼきんはよいことだ。しかし募金ぼきんは、したくないひとはしなくてよいものだ。
 くに内部ないぶでは、いちおう、みながらせるような状態じょうたいにすることは義務ぎむだということになっている。そのための負担ふたんをしたくないひともしなければならないことになっている。とすると、今度こんどは、なぜそれを国家こっか内部ないぶかぎることができるかが問題もんだいになる。こうしてかんがえると、じつはその理由りゆうつからない。とくに愛国心あいこくしん大切たいせつだとひとは、そのくにひとたちを大切たいせつにすべきだと熱心ねっしん主張しゅちょうしているのだとおもう。ただ、大切たいせつにする相手あいてくに内部ないぶかぎ理由りゆうつからない。だから、他人たにん大切たいせつにというそのひとたちほど熱心ねっしん世界せかい全体ぜんたい義務ぎむがあるとわねばならないことになる。そんなはずはないとおもうなら、そのひとたちはどこかから理由りゆうさがしてこなければならない。
 すると、「現実げんじつ」がされるかもしれない。理想りそうはともかく、現実げんじつ国々くにぐにすでかれてしまっている。それを前提ぜんていうごかざるをえない、あまいことはっていられないというのだ。これはなかなか否定ひていできない。あるくにひと差別さべつしないでれると、差別さべつされたくないひとがどんどんはいってくる一方いっぽうで、それではそんをするお金持かねもちや企業きぎょうていってしまって、その結果けっかきびしい状態じょうたいになるかもしれない。またげん競争きょうそう集団しゅうだん単位たんいでなされているとき、その競争きょうそう参加さんかしないとその集団しゅうだん集団しゅうだん成員せいいん不利益ふりえきこうむる。だからそとからまもり、内部ないぶちからたかめ、そのために内部ないぶ結束けっそくつよめるべきだというはなしはまったくのうそではない。ただその結果けっか世界せかいおおくのひときにくくなる。競争きょうそう優位ゆうい地域ちいき内部ないぶでも競争きょうそうやくにたない部分ぶぶんてられる。優位ゆうい集団しゅうだんなかのさらに優位ゆうい位置いちにいるひとにさえ、なくてもよい圧力あつりょくがかかる。たしかに競争きょうそう有用ゆうようなものをはやすことがあるが、ここではその弱点じゃくてんほうつよあらわれる。この状態じょうたいはよくない。けれども問題もんだいは、単独たんどくこのましい方向ほうこうこうとすることがむずかしいことである。自分じぶんだけよいことをしようとすると結果けっかとして自分じぶん背負せおいこむことになり、自分じぶんがわりをくうはめになる。
 こうした事態じたい解法かいほうは、世界せかい全体ぜんたい現在げんざい状態じょうたい解消かいしょうしようとするすることだ。つまり世界中せかいじゅうが、世界中せかいじゅうたいして、義務ぎむうというかたちである。これはとんでもない夢物語ゆめものがたりだ。たしかに途方とほうもないことのようにおもえる。しかし簡単かんたんにできることもある。そしてそれは絶望ぜつぼうてきおもわれる問題もんだい解決かいけつできる。
 たとえばエイズはいまくすりがあればきられる病気びょうきだが、世界せかいとしに300まんにん毎日まいにち7000にん以上いじょうかずひとくなっている。とくにアフリカのみなみほうはたいへんな状況じょうきょうになっている。まずしくてたかくすりえない。しかし、くすり開発かいはつ製造せいぞうしゃ利益りえき独占どくせんはいして、くすりやすくすることはできる。そんなことはできないかとおもわれたが、できた。それでもくすりはただにはならない。ならばその薬代くすりだいふくめおかねせばよい。そのためにはいくらかかるか。なんねんかにけて全部ぜんぶで15ちょうえんほどでりるという計算けいさんもある。それを何人なんにんでどうるかによるが、たとえば相対そうたいてきゆたかな10おくにん均等きんとうわりとしよう。すると1にんまん5000えんほど。これをすうねんけてはらえばよい。これでなんとかなるのである。たいしたことではない。もちろんなにか意図いとがあって援助えんじょしたがるくにもあるが、結局けっきょくそれは見返みかえりをもとめてのことだから、このかたちでおこなうのはよくない。どこのくにがというかたちでなくあつめるのがよい。そして実際じっさい、まがりになりにもそんな方向ほうこう国際こくさいてきめも存在そんざいする。つぎに、くに政府せいふ経由けいゆすると、途中とちゅうでしばしばおかねはなくなってしまうから、できれば一人ひとりひとりに直接ちょくせつわたるかたちがとれると、無駄むだがなくてなおよい。そんなことができなくはない。こうして、わたしたちは、社会しゃかいるとともに、社会しゃかいぞうえがくことができる。


訂正ていせいばん
 世界せかいおおきな格差かくさがあって、ひろがっている。そのままでよいとひとはそうはいない。援助えんじょなどしたほうがよい。たぶんそうだ。それで募金ぼきんをしましょうということになったりする。もちろん募金ぼきんはよいことだ。しかし募金ぼきんは、したくないひとはしなくてよいものである。それでよいのだろうか。
 くに内部ないぶでは、いちおう、みながらせるような状態じょうたいにすることは義務ぎむだということになっている。そのための負担ふたんをしたくないひともしなければならないことになっている。とすると、今度こんどは、なぜそれを国家こっか内部ないぶかぎることができるかが問題もんだいになる。こうしてかんがえると、なかなかもっとな理由りゆうつからない。たとえば、愛国心あいこくしん大切たいせつだとひとは、そのくにひとたちを大切たいせつにすべきだと熱心ねっしん主張しゅちょうしているのだとおもう。しかし、大切たいせつにする相手あいてくに内部ないぶかぎ理由りゆうはあるだろうか。理由りゆうがないなら、他人たにん大切たいせつにというそのひとたちほど熱心ねっしん世界せかい全体ぜんたい義務ぎむがあるとわねばならないことになる。
 すると、「現実げんじつ」がされるかもしれない。理想りそうはともかく、現実げんじつ国々くにぐにすでかれてしまっている。それを前提ぜんていうごかざるをえない、あまいことはっていられないというのだ。これはなかなか否定ひていできない。あるくにひと差別さべつしないでれると、差別さべつされたくないひと生活せいかつこまったひとたちがどんどんはいってくるかもしれない。他方たほうで、それではそんをするお金持かねもちや企業きぎょうていってしまい、その結果けっかきびしい状態じょうたいになるかもしれない。またげん競争きょうそう国家こっか単位たんいでなされているとき、その競争きょうそう参加さんかしないとその国家こっか国家こっか成員せいいん不利益ふりえきこうむる。だからそとからまもり、内部ないぶちからたかめ、そのために内部ないぶ結束けっそくつよめるべきだというはなしはまったくのうそではない。ただその結果けっか世界せかいおおくのひと不利ふり挽回ばんかいできずきにくくなる。競争きょうそう優位ゆうい国家こっか内部ないぶでも、やくにたない部分ぶぶんてられることがある。優位ゆうい位置いちにいるひと競争きょうそうてられる。たしかに競争きょうそう有用ゆうようなものをはやすことがあるが、ここでは、格差かくさやせわしさなどその弱点じゃくてんほうつよあらわれる。この状態じょうたいはよくない。けれども問題もんだいは、単独たんどくこのましい方向ほうこうこうとすることがむずかしいことである。自分じぶんだけよいことをしようとすると結果けっかとして自分じぶん背負せおいこむことになり、自分じぶんがわりをくうはめになる。
 こうした事態じたい解法かいほうは、世界せかい全体ぜんたい現在げんざい状態じょうたい解消かいしょうしようとするすることだ。つまり世界中せかいじゅうが、世界中せかいじゅうたいして、義務ぎむうことである。これはとんでもない夢物語ゆめものがたりだ。たしかに途方とほうもないことのようにおもえる。しかし簡単かんたんにできることもある。絶望ぜつぼうてきおもわれる問題もんだいでも解決かいけつできることがある。
 たとえばエイズはいまくすりがあればきられる病気びょうきだが、世界せかいとしに300まんにん毎日まいにち7000にん以上いじょうかずひとくなっている。とくにアフリカのみなみほうはたいへんな状況じょうきょうになっている。まずしくてたかくすりえない。しかし、くすり開発かいはつ製造せいぞうしゃ利益りえき独占どくせんはいして、くすりやすくすることはできる。そんなことはできないかとおもわれたが、できた。それでもくすりはただにはならない。ならばその薬代くすりだいふくめおかねせばよい。そのためにはいくらかかるか。なんねんかにけて全部ぜんぶで15ちょうえんほどでりるという計算けいさんもある。それを何人なんにんでどうるかによるが、たとえば相対そうたいてきゆたかな10おくにん均等きんとうわりとしよう。すると1にんまん5000えんほど。これをすうねんけてはらえばよい。このやまいかぎれば、これでなんとかなる。たいしたことではない。そして、特定とくていくにみずからの利益りえきるための材料ざいりょうとして援助えんじょするのはよくないから、国家こっかえておかねあつめ、わた仕組しくみをつく必要ひつようもあるだろう。実際じっさい、まがりになりにもそんな方向ほうこう国際こくさいてきめも存在そんざいする。つぎに、くに政府せいふ経由けいゆすると、途中とちゅうでしばしばおかねはなくなってしまうから、できれば一人ひとりひとりに直接ちょくせつわたるかたちがとれると、無駄むだがなくてなおよい。そんなことができなくはない。こうして、わたしたちは、社会しゃかいるとともに、社会しゃかいぞうえがくことができる。


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 世界せかいおおきな格差かくさがあって、ひろがっている。このままではよくない、援助えんじょなどしたほうがよい。たぶんそうだ。それで募金ぼきんをしましょうということになったりする。もちろん募金ぼきんはよいことだ。しかし募金ぼきんは、したくないひとはしなくてよいものである。それでよいのだろうか。
 くに内部ないぶでは、いちおう、みながらせるような状態じょうたい保障ほしょうすることは義務ぎむとされる。みなの生活せいかつのために負担ふたんをしたくないひともしなければならないことになっている。とするとつぎに、なぜその義務ぎむくになかひとへの義務ぎむかぎることができるかが問題もんだいになる。かんがえるみると、なかなかもっとな理由りゆうつからない。たとえば、愛国心あいこくしん大切たいせつだとひとは、そのくにひとたちを大切たいせつにすべきだと熱心ねっしん主張しゅちょうしているのだとおもう。しかし、大切たいせつにする相手あいてくに内部ないぶかぎ理由りゆうはあるだろうか。理由りゆうがないなら、他人たにん大切たいせつにというそのひとたちほど熱心ねっしん世界せかい全体ぜんたい義務ぎむがあるとわねばならないことになる。
 すると、「現実げんじつ」がされるかもしれない。理想りそうはともかく、現実げんじつ国々くにぐにすでかれてしまっている。それを前提ぜんていうごかざるをえない、あまいことはっていられないというのだ。これはなかなか否定ひていできない。あるくにひと差別さべつしないで生活せいかつ保障ほしょうしようとすると、生活せいかつこまったひとたちがどんどんはいってくるかもしれない。他方たほうで、税金ぜいきんたかいのをいやがる金持かねもちや企業きぎょうていってしまいかもしれない。その結果けっか財政ざいせいきびしくなるかもしれない。また経済けいざい競争きょうそう国家こっか単位たんいでなされていて、その競争きょうそう参加さんかしないとその国家こっか国民こくみん不利益ふりえきこうむる。だからそとからまもり、内部ないぶちからたかめ、そのために内部ないぶ結束けっそくつよめるべきだというはなしはまったくのうそではない。ただその結果けっか競争きょうそうりょくよわまずしいくににいるおおくのひとは、不利ふり挽回ばんかいできずますますきにくくなる。国際こくさい競争きょうそう優位ゆういくになかでも、生産せいさんやくにたないひとやそのひとのための活動かつどうてられることがある。優位ゆうい位置いちにいるひと競争きょうそうてられる。たしかに競争きょうそう有用ゆうようなものをはやすことがあるが、ここでは、格差かくさやせわしさなどその弱点じゃくてんほうつよあらわれる。この状態じょうたいはよくない。
 けれども問題もんだいは、単独たんどく問題もんだい解決かいけつすることがむずかしいことである。自分じぶんだけよいことをしようとしても、結果けっかとして自分じぶん背負せおいこむことになり、わりをくうはめになる。だから解決かいけつほうは、世界せかい全体ぜんたい現在げんざい状態じょうたい解消かいしょうしようとするすることだ。つまり世界中せかいじゅうが、世界中せかいじゅうたいして、義務ぎむうことである。これはとんでもない夢物語ゆめものがたりだ。途方とほうもないことのようにおもえる。しかし簡単かんたんにできることもなくはない。絶望ぜつぼうてきおもわれる問題もんだいでも解決かいけつできることがある。
 たとえばエイズはいまくすりがあればきられる病気びょうきだが、世界せかいとしに300まんにん毎日まいにち7000にん以上いじょうかずひとくなっている。とくにアフリカのみなみほうはたいへんな状況じょうきょうになっている。まずしくてたかくすりえない。しかし、くすり開発かいはつ製造せいぞうしゃによる利益りえき独占どくせんはいして、くすりやすくすることはできる。そんなことはできないかとおもわれたが、できた。それでもくすりはただにはならない。ならばその薬代くすりだいふくめおかねせばよい。そのためにはいくらかかるか。なんねんかにけて全部ぜんぶで15ちょうえんほどでりるという計算けいさんもある。それを何人なんにんでどうるかによるが、たとえば相対そうたいてきゆたかな10おくにん均等きんとうわりとしよう。すると1にんまん5000えんほど。これをすうねんけてはらえばよい。このやまいかぎればだが、これでなんとかなる。たいしたことではない。
 そして、特定とくていくにみずからの利益りえきるための材料ざいりょうとしてべつくに援助えんじょするのはよくないから、国家こっかえておかねあつめ、わた仕組しくみをつく必要ひつようもあるだろう。実際じっさい、まがりになりにもそんな方向ほうこう国際こくさいてきめも存在そんざいする。つぎに、くに政府せいふ経由けいゆすると、途中とちゅうでしばしばおかねやものはなくなってしまうから、できれば一人ひとりひとりに直接ちょくせつわたるかたちがとれると、無駄むだがなくてなおよいだろう。そんなことができなくはない。こうして、わたしたちは、社会しゃかいるとともに、社会しゃかいぞうえがくことができる。


UP:2006 REV:20070106, 20190113
人口じんこう少子化しょうしか高齢こうれい  ◇立岩たていわ しん 
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