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Tateiwa
*
以下は
当日配付用資料。2005/06/03
送付
私の
仕事については
著書とホームページ
http://www.arsvi.comをご
覧ください。この
日、
私は
西川先生に
質問してみたいと
思っています。
題は
以下より。
◇
西川 長夫 1992 『
国境の
越え
方――
比較文化論序説』
筑摩書房
◇
西川 長夫 2001 『
増補 国境の
越え
方――
国民国家論序説』
平凡社ライブラリー,477p. 1300
以下、
先生の
文章から
引用。
「
第二は、
国民国家にかわるもの、
代案つまりオルタナティヴを
示さないで、
国民国家批判をやるのは
無責任だ、というものです。
責任の
名においてオルタナティヴのイデオロギーが
保守派にも
革新派にも
蔓延しているようです。だが、またしても、
安易なユートピアを
示せというのでしょうか。
今一般に
言われているオルタナティヴは、ある
大きな
枠組みのなかでの
選択肢です。だが、その
大きな
枠組み
自体が
崩れようとしている。
問題となっているのは
誰にも
予見できない
未来ではないでしょうか。
混沌とした
現実の
歴史の
進行のなかで、その
場その
場の
選択を
行いながら、
試行錯誤の
末に、
私たちの
視野が
徐々にひらけていく。
真のオルタナティヴは、
長い
考察と
批判の
間に、おのずと
形成されるものだと
思います。」(
西川『
戦争の
世紀を
越えて――グローバル
化時代の
国家・
歴史・
民衆』,
平凡社,2002,p.112)
「
私はこれまで、
意図的に
代案を
出すことを
拒否してきたのですが、それには
主として
三つの
理由があります。
一つは、すでに
述べたように、
代案というのは
二大政党制が
理想とされるような
代議制の、したがって
国民国家の
枠内での
選択を
示す、いわば
体制内イデオロギーであるということ。
第二は、
歴史の
考え
方にかかわってきますが、
歴史にはつねに
意外性があって、とりわけ
現在のような
五〇〇
年来の
大転換期にあっては、
未来の
予測は
困難である。ウォーラーステインはそのことを、プリゴジンの
理論を
借りてバイファーケーションという
用語で
説明しています。そういう
時代にあっては、
一歩一歩、
視野を
切り
開いて、その
度ごとに
道を
選んで
進むしかないのであって、もし
一挙に
代案を
出せる(p.138)
人がいたら、
多分それはいんちきだと
思います。
第三は、ほぼ
第二と
同じことですが
真の
代案を
出すためには、その
人が
感性においても
思想においても、
根底から
変わらなければならないだろう。
代案と
言うときに、われわれは
手持ちの
材料で
考えてすぐ
代案が
出せるような
錯覚をいだいています。しかし
国民国家の
歴史のなかでは、その
代案を
考える
思考力を
抑圧する
力がずっと
働いていて――それが
国家イデオロギーというものでしょう――、それはわれわれの
感性や
思考力を
左右している。」(
同、pp.138-139)
こういうのを
読んで、「われらは
問題解決の
道を
選ばない」とか
言ったとかいう
人たちのことを
思い
出す
人もいるかもしれない。ところで
私は、にもかかわらず、「
解決志向」で
行こうと
思っている。ちなみに、
以下は
拙著『自由の平等』第3
章注1(p.319)
「しばらく
前に
終止してしまったかのような
諸思想について、それらが
何だったのか、どんな
論理の
構造になっていたのか、
何を
巡って
対立したのか、
再検討する
必要があると
思う(
序章注15)。(
疎外論/
物象化論という
対立については
廣松[1972][1981]
等、
田上[2000]、
他。なお
本節と
本書の
何箇所かは[1997]を
論じた
三村[2003]への
応答でもある。)また、
本文に
記したのは
現実が
変わると
意識が
変わるという
一つの
線だが、むろんそれだけが
想定されたのではない。
両者の
間の
幾度もの
往復が、
希望とともに、
描かれたのだった。それはたしかに
空想的だと
思える。しかし、
人もまた
変わっていくはずであると
考えるのは、
人はこんなものだろうというところから
議論しそこに
留まってしまうのと
比べて、
少なくとも
論理的に
誤っているということはない。
人はどのように
変わっていくかわからないのだと、だから「
代替案」を
示せという
脅迫に「
誰にも
予見できない
未来」(
西川[2002:112,138-139])を
対置することは
正しいのだし、
論と
現実を
先の
方まで
進めていこうとする
力に
対してリベラリズムが
反動として
作用することに
苛立つ
人がいる(Zizek[2001=2002])のも
当然なのである。」
他に
引用したい
箇所は
幾らもあるのだが、
例えば。(
前掲載のホームページ:
「人」→
「西川長夫」のところにもう
少し
引用があります。)
「
文化はあいまいな
概念であるから、
多文化主義を
唱えることは
容易である。それはたいして
我身にかかってこない。だがひとたび
多文化主義の
必然的な
帰結である
多言語主義が
導入されれば、
事態は
急変する。
多文化主義を
受けいれながら
多言語主義を
拒否する
理由の
説明は、いままで
私の
知りえた
限りでは、
経済的効率のみである。それは
妥協によって
成立つ
現実政治の
観点からは
説得的な
理由である。では、
文化的多様性を
認め、それぞれの
文化的自立と
共存を
積極的に
推し
進めようとする
多文化主義は、
経済的な
効率によって
左右されるような
性質のものであろうか。そこには
論理的あいまいさが
残されており、その
理論的なあいまいさにあえて
立ち
入ろうとしない
姿勢がうかがわれるのである。」(
西川「
多文化主義・
多言語主義の
現在」、1997、
西川長夫・
渡辺公三・McCormack, Gavan
編『
多文化主義・
多言語主義の
現在――カナダ・オーストラリア・そして
日本』、
人文書院,p.17)
「テイラーとハーバーマスという、
世界的な
名声を
得ている
第一級の
哲学者たちの、
多文化主義をめぐる
言説のあいだに
見え
隠れするあいまいさや
矛盾あるいは
言い
落としの
部分のなかに、
今後展開し
深めなければならない
多文化主義の
重要な
理論的課題、むしろ
彼の
性といったものが
示されているのではないかと
思う。
次の
四点を
指摘しておきたい。
(1)
先住民問題[…][…]
(2)
新しいタイプの
自由主義の
提案にせよ、
民主的立憲国家の
成熟にせよ、ここでの
議論は
既成の
国民国家の
存続を
前提して、
国民国家の
枠の
中で、
統合形態の
再編、デモクラシーやシティズンシップの
新たな
形態を
問うという
形で
進められている。[…]
(3)[…]
彼らが
用いる
文明、
文化、エスニシティ、
民族、アイデンティティ
等々の
主要な
概念が、
基本的には
国民国家時代に
形成された
古い
概念のままであって、そうした
概念に
対する
根本的な
懐疑や
批判が、いくつかの
興味深い
提案はあるものの、いまだ
十分に
行なわれていないところ[…]
(4)
二人の
哲学者の
緻密な
論理が
時にあいまいで
欺瞞的に
思われるのは、エスニシティや
民族問題の
背後にあってつねにその
根本的な
原因になっている、
差別(あるいは
搾取と
被搾取)のシステム、
形を
変えた
新しいタイプの
植民地主義、といったものに
対する
指摘や
考察の
欠如、あるいはそうした
差別のシステムと
多文化主義がいかなる
関係にあるかについての
考察の
欠如が
感じられるからではないかと
思う。」(
同、pp.19-21)